クラシック音楽オデュッセイア

2009年の大病以来、月1回程度の更新ペース。クラシックに限らず、身の回りの事なども、気の向くままに書いております。

「シルヴェスター(=大晦日)」の由来

2005年03月28日 | エトセトラ
前回語った指揮者のコンスタンティン・シルヴェストリという名前から、大晦日の催し物として、特にベルリン・フィルのものがお馴染みになっている、シルヴェスター・コンサートという言葉が連想された。しかし、なぜドイツ語で大晦日をシルヴェスターというのか、ちょっと語源を探ってみたら、なかなか面白い発見に出会ったのである。また、コンスタンティン・シルヴェストリという名前も、「ネズミ捕り」なんてちゃかすどころか、実は大変に由緒正しく、畏れ多い名前であることを知ったのだった。

古代ローマ神話に、シルウァヌス(Silvanus)という名の「森の神」がいるらしい。(※ラテン語はUとVが分化しておらず、英語流のV、つまりヴという発音はなかった。だからシルヴァヌスではなく、シルウァヌスが正しい)。そしてラテン語のシルウァ(Silva)は、「森」を意味する言葉になるそうである。ローマ貴族の家名としてよく使われた シルウェスター(Silvester)は、そこから派生して、「森に囲まれた」という意味を持つとの事。そういう訳で、指揮者シルヴェストリの家系はおそらく、このローマ時代からの由緒ある家柄の流れを汲むものと推測されるのである。

ところで、西洋史に明るい方なら、コンスタンティヌス帝の名前と業績をよくご存知の事と思う。西暦313年に「ミラノの勅令」というのを出してキリスト教を公認し、その守護者として発展に力を貸した皇帝である(※と言いつつ、私自身はそのあたりの事を今回の調査で初めて知ったのだった。お恥ずかしい・・)。で、この皇帝に洗礼を施したと言われているのが、当時のローマ教皇シルウェステル(シルヴェスター)1世だったとか。

むむむ・・コンスタンティン・シルヴェストリ、この名前、随分と畏れ多いではありませんか。で、そのコンスタンティンの語源となっているラテン語のConstantiaというのは、ちょうど英語のconstancy(形容詞はconstant)の語源でもあって、もともとの意味は、「堅固」とか「不変」、「一定」といったあたりになる。そうしてみると、コンスタンティン・シルヴェストリを日本人の名前に無理やり置き換えれば、森 定男(もり さだお)みたいになるのかも知れない。(※だからと言って、モーツァルトの歌劇<後宮からの逃走>に出てくるコンスタンツェを、サダコとは訳したくないが・・)。

さて、その教皇シルウェステル1世がこの世を去ったのが西暦335年の12月31日だったそうで、ドイツ語で大晦日12月31日をシルフェスター(Sylvester)と言うのは、どうもこの人の命日に由来するらしいことが、とあるサイト上で紹介されていたのだった。うーむ、そういうことだったんですか。

―ということで、今回はこれにて。

(PS)

クラシック音楽から離れた例をちょっと付け加えておくと、例えば映画俳優のシルヴェスター・スタローンも、今回の話と同じルーツを持っている人と考えてよいだろう。イタリアの映画女優シルヴァーナ・マンガノ(※「マンガーノ」と後ろを伸ばさないように、ご注意)も、ひょっとしたら同じお仲間かも。あるいは、桜庭和志に勝った格闘家のバンダレイ・シウバ(Wanderlei Silva)も、日本人の名字に置き換えたら、「森さん」になるのかも知れない。
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コンスタンティン・シルヴェストリ

2005年03月24日 | 演奏(家)を語る
前回語ったメキシコの作曲家シルベストレ・レブエルタスのファースト・ネームからの連想で、今回はルーマニアの指揮者コンスタンティン・シルヴェストリをトピックにして、少し語ってみたい。

もういつ頃のことになるのかは忘れたが、この人の録音で最初に聴いたのは、フランス国立放送管とのドヴォルザークの<新世界より>(EMI)だったと思う。速いテンポでガンガン突き進む熱い演奏だったと、記憶している。オケの響きも壮大で、LP時代には世評も高い一枚だったが、私は正直言って、それほど深い感銘を受けるには至らなかった。ストレートな熱気や自在闊達な表現が個性的で面白いものだと、それなりに感じ入ったのは事実なのだが・・。

シルヴェストリという指揮者には一部に熱心なファンがおられる様子だが、それは「何が飛び出すかわからない面白さ」とか、しばしば聴かれるその“爆裂系”サウンドに魅力を感じてのことではないかと思われる。私も実は、彼が遺した数々の録音に興味を持ったことが一度だけあって、そのきっかけとなった懐かしい演奏は、レオニード・コーガンと共演したチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲(EMI)であった。オーケストラはパリ音楽院管弦楽団だったのだが、これがちょっと信じられないような土俗的サウンドを聴かせてくれたのである。クリュイタンスの指揮のもとで、《ラヴェル管弦楽曲集》や<アルルの女>に代表されるような、いかにも「これが、フランス的な香気というものよ」とでも言っているかのような美しい音を聴かせてくれた名オーケストラが、そこではまるでロシアのオケみたいな泥臭い音(←ほめ言葉です)、荒れ狂ったような激しい音楽を聴かせてくれたのである。ヴァイオリン独奏はともかく、同曲のオーケストラ・パートについては、私は今でもシルヴェストリ&パリ音楽院管の演奏が一番好きである。

そんなうれしいチャイコフスキー演奏と出会ってから、シルヴェストリという指揮者に興味を感じるようになり、「いつかこの人の録音から、また何か面白い物が見つかるといいなあ」なんてずっと思っていたのであった。現実には、他に聴きたい作品や演奏のCDがたくさんあって、なかなか手が回らずにいたのだが、つい2~3年前のことになるか、EMIを中心として行なわれていたこの人の録音が10枚組のボックス・セットになって外盤で発売された。で、お値段がセットで千数百円という爆安価格。もう驚くやら、うれしいやらで、飛びつくようにして買ったのであった。先述の<新世界より>や、チャイコフスキーの<ヴァイオリン協奏曲>は含まれていなかったが、それ以外については、この人が遺したスタジオ録音のほとんどが収められていたように思う。

しかし、(これは全く個人的な感想に過ぎないのだが)そのセットに収められたCDのどれを聴いても、あのチャイコフスキーから得られたような感激はとうとう得られなかった。どの演奏も、何だかひたすら変なだけで、「おいおい、それ違うだろ?」と突っ込みを入れてあげたくなるようなものばかり。それも残念な事に、その突っ込みに楽しい笑いがなく、ひたすらつらくて苦い気持ちになってしまうようなものばかりだったのである。これでは、いけない。度外れた演奏、ハチャメチャな演奏、「風流ならざるところの風流」を追求したような演奏、そういうのが私は結構好きである。しかし、そこにそれなりの説得力がなければ、それはただのゲスな悪趣味でしかない。シルヴェストリ・ファンの方には反論されそうだが、当ボックス・セットで聴ける録音から、(少なくとも、私は)「破格の美に触れた喜び」みたいなものを得る事が出来なかったのである。

ただ一つだけ納得できた快演は、ドヴォルザークの序曲<謝肉祭>であった。これは素敵な演奏だった。出だしの爆発ぶりの見事さは勿論のこと、〔3:35〕あたりから始まる中間部で聴かれる、郷愁を呼び起こすような美しい旋律(※クーベリックなどは、さらりと流してしまっているところ)をこんなにしみじみ歌ってもらえると、本当に嬉しい。そして、最後を締めくくるコーダの激しい追い込みと盛り上がり。これはもう、言うことなし。

そんな訳で、今のところこの指揮者、私にとっては「チャイコフスキーの<ヴァイオリン協奏曲>と、ドヴォルザークの<謝肉祭>が聴ければもういいや」という程度の人になってしまっている。さて、まだ聴いたことのない音源の中に、何か良い物が眠っているかどうか・・。

(PS)

くだらない話を付け足すようで恐縮だが、コンスタンティン・シルヴェストリという名前を聞くたびに、「いわみ銀山ネズミ捕り」を連想してしまうたわけ者は、私だけだろうか?
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<センセマヤ>と<マヤの夜>

2005年03月20日 | 作品を語る
メルジーネ、蛇女房、そして『白蛇伝』といった話をご紹介したことで、メキシコの鬼才シルベストレ・レブエルタスの名が思い浮かんだ。と言うのは、この人の作品の中でおそらく一番よく知られているのが、蛇をモチーフにした<センセマヤ>だからである。(※ASV国内盤「メキシコの音楽(5)」の解説書によると、キューバの黒人達には宗教的な理由から蛇を生贄にする儀式があるらしく、それをレブエルタスが音で描いたものらしい。キューバの詩人ニコラス・ギジェンの詩から霊感を得たとのこと。)バーンスタインも若い頃、レブエルタスの異形の才能を高く評価して、ステレオ初期にこの<センセマヤ>を録音している。これは≪ラテン・アメリカ音楽集≫みたいな企画のレコードで、フェルナンデスの<バトゥーケ>とかグァルニエリの<ブラジル舞曲>とかいった、ちょっとマニア志向の作品が収められていたものであった。演奏も、バースタイン特有の熱気を孕んだもので、非常に良かった。いかにも蛇がのたくっているような、妖しいムードがいっぱいのこの曲は私も結構好きで、マータ、バティス、ロザーノ等、何人かの指揮者による演奏をこれまでに聴いてきたが、とりあえず今のところは、バーンスタインのが一番気に入っている。

しかし、レブエルタスの最高傑作は何と言っても、四部からなる<マヤの夜>であろう。特にその終曲「魔法の夜」の物凄さは、たとえばバッハの音楽かなんかをあたかも神の啓示みたいに崇めているような人が聴いたら、「こんなものは、音楽じゃねえ」と拒否反応を起こすことうけあいである。私は逆に、バッハの音楽には一部の例外を除いてたいてい退屈してしまう変わり者なので、レブエルタスみたいなカッ飛んだ作曲家の方がよっぽど好きなのである。

この<マヤの夜>の終曲ときたらもう、主題が何であるとか、それがどう展開してとか、調性の関連性がどうとか、そんな小うるさい理屈は一切カーンケイないね、の無秩序増殖である。例えて言えば、硫酸銅溶液にフェロシアン化カリウムをポタンとやったあとに始まる、あの無秩序な増殖。トラウベの人口細胞の快楽である。リズムの饗宴、というより「狂宴」という字をあてたくなるような、野放図な音の世界。ハチャメチャなまでの音楽の奔走。これを聴き終わって、何を思うか。何も思わない。というより、この音楽聴いてモノ考えちゃいけません。作曲者もそんなことは望んでいない。ただ、ノッちゃいましょ、笑っちゃいましょ、のぶっ飛び音楽である。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンといった偉大な楽聖たちを崇拝するのも結構だが、その周辺だけをウロウロして、「クラシック音楽とは、何ぞや」なんてしたり顔で論じたりしたら、そりゃいくらなんでも偏狭ってものである。こういう世界も当然、アリなのだ。

レブエルタスという人は、「ぼくの国メキシコの畑小屋や街なかで、普通の人たちがやっている音楽が一番好きだ。聴く者を考え込ませるような音楽は、許せない」と語っている通り、他にもアンチ・アカデミズム派みたいな曲を結構書いている。複数の演奏家のCDを通じて、主だったところは私もだいたい聴いてきたが、今回挙げた2作に次ぐものとしては、<マヤの夜>をちょっと想起させるようなハチャメチャぶりが楽しい<ベンターナス(=窓)>あたりになるか・・。10分そこそこの曲だが、中味はかなりキテいる。他にも、印象的な物がいくつかある。メキシコの町や村を歩いた時の印象をもとにして書かれ、最後が賑々しいパレード風音楽で盛り上がる<カミーノス(=道)>や、追悼ムードの出だしから突然ピキョピキョ節(?)が始まって目が点になってしまう<ガルシア・ロルカへの賛歌>といったあたりが、その好例だ。あるいは、“名は体を表す”ではないが、タイトルがいかにもこの人らしいのが、<雑談向けの音楽>とか、<オチョ・ポル・ラディオ>といったあたり。映画とつながった大作<レデス(=網)>は、私にはちょっと期待外れだった。そう言えばこの人には、ガルシア・ロルカの詩に作曲した歌曲というのもいくつかあるのだが、残念ながら、現段階でそれらについては未聴である。いつか機会があったら、是非聴いてみたいと思う。

(PS)

詩人ロルカの原作によるフォルトナーの歌劇<血の婚礼>が最近DVDで発売されたらしい。このブログを書き始めた初期にアルベニスの歌劇<メルリン>のDVD化についても追記の形で触れたことがあったが、プレイヤーを持たず、また金銭的な理由で高価なDVDソフトを安いCDのようには買うことが出来ない身分としては、何ともうらめしいことである。観たいなあ~。

【2019年3月10日 追記】

エレラ・デ・ラ・フエンテ&メキシコシティ・フィルによる<マヤの夜>全曲

当ブログ主が初めて<マヤの夜>を聴いたのは、このフエンテ氏がハラパ交響楽団を指揮した外盤のCDだった。それも非常に面白い演奏だったが、音の伸びが良くないというオーディオ的な不満があった。同じ指揮者の再録音となるこちら↓は、(良い意味で)音楽がさらに荒れており、音も前に伸びて来る。『魔法の夜』は〔16:54〕あたりから前奏が流れ、〔17:59〕からトンデモ音楽に突入(笑)。

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『白蛇伝』

2005年03月15日 | エトセトラ
前回語った『メルジーネの物語』や『蛇女房のはなし』から、私がもう一つ連想するものとして、日本でも昆劇の形で上演されたことのある中国の『白蛇伝』がある。これは人間の姿になって現れる蛇姫と、彼女と恋仲になる男の恋愛物語である。

この劇では、蛇姫の妹みたいな存在である侍女(※彼女は蛇姫のことを「姐姐 jiejie」と呼ぶ)が、左右に飛び交う剣を両の手足を使ってアクロバティックにさばいてみせる場面が、いかにも中国のお芝居らしいスペクタキュラーな見せ場になっている。が、話の本筋はあくまで、蛇姫と人間の男の恋物語にある。この男が蛇に魅入られていると見抜いたある行者(あるいは僧侶だったか)が、彼を人間の世界へ救い戻そうとして、法力をもって蛇姫の前に立ちはだかる。しかし、姫の強い思いが法力を打ち破り、行者を退けるのである。そして最後は、愛しあう二人が抱き合って幕となる。(※ただこの作品、結ばれた二人のその後のことについては一切触れていないので、彼らがそれからどうなるのかはわからない。ひょっとしたら、前回語ったメルジーネや蛇女房のように、行く末には哀しい別れが待っているのかも知れない。)

さて、ご存知の方も多くおられることと思うが、劇場公開用に作られた東映長編アニメの記念すべき第1作も、『白蛇伝』(1958年)だった。子供の頃に一度だけ、それがTVで放送されたのを観た記憶があるのだが、もう詳しい事は忘れてしまっていた。そこで先日、ちょっと思い立って関係の本を調べてみたら、東映アニメ版の『白蛇伝』は、上記の中国演劇のストーリーとは随分違うものだったようだ。

{ 白蛇の化身である白娘(パイニャン bai niang)は、若い人間の男・許仙を愛していた。だが、妖怪や物の怪を憎む法海和尚という人物が二人の間を裂こうとする。ある時誤って命を落としてしまった許仙に命を与えるかわりに、自らは不死の命を失って人間になった白娘の姿を見て、和尚も「そこまで思っているのか」と心を打たれ、ついに二人の仲を認める。 }

こちらもまた、めでたし、めでたしのハッピー・エンドである。ところで、この東映アニメ版『白蛇伝』の場合、「白娘がもはや妖怪変化ではなく、人間になっている」という点が見過ごせないポイントではないかと思う。上記の昆劇のように、「蛇と人間が愛し合い、苦難を乗り越えてついに結ばれました。良かったですね」なんて終わられると、考えようによっては、「いいのか、それで」と、ある種の倫理的疑問みたいなものを禁じ得ない人も出てくるのではないかと思えるのだ。一方、この東映アニメのような展開になっていれば、安心して、「末永くお幸せに」と言ってあげられるんじゃないかという気がするのである。

ところで東映長編アニメと言えば、その作品史を語る上で絶対に忘れてはならないものの一つに、『わんぱく王子の大蛇退治』(1963年)がある。タイトルからも察せられるとおり、ここにも蛇が登場する。あのヤマタノオロチである。この作品は日本神話を題材にした、子供にも楽しめるようなわかりやすいアニメに仕上がっているものだが、間違いなく日本のアニメ史に残る傑作と言ってよいだろう。これも『白蛇伝』同様、私が子供の頃にTV放送されたことがあったのを、幸運にも一度だけ観ることが出来たのだった。ダイナミックで迫力ある人物や怪物の動きなど、アニメーション技術が第1作の『白蛇伝』とは比較にならないぐらいの進歩を遂げているのが、容易に見てとれる。しかし何と言っても、音楽担当が伊福部昭先生というのがもう最高。しかも正味86分のストーリーの中で、実に72分間も伊福部サウンドが鳴っているのだ。つまり、殆ど全編、ずーっと伊福部節に浸っていられるという、ファンにとってはこたえられない作品なのである。メイン・テーマはこの作品のためのオリジナル・ナンバーだと思われるが、伊福部先生が手がけた他の映画作品で耳にすることの出来るテーマも、いくつか見つかる。

1984年にプレスされたLPレコードで、このアニメのために書かれた音楽(全63曲)のうち、オープニング・メイン・タイトルからナンバー35までを収めたものがかつて存在したのだが、それを聴いた時の記憶だけで言っても、『三大怪獣・地球最大の決戦』以来、ファンにはすっかりお馴染みとなる「キングギドラのテーマ」の原型がヨルノオスクニの情景描写で使われていることや、『サンダ対ガイラ』で活躍する東宝自衛隊のマーチがここでは木管のソロで優しく吹かれていることなどが挙げられる。さらにアニメを見た子供時代の記憶からは、少年スサノオが天早駒に乗ってヤマタノオロチと対決するクライマックス場面で、『地球防衛軍』のテーマ音楽が転用されていたことも思い出される。つまり、伊福部ファンならアハハと笑える場面が随所に発見されるということなのだ。今またアニメそのものを見直すことが出来たら、もっとたくさんの事に気づけると思う。(※このアニメのための音楽は、「交響組曲」の形に今は編まれているらしいのだが、残念ながらそれについては未聴である。)

『白蛇伝』ともども、『わんぱく王子』もすでにDVD化されているようだ。「見たいならプレイヤー買って、そのディスクも買えばいいじゃないか」と簡単に言われてしまいそうな話なのだが、先立つものが何とやらで・・。どこかのTV局かBSあたりで放送してくれないだろうか。NHKさん、何百回も再放送した『アラビアのロレンス』なんかもういいですから、こういうのやってください!
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メルジーネの物語

2005年03月11日 | エトセトラ
前回のアンセルメから単純にメをしりとりして、今回はメルジーネの物語を巡って、ちょっとした薀蓄話を一席ぶってみたいと思う。クラシック・ファンにとっては、メンデルスゾーンの序曲でおなじみの「美しきメルジーネ」だが、その物語の背景をちょっと紐解いてみると、これがなかなか面白い発見に出会うのである。

もともとメルジーネの話というのは、中世フランスのメリュジーヌ伝説に淵源を求められるらしいのだが、この伝説をもとにした様々な話のバリエーションが、フランス以外の各地にも存在しているらしい。手持ちの本で調べたこと以外に、ネット上のサイトもいくつか読ませていただいて得た資料の中から、ここではドイツに伝わるメルジーネの物語を簡単にご紹介しておきたい。

{ フランスのとある名門一家の末子ライムラントは、狩りの場で美しい女性メルジーネと出会う。めでたく結ばれことになる二人だが、メルジーネは「私の姿を土曜日には見ないで下さいね」と、不思議な条件を出す。しかし、ちょうど日本の『鶴の恩返し』と同じように、夫はタブーを破って妻の秘められた姿をのぞき見てしまう。彼は、妻メルジーネが湯殿に全裸で座っているところを見たのだが、彼女の下半身は蛇だった。約束を破られた妻は姿を消し、ライムラントの一族はやがて没落していく。 }

そういう訳で、美しきメルジーネの正体はヘビ女だったのだが、この伝説をもとにしたクロイツァーの歌劇(1833年)を観たメンデルスゾーンが深く感じ入って、演奏会用の美しい序曲を書いてみようと思いついたところから、木管の美しいテーマが印象的な、あの名曲が生み出されたらしい。ただ、メンデルスゾーンが観たというそのオペラの筋は、上記の伝説をかなり大幅に改案したもののようである。ドヴォルザークの歌劇<ルサルカ>とも一脈相通ずる要素である、『人魚姫』のプロットが織り込まれているように見える。あるサイトで拝見したこの作品のごく短いストーリー解説によると、おおよそ以下のような筋書きのオペラであるらしい。

{ 海の精メルジーネが人間の騎士ルーシグナンに恋をして、神様に頼んで結ばれるように計らってもらうのだが、条件が付けられた。「結婚してから十日間は、姿を見られないように」と。それが、九日目に海の精という正体を見られてしまうのだが、最後は無事に救われて幸福な結末となる。 }

ところで、≪神話や伝説の中には、国境を越えて共通するプロットが少なからず存在する≫というのは、その分野の専門の方たちにしてみれば常識に類するところかと思われるが、メルジーネ伝説から連想される日本古来の伝承に、『蛇女房のはなし』がある。これも話の展開にいくつかのバリエーションがあるのだが、以下にその代表的なストーリーを一つ、ご紹介してみたいと思う。

{ ある若者が沼のほとりで笛を吹いていると、いつの頃からか、どこからともなく美しい女が現れて、その笛の音に聞き惚れていた。そんなことが幾日か続いて二人は次第に言葉を交わすようになり、恋しあって夫婦となった。

やがて身ごもり、出産が近づいた女房は、「中をのぞかないで下さいね」と言い残して産屋(うぶや)へ入っていった。しかし、その後の様子が気になった男は、ためらいながらも、ついに中を見てしまう。そこで彼が見たものは、赤ん坊を抱くようにしてとぐろを巻いている巨大な蛇だった。女は沼の主の大蛇だったのである。本当の姿を見られてしまった蛇女房は、残していく子供のためにと千両箱を置いて去っていった。そしてその目は、片方がつぶれていた。

男はその千両箱を大事にとっておいたのだが、ある日泥棒に盗まれてしまう。沼へ行って、男は去っていった妻に向けてお詫びの言葉を告げた。すると大蛇が出てきて、「あの千両は私の片目でしたが、我が子のためならもう一つの目もつぶしましょう。でも、もうあなたと子供の姿を私は見ることが出来なくなります。だから、どうか沼のほとりに鐘撞き堂を建てて、鐘を撞きに来て下さい。私はその音を聞いて、あなたと子供が無事に暮らしていることと安心いたしましょう」。

次の日の夜、男の家の前に千両箱が置いてあった。男はその中のお金を使って鐘撞き堂を建て、それからは息子と一緒に毎日毎日鐘を撞きに来て、「無事に暮らしているよ」と伝え続けたという。 }

若者の笛の音に聞き惚れた沼の大蛇が美しい女の姿になって現われ、その男に寄り添う。そんな光景を思い浮かべると、何だか妙にいじらしくなってしまう。しかし、訪れるのは哀しい幕切れ。私がこの話に初めて触れたのはもう随分昔、NHK教育TVの「昔話の部屋」みたいな番組を観たときであった。しんみりと泣けてしまったのを、今でもよく覚えている。

―次回は、この「メルジーネ~蛇女房」の線に乗って、もう一つ連想される有名な物語について軽く触れてみたいと思う。

(PS)

2006年1月19日の記事「《ウンディーネ》~まとめと補足」に、メルジーネ伝説の追加解説あり。
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