クラシック音楽オデュッセイア

2009年の大病以来、月1回程度の更新ペース。クラシックに限らず、身の回りの事なども、気の向くままに書いております。

歌劇<サトコ>(1)

2006年10月27日 | 作品を語る
今回と次回は、R=コルサコフの歌劇<サトコ>(1898年)についてのお話。前回まで語った<皇帝の花嫁>とは趣ががらりと変わり、こちらはおとぎ話系の娯楽作品である。この作品には、「7場からなるオペラ・ブィリーナ」という肩書きが付いているのだが、そのブィリーナという言葉については、オペラの話が済んだ後に独立した記事で改めて語ることにしたいと思う。とりあえずここでは、「民謡を起源とし、なかば伝説的な主人公を扱った叙事詩的な物語」というぐらいにお考えいただけたらと思う。ノヴゴロドの商人サトコはそのブィリーナに登場する人物の一人であり、またこのオペラの中でいくつかのブィリーナ歌謡が披露されるところから、「オペラ・ブィリーナ」という呼称がつけられたものと考えられる。

さて歌劇<サトコ>だが、これは上演時間が約2時間50分にも及ぶ長大なオペラである。しかし、それにめげず、これからしっかりとその全曲の流れを追っていきたい。

―歌劇<サトコ>のあらすじと、音楽的特徴

〔 第1場 〕

ノヴゴロドの商人たちが祝宴を楽しんでいる場面。キエフの歌い手ニェジェータ(A)が、グースリの伴奏で故郷の英雄についての物語を歌う。彼への返礼として、ノヴゴロドの歌手サトコ(T)が続いて歌う。しかし、彼が歌いだしたのは、遠い国へ船出して新しい市場を開拓したいという彼自身の野心であった。当時のノヴゴロドには海につながる川がなかったので、そんな旅を考えること自体が無謀なものとされ、サトコは皆から嘲笑を受けることになる。まわり中から総スカンを食ったサトコはしょんぼりとその場を去るが、二人の道化がさらに追い討ちをかけるように、彼をからかって歌う。

(※オペラの開始を告げる序奏から、いきなりR=コルサコフ節だ。下降する三つの音を低弦が繰り返し、ゆったりと波がうねる海の情景を描き始める。そして開幕直後の祝宴風景では、男声合唱による非常に力強い歌が聴かれる。続いて歌われるニェジェータのブィリーナも、よく聴いていると背景の管弦楽伴奏が海の情景を巧みに描き出しているものであることがわかる。)

(※第1場を締めくくるのは、パワフルで華やかな舞曲。ここは一種のディヴェルティスマン効果を持つ場面だが、指揮者にとっても腕の見せ所であろう。)

〔 第2場 〕

夜。月の光に照らされたイリメニ湖のほとりで、サトコがグースリを弾きながらしょんぼり歌っていると、水草が鳴り、水面が波立って白鳥の群れが現れる。やがてその鳥たちは、岸に上がるや美しい娘たちに変身する。彼女らは海王オキアン=モーリェ(B)の娘たちで、その中心に王女ヴォルホヴァ(S)がいる。皆、サトコの歌に聞き惚れて出てきたのだ。美しい王女とサトコは、お互いに惹かれあう。王女は、「あなたに黄金の魚をあげるわ」とサトコに約束する。やがて夜が明けると海王が現れ、娘たちを水底に連れ帰っていく。

(※海の乙女たちの出現シーンは、R=コルサコフの巧みな管弦楽法によってとても美しく書き上げられている。特に、木管やハープの使用が効果的だ。波が揺らいで白鳥たちが現れるところと最後の幕切れシーンでは、あの<ラインの黄金>の開幕で聞かれるライトモチーフによく似た音型が出て来る。サトコと王女の二重唱に女声合唱が重なってくる場面も、非常に夢幻的で良い。)

〔 第3場 〕

明け方。サトコの若い妻リュバーヴァ(Ms)が、家で夫の帰りを待っている。やがて帰宅したサトコに彼女は飛びつくが、彼の方は昨夜の不思議な体験にまだ心が支配されている。妻をまともに相手にせず、サトコは思うところあって再び出掛けて行く。

(※この第3場の終曲もまた、海を思わせる音楽になっている。低弦のうねり、それに加わる金管と打楽器。これは、サトコがやがて向かうことになる未来の情景を暗示しているのかも知れない。)

