クラシック音楽オデュッセイア

2009年の大病以来、月1回程度の更新ペース。クラシックに限らず、身の回りの事なども、気の向くままに書いております。

ラフマニノフの<ピアノ協奏曲第3番>(2)~アルゲリッチ、アシュケナージ、ベルマン

2010年05月05日 | 演奏(家)を語る
前回の続きで、ラフマニノフの<ピアノ協奏曲第3番>聴き比べのお話。

●マルタ・アルゲリッチ&リッカルド・シャイー、ベルリン放送交響楽団(1982年12月5、6日ライヴ録音・フィリップス盤)

ひらめき天才型の演奏には、時として、かなりはっきりした当たり外れが見られる。当たった時は大変、常人には及びもつかない途轍もない名演を聴かせて聴く者を圧倒する。一方、外れると、もうどうしようもなくつまらない凡演に終わってしまったりする。結論から言うと、ここでのアルゲリッチは、その後者。見事に外して、目も当てられない。このラフマニノフ演奏を手短に表現するなら、「あたしが言いたいことだけ、言わせてもらうわ」とピアニストが一方的にゴーマニズム(笑)宣言を行ない、あとはやりたい放題やって、それがいとも鮮やかに的を外しているといった風情である。指揮者と波長が合っているように確信できるのは、とりあえず第1楽章の出だし。それも、次第に怪しくなってくる。必ずしも合わせ物に定評があるわけではないシャイーにとって、じゃじゃ馬ピアニストはおそらくやりにくい相手だっただろうし、聴いているこちらも、はっきり言って苦痛だ。第2楽章後半で聴かれるピアノ・ソロの盛り上がりも何やら汚らしい印象を与えるもので、ひと頃マスゴミでもてはやされた何とかヘミ○グいう婆さんを私は思い出してしまった。第3楽章も猛然たるスピードで開始されるが、これがまたしっくりこない“何イラついているの?”演奏。こういうCDは全曲聴きとおすのがつらいし、途中で退屈もする。1回聴いたら、もういらない。

(※ちなみに、このコンビのライヴ、映像収録もされている。昔1回だけそれを視聴したことがあるが、演奏内容よりも、指揮者を睨むアルゲリッチの鋭い目つきがひたすら強烈な印象を残した。その映像ソフトの方なら、ヴィジュアル面で楽しめる要素があるように思える。)

(※なお、現在廉価で出ている国内盤のCDには、同じアルゲリッチのピアノでキリル・コンドラシン&バイエルン放送交響楽団が共演した1983年のライヴ、チャイコフスキーの<ピアノ協奏曲第1番>が併録されている。こちらは見事ツボにはまって、爽快無比。奔放に暴れまくるピアノにも個性的ながら独自の説得力があって、非常に面白い。コンドラシンの合わせも抜群に巧く、これは“当たり”の名演奏。)

―天才肌のアルゲリッチとは対照的に、“優等生秀才型のピアニスト”とでも言えそうなのが、次のアシュケナージ。ラフマニノフ演奏については、かねてより高い世評を享受しているピアニストだが・・。

●ウラジーミル・アシュケナージの3つのデッカ録音(フィストゥラーリ盤、プレヴィン盤、ハイティンク盤)

ご多分にもれず、私が最初に親しんだラフマニノフ作品はやはり、<ピアノ協奏曲第2番>だった。その後、「ラフマニノフのピアノ協奏曲は3番も名作らしいから、ちょっと聴いてみるか」と、学生時代にLPで買い求めたのが、アシュケナージとプレヴィン、ロンドン響のデッカ録音(1971年)だった。当時はこれが同曲の代表的名演と言われていたからである。しかし、その時は曲自体が未知のもので、全くなじみがなかったこともあって、このLPを聴いたときの第一印象はあまり芳(かんば)しいものではなかった。「3番って、随分のっぺりして冗長な曲なんだな。これは期待はずれだ」という感じ。その後はほとんど聴きなおすこともなく、件(くだん)のLPは中古売却。という流れで、現在この演奏については何も語れない状況である。今改めてCDで聴き直したら、果してどんな感想を持つだろうか。少なくとも、「ひたすらのっぺりして、冗長」などという学生時代レベルの感想ではなく、もう少し踏み込んでマシなことが言えるんじゃないかとは思うのだが・・・。

1980年代に入ると、アシュケナージはベルナルド・ハイティンク&コンセルトヘボウ管との共演で、ラフマニノフのピアノ協奏曲全集を作りなおし、それがまた高い評価を得ることとなる。と言うより、プレヴィンとの’70年代の共演以上に、音質ともども決定盤的な評価を得ていたような気がする。特に<第3番>についての宇野功芳氏の評価など、「アシュケナージが断然素晴らしい。テクニックの点でも神業だが、それが音楽を置き去りにすることなく、並々ならぬ意志の力と、劇的な迫力と、ウェットな感情のすべてを、豊かで多彩な雰囲気の中に描きつくし、ハイティンクの指揮も最高だ」(※『新編 名曲名盤500』音楽之友社・1987年 ~246ページ)と絶賛激賞、まさにほめちぎりだったりする。

しかし、この宇野批評、私は共感できない。アシュケナージのピアノは確かに巧いし綺麗だし、表情もそれなりによくついているので、初心者向きとしてはとりあえず間違いのない無難な選択になろうかと思う。だが私の感想を率直に言ってしまうなら、この演奏はつまらないのである。本当に、つまらないのだ。アシュケナージの洗練されたピアノは、ラフマニノフを矮小化してしまっている。先日作曲者自身の演奏を聴いてつくづく思ったが、「細やかで綺麗で、洗練された演奏」というのは、必ずしも作曲家が望んだイメージではないと思う。(勿論、だからと言って、「こんなラフマニノフ演奏はダメだ」とまで言うつもりはないけれども。)ハイティンクの指揮がまた良くも悪くも力演で、アシュケージの上品なピアノをしばしばオーケストラの轟音に埋没させてしまう。これも、私にはいささか残念に思われる要素である。

さて、アシュケナージが録音したラフマニノフの<ピアノ協奏曲第3番>は、少なくともあと2つある。そのうちオーマンディ、フィラデルフィア管と共演した1975年盤(RCA)は未聴なので何も語れないが、もう1つの方は数か月前にCDを聴き直したばかりなので記憶が新しい。アナトール・フィストゥラーリ指揮ロンドン交響楽団と行なった1963年のデッカ録音である。若き名ピアニストの音は後年のものと比べて格段に力があり、覇気に溢れているのが好ましい。曲自体がパワフルな展開を見せる第3楽章など、かなり聴き栄えがする。このCDを聴くと、「アシュケナージはやっぱり、優等生の秀才だったんだな」と思う。まず、それぞれの楽想とかモチーフとかいったものが、こうあるべき、こう弾くべき姿で的確に演奏されている感じ。で、それらをちゃんと表現できるだけのテクニックをしっかり持っていて、若いながらもその技量には隙がない。まさに、優等生のピアノである。“天才的閃き”みたいな要素は、(とりあえず私には)あまり感じられないものの、難曲をしっかり弾きこなすに十分な才能を早くから備えていた人だったということは言えるだろう。

(※ちなみにアシュケナージは、同じ1963年にコンドラシン&モスクワ・フィルとの共演で<ピアノ協奏曲第2番>もデッカに録音しているが、これも良い演奏である。たとえば第1楽章のクライマックスなど、後年聴かれなくなるパワフルな音が頗(すこぶ)る心地良いし、演奏全体から伝わってくる音楽の若々しさに、聴く方もわくわくさせられるような場面が随所に出てくる。コンドラシンの指揮にも野趣があり、モスクワ・フィルが持っている仄暗い音色ともども、「いかにも、ラフマニノフだなあ」という感覚に浸ることができる。今はあまり話題にならないようだが、このコンドラシン共演の<2番>もかなりの快演と言ってよいと思う。)

―今回の聴き比べのお話、最後の締めくくりは、ピアノ独奏が猛烈に冴えわたった豪演。

●ラザール・ベルマン&クラウディオ・アバド、ロンドン響(1976年11、1 2月録音・ソニー盤)

これはもう、ベルマンのピアノがとにかく圧倒的。ひたすらに圧倒的。それ以外に、言いようがない。w 第1楽章の弾き始めこそノンシャラント(nonchalant)でさり気ないものではあるが、だからと言って、「こりゃあ気の抜けた演奏をする気なのか」などと思ったりしたら大間違い。超絶ヴィルトゥオーゾの彼はひょっとしたら、心の中でこう言っている。「出だしのテーマをしっとり表情豊かに弾き始めるのは誰でも思いつくアイデアだが、俺は(少なくともこの録音では)やらない。これは繰り返し出てくるものだし、それ以上に、この曲の聴きどころは第2楽章の半ばから第3楽章、つまり後半部分にこそあるんだよ。まあ黙って最後まで聴いてろや」。と、これはあくまで当ブログ主の当て推量に過ぎないものだが、演奏の展開はそんなセリフを想像させるようなものになっている。

どれほど至難なパッセージも快刀乱麻を断つ勢いでバリバリと弾き倒し、オーケストラがどれほど盛り上がっても絶対に埋没しない力強いピアノ。エミール・ギレリスとはまた違った意味で、鋼(はがね)のような強靭さを見せる豪快な音。たとえて言えば、自分の手では届かない背中のかゆみを「孫の手」か何かでしっかり隅々まで掻くことが出来て、胸がすーっとするような快感。そういった心地良さが、この演奏にはある。アバドの伴奏も明晰で、ピアノとオーケストラの録音バランスも言うことなし。いわゆる「ほの暗いムード」とか「憂愁に浸る気分」といったような情緒的な要素は求めにくいけれども、聴き手を唖然とさせるほどの超絶技巧を(多少のヒス・ノイズはあるものの)冴えた録音で徹底的に堪能させてくれるという点において、ベルマン&アバド盤は随一の名盤と言ってよいように思う。

(※でも、このベルマンという人、当ラフマニノフや、ジュリーニとのリストなどを録音していた頃は確かに冴えていたのだが、その後いつの間にか忘却の淵に沈んでいってしまったようだ。最初は彼を絶賛していた吉田秀和氏も、途中から手のひらを返したように批判的な論調に変わっていった。私はピアノ曲をあまり聴く方ではないので詳しい事は分からないが、多分だんだんとダメになっていったピアニストだったのだろう。そう言えば、グラモフォンに録音されたピアノ版<展覧会の絵>など本当にdullで、どうしょうもない駄演だった。)

―今回は、これにて。
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