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クラシック音楽オデュッセイア

2025年正月、ついに年賀状が1通も来なくなった“世捨て人”のブログ。クラシック音楽の他、日々のよしなし事をつれづれに。

チャイコフスキーの<雪娘>

2006年11月17日 | 作品を語る
前回語ったR=コルサコフの歌劇<雪娘>からのつながりで、今回はチャイコフスキーの<雪娘>。

―チャイコフスキーの劇付随音楽<雪娘>Op12

初演後長く埋もれることとなったチャイコフスキーの<雪娘>だが、今はナクソス・レーベルの廉価CD等で聴けるようになった。この隠れ名品は、以下の通り、全20曲のナンバーで構成されている

1序奏  2鳥たちの踊りと合唱  3厳寒マロースのモノローグ  4謝肉祭を送る合唱  5メロドラマ 6間奏曲  7羊飼いレーリの第1の歌  8同じく第2の歌  9間奏曲  10盲目のグースリ弾きたちの合唱  11メロドラマ  12民衆と宮廷人たちの合唱  13ホヴォロード(=群舞)  14スコモローフたちの踊り  15羊飼いレーリの第3の歌  16ブルシーラの歌  17森の精の登場と雪娘の幻影  18春の精の朗読  19ベレンデイ皇帝の行進と合唱  20フィナーレ

第1曲『序奏』や第2曲『鳥たちの踊りと合唱』から早速チャイコフスキーらしい世界が始まるが、続く第3曲『厳寒マロースのモノローグ』にふと気が留まる。R=コルサコフのオペラに出て来るマロース翁は、いかにも、という感じで太い声のバス歌手が歌う役であるのに対し、チャイコフスキー作品ではテノールの独唱だ。冬の凍てつく光景を愛するマロース翁の趣味が、分かりやすい民謡調で歌われる。

続く第4曲『謝肉祭送りの合唱』も、典型的なロシア民謡スタイル。テノール独唱の音頭取りに続いて、コーラスが歌い継ぐ。抒情的な表情を持つ、とても魅力的な合唱曲だ。ついでに言えば、第10曲『盲目のグースリ弾きたちの合唱』も、テノールが音頭を取って男声合唱がそれを引き継ぐという民謡風のパターン。こちらは、ベレンデイの皇帝を讃える男性的な曲である。どちらも、ロシア民謡のファンなら一発で気に入ること間違いなし。R=コルサコフのオペラでは、華やかな合唱だけでなく、「謝肉祭への別れ」の部分で聖歌旋律『死者を悼む賛歌』が使われたりしているので、ちょっとムソルグスキーのオペラを思わせるような重いムードが一時交錯する。全体にしっとりした風情のチャイコフスキー作品とは、かなり対照的だ。

第7&8曲で聞かれる2つの『レーリの歌』は、R=コルサコフのオペラと同様、低い声の女性歌手が受け持つ。オペラでは第1幕前半、羊飼いレーリが雪娘に聴かせる歌である。第1の歌「茂みの下に育つイチゴ」は孤児の悲しみを歌ったしんみり調、第2の歌「羊飼いの歌で林が揺れる」は可愛い娘が花束を持って駆けていく情景を歌ったうきうき調、といった対比がある。R=コルサコフが書いた『第1の歌』には、あの<皇帝の花嫁>で聴かれたリュバーシャの歌を想起させる雰囲気がある。『第2の歌』はどちらの作曲家も同じような意匠で仕上げているが、私の感触としては、チャイコフスキーの方がより楽しげで親しみやすいようだ。

第9曲『間奏曲』と第11曲『メロドラマ』は、「さあ出ました、チャイコ節」という感じ。<エフゲニ・オネーギン>の一節、レンスキーのアリアで使われている有名な旋律をちょっと想起させるものが、それぞれの冒頭で流れる。どちらの曲も、憂愁にふさぎ込むような甘美な暗さを持ったチャイコフスキーならではの美しい音楽だ。

第13曲『ホヴォロード』は、解説書の英文対訳によると、「少女たちの輪舞」みたいなものらしい。合唱付きの、何とも優しい抒情的な舞曲である。「はるか遠くにライムの木、その下にはテント、その中にはテーブル、そこにいるのは、かわいい女の子」といった内容が歌われる。

次の第14曲『スコモローフたちの踊り』は、R=コルサコフのオペラでも管弦楽曲としての聴きどころになっているが、チャイコフスキーが書いた音楽も非常に楽しい。まさにあの《三大バレエ》の一場面を思わせるような、ダイナミックな舞曲である。具体的には<白鳥の湖>に於ける『ハンガリーの踊り』、あるいは<くるみ割り人形>に於ける『トレパーク』といったあたりをイメージしていただければ、だいたい近いんじゃないかと思う。

