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クラシック音楽オデュッセイア

2025年正月、ついに年賀状が1通も来なくなった“世捨て人”のブログ。クラシック音楽の他、日々のよしなし事をつれづれに。

歌劇<皇帝の花嫁>(1)

2006年10月17日 | 作品を語る
交響組曲<シェヘラザード>や<スペイン奇想曲>、あるいは序曲<ロシアの復活祭>といったオーケストラ作品ばかりが有名なこともあって、管弦楽曲の大家というイメージが強いリムスキー=コルサコフだが、この人はオペラ作家としての業績こそ重要である。彼がその生涯に書き上げた歌劇は全15作にも及ぶし、その他に、ムソルグスキーやボロディンらが完成出来なかったオペラを補筆して仕上げた編曲者としての成果にも非常に大きなものがある。

今回のシリーズでまず採りあげるのは、私が全曲を語れる彼のオペラ作品の中でも最も衝撃的な、<皇帝の花嫁>(1899年)である。これは、R=コルサコフが書いた9作目のオペラで、皇帝イワン4世の第3夫人に選ばれた直後突然病死してしまったという実在の女性をモデルにしたものだ。私がこのオペラに触れたのは1964年に制作されたという古い映画版ソフトで、映像では専門の俳優さんたちが演じ、音声にはエフゲニ・スヴェトラーノフが指揮したボリショイ劇場での演奏が使われているというものであった。映画作品としての時間制限があったからと考えられるが、このソフトではいくつかの場面がカットされている。その上モノクロ映像・モノラル音声というつらい条件であったにもかかわらず、感銘度はすこぶる高いものだった。以下、この映画版ソフトを鑑賞した時のメモと作品解説の本を参照しながら、名作歌劇の全曲の内容を見ていきたいと思う。

〔 第1幕 〕 宴会

皇帝の親衛隊員グリゴーリ・グリャズノイ(Bar)が住んでいる屋敷の広い客間。グリャズノイが一人、苦悩を歌う。彼はノヴゴロド商人ソバーキン(B)の娘マルファ(S)を好きになったが、彼女にはすでに貴族のイワン・ルイコフ(T)という相思相愛の許婚がいた。ソバーキンにやんわりと求愛を断られたグリャズノイは、「かつては腕ずくで女でも何でも略奪した俺だが、この失恋でまるで駄目な男になってしまった」と嘆く。しかしその後、何とかマルファを自分のものにしたいと心の中で良からぬ策略を巡らす。

そこへ彼の客人たちが大勢入ってきて、宴会が始まる。そのメンバーの中には彼の悪友である親衛隊員マリュータ(B)、マルファの許婚ルイコフ、そして皇帝の侍医を務めるボメーリイ(T)らが混じっている。

(※この宴会の場面は、映画版ではかなりの部分がカットされているようだ。親衛隊員たちの民謡風フゲッタ、あるいは、明るく礼儀正しいイワン・ルイコフが回りから乞われて歌い出すアリオーソといったようなナンバーがもともとはあるらしい。楽曲解説に「外国での見聞を語る美しいアリオーソ」と紹介されているルイコフの歌が聴けないのは、ちょっと残念。)

やがて宴たけなわとなり、皇帝賛歌「栄光あれ」が合唱で力強く歌われる。

(※「スラーヴァ!スラーヴァ」と盛り上がるこの皇帝賛歌は、ロシア・オペラのファンなら、「おおっ、これが出たか」と思わずニンマリすること間違いなしの有名曲である。例えばムソルグスキーの<ボリス・ゴドゥノフ>やボロディンの<イーゴリ公>でもすっかりお馴染みだし、ちょっとマニアックなところでは、チャイコフスキーの<マゼッパ>第3幕の冒頭シーンでも聴かれるテーマだ。)

その宴会の席に、リュバーシャ(Ms)が姿を現す。彼女は、マリュータとその仲間の親衛隊員たちによって遠くの町から略奪されてきた女性である。町の人たちはマリュータらによって虐殺され、彼女自身も、今はグリャズノイの愛人として生きている。ここでマリュータに命じられた彼女が無伴奏で歌う民謡風の歌曲は美しいものだが、旋律も歌詞内容も痛ましい悲しみに満ちている。「お母さん、私のために婚礼の支度をしてください。お母さんの決めた人と結婚します。もう逆らいません。愛する人とは別れました・・・」。

