クラシック音楽オデュッセイア

2009年の大病以来、月1回程度の更新ペース。クラシックに限らず、身の回りの事なども、気の向くままに書いております。

歌劇<イーゴリ公>(1)

2006年11月27日 | 作品を語る
作曲家リムスキー=コルサコフは、仲間が完成し切れなかったオペラを補筆して仕上げた編曲者としても大きな業績を遺している。今回のシリーズではその中から、まずボロディンの歌劇<イーゴリ公>をじっくり採りあげてみたいと思う。これは作曲者自身が完成出来なかったものを、グラズノフとR=コルサコフの2人が協力して書き上げたという名作歌劇だ。以下、いつもの通り、その全曲の中身を順に見ていくことにしたい。ちなみに、今回参照している全曲演奏は、下記の4種である。

●A・メリク=パシャイエフ指揮ボリショイ劇場管、他 (1951年)

【出演 : An・イワノフ、A・ピロゴフ、E・スモレンスカヤ、M・レイゼン、他】

●M・エルムレル指揮ボリショイ劇場管、他 (1969年)

【出演 : I・ペトロフ、A・エイゼン、T・トゥガリノワ、A・ヴェデルニコフ、他】

●〔映画版〕G・プロヴァトロフ指揮キーロフ劇場管、他 (1969年)

【出演 : V・キニャーエフ、B・マルイシェフ、T・ミラシキナ、E・ネステレンコ、他】

●〔映像ソフト〕B・ハイティンク指揮C.G.王立歌劇場管、他(1990年)

【出演 : S・レイフェルクス、N・ギュゼレフ、A・トモワ=シントウ、他】

―歌劇<イーゴリ公>のあらすじと、演奏比較

〔 プロローグ 〕

序曲に続いて、舞台はプチヴリの町の広場。人々の壮大な賛美の合唱が響く中、ポロヴェッツ人との戦いに出かけようとするイーゴリ公(Bar)が登場。しかし、突然日食が始まってあたりが暗くなり、人々は不吉な予兆を感じる。イーゴリの妻ヤロスラヴナ(S)も不安になって夫を止めようとするが、彼は祖国の危機を案じて断固出陣の意思を変えない。国の留守をヤロスラヴナの兄であるガリツキー公(B)に任せ、イーゴリは息子のウラジーミル(T)や兵士たちを従えて出発する。

(※このプロローグ冒頭の力強い合唱は、ボロディン自身が完成させることの出来た貴重な楽曲の一つになるようだ。有名な序曲はボロディンの作曲によるものではなく、彼のピアノ演奏を聞いたグラズノフが驚異的な記憶力を駆使して、後年書き上げたものであるらしい。グラズノフ先生、ありがとー!)

(※上記4点の全曲録音の中で、最もロシア的な土俗のパワーを伝えてくれるのは、少し前にナクソスが復刻してくれたメリク=パシャイエフ盤である。これはモノラル録音であったり、元のLPに起因するゴーストがあったり、さらには第3幕がすっぽり省略されていたりと、必ずしも十全な音源とは言えない物だが、演奏内容には凄いものがある。音質も非常に鮮明で、往年の名歌手たちの分厚い歌声や、雷鳴か地響きみたいな大合唱の威力をよく伝えている。同じボリショイ劇場の録音でも、ステレオ期になってからのエルムレル盤では、力感だけでなく洗練された柔軟さも持つ美しいコーラスが、豊かな広がりの中で過不足なく響く。両者はそれぞれに、素晴らしい。尤も私の個人的な趣味としては、ゴツゴツして、なお且つ濃厚なM=パシャイエフ盤の方が今は断然好きだが。)

(※映画版のプロヴァトロフも力強い指揮ぶりを見せ、とても好感の持てる演奏を行なっている。キーロフのオペラ・ハウスも優秀だ。ただ、映画としての時間制限から、テンポは総じて急ぎ足。全体に駆け足でストーリーを紹介していく、といった感じになっている。序曲もかなりの短縮版で、またそれが終わるやいきなり、イーゴリ公が猛々しく歌いだす。という訳で、この映画版には省略や配置換えが少なからずあること、さらには原作を歪めるほどの改変までが見られるという問題点がある。とりあえず、初めての方は手を出されない方がよろしいかと思う。作品の姿を誤解してしまう危険性がある。)

〔 第1幕 〕

第1場・・・ガリツキー邸の庭。イーゴリ公に後を任されたガリツキーだったが、彼は毎日、酒池肉林の乱痴気騒ぎばかり繰り返している。イーゴリ公の遠征軍からこっそり抜け出したスクラ(B)とエロシュカ(T)のお調子者2人が、楽器を片手に陽気に歌う。やがてガリツキー本人も、その騒ぎに加わる。そこへ町の女たちがやって来て、ガリツキーの一味にさらわれた一人の娘を返してくれと嘆願する。しかし、彼は取り合わないどころか、彼女らをどやしつけて追い返してしまう。男たちは一同酒を飲みまくり、ますます大騒ぎ。

(※ここで聴かれる『ガリツキーのレチタティーヴォとアリア』も、ボロディン自身が書き上げることの出来た貴重な楽曲の一つである。「この俺がプチヴリの公になったら、もっと豪勢にやってやるぜ」と歌い始める、極めてパワフルなバスの名アリアだ。まずM=パシャイエフ盤だが、ここではアレクサンドル・ピロゴフが歌っている。これはもう、豪快そのもののガリツキーである。天下のボリス歌いとして名を馳せたこの大歌手は、声の度外れたパワーだけでなく、ガシッとした低音からバリトーナルな輝かしい高音までを信じられないぐらいに朗々と出してみせ、聴く者を圧倒してやまない。)

