クラシック音楽オデュッセイア

2009年の大病以来、月1回程度の更新ペース。クラシックに限らず、身の回りの事なども、気の向くままに書いております。

蝶々夫人、ナブッコ、ホロフェルネスの首

2005年08月28日 | エトセトラ
前回まで指揮者シノーポリについて語ってきたが、実はせっかく思いついたのに、やむなくお蔵入りにしてきたネタがいくつかあった。それぞれのトピックの、一回分の枠に収まりきらなかったからである。今回は、それらをまとめて敗者復活(笑)させておきたい。

まず歌劇<蝶々夫人>だが、前回、「シノーポリ対カラヤン」という図式の中で語ったミレッラ・フレーニの他にも、チョーチョーサンの役を得意として2回(以上)全曲録音をしている名歌手が何人かいる。今回、私が聴いて知っている範囲内で、その具体例を挙げておこうと思う。

レナータ・テバルディ : 彼女の<蝶々夫人>スタジオ録音にはモノラル時代のエレーデ盤(L)と、初期ステレオのセラフィン盤(L)がある。私が聴いて知っているのは、後者のセラフィン盤のみ。全盛期のテバルディが聴かせるチョーチョーサンは、かなり堂々とした恰幅の良いものだ。だから第1幕では、チョーチョーサンの可憐さとはいささかイメージが遠いことに不満を感じる。しかし、第2幕の「ある晴れた日に」以降は、指揮ともども素晴らしいドラマが展開する。セラフィンの指揮も、オペラティックな感興に満ちたものだ。随所でさりげなく日本の旋律を浮かび上がらせる技も鮮やか。そう言えば、ここで若き日のコッソットがスズキをやっているのも面白い。この若々しいスズキと貫禄タップリのチョーチョーサンの二人が、場面によっては逆じゃないのかな、このお二人・・なんて思えてしまう。

ヴィクトリア・デ・ロス・アンヘレス : この人の<蝶々夫人>にも、2種類のスタジオ録音がある。ガヴァッツェーニ指揮の1955年盤と、サンティーニの指揮による1959年の再録音盤(EMI)。私はサンティーニ盤のハイライトだけ、少し前に耳にする機会を得た。いかにもこの人らしい清楚なチョーチョーサンだが、やはり15歳の娘には聴こえない。「成熟した大人だけど、少女らしい可憐さを持っている人」というイメージだ。ただ、彼女の歌唱も含めて、演奏の全体的な感銘度はそれ程でもない。何よりもサンティーニの指揮が物足りない。スッキリ型の音楽運びだが、せめてラストにはもっとスケール感がほしい。ビョルリンクのピンカートンは、いつもの彼らしく力強い声で、端正な歌を聴かせる。音楽的には優れた歌唱なのだが、結果的にピンカートンがやたら立派な人に見えてしまうのが困ったチャン。ピンカートンは(特に第1幕では)もっと、ちゃらんぽらんな人でしょ。

レナータ・スコット : この名歌手にもまた、2種類のスタジオ録音がある。私が聴いて知っているのは、旧録音となるバルビローリ盤(EMI)の方。若きスコットによるチョーチョーサンは、非常に魅力的だ。とにかく一途で、情熱的。この主人公の一生懸命さが、悲劇の感動を高めるのである。「ある晴れた日に」のクライマックス部分、Tienti la tua paura と歌う箇所では、日本の演歌みたいに“こぶし”を効かせるが、それがピタリとはまっている。自刃して果てる直前の歌も、まさに渾身の絶唱だ。それと、あまり目立たないが見逃せないポイントがもう一つ。このオペラの大事な登場人物の一人であるシャープレスについては、なかなか名唱に出会えないのだが、ここで歌っているローランド・パネライは良い味を出している。当バルビローリ盤はハミング・コーラスがあまり巧くなかったり、オーケストラが洗練味に欠けていたりする不満もあるが、演奏家の暖かい心が伝わるユニークな名盤である。またこれは、イギリス人サー・ジョンではなく、洗礼名がその出自を表しているところの、ジョヴァンニ・バッティスタ・バルビローリに出会える録音とも言えるだろう。残念ながら、スコットがより円熟してからの再録音(※マゼールの指揮によるソニー盤)は未聴なので、そちらについては何とも言えない。

―さて、シノーポリ・シリーズの最初に語った通り、指揮者シノーポリに私が親近感を持つきっかけとなったのは、ヴェルディの歌劇<ナブッコ>の名演奏だった。これについても、今回ちょっと補足しておきたい。まず、ごく簡潔に言っておくと、私にとってのベスト・ナブッコは、若きムーティのEMI盤である。それに次いで、このシノーポリ盤とガルデッリのデッカ盤が良い勝負で並んでいるという感じだ。

