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クラシック音楽オデュッセイア

2025年正月、ついに年賀状が1通も来なくなった“世捨て人”のブログ。クラシック音楽の他、日々のよしなし事をつれづれに。

歌劇<イワン・スサーニン>(1)

2006年09月22日 | 作品を語る
大歌手の訃報という臨時ニュースでちょっと中断したが、先頃扱ったスメタナの作品を皮切りに、しばらく「国民歌劇」路線(及び、その周辺)のお話を続けてみようかと思う。ちょうどヴァルナイさんのイをしりとりする形で、ロシア国民歌劇の嚆矢となった作品に話をつなぐことが出来る。グリンカの<イワン・スサーニン>(1836年)である。リハーサルの一つに立ち会った皇帝ニコライⅠ世が、「オペラの題名を、<皇帝に捧げし命>にせよ」と命じたエピソードがよく知られた作品だが、今回と次回はこの<イワン・スサーニン>について語ってみたい。

「ロシア国民楽派の父」と称揚される作曲家ミハイル・グリンカが書いた記念碑的な当オペラの全曲については、随分前にNHKが放送してくれた映像で初めて触れた。主演は、当時全盛期にあったエフゲニ・ネステレンコ。その頃はこの種のクラシック番組を随分熱心に録画したものだが、当時のビデオ・テープはどれも老朽化したため、何年か前にまとめて処分してしまった。今私の手元にあるのは、古い音源の全曲CDが一組だけ。これはアレクサンドル・メリク=パシャイエフの指揮によるボリショイ劇場での録音で、主演はマクシム・ミハイロフだ。1947年の記録なので当然モノラル録音だが、鑑賞には全く差し支えのない音質である。演奏も優秀。以下、かつてNHKで観たライヴ映像での記憶と、このメリク=パシャイエフのCD、そして作品解説の本を材料にして、オペラの内容をざっと見ていくことにしたい。

―歌劇<イワン・スサーニン>のあらすじと、音楽的特徴

〔 第1幕 〕

ロシアの国民軍が、ドムニノ村にやって来る。村娘アントニーダ(S)が婚礼を間近にした喜びを歌っている。やがて、彼女の父親であるイワン・スサーニン(B)が帰ってきて、「我らの新しい皇帝が、国民会議で決まった。今の混乱が収まるまで、お前の結婚式もちょっと延期しよう」と彼女に告げる。そこへ、アントニーダの許婚であるソビーニン(T)が、意気揚々とした様子でやって来る。「我らのロシア軍がにっくきポーランド軍を破って、モスクワを奪還したぞ」。彼がもたらした吉報に、一同盛り上がって喜ぶ。

(※序曲に続いて、ポーランド軍に対する戦いの合唱「我が祖国ロシア」が力強く響く。これはテノール独唱の音頭取りに続いて全員が歌うというロシア民謡によるもので、曲自体にもロシア色が濃厚に漂っている。さらに、ソビーニンが歌うアリア「許婚のもとへ、手ぶらで来る花婿はおらぬ」も、ロシアの軍歌調で書かれているという。このように、いかにもロシア・オペラですね、と思わせる音楽がこのオペラのあちこちで使われているのは事実である。しかし、実はこれらはグリンカ・オペラを特徴づける最大の要素となっているものではない。第1幕の例で言うなら、コロラトゥーラの技巧が散りばめられたアントニーダのカバレッタとロンド、そしてソビーニンの吉報に喜ぶ一同がやがて始める重唱などにこそ、「良くも悪くも、これがグリンカなんだよな」と言える特徴が出て来るのだ。それ即ち、イタリア色である。)

〔 第2幕 〕

ポーランド軍の陣営で、舞踏会が催されている。「新しいロシア皇帝がいるのは、ドムニノ村近くの修道院である」という情報を手にした彼らは、そこを襲撃しようという計画を立てる。

(※第2幕は、全体にアトラクション的な性格を強く備えたものになっているようだ。ポロネーズと合唱、クラコヴィアーク、あるいはマズルカといった民族色豊かな舞曲が次々と披露される。ポーランド兵たちの会話のやり取りなどはごく軽く処理され、もっぱら各種のポーランド系舞曲を聴かせることに重点が置かれているように感じられる。)

〔 第3幕 〕 ~前半部分

スサーニンの家。彼が養女として育ててきた孤児のワーニャ(Ms)が、母親を失った悲しみを歌っている。スサーニンが彼女を慰め、やがて始まるであろうロシア国民軍の反撃について語りだす。やがて、村人たちがアントニーダの婚礼を祝いに集まり、楽しいお祝いムードになる。しかし突然、ポーランド軍の兵士達がそこへ押し入ってきて、「修道院まで案内しろ」と、主(あるじ)のスサーニンに詰め寄る。

(※第3幕では、近づく悲劇を予感させる前奏曲もなかなかに印象的なものだが、それよりも孤児ワーニャの歌の方が注目される。弦楽による伴奏音型がベッリーニ風で、さらに彼女を慰めるスサーニンが加わって始まる二重唱もまた、イタリア・ベルカント流。さらに、後半盛り上がってくるこの二重唱は、だんだんとカバレッタ風の楽曲に発展していく。実はこれが、グリンカ・オペラの最たる特徴と言えるものなのである。色々なオペラ作品を聴きこんだ人が、「<イワン・スサーニン>って、ドニゼッティのオペラみたいだな」と感じるのは、理由のないことではない。)

(※村人たちがスサーニンの家へお祝いに来る場面でもやはり、ドニゼッティ・オペラのような重唱シーンが展開される。ソビーニン、ワーニャ、イワン、そしてアントニーダの4人によるアンサンブルが中心なのだが、これが結構長い。一旦区切りがつくや、短い間奏をはさんでまた始まる。え、まだやるの?みたいな感じで、延々と続くのだ。)

(※さて、このオペラで「憎むべき敵」に設定されているのはポーランド軍の兵士たちだが、私にはこの人たち、どうしても悪い連中には見えない。何故かと言うと、ロシアの農家に踏み入って人々を脅し、そこの主人に道案内を強要するという暴力行為を行なっているこんな場面でも、彼らは舞踏会の時みたいに軽やかなポーランド舞曲で歌うからである。いくら男声合唱で悪者らしく怖く歌おうとしても、この楽しげなリズムでは無理だろうって。w )

―この続きから幕切れまでの展開については、次回・・。
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歌劇<ダリボル>

2006年09月07日 | 作品を語る
前回までの話に続いて、今回もう一つ、スメタナの国民歌劇作品を扱ってみたい。作曲家にとって3作目の歌劇となる<ダリボル>(1867年)である。これは、作曲者自身が生前一番気に入っていたものと伝えられている歌劇だ。一般的にはあまり馴染みのある作品とは言い難いものだが、スメタナのオペラを語る上ではやはり無視することが出来ない。

このオペラについて私がかつて聴いた全曲CDは、ヨゼフ・クリップスの指揮によるウィーン国立歌劇場でのライヴ(1969年10月19日収録)盤である。これは一応国内盤ではあったのだが歌詞対訳はなく、トラック番号に準拠した短いあらすじ紹介文だけが付いているものだった。以下、上記のCDを聴きながら取ったメモをもとにして、その内容を順に見ていきたいと思う。

―歌劇<ダリボル>のあらすじ

〔 第1幕 〕 プラハの城の中庭。

騎士ダリボルが、国王のもとで今裁判にかけられるところ。プロスコヴィッチの城主を殺害し、城を破壊したという容疑である。殺された城主の妹ミラダがこの訴えを起こし、王に厳しい裁定を求めている。一方、ダリボルに拾われて育てられてきた娘イトカは、何とかして恩人である彼を救出したいと考えている。やがて、国王ヴラジスラフと裁判官が登場。そして、ダリボルも姿を現す。

ダリボルは容疑を認めた上で、揺るがぬ信念を語りだす。「私の親友であった音楽家のズデンコは、あの城主によって不当に捕らえられ、殺害された。私は裁判に訴えたが、城主には逆らえないといって誰も聞いてくれなかった。だから私は、自分自身で復讐を遂げたのだ」。裁判官は、ダリボルに終身刑を言い渡す。しかし彼は、「牢獄で精神の自由を押さえつけることなど出来ない」と、屈する様子を微塵も見せない。その態度に、民衆は深く感じ入る。そればかりか、兄の仇とダリボルを憎んでいたミラダまでが感動してしまう。

彼女はダリボルを許す気持ちになり、国王に寛大な処置を求める。しかし、裁判官の判決を勝手に覆すことは、さすがの王にも出来なかった。皆が去った後、中庭にミラダが一人残る。彼女はダリボルに対して、愛を感じ始めている。そこへイトカがやって来て、「愛とダリボルのために、闘いましょう」とミラダを説得する。

(※第1幕ではまず、控えめなファンファーレに続いて悲劇的な旋律が流れる前奏曲が良い。当ブログでかつて扱った例で言えば、マデトヤの歌劇<ポホヤの人々>にちょっと似た雰囲気を持っている。主役のダリボルは、ドラマティック・テノール。終身刑を言い渡された後になお、彼が強い信念を歌って人々を揺り動かす場面が、第1幕の聴きどころと言えそうだ。なお、そのダリボルの歌には、かなりワグナーの影響が窺われる。)

〔 第2幕 〕

プラハの下町の居酒屋で、若者たちが飲みながら盛り上がっている。イトカが、「ダリボルを救出しましょうよ」と恋人のヴィーテクを誘う。すると他の若者たちもそれに乗ってきて、力強い合唱へと発展する。

(※この居酒屋の場面は、いかにもチェコらしい舞曲のリズムで始まる。続くイトカとヴィーテクのデュエットは大した曲ではないが、2人の歌に他の若者たちが加わってくると再び盛り上がる。)

