クラシック音楽オデュッセイア

2009年の大病以来、月1回程度の更新ペース。クラシックに限らず、身の回りの事なども、気の向くままに書いております。

ピグマリオンとガラテア

2007年07月29日 | エトセトラ
先頃オッフェンバックの傑作<美しきエレーヌ>を語ったので、今回は、その周辺のお話。まずは、<美しきエレーヌ>の向こうを張って、スッペが作曲した<美しきガラテア>(1865年)について。作曲家フランツ・フォン・スッペ(1819~1895)と言えば、<軽騎兵>や<詩人と農夫>などの序曲が特に有名だが、この<美しきガラテア>の序曲も素晴らしい名曲である。ポール・パレー&デトロイト響の名演を、LPレコードの時代から私はどれほど愛聴してきたことだろう。ところで、このオペレッタのヒロインであるガラテアはギリシャ神話に登場するキャラクターだが、彼女を巡るお話は以下の通り、至ってシンプルなものである。

{ ピグマリオンは腕のいい彫刻家だった。しかし、現実世界で出会う女性たちに、彼はいつも幻滅していた。彼女たちのいやなところばかりが、目についてしまうのである。ピグマリオンが理想の美を実現した女性像を大理石で彫り上げた時、彼はその彫像に恋をしてしまう。ガラテアと名づけられた美しい像に、彼の想いと憧れは募る一方。ピグマリオンは、女神アフロディテ(=ヴィーナス)に祈る。「あの彫像に、命を与えてください」。ある日、いつものように冷たい石の女性を抱いた彼は、そこにぬくもりと柔らかさを感じる。彼の願いが聞き入れられたのだ。人間となった彫像ガラテアはピグマリオンの妻となり、二人の間にはやがて息子も生まれる。 }

―喜歌劇<美しきガラテア>のあらすじ

ピグマリオンは自分が信仰している女神ヴィーナスの神殿へ出かけていて、留守。彼のアトリエでは、召使のガニメートがのんびり歌いながら、羽を伸ばしているところ。そこへ、美術品コレクターであり、芸術家のパトロンを自認しているミダスという男が登場。彼はガラテアの彫像を見たくて、やって来たのだ。ガニメートと押し問答をしているところへ、ピグマリオンが帰宅。「留守中に、勝手なことをするな」と、彫刻家はミダスを追い出す。

その後ピグマリオンは、ガラテアの像に命を与えて下さいとヴィーナスに祈る。願いはたちまち叶えられ、ガラテア像は生きた人間になって歌い出す。続いて、ガラテアとピグマリオンの二重唱。突然ガラテアは、「おなかがすいた!酢漬けキュウリ付きの古代ギリシャ風シュニッツェルが食べたい」とピグマリオンに要求。それを手に入れようと、彼が買い物に出かけて行くと、入れ替わりに召使のガニメートが入ってくる。

ガラテアはこのガニメートの姿を見るや、いきなり一目惚れ。積極的に彼に迫る。そこへミダスが懲りずにまたやって来て、美しきガラテアを見て一目惚れ。ありったけの宝石や装飾品を、彼女にプレゼントする。しかし、彼は全く相手にされない。どんなに大金を積んでも、効果なし。

やがて、食べ物をどっさり抱えたピグマリオンが帰宅して、食事となる。ガラテアは陽気に、『酒の歌』を歌う。その後、酔った勢いで口論が始まり、怒ったピグマリオンが部屋を出て行くと、ガラテアはガニメートと抱き合って接吻を交わす。「それじゃ、二人で駆け落ちしよう」と彼らがその気になったところへ、ピグマリオンが戻る。あきれ返った彼は、「ヴィーナスよ、この女をもとの彫像に戻してください」と祈る。するとたちまち、ガラテアはもとの大理石像にもどる。ミダスが彼女に与えた宝石も貴金属も全部、ただの石になってしまった。「あぎゃあ~っ!俺は破産だ~」と嘆くミダスの歌。そして、一同のヴィーナス賛歌で幕。

―というわけだが、このトホホなパロディ劇に付けられた音楽は、有名な序曲を除けば、はっきり言ってイマイチ。ガラテアが歌う『酒の歌』の前後で聴かれるのが、序曲の冒頭部分。ここは、「おっ!」と惹きつけられるものの、後が面白くない。女声合唱を背景にしたピグマリオンのアリアも多少立派だが、それに続く二重唱は平凡。後のヨハン・シュトラウスⅡ世やフランツ・レハールらに代表されるウィーン・オペレッタのプロトタイプ的な側面を一応持ってはいる作品なのだが、ウィーン物に必須と考えられている“優美なワルツ”というお約束品目は、ここには出て来ない。同じスッペによる喜歌劇<ボッカッチョ>は浅草オペラのお得意演目にもなっていたとおりで、全曲楽しめる作品だが、<美しきガラテア>は残念ながら、駄作の部類に属するものと言わざるを得ない。

ちなみに、私が聴いた全曲盤は、クルト・アイヒホルンが指揮した1974年のDENON盤。これはセリフ部分を省略し、音楽ナンバーのみを収録したものだった。ピグマリオン役のルネ・コロはそれなりに健闘していたが、声が荒れたアンナ・モッフォのガラテアにはまるで魅力なし。で、オーケストラの音もブカブカ。「彼の録音なら、全部そろえたい」みたいな熱心なコロ・ファンは別として、一般の方々にお勧めしようとは全く思わない。

―さて、ピグマリオンと言えば、フランス・バロック期の作曲家ジャン・フィリップ・ラモー(1683~1764)が、<ピグマリオン>(1748年)というオペラ・バレエを書いている。参考までにちょっとそのあらすじを書き出しておくと、序曲に続いて彫像を前にしたピグマリオンの哀歌がまず歌われる。そして、彼に好意を持つ女性セフィーズが登場し、彼への想いを伝える。しかし、彼女は全く相手にされず、失意のうちに去って行く。再び一人になったピグマリオンが彫像への憧れを訴えていると、ついにヴィーナスに彼の祈りが通じ、彫像が生きて語りだす。両者の幸福な語らいの後、女神自身が登場して祝福の言葉を贈り、そこから各種の舞曲が続く。―といったような展開である。全体にいかにもフランス・バロックらしい雅(みやび)な音楽が流れる作品で、グスタフ・レオンハルト&ラ・プティット・バンド、他による名演のCDが現在廉価で入手できるようになっているのが有り難い。

