勝山の駅から電動レンタサイクルで町に出る。勝山で最も人気があるのは恐竜。駅の周りにも恐竜の像があるし、恐竜博物館はJR西日本の北陸キャンペーンのCMにも登場する。新しくなった福井の駅舎にもさまざまな恐竜が描かれ、県全体が「恐竜推し」の状態である。
ただ、肝心の恐竜博物館は年末年始休館。えちぜん鉄道の福井駅でも告知はされていたが、観光ということを考えるとちょっと惜しい。それを承知で勝山に来たのは別のスポット目当てである。
平泉寺白山神社。奈良時代初期に泰澄により開かれたとされる。白山信仰の修験道により栄え、中世には比叡山の保護の下、多くの寺領を持ち、源平の戦いや南北朝の時代には、常に勝ちそうなほうについた。中でも南北朝の時は、最初は後醍醐天皇側だったのが、足利側から領地の約束をされるとあっさり寝返り、果ては新田義貞の折伏祈祷を行ったことも。ただ時代が下るとその権威に不満を持つ一向一揆の手で焼き払われた。江戸時代になると再興されたが、明治維新の際の神仏分離令で「神社」の扱いとなった。そう、元々は寺である。
司馬遼太郎の「街道をゆく」に「越前の諸道」編がある。今回福井に来ようと決めた後で久しぶりに読んだ。その中で永平寺よりもページが割かれていたのは平泉寺である。道元の真の教えに反して商売の手を広げた(と言わんばかりの)永平寺よりも、日本の仏教、神仏習合・分離の歴史をそのままなぞったような平泉寺のほうに興味を感じたのだろう。私はこれを読んで、今回平泉寺に行こうかなと思っていた。ただアクセスをどうしようかなと思っていたところに、レンタサイクルである。駅からは7キロほどあるようだ。
冬の北陸とは思えない晴天の中を走り、菩提林に着く。ここが平泉寺の旧参道で、鬱蒼とした林が広がる。これは司馬遼太郎によれば、地元の人たちが時代の壁を超えて守ってきた「寺領」である。今でもそんな感じで保護されているのかな。駅からここまでも上りが続き、時折電動アシストのボタンを押していたが、さらに本格的な上りになった。頑張って濃いでみたが、最後には自転車を押して歩く。そもそもここに自転車で来ようという観光客がどれだけいるのやら。
参道に向かう。その門前に「東尋坊跡」を見つける。東尋坊といえば前日も訪れた福井を代表する名所である。その由来が「東尋坊」という坊さんだったことは聞いたことがあるが、その東尋坊がいたのがこの平泉寺である。東尋坊は怪力を頼みに悪事を働いたとか、あるいは恋敵となった別の僧とのいさかいがあったとかで、最後は酒に酔ったところを断崖から突き落とされた。その後で海は荒れ、雷雨が平泉寺を襲い、その一角にあった東尋坊の館の井戸が血の色に染まったという。平泉寺は中世には宗教都市とでもいうべき繁栄を見せたが、一方では権力の横暴とも言える行いもあったようである。
参道を歩く。両側には苔が広がっている。苔と杉のコントラストがよい。木漏れ日が苔を照らす風景も神々しいものがある。中世の宗教都市も、江戸時代以降は苔が名物ということで、それだけ「放置」されてきた歴史なのかなとも感じる。
拝殿は今では小ぢんまりとしたものであるが、かつては三十三間の幅があったそうである。そして奥に本殿であるが、これも小ぢんまりしたもの。
広大な敷地を持っているし、由緒ある神社である。元日となれば初詣客で賑わうところだろうが、神社の派手さはない。巫女さんがいて縁起物を分けるとかおみくじを引くわけでない。静かな佇まいで、柏手を打つ音が山に響くようである。何とも不思議な雰囲気である。ただ、わざわざ自転車を漕いでやってきただけのことはあった。改めて「街道をゆく」を読み直してよかった。
