クラシック音楽オデュッセイア

2009年の大病以来、月1回程度の更新ペース。クラシックに限らず、身の回りの事なども、気の向くままに書いております。

歌劇<沈鐘>(2)

2005年12月31日 | 作品を語る
前回からの続き。レスピーギの歌劇<沈鐘>第1幕の後半から、第3幕前半までの部分。以下、左側の数字は前回同様、CDのトラック番号である。ただし第3幕からCDは二枚目に入るので、トラック番号はそこで改めて1から始まることになる。

5.村から来た三人(=牧師、床屋、校長)と、魔法使いの老婆のやり取り。三人の中に牧師が入っているので特にそうなのだが、お互いに不信感をむき出しにした対話をする。やがてハインリッヒを見つけた三人は、担架を作って彼を乗せ、山を下りて行く。

(※バスの声で歌われる牧師は、ドラマの重要人物。原作では割と物腰柔らかい感じの人なのだが、このオペラでは、かなり押しの強い頑強なイメージになっている。<アイーダ>のランフィスみたい。)

6.月明かりの下で、三人のエルフ(=妖精)たちが歌い踊っている。ラウテンデラインが出てきて、その輪に加わる。

7.ニッケルマンとラウテンデラインの対話。ニッケルマンは、ラウテンデラインの目から流れているものに気づき、「それは、涙ってもんだ」と話す。「あたし、遠くへ行ってみたいの」と、ラウテンデラインは人間たちの住む世界へ行くことを告げ、森の中へと去っていく。愕然とするニッケルマンの「ブレケケ ケックス!」という鳴き声で、第1幕が終わる。

(※ここは、しみじみと抒情的な場面である。プッチーニ歌劇の伝統を引き継いだような、素晴らしい音楽が聴かれる。ラウテンデラインだけでなく、ニッケルマンまでが抒情的に歌って応える。私個人的には、このオペラの中で一番好きなシーンである。)


〔 第2幕 ハインリッヒの家。 〕

8.ハインリッヒの妻マグダと、二人の子供たち。「パパの鐘がもうすぐ、鳴るわよ」と、皆で楽しみにしている。彼らはまだ、山の上で起こった出来事を知らない。そこへ牧師たちがやって来て、ハインリッヒが大変な事故に遭い、生命が危険な状態になっていることを告げる。

(※マグダ役は、高音に強いメゾ・ソプラノか、ドラマティック・ソプラノに向いている。物語のラスト近くで分かることなのだが、この奥さんはとてつもなく強い意志の持ち主なのである。ところで、ここで聴かれる子供たちの歌は、日本では「かーすみか、雲か♪」でよく知られたドイツ民謡。初めて聴いたら、あれっ、と思うことうけ合いだ。)

9.瀕死のハインリッヒが、家に運び込まれてくる。死を覚悟した彼は、妻にお詫びの言葉をつぶやく。「誰か、うちの人を助けて」と外へ出て行くマグダ。ハインリッヒが一人になる。

10.そこへラウテンデラインが現れて、魔法の治療を始める。何をしているのかと、訝(いぶか)るハインリッヒ。

(※ラウテンデラインが登場する時の音楽が何とも色彩的で、さすがはレスピーギという感じ。いかにも“妖精の登場”という雰囲気が、よく出ている。)

11.ラウテンデラインとハインリッヒの対話。ここでラウテンデラインは自分の身の上と、今の気持ちを語る。そして短いやり取りの後、彼女はハインリッヒのまぶたに長いキスをする。

(※ここもラウテンデラインの聴かせどころだが、特にその後半部分が聴き物。「あなたが好きよ。お望みなら、あたしがここにいてもいいけど、あなたが一緒に山の上に来てくれたら、もっといいな」というセリフが、抒情的な美しさを持って歌われる。続いて、「そしたら私、あなたの召使になって、いろいろな宝石を・・」と歌い出すところでは伴奏楽器に小さな鐘が効果的に使われ、ドリーブの歌劇<ラクメ>の一場面、あの「鐘の歌」を想起させるものになっている。)

12.ラウテンデラインの魔法が効いて、みるみるうちにハインリッヒの全身に活力がよみがえって来る。彼はすっかり元気を取り戻す。「この奇跡はいったい、何だ?ああ、新しい太陽だ」。再び生きる力と、創作への意欲に燃え立つハインリッヒ。やがて妻マグダが戻って来て、夫の元気な姿を見て大喜びする。夫婦が抱き合ったところで、第2幕が終了。

(※ハインリッヒの力強い復活の歌と妻マグダの喜びの声が交差する場面は、ほとんどワグネリアンの世界。ちょっと笑える、堂々たる幕切れである。)

〔 第3幕 山の上。荒れ果てたガラス小屋。 〕

1.ハインリッヒは村を離れ、山の上でずっと暮らすようになっている。山に棲む小人たちをこき使って仕事に励むのだが、どうしても納得のいく作品が出来ない。小人たちを叱りつけたりして、彼はやたらいらついている。

(※第3幕開始の音楽では、チンカンチンカンと鳴り続ける金床の音が、巧みな情景描写を行なっている。)

2.水の精ニッケルマンと牧神の対話。ハインリッヒがラウテンデラインとよろしくやっているのが、不快な様子。そこへラウテンデラインが登場し、いつものように二人をからかう。やがて、牧師が現れる。彼は、家族を放ったらかしにしてずっと山にこもっているハインリッヒを心配して、山の上まで登って来たのだった。

3.「お前は魔術を使って、ハインリッヒ親方を篭絡した」と、牧師はラウテンデラインをののしる。ラウテンデラインも負けじと言い返す。そこへ、ハインリッヒが登場。自分はすっかり回復して、良い毎日を送っていると牧師に告げる。

4.牧師とハインリッヒの対話。ハインリッヒは、「教会とかキリスト教とか、そんな物のためではなく、自然を賛美するものを作るのだ」と熱っぽく語りだす。牧師は愕然として、「あなたは、おかしくなってしまわれた・・」とつぶやく。そして、どうにもかみ合わないやり取りの後、「覚えておきなさい。いつか、あの湖底の鐘が鳴りますから。あなたのためにね、親方」と言い残して、牧師は去って行く。

(※ここでハインリッヒは、自らの理想を高らかに歌う。レスピーギの音楽も力強く、彼の歌を支える。しかし、それを遮るように牧師の言葉が始まる。上に書いた牧師のセリフは原作の雰囲気を尊重して和訳したが、このオペラでの牧師の歌い方は、もっと威圧的に響くものだ。「いいか親方よ、覚えておくがいい」みたいな訳し方をした方が、このオペラの対訳としてはもっとふさわしいかも知れない。悲劇の運命を語るような弦楽の旋律と、ティンパニの強い連打が、非常に劇的な空気を盛り上げる。次回言及する予定だが、このハインリッヒと牧師のやり取りこそが、ハウプトマンの『沈鐘』に於ける核心的テーマに触れる部分なのである。)

―次回はこの続きから、最後の幕切れまで。
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歌劇<沈鐘>(1)

2005年12月27日 | 作品を語る
フーケーの『ウンディーネ』に内蔵される第2のモチーフを踏襲した代表的な作品として、ゲルハルト・ハウプトマンの象徴劇『沈鐘(ちんしょう)』(1896年)を挙げることが出来る。これは題名が示す通り、水の中に沈んだ鐘をモチーフにしたドラマである。ここに登場する妖精の娘ラウテンデライン(※アクセントは真ん中の「テ」)もウンディーネの末裔と言ってよい存在だが、この作品自体は、『ウンディーネ』の直接的な後継となっている物ではない。物語のテーマ上の主人公はむしろ、ハインリッヒという名の鐘造り職人の方である。彼は親方と仰がれる立場にあり、名職人の誉れ高い男だ。ウンディーネと結婚する若い騎士と違って、彼はすでに妻帯者であり、二人の子を持つ家庭人でもある。

この『沈鐘』のオペラ化は、一度ラヴェルが試みたもののついに果たせず、後にイタリアの作曲家レスピーギによって実現された。レスピーギの歌劇<沈鐘>(1927年)は、割と最近になってようやく全曲盤CDが発売され、これが世界初録音となるらしい。出演者たちは率直に言って一流とは言いがたいメンバーだが、彼らなりにベストを尽くしており、一応作品の姿を掴む上では支障のないレベルに達している。ハウプトマンの原作は5幕で構成されているが、レスピーギのオペラは、本質的でないエピソードを適宜カットして4幕に統合した台本を使っている。

当ブログでは今回から3回にわたって、この現在唯一と思われる全曲CDをもとに、トラック番号順にオペラのストーリー展開を追ってみたいと思う。以下、左側の数字はCDのトラック番号である。(※原作に比べるとオペラの台本はだいぶスリムなものだが、本質的なところは押さえられているので、その粗筋を追うだけでもかなり原作の姿をうかがい知ることが出来る。)

【参照演奏 : フリーデマン・ライヤー指揮モンペリエ国立管弦楽団、他 2003年10月4日録音 Accord盤】


〔 第1幕 山の中の草地。舞台下手に小屋。上手に井戸。 〕

1.妖精の娘ラウテンデラインが、井戸の縁に座っている。うるさいミツバチを追い払い、井戸の奥に向かって、水の精の男ニッケルマンに呼びかける。(※イタリア語で書かれたこのオペラでは、水の精の男はオンディーノと呼ばれるが、当ブログでは原作通りのニッケルマンを使用する。)

(※弦と木管による開始部の音楽は何だか、ドビュッシーの<ペレアス>っぽい。水辺の風景にはやはり、こういう音が似合うのか。ラウテンデラインはコロラトーラ・ソプラノの声できびきびと歌い、いかにもおきゃんな娘のイメージ。)

2.「ブレケケ ケックス!」という鳴き声とともに、ニッケルマンが井戸の底から現れる。続いて山の牧神も、森から出て来る。この二人をからかって楽しんだ後、ラウテンデラインは走り去る。ニッケルマンと牧神の対話。牧神が、最近山で起こったことを語る。「いまいましい人間どもが、オレらの山の上に教会を立てるんだとよ。そのてっぺんに、あのガンガンうるせえ鐘をしつらえようって、ふもとからエッチラオッチラ運んできやがった。でもよ、オレがその荷車の車輪をちょっとおっぱずしてやったらよ、でかい鐘はゴンゴン下へ転げ落ちて、今はすっかり湖の底ってわけさ。ざまあみろだ」。

(※ひょうきんに上下動する木管のパッセージが牧神のテーマとして使われていて、これがいかにも「パンの笛」といった感じで分かりやすい。声は性格的なテノール。一方のニッケルマンは、バリトン。ただ、このモンペリエ・ライヴを聴いた限りで言えば、この作品でのニッケルマンには、原作に見られるほどの下品な印象はない。ちょっと物足りないかも。牧神の語り場面についた伴奏音楽が、なかなか描写的。特に、落ちた鐘の音が良い。)

3.鐘職人のハインリッヒが、半死半生の状態で山を這い上がってくる。(※このオペラでは、職人の名はエンリーコというイタリア語名になっているが、当ブログでは原作通りのハインリッヒを使用する。)彼は自分が作った鐘と一緒に山から転落したが、その後必死に這い上がって、ラウテンデラインが魔法使いの老婆と住んでいる小屋までたどり着いたのである。ミルクをもらって一息ついたハインリッヒが、ラウテンデラインに向かってつぶやく。「君の声のような響きを、あの鐘に込めてみたかった。でも、出来なかった。私は今、血の涙を流す思いだ」。ラウテンデラインはきょとんとして、「涙って、なあに?」と尋ねるのだった。

