クラシック音楽オデュッセイア

2009年の大病以来、月1回程度の更新ペース。クラシックに限らず、身の回りの事なども、気の向くままに書いております。

FMで聴いたカラヤンの演奏

2013年11月30日 | 演奏(家)を語る
先月(2013年10月)のFM番組『名演奏ライブラリー』は、3週にわたって指揮者カラヤンの特集だった。今さらカラヤンなんか、と思いつつも、結局3回全部聴いてしまった。w 今回はその時の感想文を中心に、思いつくまま流れにまかせ、いろいろ気ままに語ってみることにしたい。

まず、10月6日(日)の第1回。ドビュッシーの<牧神の午後への前奏曲>とラヴェルの<ダフニスとクロエ~第2組曲>からスタート。どちらもオーケストラを磨きあげる手腕に関して超一流であったカラヤンらしい、美しい仕上がり。ベルリン・フィルという典型的なドイツのオケから、よくまあこれほど柔らかくて流麗な音が引き出せるものだと、心の底から感心させられる。(※注意!「感心」と「感動」は全く別物なので、ごっちゃになさらぬよう。カラヤンの演奏には感心させられることが多々あるが、感動させられることは殆どない。ついでに言えば、「音楽性」と「芸術性」も全く別物。カラヤンは間違いなく超一流の音楽家だったが、芸術家としてどうだったかという話は、また別の次元で行なわれなければならない。)

3曲目は、オネゲルの<交響曲第2番>。これはカラヤンが生前得意としていた曲の一つらしく、この日の演奏でも洗練された美しい弦の響きを堪能させてくれた。但し、それはとことん、上っ面を磨いただけの美しさ。特に曲の後半になると、演奏の中身の無さ、指揮者の浅薄な精神性が露呈する。(※ついでの話だが、この曲の演奏については、私はミュンシュ&パリ管のEMI盤を筆頭に挙げておきたい。このコンビが遺したセッション録音は<幻想>と<ブラ1>の2つがやたら有名なのだが、実はオネゲルの<第2番>というのも結構な豪演だったりするのだった。)

続いて、レスピーギの<ローマの噴水>。カラヤンという音楽家の特徴が凝縮されて収まっているのが、この1作を含んだレスピーギ作品集のCDであるといえよう。(←功芳節。w )まず何と言っても、そのオーケストラの磨き上げ。例によって例のごとくだが、極上の出来栄えである。番組で紹介された<噴水>について言えば、第2曲『朝のトリトンの噴水』と第3曲『昼のトレヴィの噴水』各冒頭で聴かれる、あのもったいぶったような“のったり”テンポがひときわユニーク。これは特に1970年代のカラヤンが、イタリア・オペラでよく見せた特徴だった。<アイーダ>や<ドン・カルロ>(ともにEMI)といったヴェルディ・オペラもさることながら、何よりプッチーニのオペラに於いてことさら強く打ち出されていた個性である。ジョン・カルショーのプロデュースで行なわれたデッカ時代の<トスカ>でもそうだったけれど、グラモフォンへの再録音<トスカ>ではさらに“のた~っ”としたテンポ設定が行なわれていた。で、その方向での到達点、あるいは極め付けになっていたのが、マエストロ最晩年の<トゥーランドット>ということになる。カラヤンのイタ・オペは(マリア・カラスと共演していた若い頃のスカラ座時代はまた別として)、血沸き肉躍るようなストレッタよりも、この種の“もた~っ、ブワアア~ン↑“と盛り上がる双曲線的なクレッシェンドに特徴があった。

番組では扱われなかったが、同じCDに収められた<ローマの松>でも、カラヤン美学そのものの演奏を聴くことができる。まず、第1曲『ボルゲーゼの松』。煌びやかな喧騒にも(アバドとはまた違った意味で)一定の節度が保たれていて、いわゆる羽目外しをやらない。彼が<ローマの祭り>を手掛けなかったのも頷ける。あの終曲『主顕祭』の馬鹿騒ぎは、カラヤンには全く耐えがたいシロモノであったに違いないからだ。つまり、「こんな愚劣な曲をやるのは、俺のプライドが許さない」という感じである。かなり古い話になるが、昔TVの番組で、「一流ホテルの名シェフに、たこ焼きを作ってもらおう」という変な企画が打ち出されたことがあった。で、その実行担当者に選ばれたのが、タレントの横山ノック。予想通りの展開になった。当たり障りのないインタビューに続いて、ノック氏が恐る恐る話を持ちかける。「あの~、大変失礼とは存じておりますが、あの、たこ焼きをですね、ええ、シェフに作っていただけたらと・・」。その時のシェフの顔。「人を侮辱するのか」という心外な思いが、控えめながらもどこか引きつったような笑顔ににじみ出ていた。結局この話、ノック氏が拝み倒す形でシェフの了解を得て、“一流のたこ焼き”を作ってもらうことに成功したわけだが、出来上がった料理は何とも不思議な一品(ひとしな)となった。確かに、たこ焼きの丸い形は残っている。だが、その味付けの仕方やら、仕上がりの姿やらが異様に西洋風な(おそらくフランス風の)高級料理に変貌していたのである。

実はこれ、カラヤンの音楽そのもの。昔何かの雑誌で見た表現の受け売りになるけれども、たとえて言うならカラヤンというのは、「どこの国の料理でも器用にこなし、仕上げは常に最上の物を出してくる国際的な一流ホテルのコック長」なのである。さらに付け加えて言うなら、その調理法はあくまで“俺流”。上述のヴェルディやプッチーニでのユニークなテンポ設定のほか、精妙だがやたら重くて壮麗な<ペレアスとメリザンド>、ゲルマン的なパトスの表出などものかはで精緻に練られた映画音楽のような世界を展開する≪ニーベルングの指環≫、およそロシア的とは言い難い西欧的洗練の極みを聴かせる<ボリス・ゴドゥノフ>等、そのユニークさをあげつらっていける例は枚挙にいとまがない。特にギャウロフを主役に据えた<ボリス>はカラヤン的なインチキ演奏の極め付けで、その超一流の贋作ぶりが逆に下手な本物を凌いでいたりするところに凄みがあったりする。そんなマエストロにとって<ローマの祭り>など、それこそ名門レストランのシェフに「おっちゃん、たこ焼き、ちょっと作ってんかあ?」と言っているような曲なのである。誇り高きカラヤンが好んで手掛けるわけがない。

<ローマの松>について言えば、あと第3曲『ジャニコロの松』に登場する鳥たちの鳴き声。この鳥たちがまた凄い。どこから見つけてきて、どれほど厳しいオーディションを行なったのか(笑)、カラヤンの審美眼にかなう奇跡のような名歌手、じゃなくて名歌鳥(笑)たちが揃っている。カラヤン盤に出てくる鳥たちほどに音楽的で美しいアンサンブルを聴かせる名歌鳥たちを、他の指揮者の録音から見つけだすのは相当難しいんじゃないかと思う。こういうところがまた、カラヤン美学の一つなのだ。そして同じCDの最後に収録された<リュートのための古風な舞曲とアリア~第3組曲>は、いつもながらの空虚で物々しい音響をとどろかせるカラヤン&BPO節。「こういうことやるから、俺はカラヤンって嫌いなんだよなあ」と私の顔を苦痛にゆがませてくれるのである。カラヤンがどういう音楽をやる指揮者だったか、たった1枚のCDだけで知りたいという方は是非、この「レスピーギ作品集」をお聴きいただけたらと思う。

(※ちなみに、<リュートのための古風な舞曲とアリア>については、月並みな選択だが、クラウディオ・シモーネ&イ・ソリスティ・ヴェネティ盤が万人向きの無難な名演だろうと思う。安心して聴いていられる。しかし、それとよく組み合わせて録音される組曲<鳥>については、オルフェウス室内管弦楽団が凄い。これを初めて聴いた時、私は本当に驚いた。それまで聴いたことのない音、というか、気づかずにいた音が鮮やかに浮き彫りとなっていて、「あれ、この曲にこんな箇所あったっけ」と思わず別のCDを取り出して聴き直してみたものである。眼光紙背に徹す、とでも言うか、レスピーギが書いた楽譜を徹底的に読み込んでいるのだ。)

続いて、パリ管弦楽団とのフランクの<交響曲>(1969年・EMI録音)。これ、LP時代から評論家筋に受けのいい演奏だが、私は好まない。この力ずくな音楽運びと、粗くてやかましい音響にはほとほとうんざりさせられる。特に第1楽章の最後の締め方など、力み過ぎというか、演出過剰で臭すぎ。この名作については、モノラル期のモントゥー&サンフランシスコ響と、ステレオ初期のポール・パレー&デトロイト響が私の中でのベスト2。(※注意!パレー盤については必ずMercury Living Presence盤で聴くこと。国内廉価盤の音は全然ダメ。)

初回放送の最後は、マスカーニの歌劇<カヴァレリア・ルスティカーナ>間奏曲。曲の終りにオルガンが出てきたことに、びっくり。この演奏は今回初めて聴いたが、「へえ~、カラヤンはこんな事やっていたんだ」と思った。でもこのアイデア、オペラの内容を知っていれば、ある意味納得の試みと言えるかもしれない。

第2回目の放送は、10月13日。シベリウスの<フィンランディア>は、EMI録音の物だったが、この時代のカラヤンのシベリウスはもはや聴くに堪えないゲテモノ。<交響曲第4番>は1960年代のグラモフォン盤で、こちらはそこそこ付き合える演奏だった。カラヤンの1960年代のシベリウスについては第4、5、6、7番あたりをCDでかつて聴いたが、曲自体がつかみにくい<第4番>に於いて、カラヤンの語り上手な音楽作りが一番効果を発揮しているように思えた。但し、その“語り上手”が本当の話をしてくれているのかどうかは保証の限りではない(笑)。