―話は変わるが、この有名なギリシャ神話を題材にして書かれた近代の戯曲にジョージ・バーナード・ショーの『ピグマリオン』がある。尤も、ショー作品に於いては、ピグマリオンに擬せられた人物であるヒギンズ氏は学者であって、芸術家ではない。彼はイライザという粗野な花売り娘に言語教育を施し、彼女を上流社会でも通用するようなレディに仕上げる。が、これは芸術の創造ではなく、言わばモルモットの飼育であった。二人の間に愛が実ることはなく、狷介(けんかい)なヒギンズ氏は結局自分の殻に閉じこもってしまう。この『ピグマリオン』は、後に<マイ・フェア・レディ>というミュージカル作品の元ネタになった。オードリー・ヘップバーンとレックス・ハリスンの主演による映画は大ヒットとなったが、そこでは文豪の原作に見られる悲観的リアリズムみたいなものはきれいに払拭されていた。(※1)

―最後にもう一つ、関連のお話。私が中学~高校生の頃愛読していた漫画の一つに、山本鈴美香の『エースをねらえ!』がある。宗方コーチが活躍する第1部(コミックス第1~10巻)の中で、今回語った「ピグマリオンとガラテア」的な要素を感じさせる言葉を、主人公である岡ひろみの独白を通じて読むことが出来る。

{ 歯をくいしばってたえぬくことを知り、あいてを思いやること、たたかうこと、愛することを知り、無我夢中でここまできて ― じぶんのどこがすぐれているとも思わない。ただコーチに見いだされ、コーチの手で彫刻されてきただけ ― コーチののぞむとおりの選手になりたい! } 【 山本鈴美香・著『エースをねらえ!』 集英社マーガレット・コミックス第6巻「ひろみの青春の巻」(1975年)より、162~163ページ。 】

細かい話は省略するが、宗方の全霊を賭けた愛情を一身に受ける主人公のひろみが、「コーチによって、自分は彫刻されてきた」と語るセリフには、ピグマリオン神話のテーマが姿を変えて引き継がれていることを感じる。ちなみに、この漫画は数回にわたってTVアニメ化され、劇場用アニメにもなり、さらに何年か前には実写ドラマにもなった。最後の実写版は第1回放送のみ観たが、お蝶夫人を演じる女の子の“技あり”の髪型に笑わせてもらったことぐらいしか今は記憶に残っていない。w アニメ作品については、1973年(昭和48年)に放送された第1シリーズのみ、結構熱心に観た。第2シリーズ以降は野沢那智さんの若やいだ声に変わってしまう宗方コーチを、第1シリーズでは中田浩二さんが担当していた。この中田さんという方、顔を出す俳優としては時代劇の悪代官を演じるようなギョロ目のブ男(失礼!)だが、声は抜群の二枚目。私の世代では、『忍風 カムイ外伝』(1969年)の主人公が懐かしく思い出される。(※しかし、アニメ版・『ヒカルの碁』で佐為の魅力的な声をやっていた千葉進歩さんもそうだが、声の二枚目が必ずしも御本人の顔と一致しないのはいったい、どうしたことか。w )

いずれにしても、『エースをねらえ!』は原作のみ付き合うに足る名作で、アニメもドラマもいささか外面的で内容浅薄な物ばかり、と言ってよいように思う。尤も、「ある男の厳しい指導を通して、一人の平凡な女子高生が人間的に大きく成長し、ついには世界で活躍するようなテニス選手になる」というこの作品のプロット自体が、今ではかなり無理の感じられるものになってしまったようにも思える。少なくとも私にとっては、懐旧の縁(よすが)としての価値しかなくなってしまった。また、夭折する宗方仁の後を継いで親友の桂大悟が活躍する第2部は、途中から作者の山本鈴美香氏が重い病に倒れてしまったため、かなりの部分をはしょって急ぎ足で仕上げたような形になっている。(※例えば令子アンダーソンなど、とりあえず出てはきたものの、これといった活躍の場がなかった。)そのあたりも、残念なところである。

―今回は、この辺で。

(※1)参考文献『欧米文芸 登場人物事典』(大修館書店)~322、323ページ「ピュグマリオン」の項

【2019年3月17日 追記】

ポール・パレー&デトロイト響によるスッペの喜歌劇<美しきガラテア>序曲

上述の通り、スッペの<美しきガラテア>はオペレッタ全曲としては駄作の部類に属するものだが、序曲は名曲。そして、その最高の名演が、こちら↓である。パレー&デトロイト響のコンビには多数の名盤が存在するが、中でも、《スッペ序曲集》はピカイチの逸品。マーキュリー・リビング・プレゼンスの鮮烈な名録音も考え合わせると、できればYouTubeではなくCDを入手していただき、ステレオ・コンポで存分に鳴らしてほしいというのが、当ブログ主の本音である。

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名脇役ジュール・バスタンの録音から(4)~獅子王リチャード、フラ・ディアヴォロ

2007年07月22日 | 演奏(家)を語る
いよいよ、ジュール・バスタンの録音を題材にしたオペラ談義の最終回。今回は、バスタン氏がチョイ役で出演しているマニアックな作品を二つ。

●グレトリー : 歌劇<獅子王リチャード>全曲

アンドレ・エルネスト・モデスト・グレトリーが1784年に書いたこの短編歌劇は、ベートーヴェンの<フィデリオ>に代表されるような、所謂「救出オペラ」なるものの典型を示した作品である。そのあたりについて述べた文章が、岡田暁生・著『オペラの運命』(中公新書)の76~77ページに掲載されている。以下、あらすじ紹介に先立ち、その一部を短く編集して書き出してみたい。

{ 18世紀末の革命期には、グルックやリュリのオペラは旧体制の象徴として追放された。代わって大流行したのが、「救出オペラ」と呼ばれるジャンルだった。ゴセック、グレトリー、メユールといった作曲家が、その代表的な顔ぶれである。・・・救出オペラは、ベートーヴェンに与えた影響の大きさでも注目される。<フィデリオ>だけでなく、彼の交響曲にしばしば現れる『苦悩を通して歓喜へ』というシナリオもまた、救出オペラがモデルなのだ。・・・愛国歌の挿入、太鼓の連打、軍楽隊を思わせる金管の多用、ラ・マルセイエーズ風の符点リズムの行進、これらもベートーヴェンに多大の影響を与えた。 }

〔 第1幕 〕

リンツの城の近く。獅子王リチャードの家来ブロンデルが、十字軍遠征から帰る途中で消息不明となった王を探している。彼は盲目の吟遊詩人に変装し、若者アントニオの導きで城への進入を図る。王はここに幽閉されているはずだ、と考えたからである。そこへ、ウィリアムズ卿と彼の娘ロレットが登場。父殺しの仇である貴族を殺害したウィリアムズ卿は、事件後国外脱出を果たしていた。ロレットは、この地の刑務所長であるフロレスタン(←おやっ?w)に恋をしている。

続いて、フランドルのマルグリット伯爵夫人が登場。リチャード王を愛している彼女もまた、行方不明の彼を探していた。吟遊詩人がヴァイオリンで奏でる旋律を耳にして、彼女はハッとする。それは、リチャードが彼女のために書いてくれた曲だったからである。マルグリットは、その吟遊詩人を自分のもとに保護する。

〔 第2幕 〕

城のテラス。獅子王はわが身に降りかかった不幸を呪っている。すると、塔のふもとからブロンデルの歌声が聞こえてくる。それが自分の書いた曲であると気づいた彼は、下からの歌声に応じる。そこへ兵士たちがやって来てブロンデルを捕えるが、彼は「ロレットからの伝言を、フロレスタン所長に持ってきたのだ」と答える。

〔 第3幕 〕

吟遊詩人に扮していたブロンデルは自分の正体をマルグリットに打ちあけ、リチャード王が近くの城に幽閉されていることを伝える。その後二人はウィリアムズ卿を説得し、彼の協力を得る。パーティが催される。ロレットと会う約束のためにやってきたフロレスタンは、そこで取り押さえられる。マルグリットの軍がブロンデルに率いられて要塞を取り囲み、ついにリチャードを解放。フロレスタンもそこで自由にされ、ロレットと結婚できる運びとなる。

―作品全体から受ける印象を言えば、書かれた年代を反映してか、どちらかと言えばのどかな音楽が支配的なオペラという感じである。第1幕でブロンデルが歌うアリア『リシャール(=リチャード)!我が王』などは内容相応に力強いものの、その前に聴かれるアントニオの歌、あるいはチャイコフスキーの歌劇<スペードの女王>に引用されたことで知られるロレットのアリアなど、全体的には牧歌風の曲が多いように感じられる。そう言えば、第2幕でブロンデルを捕まえに来る兵士たちの合唱にも、凄みや迫力といったものはない。しかし第3幕のエンディング、特にラストの約7分間は要注目だ。ファンファーレによる勝利の宣言と、それに続く堂々たる行進曲。開放されたリチャード王とマルグリットの二重唱、そして他のメンバーも加わってのアンサンブルと合唱。この幕切れまでの一連の盛り上がりには、まさに<フィデリオ>の原型を見る思いがする。

―バスタン氏が参加しているのは、エドガー・ドヌ指揮ベルギー放送室内管、他による1977年のEMI録音だ。と言っても、「第3幕のパーティで、ちょっとした歌を披露する農夫」というほんのチョイ役である。彼がソフトな美声を聞かせるのは僅か1分半ほどの短い歌なのだが、さすがにそれだけの出番であっても手を抜かない実直な仕事ぶりを見せている。

●オーベール : 歌劇<フラ・ディアヴォロ>全曲

最後は、“フランス・オペラ・コミックのプリンス”と称されたダニエル・フランソワ・エスプリ・オーベールが1830年に書いた作品。このオペラもまた相当マニアックなものと思われるので、まずは大雑把なあらすじから。

(※と、その前に雑学。歴史に名を残したオーベールという作曲家は、少なくとも3人いるようだ。今回登場したダニエルさんの他に、ジャック・オーベールとルイ=フランソワ=マリー・オーベールという名前が事典で見つかった。前者は「フランスで事実上最初のヴァイオリン協奏曲を書いた人」らしく、後者はパリ音楽院でフォーレに学んだ女流作曲家だそうである。タイユフェールと並ぶ作曲界の花だったとか。)

〔 第1幕 〕

場所は、イタリアのテラチナ。マッテオの宿屋。竜騎兵の隊長ロレンツォは、多額の賞金が懸けられている山賊フラ・ディアヴォロを捕まえてやろうと意気込んでいる。そのお金があれば、愛するツェルリーナとの結婚が実現できるからだ。ツェルリーナの方も彼を愛していたが、彼女は父親のマッテオから裕福なフランチェスコとの結婚を勧められていた。

イギリス人のお金持ちコックバーン卿と彼の妻パメラが、マッテオの宿にやってくる。「盗難に遭ってしまった」と二人が周りの人に語っていると、サン・マルコ侯爵を名乗る盗賊フラ・ディアヴォロが現れる。彼は言葉巧みにパメラをたぶらかし、宝石を盗み取る。しかしロレンツォがそれを見事に取り返し、夫妻からのお礼として結婚資金の援助をもらえる話になる。フラ・ディアヴォロは、夫妻の宝石類ともども、その大金も全部いただいてやろうと企む。

〔 第2幕 〕

フラ・ディアヴォロが仲間のジャーコモとベッペを連れ、ツェルリーナの部屋に隠れている。彼らの狙いは、隣の部屋で休んでいるコックバーン夫妻の金品だ。ツェルリーナが熟睡するのを見計らって彼らがコックバーンの部屋に忍び込もうとした時、非番となったロレンツォと彼の部下たちがやってくる。ロレンツォは愛する人の部屋にサン・マルコ侯爵(=フラ・ディアヴォロ)がいることに驚き、「ツェルリーナに手を出したな」と、彼に決闘を挑む。

〔 第3幕 〕

宿屋の主人マッテオは相変わらず、「娘のツェルリーナは、金持ちのフランチェスコと結婚するのだ」と主張して譲らず、ロレンツォを絶望させる。一方ツェルリーナは、ジャーコモとベッペの二人が前の晩に自分が部屋で口ずさんでいた歌詞を繰り返すのを耳にする。昨夜部屋にいたのは私ひとりだったはずなのに、と彼女は二人の犯行に気付く。そして逮捕された二人は、フラ・ディアヴォロの計画を暴露。ついに、フラ・ディアヴォロもお縄頂戴となる。ツェルリーナはめでたく、愛するロレンツォと結婚できることとなった。

―バスタン氏が参加しているのは、マルク・スーストロ&モンテカルロ・フィル、他による1983年のEMI・全曲盤。そこで彼は、宿屋の主人マッテオを演じている。特にこれといった聞かせ歌もないチョイ役だが、やはりバスタン氏が演じると、そこにしっかりした存在感が生まれてくるのがさすがという感じ。

―しかし音楽的に見れば、そのマッテオの娘であるツェルリーナが、この作品では一番おいしい役であろう。彼女が第1幕で歌うクプレは、浅草オペラの時代に日本でもさかんにもてはやされた有名曲だ。「岩~に も~たれ~た もの~すごーいひ~とは♪」と始まる『ディアヴォロの歌』。ちなみにこの名旋律はドラマの最後を締めくくる合唱でも歌われるので、言わばこのオペラのテーマ・メロディと言ってもよいものだ。

さて『ディアヴォロの歌』というと、私はまず、田谷力三(たや りきぞう)さんの歌声を思い出す。これは昭和40年代前半、小学生時代に観ていたTV番組を通しての思い出になる。あの頃はいくつかのチャンネルで、いわゆる「なつメロ番組」というのをよくやっていた。特に、コロムビア・トップ&ライトが司会をしていた『なつかしの歌声』は、今でも忘れがたいものである。そのような番組に時々出演しては、トンデモなくぶっ飛んだ声を聞かせていたのが、“浅草オペラの名テナー”田谷力三さんだった。

この人は、強烈だった。伊藤久男さんや織井茂子さんらの豪快な歌声にいつもわくわくしていた私だったが、田谷さんの歌唱にはかなり戸惑った。当時の私は、なかば「怖いもの見たさ」の好奇心で聞き入っていたように思う。スッペの<ボッカッチョ>に由来する『恋はやさし』と並んで、『ディアヴォロの歌』は、田谷さんが十八番にしていたレパートリー。しかしまあ、それも古い昔話になってしまったなあと、心なしか遠い目をしつつ、今回のシリーズはここで終了。
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名脇役ジュール・バスタンの録音から(3)~美しきエレーヌ

2007年07月15日 | 演奏(家)を語る
ベルギーの名歌手ジュール・バスタンの録音を題材にしての、気ままなオペラ&オペレッタ談義。前回語った<ペリコール>に続いて、今回もオッフェンバックの作品。

●オッフェンバック : 喜歌劇<美しきエレーヌ>全曲

このオペレッタの主人公エレーヌは、トロイア戦争の話で知られるトロイのヘレネ。ただし、ここでのお話は完全なパロディ。であると同時に、痛烈な社会風刺。第二帝政時代の腐敗(※たとえば人妻の不倫とか、社会的な地位がある人の放蕩とかいったもの)を、思いきり皮肉って笑いのめした作品である。しかしパロディを楽しむためには、元ネタがどんなものかを知っていなければならない。まずは、そこから・・。

―パリスとヘレネ、そしてトロイア戦争

{ かかとに弱点があったことで知られる英雄アキレウスの両親は、テティスとペレウス。紆余曲折を経て二人が結ばれた時には、神々も揃って招かれる豪勢な結婚式が行なわれた。しかし、争いと不和の女神エリスだけは、式に呼ばれなかった。「あったま来たから、争いの種を放り込んでやる」とエリスは、神々のテーブルに黄金のりんごをポンと投げ込む。「はい、一番お美しい女神のために」。場に緊張が走る。ゼウスの妻ヘラ、戦いの女神アテナ、そして「美の女神ったら、あたしでしょ」のアフロディテ(=ヴィーナス)、この3人がそれぞれ、りんごは自分のものだと主張して譲らない。

「さあ、選んでよ」と女神たちに迫られて困ったゼウスは、トロイアの美しき王子パリスに審判を任せる。3人の美神がいつも以上に美しい姿になって、パリスに言い寄る。「あなたに世界の支配権をあげるわ」とヘラが言えば、「あなたがどんな戦にでも勝てるようにしてあげるわ」とアテナも負けずに提案する。しかし、「あなたに絶世の美女を手配してあげるわ」というアフロディテの言葉に最も惹かれたパリスは、彼女を1位に選ぶ。その後彼は、アフロディテに導かれてスパルタへ。

スパルタ王メネラオスの妻ヘレネは、まさに絶世の美女だった。彼女の母は、かつてのスパルタ王妃レダ。そして父親は、白鳥に変身してレダと交わったゼウス。ヘレネが人間離れした美しさを持つのは、その出自に理由があったのだ。アフロディテの力を借りて、パリスはスパルタの財宝ともどもヘレネを手に入れ、トロイアへ帰航する。このヘレネ略奪事件が発端となって、神々をも巻き込んだギリシャ対トロイアの大戦争、いわゆるトロイア戦争が始まるのである。 }

さて、オッフェンバックの<美しきエレーヌ>だが、幸いこれについては、ネット上でも日本語版ウィキペディアなどで細かいストーリー紹介を読むことが出来る。そのような状況から、当ブログでは各幕の聴きどころを筆者の独断と偏見で厳選し、順に並べてみる形にしようかと思う。

〔 第1幕 〕

ジャン、ジャン、ジャンジャカジャッチャ!と、いきなりオッフェンバック節全開のうきうき音楽が冒頭から飛び出すが、これは全曲を通しての重要モチーフでもある。しかし、「ヴィーナスがパリスに約束した絶世の美女って、あなたのことですよね」と問いかける神官カルカスに対し、「私も今は平凡にお妃なんかやっているけど、パリスの審判のおかげで夫を裏切ることになりそうよ」とエレーヌが嬉しそうに答えるあたりから、早くも毒がにじみ出す。w 音楽的には、『今夜は、ラビュリントスのキャバレーで』というオレストのクプレ(=小唄)が面白い。オレストというのはアガメムノン王の息子で、あのエレクトラの弟。R・シュトラウスの作品では超マジな役どころだが、ここではお笑い系。「どんなに遊んでも、国が払ってくれるからね~」と、目の前にいたら殴ってやりたくなるような歌詞を楽しく歌う。その後羊飼いの姿で登場するパリスが、ヴィーナスを選んだ時の顚末を語るクプレ『イダ山の上で』も、なかなか楽しい曲だ。

しかし、第1幕最大の聴きどころは、クイズ大会に集まってくる王様たちの行進と自己紹介のクプレだろう。合唱付きの絢爛たる行進曲もゴキゲンだが、それに続く王様たちの歌がとにかく楽しい。二人のアジャックス(=サラミス王の大アイアスと、ロクリエン王の小アイアス)、フティオリデス王アキレウス、スパルタ王メネラオス、そしてミケーネ王アガメムノン。この5人が次々と、ノリの良い自己紹介をする。(※ちなみにこの曲、オッフェンバックの葬儀の際にも流されて、参列者たちが故人の業績を偲んだそうだ。)