場面変って、城の中庭。ダリボル奪還計画の噂を耳にした司令官ブディヴォイが、牢番に注意を促している。牢番ベネスは、少し前から自分の手伝いに来ている若者を息子のように可愛がって信頼しているが、その若者とは男装したミラダであった。「孤独で、つらい牢番生活だ」と嘆くベネスを、ミラダは慰める。それからベネスは、「これを、ダリボルにやってくれ」と、自分の古いヴァイオリンをミラダに手渡す。

(※男装したヒロインが牢番の信頼を勝ち取るという設定はベートーヴェンの<フィデリオ>そのものだが、作曲者はそのあたりを意識していたのだろうか?それはともかく、牢番ベネスからヴァイオリンを預かってダリボルのもとへ向かうミラダが、「ダリボル救出のために、力を与えよ」と祈る歌にも、やはりワグナーの影響が見られる。)

再び、場面転換。牢獄の中で石につながれたダリボルが、亡き友ズデンコとのヴァイオリン演奏を夢に見ている。そこへ、牢番ベネスから預かったヴァイオリンを持ってミラダがやって来る。彼女はダリボルに正体を明かし、彼を訴えたことを許してほしいと頼む。さらに彼女は、「私はあなたを、ここから救出したいのです」と告げる。ダリボルはミラダを許し、新たな希望と自由へ導いてくれる彼女の愛を受け入れる。

(※この場面転換の音楽は、美しい曲である。チェロやハープ、各種木管、そしてヴァイオリンといった楽器が入れ替わり立ち代りソロイスティックに活用されて、とても印象的なものに仕上がっている。最後を締めくくるダリボルとミラダの「愛の二重唱」もやはりワグナーっぽいが、なかなか良い。オペラ全体を見渡しても、第2幕が一番聴きどころの多い箇所と言えそうだ。)

〔 第3幕 〕

司令官ブディヴォイが、ダリボルを巡る不穏な動きについて国王に警告する。やがて、「秩序を維持するためには、ダリボルを処刑するしかないだろう」という話が出て来る。国王ヴラジスラフは、「ダリボルの死刑については、慎重に考えた上で決定してほしい」と裁判官たちに依頼する。そして王は、「私は公正で温和な国王でありたいのに、理想はいつも現実によって破られる」と、嘆く思いを歌う。やがてダリボルの死刑判決が、裁判官たちによって出される。悩める王は、「ダリボルが反逆心を捨ててくれるなら、許そう。しかし尊大であり続けるなら、殺す」と語る。

(※この国王の歌は聴き物だ。自らが心に思い描く理想と、そうはさせてくれない現実とのギャップに苦しむ王の嘆きである。クリップス盤ではウィーン出身のバリトン歌手エバーハルト・ヴェヒターがこの役をやっていたが、熱のこもった見事な名唱であった。)

場面転換。夜。ミラダとイトカ、そして武装した民衆が城に向かってくる。いよいよダリボルが処刑されようとしているところへ、人々が突入。助け出されたダリボルは、そこで瀕死の重傷を負ったミラダを城から運び出す。しかし、彼女は間もなく、ダリボルの腕の中で息を引き取る。侵入者たちを殺し捕らえたブディヴォイが、ダリボルの捕獲を命じる。ダリボルは、「自由の扉を開け!私は別の世界へ行く」と叫び、兵士たちの剣の中へ飛び込んでいく。(終)

(※ミラダが息を引き取る場面には、さすがにしんみりさせる音楽がついている。ただ、その後ダリボルが兵士たちに向かっていく幕切れには、もう少し豊かな響きがほしいなあと思った。)

―スメタナの作品については以上で終了だが、これをきっかけにして、しばらく国民歌劇路線でのお話を進めてみようかと思っている。ただし次回は、特別記事。まさに今日(9月7日)、HMVさんのネット通販サイトで、アストリッド・ヴァルナイの訃報に触れたのだった。去る4日にミュンヘンの病院で亡くなられたらしい。享年88との由。という訳で次回は、大歌手ヴァルナイのお話である。
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<リブシェ>(2)、ケンペの<売られた花嫁>

2006年09月02日 | 作品を語る
今回は、スメタナの祝典歌劇<リブシェ>の残り部分についてのお話と、ルドルフ・ケンペの指揮による歌劇<売られた花嫁>全曲盤(EMI)を巡っての感想文。

〔 第3幕 〕 ~第6場「リブシェの予言」

リブシェが国民への祝福を述べ、国家の輝かしい未来を次々と予言していく。英語ではpictureという単語で訳されている一連の映像が続く。これらは皆、予言能力を持つリブシェの眼前に広がってくる「チェコの未来を示す映像」である。(※チェコ語の読み方に自信がないので、以下英訳を見て和訳出来る最後のピクチュア6以外は、原語を残した英訳版をそのまま並べてみることにしたい。)

ピクチュア1 Bretislav & Jitka
ピクチュア2 Jaroslav of Sternberek
ピクチュア3 Otakar Ⅱ , Eliska & Charles Ⅳ
ピクチュア4 Zizka , Prokop the Great & the Hussites
ピクチュア5 George of Podebrady
ピクチュア6 魔法の光に包まれたプラハの王城

リブシェの予言を受けて、力強い合唱が全曲を締めくくる。「チェコの人民は決して滅びない。地獄の恐怖にも打ち克つのだ。栄光よ!栄光よ」。

(※最後の第6場では予言映像のそれぞれについてリブシェが力強く歌っていくのだが、これを聴いていると、リブシェというのはつくづく並みのソプラノ歌手では務まらない難役であることが実感される。チェコ語の発音という言語面での問題もあるが、それ以上に、彼女には上に超の字がつくほどのドラマティックな声が要求されるのだ。これはほとんど、《指環》のブリュンヒルデ並みである。しかも、この場面の少し前では、事件の一家を前にして見せる柔和な表情など、女性的な優しさもしっかりと歌い出さねばならないのだ。)

(※上記6つのピクチュアの中で、クラシック・ファンの多くが聴き覚えを感じるのは、きっと4番であろう。英語でthe Hussitesと表記されているのは、日本語では「フス教徒」。そしてここで聴かれる音楽は、同じスメタナが書いた《我が祖国》の最後の2曲、<ターボル>と<ブラニーク>で繰り返し聴かれる有名なテーマである。具体的には、フス教徒たちのコラール「なんじの神の戦士」と呼ばれるものだ。このピクチュア4を耳にしたら、「あ、これ聴いたことある」と思いつく方が、きっとたくさん出て来ることと思う。)

以上で、<リブシェ>のお話は終了。

―ケンペの<売られた花嫁>(EMI盤)について

今回は少し枠に余裕があるので、ルドルフ・ケンペの指揮によるスメタナの歌劇<売られた花嫁>の全曲盤について、少しだけ語ってみたい。オーケストラはバンベルク交響楽団で、出演者はピラール・ローレンガー、フリッツ・ヴンダーリッヒ、ゴットロープ・フリック、他といったメンバーによる録音である。これはLP時代の愛聴盤だったが、つい昨年、ひょっこりと国内盤の中古CDが見つかったので買い直してみた。果たしてこの20ビットCDの音は、LPで聴いていた時の素朴なイメージを完全に覆すような豊麗な響きを再現してくれたのである。「ああ、この演奏って、実はこんなに豊かな音でやっていたんだ」という感じであった。

豊かな、と言えば、ケンペ自身がこんなことを言っていたそうである。「これほど豊かな気持ちで<売られた花嫁>を演奏できるオーケストラを、バンベルク交響楽団以外に見つけることは難しい」。【注1】戦前のチェコ音楽文化を形成した人たちが中核メンバーになっていたバンベルク響と、チェコ音楽にかねてから親近感を抱いていたケンペによる共同作業は、たいそう実り豊かな結果を生んだ。ここにはいかにもケンペらしい、けれん味のない清潔な音楽作りで、軽やかなフットワークとほどほどの重量感が絶妙につり合った名演奏が記録されている。そう言えば、同じドイツ系の名指揮者オトマール・スウィトナーにも同曲のハイライト盤(Berlin Classics)がある。そこでのスウィトナーも非常な熱演を披露しているが、いかにもドイツ風の音作りというのか、低音がドッシーンと出て来て、音楽の重心がやたら低い。(※それを悪いなどと言うつもりはないが。)チェコ系の指揮者たちなら、全体にもう少し軽めのサウンドを使うことだろう。ケンペの指揮というのは、その間のバランスを非常に巧くとっているもののように、私には感じられる。

ケンペ盤では、三人の主役歌手陣がまた素晴らしい。ハンス役(T)のヴンダーリッヒは、いつものように魅惑的な美声を聴かせてくれる。歌の見事さと演技の巧さも、いつも通り。結婚仲介人ケツァール役(B)のフリックも、芸達者なところを見せている。この人は物凄くドスの効いた声を持っているため、一般的には、「偉大なる悪役歌手」というイメージの方が強いかも知れない。《指環》のハーゲンや、<魔弾の射手>のカスパール等が代表的なところだろうか。しかし、どうしてどうして、彼はコメディアンとしてもなかなか優秀な人だったのだ。例えば、ロベルト・ヘーガーの指揮によるニコライの歌劇<ウィンザーの陽気な女房たち>(EMI)でのファルスタッフや、ロルツィングの歌劇<ロシア皇帝と大工>(EMI)でのファン・ベット市長。これらの役で聴かれるフリックの演技上手には、本当に感心させられたものである。(※後者の例で言えば、多額の賞金話を聞かされて息を呑むファン・ベット市長の表情が、その声の演技だけで目に浮かんできた。)そう言えば、当ブログでかつて扱ったロルツィングの歌劇<ウンディーネ>(EMI)での酒蔵番ハンスもこの人がやっていて、若きシュライアーが演じる従者ファイトと息の合ったやり取りを展開していた。この<売られた花嫁>でのケツァールも、闊達な演技力で見事な存在感を示している。

しかし何と言っても、マリー役(S)のピラール・ローレンガーこそがここでは最高と言うべきであろう。スペイン出身の彼女は、ヴィブラートの効果を最大限に活かした美しい声の持ち主だった。特に、その伸びやかな高音で発揮される芯のある美しさは、匹敵するソプラノ歌手を他に見つけるのがちょっと難しいと思われるほどだった。歌の性格としては、どこか強い内面を秘めた女性の役がよく似合う感じだったので、ショルティの指揮で歌った<魔笛>(L)のパミーナなどは、まさに当たり役の一つだったと言えるだろう。<売られた花嫁>でのマリーも、彼女のキャラクターにぴったり。親に勧められたイヤな結婚相手を別人に化けて騙し、大好きなハンスと結ばれたいからと一所懸命に頑張る。それなのに、そのハンスから自分は「売り飛ばされた」と知って、彼女はひどく悲しむわけである。実際にはマリーは決して売り飛ばされたりはしておらず、自分だけが秘密の正体を知っているハンスによる、「マリーと一緒になるための愛の計略」が着々と進んでいたわけなのだが、そんな深謀遠慮を知る由もない彼女はひたすら怒って嘆く。で、その時の憤然とした様子が、このローレンガーのキャラによく似合うのである。これは、適材適所の最たる好例と言ってよいだろう。あと欲を言えば、その彼女に袖にされるお間抜け男のヴェンツェル(T)を歌う歌手が、もう少しキャラの立った人だったら最高だったろうなと思う。しかしこれは、望蜀の感あり、かも知れない。

ところで、ローレンガーはいくつか声楽作品の録音にもソロ歌手として参加していた。ジョージ・セルがウィーン・フィルを振ったベートーヴェンの劇音楽<エグモント>全曲(L)もその一つだが、これは私の場合、学生時代にLPでちょっと聴いただけ。声楽パートに関しては、「男性ナレーターのドイツ語が、鮮やかだったなあ」ぐらいの事しかもう思い出せなくなっているので、今回はパス。今手元にあるCDは、ジャン=クロード・アルトマンの指揮によるグノーの<聖チェチーリア荘厳ミサ>(EMI)である。この演奏にも、ローレンガーがソプラノ独唱で出演している。ただ、このCD、録音マイクの位置によるのか、彼女の声はやや引っ込んだところで聞こえる。歌はいつものローレンガー節なのだが、オーディオ的にはちょっと残念な感じだ。ちなみにこの<聖チェチーリア荘厳ミサ>、これはなかなかユニークなミサ曲である。独唱はソプラノ、テノール、バスの三人で、アルト(または、メゾ・ソプラノ)がいない。第4曲「オッフェルトリウム」には歌詞がなく、数分間の器楽演奏だけ。最後が「ドミネ・サルウム」で終わるのもちょっと変ったパターンだが、これは当時のフランスの慣習に従ったもののようだ。(※この点はかつて当ブログでも、ベルリオーズの<荘厳ミサ曲>を扱った際に軽く言及した。Cf.2005年1月29日の記事)音楽的に面白いのは、例えば第3曲の「クレド」。いかにも歌劇<ファウスト>を書いた人らしい壮麗な音楽が響き渡る。それと第1曲「キリエ」の導入部、これまたいかにもオペラ作家らしい“乗せる音楽”が付いていて、「コーラスの人たち、歌いやすいだろうなあ」と思わせるものがある。

【注1】 『指揮者ケンペ』 尾埜善司・著 (芸術現代社) ~140ページ
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祝典歌劇<リブシェ>(1)

2006年08月28日 | 作品を語る
先頃語ったアドニスのスをしりとりして、今回からスメタナの作品についてのお話に入ってみたいと思う。作曲家スメタナと言えばやはり、6曲からなる連作交響詩《我が祖国》や、歌劇<売られた花嫁>などがとりわけ有名なものだろう。しかし当ブログでは、いわゆる「国民歌劇」に分類されるスメタナ作品のうち、その代表的な2作と言ってよいであろう<リブシェ>と<ダリボル>を中心に語ってみることにしたい。

まず今回は、英語訳でfestive operaという肩書きが付いている<リブシェ>の方から。これは、チェコの古い伝説に語り継がれる「女王リブシェの結婚と、王位委譲の物語」に、ある男女の色恋話を加えて脚色された祝祭オペラである。ただ、この祝典劇は全曲の演奏時間が約2時間30分という大作なので、細かい部分は割愛して大まかなポイントだけを見ていく形にしたいと思う。(※なお、登場人物の名前については、チェコ語の読み方が分からないため、一部推測で書いているものがある。その不正確な部分についてはあらかじめ、お詫びしておきたい。)

