クラシック音楽オデュッセイア

2009年の大病以来、月1回程度の更新ペース。クラシックに限らず、身の回りの事なども、気の向くままに書いております。

ロストロポーヴィチのチャイコフスキー/交響曲全集(EMI)

2017年04月30日 | 演奏(家)を語る
2017年4月30日(日)。さわやかな晴天。ようやくといった感じで、春らしい陽気になってきた。

今月、特価CD「ロストロポーヴィチのチャイコフスキー/交響曲全集」(EMI)を買った。これは6枚組で税込み1369円という、超廉価ボックスである。いくら限定盤とは言え、ちょっと信じられないような安さだ。Warnerのロゴが付いた新しいリマスター盤で、演奏内容の点でも非常に楽しめたので、大変良い買い物となった。今回はその感想文を少し書いてみようかと思うのだが、その前に、チャイコフスキーの交響曲に関する当ブログ主の“好みの序列”みたいな物を先に記しておきたい。これは、「左から右へ行くごとに、好きな度合いが下がっていく」という意味のランキングである。

第6番>第4番>第5番>第1番>>>越えられない壁>>>第3番>第2番>マンフレッド

この序列、部分的な順位の入れ替わりはあるかもしれないが、結構多くの人に大筋で共感してもらえるランク付けではないかと思う。ポイントは要するに、「2番、3番、マンフレッドの3作は、他の4つに比べて明らかに魅力の点で劣る」ということだ。しかも、その両グループの間には越えがたい壁、大きな隔たりがあるということ。少なくとも当ブログ主の場合、ダメな方の3作については、誰の演奏を聴いても満たされることはなく、聴き通すのがいつもつらかった。(※付記。ボガティリョフ編曲による<第7番>はチャイコフスキーが書き上げた曲ではないので、ランキングの対象外。)今回ロストロポーヴィチの指揮による全7曲の演奏を聴き通した結果、上に書いた順位自体は変わらないものの、件(くだん)の“越えられない壁”が自分の中で消えてきたような気がしたのだった。

当ボックス・セットで聴かれる演奏のコンセプトを手短に言えば、「細けえ事は、いいんだよ。俺はロストロだあ」という感じになるだろうか。(※勝新太郎が黒澤明監督と喧嘩して『影武者』の主演を降りた時の、「俺は勝新だあ」というセリフをふと連想しなくもないが、あまり関係ないか。w )精妙な弦のディミヌエンドを使った細やかな表情付けとか、曲の造型を整えるための明晰なフレージングとか、そんな殊勝な(?)心がけを感じさせる要素はほとんど見当たらない。ロシア音楽としてのチャイコフスキー作品の本質をぐいっと鷲掴みにし、アンサンブルの粗さなどものかはで、各楽想それぞれに付けられるべき適切な表情をその都度しっかり体現していく。そんな感じのアプローチなのだ。そしてイギリスの名門オーケストラ(特に木管)から優れてロシア的な音色を引き出し、強い説得力を持った表現を次々と披露してくる。

その結果、当ブログ主がずっと苦手にしていた<第2番>と<第3番>にこれまで感じ取れなかった魅力を発見し、ほとんど退屈することなく最後まで付き合っていくことができたのだった。いたずらに冗長で求心力に欠け、散漫な印象が強い<マンフレッド交響曲>でさえ、「気の利いた楽想がところどころモザイクのように散りばめられた、捨て置くにはもったいない佳作」に感じられてきたのである。そしてあの“越えられない壁”がどうやら、当ブログ主の意識の中から消失した。これが、今回ロストロポーヴィチ盤を聴くことによって得られた最大の収穫であった。

人気作となる後期の3作品(第4番~第6番)については、際立って遅いテンポが取られた<第5番>と、非常に大きな音のダイナミック・レンジが持ち味となる第6番<悲愴>(特に、第1楽章)が面白かった。<第4番>と最初期の<第1番>もそれぞれに良い演奏だとは思われたが、ユニークな<第5番><第6番>や、今回サルヴェージされる結果となった<第2番><第3番>等に比べると、「まあ、普通の出来かな」という感想にとどまる。

併録された管弦楽曲の中では、幻想序曲<ロミオとジュリエット>(特に、後半部分)がロストロ節全開でかなり笑わせてもらえた。土俗的なまでに重厚で、芝居気たっぷりな豪演である。指揮者の個性を最重視するなら、これこそが当ボックス・セット随一の快演(というか、怪演?)かもしれない。一方、<フランチェスカ・ダ・リミニ>は重心の低い音がそれなりの迫力をもたらしてはいるものの、全体的な表現に関しては今ひとつ吹っ切れていないようなもどかしさを感じた。(※ついでの話ながら、<フランチェスカ・ダ・リミニ>はバーンスタインが若い頃から得意にしていて、聴き応えのある名演を複数の録音に遺してくれている。)

大序曲<1812年>は、ワシントン・ナショナル交響楽団との録音。速めのテンポを基本にしたすっきり型の演奏だが、受ける印象としては全く平凡。原因は率直に言って、オーケストラの非力さ。ナショナル響と言えばロストロポーヴィチとは長年の付き合いで、気心はお互い十分に知れているだろう。しかし悲しいかな、所詮はアメリカの二流オケ。自(おの)ずと、力の限界がある。交響曲で共演してきたロンドン・フィルあたりと録音していたら、この曲の仕上がりも随分変わっていたように思える。

協奏曲的な作品も2つ、収録されている。まず、<憂鬱なセレナード>。ヴァイオリン独奏はともかく、ロストロポーヴィチが指揮するロンドン響の伴奏はとても良い。いかにもチャイコフスキーらしい“鬱な雰囲気”が良く出ている。次いで、ロストロポーヴィチがチェロ独奏を務めた<ロココの主題による変奏曲>(エラート音源)。この曲についてはライヴの記録も含めて相当数の録音が存在するようで、どれがロストロ先生のベストを示した物かはわからないが、とりあえずここで言えることは1つ。当ボックスに収められた小沢&ボストン響との共演盤よりも、カラヤン&ベルリン・フィルと行なったグラモフォン録音の方が、いろいろな意味で聴き映えがするということである。チェロの響きの豊かさと滑らかさ、表現の闊達さ、伴奏オーケストラの巧さと音色の魅力など、どれをとってもカラヤン盤の方が上であるように思える。

―というところで、今回はこれにて。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする