クラシック音楽オデュッセイア

2009年の大病以来、月1回程度の更新ペース。クラシックに限らず、身の回りの事なども、気の向くままに書いております。

<エフゲニ・オネーギン>の歴史的名演(3)

2007年04月26日 | 演奏(家)を語る
今回は、<エフゲニ・オネーギン>の聴き比べ・第3回。演奏の番号は最初からの通しで、第6番。

6.M・エルムレル指揮ボリショイ劇場管、他 (1979年録音)
【出演: マズロク、アトラントフ、ミラシキナ、ネステレンコ、他 】

ヴィシネフスカヤよりも少し若い世代のタチヤーナ歌いとして活躍した、タマーラ・ミラシキナの主演による全曲盤。オネーギン役、レンスキー役、ともに前回語ったロストロポーヴィチ盤と共通していて、ユーリ・マズロクとウラジーミル・アトラントフがそれぞれ受け持っている。タチヤーナの妹であるオリガの役も同様で、両盤ともタマーラ・シニャフスカヤが歌っている。やはり1970年代の<オネーギン>と言えば、この人たちが代表的なメンバーだったのだろう。

しかし、タチヤーナ役のミラシキナを本位に考えて評価するなら、この録音はちょっと遅きに失した感がある。これは、彼女にとって大変気の毒なことだったと思う。ミラシキナがタチヤーナの役を歌うようになったのは1957年頃だったそうだが、録音に関してはヴィシネフスカヤに独占されていたようである。その畏怖すべき(?)先輩が政治的な理由で夫のロストロポーヴィチとともに西側に去り、やっとミラシキナにもタチヤーナの録音が回ってきたという流れのようだが、いかんせん、1979年という年度はあまりにも遅すぎた。1934年生まれの彼女は、この当時もう堂々たるヴェテランになっていた。その声には若やいだみずみずしさ(※例えば、映画版<イーゴリ公>でヤロスラブナを歌っていた頃の初々しさ)みたいなものはなく、むしろ円熟味や貫禄で聴かせるようなタイプの歌手になっていたのである。そういう比較になると、前回語ったロストロポーヴィチ盤でのヴィシネフスカヤにはやはりかなわない、という事になってしまう。この名花がもっと若い頃にタチヤーナを録音出来るチャンスがあったらどんなに良かったろうと、残念に思えて仕方がない。(※ひょっとしたら、埋もれたライヴ音源とかがどこかにあるのかも知れないが・・。)

一方、ここでのマズロクの歌唱は、ロストロポーヴィチ盤でのそれよりはずっと出来が良い。特に後半に入るとグングン調子が上がってきて、第3幕ではかなりの熱唱を聴かせてくれる。なるほど、これなら、彼が一時代を画したオネーギン歌手であったというのもうなずける。レンスキーを歌うアトラントフも同様で、ロストロポーヴィチ盤よりもこちらの方が練れた歌唱を示しているように思う。しかし私の感覚では、この人の重くてロブストな声はどうしてもレンスキーのイメージに合わないので、やっぱりダメだ・・。実はこのエルムレル盤では、グレーミン公を歌うエフゲニ・ネステレンコが凄い。これはもう、圧倒的に凄い。その岩石のようにごつい声は往年のピロゴフを思わせ、どっしりと腰を構えた悠々せまらない歌い方はレイゼンを思わせる。こんなメガトン級のグレーミン公は、そうそう他に見当るものではない。この人が歌っている間、何かそこに異次元の世界が出現したような不思議な錯覚を覚えてしまうほどである。

指揮者のマルク・エルムレルは、2000年度に<オネーギン>の映像ソフトも作っている。そちらの出来がどんなものか、私は未視聴なので分からないが、この’79年盤での指揮ぶりははっきり言ってイマイチ。部分的には、いかにもボリショイらしい迫力あるサウンドを聞かせてくれるところもある。しかし、全体的に見ると、どうも音楽が生煮えに聞こえてしまう箇所がやたら多いのである。ちょっと感心しない仕上がりだ。

(PS 1) スヴェトラーノフの<トスカ>全曲(1967年)

ここでいきなり、プッチーニの歌劇<トスカ>。それもスヴェトラーノフの指揮による、恐るべき(?)ロシア語版<トスカ>である。こんなのが何故ここに出て来るかと言うと、実はこの録音でトスカを演じているのが今回話題にしているタマーラ・ミラシキナだからである。これは、全盛期の彼女がいかに素晴らしい声を持っていたか、そしていかに豊かな表現力を備えていたか、ということを如実に物語る貴重な録音である。

スヴェトラーノフの<トスカ>は歌詞がロシア語ということもあって、何とも不思議な感銘を与える演奏だ。しかし、ここには“単なるキワモノ”という一言で片付けるわけにはいかない、堂々たる中身がある。1950年代には、硬い音とぶっきら棒なフレージングによって含蓄の乏しいオペラ演奏をしていたスヴェトラーノフも、この録音を作った頃には別人のように成長していたことが窺われる。彼はオーケストラから充実した響きを引き出しつつ、どっしりした遅いテンポによって非常に濃密な音楽を作り出す。一方で、プッチーニらしい旋律の歌わせ方もちゃんとしているし、フレージングもなめらかだ。へ~、これはなかなか、という感じなのである。勿論、ロシアの演奏家らしい暗い音色や重厚な響きも、期待を裏切らず(?)ちゃんと出てくる。特に、第3幕が出色だ。羊飼いの少年が歌った後に流れる抒情的な音楽こそ思いがけずしっとり奏でるも、『星はきらめき』のメロディが始まるや、異様な重力世界に聴き手を引きずり込む。そしてカヴァラドッシの銃殺刑シーンでブバアァーッ!と鳴り響く金管やラスト・シーンで轟く圧倒的な音響といったあたりに、ロシア系演奏家としての本領を遺憾なく発揮している。

しかし、この録音では、やはりトスカを演じるミラシキナの声と歌唱こそ、最も注目に値するものと言うべきであろう。年代的に見ても、この頃が彼女の全盛期だったと思う。役柄の性格上、激しい表現を要求される箇所が多く、抒情的で優しい場面が少ないのが惜しまれるものの、ここでの彼女は本当に魅力的だ。有名なアリア『歌に生き、恋に生き』も、ロシア語で歌われているためフレージングがちょっと変わっているという面もあるが、ミラシキナの歌自体は非常に優れたものである。マリア・カラスがその悪声によってもたらした不快感とは全く対極にある“耳の喜び”を彼女の声は与えてくれるし、レナータ・テバルディが苦手としていた高音も、ミラシキナは美しくのびのびと聞かせてくれる。だからこそ、思うのである。上記1979年の<オネーギン>録音は、あまりにも遅かった。この<トスカ>をやった頃のミラシキナなら、きっと素晴らしいタチヤーナを記録してくれただろうにと。

カヴァラドッシを歌っているのは、ズラブ・アンジャパリーゼというドラマティック・テナー。当ブログでかつて扱った作品としては、チャイコフスキーの歌劇<イオランタ>の映画版で、ヴォデモンを歌っていた歌手である。映像では専門の俳優さんが演じていたが、歌声はこの人のものだった。この<トスカ>では役柄の性格を反映してか、とんでもなくハイ・テンションな歌を聴かせる。ちょっともう勘弁して、と言いたくなるぐらいに白熱した歌唱だ。w スカルピアを歌っているオレグ・クレノフというバリトン歌手には馴染みがないが、この人もまた、豊かな声量を誇るパワー驀進型だったようだ。ただし、往年のアンドレイ・イワノフほどに魅力的な声の持ち主ではなく、また性格表現の点でもいささか平板な印象を与える人である。その点がちょっと、残念ではある。

音質は、生々しいほどに鮮明。勿論、ステレオ録音。なお、この音源は現在複数のレーベルから発売されているが、もしこれを買ってみようという奇特な方がおられたら、ヴェネツィア・レーベルのCDをお勧めしておきたい。プレスが新しいし、値段も安いので。

(PS 2) ガリーナ・ピサレンコについて

タマーラ・ミラシキナと同世代の歌手に、ガリーナ・ピサレンコという人がいる。この人もまた、「理想的なタチヤーナ」という高い評価を得ていた名ソプラノだ。せっかくの機会なので、この美声歌手にも少しだけ触れておくことにしたい。今回の記事を書くに当たり、海外サイトを含めてあちこち検索してみたのだが、残念ながら、彼女がタチヤーナを歌った<オネーギン>録音は見つからなかった。

ピサレンコの名を見出すことの出来るCDとして、今私の手元にあるのはたったの1枚。スヴェトラーノフの指揮によるラフマニノフの<鐘>Op35だけである。これは大編成のオーケストラと合唱団、そして3人の独唱歌手によって演奏される大がかりな作品だが、その第2楽章でソプラノ・ソロが大活躍する。で、スヴェトラーノフ盤でこれを歌っているのが、ピサレンコさんというわけである。1979年という録音年度から見て、この頃はもはや彼女の全盛期だったとは言えないと思う。しかし、それでもなお、この人の声は十分に美しい。まさしく、澄んだ美声という表現がぴったり来る。なるほど、この素直な美声でタチヤーナを歌ったらさぞかし似合うだろうな、と思わせるものがある。ライヴでも何でも記録があるなら、是非復活させてほしいものだ。私の個人的な趣味でいえば、上記のミラシキナやこのピサレンコの方が、少なくとも声の魅力ではヴィシネフスカヤを凌いでいるように思えるのである。

★次回は、<エフゲニ・オネーギン>の聴き比べ・最終回。ショルティ盤とレヴァイン盤について。これら2つの音源には、「歴史的」という言葉はもはや似合わない感じなのだが、次回だけトピック・タイトルを変えるのも変なので、これまでの流れに沿って、「<エフゲニ・オネーギン>の歴史的名演(4)」という題で書いてみることにしたい。
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<エフゲニ・オネーギン>の歴史的名演(2)

2007年04月21日 | 演奏(家)を語る
チャイコフスキーの名作<エフゲニ・オネーギン>の聴き比べ・第2回。今回は、通し番号で第4&5番。

4.B・ハイキン指揮ボリショイ劇場管、他 (1956年)
【出演: ベロフ、レメシェフ、ヴィシネフスカヤ、ペトロフ、他 】

この録音で一番注目されるのはやはり、若き日のガリーナ・ヴィシネフスカヤが歌ったタチヤーナであろう。彼女は少女時代から<オネーギン>に激しく入れ込んでいて、この役には特別な思い入れがあったようだ。『ガリーナ自伝』によると、当ブログで前回語った2の録音、つまりM=パシャイエフとオルロフの分担指揮による1937年の全曲盤を、彼女は子供の頃毎日毎日繰り返し聴き込んでいたそうだ。それはもう、周りの人たちがうんざりして怒り出すほどだったそうである。ヴィシネフスカヤの言葉によれば、「タチヤーナに関しては、これまでに聴いてきたどの歌手も、私を満足させてはくれなかった」そうだから、この1956年の録音には、彼女としても心中期するものがあったに違いない。

実際聴いてみると、「自分はここを、こうしたいのだ」と言っているような強い表現意志を、彼女の歌唱からはっきりと感じ取ることが出来る。歌詞を丁寧に吟味しているという点では、先述のクルグリコワを引き継いだ面もありそうだが、ヴィシネフスカヤの声は先輩歌手よりもずっとスピントのかかった芯の強いものなので、それだけ歌の輪郭線がくっきりしたものになってくる。その結果、往年の録音には前例が見つからないような、鮮烈な存在感を持つタチヤーナが登場することとなった。中でも、私が特に強い印象を受けたのは、第3幕の後半である。熱っぽく迫るオネーギンの求愛を受けて、「あなたを愛しています」とタチヤーナがつぶやく場面。若きヴィシネフスカヤはこの一言に、万感の思いを込めている。後年のロストロポーヴィチ盤での歌唱よりもむしろ、こちらの方が感銘深く感じられほどである。

(※ここでまた一つ、本の受け売り話。「ヤー・ヴァス・リュブリュ・・」と一度はオネーギンに答えつつも、結局彼の求愛を振り切るに至ったタチヤーナの脳裏には、どんな思いが去来していたのだろうか。先頃言及したアッティラ・チャンパイ氏の論文の中に、そのあたりを巡る興味深い分析が述べられている。以下、タチヤーナの考えを直接話法で引用する形に直して、該当する箇所をちょっとだけ書き出してみたいと思う。

「もし私が今でもオールド・ミスとして田舎にとどまっていたなら、あるいは、誰か田舎の平凡な男の妻になっていたとしたら、オネーギンはこんな熱烈にアタックしてきたりはしないだろう」と彼女はわかっていたし、「仮にオネーギンとこれから一緒になったとしても、今の私が彼に感じさせている魅惑などすぐに消えてしまうだろう」ということもわかっていた。そして、「オネーギンは間もなく私を重荷に感じ始めるだろうし、彼の深い孤独の感情は私の力ではどうにもできないだろう」ということも読めていた。勿論、彼女はオネーギンを愛していたし、これまでただの一度も他の男性を愛したことはない。彼女がグレーミン公と結婚したのは憂鬱だったからであり、自分がいつまでも独り者でいることによって母親が人からとやかく言われる心配から解放してあげたい、という願いからである。久しぶりに会ったオネーギンが相変わらず自分の心を動かす力を持っていたにしても、彼はもはやタチヤーナにとっては過去の人、青春の思い出の一つになっていた。・・・彼女は自ら選んだ運命に従い、夫の傍らで自分の立派な務めに献身的に打ち込んでいくことだろう。乙女は夢を見尽くしたのである。)

ヴィシネフスカヤの清新なタチヤーナに続いては、グレーミン公を歌うイワン・ペトロフが立派だ。バリトーナルな高音を伸びやかに出して、名バス歌手は造型のくっきりした立派な歌唱を構築する。ドイツ的とさえ思われるような端正な歌の佇(たたず)まいの中で、老いた者の愛の喜びをさりげなく歌い出すペトロフの芸は、格別な魅力を持ったものである。

レンスキー役は再び、セルゲイ・レメシェフ。この当時、名テナーは既に56歳という高齢であったことを考えると、ここで聴かれる声はちょっと驚異的である。勿論、1936年のネボリシン盤に記録されているような若々しさを求めることは出来ないが、その代わり、ここでの歌唱はより一層自然体で、しかも深みを持ったものになっている。ひょっとしたらレメシェフは、先述のオルロフ盤を通じて、ライバルであったコズロフスキーの圧倒的な名唱を耳にしていたのかも知れない。だから、「よりによって、レンスキーの役で負けてなるものか」と、この録音に最後の情熱を思いっきりつぎ込んだということも十分考えられる。いずれにしても、かつて極め付けといわれたレンスキー歌いの声がこれだけ良質な録音で遺されたというのは、それだけでも十分珍重に値するものだろう。

5.M・ロストロポーヴィチ指揮ボリショイ劇場管、他 (1970年録音)
【出演: マズロク、アトラントフ、ヴィシネフスカヤ、オグニフツェフ、他 】

実はこのロストロポーヴィチ盤は、もう随分昔に私が初めて聴いた<オネーギン>の全曲録音だった。しかし、「これって、どこがいいのかな。全然、感動しない。レコード・アカデミー賞を受賞した名盤?・・・どうやらこの作品自体に、わたしゃ縁がないらしい」というのが、当時の私が抱いた正直な感想である。今回の記事を書くに当たって、本当に久しぶりにこのCDをかけたのだが、やはり良いとは思えなかった。それどころか、これを最後まで聴き通すのが苦痛にさえ感じられたのである。

ヴィシネフスカヤの歌唱は上記のハイキン盤よりもはるかに円熟し、圧倒的な深みと貫禄を獲得しているが、その割にはどうも私にはピンと来ない。最初にこのロストロポーヴィチ盤の歌唱でタチヤーナという役のイメージが出来ていた関係で、上記のハイキン盤を初めて聴いた時は、「ヴィシネフスカヤも若い頃は随分きゃぴきゃぴして、あどけない感じだったんだな」と思った。しかし逆に、ジュコフスカヤ、クルグリコワ、若い頃のヴィシネフスカヤ、そしてこの録音でのヴィシネフスカヤと時系列に沿って聴き並べてみると、タチヤーナの役作りとしては、ハイキン盤での歌唱の方がずっと好ましいものだったのではないかと思えてくるのである。

ロストロポーヴィチ盤は困ったことに、男声陣も不満だらけだ。ユーリ・マズロクは1970年代を代表するオネーギン歌いとして名を馳せた人で、同役での録音も相当数作っているのだが、少なくともここでの歌唱について言えば全く魅力が感じられない。声も歌唱も両方、ダメである。ウラジーミル・アトラントフのレンスキーも同じで、やはりつまらない。第2幕のアリアなど、彼は何とも英雄的な歌いぶりを示しているのだが、この歌をそんな風に歌って何だと言うのだろう。私の心には全く響いてこない。そしてオグニフツェフとかいうバス歌手のグレーミン公がまた、どうしようもなく非力。今回採りあげている8種の録音の中でも、一番聴き劣りがする。

ロストロポーヴィチの指揮には、愛憎相半ばする複雑な思いがある。彼は驚くほどにたくましい音楽作りをしていて、テンポも全体的に極めて遅い。勿論、その雄弁無類な表現によって、チャイコフスキーの音楽が真に内容豊かなものであることを分からせてくれる箇所も少なからず存在する。しかし、例えばトリケ氏が歌う『クプレ』を、こんなスロー・テンポにする必要がどこにあるのだろう。軽妙な小唄がどんどんと遅くなってきて、途中で止まってしまいそうになる。旧国鉄の順法闘争じゃあるまいし。もっとひどいのは第3幕のエンディングで、激しく迫るオネーギンと彼を振り払うタチヤーナのやり取りを、ロストロせんせーは全くいやになるようなスロー・テンポで流すのだ。せっかくの緊迫シーンが、まるで間延びしてしまっているではないか。

(※最後に、参考資料を一つ。ヴィシネフスカヤがタチヤーナを演じた<エフゲニ・オネーギン>の映画版というのが、1958年に製作されているようだ。私は未見だが、いつかDVDで発売されるかもしれない。他の歌手陣や指揮者等、関連する資料が全くないので今は何とも言えないのだが、内容的にはかなり期待できる物ではないかなと思う。)

★次回はこの続きで、第6番。ヴィシネフスカヤに続く世代の歌手が歌ったタチヤーナ。
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<エフゲニ・オネーギン>の歴史的名演(1)

2007年04月15日 | 演奏(家)を語る
今回から、チャイコフスキーの名作<エフゲニ・オネーギン>の聴き比べ。全部で8種類の演奏を採りあげる予定だが、ここではまずロシア系の演奏家たちによる6つの全曲盤を録音年代順に扱い、その後ショルティ盤、レヴァイン盤という2つの録音についての感想文を付け足していくという形にしてみたい。

1.V・ネボリシン指揮ボリショイ劇場管、他 (1936年)
【出演: ノルツォフ、レメシェフ、ジュコフスカヤ、ピロゴフ、他 】

2.A・M=パシャイエフ&A・オルロフ指揮ボリショイ劇場管、他 (1937年)
【出演: ノルツォフ、コズロフスキー、クルグリコワ、M・ミハイロフ、他 】

最初の1、2番については、一緒にまとめて扱っても良いように思う。録音年度がぴったりと並んでいて、殆ど同時期の記録みたいなのだ。1のネボリシン盤はおそらく史上初の<オネーギン>全曲録音だったと思われるが、そのすぐ翌年に、当時ボリショイ劇場で競い合っていた他の名歌手たちが2の録音を行なったという状況のようである。なお、2の方では二人の指揮者が場面ごとにタクトを分担している。当時はオペラもかなり細かく分けて録音していたらしく、2では指揮者もたびたび入れ替わっていたようだ。

出演歌手陣はどちらも、当時のベスト・メンバー。1のレンスキーはセルゲイ・レメシェフで、2はイワン・コズロフスキー。1のタチヤーナはグラフィーラ・ジュコフスカヤで、2はエレナ・クルグリコワ。そして1のグレーミン公はアレクサンドル・ピロゴフで、2はマクシム・ミハイロフといった顔ぶれである。特に注目されるのはタイトル役のオネーギンで、1、2とも共通してパンテレイモン・ノルツォフが歌っている。他の役はともかく、オネーギンに関しては、おそらく当時この人が一番飛びぬけていてpeerlessな存在だったのだろう。

しかし、このノルツォフのオネーギンというのは、極めて独特なものである。彼以前の時代がどうであったかまでは分からないが、彼以後の時代から同じタイプの歌手を見つけ出すことは殆ど不可能と言ってよい。この歌手の独自性を端的に表現するなら、「リシュニー・チェラヴィエク(=無用人)と称された人間がおそらく漂わせていたであろう、何とも言いようのない厭世ムードや貴族的倦怠感みたいなものを、彼は同時代人的リアリティをもって歌い出していた」ということになろうかと思う。どこかもたーっとしていて、「声を出してものをしゃべること自体が、かったるいんじゃないか」と思わせるような虚脱感。何かそういうものが、彼のリリックな歌声にはいつもまとわりついているのだ。さらにそれが頭で考えたキャラではなく、普通に歌いながらこうなってしまうという、ある種の“天然性”みたいなものさえ感じられるのである。上記1、2のどちらの録音を聴いても、その基本的な印象は変わらない。イタリアやドイツなど、西ヨーロッパの洗練されたオペラ歌唱に慣れた人が聴いたら、「下手くそ」の一言でおそらく片付けてしまうことだろう。しかし、彼の特長や美質というのは、そういう西側の目で見た技術的な巧い下手の評価では測れない部分にあったように思える。

レンスキー役については、上記1、2の両方で優れた歌唱を聴くことが出来る。まず1のネボリシン盤では、若きレメシェフによるみずみずしいレンスキーを聴けるのが嬉しい。これは、最もレンスキーらしいレンスキーを演じていた旧ソ連時代の名テナーが、声の全盛期に遺した貴重な録音である。続く2の方では、彼のライヴァルであったコズロフスキーが歌っている。こちらも、なかなかに立派なものだ。1、2の録音だけを比べたらレメシェフの方に軍配を上げたい気持ちになるが、コズロフスキーは次の3.オルロフ盤でとてつもない名演を記録することになる。レメシェフもコズロフスキーも、西欧的な美感では測れない純ロシア的(?)な声と歌唱法を持っていたので、慣れない聴き手は最初戸惑うかもしれない。しかし、わかってくると逆に、彼らがロシア・オペラの演奏史に於いて一つの規範を作り上げていたことが実感されるのである。

タチヤーナ役も、それぞれに良い。録音年代の古さも関係してか、1で歌っているジュコフスカヤにはちょっと時代がかった雰囲気を感じないでもないが、その情熱的な歌いぶりには独特の説得力がある。記念碑的な全曲録音ということもあって、ひょっとしたらいつも以上に気合が入っていたのかもしれない(笑)。ネボリシンの指揮も優秀だ。基本的には速めのテンポで引き締まった音楽を作りつつ、じっくり聴かせるポイントになるとテンポを落として弦や木管に味わいを持たせることも忘れない。一方、2で歌っているクルグリコワは、ジュコフスカヤよりもずっとリリックな声を使って、歌詞をより細やかに歌い出そうとする姿勢を見せている。その結果、いかにも可憐な娘としてのタチヤーナ像が浮かび出てくる。どちらの歌手もそれぞれに当時を代表するタチヤーナ歌いであったことが、これらの録音によって実証されているようだ。

3.A・オルロフ指揮ボリショイ劇場管、他 (1948年)
【出演: An・イワノフ、コズロフスキー、クルグリコワ、レイゼン、他 】

ここでオネーギンを歌っているのは、ドラマティック・バリトンのアンドレイ・イワノフ。この名歌手は、当ブログで昨年ボロディンの歌劇<イーゴリ公>を語った時に一度登場したことがあった。具体的に言えば、メリク=パシャイエフ盤で堂々たるイーゴリ公を歌っていた人である。その記事を書いていた当時はまだこの<オネーギン>を聴けていなかったのだが、あの後すぐに輸入盤を注文して買った。そして、これを聴いてびっくりしたのである。イワノフのオネーギンは、こちらの予想をはるかに超えて素晴らしいものだったのだ。当然ながら、ここでの彼はイーゴリ公を歌う時よりもずっと力を抜いたソフトな歌唱を行なっている。そのためかどうか、彼の歌にはえも言われぬ倦怠感がさりげなく漂っているように感じられるのだが、これはオネーギンという役を表現する上で非常に大事なポイントだと思う。と同時に、ノルツォフにはなかった男性的な力強さが彼の声には備わっているので、アンサンブルの中で埋もれてしまうこともない。第3幕後半の劇的な興奮も、完璧に描きつくされる。特にラスト・シーンの叫びは圧巻だ。この人のオネーギンは、同役の歌唱として一つの模範になっているように、私には思える。

しかし、当全曲盤でさらに圧倒的なのは、レンスキーを演じるイワン・コズロフスキーの歌唱である。上記の1、2よりも録音技術が進んで音質がより鮮明でリアルになっているおかげで、名歌手の円熟と、役に対する凄いほどの共感がひしひしと伝わってくる。オネーギンを紹介する第1幕の登場シーンから、決闘に果てる第2幕のエンディングまで、彼の歌は全く間然するところがない。随所で聞かれるこまやかな息遣い、すべての歌詞と音符を十全に理解した歌い口、愛するオリガに別れを告げる「永遠にさようなら」の痛切な叫び、鬼気迫る絶唱によって聴く者の胸をえぐる第2幕のアリア等・・。どの一部分を取っても、彼は完全に役柄と一体化しており、もはや言葉では言い尽くせないような至高の境地に達しているのである。

さて、重要な“チョイ役”であるグレーミン公だが、これはマルク・レイゼンが受け持っている。当ブログでも<イーゴリ公>や<ホヴァンシチナ>の話を通じて、すっかりおなじみになっている名バス歌手だ。1のA・ピロゴフ、2のM・ミハイロフに続いて、3でようやくレイゼン氏のご登場というわけだが、ここでもさすがに悠然たるスケールの力強い歌唱を聴くことが出来る。グレーミン公役には他にも名演がたくさんあるので、別にこのレイゼンがベストとかいうわけでもないのだが、やはりこれぐらいの実力者が脇を締めてくれると演奏全体の仕上がりもグンとレベル・アップする。

タチヤーナ役のクルグリコワも、11年前の録音で聴かれたような初々しさはないかわりに、役柄を一層深く手中に収めたヴェテランとしての安定感を感じさせる。特に、グレーミン公の妻となったタチヤーナを演じる第3幕での歌唱が素晴らしい。また、オリガを演じるマリア・マクサコワ以下、脇役陣も総じて水準以上の出来栄えだ。ゆったりしたテンポ設定で各楽想を丁寧に描き出すオルロフの指揮ぶりにも、まあまあ好感が持てる。それやこれやで、このオルロフ盤、購入以来私にとってのベスト・オネーギンになっているのである。なお、当音源は現在複数のレーベルから発売されているが、私が買ったLyrica盤(LRC 01100-2)は、2枚組で千数百円だった。この値段の安さも、見逃せない。

★次回はこの続きで、第4&5番。日本でも知名度が高い名ソプラノ歌手、ガリーナ・ヴィシネフスカヤの登場である。
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<エフゲニ・オネーギン>を巡って

2007年04月09日 | 作品を語る
今回のトピックは、チャイコフスキーの<エフゲニ・オネーギン>。プーシキンの原作ともども、多くの人が様々に分析し、また様々に語ってきた名作である。今回は、数多く存在するオネーギン論の中から、私がこれまでに読んで興味深く感じた例をいくつか選んで並べてみたいと思う。

●<エフゲニ・オネーギン>の主役男女

―エフゲニ・オネーギン

タイトル役であるエフゲニ・オネーギンの人物像については、複数の資料を通じてほぼ共通したイメージを得ることが出来る。まず、彼がどのような種類の人間であったかということを端的に示す言葉として、“リシュニー・チェラヴィエク”というのがあるようだ。これは「余計者」、あるいは「無用人」といった感じに訳せるロシア語で、19世紀のロシアに存在した一部の人間たちを指しているもののようである。その具体的な人物像は、おおよそ以下のようなもの。

{ お金と地位、そして余暇も教養も十分にありながら、人生に理想を見出せず、打ち込める仕事もなく、無為徒食の日々を送る人物。 } (※M・エルムレルの指揮による1979年盤<エフゲニ・オネーギン>全曲LPに付いていた日本語解説より )

―タチヤーナ

オネーギンに恋をしてふられるが、ドラマの最後には立場が逆転し、言い寄る彼を振り払うことになるタチヤーナ。この作品のヒロインである彼女についての分析や評価も様々あるが、ここでは作曲家チャイコフスキー自身の言葉を採りあげておきたい。これは、第1幕の『手紙の場』で聞かれるタチヤーナのセリフを理解する上で、大きな手助けとなるものだ。

{ タチヤーナは、オネーギンの人柄を知って好きになったのではありません。そういうものを知る必要はなかったのです。彼が現れる前から既に、タチヤーナは自分自身の小説に出て来る主人公に恋していたのです。オネーギンはただ、現われさえすればよかったのです。彼女はすぐさま自分の理想の人の特徴をオネーギンに重ね合わせ、自らの熱狂的・ロマン的な空想の人物への愛を、生身のオネーギンに移し変えるのです。 } (※チャイコフスキーがタニェエフに宛てた1878年1月2日付の書簡より )

●「3つの抒情的情景」という肩書き

上の手紙の中でチャイコフスキーは、<エフゲニ・オネーギン>がオペラとしては成功しないであろうことを予見すると同時に、「抒情的情景」のような呼び名をこの作品に付けるつもりでいることも述べている。では、そうして付けられた「3つの抒情的情景」という肩書きには、どのような意味合いがあったのか。それを読み解く有力な手がかりの一つとして、『名作オペラ・ブックス25 エフゲニ・オネーギン』(音楽之友社)の9~30ページに掲載されたアッティラ・チャンパイ氏の論文「チャイコフスキーの3つの小悲劇」を挙げることが出来ると思う。同氏が展開している論旨によると、<エフゲニ・オネーギン>は、「それぞれ別々の主人公を持った3つのドラマの集合体」のように把握できるようだ。具体的に見ていくと、まず第1幕が「タチヤーナの悲劇」、続く第2幕が「レンスキーの悲劇」、そして最後の第3幕が「オネーギンの悲劇」ということになる。以下、同氏の論文を土台にして、私なりの言い方で各幕を要約してみることにしたい。

〔 第1幕 〕・・・タチヤーナの悲劇

第1幕の舞台は、タチヤーナを含む彼女の家族一同が暮らすお屋敷。開幕直後に聴かれる4人の女性たちによるアンサンブル、それに続く農民たちの合唱、さらに主役男女4人のアンサンブルに含まれる『レンスキーの愛の歌』といった部分は、いわゆる“色づけ要素”であり、第1幕の本質は、『手紙の場』を頂点とするタチヤーナのドラマである。なお、この第1幕の幕切れは彼女の失恋シーンになっているが、村娘たちの陽気な合唱をその背景に流すことによって、ヒロインの挫折感や孤独感を一層鮮烈に浮かび立たせているのが印象深い。

〔 第2幕 〕・・・レンスキーの悲劇

冒頭で流れる音楽こそ第1幕から続くタチヤーナの恋のタスカー(=苦悩)を表すものと解釈出来るが、それに続く有名なワルツからはレンスキーのドラマとなる。まず前半は、パーティーのシーン。タチヤーナの妹であるオリガは、レンスキーが子供の頃からずっと恋してきた快活な女性だ。それを百も承知した上で、オネーギンは彼女を踊りに誘い、彼女もそれに乗る。これは、自分に対する人々の冷ややかな言葉を耳にしたオネーギンが、「レンスキーめ、つまらんところに俺を誘いやがって。よし、ちょっと仕返しにからかってやるか」と、いたずら心を起したためである。レンスキーは、オネーギンとオリガのダンスに激しく嫉妬し、怒りのヴォルテージを上昇させていく。そして、オリガと約束していたコティヨンの踊りまでもオネーギンに奪われた時、ついに彼は爆発し、オネーギンに決闘を挑む。(※チャンパイ氏の論文によると、たかが一晩のダンスを巡ってレンスキーがここまで激昂し、ついには決闘にまで事態が及んでしまったという背景には、彼がオネーギンに対して内心感じていたであろうコンプレックスと、了見の狭い田舎の社交界のプチブル的精神風土があったと分析できるようだ。)

第2幕の後半は、有名な決闘シーン。ある意味、この作品最大のハイライトと言ってもよい場面である。立会人のザレツキーらとともに、レンスキーはオネーギンを待つ。彼は自らの死を覚悟し、「過ぎ去った青春の日々よ」と有名なアリアを歌う。やがて、付添い人を一人連れてオネーギンが到着。決闘は、瞬時に決着がつく。雪原に鳴り響く銃声とともに倒れ、流れる血で雪を赤く染めながらレンスキーは絶命する。

〔 第3幕 〕・・・オネーギンの悲劇

最後の第3幕に至ってようやく、タイトル役のオネーギンが実質的な主人公となる。第1幕では、タチヤーナから愛の手紙をもらった時、「私は結婚に向いた男ではないのです」とあっさり拒否したオネーギン。第2幕では、気まぐれでからかった親友レンスキーにまさかの決闘を挑まれ、不本意な撃ち合いで彼を殺すことになってしまったオネーギン。その傷心の出来事以来、さすらいの日々を送って帰ってきたという第3幕の冒頭。「旅さえも、退屈だった。そして、ここでも退屈だ」とこぼし、人々から遊離しているオネーギン。そんな彼が、この第3幕でついに少年のような恋心にときめく。グレーミン公の奥方となったタチヤーナの美しい姿にハッとし、さらに若妻への愛を熱っぽく語る老グレーミン公の言葉を聞いて、オネーギンの心に熱い炎が燃え始めたのである。彼はタチヤーナに猛然と恋のアタックをするが、彼女は、「あなたを愛しています。でも、運命はもう決まっているのです。私は夫と生きてゆきます」と、彼を振り払って去って行く。最後、オネーギンは一人ぼっちになって叫ぶ。「この恥、このタスカー(=苦しみ)、みじめな運命」。

●「タスカー」の作曲家としてのチャイコフスキー

音楽之友社から出ている『オペラ・キャラクター解読事典』の188~194ページに、渋谷和邦氏による大変興味深い記事が載っている。それによると、<エフゲニ・オネーギン>を読み解くための大きなキーワードは、他の言語には訳しにくい「タスカー」というロシア語にありそうだというのである。当ブログで今回書いてきた文章のあちこちにタスカーという言葉を散りばめたのは、実はこのことに触れたいからであった。

{ タスカー(=憧れ)によって始まったタチヤーナの恋は、タスカー(=ふさぎの虫)の男オネーギンによって拒絶される。その後グレーミン公の妻となったタチヤーナに恋を感じたオネーギンだが、今度は逆に彼女から拒否され、「この恥、このタスカー(=苦しみ)、みじめな運命」と叫ぶのである。 }

さらに渋谷氏は、歌劇<スペードの女王>の第3幕で聴かれるリーザのアリアにも言及し、「私の人生は喜びに満ち溢れていたのに、疲れ果ててしまった。・・・もう、私はだめです。タスカー(=憂鬱)が私を苦しめる」という歌詞に注目している。この歌に見られるタスカーという言葉は、どうやら作曲者自身が入れたものらしい。そして、チャイコフスキーが書いた器楽によるタスカーの音楽として、交響曲第6番<悲愴>の終楽章が最後に挙げられている。ひとり<オネーギン>に限らず、実はチャイコフスキー自身がタスカーに捕えられ、魅入られた人物であったのだ、というのが渋谷氏の論旨である。

★次回から、<エフゲニ・オネーギン>の聴き比べ。当ブログお得意の感想文シリーズだ。と言っても、この作品の場合、私はやたら大昔の録音ばかりを中心に聴いているので、トピックのタイトルとしては、「<エフゲニ・オネーギン>の歴史的名演」という感じになりそうである。
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ムソルグスキーの歌曲

2007年04月03日 | 作品を語る
前回まで語った歌劇<ホヴァンシチナ>からのつながりで、今回はムソルグスキーの歌曲をちょっと採りあげてみたいと思う。参照しているCDは、下記の3種である。

●『ムソルグスキー歌曲集』 (EMI 5 67993 2 )
【 B・クリストフ(B)、A・ラビンスキー(Pf)、G・ツィピーヌ(指) 】

●『ロシアの歌曲とオペラ・アリア集』 (EMI 5 62654 2)
【 G・ヴィシネフスカヤ(S)、M・ロストロポーヴィチ(Pf&指) 】

●『シャリアピン プリマ・ヴォーチェ』 (Nimbus NI 7823/4 )
【 F・シャリアピン(B)、※各種伴奏による2枚組の名唱集 】

―歌曲集《死の歌と踊り》

この作品には、オリジナルのピアノ伴奏版の他に、複数のオーケストラ伴奏版がある。バス歌手のボリス・クリストフが歌ったCDはグラズノフとR=コルサコフによる編曲版を使っていて、ソプラノのガリーナ・ヴィシネフスカヤが歌った方はショスタコーヴィチの編曲版を使っている。以下、この両者を聴き比べながら、各曲の内容や特徴等を見ていきたい。

(※この歌曲集は基本的に第1~3曲がバス向けで、第4曲のみドラマティック・テナー向けに書かれている。しかし、ソプラノのヴィシネフスカヤがこれを歌ったのにも、それなりの裏づけがある。彼女が書いた『ガリーナ自伝』【日本版・みすず書房】の294~296ページに、この歌曲集に対する思い入れや、彼女なりの楽曲解釈が述べられている。これは非常に興味深い内容を持つ物なので、ここでも適宜引用していきたいと思う。)

第1曲<子守唄>・・・ろうそくが揺らめく暗い部屋。病にうなされる子供に死神が忍び寄り、子守唄を歌って寝かしつける。母親はそれを追い払おうと必死に抵抗するが、ついに子供はこと切れる。

(※クリストフの歌を聴いていると、死神が自然に男のイメージとして聞こえてくる。一方ヴィシネフスカヤは、「ここで優しい子守唄を歌う死神は、愛情深い乳母の姿で現れている」と述べている。そして、その乳母の正体を知っている母親が必死に子守歌をやめさせようとしている場面がこの歌には描かれているのだ、というわけである。母親が、「お願いだから、もうやめて。子供の顔が青ざめて、息も弱くなっているわ」と訴えるのに対し、「それは良い兆候。この子の苦しみが間もなく終わるということだからね」と、死神がさりげなく応じる部分が怖い。)

(※グラズノフとR=コルサコフによる編曲は、もっぱら低弦を主体とした伴奏。クリストフの声と歌唱が圧倒的なためか、あるいは録音バランスも関係してか、こちらのオーケストラ伴奏は幾分控えめな感じに聞こえる。一方ショスタコーヴィチは、低弦の他に各種の管楽器を加えて響きを充実させている。)

第2曲<セレナード>・・・静かな白夜の情景を描く音楽に続いて、病み衰えた少女の姿が浮かび出る。彼女は夜の静けさに耳を傾けながら、生きる喜びを求めている。そこに死神が現れ、彼女の家の窓辺でセレナードを歌う。「お前の青春は失われている。この私、名もなき騎士が、お前を解放してあげよう。お前は、私を魅惑する。そのしなやかな体、うっとりさせるおののき・・。私はお前を抱き、死にいざなおう。・・お前は、私のもの」。

(※夜の雰囲気を醸し出す管弦楽の巧みさについては、グラズノフ&R=コルサコフ版もショスタコーヴィチ版も、そんなに大きな差異はない。しかし、全体的な音のパレットは、ショスタコーヴィチ版の方が少しカラフルな感じ。死神の勝利宣言「お前は、私のものだ」に至るラスト・シーンでは、ドラムのビートが効果的に使われている。)

第3曲<トレパーク>・・・酒に酔った農夫のところに死神が現れ、トレパークの踊りに引き込む。吹雪の中で二人が踊る。やがて睡魔に襲われた農夫のために、死神が歌う。「森よ、黒雲よ、闇よ、・・・雪の羽毛で、幼児のように、しっかりとこの男を包んでやるのだ。眠れ、幸福なる農夫よ。夏が来て花が咲き、畑には日が照って、ツバメが飛び交う」。

(※冒頭の管弦楽が、吹雪の様子を巧みに描き出す。比べてみると、ショスタコーヴィチ版の方がやや立体感のある音響。やがてトレパーク舞曲のリズムで歌が進み、最後は、死にゆく農夫が見る暖かい日の幻影が浮かび出る。「この歌曲集を構成する4曲の中で、最も有名な作品」という評価があるためか、クリストフ盤ではこれを第1曲として歌っている。なお、ヴィシネフスカヤの解説によると、ここに出て来る死神は、「無鉄砲でだらしのない、農民の女」という姿をしているのだそうだ。彼女自身がその女を演じるように、たいそう劇的に歌っているのが聴きどころ。)

第4曲<司令官>・・・死神が馬にまたがった白骨の姿で現れ、戦場に横たわる兵士たちの死体を満足げに見て歩く。曲の前半は情景描写、後半は「死の歌」という構成。

(※すべてが静まり、夜霧の中にうめき声が響く。やがて月明かりの中に現れた死神が、戦場を乗り回す司令官のように、誇らしげに闊歩する。ここでショスタコーヴィチが行なった編曲は、ほとんど劇音楽かオペラ。スネア・ドラムが行進曲風のリズムを刻んで徐々に雰囲気を盛り上げた後、死神が出現するシーンで大音響のドカーン!これを初めて聴いたときは、本当にびっくりさせられた。)

(※この終曲ではクリストフもヴィシネフスカヤも力演を聴かせ、それぞれに素晴らしい。ところで、ヴィシネフスカヤがこの歌曲集を歌った記録として、たしか夫君ロストロポーヴィチのピアノ伴奏による物があったと思う。昔FMでそれを聴いたことがあって、実はそちらこそが圧倒的な歌唱だったと記憶しているのだが、もう古い話なので今はちょっと自信がない。なお、ショスタコーヴィチの編曲楽譜は、作曲家自身からヴィシネフスカヤに献呈されているようだ。「これだから、人生は生きる価値があるのだ」と、彼女が当時大感激した様子が、『ガリーナ自伝』日本版の301ページに書かれている。)

―歌曲<蚤(のみ)の歌>・・・悪魔メフィストが冷笑的に歌う。「昔、王様が蚤を飼った。王はその蚤のために豪華な服を作らせて与え、さらに大臣にまで任命し、仲間の蚤たちも出世させた。王妃も女官たちも、大変だ。蚤どもには我慢できないが、やつらに触ることも、つぶすことも出来ない。・・・ハーッハッハッハッ」。

ムソルグスキーの全歌曲の中で、おそらく最も有名な1曲。今回参照しているCDのクリストフも、さすがに見事。勿論、これは数多くのバス歌手たちによって歌われてきた名曲だから、私がまだ聴けずにいる音源の中に素晴らしい名唱が潜んでいる可能性も十分にある。と、そうは言いつつも、この歌はやはり伝説のフョードル・シャリアピンにとどめをさすのではないかな、という気もする。現在流布している2枚組のCD『シャリアピン プリマ・ヴォーチェ』(Nimbus盤)の中に、大歌手が遺した<蚤の歌>の名唱が2種類、しっかりと収められている。

具体的に並べてみると、1921年10月10日の録音と、1936年2月6日の録音である。どちらもこの歌手ならではの度外れた歌唱を楽しめるが、前者の21年物は少し生硬な感じがしなくもない。比べてみるならやはり後者、つまり'36年物の方が決定的な名唱と言ってよいだろう。ラスト近く、「王妃も女官たちも、蚤どもには耐えられない」と歌う部分でのかっ飛び加減がゴキゲンだし、最後に決める笑い声も豪快にして且つ音楽的。極めて完成度の高い歌唱である。

―歌曲<小さな星よ、おまえはどこに>・・・「小さな星よ、お前はどこに?黒雲が光を覆い、私の喜びは失われた。美しい娘はどこに?私の愛する者は?黒雲が星を隠し、大地が冷たく娘を隠す」。

全部で52曲あるらしいムソルグスキーの歌曲の中でも、最も初期に属する作品。しかし、これは名曲である。ロシアの古代抒情歌を思わせる素朴なメロディが、聴く者の胸にじんわりと染み入って来る。クリストフ盤のトラック1でいきなり聴けるが、これがもう言葉にできないぐらいの素晴らしい名唱。いささか乱暴な言い方をしてしまえば、この最初の1曲を聴くだけでも、このCDを買う価値がある。


★次回予告。当ブログでは昨年来、グリンカ、R=コルサコフ、ボロディン、そしてムソルグスキーのオペラ作品を語ってきたので、その流れに乗って次回からはチャイコフスキーを一つ採りあげてみようと思う。あの名作、<エフゲニ・オネーギン>である。
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