クラシック音楽オデュッセイア

2009年の大病以来、月1回程度の更新ペース。クラシックに限らず、身の回りの事なども、気の向くままに書いております。

迷指揮者・不能芳香のひとりごと(3)

2008年07月27日 | エトセトラ
ぼくの与太話もいよいよ、最終回といえよう。

●芳香の艶舞曲(1994年4月13日・東京芸術劇場)

『芳香の艶舞曲(ワルツ)』と題されたこの日のコンサートでは、まさに芳香節が全開だったといえよう。基本的にどの曲も、「そこまでやるか」というほどに濃密で、普通の演奏家には到底真似の出来ない個性的な演奏が次々と飛び出したのである。妙なポルタメントが効いたモーツァルトの<3つのドイツ舞曲K.605>の第1番、クナのライヴのように大胆で陰影の濃いウェーバー原曲の<舞踏への勧誘>、そして濃厚な響きと激しく揺れ動くテンポによってジプシー的な土の香りがむせ返るブラームスの<ハンガリー舞曲第5番>、これらはいずれもぼくならではの世界であり、会場につめかけた多くのファンがその特異な音楽に酔いしれたのであった。(ただし、ヨゼフ・シュトラウスの<オーストリアの村つばめ>は、さすがにやり過ぎであったかもしれないと反省されよう。あまりにも重々しい演奏のため、まるで「飛ぶのもしんどい、メタボつばめ」みたいになってしまったのだ。)

さて、この日の最高傑作と言えばやはり、レハールの<金と銀>であったといえよう。録音では何と言ってもルドルフ・ケンペ指揮ドレスデン国立管が最高の逸品だが、ぼくの演奏も当然それを目指したものとなったのである。きらびやかな前奏から第1ワルツに移るところで大きなリタルダンドを効かせるあたり、まさにケンペの流儀であり、ぼくのファンなら誰しも、「ああ、やっぱりそれね」と感じたに違いない。しかし、その後も変わらず、ぼくの演奏は見事なものだったと絶賛されよう。各ワルツの旋律を奏でる弦の甘い苦味と夕映えのような詩情はため息が出るほどで、さらに宝石を散りばめたようなオーケストラの輝きは、まるではらはらと舞い散る早春の花びらのように、あえかな儚(はかな)さまで漂わせるのである。その美しさはとても筆舌に尽くせないものであり、レハールの曲はやはりこうでなくてはと思わせる。だから、ケンペの名演が入手困難な人は、ぼくのCDを聴けば良いのである。<金と銀>のCDに関する限り、これさえあれば他はいらない。

そう言えば、この日のコンサートでもう一つ忘れられない演目として<おもちゃの交響曲>もあったのだが、なぜかCDには収められていない。これは残念なことといえよう。ぼくはそこで、いくつかのおもちゃ楽器をステージの前方に並べて演奏させたのだが、その中の一つであった手回しの「ガラガラ」が物凄い音を出して会場内に響きわたったのである。その音たるや、両手で耳を押さえなくてはいられないほど喧(やかま)しいものだったのだが、実はこれこそよそ行きでない本音の<おもちゃ>であり、魂の<おもちゃ>として価値が高い。しかしCDから外されたことで、当日会場に来られなかったファンの耳には届かないこととなってしまった。まことに痛恨の極みといえよう。

(ところで、そのCDについてだが、<英雄>も<運命>も情けない録音だったのに対し、この『艶舞曲』のCDはかなり良い。マイクがオーケストラに比較的近くセッティングされていたようで、まるで目の前で演奏しているような臨場感があり、さらにホールの空間性みたいなものさえ感じさせてくれるのである。珍しいことだが、CDの方がかえって生演奏よりも名演に聴こえるぐらいなのだ。ポニーキャニオンさん、お手柄といえよう。)

●芳香の<田園>(1995年10月5日・東京芸術劇場)

このコンサートでは、ベートーヴェンの<第2>と<田園>がとりあげられたといえよう。メインとなる<田園>で一番特徴的だったのは第3楽章中間部の最後を飾るトランペットで、これがひときわ大きな音で「プワァ~ン ポワァ~ン」と鳴った時、おそらく誰しもが、「ああ、ワルター、コロンビア響のあれね」と思ったことであろう。ぼくはかねてからワルターの<田園>を絶賛してやまなかったし、とりわけ第3楽章のトランペット引き伸ばしが生み出す美しい情感に強い賛意を示していたからである。しかし、それにしても、その音の大きかったこと!もう少し他の楽器とのバランスを考えるべきではないか、と思われたファンも多かったに違いない。これがLPレコードの演奏なら、カートリッジをシュアーのV15・タイプⅣに替えるなどして音質を改善することも出来たのだが、生演奏だからそうはいかなかったのだ。そして、この日のコンサートをもって、それまで熱心に通い続けてきたファンの一人がいよいよ、「不能詣で」の終点を意識し始めたのである。

と言うのも、この日彼は結構大変な思いをしたのであった。夕方からの雨で行く時から既に足元が良くなかった上に、帰りは中央線が人身事故のためストップ。途中の駅で私鉄の電車に乗り換えねばならず、当然そちらは大混雑。それ以上の細かい話は省くが、とにかくストレスまみれのつらい帰り道となったのである。その上、ぼくの演奏会が大して面白くもないものだったとあっては、まことに踏んだりけったりであったといえよう。うつむき加減に、「不能詣ではもう、やめるかな」と、ボソッとつぶやいた彼であった。

●<第9>と<望郷のバラード>(1995年12月27日・オーチャードホール)

この日の演奏会には、ぼくがかねてから賞賛していたヴァイオリニストの天○敦子を招き、彼女の名刺代わりになっているレパートリーを先に演奏してもらった。チプリアン・ポルムベスクの<望郷のバラード>である。しかし、とりあえず、それはどうでもいいということにしたいといえよう。問題は、ベートーヴェンの<第9>である。この日のオーケストラはいつもの新○日響ではなく、東○フィルであった。

録音はしない、という前提のコンサートだったので、この時のぼくは恣意(しい)的の限りを尽くしたといえよう。(←こういう文を普通の人が書くと「日本語がおかしい」と指摘されるのだが、ぼくの場合だけは、“不能語法”として一つの魅力になってしまうのである。知らなかった、とは言ってほしくない。)テンポを激しく揺らし、楽想をこねくり回し、それはもうやりたい放題の演奏であった。しかし、それが感動を呼ぶものであったかと言えば、結果はむしろその正反対になったのである。異常な遅さでダラダラ、ダラダラと流れた第3楽章はとりわけ最悪で、「いったい、いつ終わるんだよ」というゲンナリ感をお客さんに与えたし、東○フィルのメンバーの中にさえ、不機嫌さをあらわにした顔つきの人たちがいたのである。そして終楽章も、92年ライヴのような奇跡は起こらず、まったく平凡なものに終わってしまったのだ。あの時のぼくはいったい、どこへ行ってしまったのか。「これで、不能詣では打ち止め。もうやめた」とはっきり決意した一人のファンは、終演後拍手もせず、さっさと帰宅の途についたといえよう。彼は大きな徒労感に包まれながら、うなだれて家に向かったのである。(しかし、ぼくに言わせれば、こんなコンサートなど聴きに来る方が悪い。)

―こうして、一人のマニアが(おそらく永遠に)ぼくのコンサートから去って行ったといえよう。と同時に彼は、ぼくの評論からも次第に遠ざかっていったのである。ごくたまに気が向いて、現在のぼくが書いている文章を見にくることもあるらしいのだが、それでも決して、かつてのような読み方はしていないのだ。たとえて言うなら、ある社会人がふと母校のキャンパスを訪れ、しばしの間学生時代を懐かしんでいるような、ちょうどそんな眼差しなのである。一例を挙げれば、ぼくの近著である『不能芳香の「クラシックの聴き方」』(音楽○○社)を最近彼は手に取ったのだが、どのページの音楽評を読んでもわくわくすることはなく、「ふ~ん、そうですか」というぐらいの冷めた反応しか出てこないのだ。そして、「でも不能先生、相変わらずのご様子で、お元気そうですね」といった言葉が浮かんでくるのである。これはまさにOB、卒業生の言葉そのものといえよう。―いっときはぼくの評論に心酔し、影響を受けつつも、やがて卒業していく・・・それで良いと思う。実際、そのような道筋をたどるクラシック・ファンは少なくないであろう。

というところで、ぼくの与太話もいよいよ終わる時が来たといえよう。はっきり言うが、いつまでもこんなしけたブログに駄文を書いているほど、ぼくは暇ではないのである。『レコード芸術』をはじめとする多くの音楽雑誌で精力的に執筆活動を続けるぼくであり、指揮者としても活躍しているぼくであり、さらに関西のFM番組で人気パーソナリティにまでなってしまったぼくであってみれば、毎日が多忙の極みであるのは当然のことといえよう。

そんなぼくも今やすっかり老境に入り、チッチとポッポの2匹も、スポン、スポンとよく転んだスポンティーニも、ラジワーやクサイナーといった懐かしい電車たちも、そしてぼくの心を最も豊かにしてくれた蓼科(たてしな)での山小屋生活も、すべてが皆遠い過去の思い出になってしまった。しかし、ぼくはおそらく、このまま生涯現役で頑張り続けるのである。ぼくのファンは勿論のこと、アンチの人たちの間でさえ、ぼくが将来世を去った後のクラシック界の寂しさを予感する声がすでに聞かれるのだ。そうであってみれば、まだまだこんなところでおめおめと老け込んではいられないぼくなのである。

―迷指揮者・不能芳香のひとりごと (終)
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迷指揮者・不能芳香のひとりごと(2)

2008年07月17日 | エトセトラ
今回は、ぼくの与太話の第2回といえよう。

●エリック・ハイドシェック、コンチェルトの夕べ(1992年10月7日・新宿文化センター)

これは、ぼくのオーケストラ・リサイタルの番外編である。ハイドシェックはぼくが日頃激賞してやまない天才ピアニストだが、彼がこの年の来日で『協奏曲の夕べ』をやることとなり、親友であるぼくが伴奏指揮者を務めたのであった。曲は、モーツァルトのK.595とベートーヴェンの<皇帝>である。モーツァルトの方はとりあえず、どうでもいいといえよう。今思い出しても冷や汗が出るのは、ベートーヴェンの方である。

かつてぼくは、大ピアニストが本番中に弾き間違いをしてやり直すという古い音源を語ったことがある。それはスリリングな体験であった。しかしまさか、ぼく自身がそんな立場に置かれることになろうとは思ってもみなかった。当日の演奏は、ハイドシェックが天才ぶりを発揮して奔放に弾きまくるのをぼくが必死にフォローする、というものになったが、第1楽章の後半部分でピアノとオケがまったく合わなくなり、演奏が止まってしまったのである。そこは結局やり直しなどせず、そのまま先へ進んだのだが、指揮台の上でぼくは汗びっしょりになってしまった。ハイドシェックはぼくの親友だが、宇和島での<テンペスト>以来、彼はやたらとぼくを汗びっしょりにさせるのである。だから、「天才との共演はもう、こりごりだよ」と、親しい人たちに後日こぼしたのは、ぼくの偽らざる本音であったのだ。

(幸か不幸か、この日の演奏会は録音されなかったが、もしこの<皇帝>がCDにのこされていたら、今どき普通だったら有り得ない “天下の奇演”として、伝説の音源となっていたのは間違いないといえよう。)

●芳香の<第9>(1992年12月9日・サントリーホール)

ぼくが指揮したベートーヴェンの<第9>と言えば、『芳香の<歓喜>』と題された1989年12月17日の演奏会がかつて話題を呼んだが、機械の不調でそのライヴ録音は発売されず、第1楽章のゲネプロだけが音源として残ったのであった。この92年ライヴはそれ以来で、まさにファン待望のコンサートとなったのである。ここでぼくは89年の表現をさらに徹底させ、そこに円熟味を加え、比類のない<第9>を実現したといえよう。

ザガザガ、ザガザガ、ザガザガ、と妙にやかましい出だし、混沌たる宇宙が雪崩を打って崩壊する冒頭部の巨大なスケール、最新の録音マイクでさえ捉えきれなかった凄絶なクライマックス(CDでは、トラック1の〔10:16〕以降)、そして変なピアニッシモが唐突に出てくるコーダ等、極めて性格的な第1楽章がいきなり聴き手を揺さぶる。粘っこく始まったあと普通に走り出す第2楽章も同様で、途中でやはり音楽が大きな揺れを見せて聴き手を驚かせるのだ。これらはすべてぼく以外には成し得ない表現であり、言わば、ぼくの命を賭けた遊びであった。速いところはなお速く、遅いところはなお遅く、激しくテンポを動かしながら、各楽想の意味を極限まで抉り出してゆくのである。従って、これは聴いていて甚だ疲れる演奏だが、「不能先生の指揮に触れて初めて、この曲の真価がわかった」とか、「フルトヴェングラー以上にフルトヴェングラー的な名演を、生で聴けて感動した」などと、終演後みんな次々とぼくのところに言いにくるのである。

続く第3楽章では思いがけず自然な流れで音楽を歌い、聴く者を安心させるぼくであったといえよう。オーケストラ能力の限界から、いくぶんデリカシーに不足していたことは否めないが、各楽想につけた濃密な表情によって極めて内容的な演奏となったのは賞賛に値しよう。ここでは曲と演奏がまさに一体化しており、どこまでがベートーヴェンで、どこまでがぼくの音楽なのか分からないのである。

そして、雷鳴のような冒頭のティンパニーが肌に粟粒生じさせる終楽章!有名な歓喜の主題がひっそりと歌いだされるのはフルトヴェングラー以来だが、声楽パートが参加してくるところから、ぼくの個性的な指揮はいよいよ乗ってくるのだ。今でこそ音楽評論を天職と自覚しているぼくであるが、もともとは合唱指揮者である。各声部のバランスや、歌詞のちょっとした表情付けなど、随所に細かい神経を行き届かせたのは当然のことといえよう。(ところで、この日共演してくれたT○F合唱団は、ぼくとはすっかり旧知の間柄だが、パッと見た感じテノール・パートの人数が少なく、日本の合唱界が置かれている状況を如実に伝えている。しかし、歌い出せば話は別である。テノールが凹んだりしないだろうか、などという心配が単なる杞憂であることを、彼らはすぐに分からせてくれるのである。)

ぼくの信奉者である作家の宇○幸男君もCDの解説書で触れてくれている通り、この終楽章のコーダでぼくは奇跡を起こしたといえよう。曲の終わりに向けて、オーケストラやコーラスをただ突っ走らせるのではなく、絶妙な設計で楽器の音をぐんぐんと増やしながら盛り上げていったのである。しかも、そのすべての音が結晶化しており、まさに切れば血の出るような響きとなったのだ。CDに十分な姿で記録されていないのが残念だが、当日その場に居合わせたファンの中には、これを一生ものの感動と受け止めた人もいるのである。これでこそベートーヴェンの音楽は生きるのだと言いたい。そして、こんなクライマックスを築きながらも冷静な構えを保ち、お客さんの方に横顔を見せながら棒をシャカシャカ振っていたぼくの指揮姿は、まことにチャーミングの極みであったと絶賛されよう。聴く側の好悪が分かれるのは間違いないが、この<第9>こそ、現在録音で聴くことの出来るぼくの“最功芳の芸術”であると評価するファンは少なくないのである。

評論家としても歯切れの良い個性的な文体で多くのファンとアンチを獲得し、さらにオーケストラ指揮者としてもこれだけの実演をやってのける。これがぼくの偉大さなのだ。だから同じ音楽評論家でも、ぼくはあの苦労だ狂一あたりとは全然格が違うのである。苦労だの文章を見るがいい。やたらと回りくどい言い方が多く、何かぼそぼそと独り言を言っているようなものばかりではないか。それに、彼がオーケストラを指揮できようなどとは到底思えないのである。

●芳香の《指環》(1993年4月15日・東京芸術劇場)

この日の前座で演奏したモーツァルトの<第40番>ではワルターの真似事みたいなことをやっていたぼくだったが、メインとなるワグナーの《指環》ハイライトでは、クナッパーツブッシュのようにやってやろうと決意して指揮台に立ったぼくであった。ワグナーの巨大な世界を、敬愛する大指揮者のようにスケール雄大に描こうとしたのである。しかしその演奏は、テンポの遅さや響きの重さこそクナにそっくりだったとはいえ、あまり感心できる仕上がりではなかったといえよう。オーケストラの基本的なアンサンブル・バランスがまるでなっておらず、「いくら何でも、それじゃグチャグチャ過ぎるだろう」という印象を、耳の肥えた聴き手に与えてしまったのである。大規模な管弦楽の音を濁ったものにしてしまうのはひとえに指揮者の責任だが、このあたりにぼくの限界が示された演奏会だったといえよう。

しかし終演後の大喝采はいつものとおりで、ぼくが何をやっても大きな拍手をしてくれるファンの有り難さを、改めて実感した演奏会でもあった。この日特にびっくりしたのは、拍手の最中に突然、「またやってくれーっ!!」という大声が会場内に鳴り響いたことである。これには、本当に驚いた。そんなに良かったのだろうか?演奏が終わるや、さっさと会場を出て行ったファンが間違いなく一人いたのだが、その一方で、上のような激励の叫びも飛び出したのである。こうなるとやはり、いろいろな評者の意見を聞きたいものだ。おーい、福島くーん!(福島氏、応答せず。)

―次回もう一度だけ、ぼくの与太話といえよう。

(PS) 苦労だ狂一氏から、緊急コメント!!

おはようございます。苦労だ狂一です。マニアックなブログを読むひと時、いかがお過ごしでいらっしゃいますでしょうか。苦労だ狂一です。えー、先ほど、不能先生から、「苦労だ狂一の文章はまわりくどい言い方が多く、ぼそぼそと独り言を言っているようなものばかり」というご指摘をいただきましたが、確かに、そう言えなくもない部分がなくもないように思われたのですが、皆様はどのようにお感じになられましたでしょうか。・・・時間がまいりました。今日はこの辺で失礼いたしますが、どうぞ毎日をお気持ちさわやかに、お過ごしくださいますよう。苦労だ狂一でした。
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迷指揮者・不能芳香のひとりごと(1)

2008年07月07日 | エトセトラ
ぼくの本職は日本一の音楽評論家だが、指揮者としても活躍してきたといえよう。合唱の指導がしたくて声楽科を選んだぼくであってみれば、当然のことといえよう。ぼくが若い頃に定時制の生徒たちを指導した女声コーラスは、大ピアニストのリリー・クラウスにも絶賛されたので、その価値はお墨付きといえよう。その後執筆活動もますます波に乗り、ぼくはいつしか人気評論家になったのである。すると、ぼくがオーケストラを指揮したらどんなことになるのか見てみたい、聴いてみたい、という声がどこからともなく湧き上がり、ついに、「不能芳香指揮のオーケストラをきく会」が結成されたのであった。それはさながら、ブルックナーの第3の出だしのように美しいものだったといえよう。こうして、ぼくのオーケストラ指揮者としての活動が本格的に始まったのである。

都内に住んでいる一人のマニアがそんなぼくの活動にある時注目し、コンサート通いを始めたといえよう。つまらない演奏が多い現代のクラシック界に、彼は新鮮な刺激を求めたのである。そして最初に足を運んだのが、ぼくの第3回オーケストラ・リサイタルに当たる『芳香の<英雄>』であった。

●芳香の<英雄>(1990年6月24日・サントリーホール)

この日のコンサートはまず、ぼくの大好きなモーツァルトのK.273、72、275といったレアな宗教合唱曲から始めたのだが、このあたりはもうどうでもいいといえよう。本題は、ベートーヴェンの第3である。演奏に先だって、ぼくは客席を向いて短いスピーチを行なった。少し前に指揮界の重鎮・渡辺暁雄先生が他界しておられたので、追悼の言葉を贈ったのである。ホールにかぼそく響いたぼくの貧相な肉声に、「いかにも、って感じの声だなあ」と苦笑いしたファンがきっといたに違いない。(ほっといてくれ。)

そして始まった<英雄>の第1楽章こそ、まさに入魂の一編であったと絶賛されよう。クナッパーツブッシュさながらの悠然たるテンポで、英雄の主題を歌う弦の深沈たる味わい!さらに、肺腑をえぐるように打ち込まれるティンパニーも言語道断な素晴らしさであり、ホール全体をつんざくような金管の咆哮は肌に粟粒生じさせるものでありながら、それでいてうるささは皆無。すべての音に血が通い、とても楽器とは思えない音をぼくはオーケストラから引き出したのである。

続く3つの楽章では、当日まで長旅を続けてきたオーケストラ・メンバーの疲れがいよいよ隠しきれなくなり、演奏がいささかパワーダウンしてしまったが、上記第1楽章の凄絶さだけは聴衆の度肝を抜くに十分であったといえよう。そして、この芳香体験に感動したマニアは、ぼくのコンサートに出来る限り通ってみようと決意したのである。ワグナー・ファンの「バイロイト詣(もう)で」にちなんで、彼はこれを「不能詣で」と名づけ、せっせと演奏会場に足を運ぶようになったのだ。

(ところで、このコンサートのライヴCDだが、ここには当日ホールで鳴り響いた音の半分も捉えられておらず、まるで感銘の薄いものになってしまっている。生演奏の音がウナギなら、CDの音はアナゴといえよう。旨みもコクも抜けた、あっさり淡白な音。これはまことに残念なことといえよう。)

●芳香の<運命>(1991年4月16日・東京芸術劇場)

この日のコンサートはベートーヴェン・プログラムとして、歌劇<フィデリオ>の序曲と<交響曲第1番>から開始されたが、その二つはとりあえずどうでもいいといえよう。メイン・プロの第5番<運命>こそ、驚天動地の迷演であり、ベートーヴェン演奏史上の一大事件となったのである。この<運命>に於いて、ぼくはやりたいことのすべてをやり尽くし、結果として他の誰にも真似のできないような大傑作を生み出すこととなったのだ。

「内容と形式との統一」は、ぼくがカール・ベームを論じるときに使った概念だが、ここでのぼくは、「形式を捨てて、内容の表現だけにすべてを注いだ演奏」を行なったといえよう。<運命>が内蔵するドラマをとことんまで抉り出し、曲の形を壊してでも内容を劇的に描き出すことに賭けたのである。従って、それは恐ろしくドロドロな<運命>であり、およそ常識のある演奏家に作れるものではなかったといえよう。当然、この演奏に無意味な音など一つもなく、ベートーヴェンが書いたすべての音に演奏家が感じきっている。コクのある楽器の響きは有機的の極みであり、こみ上げてくる熱い情感など、ついには怒りにまで達するではないか。そして終楽章のコーダ!歌舞伎役者の大見得でさえ顔負けの、とんでもなくタメを利かせた終わり方が聴く者の爆笑を誘い、大きな感動を巻き起こしたのである。終演後に鳴り響いた割れんばかりの拍手は、当然の結果であったといえよう。客席に向かってお辞儀をしながら、幸福な気持ちに満たされたぼくであった。すると、奇妙な光景がぼくの目に飛び込んできたのである。

ふと2階席の奥に目をやると、変なファンが一人だけ立ち上がって狂ったように拍手をし、さらに両のこぶしを頭上高く掲げているではないか!それがぼくに向けた絶賛のポーズであることは、間違いなかった。そして喜色満面の彼は、再び席に着きながら、「ここまでやってくれたら、言うことなし!笑える、笑える」と口走り、周りの席のお客さんたちからケラケラ笑われていたのである。その変なファンこそまさに、今このブログを書いている人物であるといえよう。それほどに、この日のぼくの演奏は度外れており、キワモノ好きの偏屈マニアを狂喜させるに十分な威力を持っていたのである。

(ただ残念なことに、この時のライヴCDもまた、当日の生の響きを半分も伝えていない。ぼくが行なった奇天烈な演奏の姿は十分に記録されているが、響きがまるで異質なのである。これもまた、非常に残念なことといえよう。)

●芳香のブルックナー<第8>(1992年4月9日・サントリーホール)

内容的には至高とも言うべき<第9番>が未完成であることから、<第8>をブルックナーの最高傑作と位置づける人は多い。ぼくはLP時代から、この曲に於ける2大名盤としてクナッパーツブッシュ指揮ミュンヘン・フィルのウエストミンスター盤と、シューリヒト指揮ウィーン・フィルのEMI盤を推薦してきた。それに朝比奈、大阪フィルが加わってこの曲のベスト3を形成していたわけだが、この日の演奏会でぼくはシューリヒトのスタイルを選んだといえよう。そのため、クナのような演奏スタイルを期待していたファンには肩透かしのようになってしまったようである。「シューリヒトの名盤は、オーケストラがウィーン・フィルだったからこそ成り立っていた部分もあるのではないか。新○日響にウィーン・フィルのような響きを求められるわけはないのだから、むしろクナッパーツブッシュ風にどっしりと濃厚な演奏をやってくれれば、もっと面白かったろうに」と感じたファンが、少なくとも一人いたのである。

しかし、わかる奴にはわかるのだ。ぼくの演奏は、聴く者の耳を試す。ブルックナーの楽譜を比較できるほど音楽に詳しい人は、きっとこの日の演奏からいろいろなことを感じ取ったに違いないのである。

ところでクナッパーツブッシュと言えば、ぼくは若い頃の著作『オーヴェルニュの歌』の中で、「クナッパーツブッシュのひとりごと」という文章を書いたといえよう。あれは、ぼく自身がクナになりきって、大指揮者の心情をユーモラスに語りだした名文であった。(但し冷静に読めば、クナに会ったこともねえくせに、あんたよくそんなことがわかるなといえよう。)今回の記事タイトルは、その懐かしい文章にちなんでつけられたのであった。

―次回も、ぼくの与太話が続くといえよう。ぼくのファンにとっては、最高の贈り物といえよう。
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