前回の続きで、ニコライ・ゴ-ゴリの原作によるシチェドリンの歌劇<死せる魂>。今回は、その後半部分のお話。
〔 第2幕 〕 ~続き
地主プリューシキン(Ms)登場。彼の一家はすでに、離散している。この地主には友人もなく、抱えている土地はいよいよ荒れ放題。彼のもとで暮らしている人たちは飢えに苦しんでいるが、この男はどんなぼろでもポンコツでも絶対に新しく換えようとはぜず、そのまま残しておくことにこだわっている。その結果、いたるところにくだらないガラクタが放置されている有様。「ペストで死んだあなたの農奴たちの名義を買い取り、厄介な税金は私が引き受けましょう」と、チチコフが申し出る。大喜びのプリューシキンは快諾し、彼に時計のプレゼントまでする。しかしそれは、ずっと故障ばかり繰り返してきた不良品だった。
(※原作の展開と同様、このオペラでもチチコフは、プリューシキンのことを最初女性だと勘違いする。彼の声はいかにも老いた男らしいしゃがれたものなのだが、ちょっと見の姿はまるで老婆のようだからである。そのことを反映してか、シチェドリン歌劇では同役をメゾ・ソプラノ歌手が担当している。前回登場した地主カローボチカは本当のバアさんで、メゾ・ソプラノまたはアルト歌手が歌うものだったが、ここでは男の役を女性が演じる形になっている。これはまた、他の地主たちとの声の割り当てバランスという点でも、良い選択だったかもしれない。ちなみにテミルカノフ盤でこの役を歌っているのはガリーナ・ボリソワという人で、声質はソプラノに近い感じの若々しいメゾである。ちょっと12音音楽のシュプレッヒ・シュティンメを思わせるような朗唱に、この役の音楽的な特徴があるようだ。)
知事(B)邸でのパーティ。チチコフがこれまでにしてきた買い物が、話題になっている。彼が買い集めた農奴の名義は、公式には“生きている農奴たち”なので、チチコフは大変な財産家であると皆にもてはやされる。良い気分になった彼は、「勝利の演説」を一席ぶつ。若い女性たちがおべっかを使ってくる。知事の娘までが、彼に惹かれている様子。チチコフは、彼女にアプローチする。しかしノズドリョーフが、ここで真実を暴露。「こいつはな、死んだ農奴の名義を買い集めているんだぜ」。その言葉を裏打ちするかのように、カローボチカが周囲に問う。「死んだ農奴は今、いくらぐらいの相場で売り買いされているんかいね」。ここから事態は急転、チチコフはスキャンダルの種となる。
(※テミルカノフのCDは、この知事邸でのパーティ・シーンに入るところから2枚目になる。プレイ・ボタンを押すといきなりブバアァーッ!バアァーッ!と恐ろしい金管楽器の音が飛び出す。こんな凄絶な音がどこから出るのだろうと、素人の私などはここを聴くたびに身のすくむような思いがする。続いて、メゾ・ソプラノ独唱による『息子を戦で失った母親の、悲しみの歌』。背景に流れる合唱が、ちょっとリゲティ風に宇宙的な神秘感を漂わせる。そして、ここでもまた、金管の強烈なアクセントや低弦の凄い唸りが連発。)
(※ト書きによると、知事の妻がチチコフに娘を紹介した後、しばし若い二人のロマンスっぽいシーンがあるようなのだが、そこでもシチェドリンの音楽に甘さはない。各種の木管が忙しいパッセージを吹きまくる、といった感じである。最後にそれが小鳥のさえずりのようになってフェイド・アウトしていき、ノズドリョーフによる暴露シーンとなる。チチコフがやっていることの実態を知った一同は皆仰天するが、彼らによるアンサンブルもまた騒音系サウンドで驀進する。ちょっと面白いと感じたのは、そのアンサンブルの最初の部分が、ロッシーニの歌劇<セヴィリアの理髪師>第1幕フィナーレで聴かれる音楽にほんの少しだけ似ていること。)
