クラシック音楽オデュッセイア

2009年の大病以来、月1回程度の更新ペース。クラシックに限らず、身の回りの事なども、気の向くままに書いております。

<後宮からの逃走>~2つのモノラル盤(クリップス、フリッチャイ)

2006年05月29日 | 演奏(家)を語る
今回から、モーツァルトの歌劇<後宮からの逃走>の聴き比べである。私がこれまでに聴いてきた全曲盤についての感想を、録音年代順に書いていきたい。まず今回は古いところから、2つのモノラル録音盤のお話。

1.ヨゼフ・クリップス指揮ウィーン・フィル、他(L)~1950年

このクリップス盤の価値は何と言っても、1950年当時のウィーン・フィルの響きが聴けることだろう。デッカの優れた技術によって、当時の水準をはるかに凌駕した音質でそれを楽しめるのが嬉しい。弦楽器群のシャランシャランとした響きがまず特徴的だが、序曲などでは、トライアングルやシンバルなどの鳴らし物が鮮やかに気持ちよく鳴り響く。各アリアの伴奏などでも、この盤ではオーケストラの格別な音色が堪能できる。例えば、コンスタンツェの有名なアリア「ありとあらゆる拷問が」の導入部。ここはソロ楽器が活躍する室内楽的な伴奏が添えられている部分だが、当クリップス盤で聴ける当時のウィーン・フィルの音色には、ちょっと他では聴くことの出来ない特別な味わいがある。

ここでクリップスの指揮が生み出している音楽というのはおそらく、当時のウィーン・スタイルと言ってよいものなのだろう。洗練された瀟洒(しょうしゃ)な響きが一貫しており、音楽が軽やかに流れていく。ちなみにクリップスは、このオペラを同じウィーン・フィルとステレオで再録音している(1964~65年・EMI)。そちらは寡聞にして未聴なのだが、当デッカ盤で聴かれるような、ある種“蠱惑(こわく)的”な音色は多分、もう出ていないのではないかという気がする。

一方、歌手陣についても、おそらく当時のウィーンの名だたるメンバーを揃えたものだろうと思う。セリフのやり取り部分などを聞いていると、一同楽しくこの録音に臨んでいるという感じが伝わってくる。第2幕を締めくくる四重唱のコーダなど、指揮ともどもみんな生き生きとしている。コンスタンツェを歌っているのは、ウィルマ・リップ。コロラトゥーラの技術は決して十分なものではないが、役柄の雰囲気はよく出してくれている。(※ちなみにこの人、全盛期には<魔笛>の夜の女王を持ち役にしていたらしい。でも技術的にはきつかったんじゃないかな。)ブロンデ役のエミー・ローゼにも、ほぼ同じことが言えるだろう。技術的にはやはり不備があるが、ペドリッロとのセリフのやり取りなど、時に掛け合い漫才に聞こえるぐらい楽しげでノリがよい。オスミン役のエンドレ・コレーという人も、いくつかの持ち歌で聴かせる歌唱にはやはり不満を感じたが、ペドリッロと酒を飲む場面での豪快さは素晴らしかった。(※ちなみにこのコレーさん、ピーター・バルトーク氏が主催していたレーベルで、<青ひげ公の城>の1953年録音に参加し、青ひげ役を歌っていたそうだ。指揮は、ワルター・ジュスキント。演奏内容については詳細不明だが、音はほぼ間違いなく、モノラルの極上品だろう。)

歌手陣の中で残念ながら違和感を持ってしまったのは、ベルモンテ役のワルター・ルートヴィッヒ。野太い声をずり上げるような古めかしい唱法には、どうしても抵抗を感じてしまう。(※これを言っても仕方がないのだが、もしここでベルモンテ役を歌っているのがアントン・デルモータだったら、当ブログの記事の書き方もちょっと違う物になっていたかもしれない。)

2.フェレンツ・フリッチャイ指揮RIAS交響楽団、他(G)~1954年

上記クリップス盤と比べると、フリッチャイ盤で聴かれる響きは重めで、且つ陰影の濃いものになっている。この演奏を聴いて一番強く残る印象を端的に言い表すなら、「マジメまして、よろしく」といった感じになろうか。指揮者の音楽性、あるいはひょっとしたら人間性までを反映したものだろう。オーケストラの編成はかなり刈り込んでいるようで、当時の書評では、「室内楽的な細部の明瞭さが、この作品を初めて聴いたと聴き手に思わせるほどに、モーツァルトのスコアの透明さを明らかにしている」とあるようなのだが、たとえば古楽器派の人たちが聴かせる先鋭な演奏を知っている現代の聴衆には、この評論はちょっとリアリティを欠いているように感じられる。しかし、そうは言っても、「この盤の価値はほとんど、無くなってしまった」などということは決してない。フリッチャイ盤には、<後宮からの逃走>の演奏史に於ける、一つの里程標的な意義が存在するからである。

歌手たちに当時のベスト・メンバーが揃っていることも、大きなポイントだ。まずベルモンテ役が、エルンスト・ヘフリガー。デルモータ以降の世代では、モーツァルト・テナーの第一人者だった人である。ベルモンテ役での歌唱もやはりこの人らしい実直さが出たものだが、上述のW・ルートヴィッヒなどよりずっとスマートで聴きやすいものに歌が進化している。オスミン役は、ヨゼフ・グラインドル。1950年代にバイロイトで大活躍した名バス歌手だが、本当に芸の幅が広い人で、ここで聴かせるオスミンの歌唱も大変見事なものである。とにかく、存在感が抜群。ただ、次回登場するヨッフム盤で歌っているクルト・ベーメに比べると、幾分楷書体的で、ちょっと固い感じがしなくもない。(※私の個人的な感じ方としては、序曲に続いて登場するこのヘフリガーとグラインドルの歌唱が、フリッチャイの音楽作りともども、「どうも、マジメまして」な印象を強く与える結果になっているように思える。)

ブロンデ役のリタ・シュトライヒも、当時の名歌手。ドイツの代表的なリリック・ソプラノだった。とりわけ、スーブレット系の役柄にぴったりハマっていた人である。今となってはいささか古風に聴こえなくもないが、この人もまた、ブロンデという役に関して一つの里程標となる姿を示している。コンスタンツェ役はマリア・シュターダー。カール・リヒターとのバッハ等、宗教作品の録音がグラモフォンを中心にして多く遺されている人だ。コンスタンツェについても、「当時、この役に一番イメージが近い歌手の一人だったのだろうな」と思わせる雰囲気がある。ただ、歌唱そのものについて言えば、上記クリップス盤で歌っていたウィルマ・リップ同様、まだまだ望まれる部分が多かった。

―次回は、<後宮からの逃走>の聴き比べ・第2回。アナログ時代のステレオ録音から、3種の全曲盤を採り上げて語ってみたい。ステレオ時代になると、指揮者も歌手も、クラシック・ファンの多くにとってかなりお馴染みの名前が出て来る。
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歌劇<後宮からの逃走>

2006年05月21日 | 作品を語る
前回まで語ってきたウェーバーの歌劇<オベロン>のストーリーを読みながら、もう既にお気付きになった方がおられるかも知れない。このウェーバー最後の歌劇に見られる物語展開は、モーツァルトの歌劇<後宮からの逃走>(1782年)にそっくりなのである。もっとも、モーツァルト・オペラの方は非常に有名な物なので、当ブログでは、必要な部分を確認する程度のあらすじだけを書き出してみることにしたい。それだけでも、<オベロン>との類似点は十分に感じ取っていただけるのではないかと思う。

―歌劇<後宮からの逃走>のあらすじ

航海の途中で海賊にさらわれた後、トルコ太守に買われてハーレムに押し込まれたヒロインがいる。その名は、コンスタンツェ(S)。「変らぬ貞節」という名前を持ったこの女性に、今救いのチャンスがやって来ようとしている。恋人のベルモンテ(T)が、助けに来たのだ。「海賊に誘拐された恋人を、今度はこっちが後宮から誘拐し返してやる」と、意気込んでやって来たわけである。

