前回語ったアラン・ホヴァネス(Alan Hovhaness)の最後のs をアルファベットしりとりして、今回は伊福部昭先生の<シンフォニア・タプカーラ(Sinfonia Tapkaara)>について、個人的な思い出も含めて少し語ってみたい。
近所の幼なじみと親子連れ立って映画館に行き、初めて劇場の大画面で観た映画が『大魔神』で、その後も学校が長い休みに入るたびに必ず怪獣映画を見に行った“昭和の怪獣少年”だった私にとって、伊福部先生の音楽はもう別格というか、特別な体験として体にしみついてしまっている部分がある。で、その御大のクラシック分野での代表作の一つが、「立って踊る」の交響曲、<シンフォニア・タプカーラ>ということになるのだろう。私がこの作品に触れたのはしかし、クラシックを本腰入れて聴き始めた大学時代になってからようやくであった。現在入手困難な音源も含めて、この曲にはもう相当数の録音が存在するようで、私など、とてもそのすべてを耳に出来たわけではないのだが、思い出せるものや、ネット上の検索で確認できたものだけ、順に列挙してみたいと思う。
1.山岡重信の指揮によるLP(?)録音
学生時代にこれをFMで聴いたのが、私にとってのこの曲との出会いであった。いつ頃の録音かは、残念ながら不明。今再びこれを聴いたら、おそらくオケの響きの薄さとか、技術的な稚拙さとかが気になる事だろう。(※どこのオケかも、忘れてしまった。読売だったかな?)しかしこれ、CDにはなっていないのではないだろうか。
2.手塚幸紀&東響のキング盤(1984年2月21日・簡易保険ホール)
今もこのCDは処分せず、手元に置いてある。と言うのは、<タプカーラ>よりも、同じ日のライヴで収録された<交響譚詩>の方で抜群の快演が聴けるからである。このCDでの<タプカーラ>の演奏は、終楽章でオケが疲れてしまって息切れ演奏になっているのが、素人耳にもわかる。<交響譚詩>の名演奏に、大きな価値を感じる一枚。また、外山雄三の<ラプソディ>や小山清茂の<木挽き歌>なども収められているので、その点でもこれは結構充実した一枚である。
3.芥川也寸志&新響のフォンテック盤(1987年・サントリーホール)
かなりオフ・マイクの録音。何だかすり鉢の奥の方で鳴っているような音で、何ともじれったい。改訂版による大編成のもの。オケは芥川氏が生前手塩にかけていたアマチュア・オーケストラである。事実、ちょっとしたところにアマチュアっぽい響きが出ている。しかし、これが一番良い演奏だという方もおられる。演奏面の評価はともかくとして、この録音のとり方はなあ・・。
4.井上道義&新日本フィル、他によるライヴ盤(1991年9月17日・サントリーホール)
東京サントリーホールで企画された≪作曲家の個展≫シリーズの一環として、伊福部先生の作品が取り上げられた時のライヴ。このコンサートを、私は生で体験している。演奏については、かなり速めのテンポ設定がなされていた。井上氏は速めのテンポでがんがん進めていく事で、作品が持つ迫力を表現しようと意図したのかも知れない。全体に亘ってそうなのだが、特に第3楽章コーダの追い込みなど、かなり突っ走る。当時の私はその速さに共感できず、すわりの悪い演奏に感じてしまったのだが、年月を経てCDで聴き直すと、これはこれで説得力があると感じる。第2楽章も速めながら、抒情味はしっかりと出ている。推進力のあるイケイケ演奏で楽しみたい方には、これが一番であろう。
ところで、この日の演奏会では、<日本組曲>の管弦楽版初演に立ち会えたことと、休憩時間中にホールのロビーに姿をお見せになった伊福部御大を、「あと30センチで、さわれるぞ」ってところまで近づいて見られたのが、私には良い思い出である。そこまで近づけたなら声をかけてサインでももらっときゃよかったのに、と思われるかも知れないが、御大を囲むようにしてお弟子さんたち、黛敏郎氏やら、石井眞木氏やらが身内の和やかムードで歓談なさっていて、とてもではないが、「サイン下さい」などと割って入れるような空気ではなかったのである。そのうち、あんまり私が伊福部先生に近づいて立っていたので、黛氏が「何だ、こいつは?」みたいな目をしてこっちを見たのである。(怖い!)で、すごすご退散したのであった。しかし、その黛氏も石井氏も今は幽明境を異にしておられる。早くにお亡くなりになった芥川氏といい、御大はご自身の長寿とは裏腹にお弟子さんたちに次々と先立たれて、定めし寂しい思いをされておられるのではないかと拝察する。