〔 第3幕 〕
ビジネスの種を失ったチチコフ。飲み食い騒ぎを考えついたヤツなどクソ食らえと、彼は毒づく。「パーティなんてものがなければ、スキャンダルなどありゃしないのに」。
(※この第3幕の開幕シーンでまたまた、ブルガリアンな声による女性の歌。「開けた大地に、白い雪はない」。これが合唱を伴いながら半音階を下降して不思議な雰囲気を醸し出すのは、第1幕の冒頭と同じである。そして、この歌声が消えた後、上記チチコフの独白が始まる。)
場面転換。社交界の女性が二人(S、Ms)でおしゃべりしている。ごくありふれた世間話から始まり、話題はやがてチチコフの醜聞へ。「あの男ってさ、実際には死んだ農奴が目当てだったんじゃなくて、知事の娘さんをたぶらかそうとしていたのよ」。二人は自分たちの結論を理路整然と語り、カローボチカがチチコフのことを悪しざまに貶(けな)す。人々は皆、いったいこれはどういうことかと、いぶかる。チチコフにとっては、事態の破滅的な悪化。彼はまわり中からのけ者にされ、もはやどこからも招待の声はかからなくなった。それどころか、「あいつはきっと、スパイだ」と、あらぬ嫌疑までかけられる始末。あげくに、「あいつの正体は、贋金作りだろう」とか、「いや、実は変装したナポレオンだ」といったようなデマまで飛び出す。けたたましい騒乱の中、チチコフは政府の当局者だろうという憶測までが出るに及んで、ついに検事がショック死する。
(※街の人たちが揃ってチチコフの正体をあれこれ詮索するこのシーンは、まさに圧巻。郵便局長、警察署長、知事、検事、さらにノズドリョーフやサバケーヴィチらも加わって、壮大な規模の多声アンサンブルが延々と続く。)
検事のしめやかな葬儀を経て、ドラマはフィナーレ。人々からはじき出されたチチコフは、町で今何が起こっているかをノズドリョーフから聞かされる。「検事が死んだよ。で、あんたは、スパイってことになっている。みんな恐怖で、正気をなくしているんだ。それであんた、知事の娘と駆け落ちする計画なんだって?婚礼の冠をもってやりたいが、その前に3000ほどの金を貸してくれねえかな」。ここから一刻も早く出ようと決意したチチコフは、セリファンに出発を命じ、あたふたと街を出て行く。馬車に乗って、彼は家来と一緒にロシアの田舎道を突っ走る。道端の農夫たちが、「あの馬車はどこまで行くんかのう。・・・行けるかのう」などと言葉を交わす。
(※検事が死に至る場面での騒乱ぶりもさることながら、チチコフがノズドリョーフの話を聞いて愕然とするシーンで飛び出す金管の絶叫も、相当な迫力。そして街を脱出してゆくチチコフに、女性たちのブルガリアンな歌声が叫びのようになってかぶさってくる。「ニガヨモギ、ニガヨモギ、あんたは勝手に生えてきた」「白い雪は、もうないよ」。この歌声が馬車の鈴音とともに静かにフェイド・アウトして、大作オペラは終了する。)
(※今回の記事を書くに当たっては、集英社刊・『世界文学全集 32 ゴーゴリ』を参考文献として利用させていただいた。例えば、前回冒頭に書いた『死せる魂』の意味と背景についての文章は、同書411ページの記述がもとになっている。この本の407ページから始まる川崎隆司氏の解説文には、“作家ゴーゴリの笑い”が中心的なテーマとして語られているが、今回の締めくくりとして、その一部を短く編集して引用させていただきたいと思う。作品理解の一助としていただけたら幸いである。
