クラシック音楽オデュッセイア

2009年の大病以来、月1回程度の更新ペース。クラシックに限らず、身の回りの事なども、気の向くままに書いております。

歌劇<死せる魂>(2)

2007年06月24日 | 作品を語る
前回の続きで、ニコライ・ゴ-ゴリの原作によるシチェドリンの歌劇<死せる魂>。今回は、その後半部分のお話。

〔 第2幕 〕 ~続き

地主プリューシキン(Ms)登場。彼の一家はすでに、離散している。この地主には友人もなく、抱えている土地はいよいよ荒れ放題。彼のもとで暮らしている人たちは飢えに苦しんでいるが、この男はどんなぼろでもポンコツでも絶対に新しく換えようとはぜず、そのまま残しておくことにこだわっている。その結果、いたるところにくだらないガラクタが放置されている有様。「ペストで死んだあなたの農奴たちの名義を買い取り、厄介な税金は私が引き受けましょう」と、チチコフが申し出る。大喜びのプリューシキンは快諾し、彼に時計のプレゼントまでする。しかしそれは、ずっと故障ばかり繰り返してきた不良品だった。

(※原作の展開と同様、このオペラでもチチコフは、プリューシキンのことを最初女性だと勘違いする。彼の声はいかにも老いた男らしいしゃがれたものなのだが、ちょっと見の姿はまるで老婆のようだからである。そのことを反映してか、シチェドリン歌劇では同役をメゾ・ソプラノ歌手が担当している。前回登場した地主カローボチカは本当のバアさんで、メゾ・ソプラノまたはアルト歌手が歌うものだったが、ここでは男の役を女性が演じる形になっている。これはまた、他の地主たちとの声の割り当てバランスという点でも、良い選択だったかもしれない。ちなみにテミルカノフ盤でこの役を歌っているのはガリーナ・ボリソワという人で、声質はソプラノに近い感じの若々しいメゾである。ちょっと12音音楽のシュプレッヒ・シュティンメを思わせるような朗唱に、この役の音楽的な特徴があるようだ。)

知事(B)邸でのパーティ。チチコフがこれまでにしてきた買い物が、話題になっている。彼が買い集めた農奴の名義は、公式には“生きている農奴たち”なので、チチコフは大変な財産家であると皆にもてはやされる。良い気分になった彼は、「勝利の演説」を一席ぶつ。若い女性たちがおべっかを使ってくる。知事の娘までが、彼に惹かれている様子。チチコフは、彼女にアプローチする。しかしノズドリョーフが、ここで真実を暴露。「こいつはな、死んだ農奴の名義を買い集めているんだぜ」。その言葉を裏打ちするかのように、カローボチカが周囲に問う。「死んだ農奴は今、いくらぐらいの相場で売り買いされているんかいね」。ここから事態は急転、チチコフはスキャンダルの種となる。

(※テミルカノフのCDは、この知事邸でのパーティ・シーンに入るところから2枚目になる。プレイ・ボタンを押すといきなりブバアァーッ!バアァーッ!と恐ろしい金管楽器の音が飛び出す。こんな凄絶な音がどこから出るのだろうと、素人の私などはここを聴くたびに身のすくむような思いがする。続いて、メゾ・ソプラノ独唱による『息子を戦で失った母親の、悲しみの歌』。背景に流れる合唱が、ちょっとリゲティ風に宇宙的な神秘感を漂わせる。そして、ここでもまた、金管の強烈なアクセントや低弦の凄い唸りが連発。)

(※ト書きによると、知事の妻がチチコフに娘を紹介した後、しばし若い二人のロマンスっぽいシーンがあるようなのだが、そこでもシチェドリンの音楽に甘さはない。各種の木管が忙しいパッセージを吹きまくる、といった感じである。最後にそれが小鳥のさえずりのようになってフェイド・アウトしていき、ノズドリョーフによる暴露シーンとなる。チチコフがやっていることの実態を知った一同は皆仰天するが、彼らによるアンサンブルもまた騒音系サウンドで驀進する。ちょっと面白いと感じたのは、そのアンサンブルの最初の部分が、ロッシーニの歌劇<セヴィリアの理髪師>第1幕フィナーレで聴かれる音楽にほんの少しだけ似ていること。)

〔 第3幕 〕

ビジネスの種を失ったチチコフ。飲み食い騒ぎを考えついたヤツなどクソ食らえと、彼は毒づく。「パーティなんてものがなければ、スキャンダルなどありゃしないのに」。

(※この第3幕の開幕シーンでまたまた、ブルガリアンな声による女性の歌。「開けた大地に、白い雪はない」。これが合唱を伴いながら半音階を下降して不思議な雰囲気を醸し出すのは、第1幕の冒頭と同じである。そして、この歌声が消えた後、上記チチコフの独白が始まる。)

場面転換。社交界の女性が二人(S、Ms)でおしゃべりしている。ごくありふれた世間話から始まり、話題はやがてチチコフの醜聞へ。「あの男ってさ、実際には死んだ農奴が目当てだったんじゃなくて、知事の娘さんをたぶらかそうとしていたのよ」。二人は自分たちの結論を理路整然と語り、カローボチカがチチコフのことを悪しざまに貶(けな)す。人々は皆、いったいこれはどういうことかと、いぶかる。チチコフにとっては、事態の破滅的な悪化。彼はまわり中からのけ者にされ、もはやどこからも招待の声はかからなくなった。それどころか、「あいつはきっと、スパイだ」と、あらぬ嫌疑までかけられる始末。あげくに、「あいつの正体は、贋金作りだろう」とか、「いや、実は変装したナポレオンだ」といったようなデマまで飛び出す。けたたましい騒乱の中、チチコフは政府の当局者だろうという憶測までが出るに及んで、ついに検事がショック死する。

(※街の人たちが揃ってチチコフの正体をあれこれ詮索するこのシーンは、まさに圧巻。郵便局長、警察署長、知事、検事、さらにノズドリョーフやサバケーヴィチらも加わって、壮大な規模の多声アンサンブルが延々と続く。)

検事のしめやかな葬儀を経て、ドラマはフィナーレ。人々からはじき出されたチチコフは、町で今何が起こっているかをノズドリョーフから聞かされる。「検事が死んだよ。で、あんたは、スパイってことになっている。みんな恐怖で、正気をなくしているんだ。それであんた、知事の娘と駆け落ちする計画なんだって?婚礼の冠をもってやりたいが、その前に3000ほどの金を貸してくれねえかな」。ここから一刻も早く出ようと決意したチチコフは、セリファンに出発を命じ、あたふたと街を出て行く。馬車に乗って、彼は家来と一緒にロシアの田舎道を突っ走る。道端の農夫たちが、「あの馬車はどこまで行くんかのう。・・・行けるかのう」などと言葉を交わす。

(※検事が死に至る場面での騒乱ぶりもさることながら、チチコフがノズドリョーフの話を聞いて愕然とするシーンで飛び出す金管の絶叫も、相当な迫力。そして街を脱出してゆくチチコフに、女性たちのブルガリアンな歌声が叫びのようになってかぶさってくる。「ニガヨモギ、ニガヨモギ、あんたは勝手に生えてきた」「白い雪は、もうないよ」。この歌声が馬車の鈴音とともに静かにフェイド・アウトして、大作オペラは終了する。)

(※今回の記事を書くに当たっては、集英社刊・『世界文学全集 32 ゴーゴリ』を参考文献として利用させていただいた。例えば、前回冒頭に書いた『死せる魂』の意味と背景についての文章は、同書411ページの記述がもとになっている。この本の407ページから始まる川崎隆司氏の解説文には、“作家ゴーゴリの笑い”が中心的なテーマとして語られているが、今回の締めくくりとして、その一部を短く編集して引用させていただきたいと思う。作品理解の一助としていただけたら幸いである。

{ 1836年に書き上げられた『鼻』は、出世を狙う官吏の鼻をもぎ取って公衆の笑いにさらしたものであり、有名な戯曲『検察官』は、ロシア帝国の官僚制度を縛られた兎としてさらし者にしたものである。・・・彼の一大長編『死せる魂』こそは、地主たち、官吏たち、軍人たち、百姓たち、商人たちなど、要するに全ロシアを登場させようとした叙事詩であり、素朴な笑い、世には見えない、知られない涙を通してみた生活の笑い、否定の笑い、笑うべきものだけでないものなど、すべてを集大成した傑作であり、同時にその破綻のドラマでもあった。・・・