第15曲『レーリの第3の歌』は、前回オペラのあらすじで語ったとおり、ベレンデイの皇帝を喜ばせることになるモテモテ羊飼いの歌である。ただ、CDに付いている歌詞ブックを見ながら聴いてみると、各節の最後に必ず付くはずのリフレイン“Lel,Leli,Leli,Lel”が、チャイコフスキーの曲には全く出てこない。どうも意図的にカットされているようだ。「雲が雷に言った。お前は鳴れ、私は雨を降らせる。そして大地を潤して、花を咲かせりゃ」と始まる歌が、ゆったりとしたテンポで8分間ほど続く。このあたりは、陽気なリフレインを鮮やかに活用しながらすっきりと短くまとめたR=コルサコフの曲とは、随分対照的である。

で、実はそのカットされたリフレインに相当するものが、次の第16曲『ブルシーラの歌』で出て来る。ブルシーラというのは、ベレンデイ国の若者の一人だ。原作を見ると、これがなかなか楽しい男で、「ミズギールって奴、よそ者のくせに生意気だよな」とか言いながら、いざ本人の前に出されると、「いえいえ、仲間内の冗談でして」などと卑屈になる。レーリが『第3の歌』を歌って絶賛された直後、「何だい、みんな中でレーリ、レーリって。おい、俺たちの歌と踊りも見せてやろうぜ」と言って彼が相棒のクリールコと始めるのが、この『ブルシーラの歌』というわけである。「黒いビーヴァー、ひと泳ぎ。泥んこまみれになったので、土手に上がって身づくろい。そしたら狩人やって来て」といったような始まりの生き生きした歌で、“Ay Lel Leli Lel”という陽気なフレーズが各節の終わりで繰り返される。ちなみに、R=コルサコフのオペラでこれに相当する箇所は、第3幕冒頭の『ビーヴァーの輪舞と歌』である。そちらはまた合唱付きで、何とも華やか。

(※原作の展開を見ると、この歌と踊りが娘たちに評価されて、ブルシーラとクリールコはこの後それぞれに良いお相手をつかむことになる。ブルシーラはラヅーシカという娘を抱きしめながら、「ああ~、うれしい世の中だなあ」と幸せの一声。この男、何というか、実に愛すべきキャラである。w )

第17曲『森の精の登場と雪娘の幻影』は、前回採りあげたR=コルサコフのオペラで言えば、第3幕の後半に当たる部分だ。レーリがクパヴァを選んだことでショックを受けた雪娘がその場を立ち去り、それをミズギールが追いかける。しかし、マロース翁から依頼を受けていた森の精が、雪娘を守るべくミズギールの行く手をさえぎるという場面である。ここは、R=コルサコフの勝ち。オペラで聴かれる不思議な管弦楽、ごく短い演奏時間ではあるものの、どこかSF的・宇宙的な神秘感を漂わせる音楽には、特別な味わいがある。逆にここでのチャイコフスキーの音楽は、いささかありきたりなものに終わっている。

第18曲『春の精の朗読』は、原作によると、春の精(=雪娘の母親)が雪娘に「愛を知る花の冠」をかぶせる時に語る言葉である。R=コルサコフのオペラでは、第4幕冒頭のシーンで聴かれるものだ。そちらでは、『花の合唱』と呼ばれる部分に当たる。「ユリやバラ、ツメクサやポピー、その他の花々が雪娘に多くの魅力を与え、やがて愛が訪れる」といった内容の歌詞を持つ。R=コルサコフのオペラでは、春の美がまず歌い出してから女声合唱が続くという形だが、劇音楽として書かれたチャイコフスキー作品では女声合唱のみが歌う。管弦楽前奏に見られるR=コルサコフの腕前もさすがだが、合唱のしっとりとした美しさは、チャイコフスキーの方がちょっと上かも・・。

続く第19曲『ベレンデイ皇帝の行進と合唱』では、なかなか力強いマーチが出て来る。R=コルサコフのオペラにも『皇帝の行進』は小さな管弦楽曲としてあるのだが、そちらはマリオネット的な皇帝のキャラを表すような、どこかコミカルなものに仕上がっている。皇帝のイメージが、両作曲家の間で少し違っていたのかも知れない。

最後の第20曲『フィナーレ』は、R=コルサコフのオペラと同じく、最後を締めくくる太陽神ヤリーロへの賛歌である。しかし、音楽の様子は随分違う。全員で激しく、且つ短くドカーンと盛り上がるR=コルサコフの曲とは対照的に、チャイコフスキー作品ではメゾ・ソプラノ独唱が中心となって合唱が一緒に歌うというパターンを採用し、曲想にも落ち着いた感じがある。R=コルサコフのオペラでは、皇帝から乞われたレーリがまず一節歌ってから全員の大合唱になるので、ここでのメゾ・ソプラノもおそらく羊飼いレーリのことであろうと推測される。

―以上で、<雪娘>のお話は終了。次回もう一つだけ、R=コルサコフのオペラ。最後は、ちょっと異色の短編歌劇を。
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歌劇<雪娘>

2006年11月12日 | 作品を語る
R=コルサコフの初期オペラに、<雪娘>(1882年初演)という作品がある。これは、アレクサンドル・オストロフスキー(1823~86)の童話『雪娘-春のおとぎ話』を題材にした歌劇だ。若い頃のR=コルサコフらしく、後年のこってりしたサウンドとは対照的に、しばしば水彩画に例えられるような透明感のある響きを持つところが特徴になっている。しかし童話がもとになっているとはいえ、全曲の上演時間は約3時間15分ほど。相当な長編オペラである。まずは、その物語の概要から・・。

―歌劇<雪娘>のあらすじ

〔 プロローグ 〕

厳寒のマロース翁(B)は太陽神にとっては仇敵となる存在だが、このマロースに春の美(Ms)が惹かれ、15年前に子供をもうけた。それが、雪娘スネグーロチカ(S)である。この出来事は太陽神ヤリーロの機嫌を損ね、ベレンデイ国は長い冬と寒い春が繰り返すような場所になってしまった。

やがて年頃になった娘を太陽神から守ろうと、両親は彼女を人間界に委ねることにする。折しも、人間界では謝肉祭の宴。雪娘は気のよい小作人の前に現れ、養女にしてもらう。

〔 第1幕 〕

ベレンデイ国には、素晴らしい歌で国中の女性をとりこにしている青年がいる。羊飼いのレーリ(A)である。このレーリに心惹かれる雪娘だが、彼女は父ゆずりの血によって恋ができない。金持ちムラシュの娘クパヴァ(S)は雪娘に同情するものの、自分の婚礼の準備に忙しい。そこへ彼女の恋人である行商人ミズギール(Bar)が帰ってくる。しかし彼は雪娘を一目見るやたちまち恋に落ちてしまい、クパヴァから離れていく。絶望するクパヴァを、レーリが慰める。

〔 第2幕 〕

ベレンデイの皇帝(T)は考えている。「失われた太陽神の好意、臣民たちの愛、そして国の自然をどうやって取り戻そうか」。そして彼は、太陽神の祭日を期に、若者たちの合同結婚式を実施しようと決める。

皇帝のもとにやって来たクパヴァが、恋人ミズギールの裏切りを訴える。皇帝はミズギールを呼んで責めるが、彼の心は完全に雪娘のとりこになっている。皇帝から流刑を言い渡された彼は、「言い訳は致しません。雪娘をご覧になったら、きっとご理解いただけるでしょう」と皇帝に答える。やがてそこへ姿を現した雪娘を見て皇帝は、「この娘こそ、太陽神を宥めることの出来る女子(おなご)じゃ」と確信する。そして、国の男たちに、「この娘の心に暖かい愛を呼び起せる者はおるか」と問いかける。ミズギールが立候補する。

〔 第3幕 〕

太陽神ヤリーロ祝祭の前日。人々の賑やかな集まりの場で、若者たちが歌って踊る。さらに、スコモローフ(=放浪の楽師、芸人)たちの華やかな踊りも披露される。それに続く羊飼いレーリの歌に深く感じ入った皇帝が、「誰でも好きな女子を選び、その子から愛の接吻を受けるがよい」と告げると、レーリはクパヴァを選ぶ。ショックを受けた雪娘は、そこから立ち去る。その彼女のもとへミズギールが駆けつけて求愛するが、雪娘は応えられずに逃げる。その後、レーリとクパヴァが逢引している場所に現れた雪娘は、強い嫉妬を覚える。彼女は母親に、「私に愛を教えて」と呼びかける。

〔 第4幕 〕

雪娘の母である春の美が現れ、娘に「愛を知る花の冠」を与える。やがて現れたミズギールの求愛に、雪娘は応える。しかし、母からの注意を聞いて太陽には当たらないようにしたかった雪娘だったが、ミズギールはそれを聞かず、皇帝のもとへと彼女を連れて行く。そして二人が愛の実現を報告したその時、太陽が雪娘の心に暖かく差し込む。彼女は溶けて消滅する。絶望したミズギールは、湖に身を投げてしまう。皇帝は、「これは、15年前に春が雪娘を産んだことに対する太陽神の怒りじゃ。しかし、この二人の犠牲によって、ベレンデイの国にまた太陽がもどってくる」と、皆に告げる。全員による『太陽への賛歌』が力強く歌われて、全曲の終了。

以上、長い話を出来るだけコンパクトにまとめてみたが、その背後にある思想や宗教観、あるいは登場人物達の象徴的な意味等を理解するのは、我々外国人にはかなり難しいように思える。そのためこのオペラは、ロシア国内での人気はともかく、国際的な高評価を得るレベルまでには至っていないようである。

