クラシック音楽オデュッセイア

2009年の大病以来、月1回程度の更新ペース。クラシックに限らず、身の回りの事なども、気の向くままに書いております。

レナータ・テバルディの訃報

2004年12月21日 | 演奏(家)を語る
昨日12月20日(月)の朝刊で、レナータ・テバルディの訃報にふれた。享年82とのこと。

今でこそ珍しいオペラ作品にも目を向けるようになっている私だが、始めからこんな状況だったわけではなく、やはり有名作品から聴き始めたのは多くの方々と全く同じである。その名作オペラの魅力を私に教えてくれたのが、主にロンドン・レーベルを中心として行なわれたこのテバルディの名録音の数々であった。と言っても、正確にはテバルディが中心的なお目当てという例はむしろ少数で、デル・モナコやバスティアニーニ、あるいはシエピといった男性の名歌手たちを聴きたくて選んでいたら、テバルディさんがたいてい共演していた、という方が私の場合は正直なところかもしれない。しかし、こんな言い方をすると誤解を招きかねないので、もう少し言葉を補う必要があるだろう。

1950~60年代に戦後のイタリア・オペラの黄金時代があったというのは、多くのファンが共通して抱いている実感ではないかと思うのだが、まさにその一翼を担っていた名歌手がテバルディであったわけだし、彼女が参加した多くの名作オペラの名盤は当然ながら、彼女の力によって作られたと言ってもいい要素がたくさんあるのだ。実際これほどの人になると、名演の記録と一言で言っても、NHKの招聘による来日公演も含めて相当な数にのぼるわけで、とてもここで語りきれる規模のものではない。私が耳にしてきたものだけに限っても、一体いくつあるものかと、ちょっと途方にくれてしまう程である。

そこで今回の記事としては、具体的な録音や演奏への評論めいた話は最後にごく軽く付け添えるにとどめ、本質的に私にとってテバルディとはどういう歌手だったのか、ということを重点にして語ってみたいと思う。

端的に言えば、私にとってのテバルディは、「数々の名作オペラを、無類の安心感を与えながら聴かせてくれた名ソプラノ歌手」ということになる。この「安心感を与えながら」という部分が、私の感じる限り彼女の最大の価値と美徳であった。そしてここで言う「安心感」には二つの意味がある。まず、彼女の歌唱は常に高いレベルで安定していたので、殆どハズレがないという意味での安心感。そしてもう一つは、彼女の歌唱はたとえ激しい表情を見せる場面であっても、あくまで妥当な音楽的表現として安心して鑑賞できる範囲内のものであったということである。その二つの意味で、彼女は無類の安心感を与えてくれた人だったのだ。

そんな風に言うと、じゃあ安心感を与えない名歌手っているの?と質問されそうだが、その答えは「いる」である。マリア・カラスだ。まずはっきり言ってしまうが、私はあのギリシャ出身の大歌手の声がとにかく嫌いである。あれはもう虫唾が走るような悪声と申し上げておきたい。このカラスについても私は数多くの録音に触れてきているが、特に1955年のスカラ座ライヴ、若きジュリーニが指揮したヴェルディの<ラ・トラヴィアータ>での、あの「花から花へ」で聞かされた高音にはもう、吐き気さえ感じたのであった。これは極端な例であるが、カラスの録音についてはどれであっても、その声が聞こえて来ただけで私は眉をしかめて渋面になり、時には片手で胃を押さえながら聴くことになるのである。(※私がベッリーニのオペラに今ひとつ疎いのは、この人のディスクばかりが名盤として出回っているから、というのが大きな理由の一つである。ベッリーニの美しい旋律を、わざわざあのうざったい声で聴きたいとは思わないのだ。)

テバルディがそんな不快感を与えることは、少なくとも私の場合は皆無に等しい。勿論長いキャリアの中には不調のことだってあったろうし、いつもにこにこベスト・コンディションであったわけはないのだが、概ね彼女の美しい声と優れた歌唱は高いレベルで安定していて、どの録音であってもたいてい安心して聴いていられるのである。この安心感こそが、彼女の大きな魅力だと私には感じられるのである。