若きムーティのEMI盤はまず、速いテンポでガンガンたたみこんで行くムーティの熱い指揮が良い。ヴェルディの初期作品には、この“熱さ”が大事である。歌手陣も揃って素晴らしい。特に、アビガイッレを歌うレナータ・スコットが見事だ。ザッカリアを歌うギャウロフの声は、「カンタービレ」という言葉の究極を体現している。よくまあ、こんなにも滑らかな高音が朗々と出せるものだと、唖然とさせられる。ムーティがスカラ座のボス(?)になってからの<ナブッコ>全曲も、かつてBSなどで視聴した。しかし私にとっては、やはりこの若い頃のハチャメチャな音楽の奔走、その沸騰サウンドの方がより好ましいものに感じられる。<ナブッコ>に限らず、後年のムーティは、暗い感じの渋い演奏が目立ってくるように思われる。

ガルデッリの指揮によるデッカ録音は、LP時代の懐かしい名盤。ここではまず、エレナ・スリオティスが歌った超弩級のアビガイッレが聴き物である。オールラウンドな完成度の高さを示すスコットとは対照的に、スリオティスは持ち前の強靭な美声でストレートに切り込んでいく。スコットとスリオティスの二人が、私の中ではアビガイッレ役に関する“東西の横綱”になっている。(※敢えて順位をつければ、スリオティスの方が上。)それと、ウィーン国立歌劇場の素晴らしい合唱。この合唱の見事さは、ムーティ盤をはるかに凌ぐ。

シノーポリ盤(G)は、やはり何と言ってもシノーポリの熱い指揮ぶりがまず注目される。ただ、歌手陣は玉石混交。カプッチッリのナブッコは立派。ヴァレンティーニ=テッラーニのフェネーナも良い。ドミンゴのイズマエレも、贅沢なキャスティングだ。しかしアビガイッレを歌うディミトローヴァと、ザッカリアを歌うネステレンコはどうもいただけない。前者はただ馬鹿みたいな大声を張り上げるばかりで、その歌は率直に言って神経に障る。後者は、スラヴ系の硬い声が今ひとつヴェルディのカンタービレに乗れていない。だから正直に言うと、シノーポリの<ナブッコ>全曲録音は、この指揮者に親近感を持たせてくれたきっかけではあったけれども、繰り返し聴いて楽しむ名演になっていた訳ではないという事なのだ。

ところで、このオペラの主役ナブッコのモデルとなっているバビロニアのネブカドネザル王(在位604~562BC)について、少し前にちょっと興味を持って調べてみたら、思いがけず有名なエピソードに出くわしたのだった。(※ちなみに、ヴェルディの<ナブッコ>で描かれている物語は、586BCから、その後の7年間にあたるものと考えられているようだ。)

世界制覇を目論むネブカドネザル王は、腹心ホロフェルネスをイスラエルに派遣して包囲させた。勝利は目前だったが、ユディトという女性の身を呈した勇気ある策略によって、戦況は大逆転されるのである。

{ ユディトは亡き夫の喪に服して静かに暮らしていたが、イスラエルの危機的状況に直面して立ち上がる。彼女はまず、国を裏切ったふりをして、敵将ホロフェルネスに身を委ねる素振りで近づく。ユディトの美貌にすっかりホの字になった彼は、気を良くして深酒。いい気分になって眠り込む。そこへ大きな刀を持ったユディトがこっそりやって来て、彼の首をバッサリと斬り落とすのである。ユディトによって、「全世界を震えさせる」という名前を持った辣腕の軍人は亡き者となり、イスラエルは危機を脱したのであった。 }

さて、このユディトという有名な女性のお話から連想されるのは、R・シュトラウスの傑作<サロメ>である。周知の通り、この作品の中でもヨカナーン(=ヨハネ)という有名人が最後に首を斬り落とされる。そこで、次回から数回にわたって<サロメ>の演奏史を追ってみようかと思う。と言っても、実体はそんな偉そうなタイトルをつけられるような物ではなく、要するに、自分が知っている<サロメ>の全曲演奏を収録年代順に並べ直して、それぞれについての感想を少しずつ語ってみようという企画である。いささか羊頭狗肉っぽいが、まあ、同好の士に気軽に読んでいただけたらと思う。

【2019年4月27日 おまけ】

●若きムーティのEMI盤<ナブッコ>全曲より、開幕の合唱

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<蝶々夫人>~シノーポリ対カラヤン

2005年08月25日 | 演奏(家)を語る
前回の記事「シノーポリのプッチーニ録音」からの続きである。彼が指揮したプッチーニの歌劇<蝶々夫人>全曲盤(G)で主役のチョーチョーサンを歌っているのは、ミレッラ・フレーニだ。そしてピンカートンがホセ・カレラスで、スズキが大ヴェテランのテレサ・ベルガンサという顔ぶれである。この録音については、主役がフレーニということで、カラヤン&ウィーン・フィルによる2種類の記録、即ちデッカのスタジオ盤と、ジャン=ピエール・ポネルの演出で収録されたユニテル映像盤との比較が、興味深いものと思われる。

カラヤン&ウィーン・フィルの<蝶々夫人>デッカ録音は、LP時代から随分と世評が高い。これぞベストと、絶賛する人も少なくないようだ。しかし、正直言って、私はこのデッカ盤には全く感動出来ない。大きな理由は、二つ。これ見よがしなわざとらしいカラヤンの表現と、やたらガンガン鳴り響くデッカの録音。カラヤンの指揮はダイナミック・レンジの広さと表現の起伏の大きさ、そして精妙な音作りをもって、聴く者を圧倒する。しかし、(少なくとも私の)心には何も響いてこない。デッカの優秀録音によって、耳を抑えたくなるような物凄い音響があちこちで轟く。これを聴きながら私の脳裏に浮かんだ言葉は、“究極の人工美”。つまりこれは、カラヤンという音の天才工芸家が録音スタジオという特殊空間の中で造った、人工美の楽園なのである。

ここでチョーチョーサンを歌っているフレーニは、録音マイクを前にして、彼女が超一流の声楽家であることを証明している。しかし、その歌は感動にまでつながってこない。何だか、精巧に作られたアンドロイドの歌唱を聴かされているような気分になってしまうのだ。有名なアリア「ある晴れた日に」も、最後に子供を抱きしめて歌う別れの歌も、声楽的完成度は極めて高い。でも、それがこちらの心に響くところまでは来ていない、という感じなのである。そこへもってまた、オーケストラがわめき過ぎ。耳を押さえながら、「もう勘弁してくれよ」と言いたくなる。パヴァロッティが演じるピンカートンも、後述するドミンゴほどの感銘は与えてくれない。最後の「バーテルフラーイ!バーテルフラーイ!」の呼び声も何だか、白々しい。―という訳で、カラヤンのデッカ盤、どうも世間で言われているほどに素晴らしいものだとは、私には思えない。

ところが、同じ1974年に製作された映像収録盤は全く、印象が違う。この映像盤の方が主役フレーニの歌唱も、オーケストラの演奏も、その声や響きに血が通っていて大変に深い感動を与えてくれるのである。不思議だが、本当だ。(←この表現に懐かしさを感じる人は、40~50歳代に属する方の一部であろう。)「ある晴れた日に」は勿論のこと、最後に子供に別れを告げる場面の歌も、心からの絶唱になっている。これを聴いてこそ、フレーニが最高のチョーチョーサン歌手であったことが頷けるのだ。しかし、何が違うのだろう?この映像盤だって劇場のライヴ収録ではなく、やはり最初にスタジオで音声だけの録音をしておいて、その後出演者が衣装を着けて、いわゆる“口パク演技”で映像を撮影するという方法を取っているはずのものだ。それなのに、この感銘度の大きな差はいったい何なのか?

一つの理由は、音質にあるのかも知れない。当時の映像収録盤というのは、ハイファイ・ステレオとは言いつつも、概して音声は引っ込み気味だった。この<蝶々夫人>もその例外ではないのだが、それがかえってデッカ盤よりも聴く者の耳にずっと優しい音になっているという好結果を生んだのかも知れない。しかし、そんな事で説明が事足りる訳がない。やはり、演奏自体が違うと言わねばならないような気がするのである。単に「ピンカートン役がパヴァロッティではなく、ドミンゴだ」というだけの違いではなく、もっと根本的に演奏そのものが違うとしか思えないのだ。

そう言えば、このドミンゴのピンカートンも素晴らしい。港ごとに女を作り、チョーチョーサンとも遊び半分に結婚する軽薄なヤンキー、そして最後は自らが行なった行為への激しい後悔に苛まれる米国海軍士官。ピンカートンという男が持つその両面の姿を、彼は見事に演じ切っている。「さようなら、愛の家よ」はまさしく、真に迫った名唱だ。私の感じるところ、デッカ盤のパヴァロッティよりも遥かに、ドミンゴのピンカートンの方が心に迫る。

ただし、映像そのものについて言えば、日本人の目で見ると、ポネル演出にはかなりツライ思いをさせられる。チョーチョーサン自身とその親族、母親、おじの僧侶、彼女に言い寄る金持ちのヤマドリ、いずれもショッキングなまでに奇天烈な姿で登場するのだ。名歌手ルートヴィッヒが演じるスズキも、日本人女性の所作を真似ているらしいのだが、それが何とも珍妙。この映像盤の脇役で納得させてくれたのは、ミシェル・セネシャルが演じた結婚仲介人のゴローぐらい。いかにも太鼓持ちという感じの、“いけずな男”ぶりが絶品だった。そういう訳で、カラヤン&ウィーン・フィルの映像盤<蝶々夫人>は希代の名演奏ではあるが、映像はなるべく観ないで、という条件付きにしたいところである。(※私の場合、二度目以降はモニターの上からバスタオルを垂らして画面を隠し、一番下の字幕だけが見えるようにして鑑賞した。)


さて、同じフレーニ主演による1987年のシノーポリ盤<蝶々夫人>(G)。これはまず、録音が凄い。と言うより、ちょっとガンガン鳴りすぎ。うかつにボリュームを大きくして聴いていると、耳が痛くなるような音だ。特に終曲はかなり音量を絞らないと、神経の方がまいってしまう。シノーポリならではの楽譜の抉り出しは、ここでも例によって凄いのだが、それがやかましい音響という結果になってしまっているのが残念。しかし一方で、チョーチョーサンとスズキによる「桜の二重唱」など、テンポを落として旋律美に耽溺し始めるあたりが、いかにもシノーポリ節という感じで面白かった。

ここでのフレーニの歌は、デッカ盤でのアンドロイド歌唱よりはずっと人間的で好ましいものだ。しかし、同じカラヤンの映像盤で聴かれた若々しい抒情のみずみずしさと、それに力強さを兼ね備えた名唱の方が、私にはさらに魅力的に感じられる。ピンカートン役のカレラスはちょっと、わめきすぎだと思う。ヴェルディ歌劇での英雄的な役柄(例えば<スティッフェリオ>のタイトル役などは思いっきり似合っていて、彼は映像付きで素晴らしい名演を記録している)ならともかく、このピンカートンまでそんなに力まなくてもいいでしょうって・・。

それやこれやで、必ずしもそれぞれの作品のベストであるみたいな言い方は出来ないものの、シノーポリのプッチーニはどれも私にとって大変に興味深いものばかりだったのである。そういう捉え方をしている人もいるんだな、ぐらいにお受け取りいただけたらと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シノーポリのプッチーニ録音

2005年08月22日 | 演奏(家)を語る
前回の続き。マーラーの交響曲なども個性的で面白かったが、シノーポリ氏の数あるレパートリーの中でも、私にはプッチーニのオペラが一番印象的なものだった。以下、具体的な演奏につての感想文を書いてみることにしたい。

歌劇<マノン・レスコー>

シノーポリの<マノン・レスコー>については、2種類の音源に触れた。まず、イギリスはコヴェント・ガーデンでのライヴ映像収録盤。キリ・テ・カナワのマノン、プラシド・ドミンゴのデ・グリュウ、トマス・アレンのレスコー(=マノンの兄)といった出演者達である。これに続いて、音声だけのグラモフォンCD。こちらはミレッラ・フレーニのマノン、ドミンゴのデ・グリュウ、そしてレナート・ブルゾンのレスコーという顔ぶれだった。オーケストラは、フィルハーモニア管。

両者の出来については、“おっつかっつ”というところで、単純に優劣が言えない。第2幕のマノンのアリア「この柔らかなレースの中で」は、圧倒的にフレーニが良い。映像盤のカナワは一番大事なところでまるで声が出ていないので、お話にならない。逆に第3幕の最後でデ・グリュウが船長に泣きつく場面、「ご覧下さい、狂った僕を」の部分は、CDでは今ひとつ盛り上がりに欠けるのだが、映像盤の方はドミンゴの熱演する姿が実際に目で見られることも加わり、断然迫力があって良い。マノンの兄レスコーは、声自体はCDのブルゾンが貫禄たっぷりだが、映像盤のアレンも良い。容姿がいかにもマノンの兄らしいし、演技も上手。この二人は、いい勝負である。

最後の第4幕で聴かれるマノンのアリア「ひとり寂しく」も、やはりフレーニの方が聴き映えのする歌唱を聴かせてくれる。一方、映像盤の第4幕は、何よりもその映像の力ゆえに捨て難い魅力を持つ。ドミンゴ演じるデ・グリュウがボロボロになって地の果てをさまよう姿、これはもう最高である。このオペラが描こうとしたカタストロフそのものだ。「こういう姿を演じさせたら、ドミンゴの右に出る者はいないんじゃないか」とさえ思える。そしていずれにも共通するのが、シノーポリの指揮の鮮やかさである。CDの方は全体におとなしい印象の録音なので、人によってはもどかしく感じられてしまうかも知れないが、指揮者が楽譜の細かいところまでよく拾い出して音にしているのは十分にわかる。

そんな訳で、少し古い思い出話になってしまうものだが、これら2つの<マノン・レスコー>の名演に触れたところから、シノーポリのプッチーニ演奏に対する私の高い評価付けが始まったのである。

歌劇<トスカ>

<トスカ>もやはり、シノーポリには2種類の記録がある。まず、メトロポリタンでの映像収録盤。これはヒルデガルト・ベーレンスのトスカ、ドミンゴのカヴァラドッシ、そしてコーネル・マクネイルのスカルピアといったメンバーであった。その後、1990年にミレッラ・フレーニの主演による音声だけのCD(グラモフォン盤)が作られた。カヴァラドッシ役はやはりドミンゴだが、スカルピア役は若きサミュエル・レイミーになっている。

このメトロポリタンでの映像記録に触れた時に、私の中でのシノーポリ評価が確定した。もう随分前の記憶で語ることしか出来ないのだが、とにかく激烈な指揮であった。メトのオーケストラは、力強くダイナミックな表現に長けている。シノーポリの指揮のもとでも、物凄い爆裂サウンドを披露した。とりわけ鮮烈だったのは第1幕最後の「テ・デウム」で、合唱団ともども、よくぞまあこれほどスケール巨大な演奏が出来るものだと、当時は畏怖の念さえ感じたほどだった。いずれにしても(出演歌手達には少なからず不満があったものの)、この時の体験をもって「プッチーニ指揮者としてのシノーポリ評価」が、私の中で確定したのである。

フレーニの主演による1990年のグラモフォン盤でも、シノーポリならではの鮮烈なプッチーニ・サウンドが聴かれる。メト・ライヴの凄さが決してまぐれではなかった事を、しっかり証明している。このCDは、録音も凄い。ただ、フレーニはこの時55歳ぐらいだったし、ドミンゴも50歳になる直前ぐらい。このお二人の現役寿命の長さにはほとほと驚嘆してしまうが、これは逆に言えば、シノーポリ氏の意にかなう歌手が若い世代にはいなかったということなのかも知れない。しかし率直に言って、さすがのフレーニ&ドミンゴでも、この年齢でのトスカ共演にはツライものがある。フレーニは「仮に若くても、トスカ役にはどうかな」と思われる人なのに、50代半ばでの録音。ちょっとなあ、である。ドミンゴも苦しい。「星はきらめき」など、聴いていてつらくなってしまう。逆に、若きスカルピアを演じるレイミーは全くの力不足。この迫力のなさ、存在感のなさは何事だろう。ただ歌っているだけ、という歌唱だ。やれやれ・・。

さて、最後の一つとなる歌劇<蝶々夫人>については、主演がやはりミレッラ・フレーニであることから、1974年に作られた2種類のカラヤン盤との比較が興味深い。そうすると当然、これは長い話になるので、今回一回分の枠には、どうしたって収まらない。という訳で、次回は歌劇<蝶々夫人>を独立したトピックにして、ゆっくりとシノーポリ盤(G)と2つのカラヤン盤(デッカのスタジオ録音と、ポネル演出による映像盤)を中心に語ってみたいと思う。

(PS)アルファーノの歌劇<シラノ・ド・ベルジュラック>について

歌劇<トゥーランドット>シリーズの中で枠に収まらず、棚上げしていた話をここで補っておきたい。プッチーニの歌劇<トゥーランドット>を補筆完成させた作曲家フランコ・アルファーノの話である。彼には、周知の通り、いくつか自前の作品がある。数ヶ月前にそのうちの一つである歌劇<シラノ・ド・ベルジュラック>の全曲が、新しいDVDと1970年代のライヴ録音によるCDという、二つのソースで発売された。

諸般の事情から、私は古い音源のCDを入手した。しかし、このGalaレーベルのCDにはいつもの事ながら、対訳はおろか歌詞ブックも一切ない。そしてこれほどにマイナーな作品となると、ネット上にも台本サイトがない。これには往生した。歌詞はフランス語なので、台本だけでも見つかれば何とかわかるだろうと考えていたのだが、空振りしてしまった。ごくごく大雑把な筋しか分からない。そんな訳で、このブログに作品紹介みたいな形でちゃんとした記事が書けないのが残念である。

音楽としては、プッチーニのヴェリズモ的な側面を受け継いだような感じ。開幕の前奏曲や、第2幕第2場への前奏曲など、いかにもプッチーニ譲りといった感じの抒情的なメロディが聴かれる。ただ、出演者たちの具体的なやり取りを聞き取れないこともあってか、彼らがよく大声を出す場面が多い割には、こちらの心に何も響いてこないのが困ったチャンだった。特にテノール役のシラノがあちこちでよく叫ぶのだが、何だか辟易させられてしまうばかりなのである。

勿論、良いところもある。例えば、第4幕で死を間際にしたシラノが木の葉を見つめる場面など、しみじみとした音楽がいい味を出している。あるいは、C’etait vous!(=あれは、あなただったのね!)と、ロクサーヌが事実に気づく場面も、ここぞとばかりに音楽に力がこもる。これはDVDの方ではどんな出来栄えなのか、いつか観てみたいものだ。・・・という訳で、この作品についての現段階での評価は保留としたい。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジュゼッペ・シノーポリ

2005年08月19日 | 演奏(家)を語る
前回まで歌劇<トゥーランドット>を話題にしてきたので、プッチーニつながりで話を進めてみたい。今、私の頭に浮かんでいる名前は、去る2001年4月、ヴェルディの歌劇<アイーダ>を指揮している最中に急死してしまったイタリアの名指揮者ジュゼッペ・シノーポリである。実は私にとって、シノーポリ氏は何よりもプッチーニ作品の演奏で最も印象に残る人なのであった。これからそのシノーポリ氏について、演奏会の思い出なども含めて語ってみたいと思う。

ふり返ってみると、シノーポリという名に初めて触れた最初の頃のイメージというのは、「現代音楽を得意とする指揮者の一人」というものだった。1980年代初頭のことである。もう四半世紀も前の話だ。当時は“知る人ぞ知る”存在だったミヒャル・ギーレンや故エルネスト・ブールと並んで、イタリアにはシノーポリなる人物がいるらしいぞという感じだった。彼はマデルナとかマンゾーニとか、一般的には馴染みの薄い作曲家をよく採りあげていた。自作自演の<ルー・ザロメ>などもFMで紹介されていたから、作曲家の顔も持つブーレーズ型の人なのかな、なんていう風にも見ていた。

そんなシノーポリが近しい存在になったきっかけは、ヴェルディの歌劇<ナブッコ>全曲を指揮したグラモフォン録音(1982年)が登場して話題になった時からである。これをFMで聴いた時、「おおっ、熱い演奏だなあ。シノーポリって、そういう指揮者だったのか」と思った。そして、こういう熱いヴェルディをやってくれる人っていいなあ、と親近感を抱いたのである。歌手陣については玉石混交で、必ずしも万全の顔ぶれとは言い難いものだったが、「シノーポリって人は、爆発的な演奏をやることがあるんだなあ」という印象は強烈に伝わってきたのだった。

その後、シノーポリ氏は精神医学に精通しているとか、哲学的な考察が深い人だとか、いろいろ伝えられるようになって注目度も高まった。当時のマーラー・ブームにも乗って、「精神医学の専門家がその深奥を抉り出す、空前のマーラー演奏」みたいな取り上げ方もされて、いつしか熱心な崇拝者、あるいは信者さんたちを生み出すようにもなっていった。もう十何年も前になるが、ある雑誌の中で彼が浅田彰氏と行なった対談記事を読んだことがある。しかしまあ、そこに出てきた人名と用語の凄かったこと。デリダがどうしたの、アドルノが何を言ったの、何がシミュラークルだのと、二人の思弁的なやり取りには唖然としてしまった。と言うより、「何を言ってるんだか、わかりまっしぇん」という状況だった。今でも辛うじて覚えているのは、「解決された演奏(あるいは作品)は、消費されてしまいます。だから、未解決のまま残す事が大事なんです」という、シノーポリ一流の態度表明ぐらいだ。

その彼がおそらく最も気力・体力ともに充実していた時代、1990年頃のことだったと記憶するが、凄い企画が日本で実現した。≪マーラー交響曲全集:連続演奏会≫である。オーケストラは、彼とグラモフォンへのマーラー録音を一緒に行なっていたフィルハーモニア管弦楽団。私の記憶違いでなければ、<第1番>から<第9番>まで一度も間に休みの日を入れず、毎晩ぶっ続けで、一曲ずつ上演したものだったと思う。ちょっと信じられないような企画だが、確かそうだったはずである。

私が高いお値段のチケットを買って会場に足を運んだのは、その最後を締め括る<第9番>のコンサートだった。颯爽とステージに登場したシノーポリ氏が、例の真っ黒い髭面から白い歯を見せてニッコリしつつ、すばやいお辞儀をした。やがて静かに、あの<大地の歌>の終曲から地続きになっているメロディが始まる。生で聴くシノーポリ&フィルハーモニア管の音は、まさに録音で聴きなれていたあの音だった。精妙な響きに加えて、独特の柔らかさがあるものだ。ステージ真正面の席はさすがに即売り切れで手に入らず、少し左側に寄った席だったので、多少音が偏って聴こえてきたのは仕方なかったけれども、大好きな交響曲の一つであるマーラーの第9番を生で聴けたのは、それだけでも幸福な体験だった。しかも、この日はまた“観客が大成功”だったのだ。最後の消え入るようなアダージッシモの部分では、本当にみんなが息をひそめて聴き入って、最後まで素晴らしい沈黙の空気が会場に満ちていた。う~ん、至福!

ただ、この日のオーケストラには、明らかに疲労の色が出ていた。本来のパワーが出しきれていないのが、よくわかった。特に、トゥッティに力がない。第1楽章のクライマックスも、第3、第4楽章もそうだった。しかし、無理もない。連日マーラーの長大な交響曲を演奏し続けてきた上に、あの第8番<千人の交響曲>をやった直後なのだ。「最後の第9番も、元気いっぱいでやってくれよ」なんて要求する方がむしろ、酷というものだろう。そのオーケストラの疲労色が唯一、致し方ないこととはいえ、残念なところであった。この企画は、もう少し日程的な余裕を持たせる形には出来なかったのだろうか。その頃のシノーポリの売れっ子ぶり、多忙なスケジュールからしてそうせざるを得なかったのかも知れないが、当時の職場にいたクラシック好きの同僚が、「正気の沙汰じゃないよね」なんて言っていたのを今でもよく覚えている。

シノーポリが指揮したマーラー演奏で私が聴いたのは、第1、2、4、5、8番と<大地の歌>の録音(G)、そして生で聴いた<第9番>だけなので、すべてを総括するような物の言い方は出来ない。基本的には私も、「マーラーと言えばまず、ワルターとバーンスタイン」などとつい言ってしまうクチなのだが、シノーポリのマーラーも面白いと思う。一頃よく使われた、「精神医学のメスが曲の深部を抉り出した演奏、云々」という言い方にはちょっと眉唾なものを感じたものの、彼一流の個性的なマーラー演奏には独自の魅力があった。

まず、響きの精緻さと柔らかさ。生で聴いた<第9番>でもつくづく感じたのだが、この人のマーラー・サウンドには独特の柔らか味がある。続いての魅力としては、「どこで何が起こるかわからないスリルがあった」ということになろうか。まず、思いがけない楽器の音が飛び出して来て、エッと思わされる事がしばしばある。そして、テンポの伸縮幅が大きい。速いテンポでさっさか進めていたのが、突然ゆーったりと旋律を歌いだすなんて事がしょっちゅう起こる。(※こういった旋律美への耽溺は彼のオペラ録音、特にプッチーニ作品にしばしば見られる。)

そしてこの自由さは時として、発作を起こしたような爆発になって現われることもあった。いつだったか、彼がウィーン・フィルとのライヴで<第1番>をやったことがある。もともと予定されていた指揮者が出られなくなって、シノーポリ氏が急遽代役で呼ばれたのだ。NHK(のBSだったか)で放送された演奏会だが、その時はもうキレまくりの変てこ演奏になっていた。発作と癇癪の連発地獄。ウィーン・フィルはすっかりシノーポリ氏に懲りてしまった、という裏話をその後音楽雑誌で目にした。しかし、立派だけどつまらない演奏ばかりやっている指揮者よりも、こういうシノーポリみたいな人の方が音楽家としてはずっと魅力的だと思う。

今回の冒頭に書いた話に戻るのだが、私なりにふり返ってみると、シノーポリ特有の“抉り出し鮮烈サウンド”が最も場を得ていたのは、実はプッチーニのオペラだったんじゃないかなという気がするのである。彼がオーケストラから引き出す音が完全に血肉化して鳴り響いたのは、(ヴェルディの初期作品もさることながら)やはりプッチーニのオペラだったように思えるのだ。尤も、そんな風に彼を捉えているクラシック・ファンはかなり少ないのではないかと思う。そこで次回は、シノーポリが遺したプッチーニの録音に目を向けてみることにしたい。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歌劇<トゥーランドット>~レヴァインの映像盤

2005年08月11日 | 演奏(家)を語る
歌劇<トゥーランドット>の第4回・最終回である。前回の枠に入りきらなかったジェイムズ・レヴァインの指揮による1987年4月のメトロポリタン・ライヴについて、そのビデオ映像を観た感想文を書いてみたい。(※前回からの通し番号で、これは5番になる。)

5.レヴァイン指揮によるメトロポリタン歌劇場・1987年ライヴ 【グラモフォン ユニテル映像盤】

これは、歌劇<トゥーランドット>がどういう作品なのか知りたいという“初心者さん”は勿論の事、かなり目と耳が肥えたオペラ・ファンに対しても高い満足度が保証されている、素晴らしいライヴの記録である。

まず、出演歌手たちのお話から。エヴァ・マルトンのトゥーランドット、プラシド・ドミンゴのカラフ、この二人の主役がともに見事だ。ここでのドミンゴは極めて好調で、カラフ役に於いては当時まさに最高の人だったと思わせるだけの力を、声・歌唱・演技の全てにわたって十二分に発揮している。90年代に入ると、さすがの超人ドミンゴも声にはっきりと翳りが出るので、その意味でもこれは貴重な記録だろう。タイトル役のマルトンも凄い。彼女がこの役を歌った他の録音は未聴なので、これだけで断定的な言い方は出来ないが、このライヴにはおそらく彼女のベストが示されているのではないかと思う。風貌は、「ちょっと怖そうな、おばさま」に見えなくもないが、まあ私の目には許容範囲である。しかし、そんな事より、この凄い声を聴くべし!である。最初の一声から、最後のカラフとの二重唱まで、圧倒的な声が響き続ける。

例えば第2幕の幕切れ場面、彼女の声は合唱団とオーケストラの大音響を突き抜ける。あのニルソンさながらに、である。さらに第3幕、カラフが「私の名はカラフ!ティムールの息子です」と自ら名乗ったのを受けて、So il tuo nome!(=今、あなたの名前が分かったわ!)と二回叫ぶところ、ここも凄い。彼女は二回とも、強靭なフォルテの声を使うのだ。前回ご紹介したメータのメト・ライヴで歌っていたニルソンは、二回のうち、後の一回は抑えた声を使った。(※尤もニルソンの場合は、声がつらいからではなくて「表現として、このセリフの一回の方は柔らかく言うべきだ」という解釈でやっていたのかも知れない。)いずれにしても、最後までこんな声が出せるマルトンは凄いということに変わりはない。超難役とも言えるトゥーランドットに真正面から臨んだ姿勢に、心からの敬意を表したい。少なくとも、大声を張り上げるだけの歌唱になっていないのは立派だ。

レオーナ・ミッチェルが演じたリュウも、非常に良い。同じ黒人ソプラノとして先輩格に当たるバーバラ・ヘンドリックスもカラヤン盤で同役を歌っていたが、私の感ずるところ、ミッチェルの方がずっとプッチーニの世界に声が合っている。オーケストラ、合唱、そして主役の二人がとんでもなくパワフルに叫び合う(?)中、力負けせずに、なお且つ優しい抒情的表現で観る者を感動させる。これはなかなか、大変な事だ。ここでのミッチェルは、それを見事にやってくれている。

ティムールを歌っているポール・プリシュカは、同じレヴァイン&メトロポリタンによるヴェルディの歌劇<ルイザ・ミラー>全曲(1991年)にも悪役ウルムで参加しているが、そちらの方でよりはっきり分かる通り、所謂“豊麗な美声”のバス歌手ではない。しかし、前回語ったジャイオッティとギャウロフの比較のように、この役に豊かな美声は必ずしも必要ではない。大事なのは、表現だ。そしてここでの彼は、実に良い味を出している。

指揮者レヴァインも、このオペラの複雑にして壮大な性格をほぼ余すところなく描き切っている。まずいきなり開幕の音楽から、聴く者の度肝を抜く。これは録音の凄さにも驚かされる開幕だ。VHSテープでさえフル・コンポのステレオで再生すると思わずのけぞってしまうのだから、これからDVDで鑑賞なさる方は覚悟して臨んでほしい(笑)。音楽作りは、いかにもレヴァイン・ワールド。とてつもないパワー、激しいアクセント、ディナーミクの大きな振幅、朗々たるカンタービレ、そしてこよなく劇場的な音響空間の創出。先年物故したカルロス・クライバーと同様、レヴァインという指揮者はつくづく歌劇場の人だなあと思う。

映像収録盤ということで、フランコ・ゼッフィレッリによる舞台演出についても語らねばならない。ゼッフィレッリ演出の基本的な特徴を端的に言えば、「最もオーソドックスな舞台を、最も豪華絢爛に作り上げる」ということになる。この人の演出には、奇を衒(てら)った前衛性とか、訳のわからない実験的表現などというものがない。従って、どの作品についても、ゼッフィレッリの演出ならとりあえず安心して鑑賞できるという信頼感がある。特にオペラ初心者にとっては、非常に有り難い存在と言えるだろう。(※但し、この人の演出は、<カヴァレリア・ルスティカーナ>映像盤のエンディングに見られるように、時に説明過剰に陥るのが玉に瑕ではある。)

この<トゥーランドット>でも、ゼッフィレッリは本当に細かいところにまで目を配り、またしっかりとお金をかけて、極めて豪華な舞台を作り出している。第1幕冒頭の群集シーンの迫力、レヴァインの指揮ともども観る者を圧倒する「斧を研げ」の轟然たる合唱シーン、皇帝アルトゥムが姿を見せる第2幕第2場の絢爛たる宮廷、一般の廷臣たちに仮面をつけさせたコメディア・デラルテ風の背景作り・・その素晴らしさを一つ一つ挙げていったら、きりがないほどである。

ところで、皇帝アルトゥムの役をやってもらうために、当時84歳だったユグ・キュエノーをわざわざスイスから招いたことからも、この映像収録にかけるゼッフィレッリの、そして劇場スタッフの、ただならぬ意気込みがうかがわれる。プッチーニが皇帝の声を細いテノールに指定したのは、カラフの英雄性を引き立たせるという音楽的な要求からであって、必ずしもお爺ちゃんに演じて欲しかったからではないと思う。求婚者が次々とやってくるトゥーランドット姫がいわゆる適齢期だと考えれば、その父親である皇帝アルトゥムが80何歳のお爺ちゃんであるというのは、(医学的には可能であっても)やはりちょっと、一般的な親子の年齢差としては不自然な感じが拭いきれない。(※実際、ブゾーニの<トゥーランドット>に出て来る皇帝は、50歳そこそこにイメージされるような、逞しく精悍な男である。)

では、ここでのゼッフィレッリの判断は間違っていたのかと言うと、そうでもないのだ。ここには、ゼッフィレッリ流のリアリズムがある。何故、第2幕も第3幕も、トゥーランドットやカラフでなく皇帝アルトゥムを讃える大合唱で終わるのか、その理由が84歳のキュエノーの存在感によって明らかにされているのだ。この人の姿を見ているだけで、あるいは、この人が玉座から立ち上がって腕を上に掲げただけで、「何だか、有り難いなあ」と思えてしまうのである。また嬉しい事に、キュエノー氏は歌もしっかりしている。この老皇帝には、親子の年齢差を巡る社会通念の議論とは別次元の、「劇世界でのリアリティ」があり、独自の説得力が備わっているという事なのだ。

当メト・ライヴについては勿論、オーケストラの響きが(いつもの事ながら)精妙な美しさに欠けるとか、「斧を研げ」の合唱シーンに獅子舞のようなものが出てくる意味がよく分からないとか、何かしらのケチをつけようと思えば、それも不可能ではない。しかし、これほどに指揮者、歌手陣、舞台演出、そして録音が高いレベルで揃いきった記録が他にあるのだろうか、という感じなのである。

―という訳で、最後に素晴らしいライヴの名盤を語ったところで、当ブログの<トゥーランドット>シリーズは終了である。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする