今回から、モーツァルトの歌劇<後宮からの逃走>の聴き比べである。私がこれまでに聴いてきた全曲盤についての感想を、録音年代順に書いていきたい。まず今回は古いところから、2つのモノラル録音盤のお話。
1.ヨゼフ・クリップス指揮ウィーン・フィル、他(L)~1950年
このクリップス盤の価値は何と言っても、1950年当時のウィーン・フィルの響きが聴けることだろう。デッカの優れた技術によって、当時の水準をはるかに凌駕した音質でそれを楽しめるのが嬉しい。弦楽器群のシャランシャランとした響きがまず特徴的だが、序曲などでは、トライアングルやシンバルなどの鳴らし物が鮮やかに気持ちよく鳴り響く。各アリアの伴奏などでも、この盤ではオーケストラの格別な音色が堪能できる。例えば、コンスタンツェの有名なアリア「ありとあらゆる拷問が」の導入部。ここはソロ楽器が活躍する室内楽的な伴奏が添えられている部分だが、当クリップス盤で聴ける当時のウィーン・フィルの音色には、ちょっと他では聴くことの出来ない特別な味わいがある。
ここでクリップスの指揮が生み出している音楽というのはおそらく、当時のウィーン・スタイルと言ってよいものなのだろう。洗練された瀟洒(しょうしゃ)な響きが一貫しており、音楽が軽やかに流れていく。ちなみにクリップスは、このオペラを同じウィーン・フィルとステレオで再録音している(1964~65年・EMI)。そちらは寡聞にして未聴なのだが、当デッカ盤で聴かれるような、ある種“蠱惑(こわく)的”な音色は多分、もう出ていないのではないかという気がする。
一方、歌手陣についても、おそらく当時のウィーンの名だたるメンバーを揃えたものだろうと思う。セリフのやり取り部分などを聞いていると、一同楽しくこの録音に臨んでいるという感じが伝わってくる。第2幕を締めくくる四重唱のコーダなど、指揮ともどもみんな生き生きとしている。コンスタンツェを歌っているのは、ウィルマ・リップ。コロラトゥーラの技術は決して十分なものではないが、役柄の雰囲気はよく出してくれている。(※ちなみにこの人、全盛期には<魔笛>の夜の女王を持ち役にしていたらしい。でも技術的にはきつかったんじゃないかな。)ブロンデ役のエミー・ローゼにも、ほぼ同じことが言えるだろう。技術的にはやはり不備があるが、ペドリッロとのセリフのやり取りなど、時に掛け合い漫才に聞こえるぐらい楽しげでノリがよい。オスミン役のエンドレ・コレーという人も、いくつかの持ち歌で聴かせる歌唱にはやはり不満を感じたが、ペドリッロと酒を飲む場面での豪快さは素晴らしかった。(※ちなみにこのコレーさん、ピーター・バルトーク氏が主催していたレーベルで、<青ひげ公の城>の1953年録音に参加し、青ひげ役を歌っていたそうだ。指揮は、ワルター・ジュスキント。演奏内容については詳細不明だが、音はほぼ間違いなく、モノラルの極上品だろう。)
歌手陣の中で残念ながら違和感を持ってしまったのは、ベルモンテ役のワルター・ルートヴィッヒ。野太い声をずり上げるような古めかしい唱法には、どうしても抵抗を感じてしまう。(※これを言っても仕方がないのだが、もしここでベルモンテ役を歌っているのがアントン・デルモータだったら、当ブログの記事の書き方もちょっと違う物になっていたかもしれない。)
2.フェレンツ・フリッチャイ指揮RIAS交響楽団、他(G)~1954年
上記クリップス盤と比べると、フリッチャイ盤で聴かれる響きは重めで、且つ陰影の濃いものになっている。この演奏を聴いて一番強く残る印象を端的に言い表すなら、「マジメまして、よろしく」といった感じになろうか。指揮者の音楽性、あるいはひょっとしたら人間性までを反映したものだろう。オーケストラの編成はかなり刈り込んでいるようで、当時の書評では、「室内楽的な細部の明瞭さが、この作品を初めて聴いたと聴き手に思わせるほどに、モーツァルトのスコアの透明さを明らかにしている」とあるようなのだが、たとえば古楽器派の人たちが聴かせる先鋭な演奏を知っている現代の聴衆には、この評論はちょっとリアリティを欠いているように感じられる。しかし、そうは言っても、「この盤の価値はほとんど、無くなってしまった」などということは決してない。フリッチャイ盤には、<後宮からの逃走>の演奏史に於ける、一つの里程標的な意義が存在するからである。
歌手たちに当時のベスト・メンバーが揃っていることも、大きなポイントだ。まずベルモンテ役が、エルンスト・ヘフリガー。デルモータ以降の世代では、モーツァルト・テナーの第一人者だった人である。ベルモンテ役での歌唱もやはりこの人らしい実直さが出たものだが、上述のW・ルートヴィッヒなどよりずっとスマートで聴きやすいものに歌が進化している。オスミン役は、ヨゼフ・グラインドル。1950年代にバイロイトで大活躍した名バス歌手だが、本当に芸の幅が広い人で、ここで聴かせるオスミンの歌唱も大変見事なものである。とにかく、存在感が抜群。ただ、次回登場するヨッフム盤で歌っているクルト・ベーメに比べると、幾分楷書体的で、ちょっと固い感じがしなくもない。(※私の個人的な感じ方としては、序曲に続いて登場するこのヘフリガーとグラインドルの歌唱が、フリッチャイの音楽作りともども、「どうも、マジメまして」な印象を強く与える結果になっているように思える。)
ブロンデ役のリタ・シュトライヒも、当時の名歌手。ドイツの代表的なリリック・ソプラノだった。とりわけ、スーブレット系の役柄にぴったりハマっていた人である。今となってはいささか古風に聴こえなくもないが、この人もまた、ブロンデという役に関して一つの里程標となる姿を示している。コンスタンツェ役はマリア・シュターダー。カール・リヒターとのバッハ等、宗教作品の録音がグラモフォンを中心にして多く遺されている人だ。コンスタンツェについても、「当時、この役に一番イメージが近い歌手の一人だったのだろうな」と思わせる雰囲気がある。ただ、歌唱そのものについて言えば、上記クリップス盤で歌っていたウィルマ・リップ同様、まだまだ望まれる部分が多かった。
―次回は、<後宮からの逃走>の聴き比べ・第2回。アナログ時代のステレオ録音から、3種の全曲盤を採り上げて語ってみたい。ステレオ時代になると、指揮者も歌手も、クラシック・ファンの多くにとってかなりお馴染みの名前が出て来る。
1.ヨゼフ・クリップス指揮ウィーン・フィル、他(L)~1950年
このクリップス盤の価値は何と言っても、1950年当時のウィーン・フィルの響きが聴けることだろう。デッカの優れた技術によって、当時の水準をはるかに凌駕した音質でそれを楽しめるのが嬉しい。弦楽器群のシャランシャランとした響きがまず特徴的だが、序曲などでは、トライアングルやシンバルなどの鳴らし物が鮮やかに気持ちよく鳴り響く。各アリアの伴奏などでも、この盤ではオーケストラの格別な音色が堪能できる。例えば、コンスタンツェの有名なアリア「ありとあらゆる拷問が」の導入部。ここはソロ楽器が活躍する室内楽的な伴奏が添えられている部分だが、当クリップス盤で聴ける当時のウィーン・フィルの音色には、ちょっと他では聴くことの出来ない特別な味わいがある。
ここでクリップスの指揮が生み出している音楽というのはおそらく、当時のウィーン・スタイルと言ってよいものなのだろう。洗練された瀟洒(しょうしゃ)な響きが一貫しており、音楽が軽やかに流れていく。ちなみにクリップスは、このオペラを同じウィーン・フィルとステレオで再録音している(1964~65年・EMI)。そちらは寡聞にして未聴なのだが、当デッカ盤で聴かれるような、ある種“蠱惑(こわく)的”な音色は多分、もう出ていないのではないかという気がする。
一方、歌手陣についても、おそらく当時のウィーンの名だたるメンバーを揃えたものだろうと思う。セリフのやり取り部分などを聞いていると、一同楽しくこの録音に臨んでいるという感じが伝わってくる。第2幕を締めくくる四重唱のコーダなど、指揮ともどもみんな生き生きとしている。コンスタンツェを歌っているのは、ウィルマ・リップ。コロラトゥーラの技術は決して十分なものではないが、役柄の雰囲気はよく出してくれている。(※ちなみにこの人、全盛期には<魔笛>の夜の女王を持ち役にしていたらしい。でも技術的にはきつかったんじゃないかな。)ブロンデ役のエミー・ローゼにも、ほぼ同じことが言えるだろう。技術的にはやはり不備があるが、ペドリッロとのセリフのやり取りなど、時に掛け合い漫才に聞こえるぐらい楽しげでノリがよい。オスミン役のエンドレ・コレーという人も、いくつかの持ち歌で聴かせる歌唱にはやはり不満を感じたが、ペドリッロと酒を飲む場面での豪快さは素晴らしかった。(※ちなみにこのコレーさん、ピーター・バルトーク氏が主催していたレーベルで、<青ひげ公の城>の1953年録音に参加し、青ひげ役を歌っていたそうだ。指揮は、ワルター・ジュスキント。演奏内容については詳細不明だが、音はほぼ間違いなく、モノラルの極上品だろう。)
歌手陣の中で残念ながら違和感を持ってしまったのは、ベルモンテ役のワルター・ルートヴィッヒ。野太い声をずり上げるような古めかしい唱法には、どうしても抵抗を感じてしまう。(※これを言っても仕方がないのだが、もしここでベルモンテ役を歌っているのがアントン・デルモータだったら、当ブログの記事の書き方もちょっと違う物になっていたかもしれない。)
2.フェレンツ・フリッチャイ指揮RIAS交響楽団、他(G)~1954年
上記クリップス盤と比べると、フリッチャイ盤で聴かれる響きは重めで、且つ陰影の濃いものになっている。この演奏を聴いて一番強く残る印象を端的に言い表すなら、「マジメまして、よろしく」といった感じになろうか。指揮者の音楽性、あるいはひょっとしたら人間性までを反映したものだろう。オーケストラの編成はかなり刈り込んでいるようで、当時の書評では、「室内楽的な細部の明瞭さが、この作品を初めて聴いたと聴き手に思わせるほどに、モーツァルトのスコアの透明さを明らかにしている」とあるようなのだが、たとえば古楽器派の人たちが聴かせる先鋭な演奏を知っている現代の聴衆には、この評論はちょっとリアリティを欠いているように感じられる。しかし、そうは言っても、「この盤の価値はほとんど、無くなってしまった」などということは決してない。フリッチャイ盤には、<後宮からの逃走>の演奏史に於ける、一つの里程標的な意義が存在するからである。
歌手たちに当時のベスト・メンバーが揃っていることも、大きなポイントだ。まずベルモンテ役が、エルンスト・ヘフリガー。デルモータ以降の世代では、モーツァルト・テナーの第一人者だった人である。ベルモンテ役での歌唱もやはりこの人らしい実直さが出たものだが、上述のW・ルートヴィッヒなどよりずっとスマートで聴きやすいものに歌が進化している。オスミン役は、ヨゼフ・グラインドル。1950年代にバイロイトで大活躍した名バス歌手だが、本当に芸の幅が広い人で、ここで聴かせるオスミンの歌唱も大変見事なものである。とにかく、存在感が抜群。ただ、次回登場するヨッフム盤で歌っているクルト・ベーメに比べると、幾分楷書体的で、ちょっと固い感じがしなくもない。(※私の個人的な感じ方としては、序曲に続いて登場するこのヘフリガーとグラインドルの歌唱が、フリッチャイの音楽作りともども、「どうも、マジメまして」な印象を強く与える結果になっているように思える。)
ブロンデ役のリタ・シュトライヒも、当時の名歌手。ドイツの代表的なリリック・ソプラノだった。とりわけ、スーブレット系の役柄にぴったりハマっていた人である。今となってはいささか古風に聴こえなくもないが、この人もまた、ブロンデという役に関して一つの里程標となる姿を示している。コンスタンツェ役はマリア・シュターダー。カール・リヒターとのバッハ等、宗教作品の録音がグラモフォンを中心にして多く遺されている人だ。コンスタンツェについても、「当時、この役に一番イメージが近い歌手の一人だったのだろうな」と思わせる雰囲気がある。ただ、歌唱そのものについて言えば、上記クリップス盤で歌っていたウィルマ・リップ同様、まだまだ望まれる部分が多かった。
―次回は、<後宮からの逃走>の聴き比べ・第2回。アナログ時代のステレオ録音から、3種の全曲盤を採り上げて語ってみたい。ステレオ時代になると、指揮者も歌手も、クラシック・ファンの多くにとってかなりお馴染みの名前が出て来る。