しかし一方で、だからこそテバルディはカラスほどの偉大な業績を残せなかったのだ、という見方もまた成り立つことを付け加えておく必要がある。カラスの歌は聴く者に安心感を与えるというよりはむしろ逆に、深く激しく抉りこんだ凄絶な歌唱表現とその演技によって聴く者をゆさぶり、圧倒するのである。その悪声も手伝って、およそきれい事でない、尋常でない音のドラマが現出し、とにかく聴き手を安心させない。ここに、テバルディとカラスがそれぞれに持つ正反対の価値が存在すると、私は感じている。私生活上の派手な話題性も加わって、カラスが死後もずっと伝説的な存在としてオペラ史に特別な位置を占め続け、オペラをろくに聴きもしない“ド素人”までがTVのドキュメンタリーか何かを見て盲目的に崇拝しているような状況であるのに対し、テバルディの方は今やオペラ・ファンの一部にしか知られていないという事実は、一つには安心感を与えずに人を揺さぶった歌手と、安心感を与えてくれて揺さぶりには来なかった歌手の違いが反映されているのではないかとも思えるのだ。

話が長くなるので、区切りをつけようと思う。テバルディの歌唱芸術が記録された多くの録音の中から、無茶な試みであると承知しつつ、ここでは未聴のものも含めて三つだけ選んで簡単に語っておきたい。

まずは、チレアの歌劇<アドリアーナ・ルクヴルール>全曲(L)。カプアーナのスケール感豊かな名指揮に乗って繰り広げられる、シミオナートとの火花散るような競演が聴き物だ。そこにデル・モナコの輝かしい声が加わって、美しく激しく音楽が高揚していく。これがおそらくテバルディの主演による代表的な名演であると言っていいだろう。これでミショネがバスティアニーニだったらなあ、と思ったりもしてしまうが・・。(※熱心なファンのために補足しておくと、バスティアニーニがミショネを演じたものは、違うメンバーとのライヴ盤が存在する。)

続いては、セラフィンの指揮によるプッチーニの歌劇<ラ・ボエーム>全曲(L)。テバルディを始めとする豪華な歌手陣がそれぞれに素晴らしいが、それ以上にセラフィンの指揮が最高で、劇場空間を思わせる豊かな音響の中に溢れ出さんばかりの歌が満ち満ちている。録音も良い。ミミ役は後にミレッラ・フレーニが素晴らしい歌唱を聴かせてくれる時代が来るが、テバルディのもやはり一時代を画した名唱であった。(※この役をカラスで、などと私は死んでも思わない。)

最後に、実は私自身がまだ聴けていないライヴの記録なのだが、大変に注目される録音として、ガヴァッツェーニの指揮によるプッチーニの<トスカ>全曲のCDに触れておきたい。注目される点は、主に二つある。一つは、彼女が得意としていたトスカがライヴの記録で聴けるという点。NHKの招聘によるイタリア歌劇公演の中で、彼女が<アンドレア・シェニエ>のマッダレーナ役でデル・モナコと共演した時に、スタジオ盤とは別人のような叫び声をはりあげるシーンがあった。「今の悲鳴、誰?えっ、テバルディさん?まさか・・」と随分びっくりさせられたものである。が、これなどはほんの一例で、ライヴの彼女はスタジオ録音でよく聴かれる“良家のお嬢様”っぽいスタイリッシュな歌とはずいぶん違う激しい表現を見せていたというのは、結構よく知られた事実ではないかと思う。その彼女のライヴのトスカである。聴いてみたい。

もう一つの注目点は、スカルピアをバスティアニーニが演じていることである。数種遺された彼女の<トスカ>の中でこの盤に注目したい最大の理由は、実はここにある。イタリア・オペラ戦後の黄金期に最高のスカルピアを聴かせてくれたのは、ゴッビよりもむしろバスティアニーニの方ではなかったか、と私は感じているのである。もっともその理由まで語り始めると話が横道にそれ過ぎるので、その話はまた別の機会に譲りたいと思う。未聴ゆえ、録音年代に由来する音質の問題も含めて、これが名盤なのかどうかはまだ判断はつきかねるのだが、現在は入手困難なこのCD、いつか復活してほしいものだ。