―歌劇<雪娘>のCD

歌劇<雪娘>の全曲盤は、現在数種類が入手可能なようだ。私が持っているのは、若きエフゲニ・スヴェトラーノフの指揮によるボリショイ劇場での1956年・モノラル録音盤。古い録音で指揮にも硬さが感じられるものの、歌手陣は豪華。ただし、本来ならCDがたっぷり3枚は必要なところを2枚にぴっちり収めているので、当然ながら、あちこちにカットがある。

この盤の出演歌手陣は、さすがにボリショイ・オペラ黄金期の録音らしく、かなり豪勢な顔ぶれが揃っている。中でもまず筆頭に挙げるべきは、皇帝役のイワン・コズロフスキーだろう。「おとぎの国で永遠に年老いた姿で生き続ける、叡智の象徴」というこの半神話的キャラクターを、彼はその独特の声と歌い方で見事に表現している。第2幕後半で歌われる『皇帝のカヴァティーナ』など、西欧的な美感とはかなり隔たった独自の世界を生み出す。(※彼と同時代の良きライヴァルだったセルゲイ・レメシェフもこの役を得意にしていたそうだが、両者はおそらく甲乙つけがたいものであったろう。)

クパヴァ役が若き日のガリーナ・ヴィシネフスカヤ、というのも面白い。この録音当時、彼女は、「クルグリコワ以来の名タチヤーナ(=<エフゲニ・オネーギン>のヒロイン)」を演じるようになっていた。ここでの歌唱にも、そのタチヤーナ的な表情が随所に出ていて、何ともほほえましい。第2幕で聴かれる『皇帝とクパヴァの二重唱』でも、コズロフスキーと彼女は絶妙の呼吸を見せる。しかし、「原詩に見られるロシア語の言語リズムを見事に旋律化した」と評されるこの二重唱は、ロシア語の分かる人でないと本当に味わうことは出来ないものだろう。私には残念ながら、不可能である。ガクッ・・。

羊飼いレーリを歌うアルト歌手ラリッサ・アフデイエワ、ミズギール役のバリトン歌手ユーリ・ガルキン、このお2人も好演。厳寒のマロース翁は出番の少ない役だが、アレクセイ・クリフチェーニャが演じていて、さすがの存在感、というか貫禄みたいなものを見せてくれる。この名バス歌手には、当ブログでも今後何回かご登場いただく予定である。ただ、雪娘スネグーロチカを演じるヴェラ・フィルソワの歌唱については、ちょっと私の感覚としては、あまり芳しい評価を出せそうにない。

(※ところで、このオペラには、「プロローグへの導入曲」「鳥たちの踊り」「皇帝の行進」「スコモローフたちの踊り」という4曲から成る小さな組曲版もある。私が持っているのは、エフレム・クルツという人がフィルハーモニア管を振ったEMI盤。この人はあまり高名な指揮者ではないが、ここでは色彩感豊かな表現で、意想外に良い演奏をやってくれている。)

―次回予告。オストロフスキーの童話『雪娘』が1873年にお芝居の演目として舞台にかけられた時、実はチャイコフスキーが劇音楽を書いていた。そちらはR=コルサコフのオペラよりもずっと前に書かれたものだったが、その後長く埋もれることとなった。チャイコフスキーのは劇音楽、R=コルサコフのはオペラ、ということで、この2つを全く同じ俎上に乗せて論じるわけにはいかないのだが、それでもこの両者を比べてみると、いろいろな発見があってなかなか興味深いものがある。―という訳で次回は、チャイコフスキーの劇付随音楽<雪娘>Op12をトピックにして、R=コルサコフのオペラで聴かれる音楽との比較を楽しみながら、この作品の鑑賞をもう少し深めていくことにしたいと思う。
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歌劇<サトコ>(2)

2006年11月01日 | 作品を語る
前回の続き。R=コルサコフの歌劇<サトコ>の残り部分、その終曲までの展開である。

〔 第5場 〕

船出から12年。海は、ベタ凪(なぎ)。他の船は普通に航海しているのに、サトコの船は全然進まない。彼は黄金や宝石を海に流して海王をなだめようとするが、全く効果なし。王が望んでいるのは、人間の生け贄だった。乗組員たちがくじ引きをすると、当たったのはサトコ。「王女ヴォルホヴァが俺を呼んでいる、ってことだな」。彼がグースリを抱えて海に沈むと、船は滑らかに動き出して去って行く。

(※第5場の前奏曲は、第1場のものと同じである。怖いぐらいにどよーんとした海の情景が目に浮かんでくるようだ。歌劇<皇帝サルタンの物語>にも渺茫たる大海原を描いた名曲が出て来るが、R=コルサコフは様々な海の表情を描写する音楽が実に巧い。)

〔 第6場 〕

海の底。宮殿に海王と女王、そして家臣たちがいる。王女ヴォルホヴァは海藻で機(はた)を織っている。そこへ巻貝に乗ってサトコがやって来る。海王は、彼を叱る。「12年も海を使って、その間ワシに全く挨拶せんとは、何たる無礼じゃ」。しかし、王女のとりなしで王は機嫌を取り戻し、サトコに向かって何か歌ってくれと所望する。そして彼の歌が気に入った王は、娘ヴォルホヴァとの結婚を認める。やがて始まる婚礼の宴。サトコの踊りに王や女王も加わって、それは次第にとんでもないドンチャン騒ぎに発展する。その浮かれた大騒ぎは海面に大嵐を巻き起こし、航海中の船を次々と沈め始める。

そこへ突然、昔の戦士の亡霊である老巡礼が出現し、サトコのグースリを手で打つ。全員の激しい踊りが止まる。「海王よ、この帝国もそなたの時代で幕引きだ。海底に去るがよい。王女ヴォルホヴァよ、お前はノヴゴロドを流れる川になるのだ。サトコよ、お前もこんな場所ではなく、ノヴゴロドのために歌うがよい」。海王はおとなしく姿を消す。一方、サトコとヴォルホヴァは、2人揃って海の上まで昇っていく。

(※ここで海王に求められてサトコが歌いだすのは、海底の王国への熱烈な賛歌である。王が気に入ったのも当然というべきか・・。また、サトコを愛する海の王女ヴォルホヴァが彼の歌に声を合わせてくるのだが、これが実に美しい。音楽面に於けるこのオペラの主役は事実上、海の王女であると言ってよいだろう。)

(※続く結婚祝いの場面では、「金のひれと銀のうろこの魚の踊り」というのが披露される。これは舞台映像がほしいところだが、音楽だけを聴いていても楽しめる部分がある。弦のピチカートに乗りながら木管がゆらめくあたり、何とも言えない味がある。)

(※サトコの歌に続く祝宴は次第にとんでもないドンチャン騒ぎになっていくが、ここはR=コルサコフの壮麗な管弦楽法がまさに本領を発揮するところだ。いや、凄いサウンドである。これじゃ海上の船はひとたまりもないだろうなあ、とうなずかせるだけのぶっ飛びパワーがある。w )

(※突然出現して話を腕ずくで解決に持っていってしまう老巡礼は、「いきなり出て来て、あんた誰よ」と思わず訊いてみたくなるようなキャラクターだが、原典となるブィリーナにはもっと説得力のある人物が出て来る。そのあたりについては、次回ちょっと補足してみたいと思う。ここを聴いていて面白いのは、背後に流れる伴奏である。弦が中心ではあるのだが、よく聴くと控えめながらオルガンがピコピコ鳴っている。やはり、このような霊的存在にはオルガンが似合うというイメージがあるのだろうか。)

〔 第7場 〕

イリメニ湖の岸辺に着いて、眠り込んでいるサトコ。王女ヴォルホヴァがその寝顔を眺めながら、美しい子守唄を歌う。その後、彼女は霧のように溶けながら川に姿を変えていき、ノヴゴロドの町から海へと注ぐヴォルホヴァ川になる。それから少し経って目を覚ましたサトコの耳に、懐かしい妻リュバーヴァの声が聞こえてくる。夫婦の再会を喜びあう中で、サトコはそれまでのことを妻に詫びる。やがて、部下たちを乗せたサトコの商船もヴォルホヴァ川を上って、町にたどり着く。サトコはそれまでの体験を、集まった人々に語る。海の王国、そこでの祝宴と嵐、海王を去らせた老巡礼・・・。今やノヴゴロドには、航海を可能にする立派な川が出来た。老巡礼と青い海、そしてヴォルホヴァの川を讃える全員の力強い合唱が響くところで、全曲の終了となる。

(※ここで聴かれる海の王女の子守唄「夢は岸辺をさ迷い歩き」は、名曲中の名曲だ。知名度では前回出てきた「インドの歌」の方が上であろうが、その美しさに於いて、この子守唄はもう別格である。聴いていて、本当にうっとりしてしまう。私が今回参照しているゲルギエフの全曲盤で歌っているのは、ワレンチナ・ツィディポワという人だが、この人の歌は見事だ。名歌手ヴィシネフスカヤのEMI盤《ロシアの名歌曲とアリア集》でも「海の王女の子守唄」を聴くことが出来るが、私の感ずるところ、ツィディポワさんの歌唱の方がずっと感銘深いものである。そしてこの子守唄の後、王女は静かにその姿を川に変えていく。これは舞台上演よりも、映画作品の形で見てみたいなあと思う。きれいな映像になりそうだ。

―以上で、歌劇<サトコ>は終了。次回は、歌劇<サトコ>の原典となっているブィリーナのお話。

(PS) ブログ立ち上げ2周年

昨日10月31日は、当ブログの誕生日であった。これで満2歳になり、3年目に入ったわけである。数日のインターバルを取りながらのゆったり更新ではあるものの、よく現役で続いているなあと思う。とりあえず、ハッピー・バースデイ・トゥ・ミー♪とでも歌っておこうか。のほほほ。

【2019年2月22日 おまけ】

ワレンチナ・ツィディポワが歌う「海の王女の子守唄」~ゲルギエフの指揮による<サトコ>全曲盤より。

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歌劇<サトコ>(1)

2006年10月27日 | 作品を語る
今回と次回は、R=コルサコフの歌劇<サトコ>(1898年)についてのお話。前回まで語った<皇帝の花嫁>とは趣ががらりと変わり、こちらはおとぎ話系の娯楽作品である。この作品には、「7場からなるオペラ・ブィリーナ」という肩書きが付いているのだが、そのブィリーナという言葉については、オペラの話が済んだ後に独立した記事で改めて語ることにしたいと思う。とりあえずここでは、「民謡を起源とし、なかば伝説的な主人公を扱った叙事詩的な物語」というぐらいにお考えいただけたらと思う。ノヴゴロドの商人サトコはそのブィリーナに登場する人物の一人であり、またこのオペラの中でいくつかのブィリーナ歌謡が披露されるところから、「オペラ・ブィリーナ」という呼称がつけられたものと考えられる。

さて歌劇<サトコ>だが、これは上演時間が約2時間50分にも及ぶ長大なオペラである。しかし、それにめげず、これからしっかりとその全曲の流れを追っていきたい。

―歌劇<サトコ>のあらすじと、音楽的特徴

〔 第1場 〕

ノヴゴロドの商人たちが祝宴を楽しんでいる場面。キエフの歌い手ニェジェータ(A)が、グースリの伴奏で故郷の英雄についての物語を歌う。彼への返礼として、ノヴゴロドの歌手サトコ(T)が続いて歌う。しかし、彼が歌いだしたのは、遠い国へ船出して新しい市場を開拓したいという彼自身の野心であった。当時のノヴゴロドには海につながる川がなかったので、そんな旅を考えること自体が無謀なものとされ、サトコは皆から嘲笑を受けることになる。まわり中から総スカンを食ったサトコはしょんぼりとその場を去るが、二人の道化がさらに追い討ちをかけるように、彼をからかって歌う。

(※オペラの開始を告げる序奏から、いきなりR=コルサコフ節だ。下降する三つの音を低弦が繰り返し、ゆったりと波がうねる海の情景を描き始める。そして開幕直後の祝宴風景では、男声合唱による非常に力強い歌が聴かれる。続いて歌われるニェジェータのブィリーナも、よく聴いていると背景の管弦楽伴奏が海の情景を巧みに描き出しているものであることがわかる。)

(※第1場を締めくくるのは、パワフルで華やかな舞曲。ここは一種のディヴェルティスマン効果を持つ場面だが、指揮者にとっても腕の見せ所であろう。)

〔 第2場 〕

夜。月の光に照らされたイリメニ湖のほとりで、サトコがグースリを弾きながらしょんぼり歌っていると、水草が鳴り、水面が波立って白鳥の群れが現れる。やがてその鳥たちは、岸に上がるや美しい娘たちに変身する。彼女らは海王オキアン=モーリェ(B)の娘たちで、その中心に王女ヴォルホヴァ(S)がいる。皆、サトコの歌に聞き惚れて出てきたのだ。美しい王女とサトコは、お互いに惹かれあう。王女は、「あなたに黄金の魚をあげるわ」とサトコに約束する。やがて夜が明けると海王が現れ、娘たちを水底に連れ帰っていく。

(※海の乙女たちの出現シーンは、R=コルサコフの巧みな管弦楽法によってとても美しく書き上げられている。特に、木管やハープの使用が効果的だ。波が揺らいで白鳥たちが現れるところと最後の幕切れシーンでは、あの<ラインの黄金>の開幕で聞かれるライトモチーフによく似た音型が出て来る。サトコと王女の二重唱に女声合唱が重なってくる場面も、非常に夢幻的で良い。)

〔 第3場 〕

明け方。サトコの若い妻リュバーヴァ(Ms)が、家で夫の帰りを待っている。やがて帰宅したサトコに彼女は飛びつくが、彼の方は昨夜の不思議な体験にまだ心が支配されている。妻をまともに相手にせず、サトコは思うところあって再び出掛けて行く。

(※この第3場の終曲もまた、海を思わせる音楽になっている。低弦のうねり、それに加わる金管と打楽器。これは、サトコがやがて向かうことになる未来の情景を暗示しているのかも知れない。)

〔 第4場 〕

人で賑わうイリメニ湖の岸辺。町の人々が外国から来た商人たちを囲んで、様々な異国の品々を眺めて楽しんでいる。ニェジェータが、ノヴゴロドの町を讃えて歌う。サトコがそこへ姿を現し、「皆さん、ご存知ですか?イリメニ湖には黄金の魚がいることを」と人々に話しかける。彼は再び、まわりから嘲笑を浴びる。サトコは、彼らに提案する。「では、このイリメニ湖で黄金の魚が獲れるかどうか、賭けをしてみようじゃないか。俺の首と、あんたたちの全財産を賭けて。どうだい」。町の長老たちと数人の商人たちが、サトコと一緒に湖へやって来る。果たして、王女の約束どおり、彼が投げた網で黄金の魚が3匹も獲れたのだった。サトコは一躍、英雄的存在になる。