{ 1836年に書き上げられた『鼻』は、出世を狙う官吏の鼻をもぎ取って公衆の笑いにさらしたものであり、有名な戯曲『検察官』は、ロシア帝国の官僚制度を縛られた兎としてさらし者にしたものである。・・・彼の一大長編『死せる魂』こそは、地主たち、官吏たち、軍人たち、百姓たち、商人たちなど、要するに全ロシアを登場させようとした叙事詩であり、素朴な笑い、世には見えない、知られない涙を通してみた生活の笑い、否定の笑い、笑うべきものだけでないものなど、すべてを集大成した傑作であり、同時にその破綻のドラマでもあった。・・・
・・・そのロシア的な善良さにもかかわらず少し長い間一緒にいると砂糖を舐めすぎたような気持ちにさせられるマニーロフ、19世紀初頭から頭角を現した富農(クラーク)の代表みたいなサバケーヴィチ、酒盛りと博打のためなら家屋敷や農奴ばかりか親まで抵当に入れかねないロシア的放埓さを体現したノズドリョーフ、農奴を収奪することしか知らずに破滅していく農奴制的地主経営の没落を体現したプリューシキン、その他、知事、裁判長、警察長官、郵便局長など、どの姿をとらえても、地主たちの対極としてロシア帝国に本質的な官僚たちの姿が、一人一人その微妙な特徴までもそなえて描きつくされている。 })
―以上で、ソヴィエト・オペラは一応終了。さて、このところロシア・ソヴィエト系のオペラばかりずっと見てきた関係で、音楽がやたら重かったり、あるいは騒々しかったりで、書いている当方もいささか疲れてきた。^^;)そこで、次回は気分を変えて、ちょっと軽めのものに話を進めてみたいと思う。当ブログで先頃プロコフィエフの歌劇<三つのオレンジへの恋>を語った時、ナガノ盤の出演歌手としてジュール・バスタンの名に触れた。彼はベルギー出身の名バス歌手で、フランス物を中心にオペラやオペレッタの全曲録音に相当数参加している。実演の舞台ではボリスやヴォータンなども歌っていたそうなのだが、録音上は、「名脇役」といった印象が強い人だ。次回はこのバスタン氏にスポットを当てつつ、フランス系のオペラ&オペレッタ作品をかる~く(?)楽しんでみることにしたい。
〔 第2幕 〕 ~続き
地主プリューシキン(Ms)登場。彼の一家はすでに、離散している。この地主には友人もなく、抱えている土地はいよいよ荒れ放題。彼のもとで暮らしている人たちは飢えに苦しんでいるが、この男はどんなぼろでもポンコツでも絶対に新しく換えようとはぜず、そのまま残しておくことにこだわっている。その結果、いたるところにくだらないガラクタが放置されている有様。「ペストで死んだあなたの農奴たちの名義を買い取り、厄介な税金は私が引き受けましょう」と、チチコフが申し出る。大喜びのプリューシキンは快諾し、彼に時計のプレゼントまでする。しかしそれは、ずっと故障ばかり繰り返してきた不良品だった。
(※原作の展開と同様、このオペラでもチチコフは、プリューシキンのことを最初女性だと勘違いする。彼の声はいかにも老いた男らしいしゃがれたものなのだが、ちょっと見の姿はまるで老婆のようだからである。そのことを反映してか、シチェドリン歌劇では同役をメゾ・ソプラノ歌手が担当している。前回登場した地主カローボチカは本当のバアさんで、メゾ・ソプラノまたはアルト歌手が歌うものだったが、ここでは男の役を女性が演じる形になっている。これはまた、他の地主たちとの声の割り当てバランスという点でも、良い選択だったかもしれない。ちなみにテミルカノフ盤でこの役を歌っているのはガリーナ・ボリソワという人で、声質はソプラノに近い感じの若々しいメゾである。ちょっと12音音楽のシュプレッヒ・シュティンメを思わせるような朗唱に、この役の音楽的な特徴があるようだ。)
