クラシック音楽オデュッセイア

2009年の大病以来、月1回程度の更新ペース。クラシックに限らず、身の回りの事なども、気の向くままに書いております。

シルヴィオ・ヴァルヴィゾの名盤(3)~アンナ・ボレーナ

2007年01月28日 | 演奏(家)を語る
年末年始特番の一環として、昨2006年に他界した指揮者シルヴィオ・ヴァルヴィゾの名盤を語ってきたが、今回はその第3回。最終回である。

5.ドニゼッティ:歌劇<アンナ・ボレーナ>全曲(L)1968年

歌劇<アンナ・ボレーナ>は、作曲家ドニゼッティがいよいよ独自の個性を見せ始めるきっかけとなった出世作だ。このオペラも、マリア・カラスが主演した古い録音が昔から高く評価されている。ジャナンドレア・ガヴァッツェーニの指揮による1957年のミラノ・スカラ座ライヴ(EMI、他)である。しかし、私はそれに手を出す気にはなれず、このヴァルヴィゾ盤をかつてLPレコードで聴いた。ここでのタイトル役は、前回語った<ノルマ>と同様エレナ・スリオティスで、ジョヴァンナ役はマリリン・ホーン、そしてエンリーコ役が若き日のニコライ・ギャウロフといった布陣である。

3人の主役陣の中では、やはり当時声の全盛期にあったギャウロフがとりわけ見事だった。と言っても、先述の<セヴィリアの理髪師>でドン・バジリオをやった時みたいに超人的な大声を轟かせるような歌い方はしておらず、もっと歌のフォルムに留意したような、落ち着いた歌唱を示していたのが記憶に残る。エンリーコ(=ヘンリー)8世というのは、ひどい人物ではあっても一応、国王なのだ。しかし、それにしても、凄い声の堂々たる歌唱であった。ジョヴァンナを歌うホーンの声は、はっきり言って私の趣味には合わないタイプのものだが、その力演は非常に買えるものだった。

主役を演じたスリオティスの歌唱は、必ずしも隅々まで完璧と言えるようなものではなかったかもしれない。しかし、決めどころではさすがの力演を聴かせてくれた。リコルディ版に基づく対訳書に準拠して言うと、まず第2幕第3場の『アンナとジョヴァンナの二重唱』がその一例。「王の新しい恋人は、あなただったのね」と、アンナが事実に気付く場面だ。ここはベッリーニの<ノルマ>を髣髴(ほうふつ)とさせる場面としても知られるところだが、さすがに緊張感がよく出ていた。続いては、同じ第2幕の第12場、アンナの様子がおかしくなってくるところ。こういう場面に入ると、スリオティスの迫力ある声が生きてくる。そして、ラスト・シーン。ここは特に良かった。死刑を宣告されたアンナが錯乱と正気の間をさ迷いながら歌うこのアリア・フィナーレでは、スリオティスがまさに本領を発揮。パワフルな声と、歌に込められた気迫。思わず、息をつめながら聴き入ってしまったものだ。

脇役陣も、それぞれの役柄によく似合った声の持ち主が丁寧に選ばれていた。中でも、王付きの武官ハーヴィを演じるピエロ・デ・パルマがとりわけ良かったという印象が残っている。アンナとかつて愛し合っていた男リッカルド・パーシーの役を歌っていたのはジョン・アレクサンダーというテノール歌手だったが、そのロブストな声と一本気な歌い方がよく生きたのは、第2幕第6場だったろうか。アンナと離婚するために卑劣な罠を仕組んだ国王エンリーコ、潔白を主張するパーシー、そこに当のアンナも加わる3人の応酬場面である。ここはスリオティス、ギャウロフ、アレクサンダーが揃って持ち味を発揮した聴かせどころだった。

ヴァルヴィゾの指揮は、ここでも上出来。オーケストラはウィーンのどこだかの歌劇場管弦楽団で、合唱はウィーン国立歌劇場合唱団(←このコーラス、最高)。録音も優秀。このオペラには現在相当数の全曲盤が出ているようだが、その中でもヴァルヴィゾ盤は結構上位にランクされる逸品と言えるのではないだろうか。

(※以上を振り返って見ると、ヴァルヴィゾ氏のデッカ録音というのは、ベルガンサの主演による2つのロッシーニ・オペラと、スリオティスの主演による3つの有名イタリア・オペラに大きく区分けできるようだ。当時期待された2人の女性歌手を前面に立ててのシリーズ企画だったのだろう。それら以外の記録となると、あとはライヴの発掘音源が中心になりそうである。<ルチア><愛の妙薬><夢遊病の女><アドリアーナ・ルクヴルール>、そして<バラの騎士>等の全曲が、現在ネット通販サイトで見つかる。バイロイトで<さまよえるオランダ人>や<ローエングリン>を指揮した実績もあるようだが、録音としては、<ニュルンベルクのマイスタージンガー>がLP時代によく知られていた。私は寡聞にして未聴だが、おそらくすっきりと風通しの良いワグナー演奏だったのではないかと推測される。)

(※一方、スリオティスがデッカに遺したオペラの全曲盤には、今回採りあげたヴァルヴィゾの指揮による3種の他に、ガルデッリとの<ナブッコ>、及び<マクベス>がある。私の独断でそれらを勝手にランク付けすると、<ナブッコ>のアビガイッレがまず断トツの一位で、ノルマがそれに準ずる出来。で、その2つに続くのが、アンナ・ボレーナとマクベス夫人、そして最後がサントゥッツァという感じだ。そう言えば、当ブログでかつて歌劇<メフィストフェレ>の聴き比べをトピックにした時にも書いたが、若きギャウロフの主演による1965年シカゴ・ライヴにもスリオティスは出演していた。彼女がそこで歌ったトロイのエレナは本当に、素晴らしいものだった。おそらく空前絶後と言ってもよいほどの凄い存在感が、チョイ役のキャラクターに与えられていたのである。)

(PS)エレナ・スリオティスが来日した時のエピソード

今回は枠に余裕があるので、おまけの話を一つ。当ブログでかつてエリーザベト・シュワルツコップの訃報を記事にした時に、米山文明氏の『プリマドンナの声帯』(朝日新聞社)という本に言及した。実はその本に、スリオティスが来日した時のエピソードが何ページかにわたって紹介されている。その経緯を短くまとめて、私の勝手な文言も付け足しながら書き出してみると、だいたい次のような感じになる。以下、このお話のご紹介をもって、シルヴィオ・ヴァルヴィゾの名盤・3回シリーズの打ち止めということにしたい。

{ 1971年9月に行なわれた第6回・NHKイタリア歌劇公演に、エレナ・スリオティスも参加した。当時のファンが期待していたのは、彼女の主演によるベッリーニの<ノルマ>だった。しかし、本番を控えた練習期間中に、スリオティスは満員電車の中で風邪をうつされ、のどを痛めてしまった。9月1日の第1回<ノルマ>公演で彼女は第1幕のみ歌った後、「今日はもうダメ」と、一方的に舞台を降りた。そして医師の米山氏を連れ、滞在していたホテルへ速攻で帰宅。部屋でグラスを傾けながら、お国話やら何やらを楽しむ。すっぽかされた舞台は、第2幕から出来の悪い代役が穴を埋めた。9月4日の第2回<ノルマ>公演も、声の調子が戻らず、やっぱりキャンセル。

続く6日の第3回<ノルマ>の時には医師の米山氏がOKを出したものの、スリオティス本人が納得せず、これまたキャンセル。しかも、その日に彼女は「浅草見物をしたい」とか、「焼き鳥を食べてみたいから、焼き鳥屋へ連れてって」などと言い出す。関係スタッフが付き添って、彼女を観光案内した。NHK上層部から内密にお達しが届く。「今日はスリオティスの主演で<ノルマ>をやるはずの日なので、くれぐれも人目につかないように」。

9月9日は、<ノルマ>公演の最終日。最後の1回ぐらいはスリオティスのノルマ、そしてこの時ベスト・コンディションにあったフィオレンツァ・コッソットのアダルジーザという顔合わせで聴きたいと、誰もが願った。開幕直前のドクター・チェックで、米山氏も必死に彼女を励ます。第1幕、第2幕と、スリオティスは幕間ごとにブーブーごねつつも、何とかこなした。しかし第3幕が終了した後、いよいよ彼女はやめると言って聞かなくなった。指揮者のオリヴィエロ・デ・ファブリティースが、「一部カットして、最後の幕は短くするからさ」と、妥協案を彼女に示す。やっとのことでプリマドンナを説き伏せ、再び舞台に向かう指揮者が米山氏に一言。「これぐらいの事なら、あのマリア・カラスのわがままに比べれば、十分の一ですよ」。

オペラのラスト・シーン。火刑台に赴くノルマの姿を演じるところでスリオティスは見事な力を発揮し、有終の美を飾った。 }

【2019年4月28日 追記】

●エレナ・スリオティスが歌うジョコンダのアリア「自殺!」

これは歌劇<ジョコンダ>の全曲盤ではなく、スリオティスがデッカに録音した「オペラ・アリア集」に収められた音源。伴奏の指揮をヴァルヴィゾが受け持っているということで、YouTube動画を貼ってみることにした。デッカ録音の<ジョコンダ>全曲と言えば、アニタ・チェルクェッティの主演によるガヴァッツェーニ盤が(出演歌手陣の豪華さによって)つとに有名だが、ジョコンダのアリア1曲に関して言えば、当スリオティス&ヴァルヴィゾ盤の方が上を行っていると思う。

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シルヴィオ・ヴァルヴィゾの名盤(2)~カヴァレリア・ルスティカーナ、ノルマ

2007年01月21日 | 演奏(家)を語る
前回の続きで、昨2006年11月に他界したスイスの名指揮者シルヴィオ・ヴァルヴィゾの名盤、その第2回である。扱う作品の番号は前回からの通しで、3番からとなる。

3.マスカーニ:歌劇<カヴァレリア・ルスティカーナ>全曲(L)1966年

主役のサントゥッツァを、当時最も期待されたソプラノ歌手の一人であったエレナ・スリオティスが歌った全曲盤。しかし、ここでの彼女は確かに熱演を示してはいるものの、何かもう一つ板につかないもどかしさを私は感じる。『ママも知るとおり』など、聴いていてどうもしっくりこない。全体を通して感じられることだが、並外れた馬力を持つ彼女の声が、この演奏ではあまり巧く機能していないようだ。

トゥリッドゥ役がマリオ・デル・モナコで馬車屋のアルフィオ役がティト・ゴッビというのも、一見した限りでは豪華な顔ぶれだが、これも現実を見ると厳しいものがある。デル・モナコは大きな自動車事故を経験した後であり、それから奇跡的なカム・バックを果たしはしたものの、この頃にはもはや往時の声は出せなくなっていた。【注1】場所によってはかつての栄光を想起させる力を感じさせてくれるところもあるのだが、どちらかと言えば、空虚な大声をはりあげているだけに聞こえる箇所の方が多い。冒頭の歌『おお、ローラ』一つをとってみても、これの6年前に録音されたセラフィン盤(1960年・デッカ)での声と歌唱に比べたら、何だか痛々しくなるほどだ。ゴッビについても、その性格表現は例によって非常に立派なのだが、声が全盛期をとっくに過ぎている。つまりこれ、私に言わせれば、歌手陣には必ずしも満足させてはもらえない録音なのである。

しかし、ヴァルヴィゾの指揮は決して悪くない。開幕シーンも、セラフィン盤のようにコーラスが引っ込んで録音されてはおらず、豊かな合唱の声がしっかりとスピーカーから出て来るので心地良い。合唱団の出来自体も、同じデッカのエレーデ盤(1957年)よりはずっと上だ。ドラマの各場面に応じた力の入れぬき加減も、さすが練達の棒。録音もデッカらしく、鮮明である。

【注1】1982年にマリオ・デル・モナコが世を去った直後、国内のロンドン・レーベルからLPレコードのボックス・シリーズが追悼発売された。彼が出演したオペラの、作品別全曲盤シリーズである。その各ボックスに漏れなく同梱されていた大判冊子『栄光のマリオ・デル・モナコ』には、大歌手の生前の経歴や録音暦、あるいは彼と関わりを持った人たちの思い出話等、様々な資料や文章が掲載されていた。ちなみに、デル・モナコがローマで大きな自動車事故に遭った時の日付は、1963年12月13日だそうである。この冊子には歌手の栗林義信氏が当時寄稿した文章も含まれているのだが、それによると、その事故はデル・モナコの腎臓に大きな障害を遺したらしい。一命こそ取り留めたものの、彼は8時間ごとに人工透析を受けねばならない体になってしまったというのだ。その後の回復状況については何も書かれていないが、いずれにしても、このヴァルヴィゾ盤<カヴァレリア・ルスティカーナ>での彼の歌唱はやはり、聴いていてつらいものがある。

4.ベッリーニ:歌劇<ノルマ>全曲(L)1967年

この名作オペラは、マリア・カラスの主演によるいくつかの録音が昔から有名だ。特にトゥリオ・セラフィンの指揮によるEMI・ステレオ録音盤は、指揮者と共演者に人を得たこともあって、いまだに決定盤の呼び声が高い。私もそれは随分前に購入して聴いたが、例によってカラスの悪声に我慢がならず、早々と手放してしまった。そんなへそ曲がり(?)の私にとって、ヴァルヴィゾ盤は実に有り難い“救いの神”であった。

タイトル役はここでも、エレナ・スリオティスが歌っている。そして、恋敵のアダルジーザ役が若き日のフィオレンツァ・コッソット、ポリオーネ役がマリオ・デル・モナコという顔ぶれである。なお、この録音はかなりのカットが施された短縮版で、CD2枚に悠々と収まっている。とりあえず幕と場の振り分け方については、添えつけのブックレットにある表記にしたがって、今回は書くことにしたい。

スリオティスがデッカに遺したいくつかのオペラ全曲盤の中で、私が感ずるところの最高傑作は<ナブッコ>のアビガイッレだが、このノルマもそれに準ずる出来栄えの名唱になっていると思う。彼女が歌ったノルマのどこに魅力があったかを私なりの言い方で短くまとめるなら、「カラスのような歌い方を意識し、その上で、カラスにはない美声を最大限に活かしきった」という点にあると思う。まず第1幕の登場シーンから、スリオティスは堂々たる声を聴かせて聴き手をグッと惹きつける。有名なアリア『清らかな女神よ』については、同郷の大先輩カラスを含め、もっと優れた歌唱を他に見出すことが十分可能だが、全曲を聴き終えた後に残る感銘度は極めて高い。それは、彼女が全編通して非常にハイ・テンションな歌唱を展開しているからだ。同時にこれは、「かなり早くに一線を退くことになってしまった名歌手が、良い時期に遺してくれた記録」という意味でも、大変に貴重なものである。

また、この録音では、アダルジーザ役の若きコッソットが素晴らしい出来栄えを示しているのも特筆すべきポイントだろう。彼女はソプラノ並みの高音を軽々と出してみせ、太く強靭な声を響かせるスリオティスとの二重唱では、「あれ、どっちがソプラノかな」なんて思わせる場面もあったりするほどだ。で、当然のことながら、両者によるデュエットは非常に美しい。特に、第2幕第1場でアダルジーザが、「この可愛い子供たちをご覧下さい、ノルマ様」と歌いだすところから始まる二重唱、2人の女性がお互いの友情を確かめ合う場面の二重唱はもう絶品である。本当に聞き惚れてしまう。(※実際、ベッリーニのオペラはこういう声で聴きたいと、つくづく思う。セラフィンのステレオ盤では、あのカラスのうざったい声がすべてをぶち壊しにしていた。)

ポリオーネを歌うマリオ・デル・モナコについては、全盛期の凄さとは比較にならないものの、上記<カヴァレリア・ルスティカーナ>の時よりもコンディションが良いように思える。当時の彼の肉体的状況を考えたら、まあまあ納得の出来ではなかったろうか。

さて、ヴァルヴィゾの指揮だが、ここでも非常に良い。清冽な美しさを持った音楽が速めのテンポで自然に流れ、作品自体がフレッシュな感じに聴こえる。その一方で、歌わせるべきところはなみなみと歌わせる。上記第2幕の『ノルマとアダルジーザの友情の二重唱』の終わり間際では、さりげなくテンポを落とすような小技を見せたりもする。逆に、テンポを上げて盛り上げる箇所ではかなり激しい畳み込みを聴かせる。具体的には第2幕第2場で、「ローマ軍を討伐せよ」というノルマの言葉に乗った人々が、「戦だ!戦だ」と盛り上がる場面。ここを聴いていると、イタリア音楽史上にヴェルディが出現するのももう間もなくであることが予感される。デッカの録音も優秀。数多く存在する<ノルマ>全曲録音の中でも、当ヴァルヴィゾ盤はかなり上位に置いてよい名盤なのではないかと思う。完全全曲の約四分の一がカットされた短縮版という欠点は、あるけれども。

―次回もう一度だけ、ジルヴィオ・ヴァルヴィゾの名盤。
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シルヴィオ・ヴァルヴィゾの名盤(1)~アルジェのイタリア女、セヴィリアの理髪師

2007年01月17日 | 演奏(家)を語る
前回語ったブライデン・トムソンやアレグザンダー・ギブソンもそうだったが、つい昨年(2006年)の11月に82歳で世を去ったシルヴィオ・ヴァルヴィゾもやはり、“知る人ぞ知る”みたいな存在だったように思える。実際、日本のクラシック・ファンの何パーセントぐらいが、この指揮者のかつての名演、あるいは名盤なるものを味わっているかとアンケートなどを取ったら、どうもあまり芳(かんば)しい結果は出てきそうもない。かなり良いものを遺してくれている人なのだが・・。―という訳で、今回から、このヴァルヴィゾ氏がスタジオ録音で遺した名演を5つほど並べて語り、遅ればせながら、故人の業績の一部を偲ぶことにしたいと思う。

1.ロッシーニ:歌劇<アルジェのイタリア女>全曲(L)1963年

ヴァルヴィゾが指揮した<アルジェのイタリア女>全曲は、今もなお同曲の代表的な名盤に数えてよいものだ。ロッシーニ・オペラと言えば、そのスペシャリストと目されるクラウディオ・アバドも1987年にウィーン・フィル、他と同曲をセッション録音(G)していて、それも見事な名演であった。勿論、他の指揮者による全曲盤もいろいろとあるのだが、とりあえず当ブログでは、アバド盤とヴァルヴィゾ盤を比較してみたらどうだったかということについて、ちょっと語ってみることにしたい。結論的なことを先に書いておくと、「演奏の立派さではアバドが上だが、楽しさではヴァルヴィゾの方が上」といった感じになりそうである。

まずは、主役のイザベッラ。アバド盤ではアグネス・バルツァが、そしてヴァルヴィゾ盤では若き日のテレサ・ベルガンサが、それぞれ歌っている。ともに名唱である。若きベルガンサには、バルツァほどの豊麗さや堂々とした押し出しの良さはないが、そのみずみずしさと軽やかさが何とも魅力的。バルツァの歌唱を「ちょっと濃いかな」と感じる人には、ベルガンサの雰囲気がちょうど心地良いのではないだろうか。彼女は永い間、トップ・レベルのロッシーニ歌手と評価されてきた人だが、それは十分にうなずけるものがある。

イザベッラの恋人であるリンドーロの役は、アバド盤ではフランク・ロパルド、ヴァルヴィゾ盤ではルイジ・アルヴァが歌っている。前者ロパルドはまさに、“ご立派”の一語。同役を実に真面目に歌い上げている。一方、ヴァルヴィゾ盤のアルヴァも、さすがの名唱。オペラ・ブッファのテナーとして、彼が当時の第一人者であったことを示す見事な出来栄えを見せている。

楽しさの点で分かりやすく差が出るのは、タッデーオ役だ。アバド盤のエンツォ・ダーラは立派な歌唱を示しているが、ヴァルヴィゾ盤のローランド・パネライにはその上を行く面白さがある。歌や演技のノリのよさは勿論のこと、“パッパターチのインチキ話”にムスタファーをうまく乗せた後の展開(※具体的には、第2幕第4場)で彼が聞かせる滑稽な笑い声には、こちらまでつられて笑ってしまう。リンドーロとしゃべりながらヒャーッハハハハと笑うところ、そしてイザベッラが有名な第16曲のロンドを歌うところへ合いの手みたいに入れる「ウァハハハハ」「ダハハハハ」という笑い声、どちらも本当におかしい。「あんた、なんで笑うのよ」というイザベッラのセリフも、このパネライさんのような笑い方があってこそ生きるのだ。アバド盤のダーラは、ちょっとお行儀が良すぎる。

楽しさにもっと大きな差が出るのは、ムスタファー役である。アバド盤のルッジェーロ・ライモンディは、堂々たる声としっかりした技巧で実に立派なムスタファーを演じている。しかし、ヴァルヴィゾ盤のフェルナンド・コレナはもう、別格だ。この人こそ、天下一品の名ブッフォである。声自体にユニークな響きがあるのに加え、その自在闊達な表現力が他の追随を許さない。根の部分でどこか生真面目なライモンディと、天性のコメディアン的資質を備えたコレナには、楽しさを演出する能力に於いて歴然たる差がある。

ヴァルヴィゾの指揮も、大変素晴らしい。(※オーケストラとコーラスは、フィレンツェ五月音楽祭のメンバー。)響きの柔らかい精妙さとか、アンサンブルの丁寧さみたいな部分を言えば、ウィーン・フィルを振ったアバドの方が上だろう。しかし、この生命感、聴く者の気分をうきうきと盛り上げるような音楽の進め方には、「この指揮者って、絶対イタリア人のはずだよー」と思わせるだけの力がある。(※実際にはヴァルヴィゾさん、チューリッヒ生まれのスイス人である。指揮法もあのクレメンス・クラウスに学んだりしたとか。ちょっと意外な感じだが。)ヴァルヴィゾ盤の明るい開放感にすっかり慣れてしまうと、逆にアバドの指揮は時に精妙過ぎて、ちょっと息苦しいものに聴こえてしまったりもする。

(※ちょっと横道にそれる話だが、この録音で大活躍しているパネライさんがフィガロを演じたパイジェッロの歌劇<セヴィリアの理髪師>全曲盤というのがある。これは1959年の古い録音ながら、演奏内容はなかなかの物。バルトロを演じるレナート・カペッキが、特に巧い。しかし一般的には、同じ題材のオペラであっても、次のロッシーニ作品の方が断然親しまれている物だろう。)

2.ロッシーニ:歌劇<セヴィリアの理髪師>全曲(L)1964年

この超有名オペラについても、やはりスペシャリストのクラウディオ・アバドが若い頃に名盤を作っていた。それも、通常の音声録音(G)の他に、楽しい映像ソフトまである。私がかつて楽しんだのは後者、J・P・ポネルの演出による映像ソフトの方だったが、若きアバドによるこの2つの全曲録音は今でも、同曲の代表的な名演と言えるものだろう。一方、今回採り上げるヴァルヴィゾ盤の魅力と言えば、まず彼の指揮棒が生み出す音楽の生命感。これはアバドと比べても、全く引けをとらない出来栄えのものだ。オーケストラとコーラスはナポリ・ロッシーニ管弦楽団&合唱団で、ちょっと耳慣れない団体ではあるが、指揮者の優れた手腕に導かれて抜群のロッシーニ・サウンドを聴かせてくれる。音質もさすがデッカの名録音で、鮮明そのもの。(※録音年代に起因するヒス・ノイズは、あるけれども。)

さて、ヴァルヴィゾ盤<セヴィリアの理髪師>に出演している歌手たちの中で特に素晴らしいのは、まず何と言っても2人のバス歌手、フェルナンド・コレナと若き日のニコライ・ギャウロフである。コレナはバルトロ、ギャウロフはドン・バジリオをそれぞれ演じているが、この両名の圧倒的な存在感といったら、もうとても言葉では言い尽くせない。ロジーナのアリア『今の歌声は』と、それに続くバルトロとドン・バジリオのやり取り、そしてバジリオのアリア『陰口はそよ風のように』へとつながる部分は、この全曲録音の中でもおそらく一番の聴きどころであろう。

コレナの性格的歌唱と演技の見事さについては今さら何をか言わんやだが、若きギャウロフさん演じるドン・バジリオが、これまた物凄い。アリア『陰口はそよ風のように』での声と表現力の豊かさにまず圧倒されるが、第2幕には文字通り度肝を抜かれる場面がある。具体的には、「急病になったはずのドン・バジリオが突然現れたので、驚いたフィガロたちが必死になって彼を追い返す」という場面だ。ここでギャウロフが轟かせる一声「ブオ~~ナ・セ~ラ~♪」の壮大さと言ったらどうだろう。これを初めて聴いた時、私は腰が抜けそうになった。ステントリアン(stentorian)という英単語はまさに、こういう声を表現するためにあるものだと確信する。ヴァルヴィゾ盤を聴いていると、バルトロとドン・バジリオの2人こそがこのオペラの真の主人公なのではないかとさえ思えてしまう。

その飛びぬけた2人に次ぐ出来栄えを示すのは、ロジーナを歌う若きベルガンサだ。彼女は上述のアバド盤2種にも同じ役でくり返し出演しているから、まさにスペシャリスト的な存在であったことが分かる。かつて映像ソフトを鑑賞しながら、「小股の切れ上がったいい女」などという古めかしい言い方を、私はついつい思い浮かべてしまったものである。ヴァルヴィゾ盤での彼女は、ソプラノの声域にまで達する高音を鮮やかに、且つ美しく響かせて、聴く者を魅了する。

一方、主役の男性2人については、残念ながら、あまりほめまくった文章は書けない。と言っても、アルマヴィーヴァを演じるウーゴ・ベネッリの方はとりあえず不足なく役目を果たしている感じで、まあまあ悪くないと思う。問題は、フィガロ役のマヌエル・アウセンシというバリトン歌手だ。声は一応持っている人である。しかし、単純に言ってしまえばこの人、歌が巧くないのだ。まずフィガロが登場する時の歌『私は町の何でも屋』など、この人の歌詞捌きにははっきり難があって、歌がちゃんと決まらない。さらにアルマヴィーヴァとの二重唱でも、フィガロが巧くない分、出来上がりの質が落ちる結果になっている。救いなのは、セリフのやり取りやアンサンブルの場面では一応めり込まない程度に役目を果たしてくれているというところだろう。

そういった弱点も一部にはあるものの、やはりヴァルヴィゾ盤は、数ある<セヴィリアの理髪師>全曲録音の中でも相当上位に置くことのできる名盤だと思う。オーケストラの明るい響きと歌手たちの生き生きとした名唱に浸りながら、とても楽しいひと時を過ごすことができる。

―次回も、シルヴィオ・ヴァルヴィゾの名盤。
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A・ギブソンとB・トムソン

2007年01月11日 | 演奏(家)を語る
今回のタイトルみたいに名前を並べると何だか言葉遊びみたいに見えるが、どちらも知る人ぞ知る、スコットランド出身の名指揮者である。と言うより、であった、と過去形にするべきかも知れない。ご両人とも既に、幽明境を異にしておられるからだ。ちなみに、それぞれの名前をちゃんと書くなら、アレグザンダー・ギブソン(1926~95)と、ブライデン・トムソン(1928~91)である。今回の記事は、この2人の指揮者のCDを材料にしてみたい。

●シベリウス : 《四つの伝説曲》、他 【Chandos盤】
●ヘンデル : <水上の音楽>全曲 【Chandos盤】
●ホルスト : 組曲<惑星> 【Chandos盤】 
(※以上、指揮はすべてアレグザンダー・ギブソン)

《四つの伝説曲》はシベリウスの交響詩の中でも代表的な傑作の一つで、そこから独立して演奏されることも多い<トゥオネラの白鳥>は特に有名だ。しかし、その名曲と並んで演奏される<トゥオネラのレミンカイネン>も、私の好きな一曲である。昨年(2006年)、この曲の隠れた好演CDを聴くことが出来た。今回のタイトルに掲げた指揮者アレグザンダー・ギブソンが、手兵のスコティッシュ・ナショナル管を指揮した演奏がそれである。

実はこの名コンビには何年も前、エルガーの行進曲<威風堂々>全5曲【Chandos盤】で非常に感動させてもらったことがあった。と言うよりこれ、今でもなお私にとって同曲のベストCDである。第1番だけなら他の指揮者による名演もあろうけれど、全5曲といったら、ギブソン。ボールトよりも、バルビローリよりも、ギブソンである。オーケストラ自体の音色の魅力、そしてけれん味のない気品溢れる指揮ぶりが実に素晴らしい。で、それ以来この指揮者のCDをあれこれと入手してきたのだが、残念ながら、どちらかと言えば期待外れな演奏の方が多かった。

しかし一昨年から昨年にかけては、いくつか良い物が買えた。その一つが、上記《四つの伝説曲》を含むシベリウス作品の1枚というわけである。尤も、有名な<トゥオネラの白鳥>などはかなり控えめで寡黙な演奏であるため、私などの感覚では、もう少し雄弁な表情を見せてほしいように思われた。それが、<トゥオネラのレミンカイネン>に入ると冒頭の弦のざわめきが不気味な暗さを巧みに表現し、うねるような金管が迫力に満ちた大きなスケール感を生み出す。こちらはかなりの名演で、非常に気に入った。また、このCDは併録された他の曲も良い出来栄えで、特に<ルオンノタール>が素晴らしかった。

それから少し後に買ったヘンデルの<水上の音楽>でも、なかなかの好演が楽しめた。各楽器の響きが、何ともノーブルで典雅。全体に柔らかみのあるしっとりした感じの演奏で、特にトラック5の「エアー」などに漂う貴族的なたたずまいなど、古楽器派の人たちによるシャキシャキ演奏からはまず得られない独特な味わいがあった。聴く人によっては緩い演奏と感じられてしまう可能性もありそうだが、私はこのギブソン盤、結構気に入っている。

せっかくなので、ホルストの組曲<惑星>も挙げておこう。これまた、非常に品の良い名演奏をギブソン氏は遺してくれた。『火星』や『天王星』あたりでは相当ダイナミックなパワーを見せるが、それがChandosレーベルの上品な音作りと相俟って、決してわめかない“大人の名演”に仕上がっている。あっさりと流してしまう『木星』の中間部にはちょっと物足りなさを感じたものの、それ以外の曲はとても良かった。『土星』の前半部や『金星』に聴かれるシルキーな弦の美しさ、『水星』のデリケートな魅力など、全体にわたって上質のオーケストラ演奏を楽しむことができた。こういうメロウ(mellow)な<惑星>もまた良きかな、である。

(※アレグザンダー・ギブソンが他界したのは1995年とのことで、ちょうど私がクラシック音楽から少し離れていた時期に重なるようだ。どうも、この人の訃報にリアル・タイムで触れた記憶がない。)

●マルコム・アーノルド : 《イギリス舞曲集》 【Chandos盤】

昨年購入した数あるCDの中で、私にとって一番の“めっけもん”となったのは、実はこれであった。マルコム・アーノルドの《イギリス舞曲集》である。中古のバーゲン価格でとんでもなく安く見つけたので衝動買いして手に入れたのだが、家に帰って聴いてみたらまあ、これが大当たり!非常に良いCDだった。指揮は今回のタイトルに掲げたブライデン・トムソンで、オーケストラはヒュー・ビーンという人がリーダーを務めるザ・フィルハーモニアというグループである。

まずトラック1~4は、<イングランド舞曲・第1集>。私が特に気に入ったのは、第3曲の「メスト」だ。漣(さざなみ)のような弦に乗って、ファゴットが夕暮れのようなテーマを吹く。それがやがて弦のアンサンブルに引き継がれて大きなスケールの音楽に広がっていくのだが、まあ、そのテーマの魅力的なこと。

続くトラック5~8は、<イングランド舞曲・第2集>。作りは第1集と同じで、これも4つの曲で構成されている。ここでもやはり、第3曲が良い。トラック7の「グラツィオーゾ」。どこか寂しげなムードを持った、きれいなメロディが印象的。

トラック9~12は、<スコットランド舞曲集>。やはり4つの曲で構成されているが、これまた、3曲目が良い。具体的には、トラック11の「アレグレット」だ。ハープと弦、そこにフルートのソロが加わって、民謡風の美しい旋律を聴かせる。ああ、このCDを買ってよかったなあ、と繰り返して実感されるひと時である。

トラック13~16は、<コーンウォール舞曲集>。これは、2曲目の「アンダンティーノ」が非常に面白い。「え、これが舞曲?」と思わず首をひねりたくなるような、不思議な曲だ。一言で表現すれば、とってもミステリアス。映画のBGMにでも使えそうな音楽。例えば、主人公が怪しげな魔法の森に迷い込んだ場面とか。w

トラック17~20は、<アイルランド舞曲集>。これは第1曲「アレグロ・コン・エネルジコ」がいきなり北欧バーバリズム風の音楽で、実にゴキゲンな逸品。すぐ近くに、あのヨウン・レイフスが立っていそうな感じがする。w それに続く第2曲「コモド」と第3曲「ピアチェーヴォレ」で少ししっとりさせた後、最後の第4曲「ヴィヴァーチェ」で再びダイナミックに締めくくる。―という訳で、このCDはまさに、めっけもーん!なのであった。

さて、ここで素晴らしい指揮ぶりを披露しているブライデン・トムソンという方、腕は間違いなくピカイチの人だったのだが、生前のレパートリーについてはかなり個性的な路線を歩んでおられたようだ。交響曲ひとつを例にとっても、ヴォーン=ウィリアムズやバックスの全集、デンマークの作曲家ニルセンの全集、さらにはチェコの作曲家マルティヌーの全集など、やたらマニア志向の強い物ばかり作っていた。それ以外ではエルガーやハーティ、ウォルトン、アイアランド、そして今回採りあげたアーノルドみたいなイギリス系作家の作品を相当数録音に遺してくれていた、という感じになるだろうか。

それらのうち、今回語った《イギリス舞曲集》以外で私が昨年聴いたのは、アーノルド・バックスの交響曲全集とレイフ・ヴォーン=ウィリアムズの交響曲全集【どちらもChandos盤】だった。前者バックスについては、トムソンの優れた指揮による演奏の見事さこそ十分に納得できたものの、曲自体がどうにもつかめず、割と早いうちに手放してしまった。後者ヴォーン=ウィリアムズの方は、曲、演奏とも非常に気に入っている物が多いので、まだ手元に置いてある。マルティヌーの交響曲は今のところ、ちょっと私には縁がない。ニルセンについては、<第4&6番>という1枚を何年か前に通販で買い、今でもしっかり持っている。

ニルセンの第4番は俗に<不滅>という標題で呼ばれる人気交響曲だが、実はこのトムソン氏の演奏、私のお気に入りである。オーケストラは、ロイヤル・スコティッシュ管弦楽団。響きの充実ぶりもさることながら、表現もまた一本調子ではなく、ダイナミックな力強さと細やかな繊細さが見事に同居している。各楽器のバランスも、指揮者の耳とセンスの良さを実証するような素晴らしいものだ。勿論、あの“飛び交うティンパニ”も申し分のない迫力と立ち上がりで、録音も極上。ちょっとそっけない第2楽章には不満を感じるものの、総合点で評価すると、このトムソン盤は現段階でのマイ・ベスト<不滅>である。

その<不滅>の第2楽章にも関連するのだが、このトムソン氏の演奏に欠けがちだった要素をここで敢えて指摘するなら、それは、「寂しげな詩情」であったように思う。例えば、彼が指揮したヴォーン=ウィリアムズの管弦楽曲集など、私にはどうも物足りなかった。雄勁にして渋い輝きを放つ名演奏ではあったものの、胸にしみ入るような寂しさが殆ど伝わってこなかったのだ。しかし、そういう一面は仮にあったとしても、氏の音楽にはいつも、何か底光りのするような魅力が備わっていた。これは、常に実感された事である。

(※名職人トムソンの訃報に触れたのは1991年、『レコード芸術』のイヤーブックか何かに載っていた小さな記事だった。「あら~、惜しい方を亡くしてしまった」と、当時ちょっと寂しい思いがしたものだが、上記のようにいささかマニアックな存在であったためか、彼の死が日本のクラシック・ファンの間に大きな衝撃をもたらすということはなかった。それは言わば、「周辺的な死」という言葉を想起させるようなものに思えた。)
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ストロングの<オンディーヌ>と、カーペンターの<乳母車の冒険>

2007年01月05日 | 作品を語る
前回語った指揮者サバタの「バタ」から、イギリスの作曲家ジョージ・バタワースの名が思い浮かんだ。しかし、バタワースの曲を聴いたのはもう随分前のことになるので、今回の特番テーマには残念ながらそぐわない。じゃあどうしようかと、ひとしきり考えあぐねていたら、彼と同じファースト・ネームを持つアメリカ人の作曲家を一人思い出したのだった。ジョージ・テンプルトン・ストロング(1856~1948)である。実はこういう人がいることを知って、その作品のCDを買って聴いたのはつい昨年のことであった。「おお、これなら今回の特番にピッタリだ」と掌(たなごころ)をポンと打ち、このトピックが決定したという次第。

さて、G・T・ストロングという人、驚いたことにあのオンディーヌ(=ウンディーネ)を題材にした交響詩を書いていたらしい。ウンディーネと言えば当ブログでちょうど1年前、長いシリーズにして語っていた水の妖精である。その作品は1882~83年に作曲され、1939年に指揮者アンセルメの依頼によって改訂版が作られたとのこと。演奏時間はだいたい25分半ほどで、その大まかなプロットがCD添えつけの英文解説書に載っている。以下、順を追ってその流れを見ていこうと思う。

●ストロング : 交響詩<オンディーヌ>、他 (ナクソス盤)

仄暗い情趣を湛えた冒頭部は、老漁師夫婦とオンディーヌの静かな生活を描いたものらしい。〔1:58〕あたりから出て来るクラリネットのソロは、「愛に対するオンディーヌの憧れ」、そして「オンディーヌの水霊界への依存」を表しているそうだ。タイム・カウンターが3分半ぐらいのところで、“パン、パ パーン!”という力強いテーマがホルンで示されるが、これが騎士フルトブラントである。この部分、音楽がかなり勇ましく盛り上がる。5分半ぐらいから先の部分は、「オンディーヌ叔父キューレボルンとフルトブラントの葛藤」を描いているようだ。ここは次第にフルトブラントを象徴する金管が優勢になってきて、ついに騎士が勝利を収めることを示唆する。タイム・カウンターでは、〔11:49〕のあたり。

その後、オンディーヌとフルトブラントの結婚シーンに続く。しかし〔12:40〕あたりから、木管によるベルタルダのテーマが示され、そこから少しずつ様子が変わってくる。解説書によるとこのテーマは、「生き生きとして楽しげではあるが、どこか浮ついておしゃべりな女」というベルタルダの性格を表現しているようだ。また、フーケーの原作にはない展開だが、この曲のプロットには、「ベルタルダがフルトブラントを取り戻すため、彼に惚れ薬の入った飲み物を渡して飲ませる」という場面があるらしい。騎士のテーマとベルタルダのテーマが、ここで交錯する。