賭けの成功によってサトコは裕福な男となり、立派な船で堂々と海へ出て行ける立場になった。彼は外国から来た商人たちに、それぞれの国の様子を尋ねる。ヴァリャーグの商人(B)、インドの商人(T)、ヴェネツィアの商人(Bar)らが次々と、故郷のことを歌って聞かせる。それからサトコはやって来た妻リュバーヴァに別れを告げ、大海原に船出するのだった。

(※市場の賑わいは、混声合唱によって壮麗に歌いだされる。ダッ、ダッ、ダー!と始まる力強い三連音によって、いかにもロシア・オペラらしい雰囲気が生み出されているのが痛快だ。二人の道化も再び登場し、その場を盛り上げる。)

(※ヴァリャーグ商人の歌は、時に「ヴァイキング商人の歌」と訳されることもあるようだ。バス歌手が歌う有名な歌曲の一つである。轟然とうなる弦の前奏は、荒々しい海のうねりを描いたものと考えてよいだろう。)

(※それに続くインド商人の歌は、このオペラの中でおそらく最も有名な曲である。リリック・テナーが歌う「インドの歌」のメロディは、実は昭和40年代初頭前後にしばしばTVのコマーシャル・ソングとして流れていた。商品名は、「明○キンケイ・インドカレー」というのだが、そのCMソングの一節、「明○ キンケイカレ~♪」のメロディこそ、このR=コルサコフの「インドの歌」なのであった。私の場合、これは小学生時代の思い出になるのだが、そのオリジナルとなっているオペラ・アリアを初めて聴いたのは大学生になってからだった。その時は思わず、「おおっ、こ、この歌は」と目を大きく見開いてしまったものである。w ちなみに、背景に流れる伴奏もまた、海を描いたものであることは明らかだ。ヴァリャーグ商人が歌う荒々しい海とは対照的に、オリエンタル・ムード溢れる穏やかな表情の海である。)

―この続き、残りの第5場から第7場の内容については、次回。
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歌劇<皇帝の花嫁>(2)

2006年10月22日 | 作品を語る
前回に続いて、R=コルサコフの歌劇<皇帝の花嫁>の第2回。第2幕後半から、最後の幕切れまでの展開。

〔 第2幕 〕 ~続き

マルファとルイコフ、ソバーキンとドゥニャーシャの4人が幸せそうに舟で家路につく一方、リュバーシャも川沿いの道を早歩きで進んでいた。川原の草をかき分け、かき分け、ひたすら進んでいた。恋敵の家を見つけ、その女がどんな容姿なのかを自分の目で確かめるためである。そしてついにマルファの姿を目にしたリュバーシャは、その美しさにショックを受ける。

それから彼女は医師ボメーリイの家を訪れ、薬を注文したいと申し出る。「酒盃に混ぜて飲ませる毒薬を作ってほしいの。でも、飲んだ人をすぐに殺すような毒じゃない。その人の美しさを衰えさせていく薬よ。少しずつ髪の毛が抜けていき、目がうつろになり、胸がしぼんでいく・・そういう薬、作れる?」。ボメーリイは、「出来るが、値段は高くつく」と答える。「ばれたら、俺が罰せられるんだからな」。そして、かつての宴会の席でリュバーシャを見そめていた彼は、薬を作る代償として彼女の愛を求める。「何様のつもりよ」と最初は拒否したリュバーシャだったが、近くの家から漏れ聞こえてくるマルファたちの楽しげな声を耳にして、ついにその決意を実行に移す。

(※この劇的な場面で、リュバーシャは短いアリアを歌う。「グリゴーリ、あの人はあなたを愛してはいないわ」。悪役という設定にはなっているが、ここで聴かれる苦悩のアリアからも察せられる通り、R=コルサコフはリュバーシャに深い同情を示していたようだ。実際彼女もまた、薄幸の人生を生きねばならない可哀想な女性であったのだ。)

(※医師ボメーリイに体を預ける直前につぶやくリュバーシャのセリフは、恐ろしくも哀しい。「きれいな人、悪く思わないでね。あなたの美しさは、私が買ったわ。高い代償を払ってね。高い代償・・・私の操」。この一連の展開の後、酔った親衛隊員たちが勇ましく歌いながら行進する映像を背景にして、彼女がグリャズノイの屋敷でこっそりと薬の袋を入れ替える場面が映し出される。)

