臼杵石仏の拝観を終えて、九州西国霊場の第11番・蓮城寺を目指す。国道502号線を走り、三重町、豊後竹田方面を目指す。
途中、風連鍾乳洞や吉四六ランドといったスポットへの案内板も見える。この辺りに来る機会はめったにないことだろうから、経路から少しずれるが天然記念物の鍾乳洞に行ってもいいかなとも思ったが、そのまま進む。吉四六ランドは・・・とんち話、民話に登場する吉四六さんのテーマパークというもの。この吉四六さんは実在の人だそうで、江戸時代に苗字帯刀を許された広田吉右衛門という庄屋がモデルになっているそうだ。
このまま豊後大野市に入り、三重町にさしかかる。国道沿いにさまざまな店舗が並ぶ中を走り、せっかくなので三重町駅に立ち寄る。これから向かう蓮城寺、駅から徒歩なら40~50分ほどかかる。一応、公共交通機関で行ける札所と言っていいのかな・・。
その割には結構走ったなと思うところで、蓮城寺に到着。川沿いの道路に面して建つ寺である。
蓮城寺が開かれたのは大和時代、欽明天皇の頃とされる。蓮城というのは百済の僧で、隋で天台の教えを学んだが、ある人に招かれる形で来日し、ここに寺を開いた。その招いた人というのが炭焼小五郎、後に真野長者と呼ばれる人物である。この蓮城法師、そして真野長者・・前の記事で訪ねた臼杵石仏にも登場する。さらに他の寺の創建にも出てくるので、よほどの篤志家だったのかと想像させる。
まずは本堂で手を合わせる。江戸時代には稲葉家の菩提寺ともされていたという。
境内の大師堂に隣接して四国八十八ヶ所のお砂踏みがある。しかし無情にもシャッターが下ろされている。
その横から奥に参道が延びていて、長者堂に続く。「一寸八分観音像」が祀られている。ひょっとすれば本尊というより、こちらの観音があるから九州西国霊場(観音霊場)の一つになったのかなと思う。
先ほど触れた真野長者だが、この一寸八分観音を信仰したところ、玉のような般若姫を授かった。般若姫は成長して欽明天皇の皇子(後の用明天皇)と結ばれる。後に、皇子は即位のため大和に戻るのだが、それを追って般若姫も大和に向かう。途中の周防の大畠で風雨に遭うのだが、これは大畠の瀬戸の神様の怒りだとして、それを鎮めるために般若姫は身を投げてしまう。これを嘆いた真野長者、そして用明天皇が建てたのが、柳井の先の平生町にある般若寺である。・・・中国観音霊場めぐりで訪ねたところだ。豊後水道~瀬戸内海の古くからのつながりをイメージさせる。
後に、般若姫が身に着けていた一寸八分観音が大魚の腹の中から見つかり、聖徳太子の命で蓮城寺に差し戻され、以来祀られている。
納経所に向かう。窓に貼り紙が出ている。「この度のコロナ禍による全国的な苦悩をおもんみるに、当山としては、これ以上の感染を防ぐ為、しばらくの間、応待が出来兼ねます。参拝の自粛を御願い申し上げます。 山主」
先ほど、四国八十八ヶ所のお砂踏みにシャッターが下りていたのもこのためだろう。
たまたま私の前にいた参詣の方は「感じ悪いなあ」という表情でそのまま駐車場のほうに出て行った。ただ、その方がチャイムを押したのに対して出るのに時間がかかったか、ちょうど私がチャイムを押そうかというタイミングで寺の方が奥から出てきた。
別に参拝拒否ということでもなかったようで、九州西国の綴じ込み式の朱印用紙は普通に出していただいた。とりあえず、九州西国霊場の大分県の札所はこれでコンプリートとなった。
いったん道路に出て、その横にある薬師堂に向かう。建物は江戸時代のものとされる。
そして中に入ると、これでもかというくらい薬師如来像が出迎える。中央に薬師三尊像が祀られ、その両側に並ぶのは何と998体もある。薬師如来像は室町時代の作とされるので真野長者とは関係ないのだが、京都の三十三間堂をコンパクトに、そして観音像が薬師如来像に置き換えたようなものである。作者は不明とされるが、豊後の国の人たちが戦乱や疫病による苦難の救済を求めて寄進したとも言われている。
今回は観音霊場ということでご縁あって訪ねたが、この薬師堂も蓮城寺を象徴するところである。事実、九州四十九薬師霊場の札所にもなっているそうで・・。
これで大分県の札所を終え、レンタカーを返却するために大分駅に向かう。その後で豊肥線に乗ってまた三重町を通ることになるのだが・・・。