〔 第4場 〕

人で賑わうイリメニ湖の岸辺。町の人々が外国から来た商人たちを囲んで、様々な異国の品々を眺めて楽しんでいる。ニェジェータが、ノヴゴロドの町を讃えて歌う。サトコがそこへ姿を現し、「皆さん、ご存知ですか?イリメニ湖には黄金の魚がいることを」と人々に話しかける。彼は再び、まわりから嘲笑を浴びる。サトコは、彼らに提案する。「では、このイリメニ湖で黄金の魚が獲れるかどうか、賭けをしてみようじゃないか。俺の首と、あんたたちの全財産を賭けて。どうだい」。町の長老たちと数人の商人たちが、サトコと一緒に湖へやって来る。果たして、王女の約束どおり、彼が投げた網で黄金の魚が3匹も獲れたのだった。サトコは一躍、英雄的存在になる。

賭けの成功によってサトコは裕福な男となり、立派な船で堂々と海へ出て行ける立場になった。彼は外国から来た商人たちに、それぞれの国の様子を尋ねる。ヴァリャーグの商人(B)、インドの商人(T)、ヴェネツィアの商人(Bar)らが次々と、故郷のことを歌って聞かせる。それからサトコはやって来た妻リュバーヴァに別れを告げ、大海原に船出するのだった。

(※市場の賑わいは、混声合唱によって壮麗に歌いだされる。ダッ、ダッ、ダー!と始まる力強い三連音によって、いかにもロシア・オペラらしい雰囲気が生み出されているのが痛快だ。二人の道化も再び登場し、その場を盛り上げる。)

(※ヴァリャーグ商人の歌は、時に「ヴァイキング商人の歌」と訳されることもあるようだ。バス歌手が歌う有名な歌曲の一つである。轟然とうなる弦の前奏は、荒々しい海のうねりを描いたものと考えてよいだろう。)

(※それに続くインド商人の歌は、このオペラの中でおそらく最も有名な曲である。リリック・テナーが歌う「インドの歌」のメロディは、実は昭和40年代初頭前後にしばしばTVのコマーシャル・ソングとして流れていた。商品名は、「明○キンケイ・インドカレー」というのだが、そのCMソングの一節、「明○ キンケイカレ~♪」のメロディこそ、このR=コルサコフの「インドの歌」なのであった。私の場合、これは小学生時代の思い出になるのだが、そのオリジナルとなっているオペラ・アリアを初めて聴いたのは大学生になってからだった。その時は思わず、「おおっ、こ、この歌は」と目を大きく見開いてしまったものである。w ちなみに、背景に流れる伴奏もまた、海を描いたものであることは明らかだ。ヴァリャーグ商人が歌う荒々しい海とは対照的に、オリエンタル・ムード溢れる穏やかな表情の海である。)

―この続き、残りの第5場から第7場の内容については、次回。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歌劇<皇帝の花嫁>(2)

2006年10月22日 | 作品を語る
前回に続いて、R=コルサコフの歌劇<皇帝の花嫁>の第2回。第2幕後半から、最後の幕切れまでの展開。

〔 第2幕 〕 ~続き

マルファとルイコフ、ソバーキンとドゥニャーシャの4人が幸せそうに舟で家路につく一方、リュバーシャも川沿いの道を早歩きで進んでいた。川原の草をかき分け、かき分け、ひたすら進んでいた。恋敵の家を見つけ、その女がどんな容姿なのかを自分の目で確かめるためである。そしてついにマルファの姿を目にしたリュバーシャは、その美しさにショックを受ける。

それから彼女は医師ボメーリイの家を訪れ、薬を注文したいと申し出る。「酒盃に混ぜて飲ませる毒薬を作ってほしいの。でも、飲んだ人をすぐに殺すような毒じゃない。その人の美しさを衰えさせていく薬よ。少しずつ髪の毛が抜けていき、目がうつろになり、胸がしぼんでいく・・そういう薬、作れる?」。ボメーリイは、「出来るが、値段は高くつく」と答える。「ばれたら、俺が罰せられるんだからな」。そして、かつての宴会の席でリュバーシャを見そめていた彼は、薬を作る代償として彼女の愛を求める。「何様のつもりよ」と最初は拒否したリュバーシャだったが、近くの家から漏れ聞こえてくるマルファたちの楽しげな声を耳にして、ついにその決意を実行に移す。

(※この劇的な場面で、リュバーシャは短いアリアを歌う。「グリゴーリ、あの人はあなたを愛してはいないわ」。悪役という設定にはなっているが、ここで聴かれる苦悩のアリアからも察せられる通り、R=コルサコフはリュバーシャに深い同情を示していたようだ。実際彼女もまた、薄幸の人生を生きねばならない可哀想な女性であったのだ。)

(※医師ボメーリイに体を預ける直前につぶやくリュバーシャのセリフは、恐ろしくも哀しい。「きれいな人、悪く思わないでね。あなたの美しさは、私が買ったわ。高い代償を払ってね。高い代償・・・私の操」。この一連の展開の後、酔った親衛隊員たちが勇ましく歌いながら行進する映像を背景にして、彼女がグリャズノイの屋敷でこっそりと薬の袋を入れ替える場面が映し出される。)

〔 第3幕 〕 介添人

第3幕も映画版ではかなりの短縮と編集が施されているが、話の本筋はしっかりと押さえられている。「スラーヴァ(=栄光あれ)」の皇帝賛歌でこの第3幕が始まると、映画ではイワン雷帝が一列に並べられた花嫁候補たちを眺めて歩く場面が短く紹介される。それに続く舞台は、ソバーキンの家。そこにいるのはソバーキンとグリャズノイ、そしてルイコフの3人である。ルイコフは早くマルファとの結婚式を挙げたいと願うが、ソバーキンは、皇帝のお妃候補の12人に自分の娘マルファも含まれていることを心配している。グリャズノイは例の媚薬をマルファに飲ませるために、婚礼の時には自分が介添人をやりたいと申し出る。

(※ここでも映画版は、ルイコフのアリアをカットしているようだ。楽曲解説書によると、「皇帝はドゥニャーシャを気に入ったらしい」という話を聞いて、元気を取り戻した彼が喜びのアリアを歌い出す場面があるらしいのだ。しかし、この映画にそのシーンはない。どうもこの映画版、収録時間の都合があるとはいえ、清廉の人イワン・ルイコフをやたら冷遇している。確かに、彼の歌がカットされても話の流れに影響はないが・・。)

グリャズノイは祝杯を準備しながら、マルファが飲む方の杯にこっそりと薬を混ぜる。やがてマルファやドゥニャーシャたちの一行が帰ってきて、結婚祝いの席となる。何も知らずに、グリャズノイに手渡された酒盃を飲むマルファ。ルイコフとマルファが婚礼の喜びをかみしめていると、突然皇帝の使者として親衛隊員マリュータが馬でやって来る。「ソバーキンの娘マルファが、皇帝の花嫁に選ばれた」。

〔 第4幕 〕 花嫁

皇帝の宮殿。皇妃となったマルファは、以来ずっと体の様子がおかしくなっている。ソバーキンたちが、つらそうに彼女の容態を見ている。そこへグリャズノイがやって来て、マルファに信じられないような恐ろしい報告をする。「皇妃さまに毒を盛ったという男が、白状しました。その男の名はイワン・ルイコフです。皇帝はルイコフの処刑を命じました。そしてその命に従って、私が彼を殺しました」。マルファは激しい衝撃を受け、失神する。

その後しばらくして目を覚ました彼女は、完全に正気をなくしていた。目の前にいるグリャズノイを大好きなイワン・ルイコフと思い込んで、マルファはうれしそうに語りかける。「ねえ、イワン。私ね、悪い夢を見ていたの。あなたが処刑されたんですって。でも、生きていたのね。よかった」。グリャズノイは、「こんな風になるはずはない。ボメーリイめ、でたらめな薬を作りやがったな」と怒るが、狂ったマルファの様子を見ているうちに自分の行為が恐ろしくなってくる。そしてついに彼は、それまで自分がしてきたことをそこに居合わせた者全員の前で告白する。「俺はマルファに恋焦がれ、何とか自分のものにしたいと思った。だから医者に媚薬を作らせて、それを飲ませたんだ。それが、こんなことになるなんて・・」。

(※目を覚ましたマルファが痛々しくも美しい歌を歌い始めるところから、俗に「マルファのシェーナとアリア」と呼ばれる有名な狂乱の場となる。映画版ではまさに、映画ならではの映像演出が効果を発揮している。狂ってしまったマルファが微笑みながら宮殿の扉を一つ開けると、きらきらと光を反射する美しい水面が広がるのだ。そして彼女が幸せそうな表情でその水を手に掬う場面は、まことに哀切を極める。「ねえ、イワン、青空がいっぱいに広がって、天幕のようね。・・・空高くに雲の冠。あんな冠を私たちも被りたいわ。それは、明日ね」。)

「インチキな薬を作りやがって」とグリャズノイがボメーリイに襲いかかろうとしたところへ、リュバーシャが現れる。「私をお忘れのようね。マルファに毒を盛ったのは、この私よ!ねえグリゴーリ、あなたが注文した媚薬って高かったでしょうね。私が作ってもらった薬は安かったわ。でも、その安物の薬には特別な効き目があってね、飲んだ人がだんだんと衰えていくのよ。それをあなたの薬と入れ替えておいたの!・・・さあ、早く刺しなさいよ。私を殺しなさいったら」。

