クラシック音楽オデュッセイア

2009年の大病以来、月1回程度の更新ペース。クラシックに限らず、身の回りの事なども、気の向くままに書いております。

<ハーリ・ヤーノシュ>全曲(2)

2008年06月27日 | 作品を語る
前回の続きで、コダーイの<ハーリ・ヤーノシュ>全曲。今回は、その後半部分のお話。

〔 第3の冒険 〕・・・戦場

フランス軍の総攻撃。しかし、ハーリは一人でフランス兵たちをなぎ倒し、ついに敵将ナポレオンと向かい合う。するとナポレオン、ハーリを見るや完全にブルって戦意喪失。彼はへなへなと地面にひざをつき、「ごめんなさーい」とハーリに謝る。そんな夫の姿を見たマリー=ルイーズは、「情けないわねえ!あなたとはもう離婚です」と、ナポレオンに三下り半。将軍の指揮棒を手にしたハーリは、「戦争賠償金を支払いなさい。それと、ナジャボニィの村長へ金時計を贈りなさい」と、ナポレオンに命令する。

ハーリは勝利の宴を開く。マリー=ルイーズとハーリに続き、皆が踊りを楽しむ。しかし、そこへエルジェが現れ、「あなたには、立派なご婦人がいるのね。私はもうウィーンには居られないから、故国(くに)へ帰ります」とハーリに別れを告げる。ハーリはそんな彼女を慰めて一緒に踊りを始めるが、今度はそれを見たマリー=ルイーズが嫉妬に燃える。「何よ、それ!私、死んじゃうから」。二人の女性にはさまれて困り果てたハーリは、豪快な『軽騎兵募集の歌』を歌いだす。

(※ここではまず、組曲版・第4曲でおなじみの『戦争とナポレオンの敗北』が流れる。ナポレオンが登場する場面での物々しいトロンボーンの威力、『葬送曲』での鮮やかなサクソフォンなど、ケルテスはここでもダイナミックな演奏を聴かせる。その後、ナポレオンの情けない歌、『ジプシー音楽』、そして騎士エベラスティンの歌と続く。但しフェレンチク盤では、短い『ジプシー音楽』はカット。)

(※ハーリ役のバリトン歌手と男性合唱団が歌う『軽騎兵募集の歌』は、ハーリとエルジェによる二重唱の『歌』と並んで、<ハーリ・ヤーノシュ>全曲の中でもピカイチの名曲だ。これはハンガリーの民族色が豊かに打ち出された情熱的な曲で、ハンガリー人ならずとも聴いていて心が燃えるような気分になってくる。ケルテス盤のパワーは言わずもがなだが、一方のフェレンチク盤もここでは驚くほどホットな演奏を聴かせてくれる。惜しまれるのは、フンガロトン・レーベルの音作りがマイルド志向なものであるため、その録音がせっかくの演奏パワーを削いでしまっているように感じられることだ。フェレンチク盤がもしデッカあたりで録音されていたら、おそらく合唱のテノール・パートなど、旧ソ連の赤軍合唱団みたいに響いたことであろう。w )

〔 第4の冒険 〕・・・宮殿内にあるハーリの豪華な部屋

皇后と皇女が歌う。「今までに10人の結婚候補者がいたけれど、やっぱりハーリさんが最高ね」。そこへオーストリア皇帝が廷臣たちを連れて登場し、食事会が始まる。上機嫌の皇帝は、ハーリとマリー=ルイーズに帝国の半分を与えようと進言するが、ハーリはそれを辞退し、次のように答える。「皇女様は、もっと身分の高い男性と結婚なさるべきです。それに私には、エルジェという許婚がおります。ご褒美をいただけるのでしたら、軍役を解除して年金をください」。皇帝は、ハーリの願いを聞き入れる。そしてハーリはエルジェとともに、懐かしい故郷の村へと帰っていく。