解説書によると、3人によるドナウ川の船旅の場面がその後続くらしいのだが、それはおそらく〔15:20〕あたりからではないかと思う。やがて、フルトブラントとオンディーヌの舟上での諍(いさか)いが始まり、音楽が少し激しくなってくる。タイム・カウンターで言えば、17分過ぎぐらいのところか。このあたりの音楽はまさに、19世紀ロマン派だ。18分を少し過ぎたあたりから、フルトブラントのテーマとそのトリオとしてベルタルダのテーマが交互に奏され、どうやらオンディーヌが負けたらしいことが分かる。

演奏時間が20分を過ぎたあたりから、曲はエピローグに入る。〔20:41〕のところで、ワグナーの<森のささやき>みたいな音楽が聞こえてくる。そして泉からオンディーヌが現われて、フルトブラントを死に誘(いざな)う場面となる。それまではいつも力強く吹かれていた金管のテーマが、ここでは弱く演奏される。〔22:47〕から聞かれる控えめな弦楽は、水の世界を表現しているのかもしれない。「水霊界で、二人の愛が成就した」ということを、この部分で表しているようだ。そして〔24:30〕のあたりから、曲はエンディング。冒頭の仄暗い音楽が再現され、「老いた漁師夫婦は、これからはずっと二人だけで生きていくことになる」という内容が描き出されて、全曲の終了。

―いやあ、こういう曲を書いていたアメリカ人がいたのだなあ。この新発見も、昨年・2006年度の大きな収穫の一つであった。では続いてもう一人、別のアメリカ人による“知られざる名曲”を一つ。

●カーペンター : 組曲<乳母車の冒険>、他 (ナクソス盤)

ジョン・オールデン・カーペンター(1876~1951)の代表的傑作<乳母車の冒険>(1914)を、私は大学時代にLPレコードで聴いた。ハワード・ハンソン&イーストマン・ロチェスター管によるマ-キュリー盤である。しかしまあ、随分古い話だ。そして昨年、ナクソスの廉価盤で同曲の新録音が出ているのを見つけ、ちょっと懐かしくなって買ってみた。ジョン・マクローリン・ウィリアムズ&ウクライナ国立響による演奏。これは買ってよかった、大正解である。

1.乳母車に乗って 2.お巡りさん 3.ハーディ・ガーディ 4.湖 5.犬 6.夢

第1曲『乳母車に乗って』は、主人公の赤ちゃんが乳母車に乗せられて、「さあ、お出かけ」という場面。後ろから車を押すのは、お世話係の乳母である。短い前奏に続いて作品の主要テーマが出て来るが、これが何とも可愛らしい。

第2曲『お巡りさん』には、乳母と会話する体の大きな警察官が登場。出だしがちょっと笑える。アメリカのTVによくある、30分のコメディ・ドラマ(=いわゆるsit-com、シチュエーション・コメディ)が始まる時の音楽みたいなのだ。その後も、のどかな情景が続く。この警官の目と歩き方が赤ちゃんに強い印象を与えていることが、カーペンター自身による作曲ノートに書かれている。

第3曲『ハーディ・ガーディ』は、手回しオルガンの楽しげな音が赤ちゃんを楽しませる場面。日本でも、どこかの遊園地で聞けそうな音楽が出て来る。有名なオペラやナポリ民謡の一節を、ピーヘロヘロとひょうきんに奏でるのが愉快だ。黒っぽい服を着た男女が交代しながらハンドルを回して音を聞かせ、赤ちゃんもすっかり上機嫌。最後は、さっきのお巡りさんがやって来てオルガン回しの男女を追い払ってしまうことになるのだが、赤ちゃんの心には、“禁じられた”楽しい音楽が鳴り続けるという展開。

第4曲『湖』は名曲!赤ちゃんを乗せた乳母車が開けた場所に出て、目の前に大きな湖が広がるという場面だ。この曲はもう、出だしから最高である。ゆらぐ大小の波、その波頭にきらめく陽光、水面(みなも)をわたる心地よい風、これらが見事に音で表現されている。何という平和なひと時、幸福のひと時!

第5曲『犬』は、姿も性格も様々な犬たちが次々と現れて、赤ちゃんを楽しませる場面。音楽的には、一種のスケルツォ楽章みたいな性格を持つ部分だ。せわしない弦の運動と、それに続く表情豊かな各種の管楽器が、犬たちの様子を巧みに表現する。

最後の第6曲『夢』がまた、名曲。第4曲の『湖』と並ぶか、あるいはそれ以上の逸品だ。いろいろな物を見聞きして気持ちがいっぱいになった赤ちゃんが、乳母車に心地よく揺られながら、すやすやと眠りに入る場面である。これは演奏時間にして7分20秒ほどの曲だが、コーダにさしかかる部分になると、聴きながら目頭が熱くなる(※ナクソス盤では、〔5:25〕からの部分)。これは本当に、安らぎと幸福感に満ちた美しい音楽である。またそれだけでなく、幼年期へのノスタルジーと小さき者への愛を、聴く人の心に優しく喚起する音楽でもある。チェレスタの音が、ここで最大の効果を発揮する。

ナクソス盤の指揮者J・M・ウィリアムズは細やかな表情をもって、各曲を美しく奏でている。色彩感の描出も見事だ。ウクライナ国立響も、心のこもった柔らかくて精妙な音を紡ぎ出す。特に、『湖』と『夢』の演奏は絶品。かつてのハンソン盤にも素朴な良さみたいなものはあったが、一段と優れた内容を持つ新録音の登場を心から喜びたい。名作<乳母車の冒険>との、学生時代以来の素晴らしき再会。これも、昨年度の大きな収穫の一つであった。

―さて、次回へのつなぎはまた、しりとり。「うばぐるま」の「ま」を受けて、昨年買ったマルコム・アーノルドの素敵なCDを元ネタにして、2人のイギリス系指揮者の名盤をいくつか語ってみることにしたいと思う。
コメント (4)
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