クラシック音楽オデュッセイア

2009年の大病以来、月1回程度の更新ペース。クラシックに限らず、身の回りの事なども、気の向くままに書いております。

歌劇<イオランタ>

2006年02月27日 | 作品を語る
前回語った歌劇<三王の恋>の主役であったアルキバルドは、全幕通して盲目の人物だった。一方、かつてこのブログでも語ったことのあるエディプス王(※2005年10月19、23、27日の記事)は、物語の最後に盲目となった。(その点では、サン=サーンスの歌劇<サムソンとデリラ>のサムソンも、ほぼ同様。)そこで今回は、物語の間中ずっと盲目だった主人公が最後には目が見えるようになる、というそんなオペラ作品を採り上げてみたいと思う。チャイコフスキーが書いた最後のオペラ、<イオランタ>(1892年初演)である。

このオペラは、あの有名なバレエ<くるみ割り人形>との二本立て上演をするために書かれたものだそうだ。今では考えられないことだが、当時はそんな贅沢な二本立てをやっていたらしいのである。アンデルセンの童話をもとにしたヘンリク・ヘルツの戯曲『ルネ王の娘』が題材になっているとのこと。しかし、日本にもファンの多いチャイコフスキーの作品ということで、歌劇<イオランタ>についても、いろいろと語っているサイトがすでに複数存在する。内容がそれらと一部重複するかも知れないが、当ブログでは簡単なあらすじの紹介をしてから、これまでに聴いて知っている3種類の全曲演奏についてのコメントを書くという形にしてみたいと思う。

―歌劇<イオランタ>のあらすじ

プロヴァンスを統治するレネ王の娘イオランタは、生まれた時から盲目だった。しかし王は、彼女にその不幸な事実を知らせたくなかった。そこで、彼は人里離れた荒野に特別な庭園を作らせ、娘に盲目という事実を覚らせないようにと乳母や侍女たちに命じ、大事に育てさせた。しかし、年頃になったイオランタは、自分に何かが欠けていることをうすうす感じており、「みんなによくしてもらっているのに、私からは何もしてあげられないのかしら」と、心に悩みを抱いている。

レネ王は、娘が結婚する前にその目を治してやりたいと、名医エブン=ハキアを連れてくる。医師は彼女を診察した後、「治る可能性は、あります。しかしまず、本人が盲目であるという事実を自覚し、見えるようになりたいと強く願わなければ、何も始まりません」と、王に告げる。王は考え悩むが結局、不幸な事実はやはり娘には知られないようにしておきたいという結論に達する。

一方、幼少時にイオランタの婚約者と決められていたブルゴーニュ公ロベルトには、今は他に好きな女性がいる。王様の命令だから仕方ないと思いつつも、本当に好きな相手のことは忘れられない。そのロベルトと、彼の友人である騎士ヴォデモンが山越えの途中で道に迷い、そうとは知らず、イオランタの住む庭園にたどり着く。ヴォデモンは、横になって休んでいるイオランタを見て一目惚れ。激しい恋心を燃やす。やがて、目を覚ましたイオランタと会話を始めるのだが、そこで彼はこの美しい娘が盲目であることを知る。

ヴォデモンが言う「赤い色」、「見る」、「光」といったような言葉の意味が全く理解できず、イオランタは激しく動揺する。しかし、その一方で、彼の言葉に強く惹かれる気持ちも芽生えて来るのだった。やがて、レネ王が医師エブン=ハキアを連れ、イオランタのもとへやって来る。ところが、どこの馬の骨とも知れぬ若造が娘と接触していて、それもあろうことか、彼女に盲目であることを気付かせてしまったという事実を知って、王は驚き嘆く。医師は、「これは救済ですよ」と、王に告げる。イオランタは最初、「父上のお望みならば、私は治療を受けますわ」と幾分引いたような態度を示す。しかし医師は、それではいけないと言う。王は、名案があると医師に囁いたのち、いきなり騎士ヴォデモンに死刑を宣告する。「警告の立て札を見た上でここに侵入して来たのだから、当然だ。娘の目が治らなかったら、お前は極刑だ」。

