まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第4回九州西国霊場めぐり~豊後竹田、岡城を見て一泊

2021年10月05日 | 九州西国霊場

話は9月の九州西国霊場めぐりに戻る。このシリーズも少しずつ長くなっている・・。

9月19日、大分から移動して豊後竹田に到着。この日はここで宿泊だが、せっかくなのでその前に岡城跡まで歩いて向かう。登城口までは徒歩で20分ほどかかるとか。

豊後竹田といえば「荒城の月」を作曲した滝廉太郎が有名だが、駅前には田能村竹田の像や顕彰碑が立つ。田能村竹田とは江戸時代後期の文人画家で、この人も竹田の出身である。通りには作品を紹介するパネルも立つ。

昔ながらの風情が残る商店街を歩く。一応、居酒屋らしき店も何軒かある。事前に、豊後竹田にはあまり店がなさそうなのと、日曜日、またこういう状況だから休んでいるかもしれないということで、宿は2食つきで予約していた。

トンネルの前に堂々とした佇まいの銅像が立つ。日清・日露戦争で活躍した広瀬武夫である。この人も竹田の出身。司馬遼太郎の「坂の上の雲」でもその活躍は取り上げられているが、ロシア社交界でのロマンスや、日露戦争の旅順港閉塞作戦にて部下を助けようとして戦死したことで知られる。戦死後、「軍神」に祭り上げられて広瀬神社が建てられたが、私にはどうも明治以降のそうした軍国主義の風潮が受け入れられない。広瀬神社はパスとする。

トンネルをくぐり、坂道を上って登城口の駐車場に着く。駅からバスの便でもあればと思うが・・。

岡城はその山の形から別名を臥牛城とも呼ばれる。築かれたのは平安時代末期、ちょうど源平の戦いが終わった後のことで、豊後の武将・緒方惟栄(これよし)の手によるという。惟栄は、源平の戦いの後源頼朝と仲たがいをした源義経方につき、義経とともに九州へ渡ろうとするが、嵐のために一行は離れ離れとなった。惟栄は鎌倉方に捕らえられ流罪となるのだが、この時、義経をかくまうために築城されたのが岡城の始まりと伝えられている。築城といっても、当時のことで山の中の砦程度のものだっただろうか。もし義経が嵐に遭わず無事に九州で再起を図ったとして、その後の歴史はどうなっただろうかと想像するが、あの奥州藤原氏も倒した頼朝である。遅かれ早かれ討ち取られたことだろう。

その後、南北朝時代に南朝方の大友氏一族の志賀貞朝によって拡張され、岡城と名付けられた。以後、志賀氏の居城となり、薩摩からの島津軍の再三の攻撃にも耐えた。

本格的な改修が行われたのは秀吉の天下統一以後である。大友氏の領土没収にともない、播磨から中川秀成が移り、現在の本丸をはじめとした主要な曲輪や登城口が完成した。以後、江戸時代は中川氏の居城として、現在の城下町も整備されたが、明治維新後の廃城令で建造物がすべて取り壊され、現在の石垣のみの城跡となった。この石垣の様子を「東洋のマチュピチュ」と称する向きもあるそうだ。

現在の城跡は公園として、秋の紅葉、冬の雪景色、そして春の桜の名所とされる。夏は・・だが、緑は鮮やかでくじゅう連山の山々も見渡せるし、ちょうど石垣の上を風が吹き抜けて心地よい。

滝廉太郎の像がある。「荒城の月」の作曲として有名で、この岡城から曲の着想を得たという。これも明治維新後に建物がすべて取り壊されて石垣だけになっていたから曲が生まれたようなもので、もし当時の姿がそのまま残されていれば、まったく違った曲になっていたのではないかと思う。

一方、作詞をしたのは土井晩翠で、詞の構想を得たのは故郷の仙台青葉城、会津若松城、あるいは上杉謙信ら北陸の各城跡とされる。2人はあらかじめ面識があったわけではないが、それこそ荒城を通してお互いの芸術的な接点が生まれ、いつまでも受け継がれる名曲が誕生することとなった。

登城口から20分ほどで本丸跡に着く。そこには先ほどの土井晩翠の「荒城の月」の歌碑の他に、天満神社の小さな社殿がある。歴史的には廃城後に建てられた新しい神社だろう。祭神は菅原道真だが、岡城は難攻不落の城、つまり「落ちない」城だから受験の神様に適しているだろう・・・ということがあったのかな。

周囲の景色はいいが、石垣に柵も何もないので下を見下ろすと結構スリルを感じる。

しばらく本丸跡に佇んだ後、ここで折り返しとて来た道を引き返す。時間もほどよい頃になったので、そろそろホテルにチェックインする。

この日の宿は、城下町、商店街の中にある「トラベルイン吉富」。家族経営のホテルのようで、ビジネス・観光利用だけでなく、「山宿」として、くじゅう連山などの登山客にも好評だという。なんでも「屋上キャンプ泊」というプランがあり、屋上にテントを持ち込み、バス、トイレは館内の共同のものを使って格安に泊まることもできる。

私はあくまで普通の洋室。コンパクトな部屋だ。予約した夕食まで少し時間があるので、シャワーを浴び、缶ビールを空けながら大相撲中継を観る。この日は中日で、新横綱照ノ富士が危なげなく勝利してただ一人中日での勝ち越しを決めた。

さて夕食は、同じ建物の「民宿」にていただく。ここも普段は居酒屋になるのだが日曜日は定休日ということで、宿泊者の夕食利用のみだった。メニューは定食のみで、飲み物だけ別に注文できた。まずはこちらもビールでのどを潤す。

部屋にあった夕食の案内では、メイン3皿(刺身、揚げ物、主菜)に小鉢、ごはん、味噌汁、漬物とある。当然、日替わりでイメージ写真と違うものが出るわけだが、この日出たのは、刺身は刺身でも、クジラの刺身。まさか豊後竹田でクジラに出会うとは。別に豊後竹田の名物がクジラ料理というわけでもなく、在庫の関係もあったのだろう。これはこれでよい。あとはマグロカツ、牛皿とそれぞれ意外な組み合わせだった。結果的に近くに居酒屋はあったが、まあこうした家庭料理の夕食もほっとする。

地酒もいただこう。注文したのは「千羽鶴」。メニューの肩書に「川端康成も愛した」とある。ここで川端康成が出るとは・・。

知らなかったのだが、川端康成には「千羽鶴」という作品がある。ウィキペディアであらすじを見てみると、まあ、何というか、男女のどろどろした愛情がお好きな方には読み応えがありそうな内容だ。その「千羽鶴」や続編の「浜千鳥」の舞台の一つに豊後竹田やくじゅう連山が登場する。康成も執筆のために滞在したことがあり、地元の酒を大層気に入ったそうである。そこで酒蔵の人が酒に名前をいただきたいということでついたのが、「久住千羽鶴」という。

この時間の夕食の客は私と、その屋上キャンプ利用とおぼしき男性2人だけ。食事はそこそこにして、後は部屋でゆっくりする。こちらではWi-Fiがつながったので、前夜はできなかったブログ記事の続きなどの書き込みで過ごす。

それにしても、この記事内ではさまざまな偉人の名前が登場したな。

これで九州西国霊場の大分県最後の夜となり、翌日は熊本県に入る。まず目指すのは阿蘇である・・・。

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