―祝典歌劇<リブシェ>のあらすじ

〔 第1幕 〕

父親が残した財産の相続を巡って、ある兄弟が仲違いしている。そしてこの一件の解決が、女王リブシェ(S)に託された。第1幕は、その裁定の場。ヴルタヴァ(=モルダウ)の谷に面したヴィシェフラトの城で、リブシェが裁定を下す。「兄弟二人で分け合って、一緒に管理しなさい」。弟のシュターラフ(T)はそれを受け入れるが、兄のクルドシュ(B)は納得しない。「近隣の国では、財産はすべて長男が引き継いでいる。それを何で、弟と分け合わなきゃならんのだ」。さらに彼は、男尊女卑の思想を露骨に打ち出し、「男が従う相手は、男のみ。女が出した裁定などに従えるか」とリブシェをなじって立ち去る。

(※輝かしいファンファーレに続いて、全体に祝典ムードの強い前奏曲が最初に演奏される。このファンファーレは、ドラマの大事なところで繰り返し出て来る重要モチーフである。やがてリブシェが登場し、「私を導くのは神々・・・」と長い独唱を始めるのだが、その中間部以降に、あの交響詩<モルダウ>で聴かれる音型によく似たものが出て来る。いかにもスメタナのオペラだなあ、と実感される瞬間だ。)

この一件の後、リブシェは決意する。「皆さんが今ご覧になったとおり、私は女であるという理由で侮辱を受けました。拳の力を持つ男性の統治がお望みなら、そのように致しましょう。私はこれから結婚して、夫となる男性に王位を譲ることにします」。リブシェの側近たちの中には、彼女が早く身をかためてくれることを望んでいた者も多かった。その一人であるラドヴァン(B)は、リブシェの決意を喜ぶ。「リブシェ様が自ら、良きお相手をお選びになりますように」という合唱を受けて、リブシェは意中の男性の名を叫ぶ。「彼の名は、プシェミスル」。全員の力強い合唱が轟くところで、第1幕が終了。

〔 第2幕 〕

第1幕の裁定の場で、一人苦悩していたクラサヴァ(S)という女性がいる。彼女は仲違いしている兄弟の兄の方クルドシュを愛しているのだが、気持ちの行き違いから、弟のシュターラフの方に気があるような素振りをずっと見せていた。その恋心のもつれが、兄弟の遺産相続争いに進展し、とうとうプリンセス・リブシェまでをも巻き込む事態になってしまったのだった。クラサヴァは今、それをひどく悩んでいるのである。ついに彼女は、父リュトボル(B)にそれまでの事情を打ち明ける。リュトボルは言う。「これからわしは、クルドシュを呼び出す。クラサヴァよ、クルドシュとの和解はお前自身で成し遂げよ」。やがて、父親の墓前に呼び出されたクルドシュが現れる。そこへクラサヴァがやって来て、自分の本心と、彼と行き違ってしまった事情を語り、変らぬ愛情を訴える。もともとクラサヴァを愛していたクルドシュは、頑なになっていた心をついに解き、彼女との愛を確かめ合う。その様子を見ていたリュトボル、ラドミラ、そしてシュターラフの三人は、「良かった。これであとは、リブシェ様との和解が図れれば」と喜ぶ。

場面変って、リブシェの結婚相手となるプシェミスル(Bar)の農場。のどかな雰囲気を醸し出す木管のアンサンブルを背景に、収穫作業をする4人が楽しげに歌う。それに続いて、チェロやホルンの効果的な独奏に導かれたプシェミスルの歌が始まる。その長い独白の中で、彼はリブシェへの想いを語り出す。「リブシェとともに学んだ日々が懐かしい。彼女の面影が、今も心から離れない・・・」。続いて、4人の刈り入れ人とプシェミスルのやり取り。「さあ、お昼だ。仕事を切り上げて、休むことにしよう」。

(※このお昼休みに入ろうとする場面では、いかにもチェコの音楽らしい活気に満ちた舞曲が出て来る。歌劇<売られた花嫁>で使われているモチーフの一つによく似たものだ。このあたりは、国民歌劇に必須とされる“民族素材の活用”という感じだろうか。)

そこへ、リブシェから派遣されたラドヴァンたち一行が馬に乗ってやって来る。ラドヴァンが、プシェミスルに言う。「我々は、女王リブシェの使いで参った。この白馬に乗って、そなたも参られよ。そしてヴィシェフラトの城門を、女王の配偶者としてくぐるのです」。ついに想いがかなうときが来た、とプシェミスルは喜ぶ。その後、裁判の場でリブシェが侮辱されて傷ついた出来事が彼に伝えられる。それから一同が揃って城に向かうところで、第2幕が終了。

(※この場面で聴かれる音楽としては、馬に乗ったラドヴァンたちの一行がだんだん近づいてくるところの情景描写が良い。ここでのスメタナの管弦楽表現は、実に巧みである。また、この第2幕は上の第1幕と同様、最後を締めくくる力強い合唱がなかなかの聴き物だ。)

〔 第3幕 〕

ヴィシェフラト城内。今回の一件の当事者たちが揃って、リブシェの前に集まっている。クルドシュとシュターラフの兄弟。その姉ラドミラ。そしてクラサヴァと、彼女の父リュトボル。穏やかな音楽を背景に、リブシェが優しく語りだす。「争いごとは解決しましたね。私も、これから結婚です」。続いて彼女は、クルドシュに向かって言う。「弟のシュターラフと握手し、クラサヴァと愛し合ってください。そして私があなたを許したように、私の夫もあなたを許してくれるように頼んでみます」。リブシェに感謝する一同の合唱。「リブシェ様の行くところ、いずこにも栄光がありますように」。

やがてラドヴァン、プシェミスルたちの一行が城に向かってくる。リブシェの喜びの歌。「彼がやって来るわ。そして、私の人生の大きな転機が。我が父クロク王よ、どうぞこの身に御加護を」。続いて、リブシェに仕える侍女たちによるお祝いの合唱。「お二人に幸せを」。

その一方、事件の発端となった一家ではまた悶着が起こる。クルドシュがまた、ごね始めたのだ。「リブシェは、王としての全権を夫に譲ると言わなかったか」。まわりの者たちは叱ったり嘆願したり、何とか彼をなだめようと四苦八苦。

そこへ、すっかりお馴染みになっているファンファーレがひときわ高らかに鳴り響き、婚礼の行列がやって来る。プシェミスルがリブシェと愛の言葉を交わし、王位就任宣言を行なう。そして新しく王となった彼は、リブシェを傷つけた裁判の一件に言及する。それを受けてクルドシュは、男としての自身の矜持(きょうじ)を述べた後、リブシェへの謝罪の意志を態度で示す。新王プシェミスルが、「そなたの名誉が土にまみれることはない。我が抱擁を受けよ」とクルドシュに告げると、全員による喜びの合唱が始まる。

―この続き、全曲の最後を締めくくる第3幕第6場「リブシェの予言」については、次回。また、次回は枠に余裕が出来るので、スメタナが書いたオペラの中でおそらく最もポピュラーな物と言ってよいであろう<売られた花嫁>について、少しだけ触れる予定である。LP時代から愛聴してきたルドルフ・ケンペの指揮によるEMI盤の演奏について、ごく短い感想文を書いてみようかと考えている。
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ブロウの<ヴィーナスとアドニス>

2006年08月17日 | 作品を語る
今回は、パーセルの歌劇<ディドーとエネアス>(1689年)の先駆的作品と見られるジョン・ブロウ(1649~1708)作曲による<ヴィーナスとアドニス>(1681年)についてのお話。この作品の原典となっているのは、ギリシャ神話に見られるアドニスの物語である。この美青年の誕生から死に至るまでの経緯と、女神ヴィーナスとの関わりについては次回独立したトピックで改めて扱うことにして、今回はジョン・ブロウが書いた<ヴィーナスとアドニス>について、まずちょっと語ってみたいと思う。

このブロウ作品の全曲録音は現在数種類あるようだが、私がこれまでに聴いたのはそのうちの2種。フィリップ・ピケット指揮ニュー・ロンドン・コンソート、他による1992年のオワゾリール盤と、ルネ・ヤーコプス指揮エイジ・オブ・エンライトゥンメント管、他による1998年のHM盤である。いずれも古楽器派のメンバーによるものだが、それらの演奏や解釈にはやはり少なからず相違点がある。以下、これら二つの名演奏を聴き比べながら、この「イギリス音楽史上、ひょっとしたら最初に産み出されたオペラ作品」について見ていきたい。

〔 序曲とプロローグ 〕

パーセルの<ディドーとエネアス>同様、ブロウの<ヴィーナスとアドニス>もフランス風序曲で開始される。これは、「荘重な出だしに、リズミカルな舞曲が続く」というパターンを持った序曲である。それに続くのは、キューピッドの前口上と羊飼いたちとのやり取り。

(※先に録音されたピケット盤では、リビー・クラブトゥリーというソプラノ歌手がキューピッドを歌っている。しかしこの人の声は決して“貫禄たっぷりのオバサマ・ソプラノ”ではなく、どこかボーイ・ソプラノ的な清澄さを持ったものだ。だから、キューピッド役に違和感なくはまっている。柔らかくて美しい仕上がりの合唱ともども、彼女の歌はしっとりとした心地よいプロローグを楽しませてくれる。一方、ヤーコプス盤でキューピッドを歌っているのは、カウンター・テナーのロビン・ブレイズ。輪郭のくっきりしたメリハリのある指揮に合わせて、ブレイズの歌も明瞭で押し出しのよいものになっている。)

〔 第1幕 〕

うっとりして長椅子に寝そべるヴィーナスとアドニス。やがて狩の音楽が聞こえてくる。アドニスは、「今日は、狩りには行かない。獲物はもう手にしたから、あなたと過ごしたい」と言うが、ヴィーナスは、「狩りにお行きなさいな」と、彼を促す。やがて、狩人たちがやって来る。

(※第1幕の導入になっている間奏曲は、リコーダーによるアンサンブルである。ピケットの解説によると、リコーダーという楽器の音は、「愛欲のシンボリズム」として使われていた面があるらしい。R・シュトラウスの<バラの騎士>のはるかな御先祖とも言えそうな冒頭シーンだが、音楽はさすがに素朴なものだ。ピケット盤の演奏はプロローグ同様ここでもしっとりとして、何だか寂しいぐらいのムードを漂わせている。ヤーコプス盤は逆に、くっきりと分離のよい明瞭な演奏。)

〔 第2幕 〕

ヴィーナスとその息子キューピッドの対話。続いて、キューピッドが幼いキューピッドたちに言葉を教える授業風景。その後、ヴィーナスがキューピッドに話しかける。「アドニスが心変わりしないようにするには、どうしたらいい?」「彼を冷たくあしらうのです」「まあ、アハハハ」。最後は、ヴィーナスに呼ばれた美の女神たちの合唱と、各種の舞曲。

(※ここでは特に、幼いキューピッドたちのレッスン風景が楽しい。難しい単語を音節ごとに分けて先生が発音し、それを生徒たちがついて真似するという学習パターンをやっている。これは実際に、17世紀イギリスの教科書で勧められていた教授法らしい。この場面は、ヤーコプス盤が笑える。幼いキューピッドたちを演じているのはクレア・カレッジ聖歌隊のメンバーということだが、ここに出演している子供たちの平均年齢はかなり低そうだ。あどけない愛くるしさに満ち溢れている。日本で言えば、音羽ゆりかご会みたいな感じだろうか。ちょっと反則じゃないの、と言いたくなるほどの可愛らしさだ。一方のピケット盤では、ウェストミンスター大聖堂聖歌隊のメンバーが演じている。こちらはぐっと大人っぽい。この両者を比べるとやはり、「ゆりかご会」の方が楽しくてほほえましいので、ややポイント・リード。)

〔 第3幕 〕

狩りの最中イノシシに激しく突かれ、瀕死の重傷を負ったアドニスが運ばれてくる。ヴィーナスの嘆きも虚しく、アドニスは彼女の腕に抱かれて息を引き取る。ヴィーナスの嘆きと、それに続く悲しみの合唱で終曲。

(※ブロウ作品で使われる楽器の中では、やはりリコーダーに特別な意味があるようだ。演奏家によって、はっきりと扱い方に違いが見られる。ピケットは、「リコーダーの音には、愛とは別に霊界を象徴する役割もあった」として、アドニスが死んだ後に流れるリトルネッロにリコーダーを採用している。しかしヤーコプスは、そのようにはしていない。逆に彼は、第2幕の冒頭にある間奏曲や、この第3幕を導く間奏曲で、リコーダーを強く前面に押し出すという使い方をしている。)

(※当作品の最大の聴きどころは何と言っても、この第3幕でのヴィーナスの嘆きである。残念ながら、これはアリアのレベルにまでは高められておらず、「悲しむヴィーナスと、死にゆくアドニスの対話」という形で書かれているのだが、アドニスに必死に呼びかけるヴィーナスの悲しい叫びは時空を超えて、現代の聴き手にも激しい慟哭として迫ってくる。ちなみに今回扱っているCDでヴィーナスを歌っている歌手としては、ヤーコプス盤のローズマリー・ジョシュアが圧倒的に素晴らしい。これは、入魂の名演だ。逆にピケット盤の良いところは、弦とチェンバロが描くアドニスの厳粛なる死の場面と、それに続くリトルネッロである。これほど見事な器楽演奏は、ヤーコプス盤では聴くことが出来ない。また、全曲を締めくくる最後の合唱も、どちらかと言えばピケット盤の方が、聴く者の心により強く響く力を持っているように感じられる。)

―さて、今回このブロウ作品について、「イギリス音楽史上、ひょっとしたら最初に産み出されたオペラ作品」という書き方を冒頭でしたのだが、その“ひょっとしたら”という部分についての補足を最後にしておきたい。

この作品の楽譜には、「国王の娯楽のためのマスク(=仮面劇)」という肩書きが付いているらしい。マスクというのは大体セミ・オペラに近いものと考えてよいようだが、ブロウ作品の内容を見ると、実質的に独立したオペラと見なすことも不可能ではなさそうなのである。ピケット盤の解説書によると、まずこの<ヴィーナスとアドニス>は、「セリフを一切使わず、すべて歌で通される作品としてイギリスで最初のもの」であることが指摘出来るそうだ。さらにヤーコプス盤の解説書には、「パーセルの<ディドーとエネアス>同様、小規模ではあるが、これはまぎれもなく純粋なオペラである」とはっきり書いてある。また、作曲年代順と双方の類似点から見て、このブロウ作品が<ディドーとエネアス>の直接的なモデルになっていた可能性も十分あるらしい。ただ、素人の私にはそのあたりについての結論は何も自信を持って出せないので、「これはひょっとしたら、イギリスが産んだ最初のオペラ作品と見てもいいのかな」というような気持ちを、上のような書き方で表現したわけである。

―次回は、ブロウ作品の原典となっているギリシャ神話の『アドニスの物語』に触れてみたい。
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