(※そのピロゴフを仮に「田夫野人のガリツキー」と例えるなら、ハイティンクのコヴェント・ガーデン公演で歌っているニコラ・ギュゼレフは、「悪徳貴族のガリツキー」といった感じになるだろうか。勿論悪者ではあるのだが、この人のガリツキーには貴族的な気品がやんわりと備わっている。往年の大歌手ミロスラブ・チャンガロヴィチと交代で舞台に立った経験を持つヴェテランのギュゼレフは、54~55歳ぐらいだったはず。当然ながら声は盛りを過ぎていて、このアリアでは幾分苦しいものが感じられなくもない。しかし、歌いぶりはさすがに堂々としているし、年齢を考えたら立派な歌唱と讃えるべきだろう。その後に続くヤロスラヴナとのやり取り場面は、さらに見事だ。憎々しい演技や表情、あるいはセリフ回しなどに格別な味がある。

ついでの話だが、アンドレ・クリュイタンスの指揮によるオッフェンバックの歌劇<ホフマン物語>に、若き日のギュゼレフが参加している。役名は、リンドルフ。1964年のEMI録音である。これは主役のニコライ・ゲッダ以下、名歌手達がずらりと揃った高名な全曲盤だが、そこでのギュゼレフも素晴らしく、何とも若々しい声で伸びやかな歌唱を披露している。)

(※エルムレル盤で歌っているアルトゥール・エイゼンも見事。この人のガリツキーも、素晴らしい聴き物である。声の立派さもさることながら、堂に入った性格的な悪党ぶりが実に良い。もう思いっきり濃い表情で歌ってくれるので、聴きながら思わず噴き出してしまうほどだ。元赤軍合唱団のメンバーでロシア民謡を得意にしていたという彼にとって、ガリツキーのような役柄はすっかり薬籠中の物だったに違いない。)

(※映画版では、B・マルイシェフというバス歌手が同役を歌っている。この人も悪くない。しかし、上述の通り、映画版は演奏のテンポがかなり速いので、これではちょっと歌いにくいんじゃないかなと同情してしまう。)

―ところで、非常に優秀なエルムレル盤について私が感じている引っかかりみたいなものについて、先に触れておきたい。それは、録音のとり方である。1969年のステレオ録音ということで、音質自体への不満はとりあえずないのだが、音のバランスにちょっと違和感を持ってしまうのだ。具体的に言うと、ソロ歌手たちの声が異常にオン・マイクで記録されているため、背景の管弦楽や合唱の音を圧倒して、何だか化けたようなでかい音になって聞こえてくるのである。これはピアノやヴァイオリンなどの協奏曲を録音する時のやり方に、あるいは近いのかも知れない。このアンバランスに大きいソロ歌手たちの声に、どうも私は人工的で不自然なものを感じてしまうのだ。ただ、彼らの歌唱自体はどれも優秀なものばかりなので、あまりオーディオ的な側面は気にせずに、歌そのものをしっかり楽しんだ方がお得であろうかとは思う。)

―この続き、第1幕第2場から先の展開については、次回・・。
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歌劇<モーツァルトとサリエリ>

2006年11月22日 | 作品を語る
R=コルサコフ・オペラが作曲したオペラを語るのは、今回が一応最終回。という訳で、ここでちょっと異色の作品を採りあげてみることにしたい。演奏時間約40分前後の短編歌劇<モーツァルトとサリエリ>Op48 (1897年)である。2人の登場人物による対話と小編成オーケストラによる伴奏、そして終わりの方で少しだけ出て来る合唱。全体にわたって質朴な響きが一貫する、極めて独特な雰囲気を持った心理劇だ。映画『アマデウス』のルーツとも言えそうなこの短い歌劇の原作は、アレクサンドル・プーシキンが1830年に書き上げたものであるとのこと。

―歌劇<モーツァルトとサリエリ>(全1幕)の概要

〔 第1場 〕

サリエリ(B)の独白。「この世に正義はないと人は言うが、天上にだって正義はない。私は幼い頃から音楽を愛し、長じてからは音楽一筋に打ち込み、それなりの地位も名声も得てきた。幸福だった。嫉妬などという感情は、私には無縁だった。しかし、今は違う。音楽への愛や大いなる労苦に対してではなく、あのたわけ者の頭上に天分が与えられるとは、天上に正義があると言えるのか。ああ、モーツァルト!モーツァルト」。

そこへ、モーツァルト(T)が登場。居酒屋で<ケルビーノのアリア>を弾いていたという、盲目の老ヴァイオリン弾きを一緒に連れてきている。モーツァルトに乞われて、老人はサリエリの前で<ツェルリーナのアリア>を一節弾く。下手くそな演奏。モーツァルトはケラケラ笑って楽しむが、サリエリは、「こんな物を聴いて、笑えるのか」と苦い顔。やがて2人だけになってから、モーツァルトは、「最近思い浮かんだ曲だよ」と言って、ピアノを弾き始める。サリエリはその音楽に深く感動しつつ、ため息混じりにつぶやく。「これだけの作品を持って来ながら、居酒屋の前であんなヴァイオリンに耳を傾けていたとは・・。君は全く、君自身にふさわしくない男だ」。

2人はそれから、一緒に食事をしに行こうという話になる。モーツァルトが、「家の用事を先に片付けてくるよ」と去った後、再びサリエリの独白。「私は実行しなければならない。彼の行く手を阻むために、私は選ばれたのだ。そうしないと、皆が破滅する。あのモーツァルトが長生きして、さらに高みに向かったとして、それが何になる。彼の後継者は、いないのだ。彼が去った後、芸術は衰勢に向かう。あの天上の妙なる歌で、彼は我々に天の目覚めを与えた。塵芥(ちりあくた)の我々に虚しい願望を掻き立てたまま、彼は飛び去ってしまうのだ。ああ、飛び去るがよい。それも、早ければ早いほどよい」。毒薬を取り出すサリエリ。

〔 第2場 〕

『小フーガ』の短い間奏曲の後、舞台は料理屋。「浮かない顔だが・・」とサリエリが水を向けると、モーツァルトは最近起こった出来事を語り始める。「黒い服の男が来て、<レクイエム>の作曲を依頼してきた。そしてそれ以来、いつもその男の影が僕につきまとうんだ。今だって、そうさ・・」。モーツァルトがそんな話をしている隙を見て、サリエリはグラスに毒を入れる。何も気付かずに、それを飲み干すモーツァルト。

やがて若き天才はピアノのところに行き、<レクイエム>の冒頭部分を弾き始める。感極まって涙をボロボロ流すサリエリ。「苦しくも快い涙だ。つらい務めを終えた時のように、病から癒えたように、重荷から解放されたように感じる。モーツァルト、続けてくれ。私の心を楽の音で満たしてくれ」。

「すべての人が、この音楽の和声の魅力を感じてくれたらなあ。いや、ダメだ。そうなったら、誰も世俗の苦労に関わろうとはしなくなる。世の中が成り立たない」とつぶやいた後、モーツァルトは具合が悪くなってきたと言って去って行く。残ったサリエリの、最後の独白。「さらば、モーツァルト。永い眠りに!・・・天才と犯罪は無縁か?いや、違う。あのミケランジェロはどうなんだ」。イエスの磔刑(たっけい)を描くために、モデルを本当に磔(はりつけ)にしたという伝説のあったルネサンスの巨匠にサリエリが言及するところで、劇は静かに幕を閉じる。

―歌劇<モーツァルトとサリエリ>のCD

<モーツァルトとサリエリ>は小規模で上演しやすい作品のためか、R=コルサコフのオペラの中では比較的演奏回数に恵まれている物らしい。現在いくつぐらいの録音が存在するのかは分からないが、とりあえず私が聴いて知っているのは、以下の3種である。

1.サムエル・サモスド指揮ボリショイ劇場管、他 (1947年)
サリエリ : アレクサンドル・ピロゴフ(B)
モーツァルト : セルゲイ・レメシェフ(T)

2.サムエル・サモスド指揮モスクワ国立放送管、他 (1951年)
サリエリ : マルク・レイゼン(B)
モーツァルト : イワン・コズロフスキー(T)

3.マレク・ヤノフスキ指揮ドレスデン国立管、他 (1980年) 
サリエリ : テオ・アダム(B‐Bar)
モーツァルト : ペーター・シュライアー(T)

上記の1と2は、いわゆるボリショイ黄金期の名歌手たちによる記録である。ピロゴフもレイゼンも、ともに偉大なボリス歌手として名を馳せた人たちだ。比べてみるなら、ピロゴフは劇的でパワフルな歌い方をし、レイゼンは重く深みのある声でじわりと貫禄をにじませるという感じだった。この録音にも、それぞれの個性がよく出ている。両者それぞれのスタイルで、迫力がある。

レメシェフとコズロフスキーの2人も、当時のボリショイ・オペラを代表するリリック・テナーだった。敢えて比較を試みるなら、レメシェフは<エフゲニ・オネーギン>のレンスキーを一番の得意役とし、コズロフスキーは<ボリス・ゴドゥノフ>のユロージヴィで絶対無二の評価を得ていた。ここでの両者の演唱も、ちょうどその違いを実感させるようなものになっている。しかし、いずれも西ヨーロッパ的な美感では捉えがたい世界を生み出しているという点では、共通している。

一方、日本のオペラ・ファンにもすっかりお馴染みのテオ・アダムとペーター・シュライアーが共演した3のヤノフスキ盤は、鳴っている音自体の美しさを言えば、上記の1と2をはるかに凌ぐ名演である。と言っても、話はそう単純ではない。

上記2種のサモスド盤では聴くことの出来ない美しい音、充実したオーケストラの響きを背景に、まずアダムがよく彫琢された見事なサリエリを歌い出す。いわゆるデモニッシュな迫力はないものの、端正で力強い名唱だ。しかし、シュライアーのモーツァルト像には、うーん、どうかな、という感じがする。思慮分別をわきまえた、知性派の好青年モーツァルト。例えば、<レクイエム>と黒い服の男について彼が語る場面など、まるで<マタイ>のエヴァンゲリストみたいな格調の高さ。「すごく巧くて立派なんだけど、この役ってそうなのかなあ」と思ってしまう。少なくとも、サリエリが言うところの、“あのたわけ者”には全然聞こえない。

それより問題なのは、これがドイツ語版で演奏されているということだろう。R=コルサコフが回想の中で、「ロシア語のセリフの抑揚に合った旋律線が何よりも先行して作られ、手の込んだ伴奏があとに加わった」と語っている通り、この作品のキモは、ロシア語に密着したメロディ線にある。ドイツ語に直してしまったら、その本質的な価値が消えてしまうわけである。演奏の美しさは抜群なのだが・・。

―最後に、このオペラの侮れない一面を伝える歴史的大歌手の言葉を一つ。初演こそパッとしなかったこのエソテリック(?)な作品は、フョードル・シャリアピンが二役を歌い、ラフマニノフがピアノ伴奏を受け持った上演によって大きな評判となった。シャリアピンいわく、「サリエリという役は、ボリスよりも演じるのが難しい」。どうもこのオペラ、よそ者にはちょっと想像のつかない奥深さがあるようだ。

―次回から、R=コルサコフがオペラの編曲者として残した業績を見ていきたいと思う。
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チャイコフスキーの<雪娘>

2006年11月17日 | 作品を語る
前回語ったR=コルサコフの歌劇<雪娘>からのつながりで、今回はチャイコフスキーの<雪娘>。

―チャイコフスキーの劇付随音楽<雪娘>Op12

初演後長く埋もれることとなったチャイコフスキーの<雪娘>だが、今はナクソス・レーベルの廉価CD等で聴けるようになった。この隠れ名品は、以下の通り、全20曲のナンバーで構成されている

1序奏  2鳥たちの踊りと合唱  3厳寒マロースのモノローグ  4謝肉祭を送る合唱  5メロドラマ 6間奏曲  7羊飼いレーリの第1の歌  8同じく第2の歌  9間奏曲  10盲目のグースリ弾きたちの合唱  11メロドラマ  12民衆と宮廷人たちの合唱  13ホヴォロード(=群舞)  14スコモローフたちの踊り  15羊飼いレーリの第3の歌  16ブルシーラの歌  17森の精の登場と雪娘の幻影  18春の精の朗読  19ベレンデイ皇帝の行進と合唱  20フィナーレ

第1曲『序奏』や第2曲『鳥たちの踊りと合唱』から早速チャイコフスキーらしい世界が始まるが、続く第3曲『厳寒マロースのモノローグ』にふと気が留まる。R=コルサコフのオペラに出て来るマロース翁は、いかにも、という感じで太い声のバス歌手が歌う役であるのに対し、チャイコフスキー作品ではテノールの独唱だ。冬の凍てつく光景を愛するマロース翁の趣味が、分かりやすい民謡調で歌われる。

続く第4曲『謝肉祭送りの合唱』も、典型的なロシア民謡スタイル。テノール独唱の音頭取りに続いて、コーラスが歌い継ぐ。抒情的な表情を持つ、とても魅力的な合唱曲だ。ついでに言えば、第10曲『盲目のグースリ弾きたちの合唱』も、テノールが音頭を取って男声合唱がそれを引き継ぐという民謡風のパターン。こちらは、ベレンデイの皇帝を讃える男性的な曲である。どちらも、ロシア民謡のファンなら一発で気に入ること間違いなし。R=コルサコフのオペラでは、華やかな合唱だけでなく、「謝肉祭への別れ」の部分で聖歌旋律『死者を悼む賛歌』が使われたりしているので、ちょっとムソルグスキーのオペラを思わせるような重いムードが一時交錯する。全体にしっとりした風情のチャイコフスキー作品とは、かなり対照的だ。

第7&8曲で聞かれる2つの『レーリの歌』は、R=コルサコフのオペラと同様、低い声の女性歌手が受け持つ。オペラでは第1幕前半、羊飼いレーリが雪娘に聴かせる歌である。第1の歌「茂みの下に育つイチゴ」は孤児の悲しみを歌ったしんみり調、第2の歌「羊飼いの歌で林が揺れる」は可愛い娘が花束を持って駆けていく情景を歌ったうきうき調、といった対比がある。R=コルサコフが書いた『第1の歌』には、あの<皇帝の花嫁>で聴かれたリュバーシャの歌を想起させる雰囲気がある。『第2の歌』はどちらの作曲家も同じような意匠で仕上げているが、私の感触としては、チャイコフスキーの方がより楽しげで親しみやすいようだ。

第9曲『間奏曲』と第11曲『メロドラマ』は、「さあ出ました、チャイコ節」という感じ。<エフゲニ・オネーギン>の一節、レンスキーのアリアで使われている有名な旋律をちょっと想起させるものが、それぞれの冒頭で流れる。どちらの曲も、憂愁にふさぎ込むような甘美な暗さを持ったチャイコフスキーならではの美しい音楽だ。

第13曲『ホヴォロード』は、解説書の英文対訳によると、「少女たちの輪舞」みたいなものらしい。合唱付きの、何とも優しい抒情的な舞曲である。「はるか遠くにライムの木、その下にはテント、その中にはテーブル、そこにいるのは、かわいい女の子」といった内容が歌われる。

次の第14曲『スコモローフたちの踊り』は、R=コルサコフのオペラでも管弦楽曲としての聴きどころになっているが、チャイコフスキーが書いた音楽も非常に楽しい。まさにあの《三大バレエ》の一場面を思わせるような、ダイナミックな舞曲である。具体的には<白鳥の湖>に於ける『ハンガリーの踊り』、あるいは<くるみ割り人形>に於ける『トレパーク』といったあたりをイメージしていただければ、だいたい近いんじゃないかと思う。

第15曲『レーリの第3の歌』は、前回オペラのあらすじで語ったとおり、ベレンデイの皇帝を喜ばせることになるモテモテ羊飼いの歌である。ただ、CDに付いている歌詞ブックを見ながら聴いてみると、各節の最後に必ず付くはずのリフレイン“Lel,Leli,Leli,Lel”が、チャイコフスキーの曲には全く出てこない。どうも意図的にカットされているようだ。「雲が雷に言った。お前は鳴れ、私は雨を降らせる。そして大地を潤して、花を咲かせりゃ」と始まる歌が、ゆったりとしたテンポで8分間ほど続く。このあたりは、陽気なリフレインを鮮やかに活用しながらすっきりと短くまとめたR=コルサコフの曲とは、随分対照的である。

で、実はそのカットされたリフレインに相当するものが、次の第16曲『ブルシーラの歌』で出て来る。ブルシーラというのは、ベレンデイ国の若者の一人だ。原作を見ると、これがなかなか楽しい男で、「ミズギールって奴、よそ者のくせに生意気だよな」とか言いながら、いざ本人の前に出されると、「いえいえ、仲間内の冗談でして」などと卑屈になる。レーリが『第3の歌』を歌って絶賛された直後、「何だい、みんな中でレーリ、レーリって。おい、俺たちの歌と踊りも見せてやろうぜ」と言って彼が相棒のクリールコと始めるのが、この『ブルシーラの歌』というわけである。「黒いビーヴァー、ひと泳ぎ。泥んこまみれになったので、土手に上がって身づくろい。そしたら狩人やって来て」といったような始まりの生き生きした歌で、“Ay Lel Leli Lel”という陽気なフレーズが各節の終わりで繰り返される。ちなみに、R=コルサコフのオペラでこれに相当する箇所は、第3幕冒頭の『ビーヴァーの輪舞と歌』である。そちらはまた合唱付きで、何とも華やか。

(※原作の展開を見ると、この歌と踊りが娘たちに評価されて、ブルシーラとクリールコはこの後それぞれに良いお相手をつかむことになる。ブルシーラはラヅーシカという娘を抱きしめながら、「ああ~、うれしい世の中だなあ」と幸せの一声。この男、何というか、実に愛すべきキャラである。w )

第17曲『森の精の登場と雪娘の幻影』は、前回採りあげたR=コルサコフのオペラで言えば、第3幕の後半に当たる部分だ。レーリがクパヴァを選んだことでショックを受けた雪娘がその場を立ち去り、それをミズギールが追いかける。しかし、マロース翁から依頼を受けていた森の精が、雪娘を守るべくミズギールの行く手をさえぎるという場面である。ここは、R=コルサコフの勝ち。オペラで聴かれる不思議な管弦楽、ごく短い演奏時間ではあるものの、どこかSF的・宇宙的な神秘感を漂わせる音楽には、特別な味わいがある。逆にここでのチャイコフスキーの音楽は、いささかありきたりなものに終わっている。

第18曲『春の精の朗読』は、原作によると、春の精(=雪娘の母親)が雪娘に「愛を知る花の冠」をかぶせる時に語る言葉である。R=コルサコフのオペラでは、第4幕冒頭のシーンで聴かれるものだ。そちらでは、『花の合唱』と呼ばれる部分に当たる。「ユリやバラ、ツメクサやポピー、その他の花々が雪娘に多くの魅力を与え、やがて愛が訪れる」といった内容の歌詞を持つ。R=コルサコフのオペラでは、春の美がまず歌い出してから女声合唱が続くという形だが、劇音楽として書かれたチャイコフスキー作品では女声合唱のみが歌う。管弦楽前奏に見られるR=コルサコフの腕前もさすがだが、合唱のしっとりとした美しさは、チャイコフスキーの方がちょっと上かも・・。

続く第19曲『ベレンデイ皇帝の行進と合唱』では、なかなか力強いマーチが出て来る。R=コルサコフのオペラにも『皇帝の行進』は小さな管弦楽曲としてあるのだが、そちらはマリオネット的な皇帝のキャラを表すような、どこかコミカルなものに仕上がっている。皇帝のイメージが、両作曲家の間で少し違っていたのかも知れない。

最後の第20曲『フィナーレ』は、R=コルサコフのオペラと同じく、最後を締めくくる太陽神ヤリーロへの賛歌である。しかし、音楽の様子は随分違う。全員で激しく、且つ短くドカーンと盛り上がるR=コルサコフの曲とは対照的に、チャイコフスキー作品ではメゾ・ソプラノ独唱が中心となって合唱が一緒に歌うというパターンを採用し、曲想にも落ち着いた感じがある。R=コルサコフのオペラでは、皇帝から乞われたレーリがまず一節歌ってから全員の大合唱になるので、ここでのメゾ・ソプラノもおそらく羊飼いレーリのことであろうと推測される。

―以上で、<雪娘>のお話は終了。次回もう一つだけ、R=コルサコフのオペラ。最後は、ちょっと異色の短編歌劇を。
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歌劇<雪娘>

2006年11月12日 | 作品を語る
R=コルサコフの初期オペラに、<雪娘>(1882年初演)という作品がある。これは、アレクサンドル・オストロフスキー(1823~86)の童話『雪娘-春のおとぎ話』を題材にした歌劇だ。若い頃のR=コルサコフらしく、後年のこってりしたサウンドとは対照的に、しばしば水彩画に例えられるような透明感のある響きを持つところが特徴になっている。しかし童話がもとになっているとはいえ、全曲の上演時間は約3時間15分ほど。相当な長編オペラである。まずは、その物語の概要から・・。

―歌劇<雪娘>のあらすじ

〔 プロローグ 〕

厳寒のマロース翁(B)は太陽神にとっては仇敵となる存在だが、このマロースに春の美(Ms)が惹かれ、15年前に子供をもうけた。それが、雪娘スネグーロチカ(S)である。この出来事は太陽神ヤリーロの機嫌を損ね、ベレンデイ国は長い冬と寒い春が繰り返すような場所になってしまった。

