クラシック音楽オデュッセイア

2009年の大病以来、月1回程度の更新ペース。クラシックに限らず、身の回りの事なども、気の向くままに書いております。

ラフマニノフの<ピアノ協奏曲第3番>(1)~自演、ホロヴィッツ、ワイセンベルク

2010年04月30日 | 演奏(家)を語る
去る4月4日(日)より、NHK-FM日曜朝のクラシック音楽番組として、『名演奏ライブラリー』が始まった。第1回はラフマニノフの自作自演を中心としたプログラム、第2回となる4月11日(日)はロリン・マゼールが若い頃に行なった演奏の特集で、その次の18日(日)はダヴィッド・オイストラフの演奏を集めたものになっていた。第4回となる25日(日)のデヴィッド・マンロウは聴かなかったのだが、上記3回の放送については、ひと通り付き合ってみた。今回と次回は、番組最初の題材となったラフマニノフの自演集から、<ピアノ協奏曲第3番>を中心にして一つの記事を書いてみようかと思う。

4月4日の放送は、ラフマニノフ作品の中でおそらく最もポピュラーな<ピアノ協奏曲第2番>から開始。作曲者自身のピアノ独奏、レオポルド・ストコフスキー指揮フィラデルフィア管弦楽団の演奏による1929年のモノラル録音である。いきなり結論から言ってしまうと、これは私にはあまりピンとくる演奏ではなかった。全体に表情があっさりし過ぎた感じで物足りないし、音も当然古くて冴えない。有名なリヒテル&ヴィスロツキ、ワルシャワ・フィルのグラモフォン盤(1959年)を始め、この名曲には他にもっと良い演奏がたくさんある。一ヶ所面白いと感じたのは、第3楽章の第2主題で弦が“ねちょっ”としたポルタメントを効かせたところ。いかにもストコ先生がやりそうな感じで、ちょっとニンマリした。

一方、番組の最後に流れた<ピアノ協奏曲第3番>の演奏には、かなり楽しませてもらった。ピアノ・ソロはやはり、作曲者のラフマニノフ自身。伴奏はユージン・オーマンディが指揮するフィラデルフィア管弦楽団で、こちらは1939年に行なわれた演奏の記録である。上記の<第2番>から10年後ということで、相変わらずモノラルではあるけれども、音質は随分良くなっている。演奏家の意思なのか、それとも当時のレコードの時間的制限があってのことなのかは分からないが、全体に速めのテンポがとられた演奏で、特に第1楽章冒頭などは何だか急き立てられているような印象さえ与える。しかしそういった中にあっても、ラフマニノフのピアノは豪快でスケールが大きく、<第2番>のときよりも音の粒立ちがより明確に聞き取れる分、楽しめる度合いがかなりアップしている。タイム・カウンター〔7:10〕ぐらいのところから始まる第1楽章のクライマックス、そして第2楽章後半部の盛り上がりなど頗(すこぶ)る雄大で、覇気漲る若きオーマンディの指揮ともども非常に聴き栄えがする。第3楽章のコーダも燃える。細かいニュアンスは後年の名ピアニストたちに何歩か譲るところがあるけれども、そのズシンとくるようなピアノの響きは私の心に大いなる快感をもたらしてくれた。平凡な演奏だとやたら冗長に感じられてしまうこともある<第3番>も、こういう演奏で聴くと、全く退屈することなく聴きとおすことができる。

(※ついでの話だが、有名な<ピアノ協奏曲第2番>について私がリヒテルのグラモフォン盤を高く買っている理由は、何よりもその豪快なスケール感にある。宇野功芳氏が、「伴奏ともども、絵のように美しい」と絶賛してやまない第2楽章よりも、両端の第1、第3楽章で聴かれる無類の力強さに私は胸のすく思いがするのである。アシュケナージが物足りないのは、その小奇麗な演奏が「矮小化されたラフマニノフ」を生み出してしまっているからだ。スケール感でリヒテルと対峙し得る人としてアルトゥール・ルビンシュタインの名を挙げることもできるが、音の粒が大きいポーランドの大家によるラフマニノフはちょっとネアカと言うか、いささか健康的過ぎるように私には感じられてしまう。宇野氏のいわゆる「秋雨に濡れる定めない情感」という、この曲独特の詩情が十全に表現されているとは思えないのである。ちなみに私が聴いたルビンシュタインは、オーマンディとの共演盤。)

―というところで、せっかくなのでこの機会に、私がこれまでに聴いたことのあるラフマニノフの<ピアノ協奏曲第3番>の他の演奏についての感想を、思いつくままざっと並べてみることにしたい。(※ただ、今回だけで全部を収まらせるのはとても無理なので、次回と2回に分けての投稿ということになる。)

●ウラジーミル・ホロヴィッツ&フリッツ・ライナー、シカゴ響(1951年モノラル録音・RCA盤)

冴えたタッチと鮮やかな音の粒立ちは、さすがホロヴィッツ。モノラル時代にはおそらく、これが代表的な名盤とされていたのだろう。しかし今改めて聴いてみると、第1楽章のクライマックス部分など意想外におとなしく、また(作曲者自身の豪快で重厚なピアノに比べたら)全体的に打鍵が軽く感じられてしまう。終楽章も今一つ、迫力が足りない。録音のとり方も関係しているのか、ライナー、シカゴ響の伴奏がかなり控えめに聞こえるのも残念なところである。(※なお、ホロヴィッツとオーマンディ、ニューヨーク・フィルが共演した1978年のライヴ録音については、昔FMでちょっと耳にしただけなので、残念ながら今は何も語れず。)

―録音のとり方のせいか指揮者の存在感が希薄に感じられてしまったホロヴィッツ&ライナー盤とは対照的に、指揮者が思いっきり雄弁で存在感ありまくりなのが、次のワイセンベルク&バーンスタイン盤。

●アレクシス・ワイセンベルク&レナード・バーンスタイン、フランス国立管(1979年9月録音・EMI盤)

ワイセンベルクのピアノは可もなく不可もなくといったレベルだが、バーンスタインが指揮するオーケストラ伴奏の味わいには格別なものがある。とにかく管弦楽がしきりに何かを語りかけ、訴えかけてやまないのである。特に深い憂愁に浸るような第2楽章の出だしなど、チャイコフスキーの交響曲か何かを連想してしまうほどだ。ピアノ独奏だけが流れる部分ではちょっと退屈する場面があっても、オーケストラが出てくると、「おおっ、いいなあ」と身を乗り出してしまう。そういう演奏である。スタイルとしては、「いかにも1979年頃のバーンスタインだな」と思わせる要素がある。彼は1970年代にウィーン・フィルとマーラーの交響曲全集を映像付きで録音しているが、そこでの演奏には、「楽器のバランスをよく整え、曲の姿や輪郭を明晰に浮かび上がらせようとする客観的な姿勢」が明確に示されていた。そして1980年代に入ると、あのスロー・テンポによる濃密で主情的な音楽作りへと進んでいくわけである。ここでの巨匠の指揮ぶりには、その80年代的なゆったりテンポと、70年代的な明晰さが同居しているように感じられるのだ。

―当ワイセンベルク盤とは対照的に、天才肌のピアニストが奔放に暴れまくり、指揮者の方が振り回されている様子なのが、次のアルゲリッチ盤。というところで、この続きは次回・・・。

【2019年7月18日 追記】

ホロヴィッツ&オーマンディ、NYPのカーネギーホール・ライヴ(1978年1月8日)

この記事を書いた2010年当時は未聴のため感想を書けなかった、ホロヴィッツ&オーマンディ、ニューヨーク・フィルの強烈なライヴ。ありがたいことに、今はYouTubeで聴ける。聴いてみるとやはり、ライナー共演盤よりもこちらの方が凄い。ちなみに、ホロヴィッツは同じ年にズビン・メータ、ニューヨ-ク・フィルとの共演による同曲のライヴ映像も遺していて、それもまた現在YouTubeで視聴できるようになっているが、ピアノ独奏の完成度、指揮者の音作りなど、当オーマンディ盤の方がずっと上位の名演になっているように思う。

コメント (2)
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