宴会が終わって、客人たちは帰途につく。しかしグリャズノイは医師ボメーリイを呼び止め、相談を持ちかける。「女がある男を好きになるような媚薬、惚れ薬みたいなものをお前は作れるか」。ボメーリイは、出来ると答える。「形状は粉末になる。酒盃に混ぜて女に飲ませるんだ。ただし、男本人がそれをやらねば効果は出ない」。二人のやり取りを立ち聞きしていたリュバーシャは、「彼に好きな女が新しく出来たんだわ。私は捨てられる」と絶望する。

ボメーリイが去った後、リュバーシャとグリャズノイの口論が始まる。「私は娘としての恥じらいも忘れ、家族のことも故郷のことも、何もかも忘れて、すべてをあなたに捧げたのよ。それなのに・・」。そんな彼女に冷たく応じて、グリャズノイは出かけて行く。朝の礼拝の鐘が鳴り響く。リュバーシャは、「その女を必ず見つけ出して、彼から引き離してやる」と決意する。

(※皇帝の侍医という設定で登場するボメーリイだが、実際の役どころは、“悪魔的な薬剤師”といった感じである。声がまた性格的なテノールで、何とも怪しげで陰気な雰囲気が漂う素敵な男だ。w )

〔 第2幕 〕 惚れ薬

映画版では第1場はまるごとカットされているが、ここでは悲劇のヒロインであるマルファの家と、医師ボメーリイの家がすぐ向かいの近所であることが舞台上で示されるようだ。夕暮れ時に、修道院での勤めを終えた人々が帰ってくるところ。そこに親衛隊員たちが現れて出陣の誓いを歌い、人々の間に不安が広がるという展開らしい。

映画は、次の第2場から始まる。修道院から出てきたマルファが親友のドゥニャーシャ(Ms)に、婚約者イワン・ルイコフとのなれそめを歌って聞かせる。「昔、彼とはお隣同士だったの。今でも思い出すのは、あの緑溢れる大きなお庭。・・・私、彼に花輪を編んであげたのよ。・・・誰もが私たちを、お似合いの二人って言ってくれたわ」。

(※村の賑やかな風景を描く第2場冒頭の音楽には序曲<ロシアの復活祭>で聴かれるものとよく似たパッセージが現れ、晴れやかなムードが演出される。いかにも、R=コルサコフ節だ。また、ここで歌われるマルファの幸福感溢れるアリアは、実に美しいものである。)

それから二人は、並んで川べりを歩き出す。そこへ伴を連れて馬に乗ってきた不気味な男が通りかかり、マルファたちをしばらくじっと見つめてから去って行く。マルファもドゥニャーシャも、この男の異様な雰囲気とその恐ろしい目つきに強い不安を感じる。

(※この場面では、オーケストラが例の皇帝賛歌を奏でるのですぐに察せられるのだが、マルファをじっと見つめたこの男こそ、時の皇帝イワン4世、つまりイワン雷帝である。このオペラの中では声を出さない役だが、映画版ではさすがにそれらしい風貌の役者さんを起用している。目つきが怖い。)

雷帝が去った後、マルファの父ソバーキンと婚約者イワン・ルイコフが舟に乗ってやって来る。マルファとドゥニャーシャも川岸からその舟に乗り、揃って皆で家に向かう。船頭がゆっくりと舟を漕ぐのに合わせて、やがて4人は幸福な重唱を始める。

(※舞台上演と違って、この第2幕は映画ならではのロケーション撮影が大きな効果を生み出している。冒頭の人込み風景も雰囲気満点だし、馬の上からマルファをじっと見つめる雷帝の恐ろしい顔もくっきりと映し出される。また、川を舟で下る4人による楽しげな四重唱も、川べりのおだやかな自然風景と溶け合って何ともいえない幸福感を醸し出す。なお、R=コルサコフが書いたこの四重唱には、先達グリンカの作品に聞かれたようなイタリア臭さみたいなものはない。)

―さて、幸福感に満ちた明るいアンサンブルを聴かせる4人だが、そのうちのドゥニャーシャはともかく、他の3人にはこの後、世にも過酷な運命が待ち受けているのだった。この続きから最後の幕切れまでの展開については、次回・・。
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歌劇<ルスランとリュドミラ>(3)