〔 第3幕 〕 介添人

第3幕も映画版ではかなりの短縮と編集が施されているが、話の本筋はしっかりと押さえられている。「スラーヴァ(=栄光あれ)」の皇帝賛歌でこの第3幕が始まると、映画ではイワン雷帝が一列に並べられた花嫁候補たちを眺めて歩く場面が短く紹介される。それに続く舞台は、ソバーキンの家。そこにいるのはソバーキンとグリャズノイ、そしてルイコフの3人である。ルイコフは早くマルファとの結婚式を挙げたいと願うが、ソバーキンは、皇帝のお妃候補の12人に自分の娘マルファも含まれていることを心配している。グリャズノイは例の媚薬をマルファに飲ませるために、婚礼の時には自分が介添人をやりたいと申し出る。

(※ここでも映画版は、ルイコフのアリアをカットしているようだ。楽曲解説書によると、「皇帝はドゥニャーシャを気に入ったらしい」という話を聞いて、元気を取り戻した彼が喜びのアリアを歌い出す場面があるらしいのだ。しかし、この映画にそのシーンはない。どうもこの映画版、収録時間の都合があるとはいえ、清廉の人イワン・ルイコフをやたら冷遇している。確かに、彼の歌がカットされても話の流れに影響はないが・・。)

グリャズノイは祝杯を準備しながら、マルファが飲む方の杯にこっそりと薬を混ぜる。やがてマルファやドゥニャーシャたちの一行が帰ってきて、結婚祝いの席となる。何も知らずに、グリャズノイに手渡された酒盃を飲むマルファ。ルイコフとマルファが婚礼の喜びをかみしめていると、突然皇帝の使者として親衛隊員マリュータが馬でやって来る。「ソバーキンの娘マルファが、皇帝の花嫁に選ばれた」。

〔 第4幕 〕 花嫁

皇帝の宮殿。皇妃となったマルファは、以来ずっと体の様子がおかしくなっている。ソバーキンたちが、つらそうに彼女の容態を見ている。そこへグリャズノイがやって来て、マルファに信じられないような恐ろしい報告をする。「皇妃さまに毒を盛ったという男が、白状しました。その男の名はイワン・ルイコフです。皇帝はルイコフの処刑を命じました。そしてその命に従って、私が彼を殺しました」。マルファは激しい衝撃を受け、失神する。

その後しばらくして目を覚ました彼女は、完全に正気をなくしていた。目の前にいるグリャズノイを大好きなイワン・ルイコフと思い込んで、マルファはうれしそうに語りかける。「ねえ、イワン。私ね、悪い夢を見ていたの。あなたが処刑されたんですって。でも、生きていたのね。よかった」。グリャズノイは、「こんな風になるはずはない。ボメーリイめ、でたらめな薬を作りやがったな」と怒るが、狂ったマルファの様子を見ているうちに自分の行為が恐ろしくなってくる。そしてついに彼は、それまで自分がしてきたことをそこに居合わせた者全員の前で告白する。「俺はマルファに恋焦がれ、何とか自分のものにしたいと思った。だから医者に媚薬を作らせて、それを飲ませたんだ。それが、こんなことになるなんて・・」。

(※目を覚ましたマルファが痛々しくも美しい歌を歌い始めるところから、俗に「マルファのシェーナとアリア」と呼ばれる有名な狂乱の場となる。映画版ではまさに、映画ならではの映像演出が効果を発揮している。狂ってしまったマルファが微笑みながら宮殿の扉を一つ開けると、きらきらと光を反射する美しい水面が広がるのだ。そして彼女が幸せそうな表情でその水を手に掬う場面は、まことに哀切を極める。「ねえ、イワン、青空がいっぱいに広がって、天幕のようね。・・・空高くに雲の冠。あんな冠を私たちも被りたいわ。それは、明日ね」。)

「インチキな薬を作りやがって」とグリャズノイがボメーリイに襲いかかろうとしたところへ、リュバーシャが現れる。「私をお忘れのようね。マルファに毒を盛ったのは、この私よ!ねえグリゴーリ、あなたが注文した媚薬って高かったでしょうね。私が作ってもらった薬は安かったわ。でも、その安物の薬には特別な効き目があってね、飲んだ人がだんだんと衰えていくのよ。それをあなたの薬と入れ替えておいたの!・・・さあ、早く刺しなさいよ。私を殺しなさいったら」。

逆上したグリャズノイはリュバーシャのもとへ駆け寄るや、彼女の胸に短剣を突き刺す。「ありがとう。ひと思いにやってくれて・・」と力なくつぶやき、リュバーシャは息絶える。逮捕されたグリャズノイは、うつろな目をしたマルファに向かって激しい勢いで謝罪する。「けがれなき不幸な人よ、許してくれ。すべて、この俺のせいだ。俺はイワン雷帝に申し出る。俺を処刑してくれと。それも、地獄へ行っても見られないような残忍な方法でやってくれと」。グリャズノイが引き立てられて去った後、マルファは虚空をぼんやりと見つめながら、「愛しいイワン、また明日も来てね」とつぶやく。人々の苦悶の声が宮殿内に響くところで、全曲の終了。

―次回も、R=コルサコフのオペラ。
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