ピエール・ブレーズの訃報を巡る前回の記事の中で、<春の祭典>の“お気に入り演奏”に軽く言及していた。今回は、そのあたりについての補足的な話をちょっと書いてみたいと思う。
ストラヴィンスキーの<春の祭典>といえば、古いモノラル時代から数多くの名演・名盤が生み出されてきた20世紀の大傑作だが、当ブログ主の独断と偏見によれば、この記事を書いている2016年2月現在で最も完成度が高い(そしておそらく、今後ともこれを凌ぐような物はちょっと出てきそうもない)と思われる名演は、ヤープ・ファン・ズヴェーデン指揮オランダ放送フィルによるEXTON盤の演奏である。しかし人の趣味・好みというのは面白いもので、完璧無類と思われる名品よりも、どこか癖があったり、偏りがあったりする個性的な物の方にむしろ魅力を感じることがあったりする。当ブログ主にとって、<春の祭典>の演奏もその一例である。この名作バレエについて、非常に魅力的と思われる演奏を行なった指揮者の名前を具体的に挙げるなら、今回の記事タイトルに掲げた3人がその代表格ということになる。
まずは、ズービン・メータ。この人が指揮する春祭(はるさい)は、生演奏も含めて過去に4種類ほど聴いた。年代順に並べると、まずロサンゼルス・フィル(LAPO)とのデッカ盤、ニューヨーク・フィル(NYP)とのCBSソニー盤、続いてウィーン・フィルとのライヴOrfeo盤、そしてフィレンツェ5月音楽祭管との来日公演である。
結論から先に言うと、当ブログ主に今も大いなる喜びを与えてくれるベストの名演は、最初に行なわれたLAPOとのデッカ録音(1969年)で聴ける演奏である。今回の記事を書くにあたり、「栄光のロンドン・サウンド」シリーズで昔購入したCDを久しぶりに取り出して聴いてみたのだが、やっぱり、これは良い。何というか、活力漲る音楽の推進力がとにかく最高で、聴いていてわくわくしっ放し、気持ちの高揚が止まらないのである。その背景に窺われるのは、指揮者メータの強い自信。「俺はこの曲を、がっちりと把握している。任せろ」といった感じ。そうでなければ、終始一貫これだけの快速テンポで進みながら全く緩みも乱れも生じない名演奏など、そうそう実現できるものではないからだ。そしてオケのメンバーがそんな俊英に全幅の信頼を寄せ、めいめいがベストを尽くして全力でついて行く。聴き手に伝わるのは、そういう音楽家集団だけが生み出し得る独特の“幸福感”である。これはメータ、LAPOの黄金時代を象徴する名演と言ってよい。また、いつものことながら、デッカの録音も優秀。精悍にして剛毅なメータ・サウンドが鮮明に記録されている。(特に、あのゲンコツみたいなティンパニの音は強烈。)
この名盤に敢えて一つケチをつけるとすれば、音の厚みの点でちょっと物足りないところがある、というぐらいだろう。LAPOは必ずしも大編成のオーケストラではないので、ベルリン・フィルやシカゴ響等が持っているマスとしての威力、重量級のサウンドは求められないのだ。しかし、この演奏には、そのような不満を補って余りある魅力が備わっている。むしろ逆に編成が大きくないからこそ、個々の楽器の音像が明晰に浮かび上がるわけだし、若い才能が作り出すvividな音楽の姿がしっかり描き出されているとも言えるのである。
そんなメータだが、NYPとの1977年ソニー盤になると、構えがやたら大きくなった割に中身は希薄というか、あまり面白くない演奏を行なう結果となってしまっている。聴いていて、「おっ、濃くなってきたな」と思わせるのは結局、全曲の終わり部分「いけにえの踊り」だけ。まるでそれまで燃焼不足だった凡演の帳尻を合わせるかのように、最後の数分間だけ盛り上がるという感じなのだ。当ブログ主にとってこれは、「一度聴いたら、もう要らない」の典型的な例である。