後宮の番人をしているのは、オスミン(B)という頑固者。ベルモンテはまず、恋人と一緒に連れ去られた自分の部下であるペドリッロ(T)について、その消息を尋ねる。「コンスタンツェを、よく見張っているように」と太守から命じられているオスミンは、もともと外来者に対しては警戒心が強いのだが、ペドリッロという名を聞くや一層不機嫌になる。ペドリッロは、コンスタンツェの侍女であるブロンデ(S)と相思相愛の恋仲。しかし、オスミン爺さんは年甲斐もなく(?)、そのブロンデに首ったけなのであった。だから、ペドリッロという若造がうっとうしくて仕方ない。(※第2幕の冒頭では、ブロンデに言い寄るオスミンと、彼の尊大な態度にしっかりと対抗する活発なブロンデの楽しいやり取りが見られる。ここで聴かれるブロンデのアリア「女心をつかむには」は、とてもチャーミングな曲だ。)

一方、太守セリム(語り役)からの求愛に対して、「私には、好きな人がいるんです」と、コンスタンツェは恋人を裏切らないよう必死に抵抗している。(※ここで歌われるコンスタンツェのアリア「ありとあらゆる拷問が」は、映画『アマデウス』でもすっかりお馴染みになった有名な曲。この歌を聴きながらサリエリが目をぐるぐる回してしまうというシーンが、非常に印象的だった。)その後ペドリッロがブロンデに会い、ベルモンテが助けに来てくれたことを告げる。それから彼は勇気を奮って、計画の第一作戦に乗り出すことにする。

ペドリッロはまずオスミンのところへ行き、おいしい酒を飲ませて喜ばせる。しかし、その酒は眠り薬入り。それをいい調子で飲んだため、さすがのオスミンもグーグーと寝入ってしまう。そしてついに、ベルモンテとコンスタンツェは喜びの再会を果たす。しばらくすると男二人は、それぞれ愛する女性に対して、「本当に君は、操(みさお)を守ってくれていたのかい」と疑って尋ねる。太守セリムに迫られていたコンスタンツェも、オスミンに言い寄られていたブロンデも、「私たちの心を疑うなんて」とそれぞれに身持ちの堅さを訴える。(※誤解を解いた男たちと、二人の魅力的な女性による四重唱は、若きモーツァルトが書いた名アンサンブル曲の一つ。)

後宮からの逃走計画を実行する夜中になった。ベルモンテとペドリッロが梯子を持ってきて、コンスタンツェがいる部屋の窓に立て掛ける。しかし、いよいよ脱出というところで、四人はオスミンに発見されてしまう。彼は衛兵たちを呼び、あっという間に全員を捕まえてしまった。得意満面のオスミン。「何の騒ぎだ」と、太守セリムも登場。それに続くやり取りの中でベルモンテの素性を知ったセリムは、表情をこわばらせる。と言うのは、このベルモンテの父親に以前、彼はひどい目に合わされた恨みがあったからである。コンスタンツェもベルモンテも、「こうなっては、もはや」と死を覚悟する。

しかし、彼らに向けられたセリムの言葉は、全く意外なものだった。「お前たちを自由にしてやる。かつて我が身に与えられた不正に対して、復讐ではなく善行をもって報いることは、より偉大なる喜びを私の心にもたらすからだ」。太守の寛大な心に、一同は感動する。ひとりオスミンだけは憤懣やるかたなし、といった様子で退場するが、太守セリムを讃える四人のアンサンブルと全員の賑やかな合唱が始まって、全曲の終了となる。(※このラスト・シーンも、映画『アマデウス』の中で非常に効果的に紹介されていた。絢爛たる舞台の見事さと、乗りまくったモーツァルトのおどけた指揮姿が今も鮮やかに目に浮かぶ。)


―以上が、歌劇<後宮からの逃走>の大雑把な筋書き。何だか、今さら書くのも気恥ずかしくなるぐらい有名なストーリーだ。それはさておき、ウェーバーの歌劇<オベロン>との共通点が、ここでかなり確認できたのではないだろうか。

