クラシック音楽オデュッセイア

2009年の大病以来、月1回程度の更新ペース。クラシックに限らず、身の回りの事なども、気の向くままに書いております。

歌劇<三つのオレンジへの恋>(2)

2007年05月27日 | 作品を語る
前回の続きで、プロコフィエフの歌劇<三つのオレンジへの恋>の後半部分。

〔 第3幕 〕

魔法使いチェリオが現われ、悪魔ファルファレッロ(B)を呼んで問いただす。「あの二人は、どこへ行った」「あいつらなら、俺が風の力で魔女クレオンタの城まで送り届けてやったぜ」「それは、二人の死を意味するのだぞ」「そのつもりでやったのさ」。ファルファレッロの態度に怒ったチェリオは彼を制しようとするが、魔法が効かない。「お前は、ファタ・モルガーナとのトランプに負けた。だからもう、お前の力など全然効かないんだよ。ハーッハッハッハ」と高笑いして、ファルファレッロは去ってゆく。

そこへ、王子とトゥルファルディーノがやって来る。チェリオはトゥルファルディーノを呼び止め、助言を与える。「王子が目指すオレンジは、魔女の城の台所にある。しかし、そこには恐ろしい料理女がいる。この魔法のリボンを持っていくがよい。役に立つと思う。そしてオレンジを手に入れることが出来たら、近くに水のあるところで切るのだ。そうしないと不幸なことになる」。やがて城に着いた二人は早速台所に忍び込むが、やはりそこには恐ろしい料理女(B)がいた。彼女に見つかったトゥルファルディーノが、必死に対応する。しかし、彼が持っていた魔法のリボンに惹きつけられた料理女は、それを手にするや、すっかりおとなしくなる。そうこうしている隙に、王子は首尾よく三つのオレンジを手に入れる。

(※ここに登場する料理女はバス、またはバリトン歌手の担当。つまり、男が演じる大女である。ナガノ盤では、この役をヴェテラン歌手のジュール・バスタンが演じている。この人の名に親しみを感じる方はおそらく、かなり熱心なフランス・オペラのファンじゃないかと思う。有名作品の録音では、ミシェル・プラッソンの指揮によるマスネの歌劇<ウェルテル>での法務官、あるいはアラン・ロンバールの指揮によるオッフェンバックの<ペリコール>でのアンドレスといったあたりが代表的な名演として挙げられるものだろう。この二つはバスタン氏の名唱のみならず、演奏全体としても非常に優れたものだ。他にも、フランス系のちょっとマニアックなオペラ、あるいはオペレッタの録音を渉猟すると、しばしばバスタン氏の名に遭遇する。今私が持っているCDから抜き出してみると、上と同じロンバールの指揮によるオッフェンバックの<美しきエレーヌ>でのアガメムノン、ロジェ・ブトリーの指揮によるマスネの歌劇<聖母の曲芸師>でのボニファス、ユリウス・ルーデルの指揮によるマスネの歌劇<サンドリヨン>でのパンドルフ、マルク・スーストロの指揮によるオーベールの歌劇<フラ・ディアヴォロ>でのマッテオ、あるいはエドガー・ドヌの指揮によるグレトリーの歌劇<獅子王リチャード>での農夫、といったものがある。目立たないところで何気なく活躍している、ベルギー生まれの名脇役である。そう言えば、ジェームズ・レヴァインの指揮によるストラヴィンスキーの<エディプス王>で務めていた語り役も、まさに究極のスタンダードと言えるような名演だった。)

三つのオレンジは時間が経つにつれ、どんどん大きくなってくる。それを必死で引っ張りながら砂漠を進む二人だったが、ついにくたびれて座り込む。王子は眠気を訴えて、そのまま寝入ってしまう。のどの渇きに耐えかねたトゥルファルディーノが一つのオレンジを切ると、その中から王女が現れる。「私はリネッタ。ねえ、お水をちょうだい。のどが渇いて死にそう」。砂漠の真ん中で途方にくれたトゥルファルディーノがもう一つのオレンジを切ると、そこから別の王女が現れる。「私はニコレッタ。ねえ、お水をちょうだい」。結局二人の王女は、渇きのためにすぐ死んでしまう。トゥルファルディーノは眠っている王子を置いて、一目散に逃げ出す。

やがて目を覚ました王子が、残った一つのオレンジを切ってみると、王女ニネッタが現れる。彼女もまたのどの渇きを訴えて苦しみだすが、舞台脇の合唱団が、「水がほしいんだってよ。助けてやろうぜ」とささやき、メンバーの一人が水を持って出て来る。助かったニネッタと王子はお互いに喜び結婚を誓うが、「ちゃんとした服が着たいわ。持ってきて」という彼女のおねだりを聞いて、王子は一人で城に向かう。その直後、ニネッタは魔女の召使スメラルディーナに襲われ、魔法の針によって鼠に変えられてしまう。そして魔女ファタ・モルガーナが現れ、「お前が、その王女になりすましなさい」とスメラルディーナに命じる。

有名な『行進曲』とともに、王子と国王、側近のパンタロン、他一同がやってくる。「これが僕の結婚相手です」とうれしそうに父親に紹介する王子だが、そこにいたのはスメラルディーナ。王子はびっくりして否定するが、「王家の人間に二言があってはならぬ。お前は、この娘と結婚するのだ」と、王は厳しく命令する。愕然とする王子。「オレンジが腐っておったわな」と、ニヤニヤ笑いする大臣と王女。

(※前回も軽く触れたが、魔女の召使スメラルディーナは黒人娘というのが元々の設定である。ナガノ盤でも、そのような感じの女性歌手が演じている。しかし、2004年度のプロヴァンス・ライヴの演出では、「黒人の奴隷」という差別的イメージを避けるためか、ロシア系の女性歌手がそのままの肌色で演じている。)

〔 第4幕 〕

チェリオとファタ・モルガーナが、お互いをののしり合う。「針なんぞを使いおって」「あんたこそ、リボンなんか使って。安っぽい手品師」。やがて、チェリオは以前トランプで負けている弱みを突かれ、魔女に負けそうになる。そこへ合唱団のメンバーが出て来て、彼を助ける。

婚礼の行列がやって来る。ガックリとうなだれている王子。そこに突然大きな鼠が出現して一同大騒ぎとなるが、頼もしげに登場したチェリオが魔法の力で鼠を元のニネッタに戻す。美しい王女の出現に誰もがため息をつき、王子も、「この人だよー」と喜色満面。ようやく国王も、事の次第を理解し始める。「なるほど。これは、レアンドルとクラリーチェの陰謀だったんだな。奴隷娘のスメラルディーナも加わって。・・・この三人を絞首刑にする!ロープを用意しろ」。逃げ出す三人を、衛兵たちが追う。そこへファタ・モルガーナが現われ、三人を引き連れて地底へと消えていく。その後、残った人々が王子と王女の結婚を祝う喜びの合唱を響かせるところで、全曲の終了。

(※プロヴァンス公演では、全曲終了後にカーテン・コールの映像が続く。で、これがなかなか楽しい。恐ろしげなメイクで舞台を縦横に駆け回っていた合唱団のメンバーも、派手なコスチュームでギンギラギンに演じていた歌手たちも、皆ニコニコと微笑んでうれしそうに拍手を受けている。いい光景だなあ、と見ていて何だか嬉しくなる。しかしまあ、プロコフィエフの舞台作品というのは、映像が必要だなあとつくづく思う。バレエ音楽<ロミオとジュリエット>や<シンデレラ>など、特にそうである。これらの作品は舞台映像を見て初めて、その良さが実感できたものだ。オペラも全く同様で、<炎の天使>の全曲を以前ゲルギエフのCDで聴いた時など、「これほど面白い台本に、何でこんなつまらん音楽がつくんだかなあ」と、途中でげんなりしてしまったものである。それなども、舞台映像を観たら随分印象が変わるんじゃないかと思う。)

(PS) 魔女ファタ・モルガーナについて

今回は枠に余裕があるので、またちょっと薀蓄話。このオペラに登場するファタ・モルガーナという魔女の名前は、『アーサー王伝説』に出て来る魔女モーガン・ル・フェイのイタリア語版である。佐藤俊之氏、他による『アーサー王』(新紀元社・2002年)の60ページ以降に、この謎めいた女性についての分かりやすい解説が載っている。その部分を短く編集してみると、おおよそ以下のような感じになる。

{ モーガンは、アーサー王の異父姉。アーサーの父親に自分の父を殺され、母を略奪されていたモーガンは、当然のことながら、アーサーを憎む。しかし同時に、彼が持つ純粋さや誠実さ、勇敢さや思慮深さに、彼女は惹かれる。・・・モーガンはあの手この手を使ってアーサーを苦しめようと謀るが、失敗し続ける。しかしやがて、湖の騎士ランスロットと王妃グィネヴィアの不倫が明らかになって、アーサーの王国は分裂。彼女が重ねてきた陰謀によって円卓の騎士たちにも不安が生じ、事態は修復不能なものになっていく。・・・死にゆく王をアヴァロンの島に運びながら、彼女はついに憎しみや嫉妬、あるいは孤独や自己嫌悪といったものから解放される。そして一人の女性として、彼と永遠に暮らす妖精の国へと向かうのである。 }

また、リチャード・キャヴェンディッシュ原著による『アーサー王伝説』(晶文社・1983年)の183ページには、次のような記述が見られ、妖姫モーガン・ル・フェイの象徴的な意味が考察されている。

{ 大部分の物語でモーガンは、女性というものの邪悪を恐れる、男性の古い根深い恐怖の化身みたいなものである。・・・女の邪悪は、男から支配権を奪回し男性を完全な屈従下に置こうとする女性の飽くなき性的欲望につながっている。 }

上のような見方に則るなら、『三つのオレンジへの恋』に於いて男の魔法使いチェリオを屈服させる魔女の名前として、ファタ・モルガーナはこよなく相応しいものだったようにも思えるのだが、作者ゴッツィが意図したものは果たして何だったのだろうか。なお、このファタ・モルガーナという名前は、イタリアのメッシナ海峡で目撃される蜃気楼を表す言葉として一般化しているようである。手持ちの伊和中辞典を調べてみたら、そのような意味が出ていた。
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歌劇<三つのオレンジへの恋>(1)

2007年05月21日 | 作品を語る
前回まで語った「ラフマニノフの三つの歌劇」から「三つの」という部分を引き継いで、プロコフィエフの歌劇<三つのオレンジへの恋>(1921年・初演)に話を進めてみることにしたい。参照演奏はいずれも映像ソフトで、下記の2種。

●ケント・ナガノ指揮リヨン歌劇場管、他【フランス語版】 (1989年)
●トゥガン・ソキエフ指揮マーラー室内管、他【ロシア語版】 (2004年)

―歌劇<三つのオレンジへの恋>のあらすじ 

まず、いくつかのグループに分かれた合唱団によるプロローグ。「喜劇を見せてくれ」「いや、悲劇がいい」「愛の物語をやって」と、それぞれが観たいものを要求してやり合う。一連の騒ぎの後、<三つのオレンジへの恋>が演じられると宣言され、本編が始まる。

〔 第1幕 〕

舞台は、架空のトランプの国。クラブの王様(B)は、王子(T)の重い鬱病に心を痛めている。医師たちも口を揃えて、「治りませんね」と絶望視。何とか王子を笑わせて鬱状態から救い出そうと、王は側近のパンタロン(Bar)と相談し、宴の席を設けることにする。そしてその主催者として、お笑い芸人のトゥルファルディーノ(T)が呼ばれる。

(※ケント・ナガノが清新な指揮ぶりを披露するリヨンでの映像は、観客を前にしての公演ライヴではなく、スタジオ撮影によるものだ。白い板壁が背景を作る極めてシンプルな演出である。登場人物たちもスーツやドレスなどで正装し、すっきりスマートないでたちをしている。歌詞がフランス語版ということも手伝ってか、演奏自体も非常に洗練されたモダンな印象を与える。ただ、正直に言うと、この演出はちょっとクール過ぎるようにも感じられてしまう。なお、ここで王様を演じているのは、フランスの名バリトン歌手ガブリエル・バキエ。まさに長老の貫禄といった感じだ。)

(※一方、2004年7月に行われたエクサン・プロヴァンス公演のライヴでは、かなり鮮烈な演出が見られる。手短に言えば、ド派手で刺激的な舞台になっているのだ。例えば、プロローグに登場する合唱団のメンバーたち。どこかの軍事国家の親衛隊だか秘密警察だかみたいな格好で整列する者あり、黒い革のボンデージ・ファッションで身を固める者あり、あるいはパンク・ファッションに身を包んだ者ありと、この映像を初めて目にする保守的なクラシック・ファンにとっては相当ショッキングな姿で登場する。個人キャラでとりわけ強烈なのは芸人のトゥルファルディーノで、これが思いっきり、「おかまバーの○○ちゃんで~す」という感じのごつい大男。さらに彼の仲間たちも、ドリフがコントでやっていたカミナリ様みたいな格好をしている。ちなみに演出家は、フィリップ・カルヴァリオという人。どうも、ただ者ではないようだ。歌手陣はロシア系のメンバーが勢ぞろいして、歌詞もロシア語。トゥガン・ソキエフという指揮者の音作りもまた、ロシア・ソヴィエト系のサウンド。これを聴くと、「やっぱりプロコは、ソヴィエトの作曲家なんだよなあ」と、妙に納得させられる。)

場面変わって、地下キャラクターの世界。二人の魔法使いが大きなトランプ勝負の真っ最中。クラブの王様を守る魔法使いチェリオ(Bar)と、敵対する魔女ファタ・モルガーナ(Ms)が争っている。勝負は、魔女の勝ち。この負け以来、チェリオは彼女に対して弱い立場に置かれてしまうことになる。

(※ここでも、カルヴァリオ氏の演出は刺激的だ。チェリオを善玉、ファタ・モルガーナを悪玉としてはっきり印象づけるため、それぞれの部下たちに笑ってしまうほど対照的な格好をさせている。チェリオの部下たちは、白いロマンティック・チュチュを着て背中に羽のついたシルフィードの姿。一方、ファタ・モルガーナの部下たちは、黒い革のボンデージ・ファッションで固めた「ハード・ゲイで~す」みたいな姿。しかしまあ、何という対比のさせ方だろう・・。)

次に出て来るのは、次期王位を狙う大臣レアンドル(Bar)と王女クラリーチェ(Ms)の密談場面。「王子の食事に、退屈な韻文を混ぜて食べさせます。ひどく古めかしい文体なので、ヤツはそれがもとで退屈死するでしょう」と言う大臣に対し、「生ぬるいわね。アヘンか銃弾を食らわせて、あっさりやっちゃいなさいよ」とけしかける王女。

(※ナガノ盤の大臣と王女は、黒のスーツ、またはドレスでびしっと決めたスマートな悪役。一方、プロヴァンス・ライヴでの彼らは、映画か漫画のキャラクターみたいだ。特にレアンドルの風貌は、どこかで見たことあるぞという感じ。黒いアイ・パッチをしたエルヴィス・プレスリー?いや、『X-メン』にこんなのがいたような・・。違う、違う、この髪型は『ロッキー4』に出てきたドラコだ。何でもいいや。w で、面白いのは、見た目コワモテの大臣が妙に軟弱で、王女に襟首引っつかまれて振り回され、へたへたと座り込んじゃったりするという設定である。このエルヴィス?大臣、私は結構許せる。w )

病みつかれた様子の王子が登場。彼を笑わせてやろうというトゥルファルディーノの努力もむなしく、王子はひたすら憂鬱の苦しみを訴えるばかり。しかし、有名な『行進曲』が聞こえてくると、トゥルファルディーノの表情はパッと明るいものに変わる。「王子、楽しい宴会が始まりますよ。さあ、行きましょう」と、彼はいやがる病人を腕ずくで引き立て、宴の場へと向かう。

〔 第2幕 〕

王宮の外庭。宴の場。王子を笑わせようと、芸人たちが次々と出てきては芸を披露する。しかし、どれもこれも、つまらないものばかり。王子はますます、鬱状態に陥ってしまう。トゥルファルディーノも途方にくれて、落胆の表情。そこへ、魔女ファタ・モルガーナが出現。「このあたしがいる限り、王子は笑わないよ」。レアンドルとクラリーチェは、喜んで彼女を迎える。その直後、彼女を追い出そうとしてつかみかかってきたトゥルファルディーノともみ合いになり、魔女はすってんころりんしてしまう。それを見た王子は、「ハハハハハ、この婆ちゃん、面白い」と大笑い。国王はじめ、一同もそれを見て大喜び。怒り心頭の魔女は、「お前は、三つのオレンジに恋をする。オレンジを追い求めてさまようのだ」と、王子に呪いをかけて去って行く。呪いの効果は、すぐに現れる。王子は、「魔女クレオンタの城に、三つのオレンジの姫が捕えられている。助けに行くぞ」といきり立つ。「魔女の城へ行くということは、死ぬことを意味するのだぞ。お前には、この王国を引き継ぐという大事な務めがあるのだ」と必死に止めようとする父親を振り切り、王子はトゥルファルディーノを連れて旅立って行く。

(※今回の締めくくりは、薀蓄話。このオペラの原作を書いたのは、カルロ・ゴッツィという人物である。彼は、当ブログでも以前扱ったことがある有名な歌劇<トゥーランドット>の原作を書いていた人でもある。この<三つのオレンジへの恋>について興味深いのは、現在いくつかのネット・サイト上でも触れられている通り、モーツァルトの歌劇<魔笛>との関連性が見出せることだ。

姫を救い出そうと魔女の城に向かう王子と、彼のお供をするひょうきん者のトゥルファルディーノというコンビは、ちょうど<魔笛>に於けるタミーノとパパゲーノを思わせるものがある。また、正義の側に立つ男の魔法使いチェリオと、悪の魔女ファタ・モルガーナの関係は、ザラストロと夜の女王の関係に相当するようにも見えるというわけである。さらに、次回活躍する魔女の召使いスメラルディーナが黒人娘であるという設定は、モノスタトスの原型になっているものとも取れる。

そこで考えられるのは、ゴッツィによる『三つのオレンジへの恋』を読んだシカネーダーが、歌劇<魔笛>の台本を書いた時に、そこからいくつかのアイデアを借用させてもらっていたのではないか、ということである。)

―この続きは、次回。
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ラフマニノフの三つの歌劇(2)~<けちな騎士><フランチェスカ・ダ・リミニ>

2007年05月13日 | 作品を語る
前回からの続きで、ラフマニノフが書き上げた三つのオペラのお話。今回は、残りの二つについて。

2.歌劇<けちな騎士> (1904年)

このオペラも前回語った<アレコ>同様、A・プーシキンの原作による短編歌劇である。演奏時間はやはり、1時間弱。以下のような3つの場で構成されている。

●第1場・・・守銭奴として悪名高い男爵を父に持つ若者アルベルト(T)が、自分のみじめな貧乏生活を嘆く。「あのケチ親父め、少しは貧しい息子を助けてくれたっていいだろうによ」。彼のもとを訪れたユダヤ人の金貸し(T)も、「少しは返済していただかないと、こっちも破産ですよ」と、新たな融資には及び腰の態度を見せる。そして、「何でしたら、いい薬を作れる知り合いを、あなたにご紹介しますよ」と、男爵毒殺をほのめかすような提案をする。アルベルトは、「この俺に父親を殺せと言うのか!冗談じゃない」と、金貸しを家から追い出す。その後悩みぬいた彼は、「大公殿下にお願いして、仲立ちをしてもらおう」と出掛けていく。

●第2場・・・暗い地下室に、男爵(B)が一人で下りてくる。ここは、彼の宝物倉。それまでに貯め込んだ莫大な財宝を眺めながら、彼はほくそ笑む。自分がどれほどの思いをしてこれだけの財産を作ったか、どれほどの人を苦しめながらこれだけの物を得てきたか、男爵は一人で延々と語り続ける。そして自分が死んだ後も、この宝箱の上に座って財宝を守り続けたいと語る。ラフマニノフの暗く重厚な音楽が、男爵の異様な情念をドロドロと描き出す。

●第3場・・・アルベルトの訴えを聞き入れた大公(Bar)が男爵を城に呼び、彼の言い分を聞き始める。父親の口から出る辛らつな言葉を隣の部屋でじっと聞いていたアルベルトだったが、「あのろくでなしは、わしを殺そうとしておるのです」とまで言われ、ついに我慢できなくなって男爵の前に飛び出す。男爵は驚くが、その勢いは止まらず、とうとう息子に決闘を挑む。大公の指示でアルベルトはその場から退出させられるが、残った男爵は興奮が極限にまで達し、ついに苦しみだしてその場に崩折れてしまう。しかし、彼が死ぬ間際に口にした言葉は、祈りでも懺悔でもなかった。「わしの鍵はどこじゃ。宝箱の鍵・・」。最後の最後まで自分の財宝に執着し続けた男爵の姿に、大公は唖然とする。

―このオペラの全曲盤としては、N・ヤルヴィの指揮によるグラモフォン録音(G)が、現在入手容易である。演奏はさすがにこの指揮者らしい充実した響きの好演だが、男爵を演じるセルゲイ・アレクサーシキンの歌唱ともども、もう少しデモニッシュ(=悪魔的)な迫力がほしいようにも思われた。なお、ヤルヴィ盤の解説書には、作曲者のバイロイト体験がこの作品の音楽に色濃く反映されていることが述べられている。また、このオペラは2004年7月のグラインドボーン音楽祭でも採りあげられ、そのライヴ映像がNHK-TVで昨2006年に放送された。そこで男爵を演じていたのは、すっかりおなじみのセルゲイ・レイフェルクス。彼の声がハイ・バリトンであることとバランスをとるためか、大公を演じる歌手の方がバスになっていた。このライヴもかなりの好演で、特にレイフェルクスの風貌は最高だった。いかにも金の亡者といった感じの醜悪な老人の姿を、彼はリアルに表現していた。俊英ウラジーミル・ユロフスキの指揮によるロンドン・フィルの演奏も秀逸。(※ついでながら、同時上演されたプッチーニの<ジャンニ・スキッキ>も大変に優れた出来栄えで、とりわけタイトル役を演じるアレッサンドロ・コルベッリには、往年のティト・ゴッビの名演をふと連想してしまったほどであった。)

3.歌劇<フランチェスカ・ダ・リミニ> (1906年)

当ブログではかつて、リッカルド・ザンドナイによる同名の歌劇を語ったことがある。しかし正直に打ち明けると、その当時はまさか、ラフマニノフに同じ題名のオペラがあるとは知らなかった。これもまた短編歌劇で、演奏時間はやはり1時間弱である。原作は有名なダンテの『神曲』で、台本はモデスト・チャイコフスキー。構成は以下の通り。

●プロローグ、第1部・・・ダンテが案内役であるウェルギリウスに導かれ、地獄を訪れる。いかにもラフマニノフらしい、重厚で陰鬱な音楽が流れるところ。

●第2部・・・やがて二人は、強い風と苦悶の叫び声に襲われる。「ここは、理性が情欲に負けてしまった者たちの魂が住まうところだ」と、ウェルギリウスが言う。そこでダンテは、強く抱き合う男女の姿を見つける。フランチェスカ・ダ・リミニ(S)とパオロ・マラテスタ(T)である。彼らの最大の悲しみは、“悲惨な状況の中で、昔の幸福な日々を思い出すこと”だった。

●第1場・・・ランチェオット・マラテスタ(B)は教皇に敵対する者たちとの戦いで活躍し、枢機卿たちに乞われて次の戦に備えていた。しかし、彼の心は今、別の問題に苦しんでいる。妻であるフランチェスカを巡る嫉妬である。彼女との結婚を決める時、彼は弟のパオロを求婚役に送ったのだが、フランチェスカは勘違いしてそのパオロを結婚相手だと思って承諾していたのである。足が悪い自分の妻になった後も、彼女はパオロと心を通じ合っているのではないかと、ランチェオットは苦悩の只中にあった。そこで彼は、一つの罠を仕掛けてみることにする。「俺の留守中は、パオロのところに身をおくがいい」と妻のフランチェスカに命じ、その後の二人の様子を見てみようというのである。

●第2場・・・フランチェスカが、『アーサー王伝説』の中にある「騎士ランスロットと王妃グィネヴィアの不倫物語」を読む。その物語と自分たちの状況を重ね合わせながら、パオロがフランチェスカに愛を告白する。彼女は最初それを拒否するが、パオロの接吻を受けるや、抵抗する力を失う。その至福の瞬間、ランチェオットの剣と呪いの言葉が、愛し合う二人を打ち倒す。二人の悲鳴が、他の亡者たちのうめき声と混じりあう。

●エピローグ・・・地獄の亡者の群れが、ダンテとウェルギリウスの周りを行き交う。ダンテは果てることのない悲しみに沈んで、じっと黙っている。瞬間が永遠になる。望まれたように。しかしそれは、永遠に続く責め苦であって、永遠の至福などではない。「悲惨な状況の中で昔の幸福な時代を思い出すこと、これほどつらいことはない」。

―上記の概略は、ヤルヴィ盤の英文解説に私が拙い抄訳を試みたものである。不正確な部分は、何とぞご容赦。そのヤルヴィ盤で主役のランチェオットを演じているのも、またまたセルゲイ・レイフェルクス。ここでもよく歌ってはいるのだが、ナクソスのハイライト盤でも聴ける通り、やはりこの役はバス歌手にお願いしたいところだ。ラフマニノフがこのオペラのために書いた音楽としては、地獄の風景を描く上で効果的に利用されているヴォカリーズの合唱や、パオロとフランチェスカの愛の場面などに聴きどころが感じられるものの、全体的な聴後感としては<アレコ>や<けちな騎士>ほどの感銘は残らない。(※ちなみに上述のナクソス・ハイライト盤には、<けちな騎士>については第3場のやり取りが、<フランチェスカ・ダ・リミニ>については第2場と終曲部分が、それぞれ収められている。最も有名な<アレコ>については、主要な楽曲がほぼ一通り演奏されている。)


―以上で、「ラフマニノフの三つの歌劇」は終了。なお、ラフマニノフには断片だけが遺されたオペラがまだ他にあるようなのだが、今回は完成された三作のみを採りあげることにした。
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ラフマニノフの三つの歌劇(1)~<アレコ>

2007年05月07日 | 作品を語る
前回まで語ったチャイコフスキーの<エフゲニ・オネーギン>からのつながりで、今回と次回は、「ラフマニノフの三つの歌劇」についてのお話。まずは、有名な<アレコ>から。これは、A・プーシキンの『ジプシーたち』を原作とする1時間弱の短編歌劇だが、当時音大生だったラフマニノフが卒業制作として書いた物らしい。しかしその内容を見ると、“学生の創作”というレベルを遥かに超えた堂々たる作品に仕上がっている。

1.歌劇<アレコ> (1893年)

―歌劇<アレコ>の前置き

時代は19世紀。帝政ロシアの末期。青年貴族アレコは自分を取り巻く社会や都会での生活に嫌気がさして、放浪の旅に出る。その道中で知り合ったジプシー娘のゼムフィーラと恋に落ち、やがて彼女と一緒になってジプシーたちと暮らすようになる。オペラで描かれるのは、その後に起こった悲劇である。

―歌劇<アレコ>のあらすじ

ジプシーたちの集落。夜。自由な生活を謳歌するジプシーたちの合唱に続いて、老ジプシー(B)が昔話を始める。「わしの妻は幼いゼムフィーラを残し、ある日突然、他の男と一緒に姿を消してしまった。わしはその時から、女というものが信用できなくなった」。それを聞いたアレコ(B、またはBar)は、「なぜ、その女を追いかけて殺してしまわなかった」と問うが、彼の妻ゼムフィーラ(S)は、「愛は自由なものよ」と反発する。アレコとの間に幼い子供までいるゼムフィーラだったが、彼女の心は既に若いジプシー青年(T)の方になびいていた。ジプシーの女たち、そして男たちの踊りが続く。

場面変わって、若いジプシーとゼムフィーラの逢引。アレコがやって来たので、若者は立ち去る。ゼムフィーラはアレコに対し、もはや愛情など持っていないと告げる。一人になったアレコは、そこで有名なカヴァティーナを歌う。「すべてが寝静まり、月は美しく輝く。俺の心はなぜ、こんなに震えるのか。・・・あんなにも俺を愛してくれたゼムフィーラが、今は冷たくなってしまった」。

間奏曲と合唱に続いて、夜明け間近の情景。駆け落ちしようと相談している若いジプシーとゼムフィーラのところに、アレコが現れる。激昂した彼は若者を殺し、さらに妻ゼムフィーラも殺してしまう。やがて夜が明け、ジプシーたちは凄惨な光景を見て嘆く。老ジプシーが、アレコに告げる。「わしらには、掟など無い。だから、お前を裁いたり罰したりはしない。しかし、人殺しと一緒に暮らすことは出来ない」。ジプシーたちが去り、たった一人残されたアレコは、「この悲しみ!このタスカー(=苦しみ)!俺はまた独りぼっちだ」と叫ぶ。

―歌劇<アレコ>の録音

<エフゲニ・オネーギン>へのオマージュとも取れそうなエンディングを持つ歌劇<アレコ>だが、演奏時間のかからない名作ということもあってか、録音も相当数あるようだ。私がこれまでに聴いたのは、4つの全曲盤と1つのハイライト盤。今回はその中から、それぞれの録音年代を代表するものと思われる3種の全曲録音について語ってみることにしたい。

●N・ゴロワーノフ指揮ボリショイ劇場管、他 (1951年)

ブバアァーッ!と鋭く吹き鳴らされる金管、熱い溶岩流のような弦、ごつごつしたフレージング、などなど、いかにも怪獣(?)ゴロワーノフらしい重量級の演奏である。序盤で聴かれる『ジプシーの男たちの踊り』など、爆発的と言ってもいいような豪演だ。コーラスも、土俗感溢れるパワフルなもの。歌手陣の中では、若きイワン・ペトロフのアレコが聴き物である。バリトーナルな声を活かした端正な歌唱には、強い説得力がある。ゼムフィーラやジプシー青年を演じる歌手がワイルドな表現をするので、元々貴族だったというアレコとの対比感が良く出ている。録音こそ古いものの、このオペラの演奏史を語る上で欠かすことの出来ない記録の一つ。(※現在入手可能なVista Vera盤の同曲CDには、ボリショイではなく、「国立ラジオ・テレビ管弦楽団、合唱団」みたいな表記がなされている。LP時代にはボリショイ劇場管&合唱団で通っていたのだが、実体は何だったのだろう・・。)

●D・キタエンコ指揮フィルハーモニック交響楽団、他 (1987年)

ここでアレコを歌っているのは、エフゲニ・ネステレンコ。声は全盛期のものではないが、歌唱はまあまあの出来。ジプシーたちを演じる他の歌手陣も、総じて優秀。コーラスも上記のゴロワーノフ盤より随分洗練されたものになっているので、一般のオペラ・ファンにも聴きやすいだろう。キタエンコの指揮は、やや硬質な音をオーケストラから引き出しつつ、各楽想を極めて克明且つ丁寧に描き出す名タクト。ゴロワーノフの音を「古い時代のモスクワ風サウンド」と仮に称するなら、キタエンコの音は、「より清新なレニングラード風のサウンド」とでも言えるだろうか。今回並べている3種に限って言えば、これが総合点で一番のCDかもしれない。なお、歌劇<アレコ>には映画版もあるらしいことを最近ネット上で知ったのだが、このキタエンコ盤を音源に使っている可能性がある。

●N・ヤルヴィ指揮エテボリ交響楽団、他 (1996年)

いかにもヤルヴィの指揮によるものらしく、曲の隅々までじっくりと練りこまれた演奏。ハイ・バリトンのセルゲイ・レイフェルクスが演じるアレコをはじめ、ゼムフィーラ、ジプシー青年、老ジプシーら、皆極めて西欧風に洗練された歌唱を聴かせる。随所に出て来るジプシーたちのコーラスに至っては、まるでどこか北欧の合唱団によるリサイタルみたいである。w レイフェルクスの歌唱はとても丁寧で、その意味では好感の持てるものになっているのだが、この役の伝統的な声のイメージからすると、ちょっと軽くて薄すぎる感じがしないでもない。有名なカヴァティーナなど、往年のシャリアピンが遺したヘヴィー級の歌唱と並べたら、まるで違う曲に感じられるほどである。アレコが若者であり、それもインテリの青年だったのだろうと考えるなら、この人のようなアレコも良いだろうとは思うが、私の個人的な趣味ではやはり、もっと深みのある声でじっくりと聴きたいところだ。

なお、このヤルヴィ盤(G)は現在、ラフマニノフが書き上げた三つのオペラをすべて収めた3枚組の全曲セットとして入手することが出来る。輸入盤には残念ながら歌詞対訳が付いていないが、三つの歌劇それぞれについての優れた解説文がある。英独仏語のどれかでも読める方にとっては、これはかなり役に立つ内容を持ったものと言えるだろう。とりあえず<アレコ>について言えば、<エフゲニ・オネーギン>だけでなく、グリンカやボロディン、あるいはムソルグスキーの歌劇と相呼応する箇所が見られることにも言及している。次回扱う二つの歌劇、即ち<けちな騎士>と<フランチェスカ・ダ・リミニ>についても、このヤルヴィ盤付属の解説を利用させていただく予定である。

(PS)

最後に一つ、追加の話。歌劇<道化師>が特に有名な作曲家ルッジェーロ・レオンカヴァッロに、“Gli Zingari”というオペラがある。全曲CDも複数出ているようだ。私は寡聞にして未聴ながら、あらすじを本で見たところによると、これもまたプーシキンの『ジプシーたち』をもとにした作品なのではないかと推測される。なおジプシーという言葉については、現在では「ロマ」という言い方が望ましいものとされているようだが、作品名としては「ロマたち」よりも『ジプシーたち』の方が耳慣れたものなので、当ブログではそれを使用することにした。

【2019年2月4日 追記】

ニコラ・ギュゼレフが歌うアレコのカヴァティーナ(YouTubeより)

この記事を投稿してから、約11年9か月。随分な年月が経ったものだ。当時は未聴だったルスラン・ライチェフの指揮による<アレコ>の全曲録音を先日、(場面ごとに細切れの形ではあるけれども)YouTubeで聴くことができた。タイトル役のニコラ・ギュゼレフが、立派。ゼムフィーラを歌うソプラノ歌手には国際的な知名度はないが、故国ブルガリアの歌劇場ではおそらく、<オネーギン>のタチヤーナを持ち役にしていたのではないかと思われる。声やキャラクター作りが何となく、それっぽい。ライチェフの指揮は堅実で、合唱団も優秀。これはかなり良い演奏なので、動画を1つ、貼ってみることにした。上記のペトロフやネステレンコよりも、こちらのギュゼレフの歌唱を、今は上位に位置づけたい気分である。特に後半部分〔2:36~〕が、情感豊かな名唱。

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<エフゲニ・オネーギン>の歴史的名演(4)

2007年05月01日 | 演奏(家)を語る
今回は、<エフゲニ・オネーギン>の聴き比べ・第4回。最終回である。

7.G・ショルティ指揮CG王立歌劇管、他 (1974年)
【出演: ヴァイクル、バロウズ、クビアク、ギャウロフ、他 】

オネーギン役のベルント・ヴァイクルはオーストリア出身、タチヤーナ役のテレサ・クビアクはポーランド出身、レンスキー役のスチュアート・バロウズはイギリス出身、グレーミン公役のニコライ・ギャウロフはブルガリア出身、そしてハンガリー出身のゲオルグ・ショルティがイギリスのコヴェント・ガーデン歌劇場管を指揮した録音。まあ何とも国際色豊かな布陣だが、一応それぞれのメンバーがそれぞれに役目を果たしているということは、言えると思う。録音もさすがにデッカ、優秀なものである。

ただ、残念ながらこの演奏、私の感覚では、およそ感動などとは縁遠い種類のものであると言わざるを得ない。まず、ショルティの指揮。とりあえずここでは、いつもの“カミナリ大将”的な雰囲気は影を潜めている。それどころか、思いがけないほどに優しく清冽で、さわやかな音楽作りをしている。これには、ちょっと驚きを感じるぐらいだ。しかし、この清涼飲料水みたいな演奏にチャイコフスキー的タスカー(=憂愁)の翳りを見出すことは出来ず、ただひたすら美しい音楽が流れていくばかりなのである。

上述の通り、歌手陣も皆さんそれなりにこなしているということは、確かに言える。でも、それだけなのだ。せいぜい、ギャウロフさんのグレーミン公が同役の代表的名唱の一つに数えられるかな、と思えるぐらい。その他では、チョイ役ながら非常に良い味を出しているミシェル・セネシャルのトリケが好印象を残す、というぐらいしか挙げられない。クビアクのタチヤーナ、バロウズのレンスキー、ともに可もなく不可もなくのレベルで、聴き終えた後に何の感銘も残らない。ヴァイクルのオネーギンに至っては、むしろ腹が立ってくるほどだ。世評は決して悪くないようだが、私には全くいただけない。このバリトン歌手はいったいどういう解釈で、オネーギンという役を歌っているのだろう。「ちょっとニヒルな伊達男」ぐらいにでも思っているのだろうか。馬鹿馬鹿しい。私に言わせれば、この人のオネーギン歌唱は単なる美声の垂れ流しである。(※ヴァイクルは西側のバリトン歌手としては永らく代表的なオネーギン歌いとされていたようだから、他の演奏にもっとましな物があるのかも知れないが・・。)

ところで、このショルティ盤には映像ソフトというのもあって、現在DVDが発売されている。画面では専門の俳優さんたちが演じ、音声にはショルティのデッカ音源を使っているというものだ。曲のあちこちにカットが施されて、全体で20数分ほど演奏時間が短いものになっているが、美しいロケ撮影とすっきりした編集によって、事実上「映画版」と呼んでもいい素敵な作品に仕上がっている。

この映像ソフトは、一見の価値がある。中でも一番讃えられるべきは、俳優さんたちの人選であろう。いずれも他では見たことのない名前ばかりだが、彼らの風貌は皆それぞれの役柄が持つイメージにぴったりである。これには感服させられる。オネーギン、レンスキー、オリガ、ラーリナ夫人、ザレツキー、そしてトリケ、みんな本当に役柄の正統的なイメージを裏切らない顔姿をしている。グレーミン公がちょっと人相悪いかなと思わなくもないが(笑)、まあ、こんなところかも知れない。中でも特に感心したのは、タチヤーナ役の女優さんが全然美人ではないということである。これは素晴らしい。チャイコフスキーによって非常に美化されているタチヤーナだが、プーシキンは、彼女が必ずしも美人ではなかったということを原作の中で書いているのである。

{ ともかく彼女はタチヤーナといった。それでよいではないか。妹の美しさを彼女に求めても無駄だった。彼女が人目を惹くことはほとんどなかった。生真面目で、人見知り、口数少なく控えめな彼女は、森に住む鹿のように臆病で、家族の内でもどこかよその娘に見えるほどだった。・・・他の子供と遊ぶこともなく、夜更けまで一人、窓辺に座って過ごした。 ―『エフゲニ・オネーギン』~第2章第25節より }

美人で快活だったのは、妹のオリガ。姉のタチヤーナはむしろ「イモねえちゃん」であり、「ちょっと変わったコ」だったのだ。それはさておき、この映像ソフトは、田舎ののどかな田園風景、舞踏会の華やかな光景、あるいは決闘が行なわれる荒涼とした大雪原、といったような魅力的な視覚素材を素晴らしいロケーション撮影によって美しく描き出し、<オネーギン>のドラマがどういう場所でどういう人たちによって演じられていたのかということを、観る者にじっくりと分からせてくれる。そして、このような映像に対しては、ショルティ盤のような無色無臭の蒸留水型演奏の方がかえって邪魔にならなくて良い、ということが言えるかも知れない。完全な全曲収録ではないものの、一度は見ておく価値のあるソフトである。

8.J・レヴァイン指揮ドレスデン国立歌劇場管、他 (1987年録音)
【出演: アレン、シコフ、フレーニ、ブルチュラーゼ、他 】

いよいよ最後は、ジェームズ・レヴァインのドレスデン盤(G)。実はこれについては、1枚物のハイライト盤を聴いただけなので、ごく一部のことしか分からない。当然、その限られた範囲でのことしか書けないわけだが、まあいかにも、この指揮者らしいダイナミックな演奏ではある。何ともたくましくて雄弁で、非常に恰幅の良い音楽が朗々と鳴り響く。たくましいと言っても、先述のロストロポーヴィチとは違い、テンポがきびきびしていて小気味良いのが彼の特長だ。ただし、上記のショルティ盤同様、チャイコフスキー的タスカーはここにも見当たらない。「抒情的情景」と名付けた作曲者の意図はどこかに追いやられ、そこまでやるか、と言いたくなるほどグランド・マナーな演奏をしている。やはり、この人の基本はイタリア・オペラなのだろう。

歌の方も、イタリア風の歌唱が目立つようだ。特に、ニール・シコフのレンスキー。熱唱である。しかし、これが思いっきりプッチーニ風の熱唱なのだ。有名な第2幕のアリア『我が青春の日々は、いずこへ』など、彼の歌は<トスカ>の『星はきらめき』みたいに聞こえる。ミレッラ・フレーニのタチヤーナも同様で、『手紙の場』の後半部分、第3幕の幕切れ場面、ともにレヴァインお得意の爆裂サウンドとあわせてイタリア・オペラ風のグランディッシモな盛り上がり。世評は高いらしいフレーニのタチヤーナだが、それはあくまで、「西側の歌手によるタチヤーナとしては、良い方だろう」というレベルのものだと思う。パータ・ブルチュラーゼのグレーミン公は、有名なアリアを立派な声でじっくりと歌っていて好感が持てる。ただし、これはスタジオの中で録音マイクを前にしてのお手本披露みたいになっているので、もっと情感のこもるライヴ・ステージでの歌唱をあらためて聴いてみたいものである。

一方、このレヴァイン盤の歌手たちの中で思いがけず良かったのが、トマス・アレンのオネーギンだ。思いがけず、などと言ったらご本人に失礼だが、イギリス人のバリトン歌手がこんな立派なオネーギンをやれるというのは、正直言って驚きである。彼が幅広い声の表現力を持っていることは以前から承知していたが、こんなにロシア・オペラ向きの声を出せるとは思ってもみなかった。ロシア語の勉強も良くやっている様子が窺われる。細かい部分での英語訛りは残っているが、全体的にはかなり良い感じのロシア語になっている。往年のP・ノルツォフやAn・イワノフが漂わせていたような、「リシュニー・チェラヴィエクの倦怠感」まではさすがに求められないものの、西側の歌手が歌ったオネーギンとしてはかなりの出来栄えを示したものと言ってよいのではないかと、私は思う。

★以上で、<エフゲニ・オネーギン>は終了。さて、ロシア系のオペラ作品をいろいろと聴いておられる方は先刻ご承知のことと思われるが、ドラマの最後に一人ぼっちで佇み、「このタスカー(=苦しみ)」と叫ぶことになる男が、今回語ったオネーギンの他に少なくともあともう一人いる。

―という訳で次回のトピックは、「ラフマニノフの三つの歌劇」である。
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