作曲家リムスキー=コルサコフは、仲間が完成し切れなかったオペラを補筆して仕上げた編曲者としても大きな業績を遺している。今回のシリーズではその中から、まずボロディンの歌劇<イーゴリ公>をじっくり採りあげてみたいと思う。これは作曲者自身が完成出来なかったものを、グラズノフとR=コルサコフの2人が協力して書き上げたという名作歌劇だ。以下、いつもの通り、その全曲の中身を順に見ていくことにしたい。ちなみに、今回参照している全曲演奏は、下記の4種である。
●A・メリク=パシャイエフ指揮ボリショイ劇場管、他 (1951年)
【出演 : An・イワノフ、A・ピロゴフ、E・スモレンスカヤ、M・レイゼン、他】
●M・エルムレル指揮ボリショイ劇場管、他 (1969年)
【出演 : I・ペトロフ、A・エイゼン、T・トゥガリノワ、A・ヴェデルニコフ、他】
●〔映画版〕G・プロヴァトロフ指揮キーロフ劇場管、他 (1969年)
【出演 : V・キニャーエフ、B・マルイシェフ、T・ミラシキナ、E・ネステレンコ、他】
●〔映像ソフト〕B・ハイティンク指揮C.G.王立歌劇場管、他(1990年)
【出演 : S・レイフェルクス、N・ギュゼレフ、A・トモワ=シントウ、他】
―歌劇<イーゴリ公>のあらすじと、演奏比較
〔 プロローグ 〕
序曲に続いて、舞台はプチヴリの町の広場。人々の壮大な賛美の合唱が響く中、ポロヴェッツ人との戦いに出かけようとするイーゴリ公(Bar)が登場。しかし、突然日食が始まってあたりが暗くなり、人々は不吉な予兆を感じる。イーゴリの妻ヤロスラヴナ(S)も不安になって夫を止めようとするが、彼は祖国の危機を案じて断固出陣の意思を変えない。国の留守をヤロスラヴナの兄であるガリツキー公(B)に任せ、イーゴリは息子のウラジーミル(T)や兵士たちを従えて出発する。
(※このプロローグ冒頭の力強い合唱は、ボロディン自身が完成させることの出来た貴重な楽曲の一つになるようだ。有名な序曲はボロディンの作曲によるものではなく、彼のピアノ演奏を聞いたグラズノフが驚異的な記憶力を駆使して、後年書き上げたものであるらしい。グラズノフ先生、ありがとー!)
(※上記4点の全曲録音の中で、最もロシア的な土俗のパワーを伝えてくれるのは、少し前にナクソスが復刻してくれたメリク=パシャイエフ盤である。これはモノラル録音であったり、元のLPに起因するゴーストがあったり、さらには第3幕がすっぽり省略されていたりと、必ずしも十全な音源とは言えない物だが、演奏内容には凄いものがある。音質も非常に鮮明で、往年の名歌手たちの分厚い歌声や、雷鳴か地響きみたいな大合唱の威力をよく伝えている。同じボリショイ劇場の録音でも、ステレオ期になってからのエルムレル盤では、力感だけでなく洗練された柔軟さも持つ美しいコーラスが、豊かな広がりの中で過不足なく響く。両者はそれぞれに、素晴らしい。尤も私の個人的な趣味としては、ゴツゴツして、なお且つ濃厚なM=パシャイエフ盤の方が今は断然好きだが。)
(※映画版のプロヴァトロフも力強い指揮ぶりを見せ、とても好感の持てる演奏を行なっている。キーロフのオペラ・ハウスも優秀だ。ただ、映画としての時間制限から、テンポは総じて急ぎ足。全体に駆け足でストーリーを紹介していく、といった感じになっている。序曲もかなりの短縮版で、またそれが終わるやいきなり、イーゴリ公が猛々しく歌いだす。という訳で、この映画版には省略や配置換えが少なからずあること、さらには原作を歪めるほどの改変までが見られるという問題点がある。とりあえず、初めての方は手を出されない方がよろしいかと思う。作品の姿を誤解してしまう危険性がある。)
〔 第1幕 〕
第1場・・・ガリツキー邸の庭。イーゴリ公に後を任されたガリツキーだったが、彼は毎日、酒池肉林の乱痴気騒ぎばかり繰り返している。イーゴリ公の遠征軍からこっそり抜け出したスクラ(B)とエロシュカ(T)のお調子者2人が、楽器を片手に陽気に歌う。やがてガリツキー本人も、その騒ぎに加わる。そこへ町の女たちがやって来て、ガリツキーの一味にさらわれた一人の娘を返してくれと嘆願する。しかし、彼は取り合わないどころか、彼女らをどやしつけて追い返してしまう。男たちは一同酒を飲みまくり、ますます大騒ぎ。
(※ここで聴かれる『ガリツキーのレチタティーヴォとアリア』も、ボロディン自身が書き上げることの出来た貴重な楽曲の一つである。「この俺がプチヴリの公になったら、もっと豪勢にやってやるぜ」と歌い始める、極めてパワフルなバスの名アリアだ。まずM=パシャイエフ盤だが、ここではアレクサンドル・ピロゴフが歌っている。これはもう、豪快そのもののガリツキーである。天下のボリス歌いとして名を馳せたこの大歌手は、声の度外れたパワーだけでなく、ガシッとした低音からバリトーナルな輝かしい高音までを信じられないぐらいに朗々と出してみせ、聴く者を圧倒してやまない。)
(※そのピロゴフを仮に「田夫野人のガリツキー」と例えるなら、ハイティンクのコヴェント・ガーデン公演で歌っているニコラ・ギュゼレフは、「悪徳貴族のガリツキー」といった感じになるだろうか。勿論悪者ではあるのだが、この人のガリツキーには貴族的な気品がやんわりと備わっている。往年の大歌手ミロスラブ・チャンガロヴィチと交代で舞台に立った経験を持つヴェテランのギュゼレフは、54~55歳ぐらいだったはず。当然ながら声は盛りを過ぎていて、このアリアでは幾分苦しいものが感じられなくもない。しかし、歌いぶりはさすがに堂々としているし、年齢を考えたら立派な歌唱と讃えるべきだろう。その後に続くヤロスラヴナとのやり取り場面は、さらに見事だ。憎々しい演技や表情、あるいはセリフ回しなどに格別な味がある。
ついでの話だが、アンドレ・クリュイタンスの指揮によるオッフェンバックの歌劇<ホフマン物語>に、若き日のギュゼレフが参加している。役名は、リンドルフ。1964年のEMI録音である。これは主役のニコライ・ゲッダ以下、名歌手達がずらりと揃った高名な全曲盤だが、そこでのギュゼレフも素晴らしく、何とも若々しい声で伸びやかな歌唱を披露している。)
(※エルムレル盤で歌っているアルトゥール・エイゼンも見事。この人のガリツキーも、素晴らしい聴き物である。声の立派さもさることながら、堂に入った性格的な悪党ぶりが実に良い。もう思いっきり濃い表情で歌ってくれるので、聴きながら思わず噴き出してしまうほどだ。元赤軍合唱団のメンバーでロシア民謡を得意にしていたという彼にとって、ガリツキーのような役柄はすっかり薬籠中の物だったに違いない。)
(※映画版では、B・マルイシェフというバス歌手が同役を歌っている。この人も悪くない。しかし、上述の通り、映画版は演奏のテンポがかなり速いので、これではちょっと歌いにくいんじゃないかなと同情してしまう。)
―ところで、非常に優秀なエルムレル盤について私が感じている引っかかりみたいなものについて、先に触れておきたい。それは、録音のとり方である。1969年のステレオ録音ということで、音質自体への不満はとりあえずないのだが、音のバランスにちょっと違和感を持ってしまうのだ。具体的に言うと、ソロ歌手たちの声が異常にオン・マイクで記録されているため、背景の管弦楽や合唱の音を圧倒して、何だか化けたようなでかい音になって聞こえてくるのである。これはピアノやヴァイオリンなどの協奏曲を録音する時のやり方に、あるいは近いのかも知れない。このアンバランスに大きいソロ歌手たちの声に、どうも私は人工的で不自然なものを感じてしまうのだ。ただ、彼らの歌唱自体はどれも優秀なものばかりなので、あまりオーディオ的な側面は気にせずに、歌そのものをしっかり楽しんだ方がお得であろうかとは思う。)
―この続き、第1幕第2場から先の展開については、次回・・。
●A・メリク=パシャイエフ指揮ボリショイ劇場管、他 (1951年)
【出演 : An・イワノフ、A・ピロゴフ、E・スモレンスカヤ、M・レイゼン、他】
●M・エルムレル指揮ボリショイ劇場管、他 (1969年)
【出演 : I・ペトロフ、A・エイゼン、T・トゥガリノワ、A・ヴェデルニコフ、他】
●〔映画版〕G・プロヴァトロフ指揮キーロフ劇場管、他 (1969年)
【出演 : V・キニャーエフ、B・マルイシェフ、T・ミラシキナ、E・ネステレンコ、他】
●〔映像ソフト〕B・ハイティンク指揮C.G.王立歌劇場管、他(1990年)
【出演 : S・レイフェルクス、N・ギュゼレフ、A・トモワ=シントウ、他】
―歌劇<イーゴリ公>のあらすじと、演奏比較
〔 プロローグ 〕
序曲に続いて、舞台はプチヴリの町の広場。人々の壮大な賛美の合唱が響く中、ポロヴェッツ人との戦いに出かけようとするイーゴリ公(Bar)が登場。しかし、突然日食が始まってあたりが暗くなり、人々は不吉な予兆を感じる。イーゴリの妻ヤロスラヴナ(S)も不安になって夫を止めようとするが、彼は祖国の危機を案じて断固出陣の意思を変えない。国の留守をヤロスラヴナの兄であるガリツキー公(B)に任せ、イーゴリは息子のウラジーミル(T)や兵士たちを従えて出発する。
(※このプロローグ冒頭の力強い合唱は、ボロディン自身が完成させることの出来た貴重な楽曲の一つになるようだ。有名な序曲はボロディンの作曲によるものではなく、彼のピアノ演奏を聞いたグラズノフが驚異的な記憶力を駆使して、後年書き上げたものであるらしい。グラズノフ先生、ありがとー!)
(※上記4点の全曲録音の中で、最もロシア的な土俗のパワーを伝えてくれるのは、少し前にナクソスが復刻してくれたメリク=パシャイエフ盤である。これはモノラル録音であったり、元のLPに起因するゴーストがあったり、さらには第3幕がすっぽり省略されていたりと、必ずしも十全な音源とは言えない物だが、演奏内容には凄いものがある。音質も非常に鮮明で、往年の名歌手たちの分厚い歌声や、雷鳴か地響きみたいな大合唱の威力をよく伝えている。同じボリショイ劇場の録音でも、ステレオ期になってからのエルムレル盤では、力感だけでなく洗練された柔軟さも持つ美しいコーラスが、豊かな広がりの中で過不足なく響く。両者はそれぞれに、素晴らしい。尤も私の個人的な趣味としては、ゴツゴツして、なお且つ濃厚なM=パシャイエフ盤の方が今は断然好きだが。)
(※映画版のプロヴァトロフも力強い指揮ぶりを見せ、とても好感の持てる演奏を行なっている。キーロフのオペラ・ハウスも優秀だ。ただ、映画としての時間制限から、テンポは総じて急ぎ足。全体に駆け足でストーリーを紹介していく、といった感じになっている。序曲もかなりの短縮版で、またそれが終わるやいきなり、イーゴリ公が猛々しく歌いだす。という訳で、この映画版には省略や配置換えが少なからずあること、さらには原作を歪めるほどの改変までが見られるという問題点がある。とりあえず、初めての方は手を出されない方がよろしいかと思う。作品の姿を誤解してしまう危険性がある。)
〔 第1幕 〕
第1場・・・ガリツキー邸の庭。イーゴリ公に後を任されたガリツキーだったが、彼は毎日、酒池肉林の乱痴気騒ぎばかり繰り返している。イーゴリ公の遠征軍からこっそり抜け出したスクラ(B)とエロシュカ(T)のお調子者2人が、楽器を片手に陽気に歌う。やがてガリツキー本人も、その騒ぎに加わる。そこへ町の女たちがやって来て、ガリツキーの一味にさらわれた一人の娘を返してくれと嘆願する。しかし、彼は取り合わないどころか、彼女らをどやしつけて追い返してしまう。男たちは一同酒を飲みまくり、ますます大騒ぎ。
(※ここで聴かれる『ガリツキーのレチタティーヴォとアリア』も、ボロディン自身が書き上げることの出来た貴重な楽曲の一つである。「この俺がプチヴリの公になったら、もっと豪勢にやってやるぜ」と歌い始める、極めてパワフルなバスの名アリアだ。まずM=パシャイエフ盤だが、ここではアレクサンドル・ピロゴフが歌っている。これはもう、豪快そのもののガリツキーである。天下のボリス歌いとして名を馳せたこの大歌手は、声の度外れたパワーだけでなく、ガシッとした低音からバリトーナルな輝かしい高音までを信じられないぐらいに朗々と出してみせ、聴く者を圧倒してやまない。)
(※そのピロゴフを仮に「田夫野人のガリツキー」と例えるなら、ハイティンクのコヴェント・ガーデン公演で歌っているニコラ・ギュゼレフは、「悪徳貴族のガリツキー」といった感じになるだろうか。勿論悪者ではあるのだが、この人のガリツキーには貴族的な気品がやんわりと備わっている。往年の大歌手ミロスラブ・チャンガロヴィチと交代で舞台に立った経験を持つヴェテランのギュゼレフは、54~55歳ぐらいだったはず。当然ながら声は盛りを過ぎていて、このアリアでは幾分苦しいものが感じられなくもない。しかし、歌いぶりはさすがに堂々としているし、年齢を考えたら立派な歌唱と讃えるべきだろう。その後に続くヤロスラヴナとのやり取り場面は、さらに見事だ。憎々しい演技や表情、あるいはセリフ回しなどに格別な味がある。
ついでの話だが、アンドレ・クリュイタンスの指揮によるオッフェンバックの歌劇<ホフマン物語>に、若き日のギュゼレフが参加している。役名は、リンドルフ。1964年のEMI録音である。これは主役のニコライ・ゲッダ以下、名歌手達がずらりと揃った高名な全曲盤だが、そこでのギュゼレフも素晴らしく、何とも若々しい声で伸びやかな歌唱を披露している。)
(※エルムレル盤で歌っているアルトゥール・エイゼンも見事。この人のガリツキーも、素晴らしい聴き物である。声の立派さもさることながら、堂に入った性格的な悪党ぶりが実に良い。もう思いっきり濃い表情で歌ってくれるので、聴きながら思わず噴き出してしまうほどだ。元赤軍合唱団のメンバーでロシア民謡を得意にしていたという彼にとって、ガリツキーのような役柄はすっかり薬籠中の物だったに違いない。)
(※映画版では、B・マルイシェフというバス歌手が同役を歌っている。この人も悪くない。しかし、上述の通り、映画版は演奏のテンポがかなり速いので、これではちょっと歌いにくいんじゃないかなと同情してしまう。)
―ところで、非常に優秀なエルムレル盤について私が感じている引っかかりみたいなものについて、先に触れておきたい。それは、録音のとり方である。1969年のステレオ録音ということで、音質自体への不満はとりあえずないのだが、音のバランスにちょっと違和感を持ってしまうのだ。具体的に言うと、ソロ歌手たちの声が異常にオン・マイクで記録されているため、背景の管弦楽や合唱の音を圧倒して、何だか化けたようなでかい音になって聞こえてくるのである。これはピアノやヴァイオリンなどの協奏曲を録音する時のやり方に、あるいは近いのかも知れない。このアンバランスに大きいソロ歌手たちの声に、どうも私は人工的で不自然なものを感じてしまうのだ。ただ、彼らの歌唱自体はどれも優秀なものばかりなので、あまりオーディオ的な側面は気にせずに、歌そのものをしっかり楽しんだ方がお得であろうかとは思う。)
―この続き、第1幕第2場から先の展開については、次回・・。