クラシック音楽オデュッセイア

2009年の大病以来、月1回程度の更新ペース。クラシックに限らず、身の回りの事なども、気の向くままに書いております。

祝典歌劇<リブシェ>(1)

2006年08月28日 | 作品を語る
先頃語ったアドニスのスをしりとりして、今回からスメタナの作品についてのお話に入ってみたいと思う。作曲家スメタナと言えばやはり、6曲からなる連作交響詩《我が祖国》や、歌劇<売られた花嫁>などがとりわけ有名なものだろう。しかし当ブログでは、いわゆる「国民歌劇」に分類されるスメタナ作品のうち、その代表的な2作と言ってよいであろう<リブシェ>と<ダリボル>を中心に語ってみることにしたい。

まず今回は、英語訳でfestive operaという肩書きが付いている<リブシェ>の方から。これは、チェコの古い伝説に語り継がれる「女王リブシェの結婚と、王位委譲の物語」に、ある男女の色恋話を加えて脚色された祝祭オペラである。ただ、この祝典劇は全曲の演奏時間が約2時間30分という大作なので、細かい部分は割愛して大まかなポイントだけを見ていく形にしたいと思う。(※なお、登場人物の名前については、チェコ語の読み方が分からないため、一部推測で書いているものがある。その不正確な部分についてはあらかじめ、お詫びしておきたい。)

―祝典歌劇<リブシェ>のあらすじ

〔 第1幕 〕

父親が残した財産の相続を巡って、ある兄弟が仲違いしている。そしてこの一件の解決が、女王リブシェ(S)に託された。第1幕は、その裁定の場。ヴルタヴァ(=モルダウ)の谷に面したヴィシェフラトの城で、リブシェが裁定を下す。「兄弟二人で分け合って、一緒に管理しなさい」。弟のシュターラフ(T)はそれを受け入れるが、兄のクルドシュ(B)は納得しない。「近隣の国では、財産はすべて長男が引き継いでいる。それを何で、弟と分け合わなきゃならんのだ」。さらに彼は、男尊女卑の思想を露骨に打ち出し、「男が従う相手は、男のみ。女が出した裁定などに従えるか」とリブシェをなじって立ち去る。

(※輝かしいファンファーレに続いて、全体に祝典ムードの強い前奏曲が最初に演奏される。このファンファーレは、ドラマの大事なところで繰り返し出て来る重要モチーフである。やがてリブシェが登場し、「私を導くのは神々・・・」と長い独唱を始めるのだが、その中間部以降に、あの交響詩<モルダウ>で聴かれる音型によく似たものが出て来る。いかにもスメタナのオペラだなあ、と実感される瞬間だ。)

この一件の後、リブシェは決意する。「皆さんが今ご覧になったとおり、私は女であるという理由で侮辱を受けました。拳の力を持つ男性の統治がお望みなら、そのように致しましょう。私はこれから結婚して、夫となる男性に王位を譲ることにします」。リブシェの側近たちの中には、彼女が早く身をかためてくれることを望んでいた者も多かった。その一人であるラドヴァン(B)は、リブシェの決意を喜ぶ。「リブシェ様が自ら、良きお相手をお選びになりますように」という合唱を受けて、リブシェは意中の男性の名を叫ぶ。「彼の名は、プシェミスル」。全員の力強い合唱が轟くところで、第1幕が終了。

〔 第2幕 〕

第1幕の裁定の場で、一人苦悩していたクラサヴァ(S)という女性がいる。彼女は仲違いしている兄弟の兄の方クルドシュを愛しているのだが、気持ちの行き違いから、弟のシュターラフの方に気があるような素振りをずっと見せていた。その恋心のもつれが、兄弟の遺産相続争いに進展し、とうとうプリンセス・リブシェまでをも巻き込む事態になってしまったのだった。クラサヴァは今、それをひどく悩んでいるのである。ついに彼女は、父リュトボル(B)にそれまでの事情を打ち明ける。リュトボルは言う。「これからわしは、クルドシュを呼び出す。クラサヴァよ、クルドシュとの和解はお前自身で成し遂げよ」。やがて、父親の墓前に呼び出されたクルドシュが現れる。そこへクラサヴァがやって来て、自分の本心と、彼と行き違ってしまった事情を語り、変らぬ愛情を訴える。もともとクラサヴァを愛していたクルドシュは、頑なになっていた心をついに解き、彼女との愛を確かめ合う。その様子を見ていたリュトボル、ラドミラ、そしてシュターラフの三人は、「良かった。これであとは、リブシェ様との和解が図れれば」と喜ぶ。