(※この〔第4の冒険〕は、音楽的な聴きどころが満載だ。まず、「ハーリさんが一番素敵ね」と歌う皇后と皇女の二重唱。これは、女声合唱を伴った非常に美しい一曲である。フェレンチク盤は、二人の歌手が優秀。逆にケルテス盤は歌手がペケだが、その代わり女声合唱がめっぽう美しい。で、それに続くのが、組曲版・第6曲でおなじみの『皇帝と廷臣の入場』。ケルテス盤は金管の音が輝かしくて、ダイナミック。しかしフェレンチクも、ここではケルテスに負けず劣らず、エネルギッシュな快演を披露している。)

(※オーストリア皇帝と廷臣たちが入場した後は、食事会の風景。ケルテス盤では、食器がガチャガチャいう音や人々のおしゃべりの声など、臨場感溢れる効果音が使われている。一方のフェレンチク盤はこのあたりをカットして、すぐ次の曲『小さな王子たちの入場と合唱』に進む。これは「アー、ベー、ツェー、デー・・・」とアルファベットから歌い始める、子供たちによる可愛らしい一曲だ。ただ、それぞれの演奏家によって、王子たちの年齢イメージが異なっているようだ。ケルテス盤の少年合唱は大人びていて、立派な感じ。逆に、フェレンチク盤の児童合唱は構成メンバーの平均年齢がかなり低いようで、そのあどけなさがメチャ可愛らしい。w )

(※〔第4の冒険〕も後半に入ると、いよいよ名曲のオン・パレード。まず、ニワトリの世話をしながら歌うエルジェの悲しい歌。これはまるでガーシュウィンさながらの、夕暮れみたいな名歌である。「私はもともと貧しい生まれだったけど、心から好きだった人を取られちゃって、ほんとの貧乏になっちゃった。もう誰も私を知らないような、遠い国へ行きたい」。続いて、「ハンガリーの人々の苦しみに、鞭打つことはなさらないでください」と歌うハーリの短い歌。これも、なかなかの佳曲だ。ケルテス盤は例によって歌手があまり巧くないが、伴奏の指揮は大変良い。こういうところを聴いていると、ケルテスさんにはもっと長生きして円熟してもらって、色々なオペラを振ってほしかったなあと、つくづく思う。自信過剰の遠泳による水難事故死というのは、あまりにも勿体ない死に方であった。)

(※いよいよ、終曲。「今私たちは、ハンガリーの人たちの心、その悲しみや苦しみがわかるのです」という合唱に続き、〔第1の冒険〕でも聴かれたハーリとエルジェの二重唱。組曲版・第3曲でおなじみの『歌』の旋律が、ここで再び歌われる。「ティサ川のこちら側、ドナウ川の向こう側、ティサ川の向こう側に、ポプラの木がある小さな小屋。私の思いは、いつもそこに。心はいつも、そこを求める。愛する人と一緒に・・・」。そして、合唱団とオーケストラによる一大クライマックス。ここには、組曲版では絶対に味わうことの出来ない、全曲ならではの感激体験がある。この終曲でのケルテスの指揮はとりわけ素晴らしく、初めて聴いたとき、私は怒涛の感動に打ち震えたのだった。やがて遠くから合唱の歌声が聞こえてきて、深い余韻を残しながら全曲が静かに閉じられる。

そう言えば、ケルテス&ロンドン響による<ハーリ・ヤーノシュ>組曲版の演奏について、「刺戟的なくらい外面の威力に頼った指揮ぶりで、演奏効果は十分だが、デリカシーの不足は否めない」と、宇野功芳氏がかつて『新編・名曲名盤500』(音楽之友社)の中で書いておられた。確かに、組曲だけを聴けば、そういう印象になるかもしれない。しかし音楽劇全曲としてなら、十分なレベルに達した名演であるように私には思える。これであと、歌手陣さえ良かったら・・・。)

―<ハーリ・ヤーノシュ>の冒険談は、以上で終了。但し、劇としてはこの後〔エピローグ〕が続く。ハーリの話が終わると、「わしのところに、金時計なんか贈られて来なかったぞ」と、村長がつっこみを入れる。それに対してハーリは、「ナポレオンの奴、約束を守らなかったんだ。しかし、妻も亡くなった今、俺の話を証明してくれる人はいなくなってしまった」と答える。すると、お話が始まる時にくしゃみをしていた若者が、「証人なんかいなくたって、ハーリおじさんの話は本当さ」とフォローを入れて、めでたし、めでたしの幕切れとなるのである。

―という訳で、次回予告。次はいつものオペラ系統の話から離れて、ちょっと脱線した記事を書いてみたいと思っている。すぐ上に登場していた有名な評論家先生を巡る、私の個人的な思い出話である。
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<ハーリ・ヤーノシュ>全曲(1)

2008年06月16日 | 作品を語る
先頃語ったマスネの歌劇<ドン・キショット>の主人公は、若い女性デュルシネにプロポーズして、ふられた。求婚者が50歳代で相手がおそらく20歳代ぐらいであったと考えれば、仮にその年齢差を理由に断られたとしても無理のないような展開だった。しかし、「事実は小説より奇なり」とはよく言ったもので、現実のクラシック音楽界には、親子どころか、孫ぐらい歳の離れた相手と本当に結婚した人がいる。

ハンガリーの作曲家ゾルタン・コダーイである。彼は76歳の時に、長く連れ添った妻に先立たれた。しかしその翌年、コダーイ先生は教え子の女性と見事に再婚を果たす。夫は77歳で妻は何と19歳!という、トンデモ(?)年齢差のカップルが誕生したのである。で、その時のプロポーズの言葉というのが、なかなかふるっていた。「あんた、わしの未亡人になってもらえんかな?」

―という訳で、今回はゾルタン・コダーイの代表作<ハーリ・ヤーノシュ>全曲を採り上げてみることにしたい。参照演奏は、下記の2つ。

●イシュトヴァン・ケルテス指揮ロンドン交響楽団、他(1968年・デッカ)
【 英語のナレーションや各種効果音の付いた、ほぼ完全な全曲録音 】

●ヤーノシュ・フェレンチク指揮ハンガリー・フィル、他(1978年?・フンガロトン)
【 主要な音楽ナンバーのみを収録した準全曲盤で、珍しい『序曲』付き 】

―<ハーリ・ヤーノシュ>のあらすじと音楽

舞台は、ハンガリーのナジャボニィ村。ほら吹きとして知られる名物男ハーリ・ヤーノシュが、宿屋で自らの武勇伝を語り始める。すると、その場に居合わせた一人の若者が、ハーックション!とくしゃみをする。どうやら、これから始まるお話は、本当の事であるらしい。

〔 第1の冒険 〕・・・ハンガリーとロシアの国境

ハンガリーとロシアの兵士たちが、国境を警備している。温暖なハンガリー側とは対照的に、ロシア側は寒い。そして食べ物も粗末なため、明るいハンガリーの兵士たちとは対照的に、ロシア兵は暗くて陰険だ。そんな場所に勤めているハーリのもとへ恋人エルジェがやって来て、ハーリとの逢瀬を楽しむ。

やがて、マリー=ルイーズの一行が国境に差し掛かる。彼女はオーストリア皇帝の娘にしてナポレオンの妃でもあるという、いとやむごとなき女性だ。しかし、意地の悪いロシア兵が国境の通過を拒否するので、一行はすっかり往生してしまう。そのことを知ったハーリがそこへ駆けつけ、一肌脱ごうと腕まくり。彼は超人的な怪力を発揮し、詰め所を丸ごと引っ張ってハンガリーの領土側に入れてしまう。そしてハンガリーの兵士が皇女一行の国境通過を認め、問題は解決。感謝感激のマリー=ルイーズは、「お父様の衛兵として、ハーリ・ヤーノシュさんを雇いたいわ」と、彼を一緒に連れて行くことにする。そんな成り行きで、ハーリは恋人エルジェとともにオーストリアへ。

(※ケルテス盤は俳優ピーター・ユスティノフの英語による前口上に続き、組曲版・第1曲でおなじみの『くしゃみの音~前奏曲』が始まる。一方、フェレンチク盤では、最初に『序曲』なるものが演奏される。<ハーリ・ヤーノシュ>の序曲というのはちょっと耳慣れないが、全曲の内容を知っていると、まあそれなりに頷けるものではある。ただ、この曲、音楽劇の序曲としてはいささか冗長な感じだ。ちなみに演奏時間は、約16分。そして両盤とも共通して、『前奏曲』の後にハンガリー兵の一人が組曲版・第3曲の『歌』のメロディを美しい笛の音で吹く。)

(※ケルテス盤では〔第1の冒険〕の出来事として、様々な人々が国境を通る場面を、ユスティノフが巧みな一人芝居で演じる。老婦人やら、ユダヤ人の大家族らが次々とやって来て、詰め所の兵士とやり取りを交わす。それに続いて、ハンガリーの少女たちによる短い合唱。これは民謡風のリズミカルな名曲で、いかにもコダーイ先生らしい一曲である。以上のそれぞれに巧みな伴奏音楽が付いているのだが、フェレンチク盤ではこのあたりはすっぽりカット。その後、エルジェ登場の歌、ハーリの『赤いリンゴの歌』、ハーリとエルジェの短い二重唱と続き、マリー=ルイーズの一行が登場する場面へとつながっていく。)

(※ハーリが詰め所の建物を力ずくで移動させる場面の前に、マリー=ルイーズに雇われているハンガリー人の御者マルチが、民族楽器ツィンバロン等の伴奏に乗ってユーモラスな『酒酔いの歌』を歌う。ここはケルテス盤、フェレンチク盤、ともに甲乙つけがたい出来栄えを示す。どちらのバス歌手もそれぞれに、表情豊かで豪快だ。で、それに続くのが、ハーリとエルジェの二重唱。これは全曲を見渡した中でも、白眉の名曲である。組曲版・第3曲『歌』の名旋律は、この歌に由来するものだ。ここで深い郷愁を感じるのはおそらくハンガリーの人たちに限られようが、日本人の聴き手にも十分そのノスタルジックな雰囲気は伝わってくる。なお、この美しいデュエットは全曲終了の間際にも出てくるので、歌詞の内容についてはその時に補足したい。)

(※〔第1の冒険〕を締めくくるのは、組曲版・第5曲でおなじみの『間奏曲』。ケルテス盤は、ツィンバロンを前面に押し出しての鮮烈演奏。録音がまた、いかにもデッカらしい派手な音作り。一方、全体にシックな演奏を聴かせるフェレンチク盤も、この『間奏曲』は結構個性的。ディナーミクやテンポの幅が大きく、大胆な表情づけを行なっている。)

〔 第2の冒険 〕・・・ウィーンの宮殿の庭

皇女マリー=ルイーズお抱えの騎士であるエベラスティンは、いきなり伍長に任ぜられたハーリに嫉妬している。そのハーリに恥をかかせてやろうと、彼は「この馬に乗ってみろ」と言って荒馬を押しつける。しかしハーリは、暴れ馬を見事に乗りこなしてみせる。そんな彼のかっこよさに、マリー=ルイーズはすっかりベタ惚れ。やがて皇后までが、「勇敢なハーリ・ヤーノシュさんとやらに、会ってみたいわ」とやって来る。

その後皇后がハーリを連れて立ち去ったので、エルジェは一人ぼっち。寂しそうに歌っている彼女をエベラスティンが誘惑しにかかるが、まったく相手にされない。怒った彼はナポレオンに手紙を書き、フランス対オーストリアの戦争をけしかける。で、いきなり戦争開始。ハーリは大尉に任ぜられ、戦地へ赴くこととなる。一方エベラスティンは、ハーリとの別れを嘆くマリー=ルイーズを馬車に乗せ、パリへと去っていく。

(※〔第2の冒険〕冒頭で聞かれる『カッコウの歌』は、どこかモーツァルト風な感じの楽しい曲だ。ケルテス盤は、指揮者の好演に比して歌手たちの出来があまりよろしくないが、ここでも低調。フェレンチク盤は逆に歌手陣に恵まれており、この歌も楽しく聞かせてもらえる。それに続いてケルテス盤では、エベラスティンがハーリに荒馬を持ちかける場面となる。ユスティノフが巧みな声色演技を駆使して、面白く演じる。さらに、デッカお得意のソニック・ステージで、そこに本当の馬がいるような効果音付き。一方のフェレンチク盤は、この場面をカット。)

(※その後に流れるのが思いっきり有名な『ウィーンの音楽時計』で、これは組曲版・第2曲ですっかりおなじみの名曲だ。正午を告げて鳴り出す鐘を聞きながら、「あれは、私の夫の祖父が作らせたものよ」と、皇后が得意げに語る。ケルテスの演奏も勿論良いが、フェレンチクは鮮やかさの上に繊細な美しさも加えて、さらなる名演を成し遂げている。)

(※次は、エルジェの『愛の歌』。「あなたのいない人生なんて・・」と、一人になった彼女が寂しい気持ちを歌う。こういうしっとりした情緒を歌いだすところは、フェレンチクの独擅場。歌手の巧さも、フェレンチク盤の勝ち。それに続いて、同じエルジェによる『ひな鳥の歌』。これは、ニワトリに餌をやろうとする彼女が歌うきびきびした曲で、ハンガリー情緒が溢れる名曲だ。木管楽器が「コケコッコー」の音型を吹くところもユーモラス。ケルテスはやはり、ダイナミックな演奏。一方のフェレンチクは、ぐっと洗練された演奏を行なっている。)

(※この〔第2の冒険〕を締めくくるのは、『兵士たちの合唱』。最初は、「俺は徴兵されてしまい、おふくろを世話してやれなくなった。鳩たちよ、小麦の穂を食うんじゃないぞ」と嘆き節を歌いだすのだが、やがてマーラーの<復活>に出てきそうなトランペットの間奏を挟み、曲は勇壮な行進曲へと盛り上がっていく。ケルテス盤はこのトランペットが鮮烈で、続く合唱も力強い。一方のフェレンチク盤は、しっとりした前半の合唱が大変味わい深い。勿論、その後も立派な演奏。)

―この続き、物語の後半部分については、次回・・・。
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若きサヴァリッシュのバイロイト・ライヴ(2)~<タンホイザー><ローエングリン>

2008年06月01日 | 演奏(家)を語る
前回の続き。若きサヴァリッシュのバイロイト録音から残りの二つ、<タンホイザー>と<ローエングリン>について。

● <タンホイザー> (1962年)

今回取り上げているサヴァリッシュの3作の中で、おそらく最もバランスの良い仕上がりになっているのが、この<タンホイザー>だと思う。これは、迫力と抒情性が巧みにブレンドされた見事な演奏である。迫力の面では、まず序曲の途中からなだれ込んでいく『バッカナール』の激しさ。ここで早速、若きサヴァリッシュの溌溂たる指揮ぶりが楽しめる。それと、第2幕のエンディング。ヴェーヌス賛歌を歌って周り中から非難されたタンホイザーが、「赦しを求めて、ローマへ」と旅立ちを決意するシーンだ。このたたみ掛けるような迫力!素晴らしいの一語である。一方、抒情的な美しさが出た部分といえば、何と言っても第3幕の前半であろう。『エリーザベトの祈り』からヴォルフラムの有名な『夕星の歌』に続くあたり、サヴァリッシュは実にしっとりしたムードを作り出している。

アニア・シリアのエリーザベトは、ひたむきで情熱的だ。第1幕・登場シーンでの歌唱こそいくぶん不安定なところを見せるものの、それから後は調子がぐんぐん上がっていき、第3幕で聴かせる『祈り』などは見事な名唱。ヴィントガッセンのタンホイザーも、力強い。歌唱そのものはこの人のベストではなさそうだが、そのロブストな声を聴けるだけでも、今は何だか有り難い気分になる。こういうヘルデン・テノールって、本当にいなくなった。この演奏を学生時代にLPで聴いて以来、グレース・バンブリーのヴェーヌスを「圧倒的だった」と記憶し続けていたのは、どうやら第3幕での力唱に直接的な理由があったようだ。今回CDで改めて聴き直してみて、そう思った。第1幕でのタンホイザーとのやり取りは、そんなに特別凄いものではない。やはり、「こちらへいらっしゃい」とタンホイザーを誘いに現れる第3幕での歌唱。これが、パワフルなものだったのだ。

合唱団の素晴らしさも、特筆に価する。「合唱指導の神様」と讃えられたウィルヘルム・ピッツが、ここでもバイロイトらしい強力なコーラスを生み出している。第3幕の有名な『巡礼の合唱』は勿論のこと、タンホイザーがこと切れた後のラスト・シーンで男声合唱が出てくるところ、ここはもう最高である。このラストを聴くたびに、私はちょっと言葉に出来ないような感動を味わう。

● <ローエングリン> (1962年)

ここでのサヴァリッシュの指揮は、「申し分なく情熱的でありながら、なお且つ実直に、この大曲に取り組んでいる」といった印象を与える。第3幕の冒頭で聴かれる有名な『婚礼の合唱』など、ちょっと楷書体の演奏になり過ぎてロマンティックな味わいに欠けるけれども、全体にわたる響きの充実ぶりは素晴らしく、歌手陣の力演ともども、非常な聴き応えを感じさせてくれる。

歌手たちの中で、私にとって最も印象深いのは、二人の悪役だ。まず、オルトルートを歌うアストリッド・ヴァルナイ。さすがに全盛期から比べると声はかなり衰えているが、それを補うように、彼女は凄い性格表現で聴く者を圧倒する。例えば第2幕でのテルラムントとのやり取りの中で、「ヒアーッハッハアーッ」と笑うところなど、あまりのエグさに(?)こちらまでウププッ、と笑ってしまう。

で、彼女の“悪のパートナー”であるテルラムントを演じているのが、ラモン・ヴィナイ。歌の出来はともかく、この声には好感が持てる。往年のヘルマン・ウーデが聞かせたニヒリスティックな声、あるいはケンペ&ウィーン・フィルのEMI盤で歌っている若きフィッシャー=ディースカウの高知能犯罪者みたいな歌唱も、それぞれに個性的で面白いけれども、テルラムントという役をもっとたくましいイメージで聴きたいと願うファンには、この人の声こそぴったりであろう。ちなみにヴィナイという人は、まずバリトンでデビューし、全盛期にはテノール(=いわゆるテノーレ・ロブスト)として活躍し、そして後年またバリトンに戻るというユニークな履歴を経た歌手である。普通、一人の歌手がそのキャリアの中で、オテロとヤーゴの両方を歌うなどということは有り得ない話なのだが、この人はそれをやってのけた例外的な歌手だった。

さて、主役の二人。ジェス・トーマスのローエングリンは、声こそさすがに立派なものの、歌の出来はいまひとつ。この人のローエングリンを聴くなら、ケンペ&ウィーン・フィル、他によるEMI盤の方がずっと良い。一方、サヴァリッシュの3作品にすべて出演して毎度好評のアニア・シリアは、特に第2幕で理想的なエルザを聴かせる。ヴァルナイの悪役演技と見事な対比をなして、彼女は可憐な乙女のイメージを鮮明に描き出す。そう言えば、シリアのほかにフランツ・クラスも、3作品すべてに出演している。で、私の感ずるところ、このバス歌手の出来栄えは、ここで歌っている国王ハインリッヒがベストである。

ウィルヘルム・ピッツが指導したバイロイト合唱団の威力についてはもう、言わずもがなであろう。いや、それどころか、サヴァリッシュの指揮による今回の3作の中でも、この<ローエングリン>のコーラスこそ、飛びぬけて圧倒的なものであると言うべきかもしれない。<ローエングリン>に於いては、タイトル役よりもむしろ合唱団の方が歌う箇所が多いので、一層その存在が大きく感じられるのだろう。

(PS) ヴィーラント・ワグナーとアニア・シリア、そして若きサヴァリッシュ

今回の締めくくりは、前回保留にしておいたお話。アニア・シリアに対するヴィーラント・ワグナーの入れ込み方、そしてサヴァリッシュがバイロイトを去ることになったいきさつ、その二点についての補足をしておきたい。まずは前者について、『音楽と我が人生~サヴァリッシュ自伝~』(第三文明社)の132~136ページに書かれている文章から抜粋・編集したものを書き出してみたい。

{ 「作曲家リヒャルト・ワグナーは、自作に登場するすべての女性像を、最終的にはただ一つの姿であると見なしていた」という考えを、ヴィーラント・ワグナーは支持していました。彼は祖父が書いた文章を引用して、そのことを実証しようとしました。ゼンタ、エリーザベト、エルザ、クンドリー、そしてブリュンヒルデを、最後に精神的死を遂げるひとりの女性像として見たのです。そして、その女性像を体現できるただ一人の歌手がアニア・シリアであると、ヴィーラントは主張したのでした。

でも、<マイスタージンガー>のエヴァは全く違います。私は自分の考えをヴィーラントに伝え、何とかわかってもらおうと努めました。・・・ヴィーラントは私の話に耳を貸しませんでした。・・・「絶対、アニア・シリアにする」。これがヴィーラント・ワグナーの決まり文句でした。・・・1962年の音楽祭が終了してしばらく後、翌63年の<マイスタージンガー>上演のために確定したメンバー表が、私のところに届きました。エヴァの役は、アニア・シリアになっていました。 }

続いて後者、つまりサヴァリッシュがバイロイトを去ることになったいきさつについて、彼がヴィーラント・ワグナーに宛てた1962年9月30日付の書簡から抜粋したものを、以下に。

{ 来年の<マイスタージンガー>の指揮をするようにとのご招待、心から感謝致しております。・・・ここで、私には実行不可能と思われる点に達しました。エヴァの問題です。・・・ゼンタ、ブリュンヒルデ、イゾルデ、そしてエリーザベトを歌うことができ、さらにその上、エルザとエヴァを同時に歌うことの出来る女性、そんな女性は存在しませんし、今後生まれることも決してないでしょう。それには、貴方はまず、のどの筋肉と声帯のメカニックを変えられる発明をしなければならないでしょう。・・・非常に残念ですが、私がバイロイトで指揮した6年の後、そしてそれに連なる素晴らしい体験を考えると、・・・こうした手紙を書くのは生易しいものではないことを信じていただきたいのですが、私の1963年の仕事への参加は思いとどめて下さいますようお願い致します。・・・ }

このエヴァ問題のほか、ザックス役のキャスティングを巡る意見の相違等、いくつかの障害があって、サヴァリッシュは1963年の<マイスタージンガー>を断り、結局そのままバイロイトを去ることとなった。そして1966年にヴィーラントが他界し、将来一緒にやろうと約束していた《指環》新上演の話も立ち消えとなったのである。(※ついでながらサヴァリッシュは、「前回の上演より進んだものを、まだ今の自分には作れない」という理由で、1962年の<トリスタン>も断っている。そのサヴァリッシュの推薦を受けて登場し、<トリスタンとイゾルデ>で鮮烈なバイロイト・デビューを飾ったのがカール・ベームというわけである。)

バイロイトへの参加を断ったサヴァリッシュの一件は、当時様々な議論や政治的憶測を呼んだものらしい。面白いのはクナッパーツブッシュの反応で、彼もやはりニュースを聞いた当初はサヴァリッシュに対して批判的な思いを抱いたようだ。しかし、「バイロイトへの招待を断るもんじゃないよ」と本人を諌(いさ)めはしたものの、詳しい説明を聞いた後は、「そういうことなら、君が正しい。それは、断らねばならん」と、若い指揮者の決断に理解を示したのだそうである。

―サヴァリッシュとバイロイトを巡るお話は、これで終了。次回から新しいトピック。
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