やがて年頃になった娘を太陽神から守ろうと、両親は彼女を人間界に委ねることにする。折しも、人間界では謝肉祭の宴。雪娘は気のよい小作人の前に現れ、養女にしてもらう。

〔 第1幕 〕

ベレンデイ国には、素晴らしい歌で国中の女性をとりこにしている青年がいる。羊飼いのレーリ(A)である。このレーリに心惹かれる雪娘だが、彼女は父ゆずりの血によって恋ができない。金持ちムラシュの娘クパヴァ(S)は雪娘に同情するものの、自分の婚礼の準備に忙しい。そこへ彼女の恋人である行商人ミズギール(Bar)が帰ってくる。しかし彼は雪娘を一目見るやたちまち恋に落ちてしまい、クパヴァから離れていく。絶望するクパヴァを、レーリが慰める。

〔 第2幕 〕

ベレンデイの皇帝(T)は考えている。「失われた太陽神の好意、臣民たちの愛、そして国の自然をどうやって取り戻そうか」。そして彼は、太陽神の祭日を期に、若者たちの合同結婚式を実施しようと決める。

皇帝のもとにやって来たクパヴァが、恋人ミズギールの裏切りを訴える。皇帝はミズギールを呼んで責めるが、彼の心は完全に雪娘のとりこになっている。皇帝から流刑を言い渡された彼は、「言い訳は致しません。雪娘をご覧になったら、きっとご理解いただけるでしょう」と皇帝に答える。やがてそこへ姿を現した雪娘を見て皇帝は、「この娘こそ、太陽神を宥めることの出来る女子(おなご)じゃ」と確信する。そして、国の男たちに、「この娘の心に暖かい愛を呼び起せる者はおるか」と問いかける。ミズギールが立候補する。

〔 第3幕 〕

太陽神ヤリーロ祝祭の前日。人々の賑やかな集まりの場で、若者たちが歌って踊る。さらに、スコモローフ(=放浪の楽師、芸人)たちの華やかな踊りも披露される。それに続く羊飼いレーリの歌に深く感じ入った皇帝が、「誰でも好きな女子を選び、その子から愛の接吻を受けるがよい」と告げると、レーリはクパヴァを選ぶ。ショックを受けた雪娘は、そこから立ち去る。その彼女のもとへミズギールが駆けつけて求愛するが、雪娘は応えられずに逃げる。その後、レーリとクパヴァが逢引している場所に現れた雪娘は、強い嫉妬を覚える。彼女は母親に、「私に愛を教えて」と呼びかける。

〔 第4幕 〕

雪娘の母である春の美が現れ、娘に「愛を知る花の冠」を与える。やがて現れたミズギールの求愛に、雪娘は応える。しかし、母からの注意を聞いて太陽には当たらないようにしたかった雪娘だったが、ミズギールはそれを聞かず、皇帝のもとへと彼女を連れて行く。そして二人が愛の実現を報告したその時、太陽が雪娘の心に暖かく差し込む。彼女は溶けて消滅する。絶望したミズギールは、湖に身を投げてしまう。皇帝は、「これは、15年前に春が雪娘を産んだことに対する太陽神の怒りじゃ。しかし、この二人の犠牲によって、ベレンデイの国にまた太陽がもどってくる」と、皆に告げる。全員による『太陽への賛歌』が力強く歌われて、全曲の終了。

以上、長い話を出来るだけコンパクトにまとめてみたが、その背後にある思想や宗教観、あるいは登場人物達の象徴的な意味等を理解するのは、我々外国人にはかなり難しいように思える。そのためこのオペラは、ロシア国内での人気はともかく、国際的な高評価を得るレベルまでには至っていないようである。

―歌劇<雪娘>のCD

歌劇<雪娘>の全曲盤は、現在数種類が入手可能なようだ。私が持っているのは、若きエフゲニ・スヴェトラーノフの指揮によるボリショイ劇場での1956年・モノラル録音盤。古い録音で指揮にも硬さが感じられるものの、歌手陣は豪華。ただし、本来ならCDがたっぷり3枚は必要なところを2枚にぴっちり収めているので、当然ながら、あちこちにカットがある。

この盤の出演歌手陣は、さすがにボリショイ・オペラ黄金期の録音らしく、かなり豪勢な顔ぶれが揃っている。中でもまず筆頭に挙げるべきは、皇帝役のイワン・コズロフスキーだろう。「おとぎの国で永遠に年老いた姿で生き続ける、叡智の象徴」というこの半神話的キャラクターを、彼はその独特の声と歌い方で見事に表現している。第2幕後半で歌われる『皇帝のカヴァティーナ』など、西欧的な美感とはかなり隔たった独自の世界を生み出す。(※彼と同時代の良きライヴァルだったセルゲイ・レメシェフもこの役を得意にしていたそうだが、両者はおそらく甲乙つけがたいものであったろう。)

クパヴァ役が若き日のガリーナ・ヴィシネフスカヤ、というのも面白い。この録音当時、彼女は、「クルグリコワ以来の名タチヤーナ(=<エフゲニ・オネーギン>のヒロイン)」を演じるようになっていた。ここでの歌唱にも、そのタチヤーナ的な表情が随所に出ていて、何ともほほえましい。第2幕で聴かれる『皇帝とクパヴァの二重唱』でも、コズロフスキーと彼女は絶妙の呼吸を見せる。しかし、「原詩に見られるロシア語の言語リズムを見事に旋律化した」と評されるこの二重唱は、ロシア語の分かる人でないと本当に味わうことは出来ないものだろう。私には残念ながら、不可能である。ガクッ・・。

羊飼いレーリを歌うアルト歌手ラリッサ・アフデイエワ、ミズギール役のバリトン歌手ユーリ・ガルキン、このお2人も好演。厳寒のマロース翁は出番の少ない役だが、アレクセイ・クリフチェーニャが演じていて、さすがの存在感、というか貫禄みたいなものを見せてくれる。この名バス歌手には、当ブログでも今後何回かご登場いただく予定である。ただ、雪娘スネグーロチカを演じるヴェラ・フィルソワの歌唱については、ちょっと私の感覚としては、あまり芳しい評価を出せそうにない。

(※ところで、このオペラには、「プロローグへの導入曲」「鳥たちの踊り」「皇帝の行進」「スコモローフたちの踊り」という4曲から成る小さな組曲版もある。私が持っているのは、エフレム・クルツという人がフィルハーモニア管を振ったEMI盤。この人はあまり高名な指揮者ではないが、ここでは色彩感豊かな表現で、意想外に良い演奏をやってくれている。)

―次回予告。オストロフスキーの童話『雪娘』が1873年にお芝居の演目として舞台にかけられた時、実はチャイコフスキーが劇音楽を書いていた。そちらはR=コルサコフのオペラよりもずっと前に書かれたものだったが、その後長く埋もれることとなった。チャイコフスキーのは劇音楽、R=コルサコフのはオペラ、ということで、この2つを全く同じ俎上に乗せて論じるわけにはいかないのだが、それでもこの両者を比べてみると、いろいろな発見があってなかなか興味深いものがある。―という訳で次回は、チャイコフスキーの劇付随音楽<雪娘>Op12をトピックにして、R=コルサコフのオペラで聴かれる音楽との比較を楽しみながら、この作品の鑑賞をもう少し深めていくことにしたいと思う。
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ブィリーナの英雄たち

2006年11月06日 | エトセトラ
前回まで語ったR=コルサコフの歌劇<サトコ>の主人公は、ロシアの古い英雄叙事詩「ブィリーナ」に元々出て来る人である。このブィリーナの定義や成り立ち、あるいは歴史的経緯みたいなものについては、専門家の中村喜和氏が『ロシア英雄物語~語り継がれた《ブィリーナ》の勇士たち~』(平凡社)という著書の中で詳しく紹介してくださっている。また、作家の筒井康隆氏が読みやすい日本語で物語を紹介し、そこに手塚治虫氏が挿絵を入れた『イリヤ・ムウロメツ』(講談社)というお楽しみ系の本もある。勿論、関連の書物は他にも色々あると思うが、とりあえず私が読んで知っているのは、この二点である。

筒井氏が手がけた後者『イリヤ・ムウロメツ』の巻末には、上述の中村氏による解説が付いている。そこで氏は、この叙事詩に出て来る英雄たちを大きく3つのグループに分けておられるのだが、これはブィリーナの物語世界を俯瞰する上で非常に有力な手がかりになるものだ。そのポイントをかいつまんで書き出してみると、だいたい次のような感じになろうかと思う。

●第1のグループ : 最も古い神話時代の豪傑たち

「この大地に取っ手が付いていたら、ワシがそっくり持ち上げてみせるわい」と豪語する大巨人スヴャトゴールや、鷹や狼などに変身して活躍する勇士ヴォルフなど、神話的なキャラクターが登場するグループ。

●第2のグループ : イリヤ・ムウロメツをはじめとする様々な英雄や勇士たち

幾多の英雄や勇者たちが群雄割拠するグループ。特に、「ムウロムの人イリヤ」を意味するイリヤ・ムウロメツがその代表的人物となっている。この英雄を巡る様々なエピソードを筒井康隆氏が手際よくまとめた本が、上にご紹介した『イリヤ・ムウロメツ』(講談社)である。また、彼を主人公にした『イリヤ・ムーロメッツ』という劇映画も昔作られていたようで、数日前ネット通販サイトでそのDVDを見かけた。

数多く存在するイリヤの武勇伝の中でも特に有名とされているのは、悪魔ソロウェイをやっつけた話のようだ。ソロウェイというのは、英語ならナイティンゲールに相当する単語で、「うぐいす丸」などというちょっと時代がかった邦訳がついている。こいつは恐ろしい声を発して人も動物も皆失神させてしまう魔物なのだが、イリヤの矢で片目を射抜かれる。その他にも大巨人スヴャトゴールとの交友、チェルニーゴフの戦いでの一騎当千の活躍、怪物イードリシチェや白眼の化け物との対決、息子を自らの手で殺すことになる苦い戦闘、そして天の怒りを受けたことによる意外な死に方、といった英雄イリヤの様々なエピソードが筒井氏の本で紹介されている。

中村氏の『ロシア英雄物語』によると、このイリヤ・ムウロメツの遺骸とされるものが長い間キエフの洞窟修道院に安置されていたそうである。ロシア各地から来る巡礼たちは、イリヤが古代ロシアに実在した一番の勇士であったことをいささかも疑っていなかったそうだ。ブィリーナという言葉自体は、「実際にあったこと」を意味する単語らしいのだが、このような素朴な信仰がその裏打ちになっているものと考えられるようである。

中村氏による同書には、イリヤの他にアリョーシャ・ポポーヴィチ、ドブルィニャ・ニキーティチなどの英雄たちも登場してくる。前者は「司祭の息子アレクサンドル」という意味の名を持つ、女好きの豪傑だそうだ。彼が大蛇の子トゥガーリンという怪物を倒した話が載っている。