ウィーン・フィルとの1985年ザルツブルク・ライヴは昔FM番組で耳にして、当時結構気に入った演奏だった。その頃持っていた玩具みたいなラジカセで放送をモノラル受信し、カセットテープに録音してずっと持っていた。退屈させられることが多い第2部の前半部分「序奏~乙女たちの神秘的な集い」が熱い名演になっているのがこの演奏の特長で、ブオォッ!と盛り上がるウィーン・フィルの分厚い弦がとりわけ印象的だった。これがCD発売された時には喜んで購入したのだが、この種のライヴを復刻するオルフェオ・レーベルのCDは(ごく僅かな例外を除いて)どれも音質が劣悪で、そのたびに失望させられるのがいつものパターン。メータ、ウィーン・フィルの春祭もまた、その不名誉なリストに加えられる一品(ひとしな)となった。こんなピンボケな音では、話にならない。涙、涙で(苦笑)、即売却。
最後は、フィレンツェ5月音楽祭管弦楽団との来日公演。これはもう、何年前になるのか・・・。レスピーギの<ローマの松>と組み合わされた魅力的なプログラムで、「あのメータの春祭が、レスピーギと併せて、生で聴けるぞ~」と、うきうきした気分で演奏会に出かけたのだった。ステージに登場したのは青年期・LAPO時代とは別人の、がっちり太った貫禄オヤジのメータ。果せるかな、その余裕の指揮棒から特別な霊感が放射されることはなく、ごく無難な、普通の演奏が展開されることとなった。今でもはっきり心に残るのは壮年メータの指揮ぶりよりも、オーケストラ自体の響きの方である。生で聴いてつくづく実感したのだが、イタリアのオーケストラは本当に音が煌びやかだ。決して大げさな言い方でなく、音がキンキラ、キンキラ輝いている。こういう体験ができただけでも、このコンサートに行った甲斐があった。
さて2人目の指揮者は、メータとよく似た名前のマータ。飛行機事故によって不慮の死を遂げた、メキシコの怪人エドゥアルド・マータである。この人がロンドン交響楽団を指揮した1978年の<春の祭典>(RCA盤)も、当ブログ主お気に入りの名演だ。あのリッカルド・ムーティをちょっと思わせるシャープな棒捌きから生み出されるマータの音は、時にメタリックな光沢を放つ独自の鮮明さと、しなやかな硬質さに特徴がある。管楽器群には耳をつんざくような高音を要求し、打楽器群には容赦ない打ち込みによる尖鋭な立ち上がりを求める。イギリスの名門オーケストラがここで見事にそれに応え、世にも峻烈な春祭が現出することとなった。マータ盤についてオーディオ的に面白いのは、打楽器の位置。まさにど真ん中、それもオケの後方ではなく、かなり前の方にいる様子。「ひょっとして、指揮者の目の前にティンパニとかを置いているんじゃないか」と思わせるぐらいの積極的(?)なポジショニング。ステレオ装置に向かって座っていると、真正面から鋭い打楽器の音がドターン、ドターンと強烈に立ちあがってくる。<春の祭典>に関して、当ブログ主が特に重視しているのは第2部の「いけにえの賛美~祖先の呼び出し」での打楽器の迫力(※この部分でパーカッションを控えめに扱う演奏は、他の箇所がどんなに良くてもアウトw )なのだが、ここでのマータはメータを凌ぎ、雷鳴さながらの爆裂サウンドを聴かせてくれる。全曲に亘ってやや速めのテンポ設定で、各フレーズをしゃきっ、しゃきっと小気味よく切り上げながら、非常にエッジの効いた春祭を堪能させてくれる名演だ。
このエキサイティングな演奏から、(上記メータ盤の時と同様に)敢えて一つ難点を見出すとすれば、管楽器群の高音が非常に鋭いものであるため、聴く人によっては耳に痛みを感じて不快感を持ってしまう可能性がなきにしもあらず、というところであろう。
―で、残念なお話なのだが、このマニアックな名盤は現在入手困難になってしまっているようだ。当ブログ主は何年か前、タワーレコードさんの企画CDで、マータが指揮した春祭と、ロリス・チェクナボリアンが指揮した春祭を組み合わせた1枚物のCDを廉価で購入し、コレクションに加えたのだった。しかし、このCD、どうやらもう廃盤らしい。もし将来タワレコさんが再びこの音源をCD復活させてくれるなら、今度は組み合わせを変えてほしいと思う。1枚のCDの中に違う演奏家の録音を抱き合わせるような組み方は、正統派(?)のクラシック・ファンから嫌われるのである。(※グラモフォンがかつて行なった暴挙、チャイコフスキーの後期3大交響曲セットのことを覚えている方もおられるのではないだろうか。4番と5番がムラヴィンスキー、そして6番だけカラヤンって、いったいどういうつもりなんだって、企画担当者を小一時間問い詰めたくなるような酷いCDが発売されたことがあった。)マータがRCAに遺した個性的な名演は他にもあるのだから、それらの何かと組んだCDを新たに作ってほしい。
さて、最後は大御所レナード・バーンスタイン。この人も複数回、<春の祭典>を録音(&録画)している。年代の古い順に並べると、NYPとのCBSソニー盤(1958年)、ロンドン響との同じくCBSソニー盤(1972年)、そしてイスラエル・フィル(IPO)との1982年グラモフォン盤。あとDVDで発売されている映像音源として、ロンドン響との2種類のライヴ(シベリウスの5番と組んだ1966年の白黒・モノラル盤、それと作曲家への追悼コンサートを収録した1972年のカラー・モノラル盤)が現在確認できる。2つの映像盤は基本的に、「バーンスタインがこの曲をどんな風に振っていたかを、目で見て楽しめる」という価値が大きいもので、いずれもモノラル音声のためオーディオ的には扱いにくい対象となっている。なので、映像音源については今回スルーさせていただき、CD発売されている3種の音盤について書いておきたいと思う。これも結論から先に言うと、最も楽しめるのは最初のNYP盤であり、そこから新しい物になるほどつまらなくなっていく。
まず、NYP盤。昔何かの音楽雑誌で、「リ-ゼント・ヘアの若者が、ポンコツのアメ車をバリバリいわせながらドライブしているような演奏」といったような面白い表現を目にしたことがある。実際聴いてみると、「なるほど、そういう譬え方もできそうだ」と妙に納得したものだった。ここで聴かれるのは、いかにも若い頃のバーンスタインらしい、荒馬のようにエネルギッシュな演奏である。テンポ自体はゆっくり目の落ち着いたものなのだが、各楽器から引き出される音がとにかくホット。中でも打楽器の迫力は抜群で、それがこの演奏に千金の価値を与えている。この録音では(舞台で言うと)上手側に打楽器が配置されていて、そこに専用の録音マイクが置かれているといった形になっている。従ってステレオ装置では右スピーカーから出てくる音ということになるが、ここから飛び出してくる打楽器の音は重厚にして鮮烈、本当に聴いていて胸がすく思いがする。特に例の重要ポイント、第2部の「いけにえの賛美~祖先の呼び出し」の場面、ここはもう最高である。1958年というステレオ録音の最初期なのに、当時のCBSによくこれほど凄い音が取れたものだと、驚嘆の思いを禁じ得ない。デッカならまだわかるが、CBSが?という感じ。また、第1部の「春の踊り」で低弦が凄い唸りをあげるのも、バーンスタインが指揮する春祭の魅力的な特徴の一つ。ここを軽く鳴らしてしまう指揮者も割と多いのだが、当ブログ主はバーンスタイン流のブゥオ~ン!ブゥオ~ン!と唸るような低弦の響きを全力で支持する。
一方、この演奏には欠点も多い。率直なところ、オーケストラの技術としてはメータ、マータの2盤と比べても明らかに遜色があり、アンサンブルも粗い。特に終曲「いけにえの踊り」など、この曲のタクト捌きに定評のあったイーゴリ・マルケヴィッチや、先頃他界したブレーズ、あるいは“ミスター・パーフェクト春祭”のズヴェーデンあたりが聴いたら、「もうちょっとちゃんとやろうよ、プロなら」みたいな事を言って苦笑いしそうなレベルである。
続くロンドン響との1972年盤では、凄いほどのヘビー級サウンドを聴くことができる。当ブログ主も若い頃はこの重量感に満ちた響きが非常に好きで、LP時代には何度も繰り返して聴いたものだった。しかしこれ、今の感覚からするとアンサンブルがかなりアバウトというか、手綱の緩さみたいなものが感じられる。とりわけ終曲のぐちゃぐちゃぶりはもう目を覆うばかりで、とても聴いていられない。―というわけでこの演奏、CD時代になってからは、全く聴かなくなってしまった。
最後は、イスラエル・フィルとのグラモフォン盤。ある意味皮肉な現象とも言えるのだが、3種類あるバーンスタインの<春の祭典>セッション録音の中で、これが一番よく整った演奏でありながら、同時に一番面白くない演奏になっている。正直言って、この演奏に最後まで付き合うのは苦痛である。何の面白味もない、ひたすら鈍重な(あるいは、爺臭い)音楽がだらだらと続く。これは全くいただけない。
こうしてみて改めて思うのは、「<春の祭典>は巨匠と呼ばれるような大指揮者よりも、才気煥発な若い指揮者に向いた曲なのだな」ということである。春祭とよく一緒に組み合わせて録音される<ペトルーシュカ>とは、ある意味、正反対の性格を持つ作品なのだ。<ペトルーシュカ>は若い指揮者がエネルギッシュにバリバリ演奏しても、ただ賑やかな(あるいは、やかましい)だけの、無内容な駄演に終わることが多い。一方、晩年のアンセルメやモントゥー(&ボストン響)のような老熟の大家が遺した演奏にはそこはかとなく寂しげな空気が漂い、それが得も言われぬ感動を聴く者の心に呼び起こす。―となると、<春の祭典>と<ペトルーシュカ>の両方で同時に名演奏を成し遂げるのは結構難しいタスクである、ということになる。ドラティ&デトロイト響のデッカ録音を称揚できる点というのは、その2作品の両方で、それもほぼ同じ時期に、それぞれ大きな欠点のないハイレベルな名演を実現できたことにあると言えるのではないだろうか。
―というところで、打楽器の快感最優先という独自の観点から選んだ“my favorite 春祭”を語る今回の記事は、これにて終了。
ストラヴィンスキーの<春の祭典>といえば、古いモノラル時代から数多くの名演・名盤が生み出されてきた20世紀の大傑作だが、当ブログ主の独断と偏見によれば、この記事を書いている2016年2月現在で最も完成度が高い(そしておそらく、今後ともこれを凌ぐような物はちょっと出てきそうもない)と思われる名演は、ヤープ・ファン・ズヴェーデン指揮オランダ放送フィルによるEXTON盤の演奏である。しかし人の趣味・好みというのは面白いもので、完璧無類と思われる名品よりも、どこか癖があったり、偏りがあったりする個性的な物の方にむしろ魅力を感じることがあったりする。当ブログ主にとって、<春の祭典>の演奏もその一例である。この名作バレエについて、非常に魅力的と思われる演奏を行なった指揮者の名前を具体的に挙げるなら、今回の記事タイトルに掲げた3人がその代表格ということになる。
まずは、ズービン・メータ。この人が指揮する春祭(はるさい)は、生演奏も含めて過去に4種類ほど聴いた。年代順に並べると、まずロサンゼルス・フィル(LAPO)とのデッカ盤、ニューヨーク・フィル(NYP)とのCBSソニー盤、続いてウィーン・フィルとのライヴOrfeo盤、そしてフィレンツェ5月音楽祭管との来日公演である。
結論から先に言うと、当ブログ主に今も大いなる喜びを与えてくれるベストの名演は、最初に行なわれたLAPOとのデッカ録音(1969年)で聴ける演奏である。今回の記事を書くにあたり、「栄光のロンドン・サウンド」シリーズで昔購入したCDを久しぶりに取り出して聴いてみたのだが、やっぱり、これは良い。何というか、活力漲る音楽の推進力がとにかく最高で、聴いていてわくわくしっ放し、気持ちの高揚が止まらないのである。その背景に窺われるのは、指揮者メータの強い自信。「俺はこの曲を、がっちりと把握している。任せろ」といった感じ。そうでなければ、終始一貫これだけの快速テンポで進みながら全く緩みも乱れも生じない名演奏など、そうそう実現できるものではないからだ。そしてオケのメンバーがそんな俊英に全幅の信頼を寄せ、めいめいがベストを尽くして全力でついて行く。聴き手に伝わるのは、そういう音楽家集団だけが生み出し得る独特の“幸福感”である。これはメータ、LAPOの黄金時代を象徴する名演と言ってよい。また、いつものことながら、デッカの録音も優秀。精悍にして剛毅なメータ・サウンドが鮮明に記録されている。(特に、あのゲンコツみたいなティンパニの音は強烈。)
この名盤に敢えて一つケチをつけるとすれば、音の厚みの点でちょっと物足りないところがある、というぐらいだろう。LAPOは必ずしも大編成のオーケストラではないので、ベルリン・フィルやシカゴ響等が持っているマスとしての威力、重量級のサウンドは求められないのだ。しかし、この演奏には、そのような不満を補って余りある魅力が備わっている。むしろ逆に編成が大きくないからこそ、個々の楽器の音像が明晰に浮かび上がるわけだし、若い才能が作り出すvividな音楽の姿がしっかり描き出されているとも言えるのである。
そんなメータだが、NYPとの1977年ソニー盤になると、構えがやたら大きくなった割に中身は希薄というか、あまり面白くない演奏を行なう結果となってしまっている。聴いていて、「おっ、濃くなってきたな」と思わせるのは結局、全曲の終わり部分「いけにえの踊り」だけ。まるでそれまで燃焼不足だった凡演の帳尻を合わせるかのように、最後の数分間だけ盛り上がるという感じなのだ。当ブログ主にとってこれは、「一度聴いたら、もう要らない」の典型的な例である。
ウィーン・フィルとの1985年ザルツブルク・ライヴは昔FM番組で耳にして、当時結構気に入った演奏だった。その頃持っていた玩具みたいなラジカセで放送をモノラル受信し、カセットテープに録音してずっと持っていた。退屈させられることが多い第2部の前半部分「序奏~乙女たちの神秘的な集い」が熱い名演になっているのがこの演奏の特長で、ブオォッ!と盛り上がるウィーン・フィルの分厚い弦がとりわけ印象的だった。これがCD発売された時には喜んで購入したのだが、この種のライヴを復刻するオルフェオ・レーベルのCDは(ごく僅かな例外を除いて)どれも音質が劣悪で、そのたびに失望させられるのがいつものパターン。メータ、ウィーン・フィルの春祭もまた、その不名誉なリストに加えられる一品(ひとしな)となった。こんなピンボケな音では、話にならない。涙、涙で(苦笑)、即売却。
最後は、フィレンツェ5月音楽祭管弦楽団との来日公演。これはもう、何年前になるのか・・・。レスピーギの<ローマの松>と組み合わされた魅力的なプログラムで、「あのメータの春祭が、レスピーギと併せて、生で聴けるぞ~」と、うきうきした気分で演奏会に出かけたのだった。ステージに登場したのは青年期・LAPO時代とは別人の、がっちり太った貫禄オヤジのメータ。果せるかな、その余裕の指揮棒から特別な霊感が放射されることはなく、ごく無難な、普通の演奏が展開されることとなった。今でもはっきり心に残るのは壮年メータの指揮ぶりよりも、オーケストラ自体の響きの方である。生で聴いてつくづく実感したのだが、イタリアのオーケストラは本当に音が煌びやかだ。決して大げさな言い方でなく、音がキンキラ、キンキラ輝いている。こういう体験ができただけでも、このコンサートに行った甲斐があった。
