クラシック音楽オデュッセイア

2009年の大病以来、月1回程度の更新ペース。クラシックに限らず、身の回りの事なども、気の向くままに書いております。

<ヘクラ>と<バルドゥル>

2005年05月28日 | 作品を語る
ヨウン・レイフス・・・知る人ぞ知る、20世紀アイスランドのブッ飛び作曲家である。前回、石井作品を語った記事の中でその名にさりげなく言及したので、今回はこのレイフスの音楽について語ってみたいと思う。

まず、基本的なところを手短に言えば、レイフスの音楽は故国アイスランドの神話や伝説、あるいは回りを取り巻く厳しい自然環境といったものをモチーフとして取り入れ、大胆にして豪快な表現手法を駆使した作品が中心になっているものと言ってよいだろう。もっとも、この人の多岐にわたる作品群のすべてを聴いてきたわけではないので、今回は私が知っている範囲内でのご紹介ということにさせていただこうと思う。

レイフス入門用には、火山の噴火をモチーフにした<ヘクラ>を収めたBIS盤が最適だと思う。1曲目の<アイスランド序曲>のムードからして、この作曲家はちょっと普通じゃないというのが実感されることだろう。同時にこの作品には、レイフスの音楽がもっている基本的な音響的特徴が明確に出ているので、その意味でも入門用にふさわしいと言えそうだ。この曲の後半には合唱が出てくるのだが、初めて聴いた時は目が点になってしまった。何だか、木に竹をつないだように唐突な感じがしたからである。しかし慣れてくると、それもいいか、みたいな気になってくる。一方、5分弱というギネス級(?)の最短演奏時間で書かれた<レクイエム>は、北欧のほの暗い空気感を漂わせた、神秘的な美しさを持った名曲だ。これは一聴の価値あり、である。そして、メイン・プロである<ヘクラ>の、あの阿鼻叫喚の物凄さ!出だしの何分かは不気味に静まり返っているのだが、すぐに様子がおかしくなってくる。火山の噴火と溶岩の流出が始まるのだ。大編成のオーケストラに、各種の打楽器や電子楽器等、かなり特殊なものを持ち込んで、後半に入ると合唱まで加わってくる。まあ、何でもありという感じである。BISの名録音も威力を発揮して、唖然とするほどの音響世界が展開される。あとは、聴いてのお楽しみ・・。

一方、レイフスの音楽にかなりハマり込んだ熱心なファンの人たちに欠かせないのは、舞台用音楽として書かれた<バルドゥル>だろう。CD2枚組、演奏時間90分余りの大作である。語り手、独唱、合唱、大管弦楽のほかに鉄板などの特殊打楽器を大量に持ち込み、激しいサウンドがドカン!グシャン!バシャン!と随所で爆発する。第1幕の「ハリケーン」や、フィナーレのダンスも相当キテいるが、全曲を締めくくる最後の「火山の噴火」がとりわけ凄い。上述の<ヘクラ>同様、レイフス先生はよほど火山がお好きでおられるようだ。例えば、あの噴火音、ドゴーン!ズドーン!これは大砲の空砲か、電子楽器による合成音かのどちらかだと思うのだが、まあ何とも凄まじい。勿論、静かな部分というのも相当長い時間ある。ところが、これがまた美しいというよりは、ひたすらひたすら怪しげなのだ。こんなのを一人で部屋の中で聴いていると、「うぐぐっ!だっ、誰か、助けてくれっ」とうめきたくなってくる。何かのお薬ではないが、「用法・用量を守って、お聴き下さい」みたいに申し上げたくなるような世界である。ポール・ズーコフスキー&エスクナル響、他による爆演CDを何年前になるか、ネット通販でアメリカのお店に注文した頃は、この作品のCDを見つけるのは大変だった。しかし今は、複数の全曲盤CDが簡単に入手できるようになっているようだ。この2作が、レイフスの作品群の中でも一番イケてるんじゃないかなと思う。勿論、それ以外にも、BISレーベルを中心に何種類かのCDが出ている。

初期の大作<サガ・シンフォニー>は、Sagaというタイトルの通り、アイスランドの古い伝説をテーマにした交響曲である。石をゴチンゴチンぶつけて音を出す場面があったり、曲の途中でいきなりピイイーーと古代の石笛が鳴り出したり、ラストではドカドカドカドカと滅茶苦茶な音の暴走が始まったりと、部分的には強いインパクトを与えはするのだが、全体の印象としてはむしろ地味な作品である。

<ゲイズィール>は間欠泉、つまり時間の間隔をあけて噴き出す熱湯をモチーフにしたものである。BISの優れた録音技術で、迫力のある低音がドドーーンと出てくるのだが、曲自体はそんなに爆裂系ではない。むしろこのCDでは、併録された<アイスランド舞曲>に、レイフス音楽のルーツみたいなものを見て取れるところが興味深い。

<ハフィス>は、海面に漂う流氷をモチーフにしたものだ。これはレイフスの管弦楽作品中、おそらく最も静かなものであろう。終始静謐な音楽が流れ続ける。BIS盤では女性指揮者が振っているようなのだが、その演奏にはもう少し締まりが欲しいと思った。期待していても最後まで何も起こらない曲なので、人によっては肩透かしを食った気分になってしまうかも知れない。私はちょっとガッカリして、すぐ中古売却してしまった。

レイフスの作品は、室内楽系のものも含めて今は相当数CD化されているので、<ヘクラ>あたりから入って、不幸にして(?)興味をお感じになられた方は、ご自身でその後を開拓なさっていただけたらと思う。

(PS)

火山と言えば、イタリアのヴェスヴィオ火山に登山列車が敷設されたことをきっかけにして書かれた歌、あの<フニクリ・フニクラ>が大変有名だ。この歌をモチーフに使った管弦楽曲の名作としてはやはり、R・シュトラウスの交響的幻想曲<イタリアから>が多くのクラシック・ファンに親しまれているものだろう。その終曲はお馴染みの「ヤンモヤンモ・ヤー(=行こう、行こう。標準イタリア語ならAndiamoか)」で賑々しく盛り上がるが、この歌を題材に使ったもっと凄い爆裂音楽と言えるのは、アルフレード・カゼッラの狂詩曲<イタリア>(1909年)ではないかと思う。ものの本によると、四管にハープ2台、そして二十型の弦という編成で書かれている作品だそうだが、終曲がやはり<フニクリ・フニクラ>で大爆発してくれるのだ。ただ残念なことに、現在CDとして出ているものは一種類しかないようだ。シルヴァーノ・フロンタリーニ&モルダヴィア国立響の演奏。これは録音ともども、はっきり言って物足りない。こんなもんじゃないはずです、この曲は。誰かやってくれないかなあ、もっと、ぶっ飛ぶような爆裂演奏を。

【2019年3月16日 おまけ】

セーゲルスタム&ヘルシンキ・フィルによるレイフスの<ヘクラ>

※容赦なく激烈な曲なので、つらくなったら再生を止めるか、ボリューム調節を。



【2019年3月23日 おまけ その2】

ズーコフスキー&エスクナル響によるレイフスの<バルドゥル>~火山の噴火

※<ヘクラ>の姉妹作みたいな感じだが、こちらは大作<バルドゥル>のほんの一部分ということで、より小規模な短い曲になっている。と言っても、レイフスらしさは存分に出ているので、聴き応えは十分。

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石井眞木の作品と<アイーダ>

2005年05月24日 | 作品を語る
前回「尾高賞」という言葉に言及したので、今回はその賞を受賞してきた数多くの作品の中から、以前CDで聴いた石井眞木氏の曲を2つだけ挙げてみたいと思う。いずれも、打楽器協奏曲である。伊福部門下の一人として、師匠の作品を指揮しても見事な演奏を聴かせてくれた石井氏が、作曲家としてどんな音楽を書いていたのか知りたくて、手にとったCDであった。

<打楽器とオーケストラのためのアフロ協奏曲>(1982年度・芸術祭優秀賞受賞)

この作品には、2人の打楽器奏者によるヴァージョンAと、1人の奏者によるヴァージョンBがあるらしいのだが、私が聴いたCDではAの方が採用されていた。つまり、2人の打楽器奏者が活躍する方である。1人が各種のアフリカン・ドラムを叩き、もう1人がマリンバと、そのご先祖みたいなアフリカの民族楽器バラフォンを演奏する。アフリカの土俗音楽のリズムを執拗に繰り返す“オスティナート手法”で、乾いたドラムの音とマリンバ&バラフォンの原始的な響きが交錯しながら、力強い終曲に進んで行く。

<日本太鼓とオーケストラのためのモノ・プリズム>(1976年度・尾高賞受賞)

こちらが、尾高賞受賞作。CDの解説書によると、モノ・プリズムという言葉はモノクローム(=日本太鼓の単色の響き)とプリズム(=管弦楽の色彩的な響き)、この2つの要素の総合を意図したものらしい。また同時に、「日本太鼓の求心的なエネルギーと、大オーケストラの外に向かう音響との衝突」をも意味するらしい。前半は小型の日本太鼓が活躍し、中盤から大型の太鼓が登場してくる、といった感じのシンプルな設計で書かれている。終曲は、ドカン!グシャン!バシャン!と、あのヨウン・レイフスの作品のように荒れ狂うが、私個人的にはこの種のやけくそ(?)フィナーレは決して嫌いではないので(笑)、なかなかに楽しめるエンディングであった。

ここに挙げた2作だけで作曲家・石井眞木の全体像を把握できるわけはないのだが、一つの側面みたいなものは掴めると思う。例えば土俗的な力感の重視や、オスティナート手法の活用といったあたりに、師匠・伊福部昭氏との繋がりを見て取る事が出来るんじゃないかとか・・。

さて、話はがらりと変わるが、上記石井作品のCDを手にして作品解説を読んだ時に、<モノ・プリズム>で石井氏が意図していたという、「求心的なエネルギーと、外に向かう音響のせめぎ合い」という表現を見て、私はヴェルディの歌劇<アイーダ>を思い出したのであった。今回の記事タイトルに<アイーダ>という有名なオペラの題名を並べた理由というのも、実はそこにある。その表現は、俊英リッカルド・ムーティのオペラ録音デビューとして話題になった、EMIでの<アイーダ>全曲(1974年)に寄せて、高崎保男氏が寄せておられた文章の中にあったもので、それに私は忘れ難い感銘を受けていたのである。

絢爛たる声と管弦楽の響き、そして「凱旋の場」を含む舞台上のスペクタキュラーな展開から、時として“オペラのデパート”みたいに呼ばれる事もある<アイーダ>だが、それを単なるお祭り騒ぎでなく、芸術作品たらしめているものは何か。それに対する高崎氏の回答が、「求心力と、外向的な力のせめぎ合い」という言葉だったのだ。

「外向的な力」の方は、わかりやすい。このオペラの壮大な声と管弦楽の饗宴を思い浮かべれば、大きなスケール感をもって音が外へ広がっていくイメージは容易に抱ける。しかし、<アイーダ>がそれだけの作品であったら、かのマイアベーアのものを好例とするグランド・オペラ(※壮大にして豪奢な音楽で時代を席巻し、やがて演奏されなくなっていった作品群)と同じ運命を辿っていただろうと、高崎氏は指摘しておられた。<アイーダ>について言えば、絢爛さとは裏腹の極めてシンプルな力強さをもってドラマを悲劇的結末に向けて収斂(しゅうれん)させていこうという、作曲家の意図が読み取れるというのである。その例として氏は、ラダメスが第1幕で歌う「清きアイーダ」に与えられた音符群が、至極素朴で単純なものであることを挙げておられた。これが「求心力、ないしは内に向かう力」である。つまり、一方で壮大な声と管弦楽の響きが外に向かって広がり、一方で「生と死のドラマ」に厳しく収斂していく内向的な力があって、その両者が(難しく言えば)アウフヘーベンするところに、このオペラの真価があるという話なのだ。高崎氏がムーティのデビュー盤を高く評価しておられるのは、揃いも揃った名歌手達の豪華極まりない声の饗宴が披露される一方で、イタリアの若き俊英が速いテンポと鋭角的な切込みをもって、ドラマの厳しい引き締めに成功していたからなのだ。

そんな訳で、実は私にとっては今もなお、<アイーダ>と言えばムーティのデビュー盤が一つの規範になってしまっているのである。高崎氏のような高踏的な理論展開など、私などにはどう逆立ちしたって出来ようはずもないが、少なくともこのムーティ盤の出演歌手の物凄さについて言えば、いまだに他の全てのディスクに冠絶していると言えるんじゃないかと思う。カバリエのアイーダは、「とりあえず、こなしてくれました」ぐらいのところかも知れない。しかし、他が凄い。ドミンゴのラダメス、カプッチッリのアモナスロ、ギャウロフのランフィス、ローニのエジプト王。どれを取っても、最高の出来栄えである。そして極め付けが、当時全盛期にあったコッソットのアムネリスで、この輝かしい硬質なメゾの美声で気品高く歌われたアムネリスは、かのシミオナートも含めてかつてなかった空前の名唱である。あるいはひょっとすると、今後とも出てこない絶後の名唱なのではないかとさえ思える。実際の話、バルツァもオブラスツォワも明らかに、コッソットを下回っている。指揮者ムーティの<アイーダ>表現が、その後どんな風になっていったかは寡聞にしてわからないが、所謂円熟味を獲得していった事と推測される。しかし、このデビュー録音は、当時のムーティの未熟さを考慮してもなお、今後おそらく二度と揃わないであろう豪華な歌が揃っているという、そのかけがえのない美点によって、今後とも永く価値を失うことなく残っていくんじゃないかという気がするのである。

―という訳で、石井眞木氏の作品紹介から、話が突然<アイーダ>に行ってしまったのだが、まあ、この種の思いつきによる気まぐれな展開も、個人ブログならではの楽しみといったところであろう。
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<日本組曲>

2005年05月20日 | 作品を語る
前回の<オルフェオ>からオをしりとりして、今回は日本クラシック界の黎明期に活躍した尾高尚忠(おだか ひさただ)氏を取り上げ、その代表的な管弦楽曲にまず触れてみたいと思う。<日本組曲>である。ウィーンに留学して西洋のクラシック音楽を学び、日本のクラシック界発展のために多大な貢献をした尾高氏。その記念すべき作品1が、ピアノのための<日本組曲>(1936年)だったそうだ。その2年後、それが管弦楽用に編曲されたということらしい。私が以前CDで聴いたのは後者、管弦楽版の方である。

1.朝に

弦と木管を中心に、神秘的な夜明けのムードを描いた曲。いかにも、「ドイツ流儀を学んできました」といった感じの音が聴かれる。

2.遊ぶ子供

ピアノのアルペッジョと、管弦楽の明るい響きが絡み合う様は、ドビュッシーかルーセルを思わせる近代フランス風の音響だ。中間部で、「もういいかーい」「まーだだよー」という、かくれんぼのやりとりを模した木管の対話がさりげなく聴かれるところが、ほほえましい。

3.子守唄

「ねーんねん ころーりよ♪」というお馴染みの一節が、オーケストラによって変容していく曲。冒頭と終曲間際に、このメロディの原型が示される。しかし、うっかりすると聞き漏らしてしまいかねないぐらい、これは控えめな使用になっている。すぐに変容が始まるのだ。ところで、組曲<惑星>でおなじみのホルストが、伊藤道郎(いとう みちお)氏の依頼で書いた<日本組曲>の中でも、この「ねんねんころりよ」のメロディが使われている。ところが、それが何だか変。音が途中でおっぱずれる。楽典がわかる人の言い方を拝借すれば、「日本音階では使っちゃいけない音が、使われている」ということになるらしいのだが、とにかく奇妙な「おころりよ♪」が聴かれる。ホルストは日本の伝統的な歌曲みたいなものは全く知らず、伊藤氏(または、その近しい人)が歌ったのか、口笛を使ったのかして、ホルストにメロディを伝えたのだそうだ。すぐれて日本的なこの子守唄は、イギリス人の耳にはどう聞こえたのだろうか・・。

4.祭り

そのものズバリの祭囃子。和太鼓の音と、お囃子のピーヒャララが交錯する。ただ残念なことにこの曲、わずか2分弱で終わってしまう。これが、伊福部先生の<日本狂詩曲>の「祭り」みたいに大きく盛り上がるものなら、この組曲もずっとよく知られたものになっていたかも知れない。やはり尾高氏自身にしても、手探りだった面があったろうし、とりあえず作ってみたという部分もあるのではないかという気がする。いずれにしても、その小ささが惜しまれる曲だ。

八面六臂の活躍をした尾高氏だったが、過労がたたったのか、1951年に40歳の誕生日を迎える数ヶ月前に他界してしまったそうだ。惜しまれる夭折である。NHKが氏への感謝のしるしとして、また将来育つべき作曲家たちへの支援の形として1952年に設立したのが、その名を冠した尾高賞というわけである。

さて<日本組曲>と題された作品は、我らが(?)伊福部昭先生もお書きになっておられる。私が生のコンサートに足を運んだ回数というのは、実はそんなに多い方ではないのだが、思い出に残るコンサート体験がいくつかある。そのうちの一つが、伊福部先生の<日本組曲>管弦楽版・初演に立ち会えたことだ。先頃、<シンフォニア・タプカーラ>をトピックにした時にも触れたが、サントリー・ホールでの≪作曲家の個展≫シリーズの一環として伊福部作品が取り上げられた際に、この組曲の管弦楽版による演奏が初めて行なわれたのであった。もともとは1933年に<ピアノ組曲>として書かれていたものが、サントリー音楽財団の委嘱を受けて、1991年に管弦楽版として仕上げられた訳である。

第1曲「盆踊り」、第2曲「七夕」、第3曲「演伶(ながし)」、第4曲「ねぶた」。両端の二曲がいかにも伊福部ワールドといった感じで、重くて粘着力のある響きと土俗的なリズムが交錯する。しかし、私の感想としては、第2曲「七夕」が最も印象的であった。昔のわらべ歌のような美しくも懐かしい調べを、弦楽中心に叙情的に奏でるのだ。これが一番、しみじみと来る。ピアノ用に書かれた原曲は、伊福部先生が僅か19歳だった頃の作であるわけだから、荒削りな感があるのも、ある意味で当然なのかも知れない。が、「七夕」のような美しい旋律がすでに19歳の時に書かれていたというのは、やはり凄いなあと思ったりもする。

後は単なる本の知識になってしまうのだが、山田耕筰と貴志康一というお二方の作品にも、<日本組曲>というのがあるらしい。残念ながら両先生の作品については未聴のため、全く曲の内容についての知識がない。本でちらりと見た範囲で言うと、山田作品はあまり評判がよろしくないようだ。貴志作品の方はファンがいるらしく、とりわけ「道頓堀」という曲がよく演奏されるらしい。いつか機会があったら聴いてみたいものだ。また、今回触れた尾高、ホルスト、伊福部、山田、貴志といった人たち以外の作曲家による<日本組曲>というのも、ひょっとしたら存在するのかも知れないが、現段階では不明である。

(PS)

伊福部先生の名前がまた登場したので、追加のおしゃべりを一つ。「東映アニメの『わんぱく王子の大蛇退治』をまた観たいのだが、DVDは買えないし・・」などと以前書いたことがあったのだが、“灯台下暗し”とはよく言ったものである。その作品のVHSテープが、近所のビデオ・レンタル店に、一週間300円の貸し出し品として並んでいたのだった。うひゃひゃ。早速借りてきて、視聴。「DVDなら、もっときれいなんだろうなあ」などと思いつつも、結構引き込まれて一気に観てしまった。

少年スサノオがヤマタノオロチの二つの首を倒して、三つ目に向かう時に始まる勇壮なマーチ風の音楽、あれが、<地球防衛軍のテーマ>である。やっぱり、これがかかっていたのだ。子供時代の記憶ながら、ここには自信があったのだ。ふっふっふ。(←自慢にもならない。)また、ヨルノオスクニの場面で、氷づけにされたスサノオが運ばれる時に侘しい行進の音楽が流れるが、これは後に勇ましい楽曲にアレンジされて、『サンダ対ガイラ』の自衛隊マーチになる。ついでながら、このマーチの主題は伊福部先生のお気に入りだったらしく、『ビルマの竪琴』(1956年・日活)でも使われている。

『わんぱく王子』は基本的には、「日本全国の良い子たちと、そのお母様たちに贈る」というコンセプトで製作された古き良き時代のアニメだが、伊福部ファンにとっては、大人になっていても楽しめる作品であると言えるだろう。
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歌劇<オルフェオ>を巡って

2005年05月17日 | 作品を語る
西洋のクラシック音楽史は、17世紀初頭にイタリア・オペラが成立したことをもって、バロック時代に入る。その扉を開いた音楽史上の巨人こそ、クラウディオ・モンテヴェルディであった。そして時代の流れに合わせて、モンテヴェルディのオペラ作品もギリシャ神話を題材にした<オルフェオ>から、生身の人間のドラマを描いた<ポッペアの戴冠>まで、順次変貌を遂げていった。今回はその中の歌劇<オルフェオ>を巡って、少し語ってみたいと思う。先に告白しておくと、私はこの歌劇の始まりの音楽に関して、ある種の勘違いをしていたのだった。

まず、冒頭の華麗なるファンファーレ(=トランペットによるトッカータ)。お恥ずかしい話だが、ミシェル・コルボの旧録音CDでこの作品の全曲を初めて耳にした時、私は出だしのファンファーレにすっかり感激してしまって、「これだよ!これが華々しきバロック時代の幕開きを象徴する音楽だよー!史上初のイタリア・オペラの序曲として、まさにぴったり」と一人で舞い上がってしまったのだった。しかし、随分後になってアルノンクールの映像盤を解説付きで観たときに、思いがけない事を教えられて、およよ・・と赤面してしまったのである。このファンファーレは歌劇<オルフェオ>の序曲ではなく、作曲家のパトロンであったゴンツァーガ家のテーマ音楽、即ちゴンツァーガの「音による家紋」だったというのである。あくまで、その名家に雇われた専門のトランペッターが歌劇上演の前に、「この上演の提供は、皆様のゴンツァーガで~す」と音で知らせていたものであり、歌劇そのものとは関係ないというのである。アルノンクールに言わせれば、このテーマを序曲として演奏するのは間違いなのだそうだ。ガーン!そうだったの?

そのファンファーレに続く寂しげなリトルネッロも、無邪気な私はコルボのCDを聴いた時に、「ああ、オルフェオの悲しみか何かを象徴しているのかな」なんて勝手に物語性を与えていたのだが、これもアルノンクールによると、「リトルネッロはそこが人間達のすむ世界、田園の風景であることを示すだけの情景描写であり、感情表現を持ち込むような音楽ではない」というのである。ドヒャー!オルフェオの悲しみとかは全然関係なくて、単なる“音の書き割り”ですって?ガクーッ!・・・という訳である。

それやこれやで、私個人的には複雑な思いがあるものの、アルノンクールの<オルフェオ>映像盤は、「モンテヴェルディのオペラは、現代にも通用する素晴らしい生命力を持っている」と聴き手に強くアピールすることに成功している。勿論、限りなく独創的で雄弁なジャン=ピエール・ポネルの演出に対して、ある種の難癖をつけることは可能であろう。神話世界の住人であるオルフェオを、ポネルはやたら人間臭く描き過ぎている。つまり、ギリシャ古典劇に基づく初期バロック・オペラが持っているはずの格調を、少なからず損ねてしまっている。あるいは、オルフェオを演じるフッテンロッハーが、同氏の演出でフィガロを演じていたヘルマン・プライと双子の兄弟みたいに見えてしまうぞ、・・といった風に。しかし逆に、その人間臭いキャラクター表現ゆえに、<オルフェオ>が永遠のみずみずしさを持っている作品であることを証明している、とも言えるのだ。(※そういった説得力は、アルノンクールのきびきびした指揮ぶりにも備わっている。)とりわけ、オルフェオが「希望」と別れなければならない黄泉の国の場面、そこでのポネル演出は絶品である。死者の渡し守カロンテが怖いぐらいの迫力を持っているし、その後に登場する冥界の主プルートが示す威厳と貫禄も見事。片目眇(すが)めのカロンテに導かれて黄泉の国に入る死者たちの姿など、ホラー映画並みの不気味さだ。そういった闇の世界がしっかりと描かれているからこそ、リトルネッロで導かれる「生きた人間の世界」が一層美しく楽しく、愛おしいものに見えるのである。

そう言えば先頃、ホルディ・サヴァールの指揮によるこのモンテヴェルディの歌劇<オルフェオ>全曲公演の映像を視聴した時に、「あれっ」と思ったことがある。サヴァールは例の「ゴンツァーガ家のファンファーレ」を弦楽合奏で続けて、歌劇の「序曲」として演奏しているではないか!う~ん、アルノンクールによる上述の指摘は1970年代に行なわれていたものだが、サヴァール氏はどんな見解をお持ちなのだろうか・・。

まあ、それはさておき、サヴァールの上演には残念ながら、私は感動しないどころか退屈してしまったのであった。最大の理由は、オルフェオを演じる歌手の魅力のなさ。風貌に華がないのは、まあ目をつぶるとして、テナーだかバリトンだかわからない魅力のない声、それに歌唱も全然心に響かない。オルフェオが黄泉の国へ入る頃にはもう、こちらは眠くなっていた。カロンテばかりでなく、聴いているお客まで眠らせてどうすんのって。全体に管弦楽パートの出来は悪くないと思ったが、この作品で主役歌手がめり込んでいるのは致命的。渡し守カロンテの存在感も、ポネル演出を知っている者にとっては何とも貧弱に見えてしまう。良かったところと言えば、第1幕で見られる牧人とニンファの踊りが、よくまとまったきれいなコール・ド・バレエ(=群舞)に仕上がっていたことぐらいか。その場面でのポネル演出は、サーカスのアクロバットみたいに俗っぽく見えていたから。

最後に太陽神アポロが登場するところは、ギリシャ古典劇に由来するデウス・エクス・マキナの仕掛けを使っていた。太陽の馬車をデザインした大掛かりな乗り物に乗って、アポロが舞台の天井から降りてくるのである。「これは、オーソドックスだなあ」と、その演出自体は悪しからず受け止めたのだが、アポロを歌う歌手にまた魅力がなくて困ってしまう。オルフェオは、汗だくになった暑苦しいオヤジにしか見えないし。結局、視聴し終えて、「あーあ、つまんなかった」の一言が出てしまう結果に終わったのは、何とも残念であった。オペラは、(指揮者も勿論、大事だけど)やっぱり歌手の魅力が大きな要素を占めるなあと、改めて思い至った次第。

(PS)

モンテヴェルディの歌劇<オルフェオ>が、事実上バロック時代の扉を開いた記念碑的作品であるというのは、概ね間違ってはいない言い方だと思うが、現在譜面らしきものが残っている最古のオペラ作品と言われるのは、ヤコポ・ペーリの<エウリディーチェ>である。私はこの作品の復活蘇演の模様を随分昔、FMで聴いたことがある。演奏自体は率直に言って二流の下、と言わざるを得ないものだったが、伝説的なペーリ作品を音として聴けた体験には忘れ難いものがある。曲について言えば、これはモンテヴェルディのような堂々たる歌劇作品にはなっておらず、「ルネサンス期の知識人層(いわゆるカメラータたち)が試みたモノディ様式(=古典ギリシャ劇を朗誦して再現しようという試み)が、どんなものであったかを偲ばせる貴重な作品」という印象を受けた。
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ホフヌング音楽祭

2005年05月13日 | エトセトラ
その昔、イギリスにジェラード・ホフヌングなる人物がおられた。クラシック音楽分野の風刺漫画家として、かなり名を馳せたお方であったそうな。そのホフヌング氏が、「真面目くさったクラシック音楽をパロディでしゃれのめす、漫画みたいな音楽祭をやってみよう」と思い立ったところから、話が始まる。そして、作曲家マルコム・アーノルドをはじめ、多くの有志が彼のアイデアに賛同して集まり、前代未聞の爆笑音楽祭が実現したのであった。1956、58、61年の三回にわたって行われたこの傑作企画は、大変有り難いことにしっかりとライヴ録音されていて、今日でもCDで楽しむ事が出来る。今回はその爆笑音楽祭の中から、とりわけ傑出した出し物をいくつか、ご紹介してみたいと思う。

まず1956年の第1回公演からは、<コンチェルト・ポポラーレ(=有名協奏曲)>を挙げておきたい。タイトルの通り、有名な協奏曲を題材にしたパロディである。チャイコフスキーの<ピアノ協奏曲第1番>の壮大な前奏に続いて、ピアノ独奏が何とグリーグを弾き始める。戸惑った指揮者とオケが、どっちつかずの困りまくった伴奏を奏で始めて会場の爆笑をよぶ。それから後も両者は全くかみ合わず、変てこな音楽が続く。途中に出てくるラフマニノフの<第2番>がガーシュウィンと混じってスウィングしちゃったり、いきなりアディンセルの<ワルソー・コンチェルト>が飛び込んできたり、ついにはピアノもオケもほとんどヤケクソになって、それぞれ勝手にエンディングへと突っ走る。

1958年の第2回公演は、最高に充実している。国内盤LPが出たときには、『ベッドタイム・ヘンシ~ン』みたいな邦訳を付けられていた<ベッドタイムの主題による変容>がまず傑作。ボン・ヴィータという名の怪しげな商品のCMなのだが、これをバッハ風、モーツァルト風、ヴェルディ風、ストラヴィンスキー風・・といった感じで、音楽をつけて宣伝する。で、これが実によく出来ている。それぞれの作曲家の個性をうまく真似しているのだ。特にシェーンベルク風の十二音で歌われる(?)CMソングには、私も本当に笑ってしまった。

続いては、『脱くるみ割りこんぺい糖』とかつて邦訳されていた、<シュガー・プラム>。今でこそ古楽器も立派に市民権を得ていて、それこそ演奏の主流にさえなっている程の位置を占めているが、この当時はまだ物珍しく、「大昔の楽器だから、情けない音しか出ない」みたいにイメージされていた。その古楽器で、チャイコフスキーの<1812年>の一部や、<交響曲第4番>のフィナーレの一部等をやったわけである。ピーピロピロ、ポコポコ、トテチンと鳴る古楽器によるチャイコフスキーの情けなさは強烈である。今の感覚では考えられない事だが、当時はこういうものだったのだ。

しかし、ホフヌング音楽祭のために書かれたパロディ作品の中でも群を抜く最高傑作は、<オペラを偽造しよう~『ホフヌング物語』>である。まずこのタイトル、<Let's fake an opera>自体がブリテンの歌劇<Let's make an opera>のパロディ。副題の『ホフヌング物語』は勿論、オッフェンバックの歌劇<ホフマン物語>のパロディである。音楽もよく書かれているが、ストーリーも凄い。有名なオペラの登場人物たちが、オリジナルからは考えられないようなめちゃくちゃな性格を与えられて、ドタバタ劇を披露する。よく練り込まれた音楽の見事さについては聴いて頂いてのお楽しみということで、ここでは大雑把な話の流れだけをご紹介しておきたい。

架空の街ニュレンベルクのたばこ工場から、みんなのアイドル、カルメンならぬアズチェーナが出てきて、そこにベックメッサーが言い寄る。次いで、白鳥に乗った騎士オテロが登場。そこへサロメが「ファウストのワルツ」に乗って、七枚のヴェールを脱ぎながらオテロを誘惑しにかかるのだが、出てきた素顔は<フィデリオ>のレオノーレ。彼女がルチアの狂乱を演じた直後、三輪車に乗ったブリュンヒルデが、「私を支えてくれる男が欲しい」と歌いながら登場する。メリザンドを口説こうとするベックメッサーとドン・ジョヴァンニの歌合戦が始まると、マンリーコとナディールも参戦してくる。やがて、スカルピアのテーマに乗って登場したエスカミリオが宣言をする。「歌合戦の勝者に、我が娘ブリュンヒルデをゆだねよう。その勝者とは・・ラダメスなり」。そして、アイーダ凱旋行進曲とマイスタージンガーの合唱が交錯して盛り上がった後、夜警が登場。その夜警の角笛で、静かに幕が下りる・・と思いきや、最後にまた大ボケをかましてくれるのだ。オペラ・ファンにとっては、夢(というより悪夢?)のような20分39秒。―という訳で、当音楽祭の数ある演目の中でも、これがピカ一の傑作。

ところが、その翌年1959年に、立役者のホフヌング氏は急逝してしまう。先述のマルコム・アーノルドらが、「もう一度だけ、やりましょう」と、半ばホフヌング氏への追悼企画みたいにして行なわれたのが、1961年の最後の公演であった。ただ正直に申し上げて、この61年の催しにはパッとしたものがない。<レオノーレ第4番>はただの悪ふざけにしか聞こえず、ドラキュラやフランケンシュタインといった有名なホラー映画のキャラを集めたオラトリオ、<ホラートリオ>も、作品の出来栄えからするとアイデア倒れの感が強い。歌劇<ダルムシュタットの理髪師>ハイライトが、ちょっとだけ笑わせてくれる。ダルムシュタットという場所が20世紀音楽のメッカ、というか聖地みたいになっていたのは、特に現代音楽のファンの方ならよくご存知のことと思われるが、そこの理髪師は20世紀音楽の流儀で歌うというわけである。で、何が笑えるかと言えば、そのオペラの上演がわずか3分で終わるということだ。

デジタル録音の時代になって、このホフヌング音楽祭のアイデアを改めて実現した企画もCD化されたが、本家本元はこちらである。アメリカのスパイク・ジョーンズみたいな下品なギャグではなく、知的なユーモアで、ひねりが加わっているのが魅力。EMIから出ている二枚組CD(モノラル&ステレオ混在/CMS 7 63302 2)が、現在も入手可能なようである。

(次回予告)

ホフヌング(Hoffnung)という名前は、ドイツ語では「希望」を意味する単語らしい。その希望というキャラクターが登場するオペラとして、モンテヴェルディの歌劇<オルフェオ>が即座に思い浮かぶ。亡き妻に会いたくて、希望と一緒に黄泉の国へ下りてゆくオルフェオも、いよいよその入り口(※日本流に言えば、三途の川の岸辺)に来たところで、希望と別れねばならない。次回は、このモンテヴェルディの歌劇<オルフェオ>を巡って、少し語ってみたいと思う。
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