逆上したグリャズノイはリュバーシャのもとへ駆け寄るや、彼女の胸に短剣を突き刺す。「ありがとう。ひと思いにやってくれて・・」と力なくつぶやき、リュバーシャは息絶える。逮捕されたグリャズノイは、うつろな目をしたマルファに向かって激しい勢いで謝罪する。「けがれなき不幸な人よ、許してくれ。すべて、この俺のせいだ。俺はイワン雷帝に申し出る。俺を処刑してくれと。それも、地獄へ行っても見られないような残忍な方法でやってくれと」。グリャズノイが引き立てられて去った後、マルファは虚空をぼんやりと見つめながら、「愛しいイワン、また明日も来てね」とつぶやく。人々の苦悶の声が宮殿内に響くところで、全曲の終了。

―次回も、R=コルサコフのオペラ。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歌劇<皇帝の花嫁>(1)

2006年10月17日 | 作品を語る
交響組曲<シェヘラザード>や<スペイン奇想曲>、あるいは序曲<ロシアの復活祭>といったオーケストラ作品ばかりが有名なこともあって、管弦楽曲の大家というイメージが強いリムスキー=コルサコフだが、この人はオペラ作家としての業績こそ重要である。彼がその生涯に書き上げた歌劇は全15作にも及ぶし、その他に、ムソルグスキーやボロディンらが完成出来なかったオペラを補筆して仕上げた編曲者としての成果にも非常に大きなものがある。

今回のシリーズでまず採りあげるのは、私が全曲を語れる彼のオペラ作品の中でも最も衝撃的な、<皇帝の花嫁>(1899年)である。これは、R=コルサコフが書いた9作目のオペラで、皇帝イワン4世の第3夫人に選ばれた直後突然病死してしまったという実在の女性をモデルにしたものだ。私がこのオペラに触れたのは1964年に制作されたという古い映画版ソフトで、映像では専門の俳優さんたちが演じ、音声にはエフゲニ・スヴェトラーノフが指揮したボリショイ劇場での演奏が使われているというものであった。映画作品としての時間制限があったからと考えられるが、このソフトではいくつかの場面がカットされている。その上モノクロ映像・モノラル音声というつらい条件であったにもかかわらず、感銘度はすこぶる高いものだった。以下、この映画版ソフトを鑑賞した時のメモと作品解説の本を参照しながら、名作歌劇の全曲の内容を見ていきたいと思う。

〔 第1幕 〕 宴会

皇帝の親衛隊員グリゴーリ・グリャズノイ(Bar)が住んでいる屋敷の広い客間。グリャズノイが一人、苦悩を歌う。彼はノヴゴロド商人ソバーキン(B)の娘マルファ(S)を好きになったが、彼女にはすでに貴族のイワン・ルイコフ(T)という相思相愛の許婚がいた。ソバーキンにやんわりと求愛を断られたグリャズノイは、「かつては腕ずくで女でも何でも略奪した俺だが、この失恋でまるで駄目な男になってしまった」と嘆く。しかしその後、何とかマルファを自分のものにしたいと心の中で良からぬ策略を巡らす。

そこへ彼の客人たちが大勢入ってきて、宴会が始まる。そのメンバーの中には彼の悪友である親衛隊員マリュータ(B)、マルファの許婚ルイコフ、そして皇帝の侍医を務めるボメーリイ(T)らが混じっている。

(※この宴会の場面は、映画版ではかなりの部分がカットされているようだ。親衛隊員たちの民謡風フゲッタ、あるいは、明るく礼儀正しいイワン・ルイコフが回りから乞われて歌い出すアリオーソといったようなナンバーがもともとはあるらしい。楽曲解説に「外国での見聞を語る美しいアリオーソ」と紹介されているルイコフの歌が聴けないのは、ちょっと残念。)

やがて宴たけなわとなり、皇帝賛歌「栄光あれ」が合唱で力強く歌われる。

(※「スラーヴァ!スラーヴァ」と盛り上がるこの皇帝賛歌は、ロシア・オペラのファンなら、「おおっ、これが出たか」と思わずニンマリすること間違いなしの有名曲である。例えばムソルグスキーの<ボリス・ゴドゥノフ>やボロディンの<イーゴリ公>でもすっかりお馴染みだし、ちょっとマニアックなところでは、チャイコフスキーの<マゼッパ>第3幕の冒頭シーンでも聴かれるテーマだ。)

その宴会の席に、リュバーシャ(Ms)が姿を現す。彼女は、マリュータとその仲間の親衛隊員たちによって遠くの町から略奪されてきた女性である。町の人たちはマリュータらによって虐殺され、彼女自身も、今はグリャズノイの愛人として生きている。ここでマリュータに命じられた彼女が無伴奏で歌う民謡風の歌曲は美しいものだが、旋律も歌詞内容も痛ましい悲しみに満ちている。「お母さん、私のために婚礼の支度をしてください。お母さんの決めた人と結婚します。もう逆らいません。愛する人とは別れました・・・」。

宴会が終わって、客人たちは帰途につく。しかしグリャズノイは医師ボメーリイを呼び止め、相談を持ちかける。「女がある男を好きになるような媚薬、惚れ薬みたいなものをお前は作れるか」。ボメーリイは、出来ると答える。「形状は粉末になる。酒盃に混ぜて女に飲ませるんだ。ただし、男本人がそれをやらねば効果は出ない」。二人のやり取りを立ち聞きしていたリュバーシャは、「彼に好きな女が新しく出来たんだわ。私は捨てられる」と絶望する。

ボメーリイが去った後、リュバーシャとグリャズノイの口論が始まる。「私は娘としての恥じらいも忘れ、家族のことも故郷のことも、何もかも忘れて、すべてをあなたに捧げたのよ。それなのに・・」。そんな彼女に冷たく応じて、グリャズノイは出かけて行く。朝の礼拝の鐘が鳴り響く。リュバーシャは、「その女を必ず見つけ出して、彼から引き離してやる」と決意する。

(※皇帝の侍医という設定で登場するボメーリイだが、実際の役どころは、“悪魔的な薬剤師”といった感じである。声がまた性格的なテノールで、何とも怪しげで陰気な雰囲気が漂う素敵な男だ。w )

〔 第2幕 〕 惚れ薬

映画版では第1場はまるごとカットされているが、ここでは悲劇のヒロインであるマルファの家と、医師ボメーリイの家がすぐ向かいの近所であることが舞台上で示されるようだ。夕暮れ時に、修道院での勤めを終えた人々が帰ってくるところ。そこに親衛隊員たちが現れて出陣の誓いを歌い、人々の間に不安が広がるという展開らしい。

映画は、次の第2場から始まる。修道院から出てきたマルファが親友のドゥニャーシャ(Ms)に、婚約者イワン・ルイコフとのなれそめを歌って聞かせる。「昔、彼とはお隣同士だったの。今でも思い出すのは、あの緑溢れる大きなお庭。・・・私、彼に花輪を編んであげたのよ。・・・誰もが私たちを、お似合いの二人って言ってくれたわ」。

(※村の賑やかな風景を描く第2場冒頭の音楽には序曲<ロシアの復活祭>で聴かれるものとよく似たパッセージが現れ、晴れやかなムードが演出される。いかにも、R=コルサコフ節だ。また、ここで歌われるマルファの幸福感溢れるアリアは、実に美しいものである。)

それから二人は、並んで川べりを歩き出す。そこへ伴を連れて馬に乗ってきた不気味な男が通りかかり、マルファたちをしばらくじっと見つめてから去って行く。マルファもドゥニャーシャも、この男の異様な雰囲気とその恐ろしい目つきに強い不安を感じる。

(※この場面では、オーケストラが例の皇帝賛歌を奏でるのですぐに察せられるのだが、マルファをじっと見つめたこの男こそ、時の皇帝イワン4世、つまりイワン雷帝である。このオペラの中では声を出さない役だが、映画版ではさすがにそれらしい風貌の役者さんを起用している。目つきが怖い。)

雷帝が去った後、マルファの父ソバーキンと婚約者イワン・ルイコフが舟に乗ってやって来る。マルファとドゥニャーシャも川岸からその舟に乗り、揃って皆で家に向かう。船頭がゆっくりと舟を漕ぐのに合わせて、やがて4人は幸福な重唱を始める。

(※舞台上演と違って、この第2幕は映画ならではのロケーション撮影が大きな効果を生み出している。冒頭の人込み風景も雰囲気満点だし、馬の上からマルファをじっと見つめる雷帝の恐ろしい顔もくっきりと映し出される。また、川を舟で下る4人による楽しげな四重唱も、川べりのおだやかな自然風景と溶け合って何ともいえない幸福感を醸し出す。なお、R=コルサコフが書いたこの四重唱には、先達グリンカの作品に聞かれたようなイタリア臭さみたいなものはない。)

―さて、幸福感に満ちた明るいアンサンブルを聴かせる4人だが、そのうちのドゥニャーシャはともかく、他の3人にはこの後、世にも過酷な運命が待ち受けているのだった。この続きから最後の幕切れまでの展開については、次回・・。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歌劇<ルスランとリュドミラ>(3)

2006年10月12日 | 作品を語る
今回は、グリンカの歌劇<ルスランとリュドミラ>の第3回。最後の部分である。

〔 第4幕 〕~続き

ルスランが吹く角笛の音が聞こえてくる。ついにチェルノモールの居所をつきとめたルスランは、悪しき魔法使いに戦いを挑む。チェルノモールはリュドミラを深い魔法の眠りに落とすと、ルスランとの対決に向かう。しかし、魔法の剣を持つルスランによって、チェルノモールは倒される。

(※この戦いは直接舞台上で演じられるのではなく、合唱団がその様子を歌うことで表現される。ここに出て来るパワフルな音型を聴くと、あの<ボリス・ゴドゥノフ>で聴かれる音楽の祖型を見たような気分になる。)

ついにリュドミラのもとに辿り着いたルスランだが、強い魔法で眠らされている彼女はどうやっても目を開けない。激しく苦悩した後ルスランは、キエフに帰って善良な魔法使いたちの力を借りようと決心する。

〔 第5幕 〕

キエフに帰る一行が、途中、谷間で休む。月の夜。ラトミールがゴリスラワへの愛情を歌っていると、チェルノモールに使われていた奴隷たちが急を知らせに来る。「リュドミラがまたしても、さらわれてしまいました。そしてルスランが、その後を追って行きました」。そのラトミールのもとに、魔法使いフィンが現れて助言する。「これは魔女ナイーナの、最後の一撃じゃ。しかし、心配はいらん。お前はこの指輪を持って、先にキエフに向かうのじゃ。必ずルスランに会える。そうしたら、この指輪を彼に渡しなさい。これこそ、リュドミラを目覚めさせる魔法の指輪なのじゃ」。

一方、卑劣漢ファルラーフは、深い眠りに落ちたリュドミラをキエフに連れ帰ってきている。しかし、魔女ナイーナの力を借りてリュドミラを手にしたファルラーフではあったが、彼女の眠りを覚ますことまでは出来ない。「ナイーナのインチキ魔法に騙された」と、やたら文句を並べるファルラーフ。やがてルスランが、ラトミールとゴリスラワの2人を伴って帰ってくる。ファルラーフはびっくりして、姿を隠す。ラトミールの手から魔法使いフィンの指輪を受け取ったルスランが、眠れる王女リュドミラを目覚めさせる。人々の歓喜の合唱が盛り上がるところで、全曲の終了。

(※このラスト・シーンでようやくリュドミラは目覚めるが、その彼女が歌い出すのもコロラトゥーラを駆使したイタリア・スタイルの曲だ。この歌に続いて、ゴリスラワ、ラトミール、ルスラン、そしてスヴェトザールによる喜びのアンサンブルが始まる。―という訳で、「合唱は概ねロシア風だが、独唱と重唱はやっぱりイタリア風」、これがグリンカ・クォリティなのであった。)

(※喜びの重唱を印象的なピアノ・ソロが締めた後、いよいよ最後の大合唱が始まる。有名な序曲の、あの猛然たる出だしのテーマである。「偉大なる神々に栄えあれ!聖なる祖国に栄えあれ!ルスランとリュドミラに栄えあれ!」と歌い出す力強いコーラス。これは実にロシア・オペラらしくて良い。そして冒頭の序曲と巧みなシンメトリーを構成するこの合唱を聴くと、「ああ、これで全曲がまとまったなあ」と、聴く者は一種の統一感を味わうわけである。)

―以上で、歌劇<ルスランとリュドミラ>のお話は終了。お疲れ様。

(PS) ドキュメンタリー『指揮者ムラヴィンスキーの肖像』

<ルスランとリュドミラ>が話題になると、「序曲は、ムラヴィンスキーが最高」というセリフを思わず口にするクラシック・ファンがたくさんいそうな気がする。確かに、かつて録音された同曲の演奏の中でも、ムラヴィンスキーのものは群を抜く名演だと思う。ただし言うまでもない事だが、その演奏はあくまで独立したコンサート・ピースとして同曲を完璧に仕上げたものであり、決してこれからオペラが始まることを告げるような演奏ではない。ムラヴィンスキーとオペラは蓋(けだ)し、水と油である。

この旧ソ連時代の大指揮者エフゲニ・ムラヴィンスキーについてのドキュメンタリー番組が、2003年度にイギリスで制作された。それをNHKが日本語吹き替え版で放送してくれたのを、かつてTVで観たことがある。このような人物のドキュメンタリーだから観ていて楽しいというものではなかったが、孤高の芸術家の光と影、その両面が少しばかりでもうかがい知れたのは収穫だった。もともとは裕福な貴族の家に生まれ、幸福な少年期を送ったムラヴィンスキーだったが、例の革命後は人生が一変する。ここでは政治関係の話は一切省くが、とにもかくにも、極めて特殊な世界に生きていた(あるいは、生かされていた)音楽家だったんだなあと、つくづく思う。

日本でもお馴染みの指揮者クルト・ザンデルリンクがしばしば画面に登場し、思い出話を語っていた。このザンデルリンク氏や当時親しかったという楽員の言葉によると、ムラヴィンスキーは表立ってソヴィエト共産党への批判を行なうことはなかったものの、内心では色々な思いを抱えていたらしい。しかし一方で、これほど恵まれた立場にあった指揮者も珍しい。チケットの売れ行きや、スポンサーのこと等を気にする必要は一切なく、確固たる地位を保証された中、自分の音楽だけをとことん追究していくことが許された。

そう言えば、その番組の中で一つ、とんでもないエピソードが紹介されていた。ムラヴィンスキーが崇敬していたというブルックナーの交響曲を手がけた時の話である。4回目のリハーサルの時、大指揮者はびっしりと注釈の書き込まれた楽譜を持ってきて楽員たちに配り、細かく指導し始めたそうだ。それまでの練習で十分な仕上がりを感じていた彼らは、皆ひどく驚いたという。そして、それ以上に驚嘆させられるのは、そのリハーサルが文字通り完璧に仕上がった後、ムラヴィンスキーは演奏会の本番をキャンセルしてしまったというのである。その理由は、「最終リハーサルで、完璧なブルックナーが出来上がった。本番ではもう、これ以上の物が出来る余地はない。だから、やめる」である。西側世界でそんな事が考えられるだろうか?繰り返しになるが、ムラヴィンスキーという人はそういう特殊な世界で生きていた指揮者なのである。

1938年に若い彼がレニングラード・フィル(当時)の主席指揮者に就任した時、このオーケストラはガタガタだったらしい。そこへ国家の後ろ盾を受けて鉄の規律を持ち込み、自らにも厳しい生き方を課したムラヴィンスキーは、以来、半世紀にも及ぶ年月の間それを通した。彼の峻厳な顔つきは、その人生の履歴書とも言えるものだろう。だから、夫人が1970年代に撮影したというホーム・ビデオの映像に見られるムラヴィンスキーのほころんだ笑顔というのは、ある意味、最も貴重な遺産と言えるものかも知れない。

その番組に出演していた音楽プロデューサーのヴィクター・ホフハイザー氏が言う。「5分でも遅刻した楽員は即クビになるか、2週間の停職になりました」。さらに、当時の楽員であったA・ポリアニチコ氏は、次のように述懐する。「僕が初めてレニングラード・フィルに入った時、先輩に言われたよ。『ムラヴィンスキーの指揮で演奏する時の音は、大きすぎても小さすぎてもいけない。速すぎても、遅すぎてもいけない。巧すぎるのもダメだ。皆とおんなじように弾かなくちゃいけない』とね」。現在録音で聴くことの出来る、あの<ルスランとリュドミラ>序曲の超絶的な鉄壁演奏は、こういう人たちが作ったのだ。

【2019年2月21日 おまけ】

ムラヴィンスキーの1965年盤<ルスランとリュドミラ>序曲 ←これが噂の、鉄壁演奏。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歌劇<ルスランとリュドミラ>(2)

2006年10月07日 | 作品を語る
前回の続きで、グリンカの歌劇<ルスランとリュドミラ>・第2回である。

〔 第2幕 〕 ~続き

旅を続けるルスランは、荒れ果てた戦場にたどり着く。そこで武器の残骸や兵士たちの骨を目にした彼は、人の世の無常、この世の虚しさを感じる。やがて、あたりを覆っていた霧が晴れると、ルスランの目の前に巨大な生首が出現する。死せる兵士たちの眠りを邪魔されたと、生首は嵐を巻き起こす。しかし、勇敢なルスランがその首を槍で刺し倒すと、下から立派な剣が出てくる。息も絶え絶えになった生首の話によると、この魔法の剣にこそ悪の魔術師チェルノモールを倒す力があるのだという。

(※ここが、ルスランを演じる歌手にとって最大の聴かせどころである。まず、深みのあるバスの声でじんわりと世の虚しさを歌う。それから彼は、そこらに散らばっている武器を物色し始める。やがて、「おお、リュドミラよ。愛の神は幸せを約束した。災いの嵐は過ぎ去ると信じている」と歌い出すところが、あの有名な序曲の中間部で聴かれるメロディである。しかし、この歌、かなりの高音を要求される難曲だ。)

(※ここに出て来る生首というのは、兜をかぶって立派な髭をたくわえた巨大な兵士の頭部である。正体は、魔術師チェルノモールの兄。弟に殺されて剣の守り役をさせられている彼は、「俺の弟チェルノモールの魔力は、あの長いあごひげに源がある。俺の下に隠された剣には、ヤツのひげを切る力があるのだ」と、ルスランに教える。この剣を手にしたルスランが愛するリュドミラを救出すべく、チェルノモールのもとへ向かって行くところで、第2幕が終了。)

〔 第3幕 〕

ナイーナの魔法の城。彼女は魔法で騎士たちを誘惑し、みんな殺してしまおうと企んでいる。

(※おどろおどろしい間奏曲に続いて、ナイーナに仕える娘たちのコーラスが始まる。これは「ペルシャの合唱」と呼ばれるものだが、たいそう魅惑的な曲である。同じ音型を繰り返して歌う優しい合唱の背後で、管弦楽が見事な変奏を披露する。「若い旅のお方、お寄りなさいな。ここには若い娘がいっぱいいるわ」。それに続いて魔女ナイーナが、「そしてみんな死ぬんだよ。あたしの魔法にかかってね」と歌う。)

かつてラトミールにふられてしまった娘ゴリスラワ(S)が登場すると、そこへリュドミラ探しの旅に疲れ果てた当のラトミールもやって来る。

(※「ラトミール、寂しい思いから、あなたを追ってここまで来たのよ。どうか、故郷へ帰ってきて」と、ゴリスラワはここで切ない気持ちを歌いだすのだが、音楽としてはむしろ、それに続くラトミールの歌の方が印象的なものになっている。「眠れ、眠れ、疲れた魂よ」と、しっとりした感じで歌い出し、「我が故郷ハザールの美しい花よ、魅惑的な女たちよ、私のところに来ておくれ」と続く。)

ここから舞曲が始まる。これはナイーナの城に仕える娘たちによる、誘惑の踊りである。ラトミールは彼女たちに囲まれて、うっとり。ゴリスラワが彼に声をかけようとするが、娘たちにさえぎられてしまう。

(※この「ナイーナ城の踊り」は十数分も続く本格的なもので、観客サービスとしてのバレエ・シーンと考えてよいと思う。ただし音楽の雰囲気としては、ロシア的な土俗感とはかけ離れた非常に上品なものだ。)

やがてそこへ、ルスランがやって来る。しかし、彼もナイーナの魔法にかかり、目の前にいるゴリスラワに恋してしまう。そして彼がリュドミラのことをすっかり忘れそうになっているところへ、魔法使いフィンが登場。フィンは惑わされている者たちを助け、ナイーナの魔法の城を消し去る。

(※ここにも、グリンカらしいイタリア風のアンサンブルが出て来る。魔法にかかって「この胸の動揺は何だ」と歌うルスラン、「哀れな私」と嘆くゴリスラワ、そして陶然としながら「人生は楽しむべきだ」と歌うラトミール。この三重唱に、娘たちの合唱が重なってくるのである。また、この第3幕を最後に締めくくるのも、「リュドミラを助けに行こう」と声を揃えて歌う、彼らのアンサンブル。)

〔 第4幕 〕

チェルノモールの魔法の庭。囚われのリュドミラは川に身を投げようとするが、水の妖精たちに引き止められる。やがてチェルノモールが、奴隷や従者たちの先導に続いて登場。ついに姿を見せた悪の魔術師は年老いた小人で、その魔力の源である長いひげをクッションに乗せて部下に持たせている。

(※ここは、ヒロインであるリュドミラの大きな聴かせどころだ。「ああ、私の運命よ。不幸な運命よ」と、イタリア・ベルカント風のなみなみとしたメロディを歌い始め、やがて、「私はいつだって死んでやる。何があっても、この心は変わらない」と気丈な言葉をダイナミックに歌う。水の精たちの合唱を伴うこの歌の展開は、どうもイタリア・オペラのカヴァティーナ・カバレッタ形式を踏襲したもののように見える。)

(※悪の張本人チェルノモールが登場する時の「行進曲」も、なかなか面白い。曲想自体は至極単純なものだが、中間部で聴かれる色彩豊かな管弦楽がいかにも“おとぎ話ムード”を演出してくれて楽しい。そして、この行進曲に続いて、「トルコの踊り」「アラビアの踊り」「レスギンカ」といった民族的な舞曲が次々と演奏される。この中では特に、「レスギンカ」が冴えた出来栄えの曲。)

―この続きから最後の幕切れまでは、次回。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする