クラシック音楽オデュッセイア

2009年の大病以来、月1回程度の更新ペース。クラシックに限らず、身の回りの事なども、気の向くままに書いております。

ワルターのマーラー<大地の歌>(2)

2007年02月28日 | 演奏(家)を語る
ブルーノ・ワルターが録音に遺した<大地の歌>を巡るお話、その第2回。番号は前回からの通しで、4番からとなる。

4. (1952年5月17日・ライヴ) VPO パツァーク、フェリアー 

この音源については、TAHRAというレーベルから出ているCDを何年か前に買った。これは前回語ったデッカのスタジオ録音が終了した直後、そのすぐ翌日に行なわれた演奏会のライヴである。(※5月18日のライヴだと主張する説も一部にあるらしいのだが、ここではCDジャケットの表記に従う。)当然ながら、基本的な解釈や表現にデッカ盤との大きな差異はない。にもかかわらず、両者から得られる印象は随分と違ったものになっている。以下、楽章ごとに順を追いながら、当ライヴ盤の特徴を見ていきたい。

第1楽章を聴き始めると、演奏の雰囲気がやはりデッカ盤によく似ていることをまず感じる。ただし、音質は明らかにスタジオ録音よりも劣るので、う~ん、と首をかしげる。録音のバランスにも偏りがある。このライヴでは、歌手たちの声がオン・マイクで大きくとられている反面、オーケストラはやや引っ込み気味になっているのだ。そうすると、これはスタジオ盤にはやはり敵わない音源かなと、ふと思う。オーケストラのアンサンブルも、粗いようだ。しかし、曲が進むに連れてだんだんとエンジンが暖まり、ライヴ演奏ならではのノリみたいなものがはっきりと出て来る。

第2楽章。フェリアーさんのご登場である。相変わらず見事だ。私の感想としては、ここでの演奏はデッカ盤と“どっこい、どっこい”のいい勝負。甲乙つけ難い。敢えて違いを言えば、より良く練り上げられたスタジオ録音に対し、このライヴでは粗めながらもメリハリの効いた演奏が行なわれている、という感じになるだろうか。

第3楽章では、デッカ盤を凌ぐいかにも実演らしいパツァークの力唱が聴かれる。録音が歌手の声にオン・マイクでとられているので、そのような印象が一層強まるようだ。オーケストラについては、上記の第2楽章とほぼ同じことが言える。響きは粗めだが、表現にメリハリがあって、ライヴらしい感興に満ちている。

第4楽章は、テンポの速さがまず特徴的。馬に乗った若者たちが出て来る中間部の激しい盛り上がりは、こちらのライヴの方がデッカ盤よりも上だろう。荒っぽいアンサンブルも、ここでは場を得ているし、それに続く活発な歌も、スタジオ盤でのどこか落ち着いちゃったような演奏よりずっと熱気がある。他の楽章でも感じられるのだが、当ライヴ録音の魅力の一つは、デッカ盤にはない思い切った表情付けが随所に見られることだろう。

第5楽章でのパツァークもやはり、このライヴのほうが力強くて好感が持てる。デッカ盤での歌唱は、(特に、その後半部分で)何だかくたーっと力が抜けちゃったような感じだった。ここでは、聴衆を前にしての緊張感からか声の支えがしっかりしており、歌詞もしっかりと歌いこまれている。

最後の第6楽章。これは大変な名演である。と言っても、出だしから前半部分については、例によってオーケストラが少し引っ込んだ録音なので、オン・マイクで記録されたフェリアーの生々しい歌声を中心に味わうことになる。しかし、中間部のオーケストラ間奏曲に入ると、いよいよただごとでない音楽世界が現出する。〔14:14〕や〔19:00〕で聴かれる低弦の凄みなど、完全にデッカ盤以上だ。〔18:02〕では、ワルターのうなり声。1936年の演奏も、特に第1楽章で彼のうなりがしきりに聞かれたが、指揮者の意欲ばかりが先走っていた太古ライヴと違って、ここではオーケストラが見事に応えている。時折耳にする金管楽器の音程外れなど、取るに足らない小さな問題である。聴く側もこのあたりから、おおっ、と身を乗り出す状況になる。そこからさらに凄いのは、間奏曲に続いて始まるフェリアーの歌唱だ。ここでの彼女の歌には、まさに“絶唱”という言葉こそが相応しい。深みのある声と豊かな表現力、そして雄大と言ってもいいほどのスケール感。そこにライヴならではの緊張感も加わってくるから、聴く者はただひたすら圧倒されるばかりである。少なくとも、今回採りあげているワルターの7種の録音の中で、終楽章に関してこれ以上の名唱を他に見つけ出すことは全く不可能であると言ってよい。

5. (1953年2月22日・ライヴ) NYP スヴァンホルム、ニコライディ

上記4.のすぐ翌年に記録されたワルターの<大地の歌>ライヴ。当時フェリアーはまだ存命だったが、あと半年後に癌で世を去ることになる不世出のアルト歌手はもはや、ステージに立って<大地の歌>をやれるようなコンディションではなかったろう。ここで歌っているエレナ・ニコライディという歌手にはちょっと馴染みがないが、かなり健闘している。この人にはフェリアーのような豊かな声量や表現力はないものの、名指揮者ワルターとの共演ということで発奮したのか、本当に精一杯の力演を聴かせている。時折声がヴィブラート気味に震えるのが気にならなくもないが、歌唱のひたむきさは買いたい。

テノールは、セット・スヴァンホルム。また出た。よほどワルター先生のお気に入りだったのかな。しかし、私はやはり、この人には耐えられない。傍若無人な大声と、がさつで乱暴な歌い方。第1、第3楽章は何とかこらえて聴き通すも、第5楽章に入るとついに、こちらの我慢も限界を超える。「がなるのも、いいかげんにしてくれ!もう頭がいてえよ」である。ワグナーの上演なら、これで良かったのだろうが・・。