知事(B)邸でのパーティ。チチコフがこれまでにしてきた買い物が、話題になっている。彼が買い集めた農奴の名義は、公式には“生きている農奴たち”なので、チチコフは大変な財産家であると皆にもてはやされる。良い気分になった彼は、「勝利の演説」を一席ぶつ。若い女性たちがおべっかを使ってくる。知事の娘までが、彼に惹かれている様子。チチコフは、彼女にアプローチする。しかしノズドリョーフが、ここで真実を暴露。「こいつはな、死んだ農奴の名義を買い集めているんだぜ」。その言葉を裏打ちするかのように、カローボチカが周囲に問う。「死んだ農奴は今、いくらぐらいの相場で売り買いされているんかいね」。ここから事態は急転、チチコフはスキャンダルの種となる。
(※テミルカノフのCDは、この知事邸でのパーティ・シーンに入るところから2枚目になる。プレイ・ボタンを押すといきなりブバアァーッ!バアァーッ!と恐ろしい金管楽器の音が飛び出す。こんな凄絶な音がどこから出るのだろうと、素人の私などはここを聴くたびに身のすくむような思いがする。続いて、メゾ・ソプラノ独唱による『息子を戦で失った母親の、悲しみの歌』。背景に流れる合唱が、ちょっとリゲティ風に宇宙的な神秘感を漂わせる。そして、ここでもまた、金管の強烈なアクセントや低弦の凄い唸りが連発。)
(※ト書きによると、知事の妻がチチコフに娘を紹介した後、しばし若い二人のロマンスっぽいシーンがあるようなのだが、そこでもシチェドリンの音楽に甘さはない。各種の木管が忙しいパッセージを吹きまくる、といった感じである。最後にそれが小鳥のさえずりのようになってフェイド・アウトしていき、ノズドリョーフによる暴露シーンとなる。チチコフがやっていることの実態を知った一同は皆仰天するが、彼らによるアンサンブルもまた騒音系サウンドで驀進する。ちょっと面白いと感じたのは、そのアンサンブルの最初の部分が、ロッシーニの歌劇<セヴィリアの理髪師>第1幕フィナーレで聴かれる音楽にほんの少しだけ似ていること。)
〔 第3幕 〕
ビジネスの種を失ったチチコフ。飲み食い騒ぎを考えついたヤツなどクソ食らえと、彼は毒づく。「パーティなんてものがなければ、スキャンダルなどありゃしないのに」。
(※この第3幕の開幕シーンでまたまた、ブルガリアンな声による女性の歌。「開けた大地に、白い雪はない」。これが合唱を伴いながら半音階を下降して不思議な雰囲気を醸し出すのは、第1幕の冒頭と同じである。そして、この歌声が消えた後、上記チチコフの独白が始まる。)
場面転換。社交界の女性が二人(S、Ms)でおしゃべりしている。ごくありふれた世間話から始まり、話題はやがてチチコフの醜聞へ。「あの男ってさ、実際には死んだ農奴が目当てだったんじゃなくて、知事の娘さんをたぶらかそうとしていたのよ」。二人は自分たちの結論を理路整然と語り、カローボチカがチチコフのことを悪しざまに貶(けな)す。人々は皆、いったいこれはどういうことかと、いぶかる。チチコフにとっては、事態の破滅的な悪化。彼はまわり中からのけ者にされ、もはやどこからも招待の声はかからなくなった。それどころか、「あいつはきっと、スパイだ」と、あらぬ嫌疑までかけられる始末。あげくに、「あいつの正体は、贋金作りだろう」とか、「いや、実は変装したナポレオンだ」といったようなデマまで飛び出す。けたたましい騒乱の中、チチコフは政府の当局者だろうという憶測までが出るに及んで、ついに検事がショック死する。
(※街の人たちが揃ってチチコフの正体をあれこれ詮索するこのシーンは、まさに圧巻。郵便局長、警察署長、知事、検事、さらにノズドリョーフやサバケーヴィチらも加わって、壮大な規模の多声アンサンブルが延々と続く。)