2006年10月12日 | 作品を語る
今回は、グリンカの歌劇<ルスランとリュドミラ>の第3回。最後の部分である。

〔 第4幕 〕~続き

ルスランが吹く角笛の音が聞こえてくる。ついにチェルノモールの居所をつきとめたルスランは、悪しき魔法使いに戦いを挑む。チェルノモールはリュドミラを深い魔法の眠りに落とすと、ルスランとの対決に向かう。しかし、魔法の剣を持つルスランによって、チェルノモールは倒される。

(※この戦いは直接舞台上で演じられるのではなく、合唱団がその様子を歌うことで表現される。ここに出て来るパワフルな音型を聴くと、あの<ボリス・ゴドゥノフ>で聴かれる音楽の祖型を見たような気分になる。)

ついにリュドミラのもとに辿り着いたルスランだが、強い魔法で眠らされている彼女はどうやっても目を開けない。激しく苦悩した後ルスランは、キエフに帰って善良な魔法使いたちの力を借りようと決心する。

〔 第5幕 〕

キエフに帰る一行が、途中、谷間で休む。月の夜。ラトミールがゴリスラワへの愛情を歌っていると、チェルノモールに使われていた奴隷たちが急を知らせに来る。「リュドミラがまたしても、さらわれてしまいました。そしてルスランが、その後を追って行きました」。そのラトミールのもとに、魔法使いフィンが現れて助言する。「これは魔女ナイーナの、最後の一撃じゃ。しかし、心配はいらん。お前はこの指輪を持って、先にキエフに向かうのじゃ。必ずルスランに会える。そうしたら、この指輪を彼に渡しなさい。これこそ、リュドミラを目覚めさせる魔法の指輪なのじゃ」。

一方、卑劣漢ファルラーフは、深い眠りに落ちたリュドミラをキエフに連れ帰ってきている。しかし、魔女ナイーナの力を借りてリュドミラを手にしたファルラーフではあったが、彼女の眠りを覚ますことまでは出来ない。「ナイーナのインチキ魔法に騙された」と、やたら文句を並べるファルラーフ。やがてルスランが、ラトミールとゴリスラワの2人を伴って帰ってくる。ファルラーフはびっくりして、姿を隠す。ラトミールの手から魔法使いフィンの指輪を受け取ったルスランが、眠れる王女リュドミラを目覚めさせる。人々の歓喜の合唱が盛り上がるところで、全曲の終了。

(※このラスト・シーンでようやくリュドミラは目覚めるが、その彼女が歌い出すのもコロラトゥーラを駆使したイタリア・スタイルの曲だ。この歌に続いて、ゴリスラワ、ラトミール、ルスラン、そしてスヴェトザールによる喜びのアンサンブルが始まる。―という訳で、「合唱は概ねロシア風だが、独唱と重唱はやっぱりイタリア風」、これがグリンカ・クォリティなのであった。)

(※喜びの重唱を印象的なピアノ・ソロが締めた後、いよいよ最後の大合唱が始まる。有名な序曲の、あの猛然たる出だしのテーマである。「偉大なる神々に栄えあれ!聖なる祖国に栄えあれ!ルスランとリュドミラに栄えあれ!」と歌い出す力強いコーラス。これは実にロシア・オペラらしくて良い。そして冒頭の序曲と巧みなシンメトリーを構成するこの合唱を聴くと、「ああ、これで全曲がまとまったなあ」と、聴く者は一種の統一感を味わうわけである。)

―以上で、歌劇<ルスランとリュドミラ>のお話は終了。お疲れ様。

(PS) ドキュメンタリー『指揮者ムラヴィンスキーの肖像』

<ルスランとリュドミラ>が話題になると、「序曲は、ムラヴィンスキーが最高」というセリフを思わず口にするクラシック・ファンがたくさんいそうな気がする。確かに、かつて録音された同曲の演奏の中でも、ムラヴィンスキーのものは群を抜く名演だと思う。ただし言うまでもない事だが、その演奏はあくまで独立したコンサート・ピースとして同曲を完璧に仕上げたものであり、決してこれからオペラが始まることを告げるような演奏ではない。ムラヴィンスキーとオペラは蓋(けだ)し、水と油である。

この旧ソ連時代の大指揮者エフゲニ・ムラヴィンスキーについてのドキュメンタリー番組が、2003年度にイギリスで制作された。それをNHKが日本語吹き替え版で放送してくれたのを、かつてTVで観たことがある。このような人物のドキュメンタリーだから観ていて楽しいというものではなかったが、孤高の芸術家の光と影、その両面が少しばかりでもうかがい知れたのは収穫だった。もともとは裕福な貴族の家に生まれ、幸福な少年期を送ったムラヴィンスキーだったが、例の革命後は人生が一変する。ここでは政治関係の話は一切省くが、とにもかくにも、極めて特殊な世界に生きていた(あるいは、生かされていた)音楽家だったんだなあと、つくづく思う。

日本でもお馴染みの指揮者クルト・ザンデルリンクがしばしば画面に登場し、思い出話を語っていた。このザンデルリンク氏や当時親しかったという楽員の言葉によると、ムラヴィンスキーは表立ってソヴィエト共産党への批判を行なうことはなかったものの、内心では色々な思いを抱えていたらしい。しかし一方で、これほど恵まれた立場にあった指揮者も珍しい。チケットの売れ行きや、スポンサーのこと等を気にする必要は一切なく、確固たる地位を保証された中、自分の音楽だけをとことん追究していくことが許された。

そう言えば、その番組の中で一つ、とんでもないエピソードが紹介されていた。ムラヴィンスキーが崇敬していたというブルックナーの交響曲を手がけた時の話である。4回目のリハーサルの時、大指揮者はびっしりと注釈の書き込まれた楽譜を持ってきて楽員たちに配り、細かく指導し始めたそうだ。それまでの練習で十分な仕上がりを感じていた彼らは、皆ひどく驚いたという。そして、それ以上に驚嘆させられるのは、そのリハーサルが文字通り完璧に仕上がった後、ムラヴィンスキーは演奏会の本番をキャンセルしてしまったというのである。その理由は、「最終リハーサルで、完璧なブルックナーが出来上がった。本番ではもう、これ以上の物が出来る余地はない。だから、やめる」である。西側世界でそんな事が考えられるだろうか?繰り返しになるが、ムラヴィンスキーという人はそういう特殊な世界で生きていた指揮者なのである。

1938年に若い彼がレニングラード・フィル(当時)の主席指揮者に就任した時、このオーケストラはガタガタだったらしい。そこへ国家の後ろ盾を受けて鉄の規律を持ち込み、自らにも厳しい生き方を課したムラヴィンスキーは、以来、半世紀にも及ぶ年月の間それを通した。彼の峻厳な顔つきは、その人生の履歴書とも言えるものだろう。だから、夫人が1970年代に撮影したというホーム・ビデオの映像に見られるムラヴィンスキーのほころんだ笑顔というのは、ある意味、最も貴重な遺産と言えるものかも知れない。

その番組に出演していた音楽プロデューサーのヴィクター・ホフハイザー氏が言う。「5分でも遅刻した楽員は即クビになるか、2週間の停職になりました」。さらに、当時の楽員であったA・ポリアニチコ氏は、次のように述懐する。「僕が初めてレニングラード・フィルに入った時、先輩に言われたよ。『ムラヴィンスキーの指揮で演奏する時の音は、大きすぎても小さすぎてもいけない。速すぎても、遅すぎてもいけない。巧すぎるのもダメだ。皆とおんなじように弾かなくちゃいけない』とね」。現在録音で聴くことの出来る、あの<ルスランとリュドミラ>序曲の超絶的な鉄壁演奏は、こういう人たちが作ったのだ。

【2019年2月21日 おまけ】

ムラヴィンスキーの1965年盤<ルスランとリュドミラ>序曲 ←これが噂の、鉄壁演奏。

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歌劇<ルスランとリュドミラ>(2)

2006年10月07日 | 作品を語る
前回の続きで、グリンカの歌劇<ルスランとリュドミラ>・第2回である。

〔 第2幕 〕 ~続き

旅を続けるルスランは、荒れ果てた戦場にたどり着く。そこで武器の残骸や兵士たちの骨を目にした彼は、人の世の無常、この世の虚しさを感じる。やがて、あたりを覆っていた霧が晴れると、ルスランの目の前に巨大な生首が出現する。死せる兵士たちの眠りを邪魔されたと、生首は嵐を巻き起こす。しかし、勇敢なルスランがその首を槍で刺し倒すと、下から立派な剣が出てくる。息も絶え絶えになった生首の話によると、この魔法の剣にこそ悪の魔術師チェルノモールを倒す力があるのだという。

(※ここが、ルスランを演じる歌手にとって最大の聴かせどころである。まず、深みのあるバスの声でじんわりと世の虚しさを歌う。それから彼は、そこらに散らばっている武器を物色し始める。やがて、「おお、リュドミラよ。愛の神は幸せを約束した。災いの嵐は過ぎ去ると信じている」と歌い出すところが、あの有名な序曲の中間部で聴かれるメロディである。しかし、この歌、かなりの高音を要求される難曲だ。)

(※ここに出て来る生首というのは、兜をかぶって立派な髭をたくわえた巨大な兵士の頭部である。正体は、魔術師チェルノモールの兄。弟に殺されて剣の守り役をさせられている彼は、「俺の弟チェルノモールの魔力は、あの長いあごひげに源がある。俺の下に隠された剣には、ヤツのひげを切る力があるのだ」と、ルスランに教える。この剣を手にしたルスランが愛するリュドミラを救出すべく、チェルノモールのもとへ向かって行くところで、第2幕が終了。)

〔 第3幕 〕

ナイーナの魔法の城。彼女は魔法で騎士たちを誘惑し、みんな殺してしまおうと企んでいる。

(※おどろおどろしい間奏曲に続いて、ナイーナに仕える娘たちのコーラスが始まる。これは「ペルシャの合唱」と呼ばれるものだが、たいそう魅惑的な曲である。同じ音型を繰り返して歌う優しい合唱の背後で、管弦楽が見事な変奏を披露する。「若い旅のお方、お寄りなさいな。ここには若い娘がいっぱいいるわ」。それに続いて魔女ナイーナが、「そしてみんな死ぬんだよ。あたしの魔法にかかってね」と歌う。)

かつてラトミールにふられてしまった娘ゴリスラワ(S)が登場すると、そこへリュドミラ探しの旅に疲れ果てた当のラトミールもやって来る。

(※「ラトミール、寂しい思いから、あなたを追ってここまで来たのよ。どうか、故郷へ帰ってきて」と、ゴリスラワはここで切ない気持ちを歌いだすのだが、音楽としてはむしろ、それに続くラトミールの歌の方が印象的なものになっている。「眠れ、眠れ、疲れた魂よ」と、しっとりした感じで歌い出し、「我が故郷ハザールの美しい花よ、魅惑的な女たちよ、私のところに来ておくれ」と続く。)

ここから舞曲が始まる。これはナイーナの城に仕える娘たちによる、誘惑の踊りである。ラトミールは彼女たちに囲まれて、うっとり。ゴリスラワが彼に声をかけようとするが、娘たちにさえぎられてしまう。

(※この「ナイーナ城の踊り」は十数分も続く本格的なもので、観客サービスとしてのバレエ・シーンと考えてよいと思う。ただし音楽の雰囲気としては、ロシア的な土俗感とはかけ離れた非常に上品なものだ。)

やがてそこへ、ルスランがやって来る。しかし、彼もナイーナの魔法にかかり、目の前にいるゴリスラワに恋してしまう。そして彼がリュドミラのことをすっかり忘れそうになっているところへ、魔法使いフィンが登場。フィンは惑わされている者たちを助け、ナイーナの魔法の城を消し去る。

(※ここにも、グリンカらしいイタリア風のアンサンブルが出て来る。魔法にかかって「この胸の動揺は何だ」と歌うルスラン、「哀れな私」と嘆くゴリスラワ、そして陶然としながら「人生は楽しむべきだ」と歌うラトミール。この三重唱に、娘たちの合唱が重なってくるのである。また、この第3幕を最後に締めくくるのも、「リュドミラを助けに行こう」と声を揃えて歌う、彼らのアンサンブル。)

〔 第4幕 〕

チェルノモールの魔法の庭。囚われのリュドミラは川に身を投げようとするが、水の妖精たちに引き止められる。やがてチェルノモールが、奴隷や従者たちの先導に続いて登場。ついに姿を見せた悪の魔術師は年老いた小人で、その魔力の源である長いひげをクッションに乗せて部下に持たせている。

(※ここは、ヒロインであるリュドミラの大きな聴かせどころだ。「ああ、私の運命よ。不幸な運命よ」と、イタリア・ベルカント風のなみなみとしたメロディを歌い始め、やがて、「私はいつだって死んでやる。何があっても、この心は変わらない」と気丈な言葉をダイナミックに歌う。水の精たちの合唱を伴うこの歌の展開は、どうもイタリア・オペラのカヴァティーナ・カバレッタ形式を踏襲したもののように見える。)

(※悪の張本人チェルノモールが登場する時の「行進曲」も、なかなか面白い。曲想自体は至極単純なものだが、中間部で聴かれる色彩豊かな管弦楽がいかにも“おとぎ話ムード”を演出してくれて楽しい。そして、この行進曲に続いて、「トルコの踊り」「アラビアの踊り」「レスギンカ」といった民族的な舞曲が次々と演奏される。この中では特に、「レスギンカ」が冴えた出来栄えの曲。)

―この続きから最後の幕切れまでは、次回。
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歌劇<ルスランとリュドミラ>(1)

2006年10月02日 | 作品を語る
前回まで語った歌劇<イワン・スサーニン>に続いて、グリンカが書いたもう一つのオペラを採りあげてみることにしたい。5幕からなるマジック・オペラ<ルスランとリュドミラ>(1842年)である。これは上演時間が3時間20分にも及ぶ大長編オペラだが、それにめげることなく、いつものようにしっかりと全曲の流れを追っていこうと思う。

〔 第1幕 〕

キエフ大公の娘リュドミラ(S)と、勇敢な騎士ルスラン(B)の婚礼が決まって、今祝宴の準備が進められているところ。この祝宴には、リュドミラへの恋のアタック・レースに敗れた2人の男も混じっている。ハザール公ラトミール(A)と、ヴァルカーギ族の騎士ファルラーフ(B)だ。やがて、お祝いの言葉を求める人々に応えて、吟遊詩人バヤーン(T)がルスランとリュドミラの未来を予言する。「若い2人には不運と試練が待っているが、忠節と愛をもって乗り越えれば、幸福の道が開けるだろう」。続いて、新婚の2人を励ます力強い合唱。

(※思い切り有名な序曲に続いて、第1幕は婚礼祝いの場面。しかし、このオペラ、吟遊詩人がいきなり愛し合う2人の試練を予言するところからドラマが始まる。ここでは、その予言の歌に付けられた伴奏が、ちょっとユニークだ。グースリと呼ばれる撥弦楽器の音を模したものとして、とりあえずハープが使われているのは分かりやすいところだが、さらにピアノのソロも出て来るのである。確かに聴いてみると、弦を爪弾く音の表現としてはピアノもよく似合うようだ。なるほど、という感じ。)

リュドミラは、敗れたラトミールとファルラーフの2人を慰める。続いて、五重唱。ルスランとリュドミラ、そしてリュドミラの父スヴェトザール(B)が喜びを歌い、ラトミールは故郷ハザールに帰る決心を歌う。しかし、ファルラーフだけは、何かまだ胸に一物抱えた様子。思いそれぞれの五重唱である。

(※リュドミラによる技巧的なカヴァティーナと、それに続く5人のアンサンブルも、非常にグリンカらしいものだ。前回まで語ってきた<イワン・スサーニン>と同様、いかにも、「イタリアで学んできました」といった感じのベルカント・スタイルで書かれている。)

スヴェトザールが娘のリュドミラと新郎ルスランに祝福の言葉を送った瞬間、雷鳴が轟いてあたりが真っ暗になる。やがて明るさが戻ると、リュドミラの姿が消えていた。彼女は、邪悪な魔法の力によって誘拐されてしまったのである。スヴェトザールは、「娘を無事に連れ帰ってくれた者に、彼女と我が王国の半分を与える」と、騎士たちに約束する。ルスラン、ラトミール、ファルラーフの3人はすぐさま出発する。

(※この部分で興味を惹くのは、女性のアルト歌手が演じるラトミールという男だ。リュドミラをさらわれたスヴェトザールが、「娘を探しに行ってくれる者は、誰かおらぬか」と呼びかけたのに対し、真っ先に応じて歌いだすのが、このラトミールである。ルスランではないのだ。アルトの声で彼が、「おお、勇士達よ。野に向かおう」と歌いだすのを、合唱団が力強く引き継ぐ。実はここでの音楽がまた、非常にイタリアっぽい。私個人的には、ヴェルディの初期作品が連想されるところだ。例えば、<ナブッコ>や<アッティラ>。)

〔 第2幕 〕

リュドミラを探す旅の途中で、ルスランは魔法使いのフィン(T)と出会う。この善良な老人はルスランに、「リュドミラをさらったのは、悪い魔法使いのチェルノモール(黙役)だ」と教える。しかしルスランには、その悪者を倒す方法が分からない。やがてフィンは、若い頃の苦い体験を語り始める。そして、自分とかつて関わったナイーナという魔女に気をつけるようにと、ルスランに忠告する。

(※今手元にあるゲルギエフ盤の解説書によると、ここで魔法使いフィンが歌うバラードの音楽的題材には、異国情緒を出すためにフィンランドの民謡を採譜したものが使われているらしい。だから名前がフィンになっているというのも随分安直な感じがしなくもないが、まあいいことにしよう。w )

(※ところで、この長大なバラードで歌われる魔法使い若き日の思い出話というのは、何ともトホホな中身を持ったものである。「ワシは昔、ナイーナという美しい女に惚れたのじゃが、いともあっさりふられてしまった。それからワシは、剣を振るう者となって各地で財宝を手に入れた。そして、それをどっさり持ってナイーナのところへ再び出向いたが、またしてもふられた。そこでワシは、魔法の力を借りてナイーナの心を奪ってやろうと試みることにした。しかし、それが実行出来た頃にはもう、彼女はいい婆さんになっておった。ところが、そのナイーナ婆さんに魔法が効いてしまったのじゃ。ババアに惚れられてしまったワシは、逃げて、逃げて、逃げまくった。そしてナイーナはとうとう、性悪な魔女になってしまったというわけよ。お前も気をつけるのじゃぞ」って、何だよ、それ・・。)

一方ファルラーフは、リュドミラを見つけるのはもう無理だと諦めていた。そこへ、魔女ナイーナ(Ms)が現れる。「あなたに力を貸してあげるわ。ルスランを打ち負かして、リュドミラを手に入れなさい」。尊大な性格を持つ卑劣漢ファルラーフは、これで自分が勝利者になれると喜ぶ。

(※魔女の手助けを得て元気になったファルラーフは、「ルスランの奴め、せいぜい国中をさ迷っているがいい。俺はナイーナの力で、リュドミラを手に入れる。さあ、勝利は近いぞ」と喜び勇んで歌い始める。これは、『ファルラーフのロンド』と呼ばれる有名な曲だ。で、この歌もやはり、イタリアの流儀で書かれている。オペラ・ブッファの伝統を踏襲した、どこかユーモラスな表情を持つ早口の歌である。これを聴いていると、ロシア語の歌詞がだんだんイタリア語に聞こえてくるという不思議な体験が出来る。まさに音楽のマジック。)

―この続きは、次回・・。
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歌劇<イワン・スサーニン>(2)

2006年09月27日 | 作品を語る
前回の続きで、グリンカの歌劇<イワン・スサーニン>の残り部分のお話。具体的には、第3幕の後半から第4幕、そして最後のエピローグの内容についてである。

〔 第3幕 〕 ~後半部分

突然押し入ってきたポーランド軍の兵士たちが、「修道院まで案内しろ」とイワン・スサーニンに詰め寄る。イワンは一計を案じて、彼らの要求に応じることにする。彼は養女のワーニャに、「皇帝に急を告げよ」とひそかに指示し、ポーランド兵たちとともに家を出て行く。父親を敵軍に連れて行かれたアントニーダは、深い悲しみにくれる。

(※嘆くアントニーダを友人達が励ますシーンでは、「春の水は牧場に溢れ」と歌う女声合唱が聴かれるが、これは素朴なロシア民謡調。やがて気を取り直すアントニーダが、「幼友達よ、私は嘆きません」と歌うロマンスに続いて、ソビーニンと農民たちが敵軍への怒りを歌う力強い合唱へと進む。ちなみに、この合唱のテーマが序曲主部の第1主題になっている。)

〔 第4幕 〕

ワーニャは、養父イワン・スサーニンの身に起こったことを皇帝に通報する。一方イワンは、皇帝のいる修道院ではなく、全くでたらめな方向へとポーランド軍を導いていく。彼は敵軍を深い森の中で迷わせてやろうとしているのだ。激しい風雪の中、ポーランド兵たちはこのロシア農民に自分たちがまんまと騙されてしまったことに気付く。夜明けとともに彼らはイワンを殺害するが、その彼らもまた、雪の中で次々と凍え死んでいく。

(※修道院に馬を乗り付けて皇帝に事件を通報する場面は、ワーニャ役の歌手が最も力を発揮するところである。最初はイタリア式カヴァティーナ風の美しい歌を朗々と披露し、やがて合唱団の合いの手を受けながら力強いカバレッタに進む。このあたりいかにも、「イタリアで、学んできました」というグリンカらしいものだ。手元に歌詞対訳がないのが残念だが、この場面の音楽にはちょっとニンマリさせられる。)

(※続いて、このオペラで最も有名な場面に入る。第4幕第3場、森の中である。イワンの考えが見事図に当たって、ポーランド兵たちは雪の中で難渋する。しかし、ついに彼らはイワンの計略に気付き、彼を殺すことにする。「彼らは感づいた」というレチタティーヴォに続いて、イワンが有名なアリアを歌い始める。この「さし昇る太陽よ」は、数あるロシア・オペラのアリアの中にあっても群を抜く名曲の一つである。実際、全曲を聴いていても、この場面こそまさに全編のクライマックスだと、つくづく実感する。)

(※M=パシャイエフ盤でイワンを歌っているのは、マクシム・ミハイロフ。この人の声は非常に泥臭くて、野性的な響きを持ったものだ。しかし、ロシア農民を演じる歌手の声としては、こういう方が断然良い。ミハイロフは、ヴォルガ中流域の貧しい農村で生まれ育った幼少時の体験から、何よりもイワン・スサーニンという農民の役に深い共感を持っていたそうだ。実際、この役については、何と400回以上も歌った実績があるらしい。今回扱っているCDでも、名演が聴かれる。有名なアリアも勿論立派だが、そこから死に至る場面までの演技歌唱も非常に素晴らしい。ちなみに、かつて映像で鑑賞したネステレンコの歌唱はこれよりずっと洗練度の高いものだったが、残念ながら、私の心にはあまり響いてこなかった。)

〔 エピローグ 〕

モスクワ。クレムリン宮殿前の広場。皇帝を迎える群衆の歓喜の声で、全曲の終了。

(※最後のエピローグは、2つの場面から構成されている。まず第1場は、新しい皇帝を迎える群衆が集まっているところでアントニーダ、ソビーニン、そしてワーニャの3人が、スサーニンの死を悼む三重唱を歌う。そして人々が、「皇帝を守るために命を投げ出したイワン・スサーニンのエピソード」を確認するのである。かつてNHKで紹介されたネステレンコ主演の映像では、この第1場がしっかり演奏されていたと記憶する。しかし、この第1場は実演では省略されることも多いらしく、今私の手元にあるM=パシャイエフ盤ではカットされている。)

(※続く第2場が、全曲を締めくくる最後のシーンとなる。「我がロシアに栄光あれ」と歌う力強い合唱で幕が閉じられる。これは凄い終曲である。轟然たる合唱に、鐘の音がガランガランガランガラン・・・。しかし、ドラマの展開としてはやはり、上記の第1場をちゃんとやってからこの第2場へ進める形の方が良いだろうと思う。いきなりこの第2場では、ちょっと唐突な感じがする。)

(PS) ソビーニンのアリアについて

今回は枠に少し余裕が出来たので、ちょっと補足話。<イワン・スサーニン>に登場する若者ソビーニンはテノールの役だが、彼が歌うアリアはハイCにシャープが付くという超高音が要求される難曲のため、普段の上演ではカットしてしまうのだそうだ。これは本で読んだ知識の受け売りに過ぎないが、録音上でこの「幻のアリア」を見事に歌って復活させたのは、若き日のニコライ・ゲッダだそうである。マルケヴィッチが1957年に指揮した演奏とのこと。さて、その後はどうなのだろう。

―以上で、歌劇<イワン・スサーニン>は終了。これまで見てきた通り、イタリアに学ぶ、つまり「真似ぶ」ことから、グリンカのオペラ創作は始まったのであった。次回のトピックは、そんな彼が書いたもう一つの歌劇。これは序曲ばかりがやたら有名な作品だが、当ブログではしっかりとその全曲の内容を見ていく予定である。

【2019年3月7日 おまけ】

マクシム・ミハイロフが歌うイワン・スサーニンのアリア

極めつけの名演を、貴重なカラー映像で。

コメント (9)
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