クラシック音楽オデュッセイア

2009年の大病以来、月1回程度の更新ペース。クラシックに限らず、身の回りの事なども、気の向くままに書いております。

FMで聴いたハンス・ホッターの名唱~<冬の旅>

2016年08月07日 | 演奏(家)を語る
前回からの続きで、今回はハンス・ホッターが録音に遺した<冬の旅>についての感想文。

1.ジェラルド・ムーアのピアノ伴奏による1954年のモノラル盤(EMI)

前回触れたカイルベルトの指揮による<ワルキューレ>豪演ライヴの1年前、ウォルター・レッグのプロデュースによってスタジオ録音された<冬の旅>。ここでのホッターは、当時のバイロイトで見せたような雄大な姿は示さず、まるで別人のように抑制の効いた歌唱をもって、シューベルト晩年の名作に取り組んでいる。ただ、その試みが成功しているかといえば、ちょっと微妙な感じがする。抑えた表現によって結果的に、音楽が劇的な起伏を失い、何か平面的な演奏になってしまっているという印象の方が強いのである。録音がモノラルであることも、その問題点を助長しているようだ。第11曲「春の夢」などは、そういったアプローチが巧く当てはまった好ましい方の例になろうかとは思うが、全体としては、聴き手を感動に導くほどの歌唱にはどうやら至っていない。―とは言いつつも、終曲に向かってだんだんと良い雰囲気に仕上がってくるあたりは、さすがといえるだろうか。

参考までに、ホッターはこのムーア共演盤よりも10年以上前、1942~43年にミヒャエル・ラウハイゼンという人のピアノ伴奏で<冬の旅>を録音している。が、そのうちの何曲かを昔FM放送で聴いた時の印象から言えば、「さすがのホッター氏も、この頃はまだまだ青二才で、声も歌唱も未熟だったんだな」という感想しか持てず、これはよほど熱心なホッター・ファン(あるいはコレクター)以外にはほとんど無用の音源と言ってしまっていいような気がする。

(※ムーアとの1954年EMI録音といえば、この<冬の旅>のすぐあとに録音された<白鳥の歌>の方を、当ブログ主はLP時代から高く買っている。特に、後半部分のハイネ歌曲集。これらの曲こそまさにホッター向きと言えるもので、どれも暗くて、深くて、劇的な作品ばかり。とりわけ、第13曲「ドッペルゲンガー(分身・影法師)」はある意味シューベルト歌曲の最高峰とも言えそうな傑作だが、ホッターの凄絶な歌唱を聴くと、あのドイツ・リートの王者フィッシャー=ディースカウの名唱でさえ、“迫力に欠けるきれいごと”に感じられてしまうほどなのだ。)

2.エリック・ウェルバのピアノ伴奏による1961年のステレオ盤(グラモフォン)

1961年頃だと、ホッターは≪指環≫のヴォータンのような長丁場の出演を強いられる重い役から離れ、<パルシファル>のグルネマンツみたいな「重要な脇役」を受け持つようになっていた。声と内面性のバランスという点で、それが、<冬の旅>をスタジオで録音するのにちょうど良い状況を生み出していたのかもしれない。第1曲の歌いだしは上記1954年盤と似たような雰囲気で、ややゆっくり目のテンポと控えめな表情をもって開始される。が、曲が進むにつれて、いかにも本来のホッターらしい歌唱が聴かれるようになる。力強い声と、堂々たるスケール。そして時に崇高ささえ感じさせる、独特の気品。そこにウェルバ教授のしっかりした伴奏と録音状態の良さも加わり、ホッターの<冬の旅>としておそらくベスト1と言ってよい名盤に仕上がっている。

当日の番組の解説によると、ホッターは生涯のキャリアの中で合計127回<冬の旅>を歌っているらしいのだが、そのうちの39回が日本で行なわれたものになるとのことだった。大歌手がヨーロッパを中心に世界各地で公演を行なっていた事を考えると、127回のうちの39回が日本というのは、かなりの高率である。「日本の聴衆の前で歌っていると、外国人を前にしているような感じがしない。故国ドイツの聴衆を前にしているような気持ちになる」とホッター自身が語っていたそうだが、歌い手側も、聴き手側も、何かお互いに感じあう物(あるいは、魅かれあう物)があったのだろう。

そう言えば、ゲルハルト・ヒュッシュの<冬の旅>(1933年録音)を愛聴していた日本のクラシック・ファンも昔、それなりの数が存在していたという話も聞く。この歴史的なバリトン歌手の太古録音は当ブログ主もLPレコードの時代に聴いたことがあって、その時代がかった歌唱、武骨で古武士然とした独特のスタイルにちょっとしたショックを受けたものだった。ホッターも基本的にはそんなヒュッシュの衣鉢を継ぐかのような力強い歌唱を示した人だったが、先輩歌手のごつごつした歌い方よりはずっと柔らかく、歌詞を丹念に読みこんだ丁寧さがあって、一層洗練された仕上がりを示していた。そのあたりが、当時の日本の(特にシニア世代の)クラシック・ファンに親しまれた理由の一つだったのかもしれない。