ソプラノ役のヒロイン(コンスタンツェ、レツィア)が海賊にさらわれて、異国の太守に買い取られる。そこへテノール役の恋人(ベルモンテ、ヒュオン)が助けに来る。そして、この二人にはそれぞれ、気立ての良い家来がいる。で、その家来の男女もまた、相思相愛(ペドリッロ&ブロンデ、シェラスミン&ファティメ)。ラスト・シーンで主人公たちは、死をも覚悟するほどの危機に遭遇する。しかし結局、「あらあら、そんなことが起こっていいの」みたいな展開でハッピー・エンドとなる。本当に、両者よく似た設定である。大きく違う点と言えば、<オベロン>ではシェイクスピア世界の妖精たちが所謂“狂言回し”を務めているのに対し、<後宮>では宮廷の番人オスミンがドラマを回転させる主軸的存在になっているということだろう。

さて、私がこれまでに聴いてきた<後宮からの逃走>の全曲盤は、新旧取り混ぜて、とりあえず7種。モーツァルト・オペラに関しては必ずしも熱心な聴き手とは言えない私だが、この楽しい作品は結構好きで、何やかやと結局いろいろな演奏を聴くことになったのだった。―という訳で、次回から、その7種類の演奏を聴き比べるお話に進んでみたいと思う。(※と言っても、別に優劣のランキングをつけようなどという考えは全くなく、録音年代順に並べて、それぞれについての感想文を書いてみようという試みである。)
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歌劇<オベロン>(3)

2006年05月16日 | 作品を語る
今回は、ウェーバーの歌劇<オベロン>の最終回。ラスト第3幕の展開について。

〔 第3幕 〕

●テュニスの太守アルマンソールの宮殿。レツィアと一緒に連れてこられた家来の二人、シェラスミンとファティメがいる。ファティメが望郷のアリアを歌う。「我が故郷、アラビアよ」。すっかり気持ちが通じ合っているシェラスミンとファティメはやがて、二重唱を始める。「奴隷でもいいよ。こうして一緒にいるんだから。楽しく、心変わりせず、歌って、ずっと愛し合おう」。その二人のもとへ妖精が、(オベロンの命令通りに)ヒュオンを連れてくる。再会を喜び合う三人。そしてレツィア救出への決意と、神への祈りを歌う三重唱となって、第3幕の第1場が終了。

(※この部分は、クーベリック盤が楽しい。シェラスミンとファティメの役は、ヘルマン・プライとユリア・ハマリの二人が歌っているのだが、これが実に良い。クーベリック盤の強みというのは、指揮の良さもさることながら、出演歌手陣がこのような脇役に至るまで非常に充実しているという点にある。一方のガーディナー盤では、そういったビッグ・ネームの歌手たちは少なくとも脇役には登場せず、アンサンブル志向とも言うべき小ぢんまりしたまとまりを見せている。そのあたりが聴きようによっては物足りないのと、録音の音圧が低くて音の伸びが悪いというのが、ガーディナー盤に感じられる不満と言えようか。)

●第2場は、囚われの身となったレツィアの嘆きの歌から始まる。カヴァティーナ「私の心よ、不幸に嘆け」。その後、新しい状況の発生が語り手によって伝えられる。「太守アルマンソールの妻ロシャーナは、ヒュオンにすっかり惚れ込んでしまいました。彼女はしきりにモーションをかけるのですが、ヒュオンは、『私が想う人は、レツィアだけだ』と言って、しっかりと拒否します」。続いて、誘惑の女声合唱とヒュオンのやり取り。

(※この第2場では、ヒュオンを誘惑する女声合唱が楽しい。ガーディナー盤では、「奴隷娘たち」と表記されている女性たちの合唱だが、これはまず歌詞がよい。「快楽の杯は一杯に満たされているわ。さあ、飲んで。バラがしぼまないうちに摘み取ってくださいな」「女の白い腕(かいな)から、あなたは逃げられますか」とヒュオンに迫り、さらに全く乗ってこない彼に対して、「お願い。快楽の園から去らないで」と、まとわり付くのだ。こんな内容が優しく、かつリズミカルに歌われるのである。)