そして、エンディング。「エレーヌがパリスのものになるよう、手を尽くすべし」というヴィーナスからの手紙を受けていた神官カルカスがインチキ神託を述べ、メネラオスをクレタ島に行くよう仕向ける。このエンディングも冒頭で聴かれたテーマ音楽で明るく締めくくられるが、「夫には気の毒だけど、これも運命よね」とつぶやくエレーヌには相変わらず苦笑させられる。

〔 第2幕 〕

冒頭で流れる間奏曲は、たいそうな名曲!あの有名な『ホフマンの舟唄』に匹敵するほどの名旋律だ。それに続く女声合唱も美しい。オッフェンバックにはこういうのがあるから、侮れない。w

神官カルカスが八百長をやって周りから吊るされる『カード勝負のアンサンブル』も楽しいが、第2幕で笑えるのはその後のシーンだ。「パリスと夢の中で会えるように、魔法をかけて」というエレーヌの願いをかなえてやろうと、カルカスが彼女を寝かす。そこへ、パリス本人が現れる。目を覚ましたエレーヌはパリスと濡れ場を演じ始めるが、「これは夢の中だから、別に問題ないわよね」と言ってのけるあたりがまた苦笑を誘う。で、音楽的に面白いのは、その直後。夫のメネラオスが突然帰ってくる場面だ。この“修羅場”の三重唱は、完全にヴェルディ歌劇のパロディ。瞬間的に凄い迫力を見せたと思いきや、へにゃへにゃっと力が抜ける。真面目なヴェルディ信者が聴いたら、怒り出すかも。w さらに、「妻の浮気現場を押さえたぞ。ああ、俺は妻に裏切られた」と悲憤慷慨するメネラオスに対して周りの者たちが答えるセリフ、これがまたダハハもの。「いや、メネラオスくん、君も悪いよ。不倫した妻がきちんと迎えに出られるよう、帰宅する時を前もって知らせるのが、賢い夫というものだ」。それに続いて、「じゃあ次からはそのようにするから、今回だけは何とかして」と、メネラオスが兄のアガメムノンに泣きつくという展開。これにも唖然。

―で、この傑作第2幕を締めくくるのが、冒頭の名旋律をフルに活かしたイタリア・オペラのパロディ音楽。こりゃ、たまりませんな。w

〔 第3幕 〕

上の第2幕で、パリスは結局エレーヌを手に入れることが出来ないまま追い出される。その成り行きに怒ったヴィーナスが、「ギリシャ中の女たちを快楽に飢えさせ、すべての人妻に夫を捨てさせる」という復讐をするのが、第3幕の冒頭。ちなみに、元のギリシャ神話にこんな展開はない。w 音楽的には、「このままでは、国が危ない。ヴィーナスにお詫びしなくては」と、カルカスやアガメムノンたちが歌うアンサンブル『ギリシャが戦場になれば』が楽しい。この歌の後半部分はイタリア・オペラでお馴染みのカバレッタのパロディになっていて、それがまた笑わせる。

やがて女神ヴィーナスの生地であるシテール島の大神官が登場し、「ヴィーナスの怒りを鎮めたくば、エレーヌをシテール島に送るべし。そこで彼女が、白い仔牛百頭を女神に捧げるのだ」と、皆に告げる。このお告げの最後は、スイスのヨーデルみたいなレイレイホ~♪になって聴く者の失笑を誘うのだが、実はこの大神官、パリスの変装。その正体を知ったエレーヌが、「私、行くわ。これって運命よね」と嬉しそうに彼の船に乗ってトロイアへ出発。「エレーヌは私のものだ」という偽神官の言葉を聞いて騙されたとわかったメネラオスたちが、「トロイアに復讐だ」といきり立つところで、陽気な合唱が全曲を締めくくる。このエレーヌ略奪事件が発端となって、神々をも巻き込んだギリシャ対トロイアの大戦争、いわゆるトロイア戦争が始まるのである。(爆)

―バスタン氏が参加している録音は、前回採りあげた<ペリコール>と同様、アラン・ロンバール指揮ストラスブール・フィル、他による全曲盤(1977年・録音)。歌っている役は、アガメムノン。ここでの彼は、まさに絶好調と言ってよい。まず、第1幕で王様たちが登場する時に歌うクプレ。そこで聞かれる「セ アガーメムノ~ン♪」からもうノリまくり弾けまくりだし、それに続くクイズ大会で聞かせる声とセリフ回しの存在感も抜群。そして、第3幕前半でのアンサンブル『ギリシャが戦場になれば』。ここでも彼は、冴えた歌唱を聴かせてくれる。私が現段階で知っている狭い範囲で言えば、このアガメムノンこそ、バスタン氏が録音にのこしたベストの名演である。

一方、この録音は絶好調のバスタン氏をはじめ男性陣が概ね好調なのに対し、エレーヌ役の歌手がちょっとオバさん臭くて残念。作品自体がパロディだからオバさんエレーヌというのもキャラ設定としてはありかもしれないが、でももう少し上手に歌ってほしいと思う。ジャヌ・ロード(あるいは英語流に、ジェーン・ローズか)というこのソプラノ歌手、歌よりもむしろセリフで楽しませてくれる部分が大きいようだ。なお、ロンバールの指揮は前回の<ペリコール>同様、ここでも大変見事なものである。生き生きしたリズムと陶酔的なメロディの歌わせ方、そして絢爛たるサウンド。オッフェンバック音楽の魅力を存分に味わわせてくれる。

―では、次回もう一度だけ、ジュール・バスタンの録音を通じてのオペラ&オペレッタ談義。
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名脇役ジュール・バスタンの録音から(2)~聖母の曲芸師、ペリコール

2007年07月08日 | 演奏(家)を語る
前回の続きで、ベルギーの名歌手ジュール・バスタンの録音を通じての気ままなオペラ談義。今回は、バスタン氏が大活躍するマスネとオッフェンバックの作品を、一つずつ。

●マスネ : 歌劇<聖母の曲芸師>全曲

中世の神秘劇に基づくアナトール・フランスの短編に取材した1901年の作。これはかなりマニアックな作品と思われるので、まずはあらすじのご紹介から。

〔 第1幕 〕

時代は14世紀。クリュニー僧院前の広場。市の立つ日。曲芸師のジャン(T)が人々の前で芸を披露するが、全く受けない。やがて彼は人々に煽られ、「ワイン万歳!」と酒をたたえる俗謡を歌い出す。しかし、そこを僧院長(B)に見とがめられ、彼は破門されそうになる。罪滅ぼしをするには僧院生活に入るしかないと聞かされるジャンだが、自由な生活を愛する彼には受け入れられない話であった。そこへ、僧院の料理人がたくさんの食べ物を載せたラバを引いて登場。「おおっ、僧院ではこんなご馳走が食べられるのか。なら、僧院生活も悪くないじゃん」と、ジャンはコロッと心変わり。