場面変って、リブシェの結婚相手となるプシェミスル(Bar)の農場。のどかな雰囲気を醸し出す木管のアンサンブルを背景に、収穫作業をする4人が楽しげに歌う。それに続いて、チェロやホルンの効果的な独奏に導かれたプシェミスルの歌が始まる。その長い独白の中で、彼はリブシェへの想いを語り出す。「リブシェとともに学んだ日々が懐かしい。彼女の面影が、今も心から離れない・・・」。続いて、4人の刈り入れ人とプシェミスルのやり取り。「さあ、お昼だ。仕事を切り上げて、休むことにしよう」。

(※このお昼休みに入ろうとする場面では、いかにもチェコの音楽らしい活気に満ちた舞曲が出て来る。歌劇<売られた花嫁>で使われているモチーフの一つによく似たものだ。このあたりは、国民歌劇に必須とされる“民族素材の活用”という感じだろうか。)

そこへ、リブシェから派遣されたラドヴァンたち一行が馬に乗ってやって来る。ラドヴァンが、プシェミスルに言う。「我々は、女王リブシェの使いで参った。この白馬に乗って、そなたも参られよ。そしてヴィシェフラトの城門を、女王の配偶者としてくぐるのです」。ついに想いがかなうときが来た、とプシェミスルは喜ぶ。その後、裁判の場でリブシェが侮辱されて傷ついた出来事が彼に伝えられる。それから一同が揃って城に向かうところで、第2幕が終了。

(※この場面で聴かれる音楽としては、馬に乗ったラドヴァンたちの一行がだんだん近づいてくるところの情景描写が良い。ここでのスメタナの管弦楽表現は、実に巧みである。また、この第2幕は上の第1幕と同様、最後を締めくくる力強い合唱がなかなかの聴き物だ。)

〔 第3幕 〕

ヴィシェフラト城内。今回の一件の当事者たちが揃って、リブシェの前に集まっている。クルドシュとシュターラフの兄弟。その姉ラドミラ。そしてクラサヴァと、彼女の父リュトボル。穏やかな音楽を背景に、リブシェが優しく語りだす。「争いごとは解決しましたね。私も、これから結婚です」。続いて彼女は、クルドシュに向かって言う。「弟のシュターラフと握手し、クラサヴァと愛し合ってください。そして私があなたを許したように、私の夫もあなたを許してくれるように頼んでみます」。リブシェに感謝する一同の合唱。「リブシェ様の行くところ、いずこにも栄光がありますように」。

やがてラドヴァン、プシェミスルたちの一行が城に向かってくる。リブシェの喜びの歌。「彼がやって来るわ。そして、私の人生の大きな転機が。我が父クロク王よ、どうぞこの身に御加護を」。続いて、リブシェに仕える侍女たちによるお祝いの合唱。「お二人に幸せを」。

その一方、事件の発端となった一家ではまた悶着が起こる。クルドシュがまた、ごね始めたのだ。「リブシェは、王としての全権を夫に譲ると言わなかったか」。まわりの者たちは叱ったり嘆願したり、何とか彼をなだめようと四苦八苦。

そこへ、すっかりお馴染みになっているファンファーレがひときわ高らかに鳴り響き、婚礼の行列がやって来る。プシェミスルがリブシェと愛の言葉を交わし、王位就任宣言を行なう。そして新しく王となった彼は、リブシェを傷つけた裁判の一件に言及する。それを受けてクルドシュは、男としての自身の矜持(きょうじ)を述べた後、リブシェへの謝罪の意志を態度で示す。新王プシェミスルが、「そなたの名誉が土にまみれることはない。我が抱擁を受けよ」とクルドシュに告げると、全員による喜びの合唱が始まる。

―この続き、全曲の最後を締めくくる第3幕第6場「リブシェの予言」については、次回。また、次回は枠に余裕が出来るので、スメタナが書いたオペラの中でおそらく最もポピュラーな物と言ってよいであろう<売られた花嫁>について、少しだけ触れる予定である。LP時代から愛聴してきたルドルフ・ケンペの指揮によるEMI盤の演奏について、ごく短い感想文を書いてみようかと考えている。
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過去の記事タイトル一覧(151~200)