・・・そのロシア的な善良さにもかかわらず少し長い間一緒にいると砂糖を舐めすぎたような気持ちにさせられるマニーロフ、19世紀初頭から頭角を現した富農(クラーク)の代表みたいなサバケーヴィチ、酒盛りと博打のためなら家屋敷や農奴ばかりか親まで抵当に入れかねないロシア的放埓さを体現したノズドリョーフ、農奴を収奪することしか知らずに破滅していく農奴制的地主経営の没落を体現したプリューシキン、その他、知事、裁判長、警察長官、郵便局長など、どの姿をとらえても、地主たちの対極としてロシア帝国に本質的な官僚たちの姿が、一人一人その微妙な特徴までもそなえて描きつくされている。 })


―以上で、ソヴィエト・オペラは一応終了。さて、このところロシア・ソヴィエト系のオペラばかりずっと見てきた関係で、音楽がやたら重かったり、あるいは騒々しかったりで、書いている当方もいささか疲れてきた。^^;)そこで、次回は気分を変えて、ちょっと軽めのものに話を進めてみたいと思う。当ブログで先頃プロコフィエフの歌劇<三つのオレンジへの恋>を語った時、ナガノ盤の出演歌手としてジュール・バスタンの名に触れた。彼はベルギー出身の名バス歌手で、フランス物を中心にオペラやオペレッタの全曲録音に相当数参加している。実演の舞台ではボリスやヴォータンなども歌っていたそうなのだが、録音上は、「名脇役」といった印象が強い人だ。次回はこのバスタン氏にスポットを当てつつ、フランス系のオペラ&オペレッタ作品をかる~く(?)楽しんでみることにしたい。
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歌劇<死せる魂>(1)

2007年06月17日 | 作品を語る
前回まで語ったショスタコーヴィチの歌劇<鼻>に続いて、今回もゴーゴリの原作によるソヴィエト・オペラ。1977年に初演されたロディオン・シチェドリンの大作<死せる魂>である。参照演奏は、ユーリ・テミルカノフ指揮ボリショイ劇場管弦楽団&合唱団、他による全曲盤CD(メロディア・1982年録音)。また、登場人物名の日本語表記については、集英社刊・『世界文学全集 32 ゴーゴリ』(中村喜和&川崎隆司・訳)をよりどころとさせていただいた。

―『死せる魂』の意味と背景

『死せる魂』という日本語、あるいはDead Soulsという英語のタイトルを見ただけでは分からないのだが、ロシア語の原題からは二重の意味が読み取れるらしい。ロシア語で「魂」を意味する単語には、「農奴」という意味もあるそうなのだ。つまり、この作品のタイトルは『死せる魂』であると同時に、『死んだ農奴』でもあるということである。一生涯領主の下に隷属させられ、土地に縛り付けられた人たち。農民と奴隷の間にあったような身分の人たち。その農奴たちが死んで、だからどうなのかという問題が、この物語の根底にある。

抱えている農奴たちの人数をもとに、かつての帝政ロシアでは領主たちに人頭税が課せられていたという。ただし、人口調査が行なわれるのは、10~15年に一度だけ。その間に死んだ農奴が何人いても、領主は次の調査時期がくるまで当初の税金を払い続けねばならなかった。物語の主人公パーヴェル・イワノヴィチ・チチコフはあちこちの領主を訪ね歩き、彼らのもとで死んだ農奴たちが何人いるかを確かめて、その名前を買って歩く。何のためか。それら農奴たちの名義を国庫に担保として入れ、大金を手に入れるためである。ゴーゴリの小説で描かれるのは、そんな知恵者チチコフの行状と、彼が関わる“えげつない”連中との人間模様である。

―歌劇<死せる魂>の概要と、音楽的特徴

〔 第1幕 〕

不気味な導入曲に続いて、検事(Bar)邸での晩餐会の場面。荒廃した街なのにもかかわらず、たくらみのあるチチコフ(Bar)はそこの街並みや住人たちをやたらに誉めそやす。集まった人々もすっかりいい気分になって、彼を讃える。その後、チチコフは家来のセリファン(T)が運転する馬車に乗って、次なる目的地へ。いよいよ、ビジネスの開始。

(※このオペラが導入部から不思議な怖さを感じさせる理由の一つは、オーケストラ・ピットから響いてくる女性たちの歌声である。これは、普通のオペラ的発声とは全く違う出し方によって作られる声の一つで、いわゆるブルガリアン・ヴォイスと呼ばれるものではないかと思う。ここで歌われる歌詞は、「開けた大地に、白い雪はもうない」というぐらいの簡単な内容なのだが、その声の響き自体に衝撃を受ける。)

(※主人公チチコフの声は、ロシア系のリリック・バリトン。しかし、詐欺師としてのキャラを反映してか、ちょっと癖のある声だ。開幕直後の晩餐シーンは、このオペラの主だった人物が揃って顔見せをする賑やかな集会である。後で改めて登場する地主たちの何人かが、ここで早くもそれぞれの個性を発揮している。その集会の後、チチコフとセリファンが馬車に乗って田舎道を進む場面で再び、女性たちのブルガリアンな歌声が響く。「泣くな、娘さん。あんたの彼氏が兵隊に取られることはないから」。この合唱が静かにフェード・アウトして、最初の地主との交渉シーンが始まる。)

最初の相手は、地主マニーロフ(T)とその妻。マニーロフはこの世が素晴らしいところだと考えており、人間は上品で正直なものだと信じている。しかし、彼も彼の妻もそろって、“ろくでなし”だった。チチコフは夫婦の言うことにひたすら調子を合わせて、会話を盛り上げる。やがて、彼らの歓心を買うことに成功したチチコフは、そこに来た本来の目的を打ちあける。「こちらでお抱えの農奴たちの中から、死んでしまった者たちを売っていただきたいのです」。夫婦はこの思いがけない申し出に戸惑うが、結局来訪者の期待通りにしてやろうと決める。マニーロフはつくづく、チチコフが気に入った様子。

(※このドラマに出て来る地主たちは皆一癖もふた癖もある奇矯な連中ばかりだが、最初の相手となるマニーロフも相当なキャラ。声は、リリック・テナー。チチコフに「死んだ農奴がほしい」と切り出された時、彼は「ム~ム~ム~」という変な鼻声を出す。どうやら、これが得意技らしい。w 開幕冒頭の集会でも、彼はこの「ム~ム~ム~」をやっていた。)

ロシアの田舎道を進むチチコフと家来のセリファンは途中、嵐に遭遇する。彼らが雨宿りを乞いに立ち寄ったのは、カローボチカ(Ms)という裕福なやもめ地主の家。この老いた未亡人は大変な吝嗇家で、手に入る物なら何でも貪欲にいただくという人物である。「あなたの領地で死んだ農奴を、売ってほしい」と申し出てきたチチコフと値段の交渉を始めるが、彼女は不要な麻までチチコフに押し付けて買わせようとする。そしてチチコフが去った後、「死んだ農奴は今どれぐらいの市場価値があるものだか、ちょっと相場を調べてこよう」と出掛けていく。

(※この嵐の場面は、音楽がなかなか面白い。激しい金管と打楽器、鋭い弦のアタック、さらにはムチの音など、ショスタコーヴィチ以来の騒音系サウンドが炸裂する。さらにそこへ、経文を読むような合唱の声が重なってくる。)

(※嵐の音楽に続いて登場するカローボチカという地主は、チチコフとの交渉で聞かせる早口のセリフにユニークな特徴を示す、因業なバアさんだ。彼女はしきりに、「あんまり安く売りたくないからねえ」と繰り返し、チチコフを苛立たせる。ちなみに、テミルカノフ盤で同役を演じているのは、ラリサ・アフデイエワ。大ヴェテランのメゾ・ソプラノ歌手である。この老婆が、「死んだ農奴っていうのは実際、今いくらぐらいなのかねえ」とひとりごちる場面に先立って、かなり刺激的なオーケストラの間奏曲が流れるが、これはショスタコーヴィチの<鼻>を髣髴とさせるようなカッ飛び爆走音楽。大先輩の影響を感じさせる箇所である。)

次に登場する地主は、ノズドリョーフ(T)。これがまた、ならず者。彼は奔放にして気まぐれな対応で、チチコフの話に応じる。成り行きでこの地主とチェスをしなければならなくなったチチコフだが、相手がずるをしたところで立ち去ることに決める。力ずくで引きとめようとするノズドリョーフと彼のもとを去ろうとするチチコフは、お互いの家来を呼んで激しく対峙。やがてそこへ警察官がやってきて、以前の暴力事件を理由にノズドリョーフを逮捕する。

(※ノズドリョーフが登場する前の間奏部分で、やはりまた女性たちのブルガリアンな歌声が響く。「ニガヨモギ、ニガヨモギ、あんたは勝手に生えてきて、庭一面をうめちまった」という歌と、「悲しい私、不幸な私、愛しい人のために、私は泣いている。・・・娘よ泣くな、悲しむな、雪は白い」というコーラスが交錯。続いて登場する悪漢ノズドリョーフの声は、ドラマティック・テノール。テミルカノフ盤では、ヴラジスラフ・ピアフコが歌っている。同世代のウラジーミル・アトラントフと同様、彼は非常にロブストな声の持ち主で、ここでも抜群の存在感を示している。)

〔 第2幕 〕

ここから、第2幕。地主サバケーヴィチ(B)の登場。彼は世の中が邪悪なものと考えており、人間は皆ねじくれていると信じる男である。この男もまた、チチコフの申し出に対してタフな交渉を挑んでくる。買い手の言い値に応じない。結局、この地主のところにいた農奴たちは一級品だったので、チチコフは高額な支払いをすることとなった。その後、彼は次の目的地へ出発。家来のセリファンが馬に語りかけ、通りがかりの農夫と話す。

(※第2幕はまず、前奏の音楽が面白い。ブン、ブン、ブンと刻まれる低弦のリズム、金管のアクセント、そこにエレキ・ギターかと思われる電気的な弦の音が合いの手を入れる。テミルカノフ盤でサバケーヴィチを歌っているのはボリス・モロゾフというバス歌手だが、何とも凄い声の持ち主である。往年のマクシム・ミハイロフの“ラッパ声”をもっと硬質にしたような、とてつもない重みと深み、そしてドスの強さを備えた声だ。この人が出ている間は、ひたすらその恐ろしい声に圧倒されるばかりである。)

(※チチコフとセリファンがこのド迫力の地主のもとを去って次に向かう場面で、またまたブルガリアンな女性たちの歌声が背景に流れる。「泣くな、娘さん。あんたの彼氏は大丈夫。兵隊にはとられないよ」。なお、テミルカノフ盤でセリファンを歌っているのは、アレクセイ・マスレンニコフ。カラヤンの<ボリス・ゴドゥノフ>でのユロージヴイ、スヴェトラーノフの<森の歌>でのテノール独唱といったあたりが、日本でもおなじみ。)

―この続き、第2幕後半から終曲までの展開については、次回・・。
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歌劇<鼻>(2)、<鉄工場>

2007年06月10日 | 作品を語る
今回はまず、ショスタコーヴィチの歌劇<鼻>の残り部分のお話。それに続いて、知る人ぞ知る、モソロフの名作<鉄工場>の聴き比べ。

―歌劇<鼻>のあらすじ (続き)

●第7場

ペテルブルクの郊外。駅馬車の停車場。警察分署長が、部下たちを各所に配置する。いかにも駅らしく、旅人と見送り人たちの会話や売り子の声が響く。馬車が動き出すと、「止まれ」と声をかけながら鼻が現われて、後を追いかける。その鼻を狙うピストルの音と人々の悲鳴。人々に取り巻かれて殴られた鼻は、もとの普通の鼻に戻る。分署長はその鼻を紙に包み、部下たちとともに退場する。

●第8場

コワリョフの家の居間と、ポットチナ家の居間。警察分署長がコワリョフの家を訪れ、あれこれと成り行きを説明。それからようやく、鼻を差し出す。コワリョフからしっかりとお金を取って、分署長は退場。ところがその後、どう頑張ってみても、鼻はコワリョフの顔にくっつかない。医者にも来てもらったが、やはりダメ。コワリョフは泣いて悲しむ。やがて彼のもとを訪れた友人ヤルイシキンを相手に、コワリョフは毒づく。「これは娘との結婚話を受けようとしない俺に対して、ポットチナ夫人が仕返しにやったことに違いない」。

舞台の反対側に置かれたポットチナ夫人の家。「このままでは、あなたを告訴する」というコワリョフからの穏やかでない手紙を受け取った夫人は、驚きつつも返事を書く。「何のことか、さっぱり分かりません。娘との結婚には賛成ですが・・」。続いてコワリョフとヤルイシキンの言い争い、そして夫人と娘の二重唱が同時進行する。

(※上記の展開のうち、第7場は原作にないオペラだけのアクション・シーン。続く第8場はほぼ原作どおりの流れだが、コワリョフの友人ヤルイシキンという人物は原作には出てこない。このあたりは、舞台作品としての効果的な見せ場作りや、重なり合う二重唱のような音楽的聴かせどころを生み出すための創出だったように思われる。)

●インテルメッツォ(間奏曲)

人々が新聞に見入りながら、“歩く鼻”のうわさをしている。鼻があっちの通りに現れる、こっちの店に出て来ると、話題は持ちきり。どんどん集まってくる野次馬と、それを鎮めようと躍起になる警官たちの騒ぎが続く。

●第9場

幕が上がると、舞台はコワリョフ家の寝室。鼻を支えながらベッドから起きたコワリョフ。鼻が元の場所にちゃんとくっついていることを確かめて、彼は召使のイワンと一緒に大喜び。そこへ、床屋が不安そうに登場。3人で大笑いした後、床屋はコワリョフの顔を剃り始める。

●第10場

ネフスキー大通りの一角。通りをぶらつくコワリョフは次々と出会う知人の反応を見て、自分の鼻がすっかり元通りになっていると実感。すっかりいい気分になる。ポットチナ親娘とも出会って笑いを交わし、娘との結婚をほのめかす夫人にコワリョフは丁重な礼をして別れる。「金のない娘との縁組なんてなあ」と彼はつぶやき、胴着売りの娘をからかって立ち去る。

(※以上見てきた通り、この<鼻>は、何故このようなことが起こったかについて何一つ合理的、あるいは科学的な説明がなされないシュールな作品である。ある意味、カフカ的な危機感を感じさせる面もある怪作だが、その原作もまた、読者を煙に巻くようなエンディングを持っている。「だれがなんと言おうと、この種の出来事は世の中にままあるのだ。たまにではあるが、起こるのである」って、ホントか、おい?w )

―A・モソロフ作曲<鉄工場>の聴き比べ

若きショスタコーヴィチの才能が縦横に炸裂した歌劇<鼻>については様々な捉え方が出来そうだが、“騒音が楽音として活かされた芸術品”というのも、その一つとして成り立つような気がする。ところで、この種の騒音系音楽というのは、20世紀に書かれた作品を渉猟してみると結構いろいろな物が見つかる。旧ソヴィエト時代から例を挙げるなら、プロコフィエフの<鋼鉄の歩み>などがそうだろう。しかし、昔ロジェストヴェンスキーのCDでこの曲を聴いた時、私はひどい頭痛に襲われて大変な苦しみを味わってしまった。正直なところ、これはもうご勘弁という感じである。

一方、アレクサンドル・モソロフが1928年に書き上げた<鉄工場>Op19は同じ騒音系でもなかなか楽しい曲で、演奏時間にして僅か4分前後の小品なのにもかかわらず、非常な充実感を与えてくれる名作だ。さて、この<鉄工場>、今いくつぐらいの録音があるのだろう。とりあえず私がこれまでに聴いてきた同曲の演奏は、全部で4種類。おそらく皆同じ楽譜を使っているのだろうが、演奏家によってそれぞれ随分違った工場に仕上がっているのが面白い。

まず、インゴ・メッツマッハー&ハンブルク国立フィルによるもの。これはまるで重戦車の進撃を思わせるようなパワフル演奏。オーケストラの鳴りっぷりも豪快だし、指揮者の統率も鮮やかで、聴いていて胸のすくような思いがする。この爆演は、『誰が20世紀音楽など恐れようか(=20世紀音楽なんか怖くない)』という長いタイトルの付いたCDシリーズの一つで聴くことが出来る。ひょっとしたら、これが<鉄工場>のベスト名演と言ってもいいかもしれない。ただし、同じCDに収められた他の曲の演奏は、あまり面白くない。20世紀に書かれた有名なオーケストラ曲のさわりとか小品みたいなのをオムニバスで並べているのだが、どれについても平凡な印象しか残らない。

「人民を疲れさせる」という理由で当時のソ連当局から批判され、長く埋もれることとなった<鉄工場>だが、1975年になってようやくそれも見直される機運になったそうだ。現在Scribendumというレーベルから発売されているCDで、その復活蘇演を行なったエフゲニ・スヴェトラーノフ&ソヴィエト国立響(当時)の演奏を聴くことが出来る。しかし正直な感想を言うと、これはあまりよろしくない。演奏家たちがこの曲に共感していなかったのか、あるいは曲を十分に把握できていなかったのか、何とも冴えない凡演に終わっている。これを聴いていると、効率の悪い機械がギクシャクと作動し、粗悪な材料による出来の悪い鉄製品がだらしなく生産され続けるオンボロ工場、といったイメージが浮かんでくる。音質も、このレーベルによくありがちな特徴が出ていて、何だかざらついたような粗い音。なお、当盤の併録曲は、ドヴォルザークの<新世界より>とストラヴィンスキーの<春の祭典>。

さて、デジタル時代に入って、リッカルド・シャイーがロイヤル・コンセルトヘボウ管を指揮した録音(L)を聴くと、これはもう上に超の字がつくぐらいにモダンな工場を見ているような気分になる。職員の操作は、ボタン一つ。あとはコンピューターの制御によって動くロボット・アームが、寸分の狂いも見せず正確に組立作業を行なう。そういうインテリジェントな工場である。これは純器楽的なアプローチによる名演として、高い価値を誇るものと言えるだろう。組み合わせの曲は、プロコフィエフの交響曲第3番とヴァレーズの<アルカナ>。

最後になったが、フランスの指揮者ピエール・デルヴォーがパリ音楽院管弦楽団を指揮したEMI盤の名演奏も忘れてはならない。これは現在、『ピエール・デルヴォーのロシア&フランス名曲集』みたいなタイトルの2枚組セットとして入手可能なCDである。1枚目がパリ音楽院管弦楽団とのロシア名曲集、そして2枚目がコンセール・コロンヌ管弦楽団とのフランス名曲集となっている。ちょっと惜しまれるのは、その1枚目がモノラル録音であることだが、幸い音質は十分に鮮明である。ここで聴かれる<鉄工場>は、パリ音楽院管から非常に荒々しい響きが引き出され、たいそう聴き栄えのする豪演になっている。これも同曲のベストを争える名演だと思う。また、このCDは、デルヴォー氏らしい“荒ぶる快演”が他にもたくさん収録されているのが嬉しいポイントだ。特にハチャトゥリアンの<剣の舞>、カバレフスキの<コラ・ブルニョン>序曲、あるいはリャードフの<キキモラ>といったあたりがゴキゲンなかっ飛び名演。ちなみに、2枚目のフランス名曲集はステレオ録音で、そこでもデルヴォー節を堪能することができる。ただし、オーケストラ自体の音色の魅力となると、どうしても1枚目のパリ音楽院管にはかなわない。

私がCDを聴いて知っている<鉄工場>は、以上の4種。あと、ヴィクトール・デ・サバタの指揮による古いライヴ録音が現在ナクソス・レーベルから出ているようだ。組み合わせの曲は、ベートーヴェンの<田園>やストラヴィンスキーの<花火>等。ネット通販サイトで先日その一部を試聴してみたが、さすがにそれだけでは何とも言えない。

―次回予告。ここまでプロコフィエフ、ショスタコーヴィチと流れて来たので、次回もう一つだけソヴィエト・オペラ。今回採りあげた歌劇<鼻>と同様ニコライ・ゴーゴリの原作によって書かれた、ロディオン・シチェドリン畢生(ひっせい)の大作を。
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歌劇<鼻>(1)

2007年06月03日 | 作品を語る
先頃語ったラフマニノフの歌劇<アレコ>は、学生時代の彼がA・プーシキンの『ジプシーたち』をもとにして書いたものだった。その後、同じ原作によるオペラを一度は書きかけたものの、結局破棄してしまった人がいる。ドミトリー・ショスタコーヴィチである。その彼があれこれと題材に悩んだ末、最初に書き上げることになったオペラは、ニコライ・ゴーゴリの原作による歌劇<鼻>であった。これは全部で10の場から成るオペラで、第1~4場が〔第1幕〕、第5~6場が〔第2幕〕、そして第7~10場が〔第3幕〕という風に割り振られている。

今回参照している演奏はG・ロジェストヴェンスキーの指揮による1975年6月のモスクワ録音だが、私が今持っているヴェネツィア盤CDには歌詞対訳が付いていない。あるのは、トラック番号の振り分け一覧のみである。このオペラについては随分前、ポクロフスキー(でよかったと思う)の演出による舞台映像を鑑賞したこともあったのだが、その時のヴィデオ・テープも古くなったのでとっくに処分してしまった。そこで今回の記事は、楽曲解説の本と、日本語に翻訳されたゴーゴリの原作を見ながら書くことにした。

―歌劇<鼻>のあらすじ

●第1場

床屋イワン・ヤーコヴレヴィチの住居。朝の食事風景。妻が焼いたパンの中から人間の鼻が見つかり、床屋はぎょっとする。妻が、ヒステリックに彼をののしる。「人様の鼻まで剃り落として、このろくでなし!そんな物、どこかに捨ててきてよ」。彼は鼻を布に包み、外に出かける。