(※ここで聴かれるレツィアのカヴァティーナについても、第2幕のアリアの時と同じことが言えるだろう。ガーディナー盤で聴くことの出来るマルティンペルトの細やかな歌唱は、ここでも素晴らしい。クーベリック盤のニルソンも、彼女なりに抒情的な歌唱を披露してくれていてそれなりに良いのだが、やはりマルティンペルトの歌唱の方が一層強い感銘を与えてくれる。英語で歌われていることも関係するのか、彼女の歌はまるで、バロック期の巨匠ヘンリー・パーセルの音楽世界から響いてくるようだ。)

●最後の第3幕第3場は、テュニスの広場が舞台。縛られたヒュオンが処刑されそうになっている場面。太守アルマンソールの妻ロシャーナとの、根も葉もないスキャンダルが処刑理由になっている。レツィアは、愛するヒュオンとともに死ぬ覚悟をしている。ヒュオンも、レツィアと一緒に幸せになれないなら死ぬ方を選ぶという決意。そして、この二人にいよいよ危機が迫った時、オベロンの角笛が響く。すると、死刑執行人たちはいきなりみんな踊り出し、処刑どころではなくなってしまう。ヒュオン、レツィア、シェラスミン、ファティメの四重唱。「ありがたき角笛の力」。そこへ妖精の王オベロンが登場し、ヒュオンとレツィアの二人に感謝の言葉を贈る。「操(みさお)高き二人に、私は感謝する。おかげで私も、妻ティタニアと仲直りが出来る」。最後にヒュオンたちを讃える合唱が響くところで、全曲の終了。

(※残念ながら、この処刑寸前のシーンというのは、語り手が担当する箇所になっている。歌手たちが歌声の応酬をするわけではないのだ。クーベリック盤では俳優たちによるセリフのやり取り、ガーディナー盤ではナレーターによる場面解説ということになる。そしてオベロンの角笛が響いて、助かった四人の歌になるところでようやく、ウェーバーの音楽が出て来るのである。ここはやはり歌手たちの丁々発止が聴きたいと思うところだが、作品自体がそのように書かれているので仕方がない。)

(※極めて優秀なクーベリック盤について一つ、私が不満に感じている部分を書いておきたい。それは、ドラマの随所に出て来る俳優たちの長いやり取りである。これが何とも、まどろっこしいのだ。ドイツ語が分かる人やそれを勉強している人には、またそれなりの楽しみや意義もあるのだろうとは思う。しかし、その長いセリフのやり取りは、音楽の流れを阻害しているように感じられてしまうのである。さりとて、音楽が付いた箇所だけを羅列して演奏しても、何だかつながりが唐突で不自然な感じになる。結局ガーディナーがやってくれているように、一人のナレーターが手際よく場面展開を説明して、それからすぐに音楽に進むという形が、一番聴きやすくて良いのではないかと思う。)

(※最後に、タイトル役のオベロンに割り振られた声について、片言隻句。ウェーバー作品のオベロンは、細めの声を持ったリリック・テナーの役になっている。強い声のテナー歌手はヒュオンの方を受け持つ訳だが、これは、オベロンというキャラクターに中性的なイメージが古来あったためではないかと推測される。その一つの補足的証左として、ブリテンの歌劇<真夏の夜の夢>が挙げられると思う。そこに登場する妖精の王オベロンの声は、カウンター・テナーなのである。)

―ウェーバーの歌劇<オベロン>の内容については一応、ここで終了。ここまでお読みいただいた通り、これはかなり荒唐無稽な筋書きを持ったオペラなのだが、音楽的にはかなり充実した中身を持つ作品である。興味の向きは、御一聴を。
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歌劇<オベロン>(2)

2006年05月11日 | 作品を語る
前回からの続きで、ウェーバーの歌劇<オベロン>の第2回。今回は、第2幕の内容。

〔 第2幕 〕

●第2幕は、力強い男声合唱で始まる。「讃えよ!力強きカリフ(=太守)に、名誉と栄光を」。ペルシャの王子バーベカンは、バグダッド太守ハルン・アル・ラシッドの娘であるレツィアと結婚したがっている。太守もまた、それを望ましい事と考えている。しかしヒュオンの登場によって、ペルシャ王子の望みは潰(つい)え去ることとなった。レツィアの侍女ファティメが、「私はアラビアの孤児だけど・・」とアリエッタを歌っていると、ヒュオンと彼の従者シェラスミン、そしてレツィアがやって来る。そして、期待に胸を膨らませる四人によるアンサンブル。「行く先はフランスだ!さあ、船に乗ろう」。

(※ここで聴かれるファティメのアリエッタというのもなかなかの佳曲だが、続く四重唱がやはり一番耳を引きつける。序曲でお馴染みになっている有名なパッセージが出て来るからだろう。具体的には、その序奏部に続いて始まる有名な主部の第1主題に当たる部分である。ダッ、ダッ、ダッ、ダッという力強いリズムに導かれた典型的なウェーバー節だ。)

―上記のような展開で、愛し合う二人はそれぞれのお供を連れ、四人揃って首尾よく幸福への船出をすることが出来た。と、ここまでは順風満帆。しかし、妖精の王オベロンは、ヒュオンとレツィアの二人に対して、「心変わりすることなく、お互いにその愛情を貫き通せるか」を調べるための試練を与えなければならない。そこで彼は妖精パックを派遣し、若き恋人たちに厳しい運命をもたらすことにするのである。

●妖精パックが登場し、他の妖精たちを呼び集める。「何をすればいいんだ?」と集まってきた彼らに、パックは言う。「皆の力で嵐を起こしてくれ。船を一隻、岸へ追いやるんだ」。オーケストラによる激しい嵐の音楽。四人が乗った船は、岸に打ち上げられる。ヒュオンがレツィアの様子を心配して歌う。「このか弱い花を、お助けください」。続いて、意識を取り戻したレツィアのシェーナとアリア。「大洋よ、恐ろしき怪物よ」。やがて、レツィアは船が近づいてくるのを目にして喜ぶのだが、あろうことか、それは海賊船だった。非情な海賊たちはヒュオンに重傷を負わせ、レツィア達を連れ去っていく。海賊の首領アブダラは、テュニスの太守アルマンソールのもとにレツィアを連れて行き、いい値段で売り飛ばしてやろうと企む。

(※妖精たちが引き起こす「嵐」の音楽は、いかにもウェーバーらしいものだ。<魔弾の射手>に於ける「狼谷の場」をふと想起させるような趣がある。迫力の点では、「狼谷」の方が断然凄いが、仕上がりの点では逆に、この「嵐」の方がよく書き込まれている曲という印象を受ける。)

(※ここで聴かれるレツィアのシェーナとアリア「大洋よ、恐ろしい物の怪よ」は、とても有名な歌。特にその最後の部分、「私の夫ヒュオン、・・・救いは近い」と喜び勇んで歌うところは、序曲の第2主題第2部に使われているもので、このオペラの中でもおそらく最も印象的な一節と言えるものだろう。このアリアは古来、非常にドラマティックで強い声を持ったソプラノ向きの曲とされてきた。クーベリック盤でニルソンが起用されたのも、この歌の伝統的なイメージからして当然の選択だったのだろう。また当時なら、最高のキャスティングでもあったと思われる。つい先頃ネット通販サイトを検索してみたのだが、そこでアニタ・チェルクェッティがこの役を歌った記録が見つかった。なるほどいかにも、という感じである。)

(※一方、ガーディナー盤の演奏が持っている特徴も、このレイザの有名なアリアによく表われているような気がする。そこでは歌詞を極めて細やかに扱う精妙な歌唱が行なわれており、旧来の「超ドラマティック・アリア」というイメージとは明らかに一線を画する、新鮮な美しさが提示されているのだ。伴奏部分でも、例えば、大海原の波を描く弦のうねるような表情など、ガーディナーは本当に巧い。クーベリック盤で歌っているニルソンの歌唱も立派なものなのだが、ガーディナー盤から得られる新鮮な感動の前に、いささか往年の光彩を失ってしまったように感じられなくもない。)

(※ガーディナーの演奏を聴いていると、「ワグナーの歴史的先駆としてのウェーバー」と言うよりはむしろ、「モンテヴェルディ以来のバロック・オペラの系譜線上に置かれたウェーバー」みたいな印象を受ける。現代楽器よりもピッチが低い弦の響きや、古い管楽器群の音色が生み出す独特の雰囲気もさることながら、随所で示される鋭角的なアクセントや速めのテンポ設定といった古楽器派演奏家たちに概ね共通する基本コンセプトが、ここでも存分に披露されている。そしてそのアプローチがさほど違和感をもたらすことなく、それなりにしっかりした説得力を備えているようにも感じられるのである。これは、指揮者ガーディナーの力量によるところも勿論あると思う。しかし一方で、<オベロン>という作品自体が持っているある種の特殊性みたいなものが、その成功に寄与しているんじゃないかとも思えるのだ。例えば、<魔弾の射手>以上にワグナーを予見させる<オイリアンテ>あたりになったら、こんな風には行かないだろうと、ちょっと考えてしまうわけである。)

(※ここでもう一つ付け加えて言うなら、<オベロン>で聴かれるクーベリックの清新な音楽作りも、明らかに<魔弾の射手>の時以上に成功していると思う。これもやはり、<オベロン>という歌劇が持っている“ボーダーレス・オペラ”としての特殊な性格が、理由の一つになっているような気がする。)

●妖精たちが集まっている所に場面が移り、音楽の雰囲気もがらりと変る。オベロンの忠実な妖精たちのために海の芝居が一席催される運びとなり、そこに夢幻的な世界が展開する。まず、二人の人魚による抒情的な美しい歌。続いてニンフたち、他の人魚たち、空気の精たちも集まって、「楽しく泳ごう」「楽しく踊ろう」と歌い交わす合唱となる。

―これで、第2幕が終了。この続き、第3幕の展開とその驚くべき(!)結末については、次回。
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歌劇<オベロン>(1)

2006年05月06日 | 作品を語る
歌劇<魔弾の射手>がとりわけ有名な作曲家カール・マリア・フォン・ウェーバー(1786~1826)が、生涯最後に書き上げたオペラは、<オベロン>(1826年)だった。これは、シェイクスピアの戯曲『真夏の夜の夢』でお馴染みになっている妖精の王様をタイトル役に据えた、一篇のファンタジーとも呼べそうな作品である。国境を越え、人間界と妖精界の垣根をも越えて、若い恋人同士の変わらぬ愛情が試されるというお話だ。

このオペラには現在数種類の全曲CDが存在するが、私が持っているのは、LP時代から評判の良かったクーベリック盤(G)と、何年か前に出たばかりの新しいガーディナー盤(Ph)である。前者はドイツ語版で後者は英語版という違いもあるが、演奏もまた、それぞれに名演ながらかなり異なった表情を見せている。そのあたりについては、これから物語の流れを追いながら順次見ていくことにしたい。またクーベリック盤は、語りの部分に専門の俳優たちを複数揃えてセリフのやり取りをさせているが、ガーディナー盤は、一人のナレーターが手短に場面説明をするという形で演奏している。実はその語りの部分で扱われるストーリーは、両者あちこちで随分違った内容になっているのだが、当ブログではそこは掘り下げないことにしたいと思う。音楽の内容には、とりあえず関係ないからである。

―歌劇<オベロン>のあらすじと、二つの演奏の比較

〔 第1幕 〕

●有名な序曲に続いて、語り役による前口上。「妖精の王オベロン様は、お妃のティタニア様と喧嘩をしてしまいました。心変わりしないのは男と女のどちらかであるか、ということを巡って意見が対立したのです。そしてついにお二人は、『ともに心変わりせず、二人揃って貞節を守りきれる男女のペアを見つけるまでは、お互いに仲直りしない』というところまで行ってしまったのです」。やがてオベロン(T)が登場し、「何という誓いを立ててしまったのか」と、嘆く気持ちを歌う。そこへ妖精たちがやって来て、オベロンに言う。「王様、貞節を試すのに好適な人間のカップルがおりますよ。フランスはボルドーに住むヒュオンと、バグダッド太守の娘レツィアです」。

●オベロンの魔法によって、ヒュオン(T)の眼前にレツィア(S)の姿が映し出される。そして、彼女の短い歌。「私は水のほとりにいる。沈んでしまう前に、助けてください」。ヒュオンと彼の従者シェラスミン(Bar)の二人は、妖精たちのサポートを受けながら、彼女のいるバグダッドに向かう。その道すがらヒュオンは、自分の身の上と決意の程を力強いアリアで歌う。

(※このオペラに於ける指揮者クーベリックの音楽作りの特徴は、冒頭の序曲からすでにはっきりと示されている。端的に言うなら、「清涼感溢れる美しい響きの中で、音楽がしなやかに、且つみずみずしく息づいている」という感じになろうか。実を言うと、私はクーベリックが指揮した<魔弾の射手>全曲にはあまり感心しなかったのだが、ここでの演奏スタイルには非常に好感が持てる。これは、<オベロン>という歌劇が持つある種の特殊性を浮き彫りにしている現象である、とも言えそうな気がする。そのあたりのもっと具体的な説明、及びガーディナー盤の音楽的特徴については、次回改めて語ってみたい。)

(※ここでヒュオンが歌うアリアの中には、序曲で聴かれる有名な旋律の一部が出て来る。具体的に言えば、このアリアの中間部、「今、柔らかなる輝きが、我が命の波の上に踊る」と歌い出す部分が、序曲主部の第2主題第1部として使われているのである。クラリネット・ソロが使われるあの美しいメロディのところだ。)

(※クーベリック盤でヒュオンを歌っているのは、若き日のプラシド・ドミンゴ。例によって、持ち前の熱い声を活かした堂々たる歌唱を聴かせる。輪郭のくっきりした、立派な歌唱だ。ガーディナー盤で同役を歌っているヨーナス・カウフマンよりも、歌の見事さではドミンゴの方に軍配を上げたいぐらいである。ただ、私の個人的な感想としては、ちょっと引っかかる部分がなくもない。具体的に言えば、その声質である。ドイツ系オペラを歌った時のドミンゴの声に、どうも私はある種の違和感を持ってしまうのだ。このあたりは、聴く人それぞれだとは思うが・・。)

●場面は変って、バグダッド。太守ハルン・アル・ラシッドの娘であるレツィア(※英語版では、レイザ)が歌う。「我が君よ、早く来てください。そして、この束縛から私を開放して。・・・私はずっと、あなたのものです」。そこへ、彼女の侍女であるファティメ(※英語版では、ファティマ)(Ms)がやって来て、「あの方が来ます」と告げる。そこから、「何という幸福でしょう」と歌う、女性二人による二重唱。やがて、合唱が夜を告げる。「遅くなりましたよ。もう、お休みなさい」。トルコ兵の軍楽隊が賑々しく前を通り過ぎて行くところで、第1幕が終了。

(※クーベリック盤でレツィアを歌っているのは、先頃他界したビルギット・ニルソン。何故彼女がこの役で起用されたかの理由は次回明らかになるが、この録音で彼女は思いがけずリリックな表情を見せる。上で今ご紹介したファティメとの二重唱などが特にそうだ。ただ、ガーディナー盤で歌っているヒレヴィ・マルティンペルトの精妙な歌唱に比べると、ニルソン女史の歌はどうしても大味に聞こえてしまう。そのあたりは、致し方ないところだろう。)

(※第1幕の最後で、トルコ兵の軍楽隊が背景の音楽を作っているというのは、なかなかに興味深い。トルコ音楽趣味が窺われるものはモーツァルトやベートーヴェン等の作品にもいくつかあるが、ウェーバーもまた、そんな趣味を持つ一人だったようである。彼が若い頃に書いた短編歌劇<アブ・ハッサン>などは、その最たる好例と言えるものだろう。ちなみに、そこでの主人公アブ・ハッサンの妻の名前も、ファティメである。バグダッドを舞台にしたこのお気楽コメディについては、近い将来、また回を改めて話題にしたいと思う。)

―この続きは、次回・・。
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