続いて、バルトークの<弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽>(EMI録音の方)。これ、昔LPで持っていた。当時まだ学生だった私には実感できなかったが、ある評論家の先生(小林利之氏だったか)が、「カラヤンの演奏には温かみがありますが、この曲にはもっと厳しい響きが必要なのではないでしょうか」と述べておられ、同曲の推薦演奏としてフリッツ・ライナー&シカゴ響の名演(RCA)を挙げられていた。今回、その先生の言葉の意味がよく理解できた。カラヤンの<弦・チェレ>は確かによく練られていて、特に後半の2楽章に名指揮者の辣腕ぶりが発揮されているのだが、全体の印象としてはいささかヌルイのである。

さて、ウィーン・フィルとのドヴォルザーク<交響曲第8番>(デッカ録音の方)。これは当ブログで以前、軽く触れたことがある。若々しい力感とダイナミックな表情づけが見事ツボにはまって、心地良いことこの上なし。そして時折聴かれるウィーン・フィルの弦のポルタメント、そのいやらしいまでの美しさ(笑)。私見では、これこそ交響曲部門におけるデッカ時代のカラヤンの最高傑作と讃えたい。私は現在24ビットの廉価CDで愛聴しているが、この日の放送ではエソテリック盤が使われていたようだ。(あったのか、いいなあ。)ケルテス&ウィーン・フィルの<新世界より>もそうだけど、一度聴いてみたい、エソテリック盤。

最後は小品。ブラームスの<ハンガリー舞曲第3番>。木管がさすがに巧いなあって、それだけの感想。率直なところ、カラヤンの指揮による≪ハンガリー舞曲集≫とドヴォルザークの≪スラヴ舞曲集≫は、全体に私の趣味に合わない演奏だった。これを良いと感じる人も勿論おられることと思うが、どうもそのテンポや表情に、私は聴いていて納得がいかない。と言うか、≪ハンガリー舞曲集≫の録音で十分満足のいく名盤というのは無いんじゃないかとさえ思っている。ライナー&ウィーン・フィルのデッカ録音は<第5番>のみ絶品の名演で、後の曲は変にもったりしていて焦燥感が募る。ちなみにその線での最悪は、スウィトナー盤。オケの響きだけは魅力的だが、どれもこれも、のたくそ、のたくそした演奏でイライラさせられる。逆に速めのテンポで力強く推進するのが、アンタル・ドラティのマーキュリー盤。でもこれ、表情がいささか一本調子ではないかという不満がある。同じスッキリタイプの演奏では、アバド&ウィーン・フィル盤というのもあって、これは非常によく練られた眉目秀麗な演奏なのだが、ハンガリーの舞曲にはもっと濃厚な表情が付けられてもいいんじゃないの、という気持ちが最後までぬぐえない。しなやかに洗練され過ぎていて、それが逆に物足りなさを生み出してしまっている感じだ。ドヴォルザークの≪スラヴ舞曲集≫にはジョージ・セルの素晴らしい名盤があるのに、≪ハンガリー舞曲集≫の方は何とも残念な状況である。

最後の第3回放送は、10月20日。山下一史氏をゲストに招いて、いろいろな話を聞かせてもらえた。この日に紹介された演奏では、何よりもN響を指揮したチャイコフスキーの<悲愴>(1954年モノラル・ライヴ)が抜群に笑わせてくれた。当時昇竜の勢いにあった若きカラヤンの精悍な指揮に、オケのメンバーが必死についていく。特にティンパニー奏者が最高で、随所で聴かせるその爆裂音といったら、こりゃロシアのオーケストラ・メンバーか?と思わせるほどだった。デル・モナコとゴッビが来日した1959年の<オテロ>でも、あの『ヤーゴのクレド』で素晴らしいティンパニーが聴けるのだが、ひょっとしてこれ、同じ人かな。

(※この日の山下氏のお話の中で、「ああ、いかにも」と思ったのは、大指揮者が持っていた体内時計の正確さ。長い練習の後、カラヤンが休憩を宣言する。で、楽員たちが時計を見ると、見事に予定通りの休憩時刻になっている。カラヤンは時計を見なくても経過した時間の長さをしっかりと体で認知していたというお話。それを裏付けるような体験談を、確か生前の朝比奈隆だったかが伝えている。「カラヤンはたとえば月曜日に弦楽器奏者を集めて弦のパートを録音し、次の日に管楽器奏者を集めて管のパートを録音するんです。で、後日それらのテープをミックスして一つのレコードに仕上げるなんてことをやる」と。それがオーケストラ演奏と言えるのか?という強い疑問が出てくるのは避けられないが、いずれにしても、そういう事ができるぐらいにカラヤンのテンポ、そしてそれを裏打ちする彼の体内時計は正確そのものだったということは出来るだろう。名を成す人物というのはやはり、それぞれに“普通じゃない何か”を持っているものなんだなあと、改めて感じ入った次第。)

―というところで、だいぶ話が長くなってきたので、今回はこの辺で・・・。
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