ヴォデモンに心惹かれ、「見る」ということを知りたいイオランタは、自らの意志で治療を受けることを申し出る。そして、医師とともに上の階に上って行く。王はその後ヴォデモンに、「君はもう自由だ。さっきの話は、見えるようになりたいという気持ちに娘をさせるための芝居だったのだ。もう行ってよい」と告げる。しかし、心からイオランタに惹かれているヴォデモンは、彼女と結婚したいと王に伝える。王は、「もう娘には、幼い頃から決まった許婚(いいなずけ)がおるのだ」と答える。

そこへ、ヴォデモンの友人(であると同時に、イオランタの結婚相手に指定されていた)ロベルトが登場。レネ王に、「王のご命令ならイオランタ様を妻といたしますが、実は私には、伯爵令嬢のマチルダという、愛する女性がおります」と正直に申告する。その真っ直ぐな態度に感じ入った王は婚約の話を見直すことにし、「イオランタの目が治ったら、君に委ねよう」と、騎士ヴォデモンに向かって言う。騎士は、「彼女の目が治っても治らなくても、私の愛情に変わりはないです」と力強く王に答える。

やがて、医師エブン=ハキアに手を引かれながら、イオランタが目隠しをした状態で階段を下りてくる。明るい青空の下で、医師が目隠しを取る。目に飛び込んでくる光の洪水に、イオランタは圧倒されてよろめき、恐怖心さえ訴える。しかし、医師に励まされて彼女は空を見上げ、その光の美しさを生まれて初めて実感する。その後、顔に触れて父親を確認し、さらに自分に光と愛をもたらしてくれた騎士ヴォデモンの姿をその目で確認して、イオランタは大きな幸福に包まれる。最後は、神への感謝を歌い上げる全員の喜びの合唱で全曲の終了となる。

―という訳で、この歌劇には悪人が一人も出てこない。お話もまさにハッピー・エンドの、おとぎの世界。医師のエブン=ハキアに至っては、「どうやって、イオランタの目を治したんですかあ?」と訊いてみたくなるような、魔法使いみたいな存在だ。いかにも、バレエ<くるみ割り人形>との同時上演によく似合う作品だったと言えるだろう。一つ厳しい見方をすれば、自分の娘を隔離して育て、盲目という事実に気づかせないようにしたレネ王の行為は、結果的には彼女を抑圧することになっていたかも知れない。が、少なくともそれは悪意による所業ではなかったし、最後は医師の前で過ちを認めたのだから、この王を悪人とまでは言えないだろう。

次回は、歌劇<イオランタ>の聴き比べ。採り上げるのは僅か3種の全曲盤だけだが、トピック一回分の内容は十分にあるので、そのような運びにしたいと思う。
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歌劇<三王の恋>

2006年02月22日 | 作品を語る
前回まで語った歌劇<イスの王様>からの連想で、今回は、イタロ・モンテメッツィ(1875~1952)の歌劇<三王の恋>を採り上げてみたい。このオペラはヴェリズモ風のおどろおどろしい響きを基本にしつつも、そこにワグナー的な半音階や印象派的な音響をも取り込んで、非常に重厚で壮麗な音楽が鳴り渡る作品である。言わば、“イタリア・オペラの壮麗なる夕映えの姿”を示しているような傑作だ。ただし、その濃厚な音楽に比してストーリーの方はかなりシンプルなもので、全曲の演奏時間も約1時間40分ほどである。

―歌劇<三王の恋>の人物素描

北イタリアのアルトゥーラ国を征服したアルキバルドは、今や高齢となり、視力も失っている。しかし、盲目であることを補うように、他の感覚が極めて鋭敏になっている。彼が王位を譲った最愛の息子であるマンフレードは、いつ終わるとも知れぬ反徒たちとの戦いに、ほとんど休む間もなく出掛けている。

そのマンフレードの妻であるフィオーラは、アルトゥーラ国から征服王への和平の証(あかし)として差し出された女性である。(※<イスの王様>に出てきたマルガレードと、よく似た境遇。)彼女はもともと、アルトゥーラ国の王子であったアヴィートと愛し合っていたのだが、アルキバルドの征服によってその仲を引き裂かれ、心ならずもマンフレードの妻になっている。そんな事情があるので、好きでもない夫の留守中に、彼女はアヴィートとの密会をずっと続けているわけである。

老王アルキバルドにはフラミニオという護衛がいるが、この男も実はアルトゥーラ国の人間で、祖国のために働きたいと内心では思っている。だから、面と向かって老王に刃向かったりはしないものの、自分たちの王子であったアヴィートを助ける方向で陰ながら活躍する。

―歌劇<三王の恋>のあらすじ

〔 第1幕 〕 アルキバルドの城の大広間。夜。

アルキバルドと、護衛のフラミニオ。息子が今日こそは戦から帰って来るんじゃないかと、眠れない老王は城の広間に出て待っている。しかし、その気配はなさそうだと感じると、彼はまた部屋に戻ることにする。入れ替わりにフィオーラとアヴィートが登場。アルキバルドの部屋に通じるドアが閉まっていることを確かめてから、二人はお互いの想いを語り合う。

しかし突然、アルキバルドがフィオーラを呼びながら出て来る。アヴィートは、素早く姿を消す。アルキバルドはフィオーラに、「今、お前は誰と話しておったのだ」と詰問するが、彼女は、「独り言ですわ」と知らぬふりをする。しかし、盲目の老人はその鋭敏な感覚で、何かを察知している。問い詰められて冷や汗状態のフィオーラだが、そこへフラミニオが知らせを持ってやって来る。「マンフレード様が、お帰りです」。

〔 第2幕 〕

妻が一向に心を開いてくれないことに悩むマンフレード。彼は次の戦にまた、出かけて行かなくてはならない。「せめてもの慰めに、城壁からヴェールを振って見送ってくれ」とマンフレードはフィオーラに切々と訴える。心動かされた彼女は、きっとそうすると約束する。その後フィオーラが一人になると、アヴィートが再び彼女のもとに現れる。「この人とはもう、終わりにしよう」と一度は考えたフィオーラだったが、もともと愛し合っていた相手からの情熱的な愛のアタックに、彼女が抵抗しきれるはずはなかった。二人の熱い愛の歌。

しかし、そこへまた、アルキバルドがやって来る。フラミニオの無言の指示を見てアヴィートは黙って姿を消すが、その気配からはっきりと、息子の妻が不貞をはたらいていることを確信した老王は、厳しく彼女に詰め寄る。どうしても口を割ろうとしないフィオーラの態度に逆上したアルキバルドはついに、彼女の首に手をかけて締め殺してしまう。その後マンフレードがいったん城に戻ってくるが、そこで、「フィオーラは、わしが殺した。他の男と密通しておったのだ」と、老王は息子に伝える。激しい衝撃と絶望感に襲われるマンフレード。

〔 第3幕 〕

フィオーラの死を嘆く合唱が響く。遺体安置所に傷心のアヴィートがやって来て、彼女の亡骸(なきがら)に接吻する。すると突然彼は苦しみだして、その場にうずくまってしまう。そこにマンフレードが現れ、「父上がフィオーラの密通相手を突き止めるために、その遺体の唇に毒を塗っておいたのだ」と、死にゆくアヴィートに伝える。しかしマンフレードは、妻と愛し合っていたというこの男にとどめを刺すことまでは出来なかった。

ほどなくして、そこへアルキバルドがやって来る。成果あり、と老王は、「ついにつかまえたぞ!この盗人め」と瀕死の男を引っつかむが、そこで彼が耳にしたのは最愛の息子の臨終のうめき声だった。「ち・・違います、父上」。深い絶望の底にあったマンフレードは、アヴィートの死後、自ら進んでフィオーラの唇に接吻していたのである。全曲を締めくくるのは、愕然とする老人の悲痛な叫び。「マンフレード!マンフレード!ではお前までが、わしとともに救いもなく闇の中におるというのか」。

―歌劇<三王の恋>の全曲録音

イタリア・オペラの壮麗なる残照とでも言うべきこの名作には、ネット通販のカタログ上で現在数種類の全曲盤が見つかる。私が持っているのは、ネッロ・サンティの指揮による1976年のRCA・スタジオ録音盤。これが一般的には、お勧めの名盤ではないかと思う。

サンティ盤に出演している歌手達の中ではまず、老王アルキバルドを歌うチェーザレ・シエピ(B)が見事だ。声の点で言えば盛りをとっくに過ぎていて、第1幕のアリアなどではさすがに高音が細くなる。しかし、第2幕後半、フィオーラを締め殺して息子にそれを伝えるあたりの展開はもう、迫力と貫禄の名唱である。それともう一人、アヴィート役のプラシド・ドミンゴ(T)も素晴らしい。この当時がまさに、声の全盛期。ヴェリズモの轟然たる響きを引き継いだこのオペラのサウンドに、その暑苦しい(?)声がとてもよく似合う(笑)。指揮者のサンティも、見事な棒を披露。普段はオペラと疎遠なイギリスのコンサート・オーケストラから、実に豊麗なイタリア・オペラの音を引き出している。ちなみに、ここでのオーケストラはロンドン交響楽団である。録音も優秀。ただ、マンフレード役のパブロ・エルヴィーラ(Bar)とフィオーラ役のアンナ・モッフォ(S)の二人については、残念ながら、不満が感じられた。

―歌劇<三王の恋>という邦題について

最後に、このオペラの日本語タイトルに対するちょっとした引っ掛かりについて、一点だけ。1913年に初演されたというモンテメッツィの代表的歌劇 L’Amore dei Tre Re が、いつ頃日本に紹介され、そして<三王の恋>という邦題が付けられたのかは詳(つまび)らかでないのだが、当作品のタイトルはむしろ<三王の愛>と訳した方が、今の日本語の語感としてはもっと相応しいんじゃないかという気がしている。昔ならともかく、現代の日本語でいう「恋」というのは、ちょっとニュアンスが違ってきているように思えるからである。
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歌劇<イスの王様>(2)

2006年02月18日 | 作品を語る
皆様、再びこんにちは。イスの国の王女マルガレードです。臨時ニュースが入ってちょっと中断しちゃったけど、この間からの続きね。歌劇<イスの王様>のクライマックス、第3幕に入るわ。その第1場は、イスの王宮の回廊ってことで、よろしくっ。

開幕早々からいきなり賑々しい音楽が聞こえてくるのは第1幕と同じなんだけど、今度のは、あたしの妹ローゼンの結婚を祝う合唱なのよね。お相手?そりゃ、ミリオ様よ!あぁ、悔しいっ。(\ _ /;)ブルターニュ風の曲っていうことで、どこか軽妙な感じの、ピッポコ、ピッポコした音楽が聴けるわよ。初めて聴いたら、ちょっと笑っちゃう人が出て来るかも。でも、楽しい結婚祝いの歌。ミリオ様まですっかりその曲にハマっちゃって、おんなじノリで喜びを歌い出すんだけど、途中から魅惑的なメロディが出てきて、ローゼンと結ばれる心からの幸せを歌うのよね。はぁ~っ。(/ _ \)

その婚礼の行列が礼拝堂に向かった後が、ヒロインであるあたしの出番よ。お待たせしました。寂しい気持ちでいるあたしのところへ、あのおぞましいカルナックがやって来るの。で、「おい、約束を実行しろ!水門まで案内せい」って、あたしに迫るのよ。ホント、しつこい男!勿論、あたしは拒否したわ。守護聖人サン・コランタン様にも、ひどく叱られちゃったしね。だから、アイツに言ってやったの。「私、そんな大罪を犯したくありませんから」って。そしたらアイツ、「お前の好きな男は、今別の女の前で頭(こうべ)を垂れているぞ。幸せそのものって様子だぜ」なんて言って、あたしの心をかきむしるの。それも執拗に。でね、その悪魔の言葉に嫉妬心を煽られて、あたし、ついに一線を越えちゃったの。このおぞましい男に、水門の場所を教えちゃった・・。やっぱり、これってまずかったかしら・・・。(- _ -;)

続いて、何も知らずに幸せなミリオ様とローゼンの、「愛の二重唱」が始まるわ。美しい曲よ、くやしいけど。で、そのミリオ様と入れ替わりに、お父様がローゼンのところに来てつぶやくの。「わしのもう一人の娘が心配だ」って。ローゼンもそれに同調して歌い出すんだけど、ここで聴かれる木管と弦のメロディが、ちょっとビゼー風な感じで素敵。でもやがて、イスの町が大変なことになっているって騒ぎが伝わってくるの。あたし、いても立ってもいられなくなって、お父様たちの前に出て、「みんな、逃げて」って叫んだわ。するとそこへ、ミリオ様が駆けつけて来て言うの。「あのカルナックめが、水門を開けたんだ。しかし、あいつは今、私が殺してきた」って。音楽も緊迫感を煽るわよ、ここ。

第2場。イスの国で一番高い丘の上。お父様はじめ、生き残ったイスの人々が集まっているところ。「わしが治める町は無くなってしまった。民の半分が、海に呑まれて死んでしまった・・」なんて、お父様がつらそうに叫ぶの。やっぱり、あたし、いけないことしちゃったかしら・・。(- _ -)それからもどんどん水かさが増してきて、あたし達がいる丘にまで迫ってきたわ。そこであたし、決意したのよ。立ち上がって叫んだの。そこからのやり取りが、カッコいいんだから!まあ、読んでみてよ。

マルガレード : 神の意思によって、水が溢れているのです。生け贄が捧げられれば、海は鎮まります。
イスの王 : その生け贄になるべき者は、誰だ?
マルガレード : この私です。
イスの王 : 何と、お前が?一体、何の罪を犯したというのだ?
マルガレード : 私は、あの極悪人の共犯者なのです。この荒れ狂う海は、私がもたらしたのです。
イスの民衆 : 卑劣な女!この女に、死を!死を!

でね、「神様、汚れなき民をお救い下さい。この罪深い魂を、お許し下さい」って叫んで、あたしは海に身を投げるのよ。するとその場所から、聖人サン・コランタン様が再びお出ましになって、海を鎮めるの。そして、人々の「サン・コランタンに栄光を!全能の神に栄光を」という力強い合唱で、全曲の終了というわけ。

どう?このラストの展開。ベッリーニさんちのノルマみたいにカッコよく衝撃の告白をして、プッチーニさんとこのトスカみたいに大見得切って、身を投げる。やっぱり、あたしがこのオペラの主人公!でしょ?ホホホホホ。(^0^)

え?・・・はい・・はい。分かりました。今ブログ主さんがね、付け加えておけって言うから、最後にこのオペラの全曲CDのお話をちょっとだけね。ブログ主さんが聴いたのは、アンドレ・クリュイタンスの指揮による1957年のEMI盤。ローゼンの役を歌っているのは、ジャニーヌ・ミショー。当時のフランスの代表的なリリック・ソプラノだった人だけど、今の感覚で聴くと、声も歌もどこかもったりして古めかしい感じね。でも、ローゼンのトロくさいキャラにはよく合っているわ。(^w^)お相手となるミリオ様の役は、リリック・テナーのアンリ・ルゲー。同じクリュイタンスが指揮したビゼーの歌劇<真珠採り>全曲(EMI)でのナディールが、思いがけない名唱だったわね。あと、モントゥー先生が指揮したマスネの歌劇<マノン>全曲(EMI)でのデ・グリュウ役もこのルゲーさんだったけど、そちらもなかなかの出来だったわ。

で、このあたし、マルガレード役を歌っているのはリタ・ゴール。往年の名メゾよ。ここでも、立派。あたしがこのオペラの事実上の主役であることを、しっかりと実証して下さっているわ。この人の他の録音では、ジョルジュ・プレートルの指揮によるサン=サーンスの歌劇<サムソンとデリラ>全曲(EMI)でのデリラ役が多分、最高ね。指揮者も燃えているし。特に「バッカナール」が凄い演奏よね、あれ。あと、ブログ主さんはまだ聴けていないらしいんだけど、クナッパーツブッシュの《ニーベルングの指環》1958年バイロイト・ライヴに、このゴールさんも参加しているみたい。ヴォータンの妻フリッカの役ですって。う~ん、似合いそう!これを聴いた人の言葉によると、この録音で聴けるゴールさんの歌はとてもいいものだそうよ。(※ブログ主さんは、クナ先生の’56年と’57年の《指環》セットは持っているらしいんだけど、「’58年盤は、どうするかなあ」ですって。)

あら、もう枠がいっぱい。じゃ最後に、次回予告ね。歌劇<イスの王様>は、タイトル役の王様がむしろ脇役だったんだけど、次回は逆に、存在感ありまくりの王様が主役になっているシリアスなオペラのご紹介。でね、そのオペラには、あたしとはまた違った形で、意に沿わない政治的な結婚の犠牲になった女性が出て来るの。じゃ、あたしはこれで・・。

何よ、あたし忙しいのよ!これから神様のお裁きを受けに行かなきゃならないんだから。次回からまた、いつものブログ主さんがいつもの調子で書きますけど、よろしくね。では皆様、ごきげんよう!
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伊福部昭先生の訃報

2006年02月10日 | エトセトラ
歌劇<イスの王様>のお話がまだ途中なのだが、今回は臨時投稿である。一昨日の2月8日(水)午後10時23分に、伊福部昭先生が永眠なさったそうだ。嗚呼、とうとうこの時が来てしまったか、という感じである。享年91との由。大往生と言ってよろしいかと思う。

振り返ってみると、一昨年(2004年)の10月末にこのブログを立ち上げて以来、時代の一翼を担った名演奏家たちの訃報にずいぶん触れることとなった。テバルディ、ロス・アンヘレス、ジュリーニ、カプッチッリ、そして当ブログの記事としては書かなかったが、つい先頃他界が報じられたビルギット・ニルソン、等等・・・。それらのニュースはいつも、幾ばくかの衝撃とある種の寂寥感を、私の心にもたらしたものだった。伊福部先生の訃報もまたその例外ではないのだが、しかし、その一方で、「そうだね、もういつその時が来てもおかしくはなかったよね」という何か納得感と言えるようなものも、今回強く感じたのである。これは単に、年齢的なことだけを言っているのではない。また、先生を過去の人として突き放すような、冷たい気持ちで言っているのでもない。

「伊福部先生は見事に、人生を全(まっと)うなさった方だったなあ」と今、つくづく思うのである。これは、「見事に人生の目的を達成なさった」と言い換えてもいい。その深い感慨が、ある種の納得感を私の心の中に呼び起こすのだ。「ゴジラの音楽でおなじみの伊福部昭氏が死去」などという記事の文言を目にすると、クラシック音楽の分野から先生を見ているファンにとっては些か心外なものを感じなくもないのだが、そのように書かれることはある意味、作曲家としてとても幸せなことではないかという気もまたするのである。「あの有名な○○の音楽でおなじみの・・」と言ってもらえるほどのヒット作を持つことは、決して容易ではないからだ。それに、よくよく考えてみれば、私だって怪獣映画の音楽から伊福部先生の世界にはまり込んでいった一人だったのである。

思い返せば子供の頃、近所の幼なじみたちと親子連れ立って映画館なるものに行き、生まれて初めて大スクリーンで観た映画が、あの『大魔神』(1966年)だった。これは当時の大映映画が、『ガメラ対バルゴン』との二本立て上映という形で公開したものである。その『大魔神』の音楽が、他ならぬ伊福部先生の作曲によるものだった。(※尤も、そのことを知ったのはずっと後になってからのことだが。)それに続いて、東宝の『サンダ対ガイラ』を観に連れて行ってもらった。私にとっては、これこそ怪獣映画の最高傑作だが、この映画で聴かれる音楽もまた伊福部先生のものであった。それから毎年、「学校が長い休みに入るたびに必ず、怪獣映画を観に行く」というパターンに入っていったのである。昭和40年代前半の、遠く懐かしい思い出だ。

だから、伊福部先生の音楽はもう他とはまるで別格の、ある特別な体験として私にしみ付いているのである。さすがに、今のこの歳になると、当時の『ゴジラ対○○』みたいな映画を観ても何だか馬鹿馬鹿しくてしらけてしまうばかりなのだが、そこで鳴っている伊福部先生の音楽は違う。今聴いても、わくわくする。これは決して、子供時代への郷愁から来るものばかりではない。その音楽自体に、今でも胸が弾むのである。それだけの魅力があるのだ。だから、第3番まで書き上げられた<SF交響ファンタジー>は、私にとっておそらく一生涯、愛惜措くあたわざる名曲であり続けることと思う。その第1番の出だしがゴジラのテーマであることは、周知の通り。それに続いて、様々な映画で使われた伊福部音楽の題材が、綺羅星のごとく散りばめられて出て来るのである。

そのゴジラの音楽も含めて、若い頃から最晩年に至るまで、伊福部先生の音楽はほとんど変わらなかった。ある時期から急に軽やかでポップな作風に変わり、・・などということは決してなかった。とことん、独自の作風を貫いた。私がかつて読んだ本の中で、先生が次のようなことを言っておられたのを覚えている。「徹底的にローカルであることが、普遍的な物につながるのです」。粘りのある土俗的なサウンド、執拗なオスティナート、雄大なスケール、目まぐるしく変転するリズム、これらは伊福部音楽を語る際によく用いられる言葉だが、そのような独特の音楽語法を終始貫いた先生の、その裏打ちとなっていたのはおそらくその信念だったのだろう。

さらに一つ付け加えて言うなら、伊福部先生は、「自分は何が言いたいのか、そして、それをどのように言ったらよいのか」について、ご自身なりの答えを若い頃にもうほとんど獲得しておられたのではないかという気が、私にはしている。出世作となった<日本狂詩曲>からすでに、先生ならではの独自のスタイルが堂々と確立されているからだ。そして、その後も、クラシック音楽分野、映画音楽分野の両面にわたって、いわゆる「伊福部節」と呼ばれる作風の傑作が次々と書かれていったわけである。御歳90を超えるまで長生きされ、たゆまず創作を続けてこられたのだから、自らの語法で言いたいことはすべて言い尽くしたというところまでほぼ到達できたのではないだろうか。つまり、作曲家として自らの人生を全う出来た(あるいは、その目的を達成できた)ということである。どうも私には、そんな気がするのである。

また、その一方で、優秀なお弟子さんたちが伊福部先生のもとで大きく育った。その点でも先生は、自らの人生に課せられた目的を見事に達成しておられたように思う。日本の作曲界という狭い世界の話ではあるものの、その枠の中で先生は大変立派な成果を挙げられたと言ってよいだろう。門下のお弟子さんたちとしては芥川也寸志、黛敏郎、石井眞木といった人たちの名がとりわけ馴染み深いものだが、この人たちが日本のクラシック音楽文化にどれほど貢献したかということを考えてみれば、おのずと伊福部先生の存在の大きさも窺い知れるのである。

今頃先生は、天国の先輩となるそのお弟子さんたちに囲まれて、暖かい歓迎を受けておられるところだろうか。かつてサントリー・ホールのロビーで幸運にも目にすることの出来た、あの時の光景のように・・・。(Cf.当ブログ 2005年4月23日の記事 ~井上道義の<シンフォニア・タプカーラ>の項。)
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歌劇<イスの王様>(1)

2006年02月06日 | 作品を語る
皆様、こんにちは。今回の作品はいつものブログ主さんに代わりまして、私マルガレードがご案内致します。え?お前は誰だって? オペラのヒロインよ、ヒロイン。知らないの?エドゥアール・ラロ先生の代表作、歌劇<イスの王様>の主人公なのよ!まいったか。エッヘン。(-Λ-)タイトルになっている「イスの王様」は、私の父。つまり私は、国王の娘。それも長女。えらいでしょ。え?あたしがいつ、このオペラの主人公になったのかって?今よ、今。ここのブログ主さんがそうだと認めたんだから、それでいいの!

じゃ、始めるわね。演奏会などで独立して採り上げられることもある有名な序曲に続いて、まず第1幕。イスの国の人々が、開幕早々から賑々しい合唱を始めるわ。あたしの婚約を祝ってね。この合唱は聴き物なんだから。いかにも、あの<スペイン交響曲>でお馴染みのラロ先生らしい色彩感とリズムでね。楽器の使い方に特徴があるわよね、ラロ先生って。でもお話のポイントを先に言っとくけど、これは愛のない結婚。一種の政略結婚みたいなものね。国王である父が、敵国との宥和のためにあたしをダシにしたのよ。カルナックっていう身の毛もよだつような敵国の男と、あたしは結婚させられるところなわけ。だから今思いっ切り、気分が沈んでいるの。分かるでしょ? (;_;)

あたしが心の中で想っている相手は、イスの国の名戦士ミリオ様。リリコ・テノールの声で、優男(やさおとこ)って感じなんだけど、実はとっても強いのよ。でも彼は戦(いくさ)に出征してから消息が途絶えていて、みんなで心配しているところなの。で、あたしにはローゼンという妹がいるんだけど、この子があたしとは対照的に、とってもおしとやかでね。って言うか、鈍いのよ、はっきり言っちゃうけどさ。このローゼンときたら、よりにもよって、あたしのミリオ様と相思相愛!あたしが意に沿わぬ結婚で沈んでいるところへやって来て、何を言うかと思ったら、「お姉さまは、ミリオ様と一緒に行った男性のことを愛していらっしゃるのね」だって。違うって!あたしが好きなのは、ミリオ様その人です!トロいわねぇ。ーー;)

それでさ、あたしが結婚式場へ導かれたあとにミリオ様が登場して、ローゼンと愛のデュエットを始めるのよね。で、すっかり舞い上がったローゼンが式場へやって来て、「ミリオ様が無事にお帰りになったわ、キャッ」なんて言うの。あたし、もう悔しくて、悔しくて。だからイスの人々とお父様が見ている前で、カルナックに、「あたしは、アンタなんかと結婚しないわ」って、思いっきり拒絶してやったわ。勿論、大騒ぎ。カルナックは怒りまくるし、お父様は愕然とするし・・。「この屈辱は、お前たちとの戦争ではらしてやる」って叫ぶカルナックと、それを受けて立つあたしのミリオ様とのやり合いがあって、第1幕終了。どう?あたしがこのオペラの主人公だってこと、分かってきまして?フッフッフ。(-v-) 

続いて、第2幕ね。その第1場は、王宮の広間。ここっていきなり、あたしの聴かせどころ。戦争の開始を告げるトランペットを背景にして、立派なアリアを歌うわよ。内容?勿論、愛しいミリオ様への熱~い想い。でも、彼はローゼンを愛している。だから、歌がだんだんと嫉妬の表現に変わってくるの。あたしの声はメゾ・ソプラノなんだけど、その嫉妬心を歌う後半部分が特にいいわよ~。その後、お父様、つまりイスの王様とローゼン、それにミリオ様が登場してのアンサンブルになるの。三人の会話を隠れて聞いていたら、そこでお父様ったら、「お前が見事勝利を収めて帰って来たら、我が娘ローゼンはお前のものだ」なんて、ミリオ様に言うのよ。で、ローゼンもミリオ様も、「やったーっ」なんて。あたし、もう悔しくて、悔しくて。でね、ミリオ様が出発した後、ローゼンの前に出て、あたし言ってやったの。「ミリオがこのまま、戦いに負けて帰らなければいいのよ」ってね。ここでようやく、あのトロくさい妹が気付くのよ、あたしが心に想っていた相手がミリオ様だってことに。で、珍しく彼女ったら激昂してね、激しいアリアを歌い出すんだけど、やっぱり根っからリリックな子なのね。途中から、「私も、ミリオ様を愛するようになったのです」なんて、優しく哀願するような歌に変わるの。これが男に受けるカワイコ・キャラなのね、きっと。でも、そのカワイコぶりを見てあたし、さらに逆上しちゃってさ、「呪ってやる」って捨てゼリフを吐いて立ち去ったわけよ。どう、やっぱりあたしの方が素敵なキャラでしょ?フッフッフ。(-v-)

第2場も、あたしが主役。でも、ちょっと待って。けたたましく勇壮な前奏が平原に響くところから始まるんだけど、場面はもう戦争終了後。結果は勿論、われらがイスの戦士ミリオ様の勝利!(当然でしょ。)で、イスの国の守護聖人であるサン・コランタン様の礼拝堂へ皆で連れ立って行って、勝利の報告とお祈りをするところなのよ。でね、その一方で、あのカルナックが、しきりにうめいているわけ。「もうお終いだ。敗北だ。畜生」なんて。声ばっかり勇壮なバリトンで、情けない男!あたしさ、あいつのところへ行ったの。何のためにかって?決まってるじゃない。妹に向けた「呪ってやる」っていうあたし自身の言葉を、実行するためによ。

イスの国ってね、海抜よりも低いところにあるの。だから海の水から国土を守るために大きな水門を作ってあるんだけど、その秘密の場所をカルナックに教えてあげちゃおうって考えたのよ。後は分かるでしょ?ホホホホホ。(-w-)でも、その途中で信じられないことが起こるのよねぇ・・・。彫像が動き出すの!ちょっと、あたし、ドン・ジョヴァンニじゃないんですけど。そして、守護聖人サン・コランタン様が本当にお出ましになっちゃうのよ、これが。そんなの、アリ?(@_@;)で、オルガンのジュワァーッって音と、オーケストラ・トゥッティのドッコーンって音を背景にして、あたしたち二人の行動を厳しく諌(いさ)めるのね。さらに天の声なんて合唱が、「悔い改めなさい」なんて歌い出すものだから、あたし本当に怖くなっちゃって、「お許し下さい」って叫んだわ。で、この計画は急遽中止ってことになったわけ。

あら、もう、一回分のページ枠がいっぱいになりそう。これではとても、ラスト・シーンまでのお話は無理ね。じゃ、この続きの第3幕は次回ということで。勿論、あたしが引き続きご案内致しますわ。何よ、決まってるじゃない。あたしがヒロインなのよ、ヒロイン。そこんとこ、忘れないでね。つんっ!(-Λ-)
コメント (3)
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