前回語ったオデュッセウスの冒険譚を土台にして、今回から、オデュッセウスと関連のあるオペラ系統の作品群に話を進めてみたいと思う。イタリア語ではウリッセと呼ばれるこの英雄的キャラクターが、オペラ史上どういう点で面白い人物なのかということについて、まず結論的な部分を一つ書いておくと、《オデュッセウスはイタリア・オペラ史に於いて、歴史のほぼ最初と最後に主役として顔を出す人物である》ということになる。間の時代にずっとどこを旅しているのかは分からないが(笑)、とりあえず最初(=バロック期)と最後(=20世紀後半)にはちゃっかり(?)出て来て、堂々と主役をはっているのだ。しかし当然のことながら、300年あまりの歳月を隔てて書かれた両作品を比べてみると、音楽の様子からドラマ展開、あるいは登場する人物それぞれの性格や存在感に至るまで、非常に大きな違いが見られる。まず今回から3回に分けて採り上げるのは、その最初の方の作品。すなわち、バロック時代の扉を開いた巨匠クラウディオ・モンテヴェルディの歌劇<ウリッセの帰郷>(1641年)である。
さて、<ウリッセの帰郷>だが、大作曲家が世を去る2年前に初演されたこの歌劇の現存楽譜には、どの音符をどの楽器で鳴らすかといったようなリアリゼーションが施されていないそうだ。そのため、これは長いこと上演の機会に恵まれなかったようなのだが、内容的には大変充実した名作である。ストーリーについては、ホメロスの『オデュッセイア』のほぼ後半部分、第13歌以降が題材に使われている。
今私の手元にあるのは、レイモンド・レッパードの指揮によるグラインドボーン音楽祭(1973年)でのライヴ映像盤。以下、これを基本的な資料にしながら、つい1~2年前に映像付きで鑑賞することの出来たニコラウス・アーノンクールの指揮によるチューリッヒ歌劇場ライヴ(2002年2月28日、3月2&5日・収録)についての当時のメモを随時参照しながら、この歌劇について語ってみたい。
―歌劇<ウリッセの帰郷>のストーリー
〔 プロローグ 〕
●三人の神々の口上に続き、「人間のはかなさ」が登場して自分の弱々しい身の上を歌う。
(※レッパード盤で演出を担当しているのは、ピーター・ホール。いきなり、「人間のはかなさ」が全裸の女性であることにびっくりさせられる。一糸まとわぬ女性の姿を通じて、死すべきものとして生まれついた人間の弱さやはかなさを描こうとしたのだろうか。一方、「時」「運命」「愛」という三人の神々は宙に浮かんだ状態で登場し、それぞれがいかにも神話の神らしい姿をしている。ホールの演出は刺激的な部分もあると同時に、オーソドックスなものでもある。)
(※アーノンクール盤では、「人間のはかなさ」をウリッセ役の歌手ディートリッヒ・ヘンシェルが歌っている。これは、《「時」ゆえにはかなく、「運命」ゆえに哀れで不幸、そして「愛」ゆえに悩み悶える。それが人間だ》というプロローグの主題を体現しているのが他ならぬウリッセ自身である、ということを示しているものと思われる。なお、このアーノンクール盤の演出は極めてモダンなものだ。神々の姿は完全に抽象化されており、ウリッセも現代人のいでたちで登場する。こちらの演出担当者は、クラウス・ミヒャエル=グリューバーという人らしい。ちなみにアーノンクールには、少し前の時代に記録されたポネル演出による映像盤というのもあるようなのだが、そちらは残念ながら未視聴である。)
〔 第1幕~前半 〕
●イタカにあるウリッセの宮殿。20年も帰らぬ夫を待ち続ける妻ペネーロペ。かつてウリッセを育てた乳母エリクレアが、彼女のそばに控えている。「ウリッセ、帰ってきて」と、ペネーロペが嘆きの歌を歌う。
(※レッパード盤でペネーロペを歌っているのは、イギリスの名歌手ジャネット・ベイカー。実に堂々たるペネーロペだ。悲しげな様子の中にも、王妃然とした気丈さと気高さを漂わせている。歌唱はいくぶんロマン派風に聞こえなくもないが、この熱唱には説得力がある。)
(※アーノンクール盤ではこの最初の部分、ペネーロペの侍女であるメラントと青年エウリーマコの陽気なやり取りが出て来る。若い恋人同士という設定のようだが、二人の楽しげな様子を強調することで、ペネーロペの孤独ぶりを際立たせるという手法である。そしてここでのペネーロペは、“くたびれて遠い目をしている、現代風の奥様”といった風情だ。衣装も、地味な黒のドレス。なお1973年収録のレッパード盤には、若い二人のやり取りは全く出て来ない。)
●イタカの浜辺。嵐。フェアーチ人(=パイエケス人)たちが、眠っているウリッセを担いで船から下ろす。その上空に、海神ネットゥーノ(=ポセイドン)と大神ジョーヴェ(=ゼウス)、そして女神ミネルヴァ(=アテナ)がいる。ネットゥーノは息子ポリュペイモスの目をつぶされたことから、ウリッセを憎み続けている。そこでウリッセがずっと帰郷できないように邪魔をしてきたのだが、フェアーチ人たちがそれをさせてしまったので不快な様子。フェアーチ人たちが、「人間は、この地上で何でも出来る」と合唱で歌う。
(※この部分は、レッパード盤が面白い。神々の力を軽視したようなフェアーチ人たちの合唱に怒ったネットゥーノが腕を一振りすると、彼らの乗った船がボーンと煙に包まれて石に変わってしまうのだ。この映像、タイミングがちょっとずれた手品みたいで楽しい。また、全身がキンキラキンのゼウス、ワカメか昆布みたいに緑色をしたポセイドン、そしてクールな青のよろいに身を包んだアテナという三人の神々が並んで宙に浮かんでいる光景は何とも壮観で、見ていて楽しい。)
―この続きは、次回。
さて、<ウリッセの帰郷>だが、大作曲家が世を去る2年前に初演されたこの歌劇の現存楽譜には、どの音符をどの楽器で鳴らすかといったようなリアリゼーションが施されていないそうだ。そのため、これは長いこと上演の機会に恵まれなかったようなのだが、内容的には大変充実した名作である。ストーリーについては、ホメロスの『オデュッセイア』のほぼ後半部分、第13歌以降が題材に使われている。
今私の手元にあるのは、レイモンド・レッパードの指揮によるグラインドボーン音楽祭(1973年)でのライヴ映像盤。以下、これを基本的な資料にしながら、つい1~2年前に映像付きで鑑賞することの出来たニコラウス・アーノンクールの指揮によるチューリッヒ歌劇場ライヴ(2002年2月28日、3月2&5日・収録)についての当時のメモを随時参照しながら、この歌劇について語ってみたい。
―歌劇<ウリッセの帰郷>のストーリー
〔 プロローグ 〕
●三人の神々の口上に続き、「人間のはかなさ」が登場して自分の弱々しい身の上を歌う。
(※レッパード盤で演出を担当しているのは、ピーター・ホール。いきなり、「人間のはかなさ」が全裸の女性であることにびっくりさせられる。一糸まとわぬ女性の姿を通じて、死すべきものとして生まれついた人間の弱さやはかなさを描こうとしたのだろうか。一方、「時」「運命」「愛」という三人の神々は宙に浮かんだ状態で登場し、それぞれがいかにも神話の神らしい姿をしている。ホールの演出は刺激的な部分もあると同時に、オーソドックスなものでもある。)
(※アーノンクール盤では、「人間のはかなさ」をウリッセ役の歌手ディートリッヒ・ヘンシェルが歌っている。これは、《「時」ゆえにはかなく、「運命」ゆえに哀れで不幸、そして「愛」ゆえに悩み悶える。それが人間だ》というプロローグの主題を体現しているのが他ならぬウリッセ自身である、ということを示しているものと思われる。なお、このアーノンクール盤の演出は極めてモダンなものだ。神々の姿は完全に抽象化されており、ウリッセも現代人のいでたちで登場する。こちらの演出担当者は、クラウス・ミヒャエル=グリューバーという人らしい。ちなみにアーノンクールには、少し前の時代に記録されたポネル演出による映像盤というのもあるようなのだが、そちらは残念ながら未視聴である。)
〔 第1幕~前半 〕
●イタカにあるウリッセの宮殿。20年も帰らぬ夫を待ち続ける妻ペネーロペ。かつてウリッセを育てた乳母エリクレアが、彼女のそばに控えている。「ウリッセ、帰ってきて」と、ペネーロペが嘆きの歌を歌う。
(※レッパード盤でペネーロペを歌っているのは、イギリスの名歌手ジャネット・ベイカー。実に堂々たるペネーロペだ。悲しげな様子の中にも、王妃然とした気丈さと気高さを漂わせている。歌唱はいくぶんロマン派風に聞こえなくもないが、この熱唱には説得力がある。)
(※アーノンクール盤ではこの最初の部分、ペネーロペの侍女であるメラントと青年エウリーマコの陽気なやり取りが出て来る。若い恋人同士という設定のようだが、二人の楽しげな様子を強調することで、ペネーロペの孤独ぶりを際立たせるという手法である。そしてここでのペネーロペは、“くたびれて遠い目をしている、現代風の奥様”といった風情だ。衣装も、地味な黒のドレス。なお1973年収録のレッパード盤には、若い二人のやり取りは全く出て来ない。)
●イタカの浜辺。嵐。フェアーチ人(=パイエケス人)たちが、眠っているウリッセを担いで船から下ろす。その上空に、海神ネットゥーノ(=ポセイドン)と大神ジョーヴェ(=ゼウス)、そして女神ミネルヴァ(=アテナ)がいる。ネットゥーノは息子ポリュペイモスの目をつぶされたことから、ウリッセを憎み続けている。そこでウリッセがずっと帰郷できないように邪魔をしてきたのだが、フェアーチ人たちがそれをさせてしまったので不快な様子。フェアーチ人たちが、「人間は、この地上で何でも出来る」と合唱で歌う。
(※この部分は、レッパード盤が面白い。神々の力を軽視したようなフェアーチ人たちの合唱に怒ったネットゥーノが腕を一振りすると、彼らの乗った船がボーンと煙に包まれて石に変わってしまうのだ。この映像、タイミングがちょっとずれた手品みたいで楽しい。また、全身がキンキラキンのゼウス、ワカメか昆布みたいに緑色をしたポセイドン、そしてクールな青のよろいに身を包んだアテナという三人の神々が並んで宙に浮かんでいる光景は何とも壮観で、見ていて楽しい。)
―この続きは、次回。