5.石井眞木指揮の新星日響盤(1991年12月13日・府中の森劇場)
伊福部御大の、確か喜寿記念コンサートのライヴ。映画『ゴジラ対キングギドラ』が公開された時のものである。東京は府中市で行われた演奏会で、私はそのホールの客席から大喝采を送った聴衆の一人であった。つまり、これも生で聴いたのである。この時の演奏は、非常に良かった。第1楽章あたりは、石井氏の指揮棒が横に流れる動きのためか、「もう一つ、リズムに縦の切れ味が欲しいなあ」などと、にわか評論家気分で聴き始めたコンサートだったが、ゆーったりと歌う第2楽章から、土俗のエネルギーが爆発する第3楽章へと進んで行くうちに、ぐんぐん引き込まれて、演奏が終わった直後にはもう我を忘れて夢中で拍手していた。「有頂天」とは、まさにこういう気分を指して言うのであろう。CD、LDがその後同時に発売された。最初は映像つきで保存しておきたくてLDを買い、何年か後になってCDも聴いたのだが、残念な事にそれらに記録された音質は、生を体験した人間にとってはどうにもならないシロモノであった。「何だ、これは」である。と言っても、ライヴCDから与えられるこの種の失望は、生を聴いたものにとっては日常茶飯の出来事。仕方のない事と、諦めねばならないのだろう。このライヴも例外とはなり得ず、当夜の熱狂は残念ながら、そこに居合わせた者達だけの思い出の宝石になってしまったようである。伊福部御大自身の指揮による<ジャコモコ・ジャンコ>、他も併録されている。
6.広上淳一&日本フィル盤(1995年)
これをベストであると感じておられるファンも、少なくないようだ。しかしこれは(失礼ながら)、私にとっては我慢ならない演奏であった。買って、一回聴いて、腹が立って、即座に売り払ってしまった。広上氏はこの曲のリズム構造を明晰に分解してみせるという、その解剖行為自体に快感を持っているのか、(第3楽章でとりわけ顕著なのだが)複雑なリズムで錯綜する管弦楽が、とにかく透かし彫りのようにきれーいに、きれーに分解されて白日のもとに開陳されている。熱狂というすぐれて情緒的な要素も、並んだ音の響きの物理的な結果の一つに過ぎないとでも言っているかのように、しらじらしく現象としての音だけが鳴り続ける。私はこういう“妙に知的な演奏”で、伊福部先生の音楽を聴きたくないのである。
7.&8.石井眞木の指揮&新響による、その後の二種類のライヴ録音。「1994年10月・傘寿記念コンサート」&「2002年5月19日・紀尾井ホールでの米寿記念コンサート」。
これら二つの新しいライヴ盤については、私は全く未聴である。このブログでも以前ちょっと書いたことなのだが、ヒーローであったバーンスタインが世を去って、私はアクチュアルに追い求められるアーティストを失い、しばしの冷却期間を経てのち、それまで作っていたLP、CD、LD、ビデオ、カセット・テープなどの膨大なコレクションを順次、それも大胆にバッサリと処分した。そして、クラシックから少し引いていた時期があったのだった。多少は新しいCDも買ったりはしていたのだが、コンサート情報を仕入れて足を運ぶというようなことは一切していなかった。これらのライヴは、その期間中のイヴェントだったので、残念ながら全くわからない。本当に最近になって、「ああ、こういうの、やってたんだなあ」と知ったばかりなのである。石井氏の指揮なので演奏は悪くないんじゃないかな、と推測されるのだが、さて実際のところはどうだろう。そして、CDとしての音質はどうだろうか?
8.原田幸一郎&新響(1994年・芸術劇場での収録盤)
これはネット上で、伊福部先生の関連サイトをサーフィンしていたら偶然に見つかったものだが、「へえ、こういうのもあったの」である。これについても、私は何もわからない。
9.D・ヤブロンスキー&ロシア・フィル(ナクソス盤)
とうとう出てしまったなあ、外国人指揮者による困りまくったトホホ演奏が。出だしからやけに速いテンポでそっけなく始まるので、ちょっといやな予感がしたのだが、これはもうどうにもならない演奏である。聴き終える前に止めようかと思ったのを何とかこらえて聴き通して、がっくりとうなだれてしまった。全編通して、テンポもフレージングもバランスも、とにかく全部が変。第2楽章にしても、何の思いも感動もなく、ただスタスタと進めていくだけ。先の井上が、速めのテンポを取りながらもしっかりとこの楽章の抒情味を歌い出していたのに比べ、こちらは情趣のかけらもなく、ただ音符をなぞって片付けていくだけの作業をしている。腹立たしくさえ感じる。ロシアのオケらしい土俗的な響きが第3楽章の冒頭で聴かれて、「おおっ」と顔に明るい光が差し込むのも束の間、すぐに指揮者の棒に起因するトンチンカンな音楽になってしまう。やれやれ、である。ナクソスは何故、日本人指揮者を起用しなかったのだろうか。「楽譜だけを見て外国人が演奏すれば、こういうことになってしまう」というしょうもない失敗例が示されたという感じだ。それやこれやで、私にとってこのCDの価値は、ピアノと管弦楽のための<リトミカ・オスティナータ>をここで初めて聴けたという、その一点のみ。
素晴らしいライヴの思い出を残してくれた石井眞木氏は、もうこの世を去ってしまわれた。今後は誰が、この曲の感動や熱狂を伝えてくれるのだろうか。少なくとも私にとっては、それが外国人指揮者であるということは、まず考えられないのだが。
(PS)
ところで伊福部先生のクラシック作品には、映画のために書かれた音楽と重複するモチーフがしばしば発見される。先生ご自身の言葉によると、「映画のために書いた音楽の題材をもっと展開させたいと思った時は、クラシック作品として本格的に書き直すのです」ということなのだが、<シンフォニア・タプカーラ>もまた、映画と密接につながっているものの一例である。私はまだ観たことがないのだが、『大坂城物語』(1961年)という映画がある。この映画の中で、外国船に捕らえられた阿伊という女性を茂兵衛と才蔵が助け出すシーンというのがあるらしいのだが、その場面での音楽が、この<タプカーラ>第1楽章の締めくくりの何分かと、瓜二つにそっくりなのである。この部分は、≪伊福部昭・特撮映画マーチ集≫という一枚のCDに収められていて、それを聴いて私も初めてその事実を知ったのだった。ただし<シンフォニア・タプカーラ>の初稿は1954年なので、この場合は映画よりも先にクラシック作品の方が出来ていたという順番になるようだ。また、ひょっとしたら将来、何かのきっかけで他の転用箇所が見つかるかも知れない。
近所の幼なじみと親子連れ立って映画館に行き、初めて劇場の大画面で観た映画が『大魔神』で、その後も学校が長い休みに入るたびに必ず怪獣映画を見に行った“昭和の怪獣少年”だった私にとって、伊福部先生の音楽はもう別格というか、特別な体験として体にしみついてしまっている部分がある。で、その御大のクラシック分野での代表作の一つが、「立って踊る」の交響曲、<シンフォニア・タプカーラ>ということになるのだろう。私がこの作品に触れたのはしかし、クラシックを本腰入れて聴き始めた大学時代になってからようやくであった。現在入手困難な音源も含めて、この曲にはもう相当数の録音が存在するようで、私など、とてもそのすべてを耳に出来たわけではないのだが、思い出せるものや、ネット上の検索で確認できたものだけ、順に列挙してみたいと思う。
1.山岡重信の指揮によるLP(?)録音
学生時代にこれをFMで聴いたのが、私にとってのこの曲との出会いであった。いつ頃の録音かは、残念ながら不明。今再びこれを聴いたら、おそらくオケの響きの薄さとか、技術的な稚拙さとかが気になる事だろう。(※どこのオケかも、忘れてしまった。読売だったかな?)しかしこれ、CDにはなっていないのではないだろうか。
2.手塚幸紀&東響のキング盤(1984年2月21日・簡易保険ホール)
今もこのCDは処分せず、手元に置いてある。と言うのは、<タプカーラ>よりも、同じ日のライヴで収録された<交響譚詩>の方で抜群の快演が聴けるからである。このCDでの<タプカーラ>の演奏は、終楽章でオケが疲れてしまって息切れ演奏になっているのが、素人耳にもわかる。<交響譚詩>の名演奏に、大きな価値を感じる一枚。また、外山雄三の<ラプソディ>や小山清茂の<木挽き歌>なども収められているので、その点でもこれは結構充実した一枚である。
3.芥川也寸志&新響のフォンテック盤(1987年・サントリーホール)
かなりオフ・マイクの録音。何だかすり鉢の奥の方で鳴っているような音で、何ともじれったい。改訂版による大編成のもの。オケは芥川氏が生前手塩にかけていたアマチュア・オーケストラである。事実、ちょっとしたところにアマチュアっぽい響きが出ている。しかし、これが一番良い演奏だという方もおられる。演奏面の評価はともかくとして、この録音のとり方はなあ・・。
4.井上道義&新日本フィル、他によるライヴ盤(1991年9月17日・サントリーホール)
東京サントリーホールで企画された≪作曲家の個展≫シリーズの一環として、伊福部先生の作品が取り上げられた時のライヴ。このコンサートを、私は生で体験している。演奏については、かなり速めのテンポ設定がなされていた。井上氏は速めのテンポでがんがん進めていく事で、作品が持つ迫力を表現しようと意図したのかも知れない。全体に亘ってそうなのだが、特に第3楽章コーダの追い込みなど、かなり突っ走る。当時の私はその速さに共感できず、すわりの悪い演奏に感じてしまったのだが、年月を経てCDで聴き直すと、これはこれで説得力があると感じる。第2楽章も速めながら、抒情味はしっかりと出ている。推進力のあるイケイケ演奏で楽しみたい方には、これが一番であろう。
ところで、この日の演奏会では、<日本組曲>の管弦楽版初演に立ち会えたことと、休憩時間中にホールのロビーに姿をお見せになった伊福部御大を、「あと30センチで、さわれるぞ」ってところまで近づいて見られたのが、私には良い思い出である。そこまで近づけたなら声をかけてサインでももらっときゃよかったのに、と思われるかも知れないが、御大を囲むようにしてお弟子さんたち、黛敏郎氏やら、石井眞木氏やらが身内の和やかムードで歓談なさっていて、とてもではないが、「サイン下さい」などと割って入れるような空気ではなかったのである。そのうち、あんまり私が伊福部先生に近づいて立っていたので、黛氏が「何だ、こいつは?」みたいな目をしてこっちを見たのである。(怖い!)で、すごすご退散したのであった。しかし、その黛氏も石井氏も今は幽明境を異にしておられる。早くにお亡くなりになった芥川氏といい、御大はご自身の長寿とは裏腹にお弟子さんたちに次々と先立たれて、定めし寂しい思いをされておられるのではないかと拝察する。
5.石井眞木指揮の新星日響盤(1991年12月13日・府中の森劇場)
伊福部御大の、確か喜寿記念コンサートのライヴ。映画『ゴジラ対キングギドラ』が公開された時のものである。東京は府中市で行われた演奏会で、私はそのホールの客席から大喝采を送った聴衆の一人であった。つまり、これも生で聴いたのである。この時の演奏は、非常に良かった。第1楽章あたりは、石井氏の指揮棒が横に流れる動きのためか、「もう一つ、リズムに縦の切れ味が欲しいなあ」などと、にわか評論家気分で聴き始めたコンサートだったが、ゆーったりと歌う第2楽章から、土俗のエネルギーが爆発する第3楽章へと進んで行くうちに、ぐんぐん引き込まれて、演奏が終わった直後にはもう我を忘れて夢中で拍手していた。「有頂天」とは、まさにこういう気分を指して言うのであろう。CD、LDがその後同時に発売された。最初は映像つきで保存しておきたくてLDを買い、何年か後になってCDも聴いたのだが、残念な事にそれらに記録された音質は、生を体験した人間にとってはどうにもならないシロモノであった。「何だ、これは」である。と言っても、ライヴCDから与えられるこの種の失望は、生を聴いたものにとっては日常茶飯の出来事。仕方のない事と、諦めねばならないのだろう。このライヴも例外とはなり得ず、当夜の熱狂は残念ながら、そこに居合わせた者達だけの思い出の宝石になってしまったようである。伊福部御大自身の指揮による<ジャコモコ・ジャンコ>、他も併録されている。
6.広上淳一&日本フィル盤(1995年)
これをベストであると感じておられるファンも、少なくないようだ。しかしこれは(失礼ながら)、私にとっては我慢ならない演奏であった。買って、一回聴いて、腹が立って、即座に売り払ってしまった。広上氏はこの曲のリズム構造を明晰に分解してみせるという、その解剖行為自体に快感を持っているのか、(第3楽章でとりわけ顕著なのだが)複雑なリズムで錯綜する管弦楽が、とにかく透かし彫りのようにきれーいに、きれーに分解されて白日のもとに開陳されている。熱狂というすぐれて情緒的な要素も、並んだ音の響きの物理的な結果の一つに過ぎないとでも言っているかのように、しらじらしく現象としての音だけが鳴り続ける。私はこういう“妙に知的な演奏”で、伊福部先生の音楽を聴きたくないのである。
7.&8.石井眞木の指揮&新響による、その後の二種類のライヴ録音。「1994年10月・傘寿記念コンサート」&「2002年5月19日・紀尾井ホールでの米寿記念コンサート」。
これら二つの新しいライヴ盤については、私は全く未聴である。このブログでも以前ちょっと書いたことなのだが、ヒーローであったバーンスタインが世を去って、私はアクチュアルに追い求められるアーティストを失い、しばしの冷却期間を経てのち、それまで作っていたLP、CD、LD、ビデオ、カセット・テープなどの膨大なコレクションを順次、それも大胆にバッサリと処分した。そして、クラシックから少し引いていた時期があったのだった。多少は新しいCDも買ったりはしていたのだが、コンサート情報を仕入れて足を運ぶというようなことは一切していなかった。これらのライヴは、その期間中のイヴェントだったので、残念ながら全くわからない。本当に最近になって、「ああ、こういうの、やってたんだなあ」と知ったばかりなのである。石井氏の指揮なので演奏は悪くないんじゃないかな、と推測されるのだが、さて実際のところはどうだろう。そして、CDとしての音質はどうだろうか?
8.原田幸一郎&新響(1994年・芸術劇場での収録盤)
これはネット上で、伊福部先生の関連サイトをサーフィンしていたら偶然に見つかったものだが、「へえ、こういうのもあったの」である。これについても、私は何もわからない。
9.D・ヤブロンスキー&ロシア・フィル(ナクソス盤)
とうとう出てしまったなあ、外国人指揮者による困りまくったトホホ演奏が。出だしからやけに速いテンポでそっけなく始まるので、ちょっといやな予感がしたのだが、これはもうどうにもならない演奏である。聴き終える前に止めようかと思ったのを何とかこらえて聴き通して、がっくりとうなだれてしまった。全編通して、テンポもフレージングもバランスも、とにかく全部が変。第2楽章にしても、何の思いも感動もなく、ただスタスタと進めていくだけ。先の井上が、速めのテンポを取りながらもしっかりとこの楽章の抒情味を歌い出していたのに比べ、こちらは情趣のかけらもなく、ただ音符をなぞって片付けていくだけの作業をしている。腹立たしくさえ感じる。ロシアのオケらしい土俗的な響きが第3楽章の冒頭で聴かれて、「おおっ」と顔に明るい光が差し込むのも束の間、すぐに指揮者の棒に起因するトンチンカンな音楽になってしまう。やれやれ、である。ナクソスは何故、日本人指揮者を起用しなかったのだろうか。「楽譜だけを見て外国人が演奏すれば、こういうことになってしまう」というしょうもない失敗例が示されたという感じだ。それやこれやで、私にとってこのCDの価値は、ピアノと管弦楽のための<リトミカ・オスティナータ>をここで初めて聴けたという、その一点のみ。
素晴らしいライヴの思い出を残してくれた石井眞木氏は、もうこの世を去ってしまわれた。今後は誰が、この曲の感動や熱狂を伝えてくれるのだろうか。少なくとも私にとっては、それが外国人指揮者であるということは、まず考えられないのだが。
(PS)
ところで伊福部先生のクラシック作品には、映画のために書かれた音楽と重複するモチーフがしばしば発見される。先生ご自身の言葉によると、「映画のために書いた音楽の題材をもっと展開させたいと思った時は、クラシック作品として本格的に書き直すのです」ということなのだが、<シンフォニア・タプカーラ>もまた、映画と密接につながっているものの一例である。私はまだ観たことがないのだが、『大坂城物語』(1961年)という映画がある。この映画の中で、外国船に捕らえられた阿伊という女性を茂兵衛と才蔵が助け出すシーンというのがあるらしいのだが、その場面での音楽が、この<タプカーラ>第1楽章の締めくくりの何分かと、瓜二つにそっくりなのである。この部分は、≪伊福部昭・特撮映画マーチ集≫という一枚のCDに収められていて、それを聴いて私も初めてその事実を知ったのだった。ただし<シンフォニア・タプカーラ>の初稿は1954年なので、この場合は映画よりも先にクラシック作品の方が出来ていたという順番になるようだ。また、ひょっとしたら将来、何かのきっかけで他の転用箇所が見つかるかも知れない。
ところで2の演奏はいまでは貴重な原典版での演奏なのですか?
改訂版ですか・・
いろいろ調べたところステレオで一番古い録音(山岡さんの指揮)でも録音時期が改訂版が発表されたあとなのでおそらく改訂版なのでしょう
結論としては原典版の録音はモノラルも含めて発売はされていないですね
もし日本初演の録音があるならリトミカみたいに発売してほしいものです
あと伊福部さんが改訂をきめたのは日本初演以後ほとんど再演されていなかったのも理由の一つかもしれません
ブルックナーみたいに原典版も見直されればチャンスもあるかと思いました