検事のしめやかな葬儀を経て、ドラマはフィナーレ。人々からはじき出されたチチコフは、町で今何が起こっているかをノズドリョーフから聞かされる。「検事が死んだよ。で、あんたは、スパイってことになっている。みんな恐怖で、正気をなくしているんだ。それであんた、知事の娘と駆け落ちする計画なんだって?婚礼の冠をもってやりたいが、その前に3000ほどの金を貸してくれねえかな」。ここから一刻も早く出ようと決意したチチコフは、セリファンに出発を命じ、あたふたと街を出て行く。馬車に乗って、彼は家来と一緒にロシアの田舎道を突っ走る。道端の農夫たちが、「あの馬車はどこまで行くんかのう。・・・行けるかのう」などと言葉を交わす。
(※検事が死に至る場面での騒乱ぶりもさることながら、チチコフがノズドリョーフの話を聞いて愕然とするシーンで飛び出す金管の絶叫も、相当な迫力。そして街を脱出してゆくチチコフに、女性たちのブルガリアンな歌声が叫びのようになってかぶさってくる。「ニガヨモギ、ニガヨモギ、あんたは勝手に生えてきた」「白い雪は、もうないよ」。この歌声が馬車の鈴音とともに静かにフェイド・アウトして、大作オペラは終了する。)
(※今回の記事を書くに当たっては、集英社刊・『世界文学全集 32 ゴーゴリ』を参考文献として利用させていただいた。例えば、前回冒頭に書いた『死せる魂』の意味と背景についての文章は、同書411ページの記述がもとになっている。この本の407ページから始まる川崎隆司氏の解説文には、“作家ゴーゴリの笑い”が中心的なテーマとして語られているが、今回の締めくくりとして、その一部を短く編集して引用させていただきたいと思う。作品理解の一助としていただけたら幸いである。
{ 1836年に書き上げられた『鼻』は、出世を狙う官吏の鼻をもぎ取って公衆の笑いにさらしたものであり、有名な戯曲『検察官』は、ロシア帝国の官僚制度を縛られた兎としてさらし者にしたものである。・・・彼の一大長編『死せる魂』こそは、地主たち、官吏たち、軍人たち、百姓たち、商人たちなど、要するに全ロシアを登場させようとした叙事詩であり、素朴な笑い、世には見えない、知られない涙を通してみた生活の笑い、否定の笑い、笑うべきものだけでないものなど、すべてを集大成した傑作であり、同時にその破綻のドラマでもあった。・・・
・・・そのロシア的な善良さにもかかわらず少し長い間一緒にいると砂糖を舐めすぎたような気持ちにさせられるマニーロフ、19世紀初頭から頭角を現した富農(クラーク)の代表みたいなサバケーヴィチ、酒盛りと博打のためなら家屋敷や農奴ばかりか親まで抵当に入れかねないロシア的放埓さを体現したノズドリョーフ、農奴を収奪することしか知らずに破滅していく農奴制的地主経営の没落を体現したプリューシキン、その他、知事、裁判長、警察長官、郵便局長など、どの姿をとらえても、地主たちの対極としてロシア帝国に本質的な官僚たちの姿が、一人一人その微妙な特徴までもそなえて描きつくされている。 })
―以上で、ソヴィエト・オペラは一応終了。さて、このところロシア・ソヴィエト系のオペラばかりずっと見てきた関係で、音楽がやたら重かったり、あるいは騒々しかったりで、書いている当方もいささか疲れてきた。^^;)そこで、次回は気分を変えて、ちょっと軽めのものに話を進めてみたいと思う。当ブログで先頃プロコフィエフの歌劇<三つのオレンジへの恋>を語った時、ナガノ盤の出演歌手としてジュール・バスタンの名に触れた。彼はベルギー出身の名バス歌手で、フランス物を中心にオペラやオペレッタの全曲録音に相当数参加している。実演の舞台ではボリスやヴォータンなども歌っていたそうなのだが、録音上は、「名脇役」といった印象が強い人だ。次回はこのバスタン氏にスポットを当てつつ、フランス系のオペラ&オペレッタ作品をかる~く(?)楽しんでみることにしたい。