後者ドブルィニャ・ニキーティチも、ブィリーナの世界では非常に高名な勇士らしい。中村氏の本では、彼の妻ナスターシアの話に多くのページが割かれている。夫のドブルィニャが長い年月にわたって戦いに出かけている間、妻ナスターシアはじっと待ち続ける。そこへアリョーシャ・ポポーヴィチがやって来て、「あなたの夫は、戦場でひどい死に方をしてしまいました」と、彼女に嘘を言う。そして、彼女がそのアリョーシャと再婚してしまいそうになる直前に、怒り心頭で帰ってきた夫が彼女を取り返し、夫婦は無事元のさやに収まるというお話だ。怒れるドブルィニャは最後にアリョーシャを半殺しの目にあわせるのだが、その理由が妻に手を出されたことではなく、自分のことを惨めな戦死者に仕立てた嘘の方にあったというのが面白い。

●第3のグループ : ノヴゴロドの英雄たち

中村氏の『ロシア英雄物語』には、この最後のグループの主人公として2人の男が登場する。陽気な度外れ男ワシーリィ・ブスラーエフと、グースリ弾きのサトコである。

前者ワシーリィの物語は、エルサレムへの巡礼行が題材になっている。話のポイントは、その往復路で彼がしでかす“おいた”。道に転がっている亡き戦士のしゃれこうべを足で蹴飛ばして、そのしゃれこうべに叱られてみたり、「この石のまわりで遊ぶべからず」という警告を見るや、わざとそこで仲間と悪ふざけをしてみたりするのである。結局、彼はその石のところでジャンプに失敗し、首を折って即死するのだった。w

一方、R=コルサコフがオペラの題材に採用したことで有名になったのが、後者のサトコである。とりあえず、中村氏の本に載っているサトコの物語から、オペラと関連のある部分のあらすじを書き出してみたい。

{ サトコはグースリという楽器を演奏する歌人である。各地の祝宴に招かれては歌い、そこでいただく物が彼の収入になっている。また、そういう生活をしているため、彼は独身である。

サトコが一人、しょんぼりとイリメニ湖畔で歌っている。何日経っても、どこからもお呼びがかからないので、すっかりしょげているのだ。ある時、湖底に棲む水の王が姿を現す。サトコの歌に惚れ込んだ彼は、「お礼に、黄金の魚でお前を金持ちにしてやろう」と申し出る。その後、彼はその魚を巡ってノヴゴロドの人々と賭けをし、見事勝利を収める。裕福になった彼は商人としてさらなる成功を収め、ようやく妻を娶ることになる。

一介のグースリ弾きから豪商になったサトコは、やがて大海原に船出する。海を渡る商売で、彼は何年にもわたって大もうけを味わう。しかし、ある時、彼の船だけが洋上で動かなくなる。何年間も全く挨拶しないサトコの態度に、海の王が怒ったのだ。そして生け贄を選ぶ船員たちのくじ引きで、サトコが当たりになる。その後、海底に沈んだサトコは海王の要求に応じて歌い出す。やがてサトコの歌に合わせて踊りだす海王がひどい嵐を起こし、海上の船を沈め始める。荒れる海に困った人々が、正教の守護聖人であるモジャイスクのニコラに助けを求めて祈る。

人々の祈りを聞いたニコラが海底のサトコのもとに現れ、歌を止めるようにと進言する。聖人は丁寧に事態の解決へとサトコを導き、最後に自分のために聖堂を立ててくれと依頼する。ニコラの助言を素直に実行して、まずサトコは海王と折衝する中で乙女チェルナヴァ(=ヴォルホヴァの別名とする説もある)を妻として選ぶ。しかし、聖人の言いつけを守って、彼女に手は出さない。サトコが眠りから覚めると、彼はチェルナヴァ川の岸辺にいた。やがて、そこへかけつけた妻や、船で川を上って帰郷してきた部下たちと再会したサトコは、それまでの不思議な体験を皆に語って聞かせる。その後、彼は大いなる富を活かして聖人モジャイスクのニコラのための大聖堂を建立し、さらに聖母の教会も建てた。 }

以上ご覧いただいた通り、歌劇<サトコ>のストーリーは、このブィリーナの展開をだいたいその通りに踏襲したものである。しかし、相違点もまた少なからず見受けられる。例えば、海の王女が原典には全く出てこない。あの魅力的な女性は、R=コルサコフの“でっち上げキャラ”だったのだろうか・・。尤もブィリーナの物語は語り手や時代、あるいは地域によって、同じ題材にも沢山のヴァージョンが存在するので、ひょっとしたら海の王女がちゃんと出て来るものが他にあるのかもしれない。

一方、「海王たちのドンチャン騒ぎを鎮めるために、人々の祈りに応えた守護聖人が現れてくる」というここでの筋書きには、非常に説得力がある。オペラの中で唐突に出て来る謎の老巡礼よりも話に脈絡があるし、聖人が聖堂の建立をサトコに頼むという展開にも歴史的な根拠があるからだ。ノヴゴロド年代記1167年の項に、「ソドコ・スィチニツなる人物が、この地に石の教会を建てた」という記録があるらしいのである。いや、この世界、かなり奥が深い・・。

―次回も、R=コルサコフのオペラ。ブィリーナを伝承する上で重要な役割を担っていたとされるスコモローフ(=放浪の楽師、芸人)たちが出て来る、作曲家初期の傑作を一つ。
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