参拝を終えて麓に戻る。今度は下り坂で、危ないくらいにスピードが出る。次に向かうのは、恐竜と並んで勝山の名所となっている「デカイもの」である・・・・。
ただ、肝心の恐竜博物館は年末年始休館。えちぜん鉄道の福井駅でも告知はされていたが、観光ということを考えるとちょっと惜しい。それを承知で勝山に来たのは別のスポット目当てである。
平泉寺白山神社。奈良時代初期に泰澄により開かれたとされる。白山信仰の修験道により栄え、中世には比叡山の保護の下、多くの寺領を持ち、源平の戦いや南北朝の時代には、常に勝ちそうなほうについた。中でも南北朝の時は、最初は後醍醐天皇側だったのが、足利側から領地の約束をされるとあっさり寝返り、果ては新田義貞の折伏祈祷を行ったことも。ただ時代が下るとその権威に不満を持つ一向一揆の手で焼き払われた。江戸時代になると再興されたが、明治維新の際の神仏分離令で「神社」の扱いとなった。そう、元々は寺である。
司馬遼太郎の「街道をゆく」に「越前の諸道」編がある。今回福井に来ようと決めた後で久しぶりに読んだ。その中で永平寺よりもページが割かれていたのは平泉寺である。道元の真の教えに反して商売の手を広げた(と言わんばかりの)永平寺よりも、日本の仏教、神仏習合・分離の歴史をそのままなぞったような平泉寺のほうに興味を感じたのだろう。私はこれを読んで、今回平泉寺に行こうかなと思っていた。ただアクセスをどうしようかなと思っていたところに、レンタサイクルである。駅からは7キロほどあるようだ。
冬の北陸とは思えない晴天の中を走り、菩提林に着く。ここが平泉寺の旧参道で、鬱蒼とした林が広がる。これは司馬遼太郎によれば、地元の人たちが時代の壁を超えて守ってきた「寺領」である。今でもそんな感じで保護されているのかな。駅からここまでも上りが続き、時折電動アシストのボタンを押していたが、さらに本格的な上りになった。頑張って濃いでみたが、最後には自転車を押して歩く。そもそもここに自転車で来ようという観光客がどれだけいるのやら。
参道に向かう。その門前に「東尋坊跡」を見つける。東尋坊といえば前日も訪れた福井を代表する名所である。その由来が「東尋坊」という坊さんだったことは聞いたことがあるが、その東尋坊がいたのがこの平泉寺である。東尋坊は怪力を頼みに悪事を働いたとか、あるいは恋敵となった別の僧とのいさかいがあったとかで、最後は酒に酔ったところを断崖から突き落とされた。その後で海は荒れ、雷雨が平泉寺を襲い、その一角にあった東尋坊の館の井戸が血の色に染まったという。平泉寺は中世には宗教都市とでもいうべき繁栄を見せたが、一方では権力の横暴とも言える行いもあったようである。
参道を歩く。両側には苔が広がっている。苔と杉のコントラストがよい。木漏れ日が苔を照らす風景も神々しいものがある。中世の宗教都市も、江戸時代以降は苔が名物ということで、それだけ「放置」されてきた歴史なのかなとも感じる。
拝殿は今では小ぢんまりとしたものであるが、かつては三十三間の幅があったそうである。そして奥に本殿であるが、これも小ぢんまりしたもの。
広大な敷地を持っているし、由緒ある神社である。元日となれば初詣客で賑わうところだろうが、神社の派手さはない。巫女さんがいて縁起物を分けるとかおみくじを引くわけでない。静かな佇まいで、柏手を打つ音が山に響くようである。何とも不思議な雰囲気である。ただ、わざわざ自転車を漕いでやってきただけのことはあった。改めて「街道をゆく」を読み直してよかった。
参拝を終えて麓に戻る。今度は下り坂で、危ないくらいにスピードが出る。次に向かうのは、恐竜と並んで勝山の名所となっている「デカイもの」である・・・・。