2006年08月26日 | 記事タイトル一覧表
今回は、第151番~200番。

151. ダラピッコラの歌劇<ウリッセ>(2) : 2006年4月13日
152. ダラピッコラの歌劇<ウリッセ>(3) : 2006年4月16日
153. フォーレの<ペネロプ>(1) : 2006年4月20日
154. フォーレの<ペネロプ>(2) : 2006年4月24日
155. フォーレの<ペネロプ>(3) : 2006年4月27日
156. <ペネロペの救出>と<哀れな水夫> : 2006年5月1日
157. 歌劇<オベロン>(1) : 2006年5月6日
158. 歌劇<オベロン>(2) : 2006年5月11日
159. 歌劇<オベロン>(3) : 2006年5月16日
160. 歌劇<後宮からの逃走> : 2006年5月21日
161. <後宮からの逃走>~2つのモノラル盤 : 2006年5月29日
162. <後宮からの逃走>~3つのステレオ盤 : 2006年6月3日
163. <後宮からの逃走>~2つの古楽器派演奏 : 2006年6月7日
164. 歌劇<コジ・ファン・トゥッテ> : 2006年6月13日
165. <コジ・ファン・トゥッテ>~カラヤン、ベーム(’62) : 2006年6月19日
166. <コジ・ファン・トゥッテ>~ベーム(’74)、ムーティ : 2006年6月24日
167. <コジ・ファン・トゥッテ>~フォンク : 2006年6月29日
168. <コジ・ファン・トゥッテ>~クイケン : 2006年7月4日
169. 歌劇<アブ・ハッサン> : 2006年7月9日
170. 歌劇<オイリアンテ>(1) : 2006年7月14日
171. 歌劇<オイリアンテ>(2) : 2006年7月22日
172. パーセルの<妖精の女王> : 2006年7月28日
173. 歌劇<ディドーとエネアス>(1) : 2006年8月3日
174. エリーザベト・シュワルツコップの訃報 : 2006年8月7日
175. 歌劇<ディドーとエネアス>(2) : 2006年8月12日
176. ブロウの<ヴィーナスとアドニス> : 2006年8月17日
177. ギリシャ神話に見るアドニスの物語 : 2006年8月22日
178. 過去の記事タイトル一覧(151~最新) : 2006年8月26日
179. 祝典歌劇<リブシェ>(1) : 2006年8月28日
180. <リブシェ>(2)、ケンペの<売られた花嫁> : 2006年9月2日
181. 歌劇<ダリボル> : 2006年9月7日
182. アストリッド・ヴァルナイ(1) : 2006年9月12日
183. アストリッド・ヴァルナイ(2) : 2006年9月17日
184. 歌劇<イワン・スサーニン>(1) : 2006年9月22日
185. 歌劇<イワン・スサーニン>(2) : 2006年9月27日
186. 歌劇<ルスランとリュドミラ>(1) : 2006年10月2日
187. 歌劇<ルスランとリュドミラ>(2) : 2006年10月7日
188. 歌劇<ルスランとリュドミラ>(3) : 2006年10月12日
189. 歌劇<皇帝の花嫁>(1) : 2006年10月17日
190. 歌劇<皇帝の花嫁>(2) : 2006年10月22日
191. 歌劇<サトコ>(1) : 2006年10月27日
192. 歌劇<サトコ>(2) : 2006年11月1日
193. ブィリーナの英雄たち : 2006年11月6日
194. 歌劇<雪娘> : 2006年11月12日
195. チャイコフスキーの<雪娘> : 2006年11月17日
196. 歌劇<モーツァルトとサリエリ> : 2006年11月22日
197. 歌劇<イーゴリ公>(1) : 2006年11月27日
198. 歌劇<イーゴリ公>(2) : 2006年12月2日
199. 歌劇<イーゴリ公>(3) : 2006年12月6日
200. 歌劇<イーゴリ公>(4) : 2006年12月10日
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ギリシャ神話に見るアドニスの物語

2006年08月22日 | エトセトラ
前回語ったジョン・ブロウの<ヴィーナスとアドニス>にちなんで、今回は、その原典となっているギリシャ神話の物語から始めてみたい。しかし、混乱を避けるために、まず名前の表記について整理しておくべきだろう。ヴィーナスという名前は、ローマ神話での呼び名をもとにした英語流の言い方である。本元のギリシャ神話では、アフロディテ(アープロディーテ)だ。さらに、彼女の息子であるキューピッドも同様で、これもギリシャ神話では、エロスが本来の名前である。しかし、この二人の名前については、「アフロディテとエロス」というよりも、「ヴィーナスとキューピッド」といった方がずっと耳慣れた親近感があるので、そちらを採用したいと思う。それ以外の名前については、基本的にギリシャ語流の読み方を使うという形にしていきたい。(※ちなみにアドニスという名前も、アドーニスと真ん中を伸ばす表記の方が原音に近いようなのだが、これもよく見かけるアドニスの方にしておこうと思う。)

●アドニスの物語

キュプロスの王キニュラスには、ミュラという名の娘がいた。ある時、彼女は祭祀を怠けてしまい、ヴィーナスを怒らせることになった。怒れる女神は息子のキューピッドに命じて、ミュラの胸に矢を射させる。

その時からミュラは、激しい恋心に悶え始める。その相手は何と、自分の父親。それまで親として敬愛してきたキニュラスが、性愛の対象に変ってしまったのだ。燃え上がる欲情と羞恥心の板ばさみに苦しみ、彼女は自殺を試みる。しかし、そこを乳母に見つかって、自殺は未遂に終わる。その後、彼女から胸のうちを告白された乳母は激しく戦慄するが、やがて、その一途な思いを何とかしてやりたいと考えるようになる。そして祭りの夜、乳母は父王の寝室にミュラを導いてやることにする。夜の闇に紛れ、王妃が留守なのをよいことに、とうとうミュラは父親との愛の交わりを実現したのであった。しかも、この関係は一度で終わらず、その後も繰り返されることになる。

ある夜、キニュラスは自分が闇の中で抱いている若い女が何者であるかを見たくなり、明かりをともす。そこに自分の娘を見つけた王は激しい衝撃を受け、そばに置いてあった剣で彼女を殺そうとする。しかし、ミュラは危ういところで、その場から逃げ切る。それから山野をさまようこと9ヶ月、彼女は生きることに疲れ果ててしまう。この世にもあの世にも属さないものに自分を変えてください、という祈りを聞き入れた神々は、彼女を樹木に変えてやる。その涙は樹液となり、それは彼女の名の通り、ミュラ(没薬・もつやく)と呼ばれることになった。やがて、その樹皮が裂け、一人の男の子が産まれ出る。それが、ミュラと彼女の父との間に出来た“罪の子”、アドニスである。

ヴィーナスはアドニスを引き取り、ペルセポネ(=冥界の王ハデスの妻)に養育を任せることにする。ペルセポネのもとでアドニスは、やがて世にも美しい少年に成長する。育ての親としてすっかり情が移っているペルセポネは、その後アドニスを引き取りに来たヴィーナスに対して、「この子を、お渡ししたくありません」と拒否する。二人の女神の間に起こった争いを収めるべく、大神ゼウスが仲裁に入る。「アドニス君は一年の3分の1をペルセポネと過ごし、3分の1をヴィーナスと過ごしなさい。そして、残りの3分の1は自由に、好きなように過ごしなさい」。

それからというものヴィーナスは、美しいアドニスといられる時間を大事にした。アドニスは、狩りが大好きな活発な青年になる。白い美肌が自慢のヴィーナスであってみれば、日に焼けたり肌に傷がついたりする狩りなどもともとは嫌いだったのだが、彼と一緒にいるために、その狩りにまで付き合うようになる。しかし、「狩りは楽しいだけでなく危険なものでもあるのだから、ほどほどにしなさい」と、愛する若者にしばしば注意することも忘れなかった。

ある時、一人で狩りをしている時にアドニスはイノシシに激しく突かれ、瀕死の重傷を負う。ヴィーナスが駆けつけた時はもはや手遅れで、彼は女神の腕の中で静かに息を引き取る。彼の血が滴った土から、やがて真っ赤な花が咲く。それは、わずかな風が吹いただけでも散ってしまう儚い花であった。短い人生を終えたアドニスの血から咲いたその花は、「風」を意味するギリシャ語のアネモスからとって、アネモネと名付けられることとなった。

(※このお話にはいくつか違った説明付け、あるいは“尾ひれ”みたいなものが付いている。アドニスの死については、例えば、ゼウスの裁定に不満を感じたペルセポネがヴィーナスの愛人であった軍神アレスに告げ口したので、怒った軍神がイノシシに変身してアドニスを殺したという説。イノシシを差し向けたのは、実はアルテミスだったとする説。あるいは、イノシシの正体はヴィーナスの夫ヘパイストスであったという説。さらに、アドニスの誕生については、ミュラの木の皮を裂いてアドニスを出したのは父親のキニュラスであったという説。その他、様々な異説がある。今回書き出したのは一応、アドニスを巡る物語の本質的な部分を抽出したものと御理解いただけたらと思う。)

(※ギリシャ神話のオリジナル・ストーリーと、ジョン・ブロウの<ヴィーナスとアドニス>で使われた台本とを比べてみると、一つ重要な違いがあることが確認できる。原典では、ヴィーナスの忠告を聞かずに狩りに夢中になり過ぎたアドニスが、もっぱら本人の責任で命を落とすことになる。一方、ブロウ作品の中では、ヴィーナスがしきりに狩りに出るよう促したためにアドニスは死ぬことになる。つまり、ブロウの<ヴィーナスとアドニス>に於いては、「私が彼を、無理やり狩りに行かせたばっかりに・・」という自責の念がヴィーナスを襲うように仕掛けられているのだ。であればこそ、身も世もなく嘆き悲しむラスト・シーンでの彼女の姿に、一層強い説得力が出て来るというわけである。)

【 参考文献 】

●ギリシャ神話ろまねすく (創元社・編集部)
●欧米文芸・登場人物事典 (大修館書店)
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ブロウの<ヴィーナスとアドニス>

2006年08月17日 | 作品を語る
今回は、パーセルの歌劇<ディドーとエネアス>(1689年)の先駆的作品と見られるジョン・ブロウ(1649~1708)作曲による<ヴィーナスとアドニス>(1681年)についてのお話。この作品の原典となっているのは、ギリシャ神話に見られるアドニスの物語である。この美青年の誕生から死に至るまでの経緯と、女神ヴィーナスとの関わりについては次回独立したトピックで改めて扱うことにして、今回はジョン・ブロウが書いた<ヴィーナスとアドニス>について、まずちょっと語ってみたいと思う。

このブロウ作品の全曲録音は現在数種類あるようだが、私がこれまでに聴いたのはそのうちの2種。フィリップ・ピケット指揮ニュー・ロンドン・コンソート、他による1992年のオワゾリール盤と、ルネ・ヤーコプス指揮エイジ・オブ・エンライトゥンメント管、他による1998年のHM盤である。いずれも古楽器派のメンバーによるものだが、それらの演奏や解釈にはやはり少なからず相違点がある。以下、これら二つの名演奏を聴き比べながら、この「イギリス音楽史上、ひょっとしたら最初に産み出されたオペラ作品」について見ていきたい。

〔 序曲とプロローグ 〕

パーセルの<ディドーとエネアス>同様、ブロウの<ヴィーナスとアドニス>もフランス風序曲で開始される。これは、「荘重な出だしに、リズミカルな舞曲が続く」というパターンを持った序曲である。それに続くのは、キューピッドの前口上と羊飼いたちとのやり取り。

(※先に録音されたピケット盤では、リビー・クラブトゥリーというソプラノ歌手がキューピッドを歌っている。しかしこの人の声は決して“貫禄たっぷりのオバサマ・ソプラノ”ではなく、どこかボーイ・ソプラノ的な清澄さを持ったものだ。だから、キューピッド役に違和感なくはまっている。柔らかくて美しい仕上がりの合唱ともども、彼女の歌はしっとりとした心地よいプロローグを楽しませてくれる。一方、ヤーコプス盤でキューピッドを歌っているのは、カウンター・テナーのロビン・ブレイズ。輪郭のくっきりしたメリハリのある指揮に合わせて、ブレイズの歌も明瞭で押し出しのよいものになっている。)

〔 第1幕 〕

うっとりして長椅子に寝そべるヴィーナスとアドニス。やがて狩の音楽が聞こえてくる。アドニスは、「今日は、狩りには行かない。獲物はもう手にしたから、あなたと過ごしたい」と言うが、ヴィーナスは、「狩りにお行きなさいな」と、彼を促す。やがて、狩人たちがやって来る。

(※第1幕の導入になっている間奏曲は、リコーダーによるアンサンブルである。ピケットの解説によると、リコーダーという楽器の音は、「愛欲のシンボリズム」として使われていた面があるらしい。R・シュトラウスの<バラの騎士>のはるかな御先祖とも言えそうな冒頭シーンだが、音楽はさすがに素朴なものだ。ピケット盤の演奏はプロローグ同様ここでもしっとりとして、何だか寂しいぐらいのムードを漂わせている。ヤーコプス盤は逆に、くっきりと分離のよい明瞭な演奏。)

〔 第2幕 〕

ヴィーナスとその息子キューピッドの対話。続いて、キューピッドが幼いキューピッドたちに言葉を教える授業風景。その後、ヴィーナスがキューピッドに話しかける。「アドニスが心変わりしないようにするには、どうしたらいい?」「彼を冷たくあしらうのです」「まあ、アハハハ」。最後は、ヴィーナスに呼ばれた美の女神たちの合唱と、各種の舞曲。

(※ここでは特に、幼いキューピッドたちのレッスン風景が楽しい。難しい単語を音節ごとに分けて先生が発音し、それを生徒たちがついて真似するという学習パターンをやっている。これは実際に、17世紀イギリスの教科書で勧められていた教授法らしい。この場面は、ヤーコプス盤が笑える。幼いキューピッドたちを演じているのはクレア・カレッジ聖歌隊のメンバーということだが、ここに出演している子供たちの平均年齢はかなり低そうだ。あどけない愛くるしさに満ち溢れている。日本で言えば、音羽ゆりかご会みたいな感じだろうか。ちょっと反則じゃないの、と言いたくなるほどの可愛らしさだ。一方のピケット盤では、ウェストミンスター大聖堂聖歌隊のメンバーが演じている。こちらはぐっと大人っぽい。この両者を比べるとやはり、「ゆりかご会」の方が楽しくてほほえましいので、ややポイント・リード。)

〔 第3幕 〕

狩りの最中イノシシに激しく突かれ、瀕死の重傷を負ったアドニスが運ばれてくる。ヴィーナスの嘆きも虚しく、アドニスは彼女の腕に抱かれて息を引き取る。ヴィーナスの嘆きと、それに続く悲しみの合唱で終曲。

(※ブロウ作品で使われる楽器の中では、やはりリコーダーに特別な意味があるようだ。演奏家によって、はっきりと扱い方に違いが見られる。ピケットは、「リコーダーの音には、愛とは別に霊界を象徴する役割もあった」として、アドニスが死んだ後に流れるリトルネッロにリコーダーを採用している。しかしヤーコプスは、そのようにはしていない。逆に彼は、第2幕の冒頭にある間奏曲や、この第3幕を導く間奏曲で、リコーダーを強く前面に押し出すという使い方をしている。)

(※当作品の最大の聴きどころは何と言っても、この第3幕でのヴィーナスの嘆きである。残念ながら、これはアリアのレベルにまでは高められておらず、「悲しむヴィーナスと、死にゆくアドニスの対話」という形で書かれているのだが、アドニスに必死に呼びかけるヴィーナスの悲しい叫びは時空を超えて、現代の聴き手にも激しい慟哭として迫ってくる。ちなみに今回扱っているCDでヴィーナスを歌っている歌手としては、ヤーコプス盤のローズマリー・ジョシュアが圧倒的に素晴らしい。これは、入魂の名演だ。逆にピケット盤の良いところは、弦とチェンバロが描くアドニスの厳粛なる死の場面と、それに続くリトルネッロである。これほど見事な器楽演奏は、ヤーコプス盤では聴くことが出来ない。また、全曲を締めくくる最後の合唱も、どちらかと言えばピケット盤の方が、聴く者の心により強く響く力を持っているように感じられる。)

―さて、今回このブロウ作品について、「イギリス音楽史上、ひょっとしたら最初に産み出されたオペラ作品」という書き方を冒頭でしたのだが、その“ひょっとしたら”という部分についての補足を最後にしておきたい。

この作品の楽譜には、「国王の娯楽のためのマスク(=仮面劇)」という肩書きが付いているらしい。マスクというのは大体セミ・オペラに近いものと考えてよいようだが、ブロウ作品の内容を見ると、実質的に独立したオペラと見なすことも不可能ではなさそうなのである。ピケット盤の解説書によると、まずこの<ヴィーナスとアドニス>は、「セリフを一切使わず、すべて歌で通される作品としてイギリスで最初のもの」であることが指摘出来るそうだ。さらにヤーコプス盤の解説書には、「パーセルの<ディドーとエネアス>同様、小規模ではあるが、これはまぎれもなく純粋なオペラである」とはっきり書いてある。また、作曲年代順と双方の類似点から見て、このブロウ作品が<ディドーとエネアス>の直接的なモデルになっていた可能性も十分あるらしい。ただ、素人の私にはそのあたりについての結論は何も自信を持って出せないので、「これはひょっとしたら、イギリスが産んだ最初のオペラ作品と見てもいいのかな」というような気持ちを、上のような書き方で表現したわけである。

―次回は、ブロウ作品の原典となっているギリシャ神話の『アドニスの物語』に触れてみたい。
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歌劇<ディドーとエネアス>(2)

2006年08月12日 | 作品を語る
パーセルの歌劇<ディドーとエネアス>・第2回。今回は、第2幕の残り部分と第3幕について。

〔 第2幕 〕~残り部分

―ベリンダの歌「この美しき山峡(やまあい)、・・・狩りは楽しい、獲物は山ほど」。

(※狩りに出たディドーたち一行。侍女のベリンダが、その楽しみを歌う。憂いに沈みがちなディドーと鮮やかな対比を示しながら物語を生き生きと推進していくベリンダだが、これはそんな陽気な彼女が歌う名曲の一つである。今回採りあげている3種のCDの中では、クリスティ盤のジル・フェルドマンが、“歌のくっきりパワー”を最高度に発揮して、合唱団ともども極めて感銘深い名唱を聴かせる。ここは魔女たちの場面と並んで、クリスティ盤の演奏で聴かれる白眉のシーンと言ってよいだろう。ピノック盤のリン・ドーソンは、普通の出来。ホグウッド盤では、ディドー役にも定評のある名歌手エマ・カークビーがこの役を歌っている。ここでの彼女は、後の時代のオペラによく登場することになるスーブレット役の原型みたいなベリンダを歌い出している。)

―魔女たちが引き起こした嵐によって狩りは中止となり、一行は町へ向かう。しかし、一人になったエネアスのもとに魔女が化けたメルクリウス(=マーキュリー)神が現れる。その偽の神にせかされたエネアスは、ディドーと別れて出発しようと決意する。「大神の命に従って、今宵、船の錨を上げよう。しかし、傷ついた我が女王をどう慰めたらよいものか」。

(※ベルリオーズ作品に於けるエネアスには、英雄然とした風情がある。しかし、このパーセル作品のエネアスには、どこか軟弱なイメージがつきまとう。「運命に揺れ動くばかりの、優柔不断な男」みたいな感じなのだ。それは多分に、パーセルがこの役に施した音楽面での処理にその理由が見出せそうである。実はこのエネアスにはアリア、またはアリオーソと呼べるようなしっかりした歌が一つも与えられていないのだ。彼の気持ちがどんなに高揚しても、それは常にレチタティーヴォで終わってしまうのである。実際、今回採りあげている3種の古楽器派演奏の中に、堂々として逞しいエネアスは一人も出てこない。クリスティ盤のフィリップ・カントール、ピノック盤のスティーヴン・ヴァーコー、ともに優しいリリック・バリトンだ。ホグウッド盤で歌っているジョン・マーク・エインズリーに至っては、リリック・テナーと言うべき声である。かつてのLP時代の演奏家ならともかく、時代考証や楽曲の分析を深めた古楽器派の人たちにとって、当パーセル作品のエネアスが、「太くて逞しい声のバリトン」ということはもはやあり得ないのだろう。)

(※第2幕の幕切れは、そんなエネアスのささやかな見せ場である。私の感想としてはこの場面、ピノック盤のヴァーコーとクリスティ盤のカントールが互角の名演だ。両者は、甲乙つけがたい。一方、ホグウッド盤のエインズリーはテナーということもあって、上記二人のバリトン歌手が持つ存在感にはちょっと及ばないかな、という印象である。ちなみにホグウッド盤では、狩りの一行を嵐が襲う時の雷鳴や、ニセのメルクリウスが登場する時の風の音など、手の込んだ擬音が効果的に使われている。)

〔 第3幕 〕

―第1の水夫の歌「いざ行け、仲間のものよ。錨が上がる。猶予はならぬ。・・・岸辺のニンフにしばしの別れを告げよ。必ず戻ると誓いを立てて、彼女らの嘆きを鎮めてやれ。再び戻ってくる意志など、ありはしないが」。

(※この水夫の歌を誰が担当するかについても、演奏家による解釈の違いが窺われて非常に興味深いものがある。今回扱っている3種のCDの中で一番普通なのが、クリスティ盤。ミシェル・ラプレニというテノール歌手がごく自然に歌っている。ユニークなのは、ホグウッド盤。そこで歌っているダニエル・ロックマンという人は、最高音のトレブルを担当する歌手である。何だか蚊の鳴くような細い声で、弱弱しく歌う。勿論これは、指揮者の確固たる解釈に基づく選択だろう。ピノック盤には、さらなる驚きがある。水夫の役を、魔女のボスであるナイジェル・ロジャースに歌わせているのである。これはつまり、上に書いたような内容の歌詞を歌って一番似合うのは、他ならぬ魔女のボスではないか、という指揮者ピノックの見識が示されたものであろうと考えられる。これを初めて聴いた時は思わず、「うーん、なるほどね・・」とうなってしまった。)

―ディドーの最後の歌「ベリンダ、そなたの手を。・・・今はただ死こそ、我が喜び迎える客。・・・我を忘れたもうな。されど、ああ、我が運命(さだめ)は忘れたまえ」。

(※ディドー役の歌手にとっては、ここが勿論、一番の聴かせどころである。今回扱っている3種の中では、やはりピノック盤のフォン・オッターの歌が圧倒的に素晴らしい。人間ディドーの感情を深く抉り出した名唱で、心に強く迫ってくる。この人は本当に、才能豊かな歌手である。ちなみに、彼女がラインハルト・ゲーベルの伴奏指揮で歌った《バロック期のラメント集》も、大変見事なものであった。その中でもモンテヴェルディの<アリアンナの嘆き>は、同曲の代表的名唱の一つに数えてよいと思う。クリスティ盤のロランスも、ここに至ってついに最高の場を得たと言えるかも知れない。聴く者をしんみりとさせるのではなく、感傷を排したそのどこまでも気高い佇まいによって、深い感銘を与えるのである。ホグウッド盤のボットは、やはり第1幕冒頭のアリオーソと同様に軽いタッチの歌い方をしている。しかし、別れの場面でのエネアスがやたら軽いこともあって、このホグウッド盤のラスト・シーンはちょっと印象が薄いものになっているようだ。)

―終曲の管弦楽後奏について

ディドーの最後の歌が終わると、天界のキューピッドたちが現れる。そして、「ディドーの墓にバラの花を撒き、静かにここを守り、離れないように」というしめやかな合唱が響いて、全曲の終了となる。

(※全曲の最後をどのように終わらせるかについても、演奏家による違いが見られる。ピノック盤とホグウッド盤は、合唱が終わったあとしばらく管弦楽による後奏が続く。クリスティ盤には、その管弦楽後奏はない。どちらが良いか、一概には言えない。私個人的には、クリスティ盤のように後奏なしでスッと消え入るように終わってくれた方が、何か儚さみたいなものが余韻として残るので、少し良さそうに思える。しかし、ピノック盤で聴かれるような、心からしんみりした後奏に触れると、「ああ、これもいいかなあ」などと思えたりもしてしまうのである。)

(※ベルリオーズの歌劇<カルタゴのトロイ人>には、エネアスが去った後にディドーが自害して果てる場面がある。その彼女の周りで、カルタゴの人々がエネアスへの怒りや恨みを歌う。そして最後に、第1部で死んでいたカッサンドラが出て来て、「エネアスによってトロイアが再建されるのではなく、ローマが建国されるであろう」と、未来を予言して終わるのである。一方、パーセル作品では、ディドーの死の場面は描かれない。彼女がどのようにして息絶えたのかは、不明のまま残される。実は、この<ディドーとエネアス>のようなエンディング、つまり、「ラメントと、それに続くしめやかな合唱によって終わる形」を持つオペラ系の作品は、パーセルよりも前に同じイギリスの作曲家によって既に一つ、書かれていたのだった。)

―という訳で次回は、この<ディドーとエネアス>よりも前に書かれた、「イギリス音楽史上、ひょっとしたらこれこそ最初のオペラ作品」という見方も成り立つ、通人好みの逸品を採りあげてみることにしてみたい。
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