クラシック音楽オデュッセイア

2009年の大病以来、月1回程度の更新ペース。クラシックに限らず、身の回りの事なども、気の向くままに書いております。

アバド、BPOのヴェルディ/序曲・前奏曲集

2014年03月30日 | 演奏(家)を語る
2014年3月30日。前回、この1月に世を去った名指揮者クラウディオ・アバドの名演・名盤を厳選して並べたので、今回はその続きになるような記事を一つ。

故人が最も得意としていたレパートリーの一つとなる「ヴェルディ/序曲・前奏曲集」のCD(ベルリン・フィルを指揮したグラモフォン盤)を、この数日来幾度か繰り返し聴いている。比較対象としてシノーポリ&ウィーン・フィル他のフィリップス盤と、ムーティ&ミラノ・スカラ座フィルのソニー盤もついでにと言うか、併せて聴いている。

シノーポリ盤は粘ったり突っ走ったりの伸縮自在なテンポ設定、ちょっと変わった楽器のバランス、そしてひょっとしたらわざとやっているのかもしれないアインザッツのズレなど、この人ならではのユニークな個性が発揮されていて、面白いと言えばそれなりに面白い。が、繰り返しの鑑賞となると、些か食傷してしまう嫌いがなきにしもあらず。ムーティ盤は(ブックレットの解説を書いている評論家先生は絶賛しているものの)、私にはさっぱり面白くない。この人はスカラ座のボスの地位にどっしり収まってから、若い頃の“かっ飛び爆発”を封印してしまったようだ。立派と言えば勿論立派な演奏ではあるのだが、何かこう常識的というか、妙にありきたりな音楽をやるようになってしまった。

ここで改めて実感するのは、アバド、BPO盤の仕上がりレベルの高さ。安定したテンポ設定、各楽想への妥当性ある表情付け、そして様々な楽器のバランスと響きの精密さ等、それらすべてに於いて、空前とも言えそうな音楽的完成度を見せている。録音も超優秀。各奏者の技量は勿論世界のトップ・クラスだし、その彼らがまとまった一つのオーケストラとしての鳴り方も、ある意味究極点に達した出来栄えと言って良いような気がする。1曲ごとを個別に見ていけば、たとえば<シチリア島の夕べの祈り>序曲なら巨匠トゥリオ・セラフィンが聴かせた驚くべき弦のカンタービレとか、<ナブッコ>序曲なら若い頃のムーティが全曲盤で聴かせた超スピーディーなスリル感とか、他にも忘れ難い名演が少なからず存在していることも事実なのだが、序曲・前奏曲集としてまとまった1枚物のCDとしては、アバド&BPO盤がこれからも一つの規範として聴き継がれていくんじゃないかと思える。

このアバド盤から敢えて一つ難点を見出すとすれば、<ラ・トラヴィアータ>第1&3幕の前奏曲かな。この2曲には、アバドの苦手分野が何であったかが図らずも暴露されているように思えるから。

大作曲家ヴェルディには、日本の映画監督・黒澤明を想起させるような欠点が一つ、指摘できるような気が私にはしている。それ即ち、“女性を描くことができない”である。国籍も活躍分野も全く違うこの2人の巨匠はどちらも、魅力的な男の世界を描くことには秀でていたが、女性を描くのはどうもうまくなかった。そのヴェルディの有名オペラの中でも、おそらく最も女性に寄り添うようにして書きあげられた作品が、<ラ・トラヴィアータ>であったと言えるだろう。別の言い方をするなら、<ラ・トラヴィアータ>は数あるヴェルディ・オペラの中でも多分、プッチーニの座標に最も近いものであろうということである。前回の記事で書いた文言の繰り返しになるが、アバドは「生粋のイタリア人オペラ指揮者でありながら、プッチーニが振れない。その他ヴェリズモ・オペラは一切お断り」な人だった。このCDで聴かれる<ラ・トラヴィアータ>の2つの前奏曲は、よく磨きあげられた精密な弦の響きが美しく盛り上がるものの、さめざめと泣くような感傷の世界には絶対に入って行かない。この指揮者特有の理知が、そういうセンチメンタルな世界への耽溺を冷徹に拒否しているのだ。従って、ここにはただひたすら耳当たり良く鳴り響くどこか白々しい美しさが広がるばかりなのである。

(※ちなみに、今回並んだ3人の名指揮者の中で<ラ・トラヴィアータ>からの2曲を最も面白く聴かせてくれるのは、やはり、という感じでシノーポリである。La traviata、即ち「道を踏み外した女、淪落(りんらく)の女」の悲しみを、プッチーニ演奏さながらの濃い表現でこってりと聴かせてくれる。当ブログ主の私見をここで改めて披露させていただくと、「アバドといえば、ロッシーニ。シノーポリといえば、プッチーニ」である。)

いずれにしてもアバドは、ベルリン・フィルという最高峰のヴィルトゥオーゾ・オーケストラを率いて、オーケストラ演奏の一つの頂点に到達したわけである。あ、それともう1つ、アメリカのシカゴ交響楽団も忘れてはならない。この超絶的技能集団とも、アバドは頂上を極めた。具体例を挙げるなら、ベルリオーズの<幻想交響曲>(G盤)。好き嫌いの点で言えば、私はこういう神経質なベルリオーズ演奏は全く好きではない。しかし、これほどに楽譜を読み尽くし、複雑なスコアに明晰な光を当てまくり、それを精妙極まりない響きで十全に描ききった完璧演奏など、そうそう簡単に実現するものではない。

―ということで、最晩年のアバドが若い演奏家たちとの音楽作りにひたすら打ち込んだ理由、あるいは背景の一つは多分このあたりにあるんじゃないかと、私は推測している。どういうことかと言うと・・・最高レベルの技術を持った名門オーケストラ達と演奏面での頂上を極めてしまった以上、その後の自分にどんな楽しみが残っているのかと、おそらくマエストロは自問した。その結果、「技術的な巧い下手はもう、どうでもいい。そんなレベルの議論を超えた川の向こう岸、その彼岸の世界で好きな音楽を気ままにやるのがいい」という結論に達したのではないかと。最後に一例、そんな老匠が遺した愛惜すべき名盤として、ペルゴレージの<スターバト・マーテル>を挙げておくことにしたい。この名作について、アバドは少なくとも3回の録音を行なっている。ロンドン響との1983年グラモフォン盤、スカラ座管との1979年映像盤、そしてモーツァルト管弦楽団という若手集団を指揮した2007年のアルヒーフ盤。この3つはそれぞれに美しいものだが、最初の2つがどちらかと言えば“ただ美しいだけ”にとどまっている傾向が強かったのに対し、最後の1枚だけは聴く者の心に深く沁み入ってくる。特に終曲『肉体は死して朽ちるとも』の冒頭部分にこめられた悲しみの表現は絶品で、過去2回の録音からは決して聴くことができないアバドの心の到達点を、聴き手は少しばかりながら垣間見ることができるのだ。

―今回は、これにて。(※あさってからついに、消費税8%!音楽CDは勿論のこと、何であっても物を買う気がくじかれてしまう・・・。)
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