クラシック音楽オデュッセイア

2009年の大病以来、月1回程度の更新ペース。クラシックに限らず、身の回りの事なども、気の向くままに書いております。

意識が戻らない母。間に合わなかったプレゼント

2023年03月25日 | エトセトラ
2023年3月25日(土)。5日前に、今何か追加で送るべき物があるかどうかを確認しようと、ブログ主は病院に問い合わせの電話をかけた。受け付けの人を間に挟んで病棟の看護スタッフから来た返答は、「おむつの追加以外では、入浴時に使うボディソ-プとシャンプー、コンディショナーのセットを用意してほしい」というものだった。思わず、電話口の受け付けさんに訊き返す。「えっ、お風呂ですか?あの、タオル清拭(せいしき)じゃなくて」。「そのようです」。・・・近々お風呂に入れるという事は、いよいよ母の意識が戻りだしているのかなと、ちょっと嬉しくなった。電話の後、速攻で近所のドラッグストアに行き、ミニボトルのボディソープとシャンプー&コンディショナーのトラベルセットを購入。そして、おむつともども、ゆうパックで病院宛てに送った。

その3日後、3月23日(木)。主治医から電話が来た。内容は勿論、母の容体(ようだい)。「気管切開後、今は酸素吸入を行いながら呼吸を確保しています」「脳の状態も、安定しています」「肺に溜まっていた水も、徐々に減ってきています」。はい。はい。あ、そうですか。良かった。有り難うございます。

・・・と、良い話は、そこまで。そこから先は、天国から地獄へのnosedive。

「意識が戻らないんですよ。クモ膜下出血にありがちな例の1つとして、このままずっと行ってしまう可能性が高いです。近々、どこかの施設に移ってもらわなければならないんですが、行った先で将来異変が起きた時に、御家族がどこまでの蘇生努力や延命措置を担当スタッフに望むのか、そのあたりの意思をしっかり伝える必要があります。数日以内に当院のケースワーカーから連絡が行きますので、よく御相談の上、結論をお出しください」。呆然とするブログ主の耳に、とどめの言葉が飛びこむ。「自宅に帰る事は、できません」。あ、あの、こちらの希望的な予測として、この後はどこかのリハビリ病院に行って、そこで平日はお世話になって・・で、土日ぐらいにちょっと帰宅して家で過ごさせてやってって、そんな考えを持っていたんですけども・・。「まあ、そうできれば何よりなんですが、現状、帰宅は不可能です」。

(※気管切開後の患者には数時間ごとの痰吸引が必要とされるが、今は素人でも病院の指導を受ければできるものらしい。ただ、それが1年365日続くとなると、家族はどこにも出かけられなくなる。それはさすがに、無理。でも土日ぐらいなら、母のために終日家にいて付き合おうという気持ちは出来ていた。カフ付きのスピーチカニューレを使って、少しでも声が出せる母と言葉を交わしたい。そんなささやかな希望を抱いていたのだが、無念にも崩れ去った。今回の話で何が確定してしまったかと言えば、「次に母が家に帰ってくるときは、魂が天に召された後の悲しい抜け殻になっている」ということだ。・・・駄目だ。もう書けない。)

来月やってくる90歳の誕生日を仮に母が生きて迎えられるとしても、それはどこかの施設のベッドの上。おそらく昏睡状態のまま。間に合わなかったバースデイ・プレゼント。ブログ主が胸にずっと秘めていた卒寿記念の贈り物は、空前の予算をかけた家の大規模改修。水回りの全面的なリフォームだった。母に見せてあげたかった。我が家のお風呂、脱衣所、トイレ(そして、母の合意があればキッチンも)が新しく生まれ変わるところを。
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母の入院に思う事~思考の現実化~

2023年03月14日 | エトセトラ
2023年3月14日(火)。もう10何年も前になるが、大腸がんの手術入院から帰ってきて以来、しばらくスピリチュアル系の本を渉猟していた時期があった。その中には、もう書名も著者名も思い出せない物がいくつかある。そのうちの1冊、何かの教祖様みたいな人が書いた本の中に、こんな↓一節があった。

{ 学校の先生をやっている女の人には切迫流産になる人が多いんだけどね、これにはちゃんと理由があるの。あの人たちは女性に負わされる責務とか負担とかに強い不満を持っていて、日頃から女性の権利がどう、平等がどうって、しきりに叫んでいる。そこへもって、子どもが出来たらどうなりますか。自分の思想信条に反する、我慢ならない事態になってしまうでしょ。だから、先生の切迫流産っていうのは、「子どもを産んだら後が大変だから、やめようね」って、体がその人の心に対して素直に反応した結果なの。  }

この説の当否については、読者諸氏の御判断にゆだねる。しかし何故、今回の記事を上のような話から始めたか。それは、母の緊急入院も「本人の思考に対して、体が素直に反応してしまった結果」なんじゃないかと、そんな風に思えてしまう節(ふし)があるからだ。

この1~2年、高齢から来る体の不調に、母は愚痴を並べる事が多くなっていた。曰く「今日はこっちの脚が痛い」「今日は反対側の脚が痛い」「腰が痛い」「背中が痛い」「洗濯物を吊るそうとして顔を上に向けたら、めまいがして気持ちが悪くなった」「とにかく苦労で仕方がない」等等。雨で外に出られず家の中にいるときなどは、一層機嫌が悪かった。嫌気を起こしたような深いため息をつきながら、「はあ~あ~、いつまでこうしているんだかなあ」と。そんな時はさすがにブログ主も、「そういうため息は、あんまりつくもんじゃねえぞ。縁起が悪いって言うか、運気が落ちるから」と、母に苦言を呈したものだった。今になって思いつくのは、そのような母の愚痴り癖や嫌気のため息に対して、体が反応しちゃったんじゃないかという、いささかオカルトじみた可能性である。つまり、「そんなに毎日がつらくて嫌なら、(生きることを)もう終わりにしようか」と。

同居の息子として1つ断言できるのは、母には確かに健康上の不満や愚痴が多かったけれども、「もう死にたい」などとは絶対に思っていなかったということだ。根拠はまず、ごく近い未来に大きな楽しみが控えている事。あっちの街にスーパー、こっちの街にドラッグストアといった感じで、4~5月にオープン予定のお店が今、絶賛建設中なのである。「あの辺までなら、おばあもまだ歩けるから、始まったら見に行くだあ」と、去年あたりから、それらの開店を母は楽しみにしていた。もう1つは、この4月に来る誕生日。そこでいよいよ、母は満90歳。卒寿を迎える。で、その記念すべき節目に、ブログ主は特大のプレゼントを考えていて、その事を母に伝えてあるのだ。具体的な内容は誕生日当日に話す予定で、まだ中身までは伝えていないのだが、ひょっとしたら内心、こちらの胸の内を察していたかもしれない。このポンコツ息子に結婚が“無理ぽ”なのは、母も承知。となれば、空前の予算をかけたビッグ・プレゼントが何かと言えば、母ならもう分かっていそうだ。・・・それと、裏庭の小さな畑(家庭菜園)。母は既に今年の準備も始めていて、「花と野菜の培養土」が6袋ほど家の壁際に並んで、まかれる順番を待っていた。・・・これで早く死にたいなんて、そんな事考えているわけないだろう。母はまだまだ体の利く範囲で、人生を楽しもうとしていたのだ。であればこそ、「破れた動脈瘤の穴を、自力で作った血のりで塞ぐ」などという、ある意味“超常的な”芸当ができたのだ。「もういいだろ。おじいのところへ行ってやろうぜ」と母の手を引く死神と、「あたしはまだ、この世にいるんだ。楽しみたい事があるんだよ」と抗(あらが)う母の生への意志が今、ぎりぎりの境界線上で戦っているのだと思う。

現在の母の状況。先日気管切開の手術を受け、ようやく人工呼吸器から解放された。その後ICU(集中治療室)から移動して、今はHCU(高度治療室)で治療中。まだ肺に溜まった水が抜けないので、完全な自律呼吸はできない。が、それでも人工呼吸器で生かされつつ全身麻酔で眠っている状態よりは、遥かに良くなった。担当医によると、「肺の水を抜こうとして無理に利尿剤を使うより、自然に血管に吸収されてから排尿される形の方が良い」とのことで、経過観察中らしい。実際の話、肺という臓器の作りからして、心タンポに対応する時みたいな緊急ドレーンなど土台から無理なわけだし・・。

家族からの具体的な要望ということで、「もし母の体の状態で適用可能でしたら、将来的には、カフの付いたスピーチカニューレを使ってください」と、主治医の先生に依頼した。医師の答えて曰く、「お母さんに言葉をしゃべらせてあげたいという気持ちは、よく分かります。でもまずは、ご本人の意識が戻ってからですね」。なお、WOC(ウォック)さんが介入した話はまだ無いようなので、デクビは今のところ発現していない様子。(したら、大変だが。)あとは、既に3週間を超えた“寝たきり状態”がもたらす、サルコペニア。これが心配。リハビリが効くだろうか。それやこれやで、今のところ、幸い一命は取り留めてくれているものの、まだまだ前途多難な状況である。とりあえず、最もハイリスクとされる発症後の14日間は、(死線をさ迷いながらも)何とか乗り越えたところ。

―さて実を言うと、今回のテーマである「思考の現実化」というのは、他でもない、このブログ主自身にも当てはまる事がある。おおよそ以下の如く。

「俗世間の下劣な喧騒から離れ、隠者になって、ひっそりと暮らしたい」。
「自分のような異端の人間は、自分一代で滅びるべき」。

ブログ主が若い頃に抱えていたこの2つの思考は現在、どちらも(残酷なぐらい)見事に現実化している。特に、後者。子どもどころか、結婚どころか、相思相愛の恋愛さえただの1度もしたことがないまま年を取り、ついには前立腺をがんで全摘出されて、男性機能を失った。より詳しく言うと、ブログ主の場合、射精だけでなく勃起もしなくなった。つまり、完全に男終了。何一つ、経験しないうちに。(※腕に定評ある名医がダ・ヴィンチのロボットアームを使って万全に仕上げてくださったのだが、それでも駄目だった。)

思考の現実化もこういうレベルになると、(自分のことながら)空恐ろしいものを感じる。「寂しい男の余生に寄り添ってくれる、素敵なパートナーが見つかる」みたいな、そういう切実な思いこそ現実になってほしいんだけどなあ・・。
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