テバルディさん、たくさんの名演を遺してくれて有難う。あなたのおかげで、多くの名作歌劇の魅力を心から味わうことができました。どうぞ、安らかに・・。

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10 コメント

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今更ですが... (ばると)
2011-08-16 21:32:45
はじめて投稿させていただきます。
なぜ今更この古い記事に反応したかと申しますと、私はテバルディのファンで(彼女の欠点の数々、特にトリルすらまともに処理できない技巧上の不器用さなどは十分承知の上で)、年々加速するカラス崇拝に日頃から慨嘆していたところ、たまたまグーグル検索でこの記事を見つけ、わが意を得たり、という思いがしたからです。世界的なカラス崇拝の波、さらにそういうものに影響されやすく、かつそもそも強力なカラス支持の地盤のあるこの国で、主様ほどはっきりとカラスの悪声の気色悪さを明確に表明する勇気をもったブログ主様に出会ったのは初めてだったので、感激のあまりつい投稿してしまったのです。
いかに表現力や超絶技巧に優れていても、それだけがその歌手が絶対的に第一人者だと決める要素ではないはずですが、カラスの場合、もう完全に神格化されてしまっております。あまりオペラに詳しくない入門者の方々が、カラスべったりの批評家(特にサイテーなのはユルゲン・ケスティング。著書「マリア・カラス」の中で、公平・高尚を装いつつ、テバルディはもちろん酷評。さらに、ミラノフ、カバリエなど他のソプラノ多数、カラスと「事件」のあったコッソット、男性ではまさに主様ご支持で私も好きな、デル・モナコやバスティアニーニの悪口を書いています)やカラスの歌以外の要素(繰り返し映画化されるようなドラマチックな人生)に幻惑されて「オペラ歌手でソプラノといえばカラスが一番に決まっている」とあっさり判断なさる例に私は実際に出くわしたことがあるのです。
長くなりますので切り上げなくては。もうご存じと思いますが、最後に挙げて下さっている「トスカ」のライブ盤はMytoレーベルから発売されているようです。私はテバルディのファンなので、ライブでもより声の状態のよい録音年代の古いものを買い集めておりましたから、これは持っておりませんでした。幸い米Amazonで売っておりましたので早速注文いたしました。バスティアニー二のスカルピア、楽しみです。反テバルディ、親カラスだったゴッビ。スカルピアとしては適役だとは思いますが、彼のばかり聴かされるのには食傷しておりましたので...
他の記事も追々拝見させていただきたいと思います。特に私はクラシックの中でもオペラを中心に聴いておりますので、オペラの記事は興味津津です。
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連投失礼致します (ばると)
2011-08-17 21:39:56
その後、ひととおり(タイトルだけの部分も多いですが)ブログを読ませていただきまして、ブログ主様が大変な状況と戦っていらっしゃることを知りました。どうぞ、くれぐれもお体をお大事になさって下さいませ。

また、「ミトロプロスの『トスカ』...」を読ませていただきまして、既にMytoのライブ盤をお聞きになったことを知りました。今更間抜けたことを書いてしまいましたこと、お許し下さい。

ミトロプロス盤は現在入手が難しいようです。
指揮のファブリティースがトロくさくていまいちですが、1954年のリオでのライブ(テバルディ、ステファノにタディのスカルピア)が結構熱くて好きです。テバルディもステファノも「bis」をもらって、それぞれ「歌に生き、恋に生き」と「星は光りぬ」を2回歌っています。テバルディは後年のようにフラットせずに高音を歌えています。でも、タディがスカルピアにしては優しすぎ、ベストなトリオとは言えないですが。とにかく、カラスのスタジオ盤は持っていても手が伸びません。もっぱらテバルディのライブを楽しんでおります。彼女の「Muori!」の連呼、オーヴァーアクトという方もいらっしゃいますが、声でとどめをさしているようなあの迫力、私は好きです。

それにしても、一通り拝見させていただいて、結構珍しいオペラも買いそろえている私でも「これは持ってない...」というのが沢山。しかも、買ってあっても後回しにして聴いていないものが多い...主様のレベルの高さに愕然としました。

連投の上、長文失礼いたしました。
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三連投、申し訳ございません。 (ばると)
2011-08-20 22:18:38
すっかり『トスカ』の話になってしまいますが、ガヴァッツェーニの1958年録音(Myto)盤、入手し、バスティアニー二のスカルピアを聴くことができました!確かに「苦み走った二枚目のワル」でした。朗々たる見事な声で、俊敏で強健な悪党に聞こえます。このスカルピアを倒すのは大変だな...と。ゴッビはゴッビで見事ですが、(彼のは「陰湿で変態的な初老の男」に聞こえます)やはり声色での演出に頼っているように思います。声量は足りないと思います。

さて、前の投稿で1954年のファブリティース指揮の録音(レーベル:WALHALL)にふれて、タッディが「優しすぎる」と書いてしまいましたが、改めて聞いてみたら、彼も結構凶暴に歌っていました(汗)。ただ、二幕の「私のささやかな夕食が中断されてしまった」のあたりの歌い方が一瞬、ブッフォの歌手のように聞こえてしまうので、私の中で「タッディはスカルピアらしくない」という印象がいつの間にか膨らんでしまったようです。この盤は1954年なのでテバルディとステファノは絶好調ですが、録音状態がひどいので、テバルディかステファノの大ファンの方にしかお薦めしません。

私の持っているテバルディの『トスカ』は上記2点と、(3)1959年のガヴァッツェーニのスカラ座ライブ、(4)最近Ica Classicsから出た1955年のコヴェント・ガーデンでのライヴ、(これはタリアヴィーニのカヴァラドッシが渋すぎると思います)そして(5)1959年のモリナーリ=プラデッリ指揮のスタジオ録音ですが、一番残念賞なのがスタジオ録音。きれいな音で聞きたいならこれ、なのですが、テバルディがやっぱりおとなしくおさまり過ぎだし、デル・モナコはすごく強そうなイメージがあって、拷問なんかはじきとばしそうだし、一番困るのがジョージ・ロンドンのイタリア語があやしいスカルピア。5つの盤、どれにも問題があって(MYTOのはいいのですが、テバルディとステファノが昔と比べるとちょっと...です)ベストのを選ぶのは難しいです。

またしても長文、失礼致しました。

なお、ブログ主様のご健康状態を考えたら今更私のようなものが現れてきて、過去のオペラの記事に関していちいち長文のコメントを残すのもどうなんだろう、と悩んでおります。ブログ主様には読み捨てにしていただいても結構ですが、変な書き込みはウザい、とお思いのようでしたら直ちにやめてROM専になりますので、ご都合のよろしい時に、一言ご意向をお知らせ下さいましたら幸いです。
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ばると様 (当ブログ主)
2011-08-30 21:28:33
ホットなコメントを、どうも有り難うございます。
この欄では小さすぎるので、新しいエントリーでレスさせていただくことにしました。
2回に分けての投稿になりますが、宜しくお願いいたします。
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レナータ・テバルディについて (はっさん)
2018-12-17 03:59:18
 マリア・カラスの神格化が止まることを知りません。
あの歌手がそんなにたいした歌手だったのか?」

 誰かがそれにブレーキをかけなければ。
彼女の声をろくに聴きもしないものが大方の記事を鵜呑みにして「カラスは素晴らしい」とのたまう。

 わたしはテバルディの声と歌とその表現が大好きなのです。
 なのにどうしてこんなに彼女は貶められなければならないのでしょうか。
 この前にドキュメンタリー「カラス対テバルディ」という番組がテレビで放映されましたが、公正を装いながら結局のところテバルディを貶めてる。

 高崎保男と黒田恭一が亡くなった今、そろそろテバルディの再評価がなされてもよい時期にきてると思うのですが如何に。
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追記 (はっさん)
2018-12-17 04:07:07
  アルトゥール・トスカニーニの耳と感性と眼に狂いはないと思うのですがね。
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追記 (はっさん)
2018-12-17 04:07:40
  アルトゥール・トスカニーニの耳と感性と眼に狂いはないと思うのですがね。
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投稿がダブってすみません (はっさん)
2018-12-17 04:36:00
  1956年1月7日METに於けるテバルディの「トスカ」
(これは彼女がMETの観客に初めてトスカを歌って聞かせたもの)をもう何十年も前にライブ盤を買い、近年音がかなり修正されたもの、それに拍手もカットされてないものを買い直して聴いていますが、これを聴くと「トスカ」はカラス」という伝説がいかにまやかしであることがわかります。
 1953年のEMIの超名盤とされてるものはあれは指揮者と共演者が良いだけで、カラスの歌は並の出来です。
あれがタイトリロールがテバルディに代わっていたら「超」がいくつつくでしょうか。
現にスカラ座でデ・サバータの指揮で「トスカ」を歌ったのはテバルディなのですから。

 それから1953年のシーズン開きの「ワりー」も指揮はサバータに決まっていたのが直前に引退せざるを得ないことになってジュリーニが指揮をとりましたが、惜しいことでしたね。
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カラスとテバルディ (当ブログ主)
2018-12-24 19:01:02
コメントを、ありがとうございます。カラスとテバルディを巡るオペラ・ファンの論争は、彼女たちの存命中から盛んだったようですね。私もカラスが遺した業績の偉大さは認めつつも、変な神格化が進んでいるとしたら、それはちょっとどうかと思います。悪声は悪声なんだから、そこはしっかり指摘しておけと。w 例えばトロヴァトーレに出演するなら、レオノーラじゃなくてアズチェーナだろと。w トスカニーニについては、どうなんでしょう。あの人は確か、テバルディのこともあまり褒めていなかったみたいですが・・。基本的にトスカニーニにとっては、歌手たちの声もオーケストラと同じで、自分の統率下にあるべき楽器に過ぎなかったように思えるのです。オテロ全曲などを聴くと、あのstentorianなラモン・ヴィナイでさえ、トスカニーニが作る四角い音の庭の中にすっぽり収まっていますからね。ハーヴァ・ネッリのような二流のソプラノが繰り返し重用されたのも、指揮者の言うことを良くきいたからではないでしょうか。カラスのように強烈な個性を示す歌手を、専制君主のマエストロは使いたくなかったでしょう。
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トスカニーニとテバルディ (はっさん)
2019-11-07 07:27:00
1875 主様、失礼ながら貴方は勘違いされてます。
トスカニーニがあまりよく思ってなかったのはカラスの方です。カラスの歌を聴いて、「言葉が何を言ってるかさっぱり判らない」と言った有名な逸話が残っています。それとカラスの「清教徒」のレコードを聴いて、「この女の声はヴェルディの声だ。ベルリーニの声ではない」と言ったそうです。スカラ座が「マクベス」で二人の共演を画策した時も結局キャンセルして実現しませんでした。

 1946年のスカラ座再開記念公演で、第二次大戦後のこれからのイタリアオペラを背負って立つ歌手をオーデションした時もテバルディを選び、彼女が部屋を出て行った後で、「あの娘の名前と住所を控えておくように。今に大物になるぞ」とのたもうた。

 トスカニーニはカタラーニに恩義を感じて居り、1053年にギリンゲルリに手紙を寄こし、「1953年はカタラーニの50回忌であることをよもやお主はお忘れではなかろうな。「ワリー」でシーズンを開けなさい。主役ソプラノはレナータ・テバルディが宜しかろう」と命令にも等しい手紙を送っています。
 テバルディがMETで歌うようになった時も、彼女のリハーサルを欠かさず聴きに訪れたと言う事です。

 オペラ通の主様が、以外にも「トスカニーニはテバルディのことをあまりよく言ってなかったようですよ」と書かれたコメントを戴き、大変失礼ながら訂正を入れさせて戴きました。
トスカニーニに認められなかった事が、カラスにとって泣き所だったようです。

 ついでながら申し上げますが、有名な「カラスの神格化」は一大プロジェクトを組んんで世界を股にかけて行われたそうです。金を出したのはメネギーニですが、黒幕はどうやらヴィスコンティらしいです。
カラスがそんなに宜しいなら、カラスだけを褒めたら宜しいところを、テバルディが気にかかるので、世界中の評論家にテバルディを貶める記事を書かせるのです。
テバルディをこき下ろす文章を書きながら、カバリエやフレーニには触れてないのはおかしいと思いませんか?
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