さて2人目の指揮者は、メータとよく似た名前のマータ。飛行機事故によって不慮の死を遂げた、メキシコの怪人エドゥアルド・マータである。この人がロンドン交響楽団を指揮した1978年の<春の祭典>(RCA盤)も、当ブログ主お気に入りの名演だ。あのリッカルド・ムーティをちょっと思わせるシャープな棒捌きから生み出されるマータの音は、時にメタリックな光沢を放つ独自の鮮明さと、しなやかな硬質さに特徴がある。管楽器群には耳をつんざくような高音を要求し、打楽器群には容赦ない打ち込みによる尖鋭な立ち上がりを求める。イギリスの名門オーケストラがここで見事にそれに応え、世にも峻烈な春祭が現出することとなった。マータ盤についてオーディオ的に面白いのは、打楽器の位置。まさにど真ん中、それもオケの後方ではなく、かなり前の方にいる様子。「ひょっとして、指揮者の目の前にティンパニとかを置いているんじゃないか」と思わせるぐらいの積極的(?)なポジショニング。ステレオ装置に向かって座っていると、真正面から鋭い打楽器の音がドターン、ドターンと強烈に立ちあがってくる。<春の祭典>に関して、当ブログ主が特に重視しているのは第2部の「いけにえの賛美~祖先の呼び出し」での打楽器の迫力(※この部分でパーカッションを控えめに扱う演奏は、他の箇所がどんなに良くてもアウトw )なのだが、ここでのマータはメータを凌ぎ、雷鳴さながらの爆裂サウンドを聴かせてくれる。全曲に亘ってやや速めのテンポ設定で、各フレーズをしゃきっ、しゃきっと小気味よく切り上げながら、非常にエッジの効いた春祭を堪能させてくれる名演だ。
このエキサイティングな演奏から、(上記メータ盤の時と同様に)敢えて一つ難点を見出すとすれば、管楽器群の高音が非常に鋭いものであるため、聴く人によっては耳に痛みを感じて不快感を持ってしまう可能性がなきにしもあらず、というところであろう。
―で、残念なお話なのだが、このマニアックな名盤は現在入手困難になってしまっているようだ。当ブログ主は何年か前、タワーレコードさんの企画CDで、マータが指揮した春祭と、ロリス・チェクナボリアンが指揮した春祭を組み合わせた1枚物のCDを廉価で購入し、コレクションに加えたのだった。しかし、このCD、どうやらもう廃盤らしい。もし将来タワレコさんが再びこの音源をCD復活させてくれるなら、今度は組み合わせを変えてほしいと思う。1枚のCDの中に違う演奏家の録音を抱き合わせるような組み方は、正統派(?)のクラシック・ファンから嫌われるのである。(※グラモフォンがかつて行なった暴挙、チャイコフスキーの後期3大交響曲セットのことを覚えている方もおられるのではないだろうか。4番と5番がムラヴィンスキー、そして6番だけカラヤンって、いったいどういうつもりなんだって、企画担当者を小一時間問い詰めたくなるような酷いCDが発売されたことがあった。)マータがRCAに遺した個性的な名演は他にもあるのだから、それらの何かと組んだCDを新たに作ってほしい。
さて、最後は大御所レナード・バーンスタイン。この人も複数回、<春の祭典>を録音(&録画)している。年代の古い順に並べると、NYPとのCBSソニー盤(1958年)、ロンドン響との同じくCBSソニー盤(1972年)、そしてイスラエル・フィル(IPO)との1982年グラモフォン盤。あとDVDで発売されている映像音源として、ロンドン響との2種類のライヴ(シベリウスの5番と組んだ1966年の白黒・モノラル盤、それと作曲家への追悼コンサートを収録した1972年のカラー・モノラル盤)が現在確認できる。2つの映像盤は基本的に、「バーンスタインがこの曲をどんな風に振っていたかを、目で見て楽しめる」という価値が大きいもので、いずれもモノラル音声のためオーディオ的には扱いにくい対象となっている。なので、映像音源については今回スルーさせていただき、CD発売されている3種の音盤について書いておきたいと思う。これも結論から先に言うと、最も楽しめるのは最初のNYP盤であり、そこから新しい物になるほどつまらなくなっていく。
まず、NYP盤。昔何かの音楽雑誌で、「リ-ゼント・ヘアの若者が、ポンコツのアメ車をバリバリいわせながらドライブしているような演奏」といったような面白い表現を目にしたことがある。実際聴いてみると、「なるほど、そういう譬え方もできそうだ」と妙に納得したものだった。ここで聴かれるのは、いかにも若い頃のバーンスタインらしい、荒馬のようにエネルギッシュな演奏である。テンポ自体はゆっくり目の落ち着いたものなのだが、各楽器から引き出される音がとにかくホット。中でも打楽器の迫力は抜群で、それがこの演奏に千金の価値を与えている。この録音では(舞台で言うと)上手側に打楽器が配置されていて、そこに専用の録音マイクが置かれているといった形になっている。従ってステレオ装置では右スピーカーから出てくる音ということになるが、ここから飛び出してくる打楽器の音は重厚にして鮮烈、本当に聴いていて胸がすく思いがする。特に例の重要ポイント、第2部の「いけにえの賛美~祖先の呼び出し」の場面、ここはもう最高である。1958年というステレオ録音の最初期なのに、当時のCBSによくこれほど凄い音が取れたものだと、驚嘆の思いを禁じ得ない。デッカならまだわかるが、CBSが?という感じ。また、第1部の「春の踊り」で低弦が凄い唸りをあげるのも、バーンスタインが指揮する春祭の魅力的な特徴の一つ。ここを軽く鳴らしてしまう指揮者も割と多いのだが、当ブログ主はバーンスタイン流のブゥオ~ン!ブゥオ~ン!と唸るような低弦の響きを全力で支持する。
一方、この演奏には欠点も多い。率直なところ、オーケストラの技術としてはメータ、マータの2盤と比べても明らかに遜色があり、アンサンブルも粗い。特に終曲「いけにえの踊り」など、この曲のタクト捌きに定評のあったイーゴリ・マルケヴィッチや、先頃他界したブレーズ、あるいは“ミスター・パーフェクト春祭”のズヴェーデンあたりが聴いたら、「もうちょっとちゃんとやろうよ、プロなら」みたいな事を言って苦笑いしそうなレベルである。
続くロンドン響との1972年盤では、凄いほどのヘビー級サウンドを聴くことができる。当ブログ主も若い頃はこの重量感に満ちた響きが非常に好きで、LP時代には何度も繰り返して聴いたものだった。しかしこれ、今の感覚からするとアンサンブルがかなりアバウトというか、手綱の緩さみたいなものが感じられる。とりわけ終曲のぐちゃぐちゃぶりはもう目を覆うばかりで、とても聴いていられない。―というわけでこの演奏、CD時代になってからは、全く聴かなくなってしまった。
最後は、イスラエル・フィルとのグラモフォン盤。ある意味皮肉な現象とも言えるのだが、3種類あるバーンスタインの<春の祭典>セッション録音の中で、これが一番よく整った演奏でありながら、同時に一番面白くない演奏になっている。正直言って、この演奏に最後まで付き合うのは苦痛である。何の面白味もない、ひたすら鈍重な(あるいは、爺臭い)音楽がだらだらと続く。これは全くいただけない。
こうしてみて改めて思うのは、「<春の祭典>は巨匠と呼ばれるような大指揮者よりも、才気煥発な若い指揮者に向いた曲なのだな」ということである。春祭とよく一緒に組み合わせて録音される<ペトルーシュカ>とは、ある意味、正反対の性格を持つ作品なのだ。<ペトルーシュカ>は若い指揮者がエネルギッシュにバリバリ演奏しても、ただ賑やかな(あるいは、やかましい)だけの、無内容な駄演に終わることが多い。一方、晩年のアンセルメやモントゥー(&ボストン響)のような老熟の大家が遺した演奏にはそこはかとなく寂しげな空気が漂い、それが得も言われぬ感動を聴く者の心に呼び起こす。―となると、<春の祭典>と<ペトルーシュカ>の両方で同時に名演奏を成し遂げるのは結構難しいタスクである、ということになる。ドラティ&デトロイト響のデッカ録音を称揚できる点というのは、その2作品の両方で、それもほぼ同じ時期に、それぞれ大きな欠点のないハイレベルな名演を実現できたことにあると言えるのではないだろうか。
―というところで、打楽器の快感最優先という独自の観点から選んだ“my favorite 春祭”を語る今回の記事は、これにて終了。