その後、ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウという奇跡の才能が出現し、ドイツ・リートの表現世界に革命的な変化(あるいは進化)をもたらす。この天才歌手の登場と活躍によって、「バリトン歌手なるものは(特にドイツ・リートに於いては)、すべからく知的であらねばならない」みたいなイメージさえできてしまったのである。そういう時代になってホッターも、“古い世代に属する歌手”の仲間入りをすることとなった。

3.ハンス・ドコウピルのピアノ伴奏による1969年4月2日の東京文化会館ライヴ・ステレオ盤(ソニー)

先日のFM番組で流れたのは、この音源からの第1曲~第5曲。基本的な歌唱スタイルは上記のグラモフォン盤とほぼ同じような感じだが、ここでは声の衰えがはっきりしている。その弱みを巧くコントロールしながら、名歌手が実直に、そして(声が出せる範囲で)力強く歌い上げたライヴの記録である。ホッター自身も、この日の公演はレコード録音されるということで、いつにも増して、各曲に細かく気を使って取り組んだという。

当時からこの録音を最大級に絶賛していたのは、故畑中良輔氏だった。「往年の大歌手ホッターも、もう60歳。さすがに今この人の歌を聴いたら、おそらくつらい思いをするだろう」という理由で、氏はホッターの東京公演に足を運ばなかったそうなのだが、後になって当日のライヴ録音を聴いて衝撃を受け、「自分勝手な思い込みや決めつけで、こんな素晴らしい物を聴き逃したことを激しく悔やんだ」と著書の中で書いておられた。(※ちなみにこの録音、LPが発売された年にレコード・アカデミー賞を受賞している。)

その一方、故黒田恭一氏による次のような指摘にも普遍的な説得力があることを、この機会に付け加えておかねばならない。実際の話、今回FM放送をきっかけにホッターの<冬の旅>をテーマにして語ってはいるが、当ブログ主が最も深い感銘を受けた<冬の旅>の歌唱は断然、若きF=ディースカウの1955年EMIモノラル盤(※当ブログの立ち上げ初期に、独立した記事として書いていた音源)であり、ホッターのそれではないのである。

{ 世評高いホッターの<冬の旅>を知らぬわけではないが、ホッターによって歌われると、<冬の旅>を旅する人が過度に年老いたように感じられて、どうしても馴染めない。<冬の旅>もまた「青春」の歌だと思うからである。 Cf.『新編 名曲名盤500』 音楽之友社(1988年)~282ページ }

当然のことながら、この東京ライヴでは上記のグラモフォン盤以上に、登場する旅人のイメージが高齢化している。なので、黒田氏の意見に共感する聴き手は、当盤ではさらに馴染みにくい要素を感じてしまうことになりそうだ。ここに出てくる旅人は、失恋の痛手から冬の荒野をさまよい歩く敗北者の青年ではない。肉体こそ衰え、歩くのに杖を必要としながらも、その姿からは未だに往年の威光が残照のように見え隠れしている、そんな老熟のさすらい人だ。そしておそらく、この旅人は隻眼(せきがん)である。

(※せっかくなので、ついでの話を1つ。今回取り上げた物以外で、ハンス・ホッターが歌った<冬の旅>全曲となると、もう随分昔になるが、1982年に確か「ホーエネムスのシューベルティアーデ」だったかに出演した時の記録というのもある。その時のホッターは何と、73歳。「よくぞその御歳で、<冬の旅>全曲ライヴをなさいましたねえ」と、当時FM放送を聴きながら思ったものだったが、上記3の東京公演よりもさらに、さらに年齢を重ねた上でのステージだったにもかかわらず、大きな破綻もなく、しっかりと全曲を歌い切ったのはさすがだった。何曲目のところだったか、曲の合間に一度大きな咳払いをしたのが、今でも妙に記憶に残っている。あのラジオ放送からもう、34年が経った。「どの曲をどんなふうに歌っていましたか」とか「過去の録音と比べて、解釈に変化の見られた曲はありましたか」とか、いろいろ突っ込んだ事を訊かれても、今はほとんど思いだせない。w それよりも、これを聴いたのがもう34年も前であるということに、当ブログ主は愕然とする。・・・自分も年を取ったなあと。)

―ということで、FMで聴いたホッターの歌唱を巡る2つのお話は、これにて終了。
コメント (1)
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