(※このオペラは、序曲からいきなり強烈。打楽器とトランペットがギャロップのリズムを強調しつつ、素っ頓狂な音楽を鳴らして開幕を告げる。舞台ではその序曲の間、床屋のイワンが八等官コワリョフのひげを剃っている場面が描かれる。ゴーゴリの原作にそれはなく、直接床屋の食事風景から話が始まる。)

●第2場

イワンは包んで持ってきた鼻をネヴァ河に捨てるが、そこを警察分署長に見とがめられる。

(※ここに登場する警察分署長の声は、聴いていて滑稽なほどに甲高いテノール。作曲者自身の言によると、「警察官が話す時は、いつも怒鳴る。これは彼らの習性」だそうである。イメージ的には、<ヴォツェック>に出て来る大尉の声が近い。ヴォツェックにひげを剃らせながら、「モラール!モラール」と叫ぶあの変な人物の声だ。なお、ゴーゴリの原作を読むと、「この後どうなったのかは霧に包まれて不明」といった感じで、警官と床屋のやり取りも、捨てられた鼻のことも、何一つ語られないまま第1章が終わってしまう。)

●第3場

八等官コワリョフの部屋。目を覚まして鏡を見た彼は、びっくり仰天。彼の顔から鼻がなくなっていたのだ。

(※打楽器だけで演奏される鮮烈な間奏曲に続いて、八等官コワリョフの登場シーン。すっとぼけたトロンボーンのグリッサンドが“あくび”を表現し、ヴァイオリンのソロが“のび”を巧みに表現。鼻がなくなってパニック状態に陥った彼が警視総監の邸へ出向く場面も、シロフォン、トランペット、弦楽、各種金管を駆使したけたたましい音楽が鳴り響く。このユーモラスなスピード感は見事。若きショスタコーヴィチの才気炸裂、といった感じである。)

●第4場

カザン大寺院の聖堂内。数人の男女が祈りを捧げている。そこに五等官の姿をした鼻がいて、ひざまずいて祈っている。顔の真ん中をハンカチで隠したコワリョフが現われ、鼻を発見。両者の対話が始まる。その後、聖堂に入ってきた女性にコワリョフが気を取られた隙に、鼻はいなくなる。

(※ここで流れる聖歌は、不思議な雰囲気を漂わせる曲。ア~、ア~というヴォカリーズの合唱にソプラノとテノールのソロが重なるのだが、なんだか怖くなってくるような音楽だ。また、コワリョフと鼻とのシュールなやり取りは、原作の中でも最も面白い場面の一つである。「すべて明白と思われるのですがね。もしお望みなら、言いましょうか。つまり、あなたはね、その、私の・・鼻なわけですよ」「それは誤解です。私は私自身です。服装からお見受けしたところ、あなたは元老院か司法関係の方。私は、文教関係です」。)

●第5場

新聞社。コワリョフが入室して、自分の鼻を捜し出すための広告を出してほしいと申し出る。しかし担当者は、やれやれ、といった様子でまともに取り合わない。その後、コワリョフがハンカチを取って顔を見せると、ようやく納得。しかし広告係は、「あなたの事例については、広告を出すよりも、何か文章にした方がお金になりますよ」と答える。怒ったコワリョフは退室。その後、広告依頼に来ていた人々が思い思いに自分の広告文を読み上げる『八重唱』となる。

(※第5場に入る前に前奏曲があって、警視総監の邸にやって来たコワリョフが、「総監殿はお出かけです」と門番に告げられる場面がある。このあたりは、原作どおりの流れだ。新聞社を訪れ、尋ね人ならぬ「尋ね鼻」の広告を出してもらおうというコワリョフの思いつきは空振りに終わるが、音楽的には、失意の彼が去った後に始まる『八重唱』がやはり有名で、且つ面白いものである。八重唱といっても歌うわけではなく、自分の文章を読み上げる各ヴォーカリストの声が断片的に出てきたり引っ込んだりするパターンを交互に繰り返すユニークなもの。)

●第6場

コワリョフの絶望感を表現する間奏曲に続いて、舞台は彼の自宅。召使のイワンが、バラライカを弾きながら恋唄を歌っている。そこへコワリョフが帰宅し、あらためて鏡を見ながら身の不幸を嘆く。

(※召使イワンの『恋唄』は、このオペラだけのオリジナル。原作での彼は、「ソファに仰向けに寝そべりながら天井目がけてつばを吐き、かなり見事に一箇所に命中させていた」のだった。w )

―この続き、後半部分の展開については、次回・・。
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