一方、ワルターの指揮ぶりは、ここでもさすがである。いや、さすがどころか、今回採りあげる7種の中でも、オーケストラ・パートの充実ぶりに関してはトップ・クラスの出来栄えと言ってもよいぐらいだ。指揮者に気迫がみなぎっているのがよく伝わってくる力演である。全体に速めのテンポ設定がなされているのも、そのような印象を強める一因になっているようだ。音質も、この年代のライヴ録音としてはかなり良い。ふとステレオ録音じゃないかと錯覚するような、広がり感みたいなものさえある。この音源は現在Archipelという廉価レーベルから非常に安く出ているので、お値段的にも求めやすい。

(PS) カスリーン・フェリアーの人柄と、歌曲アルバム

ここで、おまけの話を一つ。デッカの名プロデューサーだったジョン・カルショー氏の著作『レコードはまっすぐに』(学習研究社)の154ページに、名歌手フェリアーの人柄を偲ばせるエピソードが一つ紹介されている。それを短く編集して書き出してみると、大体次のような感じになる。

{ サヴォイ・ホテルで行なわれた晩餐会には各界の名士が招待されたが、フェリアーもそこに名を連ねていた。・・・パーティの終了後、賓客たちは皆ハイヤー、タクシー、あるいはロールスロイスのような高級車に乗って、めいめい帰途についた。フェリアーが私のところへやってきて、こんなことを言った。「ねえ、2シリング6ペンスだけ貸してくれない?これから地下鉄で帰りたいんだけど、お金を持たずに出てきちゃったのよー」。彼女はそういう人だった。 }

カルショー氏はさらに、「フェリアーの音楽的才能は、一番無作為に近いものだった」と同書に書いている。彼女が示した作為性のない歌唱は相当数の歌曲録音に遺されているが、私はまだ、そのうち僅か2枚のCDしか聴けていない。その極めて狭い範囲から、まずシューマンの歌曲集《女の愛と生涯》を代表的な名唱として挙げておきたい。深みのあるアルトの声と驚くばかりに幅広い表現力を駆使して、彼女はこの曲の多様な内容を見事に歌いつくしている。而してなお、そこには頭で考えたようなわざとらしさがなく、歌が限りなく自然体なのである。同じCDに収められた他の歌曲の中では、シューベルトの<ミューズの子>が特に良かった。そこでは太い声の名歌手が思いがけず軽やかに歌っていて、何とも言えず楽しかった。

もう1枚のCDに収められた曲の中では、ブラームスの《4つの厳粛な歌》がユニーク。これはマルコム・サージェントが編曲したオーケストラ伴奏版で、なお且つ歌詞が英語で歌われているという珍品である。基本的にはドイツ語の歌詞をピアノの伴奏で歌ってほしいと思う作品だが、フェリアーの深い声と真摯な歌唱には独特の魅力が感じられる。

(※ところで、《4つの厳粛な歌》という重々しい歌曲集は、男女を問わず、低くて暗い声を持つ歌手にやはり似合っているような感じがする。例えば同じバリトンでも、F=ディースカウやテオ・アダムのような明るめの声より、ハンス・ホッターみたいな深いバス・バリトンの声。ちなみに、ホッターさんは名手ジェラルド・ムーアのピアノ伴奏で、この歌曲集を1951年にスタジオ録音している。当然モノラルだが、このホッター盤【EMI】を聴いていると、「やっぱり、この曲はこういう声で聴くのが一番ぴったり来るなあ」と思う。これは全体にわたって優れた歌唱が堪能出来る名盤だが、特に第3曲「おお、死よ」は圧巻だ。声の迫力もさることながら、そこに漂う空気には崇高ささえ感じられるのである。同じCDに併録されたバッハの<カンタータ BWV82>やブラームスの単独歌曲集ともども、これはリート歌手としてのホッターさんが遺してくれた最良の遺産の一つであろう。)

―次回もう一度だけ、ワルターのマーラー<大地の歌>。残った2種類についてのお話。
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ワルターのマーラー<大地の歌>(1)

2007年02月22日 | 演奏(家)を語る
年末年始特番などと言いながら、もう2月の下旬。どこが年始だ?^^;)しかしようやく、それも終点。今回の特番を締めくくるのは、大指揮者ブルーノ・ワルターである。昨2006年というのは、このワルター先生の生誕130周年だったらしい。数ヶ月前に『レコード芸術』の特集記事を見て、「あら、今年って、そうだったの」という感じだった。たまたま昨年、私は彼が指揮した<大地の歌>のライヴCDを2枚ほど買ったので、これがちょうど良い題材になりそうである。

ワルターが録音に遺したマーラーの<大地の歌>は、有名なデッカとソニーの両スタジオ盤のほかに、ライヴの音源が何種類かある。全部でいくつあるのかまでは分からないが、ここからの記事はとりあえず、私が持っている7種類の音源を録音年代順に並べ、それぞれについての自由な感想文を書いていくという形にしてみたい。

1. (1936年5月24日・ライヴ) VPO、 クルマン、トルボルイ

1936年のライヴ録音ということで音質は推して知るべしだが、年代の割には良い音だと思う。第1楽章の冒頭から指揮者のうなり声らしきものが、フゥン、フゥンとしきりに聞こえる。かなり力が入っているようだ。楽章ごとに見ると、最後の第6楽章が他よりも良いように感じられる。出だしの暗い迫力など相当なものだし、タイム・カウンター〔13:08〕での低弦も不気味で良い。全体的にはまだ荒削りな印象が強く、後年聴かれる円熟味やスケール感といった要素には欠けるものの、さすがに“曲への理解が深い人”といった風格は十分に伝わってくる演奏である。

ここで歌っている2人の歌手については、どちらかと言えば女性歌手ケルステン・トルボルイの方が少しましなように思う。決して感銘深い歌唱を聴かせてくれているわけではないが、当時としては、これでまあまあ上出来だったのではないだろうか。一方、テノールのリチャード・クルマンという人はちょっとなあ、という感じだ。訛りのあるドイツ語には目をつぶるとしても、第1楽章でオーケストラとずれてしまう場面があったり、第3、第5楽章では声がひっくり返ったり、あるいは歌がヘロヘロになったりと、どうもよろしくない。

2. (1948年1月18日・ライヴ) NYP、 スヴァンホルム、フェリアー

これについては、ドキュメント・レーベルから出ているCDを昨年(2006年)購入した。ニューヨークのカーネギー・ホールで行なわれた演奏会とのこと。ワルターが、夭折の名アルト歌手カスリーン・フェリアーと共演したライヴである。と言っても、御両人が揃った<大地の歌>はこれの前年、つまり1947年にエジンバラ音楽祭で既に実現していたらしいので、当ライヴが初顔合わせというわけでもなかったようだ。ちなみに、そのエジンバラ・ライヴでテノール独唱を務めていたのはピーター・ピアーズ。この時は、終楽章のコーダで感極まったフェリアーが声に詰まり、最後のewig(=永遠に)を一部歌えなくなるという出来事があったらしい。終演後、そのことを詫びるフェリアーに対して、「我々が皆あなたのような芸術家なら、誰でもあそこで涙にくれたでしょう」と、ワルターは逆に彼女を讃えたと伝えられている。

閑話休題。この1948年ライヴもCDの音質としてはまだまだのレベルだが、演奏について言えば、さすがに上記の’36年盤よりもワルターの指揮にスケール感が出てきている。また、力の入れぬき加減というか、音楽の呼吸みたいな物もかなり自然な感じになっている。指揮者の変化と成熟が、明らかに見てとれる演奏だ。

テノール独唱のセット・スヴァンホルムについては、彼が歴史的なワグネリアン・テナーの一人であったことをじゅうじゅう理解しつつも、当作品での歌唱を私はあまり高く買うことが出来ない。率直に言ってしまうと、この人の歌は聴き疲れがするのだ。「英雄的で、逞しい歌」というより、「がさつで、乱暴な歌」に聞こえてしまうのである。一方のフェリアーは、好感度が高い。次の3.以降の録音に比べると、まだそれほどの深みやスケール感は獲得していないが、豊かな声を活かした自然体の歌唱にはまた独特の良さがある。

CDとしての問題点は、特に第2楽章で聴き手を悩ませる大きなノイズ。録音マイクのすぐ脇で揚げ物でも始めたのか、ハンバーグでも焼き始めたのか、ヂリヂャワ、ヂリヂャワ、ヂリヂャワと盛大な“油料理サウンド”が発生するのだ。第2楽章は普通、静かで寂しいムードが聴く者の内省を促すのだが、当CDでは調理場の熱気が伝わってくるようだ。w このノイズは第3楽章で少し小さくなるものの、まだしばらく持続する。そして第4楽章に入るとようやく料理も終わって(?)、静かに音楽に浸れるようになる。

演奏も、この第4楽章が出色の出来栄え。フェリアーの歌も悪くないし、何よりワルターの指揮が感興豊かだ。馬に乗った若者たちが登場する中間部では、ちょっと他の録音では聞けないような強烈なシンバルの炸裂がある。さらに、そこから始まる生き生きとした歌は、歌手も指揮者もノリノリでやっているのがよく分かる。モノラル音声というハンディはあるものの、これが大変な力演であることはしっかりと伝わってくる。

3. (1952年5月15、16日) VPO パツァーク、フェリアー

思いっきり有名な、デッカのスタジオ録音。年代からして当然モノラルだが、音質はさすがに優秀である。1952年でこの音ならもう、最高と言ってもいいだろう。演奏についても、“<大地の歌>の不滅の名盤”としてすっかり評価が定まっている。これについてはLPレコードの時代から本当に数多くの文章が書かれてきたが、ほめている内容の物がほとんどだったと思う。批判的な文章を見つけ出す方がむしろ、大変な気がする。とりあえず当ブログでは、それらの中から特に強く私の印象に残っている文例を2つほど並べてみることにしたい。

{ パツァークのテノールは声のなさがかえってプラスとなっていて、ちょっと聴くと楽天的なようであるが、実ははなはだしくニヒルであり、人間のはかなさと弱さを極限まで表現しつくす。・・・少なくとも「大地の歌」に関するかぎり、これ以上の名唱は考えられない。 }

これは、宇野功芳氏が『名指揮者ワルターの名盤駄盤』(講談社)の中でお書きになっていた文章だ。実を言うと、昔このデッカ盤を初めてLPで聴いた時の第一印象は、「何だ、このテノールは?へったくそーっ」だった。ご多分にもれず(?)、私も<大地の歌>については、ワルターのソニー・ステレオ盤から入ったクチである。そこで聴き慣れていたE・ヘフリガーの端正な歌唱が、同曲テノール・ソロの基本的イメージとして刷り込まれていたのだ。だから、パツァークの変な声と歌い方はとにかくショッキングだったのである。何故こんな物が絶賛されるのか、まるで理解できなかった。そこに大きな手がかりを与えてくれたのが、上記の宇野評論だった。「なるほどねえ。声のなさがかえってプラス・・、そういう捉え方もあるんだなあ」と、当時の私にとっては思いもかけなかったような、全く新しい見方が得られたのである。

{ フェリアーのドイツ語は明らかに冠詞を言い間違えたりしていて、かなり気になる。ドイツ語が分かる人には、耳障りだったのではないかしら。 }

元の本がないために必ずしも正確な表記にはなっていないが、これは吉田秀和氏が『レコード芸術』(だったと思う)に昔お書きになった文章の一部である。ドイツ語のミスを聞き取るとは、さすがに吉田センセーだなあと感服した。後の詳しい部分は残念ながら忘れてしまったが、当ワルター盤に対して珍しく批判的な言辞を並べておられたのが非常に新鮮だった。ところが!その何ヶ月か後、「いや、先だっては恥ずかしいことを書いた。・・・これは天下の大名盤なのである」などと、氏は自ら前言を撤回してお詫び訂正するような文章を書いていたのである。何だよ、引っ込めるなよー。せっかく鋭い指摘に基づいたネガティヴな意見が読めたと、こっちは喜んでいたのに。「ワルターのデッカ録音は世評が高いようだが、私には疑問である。まずフェリアーのドイツ語に違和感を持つ」という感じで、しっかりと言い通してほしかった。それだって、立派な見識ではないか。

最後になったが、私が今このデッカ盤について思うところをごく手短に書いておきたい。当スタジオ録音でワルター先生が目指したのは、「後々の時代にまで長く聴き継がれていく、永遠のスタンダードたる名演」だったのではないかと思う。であればこそ、細部まで神経の行き届いた極めて完成度の高い演奏になったわけだし、古典的な造型感の中にキッチリと全曲がまとめられた名演に仕上がったのであろう。逆に言えば、この名盤には、思い切った大胆な表現みたいな物はほとんど見当たらない。こういうタイプの名演に、“踏み外したスリル”を求める方がそもそもお門違いなのだろうが、ふと、「そういう要素も、ちょっと欲しいかな」などという贅沢な不満を感じてしまったりもするのである。
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フィンジとG・バタワースの作品

2007年02月11日 | 作品を語る
前回語った指揮者メリク=パシャイエフのフをしりとりして、今回の出だしはイギリスの作曲家ジェラルド・フィンジ(1901~1956)。この人の曲にも、昨年(2006年)初めて出会ったのだった。

●フィンジ : クラリネット協奏曲、<ソリロクィ>、他 【ナクソス】

わかる人に言わせれば、作曲家フィンジの本領は声楽作品の方にあるらしいのだが、一般的に入りやすいのはやはりオーケストラ曲だろう。中でも<クラリネット協奏曲>を前半に収めたこのCDは、おそらく最良のフィンジ入門ディスクじゃないかなと思う。これを聴いた感想としては、後半に収められた小品集が良かった。具体的には、<3つのソリロクィ(=独白)>と<セヴァーン・ラプソディ>、そして<弦楽のためのロマンス>と<ヴァイオリン独奏と小管弦楽のためのイントロイット>である。冒頭部からいきなり惹きつける<ロマンス>や、先達ヴォーン=ウィリアムズを髣髴とさせるようなソロが聴かれる<イントロイット>もそれぞれに魅力的だが、私はその前の2曲がさらに気に入っている。

<3つのソリロクィ>は全曲通しても5分弱という、非常に小さな作品である。しかし、その第1曲『王の詩』などは、短いながらも本当に美しい曲だ。<セヴァーン・ラプソディ>は6分40秒ほどの曲なので、こちらは割とゆっくり楽しめる。セヴァーン(Severn)というのは、「イギリスのウェールズ中部から北東に流れ、イングランド西部を南流してブリストル湾に注ぐ川」のことであると英和辞典に出ていた。これは、後述するジョージ・バタワースの曲によく似た雰囲気を持つ抒情的な名品である。(※ただ面白いことに、フィンジ自身はその“バタワースっぽさ”が気に入らず、この曲を自分の作品目録から引っ込めてしまったのだそうだ。旺史社から出ている『イギリス音楽の復興』という本の254ページに、そのようなことが書かれている。へえ~、という感じである。同書によると、フィンジは自分の作品に対する評価が非常に厳しい人だったそうだ。性格的にも度を越した自己反省癖があって、周りの人たちはそんな彼の様子を見て随分と心配したものらしい。)

●フィンジ : チェロ協奏曲、<エクログ>、他 【ナクソス】

続いて買ったのが、この1枚。演奏しているのは上記のCDと同じメンバーで、ハワード・グリフィス&ノーザン・シンフォニアである。演奏本位で考えると、こちらのCDの方がやや上位に置けそうな気がする。<チェロ協奏曲>の第1楽章、あるいは最後に収められた<グランド・ファンタジアとトッカータ>などで強く感じるのだが、抒情美よりはダイナミックな表現の方にうま味を見せる指揮者の音楽的志向が、曲に合っているようなのだ。

しかし作品自体の魅力で言えば、このCDでは何と言っても、<ピアノと弦楽のためのエクログ>が一番であろう。ピアノ・ソロのしっとりとした語りから始まって、それがやがて弦楽合奏と絡みながら盛り上がり、最後は再び静かに終わるという設計の曲だ。この曲の両端部で聴かれる抒情的な美しさは、全く格別である。ただし、このナクソス盤の演奏よりももっとしっとりした感じの美しい名演が、将来きっと出て来るんじゃないかと思う。フィンジの作品については、別の演奏家との聴き比べがまだこれから必要であると感じる。

●G・バタワース : <青柳の堤>、<シュロップシャーの若者>、他

さて、ジョージ・バタワース(1885~1916)。第一次世界大戦に従軍して僅か31歳という若い命を散らしたこの作曲家も、歌曲や管弦楽曲などにいくつかの愛すべき名作を遺している。中でも、<青柳の堤>と<シュロップシャーの若者>は、とりわけよく知られた名曲と言えるだろう。この人の作品に触れたのはもう随分前のことなのだが、上述のフィンジからのつながりで、今回ついでに採りあげてみることにしたい。

<青柳の堤>は、のどかな田園の時間を小さく切り取って心のアルバムにしたためたような、美しい小品だ。優しい風と緑の木々が生み出す繊細な息吹が、聴く者の心を淡い夢のひと時に誘(いざな)う。<シュロップシャーの若者>については、まずアルフレッド・ハウスマンが書いた詩をもとにして6曲からなる歌曲集が書かれた。しかし一般的には、その後に書かれた管弦楽曲の方がよりよく知られているようだ。尤もこの両者にはやはり音楽的なリンケージがあって、歌曲集の第1曲『木々の中で最も愛おしきもの、桜が今』で聴かれる主要メロディがそのまま管弦楽版にも活用されている、というのが出だしからすぐに分かる。

これらの美しい作品について私がこれまでに聴いた演奏は、とりあえず2種類。まず、ウィリアム・ボウトンという人の指揮によるニンバス・レーベルのCD。続いて、グラント・レウェリンという人の指揮による国内盤のCD(L)である。この両CDを聴き比べてつくづく感じたのは、「こんなにもデリケートな曲になると、その生き死にが演奏によって大きく左右される」ということだ。

ボウトンの指揮による演奏は、<シュロップシャーの若者>が非常に素晴らしかった。音が精妙で、まるで羽二重のように柔らかい。大きく盛り上がる部分ではかなり力強い音を出すものの、音楽は決してわめかない。これは演奏時間にして10分ほどの小さな曲なのだが、美しい曲想を適確に歌い出すボウトン盤を聴いている間、心はしばし桃源郷である。一方、レウェリンの指揮による同曲の演奏は、若気の至りとでも言うのか、ボウトン盤に比べて明らかに精緻さに欠けており、フレージングなどの点でも魅力の乏しいものに思えた。

ところが、<青柳の堤>では状況が逆転する。ボウトンは例によって精妙な演奏を聴かせるのだが、こちらではそのスフマート画法のように音をけぶらせる不明瞭な輪郭線の描き方が、曲の姿も魅力も何だかよく分からないような感じにしてしまっていた。一方、ここでのレウェリンは素晴らしく、ヴォーン=ウィリアムズ風にくっきりした稜線を描く音作りによって曲が美しい姿を現し、とても感動的なものになっていた。<青柳の堤>は演奏時間にすれば6分そこそこの小さな曲なのだが、フルートのソロにハープが寄り添う後半の一場面には本当に泣かされた(※レウェリン盤 〔4:11〕から始まる部分)。つまり、これらの曲はちょっとした演奏の違いで、上に超の字がつくぐらいの名曲にもなり、また逆に、何だかよく分からない退屈な曲にもなってしまうのである。上述のフィンジ作品についてまだ聴き比べが必要だと私が感じるのは、このような理由からなのだ。

(※ところで、『シュロップシャーの若者』というハウスマンの英詩については、個人的にちょっと懐かしい思い出がある。この詩と初めて出会ったのは学校の授業ではなく、高校時代毎日家で熱心に聴いていたラジオ番組『百万人の英語』だった。今ふり返ると、旺文社が主催していた頃の同番組は、とても充実していた。月曜日のJ・B・ハリス先生、木曜日のトミー植松先生は不動のレギュラーで、他の曜日は定期的に担当者が入れ替わって色々な企画の番組をやっていた。毎週土曜日にやっていた長寿コーナー「サタデー・シアター」も、その一つ。私がもっと成長してからこれに出会っていたらどれほど多くの物を吸収できただろうと、今思うと残念でさえある。当時公開されて話題になっていた映画を紹介したり、シェイクスピアの作品を解説したり、英語の名作詩を読んだり、非常に格調高く、盛りだくさんの内容を持つ名番組だった。『シュロップシャーの若者』とも、そのサタデー・シアターで出会ったのだ。G・バタワースの音楽を耳にするのはずっとずっと後なわけだが、少し背伸びしていた高校時代の思い出と絡んで、私にとってはこの曲、ちょっとばかり特別なのである。)

(※最後に、どうでもいいような付け足し話。『百万人の英語』はその後スポンサーが変わり、そこから一気に卑俗化・低能化の道を突き進んだ。サタデー・シアターのように“退屈な”コーナーは、早々に打ち切られた。ハイディ何とかいう軽い男が出てきて、「違う、ちがーう。betterはね、ベターじゃなくて、ベラ~よ。はい、みんなで、ベ~ラ~」なんて指導をし始めた頃、私はこの番組に見切りをつけた。)
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M=パシャイエフのヴェルディ<レクイエム>

2007年02月06日 | 演奏(家)を語る
前回語ったチェーザレ・シエピも、その次の世代を代表したニコライ・ギャウロフも、ともにヴェルディの<レクイエム>でのバス独唱パートを得意のレパートリーにしていた。私の個人的な意見としては、そのギャウロフさんこそ、同曲の独唱者としておそらく空前絶後の人、最高無類の人だったと思う。それはさておき、この壮麗極まりない鎮魂ミサ曲、これをどのように聴くか、あるいはどのように聴けるかという話になると、「オペラ感覚で楽しんじゃう」というのも、一つの回答としてあると思う。勿論、ここでいうオペラがイタリア・オペラを指していることは、言わずもがなであろう。ロシア・オペラを念頭に置いてそのようなセリフを言う人は普通、いないと思う。しかし昨年(2006年)、その“普通、いないだろう”な演奏のCDを、私は入手したのだった。

アレクサンドル・メリク=パシャイエフは、当ブログでも一連のロシア・オペラの話を通じて少しお馴染みになりつつある人だと思うが、彼が何とヴェルディの<レクイエム>を指揮したコンサートのCDがあったのである。昨年の夏頃だったか、これを中古で見つけるや、私は飛びついて買ったのだった。w ただし、ここで演奏しているのはいつものボリショイ劇場管弦楽団ではなく、レニングラード・フィル(当時)である。合唱団も、今回私が初めて目にする名前の団体で、グリンカ・アカデミック・シャペル合唱団。そして4人の独唱者がまた、思わず“うぷぷっ”な顔ぶれ。ソプラノはガリーナ・ヴィシネフスカヤ、メゾ・ソプラノはイリナ・アルヒーポワ、テノールはウラジーミル・イワノフスキー、そしてバスはイワン・ペトロフ。こんなメンバーによるヴェルディの<レクイエム>が、ライヴで録音(1960年)されていたのである。以下、このCDを聴いた感想文をまとめてみることにしたい。

M=パシャイエフの指揮には、奇を衒(てら)ったようなわざとらしさはどこにもない。真摯(しんし)な姿勢で名ミサ曲に臨んでいる様子が窺われる。作品全体を見渡す目もしっかりしていて、至難な大曲を破綻なくまとめている。一方、普通に聴きなれている演奏とはやはり違うなあ、と思わせる部分もある。具体的に言えば、まず合唱団の発声。これは特に女声パートに顕著なのだが、彼らの声の出し方は、いわゆる“西ヨーロッパ的なベルカント”とは全く異質のものである。当時は、ロシア系の歌い手たちが本当にロシアっぽい声を出していたのだ。第1曲『イントロイトス』で聴かれる男声合唱の土俗的な威力も、なるほどと思わせるものがある。ただ、このCDは(年代的に見て仕方ない面もあるが)モノラル録音であるため、せっかく『怒りの日』などで彼らが爆発的なパワーを発揮していても、それが十分に伝わってこない。ちょっと残念なところだが、一つ救いなのは、ヒス・ノイズのような耳障りな雑音がほとんど無いので、アンプのボリュームを相当大きくしても抵抗なく聴けるという点である。それだけでも、かなりの部分を補うことが出来る。

M=パシャイエフの指揮ぶりで特に印象に残る箇所としては、『トゥーバ・ミルム(=妙なるラッパ)』で重なってくる金管楽器の威力、あるいは『オッフェルトリウム(=奉献唱)』で聴かれる弦楽合奏の引き締まった厚み、といったあたりがまず挙げられるだろう。この辺を聴いていると、さすがにムラヴィンスキーに鍛えられていたオーケストラだなあと思う。一方、『ラクリモーサ(=涙の日)』に曲が入っていく時に見せるリタルダンドの柔らかい表情付けなども、M=パシャイエフは実に巧い。聴きながらギョッとさせられたのは、テノール・ソロが『ホスティアス』を歌いだす直前の弦による前奏。これがまあゴゾゾッ!と凄い音で飛び出してくるのだ。ここをこんなに強く弾かせた例は、他にあまり無いのでは。

しかし、である。このCDを本当に面白いものにしてくれているのは、実は指揮者よりも4人の独唱者たちの方なのだ。彼らが登場するのは『キリエ・エレイソン(=主よ、あわれみたまえ)』からだが、ライヴということも手伝ってか、出だしから皆それぞれに熱演、熱唱を聴かせる。彼らの歌の中で、「こりゃ、ロシア・オペラのノリだな」と真っ先に私に感づかせたのは、テノールのイワノフスキーによる『インジェミスコ(=我、あやまちたれば嘆き)』だった。この歌手は、同じM=パシャイエフの指揮による<ボリス・ゴドゥノフ>の全曲盤で偽ディミートリをやっていた人だ。彼が歌うエキセントリックな『インジェミスコ』を聴いているうちに、私はふと<スペードの女王>のゲルマンを思い出したのである。歌い方もそれっぽいし、「あやまちを犯した私は嘆き、罪を恥じて顔が赤らむ」という歌詞内容も、彼がオペラの中で行なう所業からして妙に納得出来てしまうのだ。参考までに書いておくと、ゲルマンという男は、勝てるカードの秘密を聞き出すために拳銃を出して老婆をショック死させ、さらに、無理やり自分になびかせた娘を自殺にまで追い込んでしまうという、ちょっととんでもない奴なのだ。「平伏して神様に許しを乞います」って、ホントそうするべきなのである。w

メゾ・ソプラノのアルヒーポワが特に面白かったのは、『リベル・スクリプトゥス(=すべて書き記された)』でのソロだ。「世を裁くため、すべてのことが書き記された文書が差し出される。隠されていた事は、すべて暴かれる」といった歌詞を深刻な表情で歌うのだが、彼女の歌い方もまたロシア・オペラのノリになっている。当ブログで扱った作品の例で言えば、<皇帝の花嫁>のリュバーシャあたりがイメージとして浮かんでくる。それと、『ルクス・エテルナ(=永遠の光)』の導入部。ここでも彼女は、非常に劇的な歌唱を聴かせてくれる。

バス独唱のイワン・ペトロフは、『コンフターティス(=呪われし者)』の後半部分で、まるでボリスのモノローグみたいな歌唱を披露する。勿論、歌っている本人はそんなつもりではないのだろうが、聴いているこっちはもうそのノリである。「呪われた者を恥じ入らせ、烈しい炎にお渡しになる時、私を祝福された人たちと一緒に招いてください」といった歌詞も、ボリスがつぶやいたらよく似合いそうな内容ではないか。(※この部分を聴きながら、全盛期のピロゴフかミハイロフがこれを歌っていたらもっと笑えたろうなあ、などと思ったりもしたが。)『オッフェルトリウム』の前半部分も、なかなか良い。ここはメゾのアルヒーポワ、テノールのイワノフスキーと並んでの三重唱になってくるので、マリーナと偽ディミートリのいるところへひょっこり現れたボリスが、「死せる者の魂を、冥府の刑罰と深い淵からお救い下さい」と、何を間違ったか、一緒になって祈り始めちゃったような面白さがある。この珍妙な(?)三重唱は、終曲間際の『ルクス・エテルナ(=永遠の光)』でもあらためて聴くことが出来る。

などと書きつつ、当ライヴで歌っている4人のソロ歌手の中で一番強烈なのは誰かと言ったら、それはやはりソプラノのヴィシネフスカヤということになるだろう。『キリエ』で最初に登場するところからいきなりハイ・テンションだが、『レコルダーレ(=思い出させたまえ)』では、メゾのアルヒーポワを圧倒するほどの存在感を示す。『アニュス・デイ(=神の子羊)』の二重唱では、<オネーギン>のタチヤーナを思わせるような可憐な声も少しばかり聴かせるものの、最後の『リベラ・メ(=我を許したまえ)』に入ると、彼女はついにショスタコーヴィチ・オペラの主人公カテリーナ・イズマイロヴァに変身する。w ひょっとしたら、当CD最大の聴き物は、終曲での彼女の歌いぶりかもしれない。

―それやこれやで、モノラル録音というオーディオ的ハンディはあるものの、これは私が昨年買ったCDの中でも特に印象深いものの一つと相成ったわけである。一般のクラシック・ファンには全く無縁の珍品だとは思うが、聴く側がその気にさえなれば、ヴェルディの<レクイエム>はロシア・オペラの感覚でも楽しめちゃうぐらい懐(ふところ)が深い名作であると分かっただけでも、私には大収穫であった。

さて、次回へのつなぎは、またしりとり。M=パシャイエフのフで続けてみたいと思う。

【2019年5月7日 追記】

この記事を投稿してから、12年が過ぎた。時代は変わり、M=パシャイエフのヴェル・レクみたいなレア音源も、今はYouTubeで普通に聴けるようになっている。当ブログ主も先頃、そのYouTube動画で久しぶりにこれを聴いたのだが、「やっぱり、普通のクラシック・ファンには全然向かないな」と、改めて思った。なので、上の記事は、”ヴェルディの名作レクイエムを巡る、一風変わった面白記事”としてお楽しみいただけたら、それで十分である。

約12年ぶりに当演奏を聴き直して感じた不満を2つだけ挙げると、「モノラル録音である」ということと「バス独唱のイワン・ペトロフに、面白味がない」ということになるだろうか。これがステレオ音声だったら印象も随分(良い方に)変わっていたのは間違いないし、バスのソロがピロゴフやミハイロフだったら絶対にもっと笑わせてもらえて楽しかったに違いないと思えるのだ。
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チェーザレ・シエピのフィリッポⅡ世

2007年02月02日 | 演奏(家)を語る
ヴェルディの歌劇<ドン・カルロ>に出てくる国王フィリッポⅡ世と言えば、バス歌手が受け持つ役として特に有名なものの一つだろう。孤独の苦悩を切々と歌いだす名アリア『ひとり寂しく眠ろう』のほか、妻エリザベッタとの激しいやり取り、あるいは不気味な大審問官との迫力ある二重唱など、歌い手にとっては難しいながらも見せ場の多い、非常にやりがいのある役だと思う。前回までのトピックに繰り返し登場した名歌手ニコライ・ギャウロフは、この役で極めて高い評価を得ていた人だった。今回タイトルに掲げたチェーザレ・シエピは、そのギャウロフよりも少し前の世代に属する名バスである。で、実を言うと、私はこのシエピこそ最高のフィリッポ歌いだったんじゃないかなと、ずっと想像していたのだった。

そのきっかけとなったのは、トゥリオ・セラフィンの指揮によるプッチーニの歌劇<ラ・ボエーム>の全曲盤(L)を昔聴いた時だった。シエピはコッリーネの役で出演していたのだが、彼が歌った『外套の歌』に私は強い感銘を受けたのである。そこに歌いだされていたのは、貧しい若者が古いコートをお金に換えようと出掛ける前のしょぼくれた感傷ではなかった。究極のバッソ・カンタンテとも言うべきその歌声にこめられた情感には、まさに国王の悲哀を思わせるような深さと気高さがあった。「ああ、この人こそ、最高のフィリッポ歌いだったんじゃないかな」と思うようになったのは、そこからである。

しかし、彼がフィリッポⅡ世を歌った<ドン・カルロ>全曲のスタジオ録音というのは、残念ながら存在しない。それならライヴの全曲盤をいつか手に入れてやろうと、長らく思い続けてきた。そして昨年(2006年)、ついにそれが実現したのである。ところで、古いカタログ・ブックで確認できる範囲での話だが、シエピがフィリッポⅡ世を歌った<ドン・カルロ>のライヴ録音というのは、下記の通り、少なくとも4種類はあるらしい。

1.ヴォットー指揮の1956年フィレンツェ・ライヴ (チェルクェッティ、バルビエリ、他)
2.カラヤン指揮の1958年ウィーン・ライヴ (ユリナッチ、シミオナート、他)
3.ヴァルヴィゾ指揮の1968年ウィーン・ライヴ (ユリナッチ、コッソット、他)
4.M=プラデッリ指揮の1972年メト・ライヴ (カバリエ、バンブリー、他)

昨年、中古のお手ごろ価格で入手出来たのは、1.のヴォットー盤(MYTO)であった。これは、1956年6月16日にフィレンツェのテアトロ・コムナーレで行なわれた上演の記録である。

では、本題。自分なりに決めている一回分の枠制限もあるので、今回の記事はシエピのフィリッポにだけ焦点を絞って書いていきたいと思う。となれば、採りあげるべきは第3幕であろう。まず前奏として、悲しみを湛えた美しい旋律を弦が奏でる。この年代のライヴ録音としては、まあまあの音が出て来る。やがて、シエピが歌いだす。「彼女は私を愛したことがない」。このフレーズを歌う時のシエピの解釈には、おそらく一貫したものがあったように思える。A・エレーデの伴奏指揮によるデッカのアリア・リサイタル盤でもそうだったが、彼は、“Ella giammai m’amo ”を思いっきりウェットに歌うのだ。もともとそう歌うように書かれているのだろうが、シエピはまた特別だ。とりわけアリアの最後にこのフレーズが出て来る時など、彼は半分泣きそうなぐらいにしんみりと歌うのである。この名アリアについては、デッカ盤でも彼は勿論立派に歌っている。しかし、1956年ライヴでの歌唱は、そのスタジオ録音をさらに凌ぐものと言ってよいと思う。全曲上演のステージということもあって役柄への入り込みが深く、歌唱にも興が乗っているからだ。歌詞ごとにここで細かく比較していく余裕はないが、感銘度にはっきりと違いを感じる。録音状態には不満があるものの、これが聴けてよかったなあと、しみじみ実感する。

最後を力強く決めて、シエピの名唱が終わる。当然のことながら、客席からは大喝采。鳴りやまない聴衆の拍手を制するかのように指揮者が大きな音でファンファーレを吹かせ、あの大審問官が登場。このライヴで同役を歌っているのは、ジュリオ・ネリである。これまた知る人ぞ知る、かもしれない。オペラ歌手たちを網羅的に紹介した本の中で、「人間離れしたキャラを不気味に演じさせたら、天下一品」みたいに書かれていたバス歌手だ。私はずっと、この人についてはただ名前を知るだけにとどまっていたのだが、ここでついに、その声を聴くことが出来た。

ネリというバス歌手、当CDを聴いた範囲での感想を言えば、必ずしも器用な歌い方をする人ではなかったようだ。しかし、その声の迫力、太い電信柱がズドーンと立っているような威圧感溢れる重々しさは、まさに圧巻である。音に不備のある古い音源なので、その声を十全に堪能することができないのが残念だが、それでも、シエピさえ圧倒するようなドスの効いた声の威力はしっかりと伝わってくる。まずもって、登場したときの最初の一声からして、「うひゃあ、すっごいなあ」という感じなのである。(※ちなみに、世評高きカラヤンの1978年・EMI盤は、まさにこの大審問官が大きな弱点になっている。ルッジェーロ・ライモンディの声は、同役を歌うにはあまりにも軽すぎた。)

この恐ろしい人物が去った後、今度はフィリッポとエリザベッタのやり取りになる。で、ここにも驚きがある。妻と言葉を交わしながらフィリッポが段々と怒りのヴォルテージを上げていく様子がまず聴き物だが、ついに爆発した彼が妻を罵倒する言葉“Ah!La pieta d’adultera consorte!”の凄さといったらどうだろう。名歌手シエピの録音はいろいろ聴いてきたつもりだが、これほどに激昂した言い方、たまった感情を怒涛のように吐き出すような表現を、私は他で聴いた憶えがない。あの<三王の恋>のアルキバルドだって、これほどではなかった。やはり、このライヴCD、シエピさんのフィリッポⅡ世が一番のアピール・ポイントである。他の歌手陣が必ずしも万全の出来とは言えず、またCD3枚組ということでお値段も高いので、これは一般的にお勧めできる音源とは言いにくいが、私としては、シエピのフィリッポⅡ世(と、ネリの大審問官)が聴けただけでも十分に満足させてもらえた。これも、昨年度の大きな収穫の一つであった。

(※録音で聴ける範囲での付け足し話だが、サンティーニ&スカラ座のグラモフォン盤でフィリッポを歌っていたボリス・クリストフも、老王の深い孤独感を訥々と語りだしていて見事だった。しかし、シエピのようなカンタンテななめらかさが彼の声にはなく、そこが少し不満でもあった。一方、シエピ以上の美声を誇ったギャウロフの歌唱は、とりあえずカラヤンのEMI盤を聴いた限りで言えば、心にしみいる情感よりもむしろ歌の巧さを強く感じさせるものだった。衰えた声を上手にコントロールして無理のない盛り上げ方をしていき、最後の“ Amor per me non’ha!”をビシッと決める。その歌唱設計の鮮やかさにこそ、頭が下がった。ギャウロフさんが全盛期に歌ったフィリッポⅡ世を私はまだ聴けておらず、また他のバス歌手による歌唱もほとんど知らないので、どの歌手が一番であるかみたいな話は何も出来ない。しかし少なくとも、「シエピが歌ったフィリッポⅡ世は、非常に素晴らしいものだった」ということは、もうここで堂々と公言していいように思う。)

(PS)《 チェーザレ・シエピ リサイタル 1947-1957 》(MYTO盤)

せっかくなので、この機会にシエピさんのアリア集を1つ。これは、バスの名アリアが全部で19曲収められた1枚物のCDである。まず前半10曲がモーツァルト、ロッシーニ、ベッリーニ、ヴェルディといった定番路線。そして後半の9曲が、マイアベーア、アレヴィ、グノー、ボーイト、ゴメス、ポンキエッリらのレア物系路線になっている。収録曲によって音質にばらつきがあり、伴奏指揮者もまちまちなので、元々あちこちにあった音源を一つに寄せ集めたものだろう。

私の感想としては、後半に収められた曲が断然面白かった。<悪魔のロベール><ユグノー教徒><ユダヤの女><サルヴァトール・ローザ>など、作品自体がちょっと珍しくて貴重だから、このようなラインナップはそれだけでも価値がある。中でも、A・エレーデの伴奏指揮で歌ったマイアベーア・オペラの3曲、そしてアレヴィとゴメスの各1曲は特に素晴らしい。それと、F・クレヴァの指揮で歌ったグノーの<ファウスト>からの2曲(「金の子牛の歌」と「メフィストのセレナード」)も見事だった。A・シモネットという指揮者が伴奏をつけたボーイトの<メフィストフェレ>からの1曲も、これまた非常に興味深いものだった。T・セラフィンの指揮による優秀なデッカ全曲盤よりもずっと前に録音されていた、名歌手シエピ若き日のメフィストである。後年の円熟とは別種の、若々しくも強烈な表現力に思わず息を呑んでしまった。

前半に収められた定番レパートリーの中では、特に<ナブッコ>からの1曲が抜群。これも、伴奏指揮者はエレーデである。そう言えば、シエピさんがザッカリアを歌った<ナブッコ>全曲というのも確か、無かったような気がする。う~ん、残念!スリオティスの出現がもう少し早くて、シエピさんがもう少し若い世代の人で、この2人の共演によるデッカのスタジオ録音が実現していたらどんなに良かったろう。―なんて、そんな事を言ってもしょうがないんだけど・・。

【2019年11月21日 追記】

●老歌手シエピが歌ったフィリッポⅡ世のアリア(1985年ライヴ)

オペラの舞台ではなく、リサイタル・ステージの記録。名バス歌手はこの時、62歳ぐらい。深みのある表現も素晴らしいが、それに加え、よくぞこれだけの声を還暦過ぎまで保っておられたものだと、心からの敬意を感じずにはいられない。動画の音質も悪くない。少し前にYouTubeで見つけて以来、当ブログ主にとっての同曲ベストとなっている名演。

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