クラシック音楽オデュッセイア

2009年の大病以来、月1回程度の更新ペース。クラシックに限らず、身の回りの事なども、気の向くままに書いております。

歌劇<リア王>

2004年11月28日 | 作品を語る
ヴェルディが(ついでに言えば、イギリスの作曲家ブリテンもまた)実現し得なかったシェイクスピアの『リア王』のオペラ化は、20世紀後半にアリベルト・ライマンによって成し遂げられた。

シェイクスピアの戯曲を題材にしたオペラ作品は、私が今思いつく範囲で15作あるが(勿論、そのすべてを聴いて知っているわけではないけれど)、その中でも、アリベルト・ライマンが難解なセリー理論や強烈なトーン・クラスターなどを駆使して作曲した<リア王>は、飛びぬけて激越な音楽として他の諸作品を圧倒している。これと比べたら、あのヴェルディの<オテロ>でさえ、様式美を備えた“古典の名作”となる。

登場人物の説明やストーリー解説をやると大変長い話になってしまうので、それは割愛し、私が独断で選んだ聴きどころのみを今回は書いてみることにしたい。

〔 第1部第3場 〕・・・ゴネリルとリーガンに追放された老リア王が、嵐の中で声を限りに叫ぶ場面。

この王の叫びの場は原作の舞台上演の中でもとりわけ有名なものだが、時に宇宙的とさえ言われるそのスケール感を、ライマンは耳をつんざくような激しいトーン・クラスターの音響で表現した。ここには音程の差がもたらすメロディー感や歌謡性といったものは存在せず、歌手もオーケストラも力の限り叫び続ける。とてつもない音圧が、聴き手の耳を襲う。

〔 第2部第1場 〕・・・リア王を助けたとの咎(とが)でリーガンのもとに捕らえられたグロスター伯爵が、押さえつけられて目玉を抉り出される場面。

まずリーガンの夫であるコーンウォールが、グロスターの片目を抉り出す。残る片目も、リーガンがヒステリックな叫びをあげながら抉ってしまう。この世にも恐ろしい場面にライマンが付けた音楽は、ドンドンドンドンドン・・と激しく叩かれる太鼓の音と、カンカンカンカンカン・・と打ち鳴らされる鐘の音が交錯し、そこに金管がアクセントをつけていくというものである。まことに戦慄的な場面である。

ところで、歌詞対訳のト書きを見ると、グロスターが目玉をえぐられるたびに「叫び声をあげる」と書かれているのだが、CD(ゲルト・アルブレヒト指揮、D・フィッシャー=ディースカウ主演)ではその叫びは聞かれない。音だけのCD(発売当時はLP)で叫び声まで入れたら余りにもむごたらしく、聴くに堪えないだろうということで、製作者側の自主規制がはたらいたのではないかと、私は勝手に想像している。おそらく実際の舞台では、「ウギャアァーッ!」というような悲鳴が二度にわたって劇場内に響くのであろう。

〔 第2部第5場 〕・・・発狂したリア王のつぶやき。

「ゴネリル!リーガン!(中略)あの嵐の中で、わしはお前たちを感じた!感じた!感じた!・・」

“da ich spurte da spurte ich euch ich euch da spurte ich euch ich euch euch euch euch ・・・”

この部分でのF=ディースカウのセリフ回しの卓抜さはもう、言葉に尽くせない。今後、声質の点でより老人らしい声の出せるバリトン歌手が現れることはあっても、この人のようなディクションを可能にするような人物がそうそう容易に出てこようとは思えない。

1970年代後半に書かれたライマンの歌劇<リア王>は、単に20世紀オペラの傑作の一つというのみならず、オペラ歌手としてのF=ディースカウを語る上でもまた欠かす事の出来ない作品である。
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アイーダ・トランペット

2004年11月25日 | エトセトラ
前回の<エスタンシア>から続ける言葉として、実は瞬間的に<アイーダ>という題名がしりとりで思い浮かんだのだが、これほどに有名でまた人気のある作品ともなると、私などよりもはるかに詳しい方や視聴体験の豊かな方がおられることは間違いない。なので、どうもこの作品自体、あるいはその演奏について語るのは、気が引けてしまう。そこで今回は、この名作とは切っても切れない関係にある特注楽器「アイーダ・トランペット」について、少しだけ語ってみることにしたい。

シェイクスピアの戯曲、あるいはその登場人物を題材にして書かれたヴェルディの歌劇作品といえば、初期の<マクベス>、そして晩年の<オテロ>と<ファルスタッフ>ということになろうけれども、実はもう一つ、『リア王』のオペラ化も大作曲家の胸のうちにはあったらしい。1854年3月31日に台本作家のアントニオ・ソンマに宛ててヴェルディが書いた書簡に、次のようなくだりがあるらしいのである。

「歌劇<リア王>は、トランペットのファンファーレでいきなり開幕させれば非常に印象深く、また個性的であろうと思われます。それも現代のトランペットではなく、古いまっすぐのトランペットです」。

しかし、ヴェルディの歌劇<リア王>は結局実現せず、作曲家が心に思い描いていた特殊なラッパはその約15年後に、エジプトを舞台にした大作のために特別注文で作られた。それが、今あるような呼び名になったというわけである。

ただ、ヴェルディが古代エジプトの墓の壁画を見てヒントにしたという“弁のない長い筒状のトランペット”というのは、必ずしもエジプトに特有の楽器というものではないらしい。「古い時代に各地で使われていたものがたまたま、エジプトの壁画にも描かれていた」ということにすぎないらしいのである。

そういう訳なので、あのトランペットは『凱旋の場』の祝典的なムードを演出するのに大きな役目を果たしてはいるが、決して古代エジプトらしさを演出しているわけではないということなのだ。この点は、留意しておいた方がよさそうである。

【参考文献】

『オペラの運命』岡田暁生著(中公新書) 147~149ページ
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<エスタンシア>

2004年11月23日 | 作品を語る
前回の<クモの饗宴(Le festin de l’araignee)>の最後のeからアルファベットのしりとりをして、今回はEstanciaという作品について語ってみたい。

「農場」という意味を持つこのバレエ音楽は、アルゼンチンの作曲家アルベルト・ヒナステラの代表的な傑作だが、永らく組曲版の演奏しか録音がなかった。それがほんの何年か前、ようやくといった感じで、全曲録音のCDが登場したのだった。ジゼル・ベン=ドールというサウスポーの女性指揮者(※この人もまた、バーンスタインに認められた若手の一人)が、ロンドン響を振ったBMG盤である。このCDではバリトンによる語りがあったり、テノール独唱による悲しげな「午後の歌」が聴かれたりもするが、何より全曲演奏を聴いてこそ可能になる、“全体像の把握”という点で非常に歓迎されるものであった。

全曲を聴いてみると実際、面白い。「農場の労働者たちの踊り」も「牧畜業者たちの踊り」も、基本的には野卑なリズムと荒々しい表情をもって踊られ、野心的な作曲家の意気込みみたいなものが伝わってきて、実に楽しいのだ。コープランド作品を想起させる「ロデオ」なんてのもある。一方で、「夕暮れの牧歌」から「夜」に続く場面の抒情味も良い感じ。

しかし、何と言っても、終曲の「マランボ」。これが最高。このノリ、この激しさ、そして、このしつこさ!w いかにも中南米している独特のリズムに、フレーズが一区切りつくたびにドン・ドーン!の合いの手が入って、またかよ、と言いたくなるほど繰り返される熱狂。もう、笑ってしまう。

併録された<パナンビ>は逆に、地味で静かな部分が多い作品だ。バス・ドラムが威力を発揮する「戦士たちの踊り」のような激しい曲もあるにはあるのだが、それは短いもので、全体的には魔法使いとか妖精とかが出て来て演じる神秘的な場面の方が、雰囲気としては支配的である。私の感想としては、終曲「夜明け」に聴かれる色彩感覚の卓抜さを賞玩(しょうがん)したいと思う。

【2019年3月9日 追記】

●ヒナステラの<エスタンシア>~終曲「マランボ」

この記事を投稿してから約4年後、<エスタンシア>の終曲「マランボ」のおそらく最強の爆演が、日本で実現した。グスターボ・ドゥダメルの、2008年東京公演~アンコール。その時のライヴ映像が今、YouTubeで楽しめるようになっている。時代は変わった。なお、この↓動画は音量がかなり大きいので、再生機側のボリュームを少し絞ってからのクリックがお勧めである。

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<クモの饗宴>

2004年11月20日 | 作品を語る
今回は日本語で、前回のボルクのクからしりとりして、<クモの饗宴>。アルベール・ルーセル作曲による、20世紀フランス音楽の名作である。私個人的には、この作曲家の最高傑作に位置づけたい作品だ。昆虫の世界を舞台にしたバレエのプロットは、以下の通り。(※和訳に自信がもてない部分は、もとのフランス語も併記。)

●前奏曲―アリの入場―フンコロガシ(bousiers)の入場―蝶の踊り―クモの踊り―アリのロンド―カマキリの戦い―クモの踊り―カゲロウの誕生と踊り

●カゲロウとシンクイムシ(vers de fruits)の踊り―カゲロウの死―クモの苦しみ―カゲロウの葬式

まず、前奏曲が素晴らしい。柔らかい弦をバックに、フルートが夏の午後のもわ~んとした気だるい空気感を描出する。やがて、スネア・ドラムのきびきびしたリズムに乗って、アリたちのせわしない行進が始まる。続いて弦楽と木管によって、蝶がピラピラと舞うさまが生き生きと描かれる。さらに、その痛々しい死も。

勇ましいカマキリの音楽に続いては、カゲロウの神秘的な誕生と優雅な踊りの音楽。そして、カゲロウの死と虫たちによるお葬式。いずれの場面の描写にも、非常に見事な管弦楽法が駆使されている。最後にまたフルートが前奏の旋律を奏で、夏の午後の空気を呼び戻しながら終曲となる。

美しい音楽に彩られつつも、その背後には厳しい自然の摂理、弱肉強食のドラマが内包された類(たぐい)まれなる名作バレエ。残念ながら、私はこの作品の舞台上演(あるいは、映像)を観たことがない。是非一度は観ておきたいと願っているのだが、果たしてチャンスがあるかどうか・・。

LP時代に廉価で入手したアンセルメの全曲盤は、聴いてがっかりだった。バレエの名指揮者にしてはなぜか、この録音では音に生彩がなく、まるでルーセルの干物を見せられているような感じであった。CD時代になってマルティノンのエラート盤を手に入れ、それでとりあえず満足できた。これは現在外盤で廉価発売されており、また国内盤でも、少し前に20ビット盤で再発売されていたと思う。

ところで、この作品の組曲版の演奏で極めて高い芸術性を示していたポール・パレー&デトロイト響によるマーキュリー録音が未だにCD化されていないのは、どうしたことだろう。マーキュリー・リヴィングプレズンス・シリーズもあらかた出尽くしの感があるにもかかわらず、何故かパレーによる<クモの饗宴>組曲は未だに出てこない。原盤紛失とか、あるいは損傷とかのトラブルでもあったのだろうか?もしそうだとしたら、本当に残念な事だ。速めのテンポでくっきりした輪郭を描いて進めつつ、その中に豊かなニュアンスと香りを湛えた、いかにも名手パレーらしい素晴らしい世界が展開されていたのに・・。
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インゲ・ボルク

2004年11月17日 | 演奏(家)を語る
前回のパネライ(Panerai)の最後の文字iからまた、しりとりをして、今回はドイツ系の名ドラマティック・ソプラノの一人であったインゲ・ボルク(Inge Borkh)について語ってみたい。

もともと女優としてキャリアを開始したというだけあって、若い頃のブロマイド写真を見ても実感出来るように、この人はかなりの美人であった。しかし、その面長の美貌から、思いがけず太く強靭な声が飛び出してくる。

彼女の代表的な名演は、壮年期のカール・ベームがドレスデンで録音したR・シュトラウスの楽劇<エレクトラ>全曲(G)に主役で参加したものだろう。これは、激しいリズムと強烈な音響が交錯するベームの物凄い指揮ぶりと併せて、彼女を含めた参加歌手たちのほぼ全員が名唱を聴かせるという驚異的な名盤だ。圧倒的な声と歌唱でドラマをぐいぐいと引っ張るボルクの超人的なエレクトラをはじめ、声もキャラクターも最高無類と絶賛したいジーン・マデイラのクリテムネストラ、強い声に可愛らしさも備えた理想的なマリアンネ・シェッヒのクリソテミス、そして若きF=ディースカウの雄雄しきオレスト。もうこれほどに条件の揃った全曲録音というのは、他の諸作品も含めてそうそうあるものではない。

ボルクはまた、<サロメ>のタイトル役にも定評があった。ラスト・シーンだけではあるが、素晴らしいものを彼女はスタジオ録音で遺してくれている。フリッツ・ライナー&シカゴ響と録音した<エレクトラ>と<サロメ>の一枚物の名場面集(RCA)である。盆に盛られたヨカナーンの生首に唇を寄せて陶酔に浸るサロメの、その恍惚の表情が目に見えてくるような艶めかしい息づかいの歌に、私は完全にKOされてしまったのであった。

一方、彼女が染物師の妻を歌ったR・シュトラウスの<影のない女>は永く入手不能となっているため、残念ながら未聴である。カイルベルトの指揮による全曲盤(グラモフォン)は他のキャストも強力で、LP時代から大変評価の高いものだったので、CD復活を切に望みたい。

伝説のエレクトラなどと称されることもある彼女だが、今はもう“知る人ぞ知る”かもしれない大歌手の一人だ。
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