ぼくの与太話もいよいよ、最終回といえよう。
●芳香の艶舞曲(1994年4月13日・東京芸術劇場)
『芳香の艶舞曲(ワルツ)』と題されたこの日のコンサートでは、まさに芳香節が全開だったといえよう。基本的にどの曲も、「そこまでやるか」というほどに濃密で、普通の演奏家には到底真似の出来ない個性的な演奏が次々と飛び出したのである。妙なポルタメントが効いたモーツァルトの<3つのドイツ舞曲K.605>の第1番、クナのライヴのように大胆で陰影の濃いウェーバー原曲の<舞踏への勧誘>、そして濃厚な響きと激しく揺れ動くテンポによってジプシー的な土の香りがむせ返るブラームスの<ハンガリー舞曲第5番>、これらはいずれもぼくならではの世界であり、会場につめかけた多くのファンがその特異な音楽に酔いしれたのであった。(ただし、ヨゼフ・シュトラウスの<オーストリアの村つばめ>は、さすがにやり過ぎであったかもしれないと反省されよう。あまりにも重々しい演奏のため、まるで「飛ぶのもしんどい、メタボつばめ」みたいになってしまったのだ。)
さて、この日の最高傑作と言えばやはり、レハールの<金と銀>であったといえよう。録音では何と言ってもルドルフ・ケンペ指揮ドレスデン国立管が最高の逸品だが、ぼくの演奏も当然それを目指したものとなったのである。きらびやかな前奏から第1ワルツに移るところで大きなリタルダンドを効かせるあたり、まさにケンペの流儀であり、ぼくのファンなら誰しも、「ああ、やっぱりそれね」と感じたに違いない。しかし、その後も変わらず、ぼくの演奏は見事なものだったと絶賛されよう。各ワルツの旋律を奏でる弦の甘い苦味と夕映えのような詩情はため息が出るほどで、さらに宝石を散りばめたようなオーケストラの輝きは、まるではらはらと舞い散る早春の花びらのように、あえかな儚(はかな)さまで漂わせるのである。その美しさはとても筆舌に尽くせないものであり、レハールの曲はやはりこうでなくてはと思わせる。だから、ケンペの名演が入手困難な人は、ぼくのCDを聴けば良いのである。<金と銀>のCDに関する限り、これさえあれば他はいらない。
そう言えば、この日のコンサートでもう一つ忘れられない演目として<おもちゃの交響曲>もあったのだが、なぜかCDには収められていない。これは残念なことといえよう。ぼくはそこで、いくつかのおもちゃ楽器をステージの前方に並べて演奏させたのだが、その中の一つであった手回しの「ガラガラ」が物凄い音を出して会場内に響きわたったのである。その音たるや、両手で耳を押さえなくてはいられないほど喧(やかま)しいものだったのだが、実はこれこそよそ行きでない本音の<おもちゃ>であり、魂の<おもちゃ>として価値が高い。しかしCDから外されたことで、当日会場に来られなかったファンの耳には届かないこととなってしまった。まことに痛恨の極みといえよう。
(ところで、そのCDについてだが、<英雄>も<運命>も情けない録音だったのに対し、この『艶舞曲』のCDはかなり良い。マイクがオーケストラに比較的近くセッティングされていたようで、まるで目の前で演奏しているような臨場感があり、さらにホールの空間性みたいなものさえ感じさせてくれるのである。珍しいことだが、CDの方がかえって生演奏よりも名演に聴こえるぐらいなのだ。ポニーキャニオンさん、お手柄といえよう。)
●芳香の<田園>(1995年10月5日・東京芸術劇場)
このコンサートでは、ベートーヴェンの<第2>と<田園>がとりあげられたといえよう。メインとなる<田園>で一番特徴的だったのは第3楽章中間部の最後を飾るトランペットで、これがひときわ大きな音で「プワァ~ン ポワァ~ン」と鳴った時、おそらく誰しもが、「ああ、ワルター、コロンビア響のあれね」と思ったことであろう。ぼくはかねてからワルターの<田園>を絶賛してやまなかったし、とりわけ第3楽章のトランペット引き伸ばしが生み出す美しい情感に強い賛意を示していたからである。しかし、それにしても、その音の大きかったこと!もう少し他の楽器とのバランスを考えるべきではないか、と思われたファンも多かったに違いない。これがLPレコードの演奏なら、カートリッジをシュアーのV15・タイプⅣに替えるなどして音質を改善することも出来たのだが、生演奏だからそうはいかなかったのだ。そして、この日のコンサートをもって、それまで熱心に通い続けてきたファンの一人がいよいよ、「不能詣で」の終点を意識し始めたのである。
