年末年始特番の一環として、昨2006年に他界した指揮者シルヴィオ・ヴァルヴィゾの名盤を語ってきたが、今回はその第3回。最終回である。
5.ドニゼッティ:歌劇<アンナ・ボレーナ>全曲(L)1968年
歌劇<アンナ・ボレーナ>は、作曲家ドニゼッティがいよいよ独自の個性を見せ始めるきっかけとなった出世作だ。このオペラも、マリア・カラスが主演した古い録音が昔から高く評価されている。ジャナンドレア・ガヴァッツェーニの指揮による1957年のミラノ・スカラ座ライヴ(EMI、他)である。しかし、私はそれに手を出す気にはなれず、このヴァルヴィゾ盤をかつてLPレコードで聴いた。ここでのタイトル役は、前回語った<ノルマ>と同様エレナ・スリオティスで、ジョヴァンナ役はマリリン・ホーン、そしてエンリーコ役が若き日のニコライ・ギャウロフといった布陣である。
3人の主役陣の中では、やはり当時声の全盛期にあったギャウロフがとりわけ見事だった。と言っても、先述の<セヴィリアの理髪師>でドン・バジリオをやった時みたいに超人的な大声を轟かせるような歌い方はしておらず、もっと歌のフォルムに留意したような、落ち着いた歌唱を示していたのが記憶に残る。エンリーコ(=ヘンリー)8世というのは、ひどい人物ではあっても一応、国王なのだ。しかし、それにしても、凄い声の堂々たる歌唱であった。ジョヴァンナを歌うホーンの声は、はっきり言って私の趣味には合わないタイプのものだが、その力演は非常に買えるものだった。
主役を演じたスリオティスの歌唱は、必ずしも隅々まで完璧と言えるようなものではなかったかもしれない。しかし、決めどころではさすがの力演を聴かせてくれた。リコルディ版に基づく対訳書に準拠して言うと、まず第2幕第3場の『アンナとジョヴァンナの二重唱』がその一例。「王の新しい恋人は、あなただったのね」と、アンナが事実に気付く場面だ。ここはベッリーニの<ノルマ>を髣髴(ほうふつ)とさせる場面としても知られるところだが、さすがに緊張感がよく出ていた。続いては、同じ第2幕の第12場、アンナの様子がおかしくなってくるところ。こういう場面に入ると、スリオティスの迫力ある声が生きてくる。そして、ラスト・シーン。ここは特に良かった。死刑を宣告されたアンナが錯乱と正気の間をさ迷いながら歌うこのアリア・フィナーレでは、スリオティスがまさに本領を発揮。パワフルな声と、歌に込められた気迫。思わず、息をつめながら聴き入ってしまったものだ。
脇役陣も、それぞれの役柄によく似合った声の持ち主が丁寧に選ばれていた。中でも、王付きの武官ハーヴィを演じるピエロ・デ・パルマがとりわけ良かったという印象が残っている。アンナとかつて愛し合っていた男リッカルド・パーシーの役を歌っていたのはジョン・アレクサンダーというテノール歌手だったが、そのロブストな声と一本気な歌い方がよく生きたのは、第2幕第6場だったろうか。アンナと離婚するために卑劣な罠を仕組んだ国王エンリーコ、潔白を主張するパーシー、そこに当のアンナも加わる3人の応酬場面である。ここはスリオティス、ギャウロフ、アレクサンダーが揃って持ち味を発揮した聴かせどころだった。
ヴァルヴィゾの指揮は、ここでも上出来。オーケストラはウィーンのどこだかの歌劇場管弦楽団で、合唱はウィーン国立歌劇場合唱団(←このコーラス、最高)。録音も優秀。このオペラには現在相当数の全曲盤が出ているようだが、その中でもヴァルヴィゾ盤は結構上位にランクされる逸品と言えるのではないだろうか。
(※以上を振り返って見ると、ヴァルヴィゾ氏のデッカ録音というのは、ベルガンサの主演による2つのロッシーニ・オペラと、スリオティスの主演による3つの有名イタリア・オペラに大きく区分けできるようだ。当時期待された2人の女性歌手を前面に立ててのシリーズ企画だったのだろう。それら以外の記録となると、あとはライヴの発掘音源が中心になりそうである。<ルチア><愛の妙薬><夢遊病の女><アドリアーナ・ルクヴルール>、そして<バラの騎士>等の全曲が、現在ネット通販サイトで見つかる。バイロイトで<さまよえるオランダ人>や<ローエングリン>を指揮した実績もあるようだが、録音としては、<ニュルンベルクのマイスタージンガー>がLP時代によく知られていた。私は寡聞にして未聴だが、おそらくすっきりと風通しの良いワグナー演奏だったのではないかと推測される。)
(※一方、スリオティスがデッカに遺したオペラの全曲盤には、今回採りあげたヴァルヴィゾの指揮による3種の他に、ガルデッリとの<ナブッコ>、及び<マクベス>がある。私の独断でそれらを勝手にランク付けすると、<ナブッコ>のアビガイッレがまず断トツの一位で、ノルマがそれに準ずる出来。で、その2つに続くのが、アンナ・ボレーナとマクベス夫人、そして最後がサントゥッツァという感じだ。そう言えば、当ブログでかつて歌劇<メフィストフェレ>の聴き比べをトピックにした時にも書いたが、若きギャウロフの主演による1965年シカゴ・ライヴにもスリオティスは出演していた。彼女がそこで歌ったトロイのエレナは本当に、素晴らしいものだった。おそらく空前絶後と言ってもよいほどの凄い存在感が、チョイ役のキャラクターに与えられていたのである。)
(PS)エレナ・スリオティスが来日した時のエピソード
今回は枠に余裕があるので、おまけの話を一つ。当ブログでかつてエリーザベト・シュワルツコップの訃報を記事にした時に、米山文明氏の『プリマドンナの声帯』(朝日新聞社)という本に言及した。実はその本に、スリオティスが来日した時のエピソードが何ページかにわたって紹介されている。その経緯を短くまとめて、私の勝手な文言も付け足しながら書き出してみると、だいたい次のような感じになる。以下、このお話のご紹介をもって、シルヴィオ・ヴァルヴィゾの名盤・3回シリーズの打ち止めということにしたい。
{ 1971年9月に行なわれた第6回・NHKイタリア歌劇公演に、エレナ・スリオティスも参加した。当時のファンが期待していたのは、彼女の主演によるベッリーニの<ノルマ>だった。しかし、本番を控えた練習期間中に、スリオティスは満員電車の中で風邪をうつされ、のどを痛めてしまった。9月1日の第1回<ノルマ>公演で彼女は第1幕のみ歌った後、「今日はもうダメ」と、一方的に舞台を降りた。そして医師の米山氏を連れ、滞在していたホテルへ速攻で帰宅。部屋でグラスを傾けながら、お国話やら何やらを楽しむ。すっぽかされた舞台は、第2幕から出来の悪い代役が穴を埋めた。9月4日の第2回<ノルマ>公演も、声の調子が戻らず、やっぱりキャンセル。
続く6日の第3回<ノルマ>の時には医師の米山氏がOKを出したものの、スリオティス本人が納得せず、これまたキャンセル。しかも、その日に彼女は「浅草見物をしたい」とか、「焼き鳥を食べてみたいから、焼き鳥屋へ連れてって」などと言い出す。関係スタッフが付き添って、彼女を観光案内した。NHK上層部から内密にお達しが届く。「今日はスリオティスの主演で<ノルマ>をやるはずの日なので、くれぐれも人目につかないように」。
9月9日は、<ノルマ>公演の最終日。最後の1回ぐらいはスリオティスのノルマ、そしてこの時ベスト・コンディションにあったフィオレンツァ・コッソットのアダルジーザという顔合わせで聴きたいと、誰もが願った。開幕直前のドクター・チェックで、米山氏も必死に彼女を励ます。第1幕、第2幕と、スリオティスは幕間ごとにブーブーごねつつも、何とかこなした。しかし第3幕が終了した後、いよいよ彼女はやめると言って聞かなくなった。指揮者のオリヴィエロ・デ・ファブリティースが、「一部カットして、最後の幕は短くするからさ」と、妥協案を彼女に示す。やっとのことでプリマドンナを説き伏せ、再び舞台に向かう指揮者が米山氏に一言。「これぐらいの事なら、あのマリア・カラスのわがままに比べれば、十分の一ですよ」。
オペラのラスト・シーン。火刑台に赴くノルマの姿を演じるところでスリオティスは見事な力を発揮し、有終の美を飾った。 }
【2019年4月28日 追記】
●エレナ・スリオティスが歌うジョコンダのアリア「自殺!」
これは歌劇<ジョコンダ>の全曲盤ではなく、スリオティスがデッカに録音した「オペラ・アリア集」に収められた音源。伴奏の指揮をヴァルヴィゾが受け持っているということで、YouTube動画を貼ってみることにした。デッカ録音の<ジョコンダ>全曲と言えば、アニタ・チェルクェッティの主演によるガヴァッツェーニ盤が(出演歌手陣の豪華さによって)つとに有名だが、ジョコンダのアリア1曲に関して言えば、当スリオティス&ヴァルヴィゾ盤の方が上を行っていると思う。
5.ドニゼッティ:歌劇<アンナ・ボレーナ>全曲(L)1968年
歌劇<アンナ・ボレーナ>は、作曲家ドニゼッティがいよいよ独自の個性を見せ始めるきっかけとなった出世作だ。このオペラも、マリア・カラスが主演した古い録音が昔から高く評価されている。ジャナンドレア・ガヴァッツェーニの指揮による1957年のミラノ・スカラ座ライヴ(EMI、他)である。しかし、私はそれに手を出す気にはなれず、このヴァルヴィゾ盤をかつてLPレコードで聴いた。ここでのタイトル役は、前回語った<ノルマ>と同様エレナ・スリオティスで、ジョヴァンナ役はマリリン・ホーン、そしてエンリーコ役が若き日のニコライ・ギャウロフといった布陣である。
3人の主役陣の中では、やはり当時声の全盛期にあったギャウロフがとりわけ見事だった。と言っても、先述の<セヴィリアの理髪師>でドン・バジリオをやった時みたいに超人的な大声を轟かせるような歌い方はしておらず、もっと歌のフォルムに留意したような、落ち着いた歌唱を示していたのが記憶に残る。エンリーコ(=ヘンリー)8世というのは、ひどい人物ではあっても一応、国王なのだ。しかし、それにしても、凄い声の堂々たる歌唱であった。ジョヴァンナを歌うホーンの声は、はっきり言って私の趣味には合わないタイプのものだが、その力演は非常に買えるものだった。
主役を演じたスリオティスの歌唱は、必ずしも隅々まで完璧と言えるようなものではなかったかもしれない。しかし、決めどころではさすがの力演を聴かせてくれた。リコルディ版に基づく対訳書に準拠して言うと、まず第2幕第3場の『アンナとジョヴァンナの二重唱』がその一例。「王の新しい恋人は、あなただったのね」と、アンナが事実に気付く場面だ。ここはベッリーニの<ノルマ>を髣髴(ほうふつ)とさせる場面としても知られるところだが、さすがに緊張感がよく出ていた。続いては、同じ第2幕の第12場、アンナの様子がおかしくなってくるところ。こういう場面に入ると、スリオティスの迫力ある声が生きてくる。そして、ラスト・シーン。ここは特に良かった。死刑を宣告されたアンナが錯乱と正気の間をさ迷いながら歌うこのアリア・フィナーレでは、スリオティスがまさに本領を発揮。パワフルな声と、歌に込められた気迫。思わず、息をつめながら聴き入ってしまったものだ。
脇役陣も、それぞれの役柄によく似合った声の持ち主が丁寧に選ばれていた。中でも、王付きの武官ハーヴィを演じるピエロ・デ・パルマがとりわけ良かったという印象が残っている。アンナとかつて愛し合っていた男リッカルド・パーシーの役を歌っていたのはジョン・アレクサンダーというテノール歌手だったが、そのロブストな声と一本気な歌い方がよく生きたのは、第2幕第6場だったろうか。アンナと離婚するために卑劣な罠を仕組んだ国王エンリーコ、潔白を主張するパーシー、そこに当のアンナも加わる3人の応酬場面である。ここはスリオティス、ギャウロフ、アレクサンダーが揃って持ち味を発揮した聴かせどころだった。
ヴァルヴィゾの指揮は、ここでも上出来。オーケストラはウィーンのどこだかの歌劇場管弦楽団で、合唱はウィーン国立歌劇場合唱団(←このコーラス、最高)。録音も優秀。このオペラには現在相当数の全曲盤が出ているようだが、その中でもヴァルヴィゾ盤は結構上位にランクされる逸品と言えるのではないだろうか。
(※以上を振り返って見ると、ヴァルヴィゾ氏のデッカ録音というのは、ベルガンサの主演による2つのロッシーニ・オペラと、スリオティスの主演による3つの有名イタリア・オペラに大きく区分けできるようだ。当時期待された2人の女性歌手を前面に立ててのシリーズ企画だったのだろう。それら以外の記録となると、あとはライヴの発掘音源が中心になりそうである。<ルチア><愛の妙薬><夢遊病の女><アドリアーナ・ルクヴルール>、そして<バラの騎士>等の全曲が、現在ネット通販サイトで見つかる。バイロイトで<さまよえるオランダ人>や<ローエングリン>を指揮した実績もあるようだが、録音としては、<ニュルンベルクのマイスタージンガー>がLP時代によく知られていた。私は寡聞にして未聴だが、おそらくすっきりと風通しの良いワグナー演奏だったのではないかと推測される。)
(※一方、スリオティスがデッカに遺したオペラの全曲盤には、今回採りあげたヴァルヴィゾの指揮による3種の他に、ガルデッリとの<ナブッコ>、及び<マクベス>がある。私の独断でそれらを勝手にランク付けすると、<ナブッコ>のアビガイッレがまず断トツの一位で、ノルマがそれに準ずる出来。で、その2つに続くのが、アンナ・ボレーナとマクベス夫人、そして最後がサントゥッツァという感じだ。そう言えば、当ブログでかつて歌劇<メフィストフェレ>の聴き比べをトピックにした時にも書いたが、若きギャウロフの主演による1965年シカゴ・ライヴにもスリオティスは出演していた。彼女がそこで歌ったトロイのエレナは本当に、素晴らしいものだった。おそらく空前絶後と言ってもよいほどの凄い存在感が、チョイ役のキャラクターに与えられていたのである。)
(PS)エレナ・スリオティスが来日した時のエピソード
今回は枠に余裕があるので、おまけの話を一つ。当ブログでかつてエリーザベト・シュワルツコップの訃報を記事にした時に、米山文明氏の『プリマドンナの声帯』(朝日新聞社)という本に言及した。実はその本に、スリオティスが来日した時のエピソードが何ページかにわたって紹介されている。その経緯を短くまとめて、私の勝手な文言も付け足しながら書き出してみると、だいたい次のような感じになる。以下、このお話のご紹介をもって、シルヴィオ・ヴァルヴィゾの名盤・3回シリーズの打ち止めということにしたい。
{ 1971年9月に行なわれた第6回・NHKイタリア歌劇公演に、エレナ・スリオティスも参加した。当時のファンが期待していたのは、彼女の主演によるベッリーニの<ノルマ>だった。しかし、本番を控えた練習期間中に、スリオティスは満員電車の中で風邪をうつされ、のどを痛めてしまった。9月1日の第1回<ノルマ>公演で彼女は第1幕のみ歌った後、「今日はもうダメ」と、一方的に舞台を降りた。そして医師の米山氏を連れ、滞在していたホテルへ速攻で帰宅。部屋でグラスを傾けながら、お国話やら何やらを楽しむ。すっぽかされた舞台は、第2幕から出来の悪い代役が穴を埋めた。9月4日の第2回<ノルマ>公演も、声の調子が戻らず、やっぱりキャンセル。
続く6日の第3回<ノルマ>の時には医師の米山氏がOKを出したものの、スリオティス本人が納得せず、これまたキャンセル。しかも、その日に彼女は「浅草見物をしたい」とか、「焼き鳥を食べてみたいから、焼き鳥屋へ連れてって」などと言い出す。関係スタッフが付き添って、彼女を観光案内した。NHK上層部から内密にお達しが届く。「今日はスリオティスの主演で<ノルマ>をやるはずの日なので、くれぐれも人目につかないように」。
9月9日は、<ノルマ>公演の最終日。最後の1回ぐらいはスリオティスのノルマ、そしてこの時ベスト・コンディションにあったフィオレンツァ・コッソットのアダルジーザという顔合わせで聴きたいと、誰もが願った。開幕直前のドクター・チェックで、米山氏も必死に彼女を励ます。第1幕、第2幕と、スリオティスは幕間ごとにブーブーごねつつも、何とかこなした。しかし第3幕が終了した後、いよいよ彼女はやめると言って聞かなくなった。指揮者のオリヴィエロ・デ・ファブリティースが、「一部カットして、最後の幕は短くするからさ」と、妥協案を彼女に示す。やっとのことでプリマドンナを説き伏せ、再び舞台に向かう指揮者が米山氏に一言。「これぐらいの事なら、あのマリア・カラスのわがままに比べれば、十分の一ですよ」。
オペラのラスト・シーン。火刑台に赴くノルマの姿を演じるところでスリオティスは見事な力を発揮し、有終の美を飾った。 }
【2019年4月28日 追記】
●エレナ・スリオティスが歌うジョコンダのアリア「自殺!」
これは歌劇<ジョコンダ>の全曲盤ではなく、スリオティスがデッカに録音した「オペラ・アリア集」に収められた音源。伴奏の指揮をヴァルヴィゾが受け持っているということで、YouTube動画を貼ってみることにした。デッカ録音の<ジョコンダ>全曲と言えば、アニタ・チェルクェッティの主演によるガヴァッツェーニ盤が(出演歌手陣の豪華さによって)つとに有名だが、ジョコンダのアリア1曲に関して言えば、当スリオティス&ヴァルヴィゾ盤の方が上を行っていると思う。