〔 第2幕 〕

僧院内の広場。ラテン語が全く分からず、学問のないジャンは周りから嘲笑される。すっかりへこんでしまった彼を、料理番のボニファス(Bar)が励ます。「どんな賤しい者にも、聖母の心は開かれている。俺もラテン語は苦手だ。自慢できるのはせいぜい、料理の腕ぐらいさ。でも、それだって、聖母様にちゃんとお仕え出来るんだよ」。

〔 第3幕 〕

礼拝堂の中。ジャンが曲芸師の格好をして祭壇の前に立ち、芸を始める。「おいらには、こんなことしか出来ないです。でも、どうぞ、見てやって下さい」。祭壇の前で曲芸をし、俗謡を歌い、踊りをするジャンの姿を修道僧たちが目撃。「神聖な祭壇の前で、何という冒涜行為だ。あいつめ」。ジャンを押さえつけようといきり立つ彼らを、ボニファスが必死に引き止める。「どうか、どうか、今しばらく」。

やがてジャンが力尽きて床に倒れた時、修道僧たちは信じられないものを目にする。聖母の像が美しい光に輝き始め、その手がみすぼらしい曲芸師を祝福するかのように差し出されたのである。「これは・・何という奇跡!」と一同は激しい感動に打たれ、いっせいにひざまずく。天使たちの歌声が聞こえてくる。「お聴きください。天上の調べです」と、感極まったボニファスが叫ぶ。「ああ、おいらも今、やっとラテン語の意味が分かったよ。うれしいなあ・・」。喜びの言葉をつぶやきながら、ジャンは至福のうちに息を引き取る。

―という訳だが、ロジェ・ブトリー&モンテカルロ国立歌劇場管、他によるEMI盤(1978年)で、料理番ボニファスを歌っているのが、我らの(?)バスタン氏である。いかがだろう、ボニファス。おいしい役ではないか。w 彼の存在が、このドラマの感動の源だ。中でも一番の聴かせどころは、第2幕でジャンを励ます時の歌だろう。『サルビアの伝説』と題されたこの素朴な名歌には、彼の内面にある確固たる信仰が歌いだされている。「幼子イエスを連れた聖母が、王の追っ手を目にして、身を隠す場所を求めた。色鮮やかなバラは、自慢のドレスがしわくちゃにされるのを恐れて申し出を拒否する。しかし、道端に目立たず咲いていたサルビアがいっぱいに葉を広げ、幼子イエスをそこに休ませてやったんだ。つまり、どんな粗末に見られている者でも、神様にお仕えすることは出来るんだってことさ」。

なお、同録音で曲芸師ジャンを演じているのはアラン・ヴァンゾ。当ブログでかつてビゼーの<真珠採り>やフォーレの<ペネロプ>を話題にした時、繰り返し登場してきた名歌手だ。ここでのジャンも、まさにはまり役。どこかへにょっとした情けない曲芸師の姿が、聴く者の目にくっきりと浮かんでくる。―という流れで、次の作品は、このヴァンゾ&バスタンの名コンビが楽しく弾けるオッフェンバックの傑作。

●オッフェンバック : 喜歌劇<ペリコール>全曲

ジャック・オッフェンバックが書いたオペレッタ作品としては、<天国と地獄(※別題「地獄のオルフェウス」)>(1858年)、<美しきエレーヌ>(1864年)、<パリの生活>(1866年)、あるいは<ジェロルスタン大公妃殿下>(1867年)といったあたりが特に有名だが、1868年に初演された<ペリコール>もまた見過ごすことの出来ない傑作である。

バスタン氏が参加しているアラン・ロンバール&ストラスブール・フィル、他による<ペリコール>の全曲盤(1976年・録音)は、LP時代から同曲の代表的名盤とされてきたものだ。これは間をつなぐセリフがカットされた音楽部分だけの録音だが、演奏自体は大変素晴らしいものである。ただ、この作品もあまり人口に膾炙(かいしゃ)したものとは言い難いようなので、まずは大雑把なあらすじから。

〔 第1幕 〕

18世紀。舞台はペルーのリマ。総督の命名祝日とあって、酒場は大賑わい。そこへ流しの歌手ペリコール(S、またはMs)と彼女の恋人ピキーヨ(T)がやってきて、得意の歌を披露する。やがてピキーヨが外へ出た留守に、総督ドン・アンドレス(Bar)がペリコールを見初め、彼女を宮廷に誘う。彼女はその誘いが何を意味しているかをすぐに理解するが、ひもじさのため仕方なく受け入れる。恋人への別れの手紙を残し、ペリコールは総督のもとへ。

総督の妾(めかけ)は人妻であることが条件だったので、伯爵パナテルラス(Bar)はペリコールの婿探しを始める。そこで偶然、彼は恋人に去られて死のうとしているピキーヨを助けることになる。「そうだ。こいつを、あの女の婿に仕立ててやろう」と、伯爵は彼に酒を飲ませて酔いつぶし、まんまと結婚式まで挙げさせる。ペリコールは思いがけず恋人と再会出来たことを内心喜ぶが、ぐでんぐでんに酔っ払ったピキーヨの方は、自分にあてがわれた結婚相手が愛するペリコールだとは全く気づかない。

〔 第2幕 〕

酔いからさめたピキーヨは自分が置かれた状況を悟り、城を脱出しようとする。しかし、そこで彼が会わされた総督の妾は何と、自分の恋人ペリコール。「僕を突然捨てて、総督の女になっていたのか!」と逆上したピキーヨは総督を侮辱し、ペリコールを玉座の階段に投げつける。おかげで彼は、牢獄行き。

〔 第3幕 〕

ペリコールが牢獄にやってきて、ピキーヨにそれまでの事情を話す。怒りを解いた恋人と、彼女はあらためて愛を確かめ合う。その後二人は脱走を企て、牢番を買収しにかかる。ところがその牢番は、変装した総督アンドレス。怒ったアンドレスによって、恋人同士は離れたところで鎖につながれる。しかし、その後老囚人の助けで二人は自由になり、うまく鍵を盗んで脱走に成功する。

街は脱獄のうわさで持ちきり。広場に出てきた総督の前にひれ伏して、『アウグストゥスの慈悲』と題された歌をペリコールとピキーヨの二人が歌う。「再び捕まった二人を、気高い許しの心で自由にしてくださるお方」。その歌にすっかり気を良くした総督は、“赦免の場”という格好いいシーンを演じられるチャンスを喜び、二人を放免にしてやる。自由になった二人は、「良かったね~」とまた新たな旅に出発していく。

―ストーリーは以上のように、ごくたわいない物だが、音楽は全編これオッフェンバック節の連発。うきうきリズムやうっとりメロディが次々と出て来る楽しい作品である。特に、前半部分に聴きどころが多い。開幕冒頭の賑やかな合唱からいきなりこの作曲家らしい享楽的な世界が始まり、総督ドン・アンドレスの軽やかな歌、そしてピキーヨとペリコールの二つの流し歌(※特に二曲目が秀逸)、これらが連続してうきうきリズムの快走音楽を展開する。そうかと思うと、ペリコールが歌う『お別れの手紙』では雰囲気が一転し、どこかで聞きなれたようなうっとりメロディが流れ出す。おしつけ結婚式に入るところで聞かれるペリコールの『ほろ酔いアリエッタ』も面白い歌だし、泥酔したピキーヨとの珍妙な結婚式も楽しい。そして二人の式後に始まるカッ飛び音楽はもう、フレンチ・カンカン。

―さて、バスタン氏が演じているのは、バリトン役のドン・アンドレスである。で、これがまた名唱。彼の明るい声と軽やかな歌い方は、この身勝手な総督を決して悪辣な人物にしない。そこがオッフェンバック向きで、良い。ピキーヨを軽やかに演じるアラン・ヴァンゾとも、良いコンビネーションを見せる。ロンバールの指揮も賞賛に値するものだ。生き生きしたリズムと華やかなサウンドで、この作曲家ならではの愉楽感を鮮やかに描いている。これは次回採りあげる<美しきエレーヌ>の全曲ともども、彼の代表的な録音と言っていいように思う。

―という訳で(←何が?)次回も、ジュール・バスタンの録音を通じてのオペラ&オペレッタ談義。

(PS)

今回前半に語ったマスネの歌劇<聖母の曲芸師>は、いつか是非映像付きで鑑賞してみたい作品である。特に聖母の奇跡が起こるラスト・シーンは、何としても絵がほしい。どこかの歌劇場でこれを上演して、映像収録してくれないかな・・。ちなみにこの佳作オペラ、全曲の上演時間が80数分という比較的短い作品である。
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名脇役ジュール・バスタンの録音から(1)~ウェルテル、サンドリヨン

2007年07月01日 | 演奏(家)を語る
ベルギー出身の名歌手ジュール・バスタン。先頃語ったナガノ盤<三つのオレンジへの恋>で、ごつい料理女を演じていた人である。彼は一応バス歌手なのだが、その声は明るくバリトーナル。実演の舞台はともかく、録音上は“名脇役”といったイメージが強い人だ。このバスタン氏が出演しているオペラ&オペレッタ全曲録音のうち私が今持っているものをこれから順に並べ、それらを題材にして、いろいろと気ままなお話を書いてみることにしたい。まず今回は、彼と同じファースト・ネームを持つフランスの代表的なオペラ作家ジュール・マスネが書いた作品から、二点。

●マスネ : 歌劇<ウェルテル>全曲

数あるマスネ・オペラの中でも、おそらく最も有名な傑作の一つ。1891年、作曲者がワグナーの影響を受けながら書いたと一般に言われているものだが、“マーケット調査の達人”であったマスネ自身に言わせれば、「ワグナーに影響されたのではなく、ワグナー風の音楽が聴衆に受けているから、それを採り入れてみただけさ」という感じになるかもしれない。いずれにしても、厚みのある金管、粘りのあるこってりした響き、そして激しい二重唱など、ワグネリアンな要素は確かにあるようだ。

その“ワグナー的な、こってり感”みたいなものを良く打ち出していた指揮者に、ジョルジュ・プレートルがいる。彼がパリ管弦楽団を指揮して、ニコライ・ゲッダとヴィクトリア・デ・ロス・アンヘレスが主演した同曲のEMI盤(1968年)は、LP時代から名盤の誉れ高いものだった。二人の主役歌手がまず優秀で、特にゲッダの熱演が印象深い。有名な『オシアンの歌』に続いて、ウェルテルがシャルロットに熱く迫るシーンなど、(喩えが珍妙で恐縮だが)射精寸前のオスの鮭みたいな迫力があった。w 脇役陣も総じて出来が良く、全曲盤としての総合点も高い。

今回話題にしているジュール・バスタン氏が参加しているのは、ミシェル・プラッソン&LPO、他による1979年のEMI盤。ここでウェルテルを歌っているのは、アルフレード・クラウスだ。今は亡きスペインの至宝である。ウェルテルは彼が生前極めつけにしていたレパートリーだったが、ここでもやはり素晴らしい。クラウスの声はかなり個性的なので聴く人によって好悪が分かるかもしれないが、端正な歌のフォルムには気品が漂い、輝かしい声からは熱い内面の炎が放射されている。この見事なウェルテルに伍して、シャルロットを歌うタティアナ・トロヤノスにも好感が持てる。落ち着きのあるメゾ・ソプラノの声が、まずこの役に相応しい。陽気なソフィのスーブレット的なソプラノ・キャラと好ましい対比をなしている。プレートル盤のロス・アンヘレスも名唱だったが、トロヤノスの声を聴いていると、むしろリリックなメゾの方がこの役には相応しいのではないかという気がしてくる。(※ちなみに、クラウスにはこのオペラのライヴ録音が数種あるのだが、ルチア・ヴァレンティーニ=テッラーニやエレナ・オブラスツォワなど、著名なメゾ・ソプラノ歌手と共演したものが目につく。)

さてバスタン氏だが、プラッソン盤で彼は法務官を演じている。言わばチョイ役での出演なのだが、これが実に良い。開幕早々、やんちゃな子供たち(←めちゃ、かわいらしい)を相手に、「こらこら、それじゃ駄目だろう。シャルロットねえさんがきっと向こうで聞いているよ」と法務官が優しくたしなめるシーンなど、まさしくこの人ならではの味の良さが発揮されている。バスタン氏の声には威圧的な響きがなく、むしろスマートな柔らかさがあるので、このような役どころにぴったりなのだ。なお、指揮者のプラッソンはいつもどおりのスタイルで、すっきりと洗練された瀟洒(しょうしゃ)な音楽作りをやっている。聴く人によっては、ちょっと淡白過ぎると感じられるかも知れないが、私には不満なしである。風通しの良いサウンドによってマスネの管弦楽法の魅力がよく感じ取れるし、逆に、ここぞという時のパワーも十分に出せている。

●マスネ : 歌劇<サンドリヨン>全曲

シャルル・ペローの童話でお馴染みのシンデレラ姫を題材にしたオペラで、1899年の作品。タイトル役のサンドリヨンは、シンデレラのフランス語名。(※ちなみにロッシーニのオペラ・タイトルにもあるイタリア語名は、チェネレントラ。)知る人ぞ知る、かもしれないが、これは実にエレガントなオペラである。フランス流メルヘン・オペラを代表する傑作と言ってよい。大雑把な筋書きはだいたい以下のようなもので、ペローの原作にほぼ従ったものなのだが、異なる部分も一部に見受けられる。

〔 第1幕 〕

アルティエール夫人と彼女の娘たちが、舞踏会へ出かける準備をしている。王子様に注目してもらおうと、それぞれ目いっぱいにおめかし。そんな妻の様子に不満を感じつつも、夫のパンドルフは彼女に従う。夫人の下で養育されているサンドリヨンは一人で留守番をするよう命じられ、出かけることが許されない。パンドルフは、そんな彼女を不憫に思う。一人残されたサンドリヨンは家事に向かうが、それもつらくなったのでやめ、眠り込んでしまう。そこへ、彼女の守り神である妖精が現れ、「あなたも舞踏会へ行けるようにしてあげましょう」と、魔法を使う。そして豪華な衣装とガラスの靴を身につけ、サンドリヨンは出かけていく。「夜中の12時前に、必ず帰ってくるのですよ」という妖精の条件をしっかりと胸にしまいつつ。

〔 第2幕 〕

宮殿の一室。王子は、つまらなそうに沈黙している。出席者がこぞって彼を楽しませようとあれこれ努力するが、まるで効果がない。やがて舞踏会もたけなわとなった頃、美しく着飾ったサンドリヨンが登場。アルティエール夫人は勿論、家族の誰も、彼女がまさかサンドリヨンだとは思いもよらない。感激した王子が彼女に言い寄り、そこから二重唱となる。しかし、深夜12時の鐘が無情に鳴り始め、サンドリヨンは大急ぎで宮殿を去って行く。

〔 第3幕 〕

サンドリヨンが宮殿を去るときにガラスの靴が片方脱げ、そこにそのまま残された。家に帰ってきた夫人があることないこと宮殿での出来事をでたらめに語るので、おとなしかったパンドルフもついに怒り出す。彼は悲しみに沈むサンドリヨンを慰めるが、彼女は死にたい気持ちになって家を飛び出す。サンドリヨンは妖精の樫の木を訪れ、そこで休む。やがて妖精が、王子をその場所へと招く。惹かれあっている二人の願いを聞いて、妖精は彼らを出会わせてやる。ここで、若い二人による愛の二重唱。

〔 第4幕 〕

数日後、サンドリヨンとパンドルフが一緒に家にいて、語り合っている。彼女は、小川のほとりで意識をなくしているところを発見されていたのだった。やがて、「王子がガラスの靴の持ち主を捜している」という知らせが流される。サンドリヨンは宮殿に行くことにする。やってきた娘たちの全員がガラスの靴を履こうとしてみるが、ぴったり合ったのはサンドリヨンだった。王子は彼女との結婚を決める。アルティエール夫人も、サンドリヨンを(偽善的に)祝福して抱きしめる。全員の喜びの合唱をもって、全曲の終了。

―という訳だが、ユリウス・ルーデル指揮フィルハーモニア管&アンブロジアン合唱団、他によるソニー盤の演奏で、このパンドルフという優しいパパを演じているのが、他でもないバスタン氏である。これは上記<ウェルテル>での法務官よりもずっと主役に近い役なので、いきおい、バスタン氏の活躍も一層際立ったものになっている。特に、オペラの後半部分が良い。サンドリヨンを励ましながら彼女とのデュエットに発展する第3幕の前半。そしてオーボエ、フルート、弦楽等によって美しく開始される第4幕冒頭での、サンドリヨンとの語らい。いずれの場面でも、この人らしい優しいパパさんぶりが聴く者に大きな安心感を与える。

さて、主人公サンドリヨンのことも語らねばなるまい。第1幕からはまず、一人だけ家に残された彼女が歌う何とも寂しげな歌。これが良い。ルーデル盤ではフレデリカ・フォン・シュターデが歌っている。ソプラノに近いメゾ・ソプラノの声を持った彼女は、この役にとてもよく似合う。そう言えばこの人、シンデレラにはつくづく縁があるようで、ロッシーニの歌劇<チェネレントラ>の映像盤(C・アバド指揮、J=P・ポネル演出)にも主演していた。そこでの彼女の歌唱は必ずしも十全な出来栄えとは言いにくいものだったが、容姿の魅力がそれを圧倒的にカバーしていた。w 当<サンドリヨン>は、そちらよりはずっと良い仕上がり。第2幕のエンディングで王子と交わす二重唱、これも美しい。第3幕の冒頭で、家に帰ってきたサンドリヨンが一人で歌うアリアも聴き物だ。面白いのは、その歌の途中で、<ラクメ>の『鐘の歌』にそっくりなパッセージが出て来ること。ドリーブのオペラは1883年の作だから、当然そちらがオリジナルである。そう言えば、当ブログでかつて語ったレスピーギの歌劇<沈鐘>にも、妖精の娘ラウテンデラインがそれっぽい歌を聴かせる箇所があった。そうして考えてみると、『鐘の歌』というのは、発表以来斯界に結構なインパクトを与え続けていた曲だったのかもしれない。

ところで、このオペラを童話劇たらしめている最大の要因は何かと言えば、それは何と言っても妖精の活躍であろう。彼女が頑張るシーンも、やはり見逃せない。コロラトゥーラの難技巧を駆使するソプラノの妖精と、しっとりした背景を作り出す女声合唱の効果が、いかにもメルヘンらしい雰囲気をあちこちで生み出している。第1幕でサンドリヨンを美しく変身させる魔法のシーン、第3幕で悲しむサンドリヨンのもとに王子を連れてくる魔法のシーン、どちらも是非映像で見てみたいと思わせる美しい場面だ。映像がほしい、と言えば、第2幕の舞踏会で聞かれる各種のディヴェルティスマン音楽もそうで、舞台上ではどんなエンタテインメントをやっているのか、いつか機会があったら見てみたいものである。

―次回もまた、ジュール・バスタンの録音を通じての気ままなオペラ談義。
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