と言うのも、この日彼は結構大変な思いをしたのであった。夕方からの雨で行く時から既に足元が良くなかった上に、帰りは中央線が人身事故のためストップ。途中の駅で私鉄の電車に乗り換えねばならず、当然そちらは大混雑。それ以上の細かい話は省くが、とにかくストレスまみれのつらい帰り道となったのである。その上、ぼくの演奏会が大して面白くもないものだったとあっては、まことに踏んだりけったりであったといえよう。うつむき加減に、「不能詣ではもう、やめるかな」と、ボソッとつぶやいた彼であった。
●<第9>と<望郷のバラード>(1995年12月27日・オーチャードホール)
この日の演奏会には、ぼくがかねてから賞賛していたヴァイオリニストの天○敦子を招き、彼女の名刺代わりになっているレパートリーを先に演奏してもらった。チプリアン・ポルムベスクの<望郷のバラード>である。しかし、とりあえず、それはどうでもいいということにしたいといえよう。問題は、ベートーヴェンの<第9>である。この日のオーケストラはいつもの新○日響ではなく、東○フィルであった。
録音はしない、という前提のコンサートだったので、この時のぼくは恣意(しい)的の限りを尽くしたといえよう。(←こういう文を普通の人が書くと「日本語がおかしい」と指摘されるのだが、ぼくの場合だけは、“不能語法”として一つの魅力になってしまうのである。知らなかった、とは言ってほしくない。)テンポを激しく揺らし、楽想をこねくり回し、それはもうやりたい放題の演奏であった。しかし、それが感動を呼ぶものであったかと言えば、結果はむしろその正反対になったのである。異常な遅さでダラダラ、ダラダラと流れた第3楽章はとりわけ最悪で、「いったい、いつ終わるんだよ」というゲンナリ感をお客さんに与えたし、東○フィルのメンバーの中にさえ、不機嫌さをあらわにした顔つきの人たちがいたのである。そして終楽章も、92年ライヴのような奇跡は起こらず、まったく平凡なものに終わってしまったのだ。あの時のぼくはいったい、どこへ行ってしまったのか。「これで、不能詣では打ち止め。もうやめた」とはっきり決意した一人のファンは、終演後拍手もせず、さっさと帰宅の途についたといえよう。彼は大きな徒労感に包まれながら、うなだれて家に向かったのである。(しかし、ぼくに言わせれば、こんなコンサートなど聴きに来る方が悪い。)
―こうして、一人のマニアが(おそらく永遠に)ぼくのコンサートから去って行ったといえよう。と同時に彼は、ぼくの評論からも次第に遠ざかっていったのである。ごくたまに気が向いて、現在のぼくが書いている文章を見にくることもあるらしいのだが、それでも決して、かつてのような読み方はしていないのだ。たとえて言うなら、ある社会人がふと母校のキャンパスを訪れ、しばしの間学生時代を懐かしんでいるような、ちょうどそんな眼差しなのである。一例を挙げれば、ぼくの近著である『不能芳香の「クラシックの聴き方」』(音楽○○社)を最近彼は手に取ったのだが、どのページの音楽評を読んでもわくわくすることはなく、「ふ~ん、そうですか」というぐらいの冷めた反応しか出てこないのだ。そして、「でも不能先生、相変わらずのご様子で、お元気そうですね」といった言葉が浮かんでくるのである。これはまさにOB、卒業生の言葉そのものといえよう。―いっときはぼくの評論に心酔し、影響を受けつつも、やがて卒業していく・・・それで良いと思う。実際、そのような道筋をたどるクラシック・ファンは少なくないであろう。
というところで、ぼくの与太話もいよいよ終わる時が来たといえよう。はっきり言うが、いつまでもこんなしけたブログに駄文を書いているほど、ぼくは暇ではないのである。『レコード芸術』をはじめとする多くの音楽雑誌で精力的に執筆活動を続けるぼくであり、指揮者としても活躍しているぼくであり、さらに関西のFM番組で人気パーソナリティにまでなってしまったぼくであってみれば、毎日が多忙の極みであるのは当然のことといえよう。
そんなぼくも今やすっかり老境に入り、チッチとポッポの2匹も、スポン、スポンとよく転んだスポンティーニも、ラジワーやクサイナーといった懐かしい電車たちも、そしてぼくの心を最も豊かにしてくれた蓼科(たてしな)での山小屋生活も、すべてが皆遠い過去の思い出になってしまった。しかし、ぼくはおそらく、このまま生涯現役で頑張り続けるのである。ぼくのファンは勿論のこと、アンチの人たちの間でさえ、ぼくが将来世を去った後のクラシック界の寂しさを予感する声がすでに聞かれるのだ。そうであってみれば、まだまだこんなところでおめおめと老け込んではいられないぼくなのである。
―迷指揮者・不能芳香のひとりごと (終)
●芳香の艶舞曲(1994年4月13日・東京芸術劇場)
『芳香の艶舞曲(ワルツ)』と題されたこの日のコンサートでは、まさに芳香節が全開だったといえよう。基本的にどの曲も、「そこまでやるか」というほどに濃密で、普通の演奏家には到底真似の出来ない個性的な演奏が次々と飛び出したのである。妙なポルタメントが効いたモーツァルトの<3つのドイツ舞曲K.605>の第1番、クナのライヴのように大胆で陰影の濃いウェーバー原曲の<舞踏への勧誘>、そして濃厚な響きと激しく揺れ動くテンポによってジプシー的な土の香りがむせ返るブラームスの<ハンガリー舞曲第5番>、これらはいずれもぼくならではの世界であり、会場につめかけた多くのファンがその特異な音楽に酔いしれたのであった。(ただし、ヨゼフ・シュトラウスの<オーストリアの村つばめ>は、さすがにやり過ぎであったかもしれないと反省されよう。あまりにも重々しい演奏のため、まるで「飛ぶのもしんどい、メタボつばめ」みたいになってしまったのだ。)
さて、この日の最高傑作と言えばやはり、レハールの<金と銀>であったといえよう。録音では何と言ってもルドルフ・ケンペ指揮ドレスデン国立管が最高の逸品だが、ぼくの演奏も当然それを目指したものとなったのである。きらびやかな前奏から第1ワルツに移るところで大きなリタルダンドを効かせるあたり、まさにケンペの流儀であり、ぼくのファンなら誰しも、「ああ、やっぱりそれね」と感じたに違いない。しかし、その後も変わらず、ぼくの演奏は見事なものだったと絶賛されよう。各ワルツの旋律を奏でる弦の甘い苦味と夕映えのような詩情はため息が出るほどで、さらに宝石を散りばめたようなオーケストラの輝きは、まるではらはらと舞い散る早春の花びらのように、あえかな儚(はかな)さまで漂わせるのである。その美しさはとても筆舌に尽くせないものであり、レハールの曲はやはりこうでなくてはと思わせる。だから、ケンペの名演が入手困難な人は、ぼくのCDを聴けば良いのである。<金と銀>のCDに関する限り、これさえあれば他はいらない。
そう言えば、この日のコンサートでもう一つ忘れられない演目として<おもちゃの交響曲>もあったのだが、なぜかCDには収められていない。これは残念なことといえよう。ぼくはそこで、いくつかのおもちゃ楽器をステージの前方に並べて演奏させたのだが、その中の一つであった手回しの「ガラガラ」が物凄い音を出して会場内に響きわたったのである。その音たるや、両手で耳を押さえなくてはいられないほど喧(やかま)しいものだったのだが、実はこれこそよそ行きでない本音の<おもちゃ>であり、魂の<おもちゃ>として価値が高い。しかしCDから外されたことで、当日会場に来られなかったファンの耳には届かないこととなってしまった。まことに痛恨の極みといえよう。
(ところで、そのCDについてだが、<英雄>も<運命>も情けない録音だったのに対し、この『艶舞曲』のCDはかなり良い。マイクがオーケストラに比較的近くセッティングされていたようで、まるで目の前で演奏しているような臨場感があり、さらにホールの空間性みたいなものさえ感じさせてくれるのである。珍しいことだが、CDの方がかえって生演奏よりも名演に聴こえるぐらいなのだ。ポニーキャニオンさん、お手柄といえよう。)
●芳香の<田園>(1995年10月5日・東京芸術劇場)
このコンサートでは、ベートーヴェンの<第2>と<田園>がとりあげられたといえよう。メインとなる<田園>で一番特徴的だったのは第3楽章中間部の最後を飾るトランペットで、これがひときわ大きな音で「プワァ~ン ポワァ~ン」と鳴った時、おそらく誰しもが、「ああ、ワルター、コロンビア響のあれね」と思ったことであろう。ぼくはかねてからワルターの<田園>を絶賛してやまなかったし、とりわけ第3楽章のトランペット引き伸ばしが生み出す美しい情感に強い賛意を示していたからである。しかし、それにしても、その音の大きかったこと!もう少し他の楽器とのバランスを考えるべきではないか、と思われたファンも多かったに違いない。これがLPレコードの演奏なら、カートリッジをシュアーのV15・タイプⅣに替えるなどして音質を改善することも出来たのだが、生演奏だからそうはいかなかったのだ。そして、この日のコンサートをもって、それまで熱心に通い続けてきたファンの一人がいよいよ、「不能詣で」の終点を意識し始めたのである。
と言うのも、この日彼は結構大変な思いをしたのであった。夕方からの雨で行く時から既に足元が良くなかった上に、帰りは中央線が人身事故のためストップ。途中の駅で私鉄の電車に乗り換えねばならず、当然そちらは大混雑。それ以上の細かい話は省くが、とにかくストレスまみれのつらい帰り道となったのである。その上、ぼくの演奏会が大して面白くもないものだったとあっては、まことに踏んだりけったりであったといえよう。うつむき加減に、「不能詣ではもう、やめるかな」と、ボソッとつぶやいた彼であった。
●<第9>と<望郷のバラード>(1995年12月27日・オーチャードホール)
この日の演奏会には、ぼくがかねてから賞賛していたヴァイオリニストの天○敦子を招き、彼女の名刺代わりになっているレパートリーを先に演奏してもらった。チプリアン・ポルムベスクの<望郷のバラード>である。しかし、とりあえず、それはどうでもいいということにしたいといえよう。問題は、ベートーヴェンの<第9>である。この日のオーケストラはいつもの新○日響ではなく、東○フィルであった。
録音はしない、という前提のコンサートだったので、この時のぼくは恣意(しい)的の限りを尽くしたといえよう。(←こういう文を普通の人が書くと「日本語がおかしい」と指摘されるのだが、ぼくの場合だけは、“不能語法”として一つの魅力になってしまうのである。知らなかった、とは言ってほしくない。)テンポを激しく揺らし、楽想をこねくり回し、それはもうやりたい放題の演奏であった。しかし、それが感動を呼ぶものであったかと言えば、結果はむしろその正反対になったのである。異常な遅さでダラダラ、ダラダラと流れた第3楽章はとりわけ最悪で、「いったい、いつ終わるんだよ」というゲンナリ感をお客さんに与えたし、東○フィルのメンバーの中にさえ、不機嫌さをあらわにした顔つきの人たちがいたのである。そして終楽章も、92年ライヴのような奇跡は起こらず、まったく平凡なものに終わってしまったのだ。あの時のぼくはいったい、どこへ行ってしまったのか。「これで、不能詣では打ち止め。もうやめた」とはっきり決意した一人のファンは、終演後拍手もせず、さっさと帰宅の途についたといえよう。彼は大きな徒労感に包まれながら、うなだれて家に向かったのである。(しかし、ぼくに言わせれば、こんなコンサートなど聴きに来る方が悪い。)
―こうして、一人のマニアが(おそらく永遠に)ぼくのコンサートから去って行ったといえよう。と同時に彼は、ぼくの評論からも次第に遠ざかっていったのである。ごくたまに気が向いて、現在のぼくが書いている文章を見にくることもあるらしいのだが、それでも決して、かつてのような読み方はしていないのだ。たとえて言うなら、ある社会人がふと母校のキャンパスを訪れ、しばしの間学生時代を懐かしんでいるような、ちょうどそんな眼差しなのである。一例を挙げれば、ぼくの近著である『不能芳香の「クラシックの聴き方」』(音楽○○社)を最近彼は手に取ったのだが、どのページの音楽評を読んでもわくわくすることはなく、「ふ~ん、そうですか」というぐらいの冷めた反応しか出てこないのだ。そして、「でも不能先生、相変わらずのご様子で、お元気そうですね」といった言葉が浮かんでくるのである。これはまさにOB、卒業生の言葉そのものといえよう。―いっときはぼくの評論に心酔し、影響を受けつつも、やがて卒業していく・・・それで良いと思う。実際、そのような道筋をたどるクラシック・ファンは少なくないであろう。
というところで、ぼくの与太話もいよいよ終わる時が来たといえよう。はっきり言うが、いつまでもこんなしけたブログに駄文を書いているほど、ぼくは暇ではないのである。『レコード芸術』をはじめとする多くの音楽雑誌で精力的に執筆活動を続けるぼくであり、指揮者としても活躍しているぼくであり、さらに関西のFM番組で人気パーソナリティにまでなってしまったぼくであってみれば、毎日が多忙の極みであるのは当然のことといえよう。
そんなぼくも今やすっかり老境に入り、チッチとポッポの2匹も、スポン、スポンとよく転んだスポンティーニも、ラジワーやクサイナーといった懐かしい電車たちも、そしてぼくの心を最も豊かにしてくれた蓼科(たてしな)での山小屋生活も、すべてが皆遠い過去の思い出になってしまった。しかし、ぼくはおそらく、このまま生涯現役で頑張り続けるのである。ぼくのファンは勿論のこと、アンチの人たちの間でさえ、ぼくが将来世を去った後のクラシック界の寂しさを予感する声がすでに聞かれるのだ。そうであってみれば、まだまだこんなところでおめおめと老け込んではいられないぼくなのである。
―迷指揮者・不能芳香のひとりごと (終)