(※ハインリッヒの声は、リリコ・スピントのテノール。音楽的な注目点は、このハインリッヒと出会ったラウテンデラインの歌い方の変化。先ほど牧神たちをからかっていた時とは打って変わり、女性的で優しい表情が現れている。)

4.帰ってきた老婆にラウテンデラインは、「この人を助けてやって」と頼む。しかし老婆は、「そんなもん、放っときな」とつれない。その後、「お婆さんに教わった魔法で、私がこの人を治してあげよう」と、ラウテンデラインは魔法陣を描き始める。が、やがて彼を捜しに来た村の床屋、牧師、そして校長の声が響いてくる。彼女は隠れる。

(※老婆の声はアルト。「人間ってのは、いつか死ぬものなんだよ。放っておきな」と言うあたりで効かせる低音のドスが、不気味な感じで良い。また、魔法を始めるラウテンデラインがここで聴かせる歌には神秘的な美しさが漂っており、非常に印象的である。このオペラの大きな聴きどころの一つだ。)


この続きは、次回・・。
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歌劇<ウンディーネ>(2)

2005年12月23日 | 作品を語る
前回からの続きで、今回はロルツィングの歌劇<ウンディーネ>の後半部分。第3幕と第4幕である。

第3幕

リングシュテッテンの城。騎士フーゴーが狩りを催す。集まった狩人たちの合唱。酒蔵番のハンスおやじが、忙しく動き回っている。やがて、ファイトがハンスに話しかける。「見てしまったんだよ。フーゴー様が、テントの中でベルタルダの足元にひざまずいているところを」。続いて、一人になったファイトがアリアを歌う。「人の再会というのは楽しくもあり、またそうでない結果の時もある」。

(※このファイトのアリアは要注目である。原作には出て来ない若者が、何の変哲もない歌詞を歌っているのに、そのメロディが際立って印象的なのだ。この一曲はまるで、モーツァルト・オペラで聴かれるテノール・アリアの伝統を引き継いでいるかのように聴こえる。しかし、主役よりも脇役が良い歌を持っていることがあったり、どうでもいいような歌詞に素晴らしい音楽がついていたり、オペラというのはつくづく面白いものである。そう言えば、同じロルツィングが書いた歌劇<ロシア皇帝と大工>でも、単なる脇役であるシャトーヌフ侯が「さようなら、私の浮気な娘さん」と歌う別れの歌が、全曲中でもひときわ強い印象を残すものになっていた。ついでに言うと、このシャトーヌフ公の歌を初めて耳にした時、「これは、フロトウのオペラに出て来そうな曲だな」と、私は思ったのだった。やはりロルツィングとフロトウは、音楽史上に位置する座標が近いようである。)

フーゴーとベルタルダの二人。「君を離さないぞ」と、フーゴーが情熱的に迫る。「ウンディーネは魔術を使って、僕を篭絡(ろうらく)したんだ。ベルタルダ、君こそ僕の女性だ」。ウンディーネがそこへやって来ると、フーゴーは言い放つ。「お前とは終わりだよ、ウンディーネ」。ベルタルダは、「私は、漁師である親たちのもとへ帰りますわ」と言って、そこを去ろうとする。しかしフーゴーは彼女を引き止め、ウンディーネに向かってひどい言葉を浴びせる。「消えろ、この食わせ物め」。

すると湖の水が大きく盛り上がり、水の精たちとともにキューレボルンが現れる。彼はウンディーネを迎えに来たのだ。「終わったんだよ、ウンディーネ。さあ、水の世界へ帰ろう」。そして、キューレボルンの歌。「魂を持つ人間がどんなに良いものか、私は知りたかった。だからベルタルダをさらって、代わりにお前を漁師のもとへ送った。しかし、ひどい事をしてしまった。この私を許してくれ。(中略)水の世界に帰れば、お前の激しい涙も和らぐだろう」。

(※この場面でのキューレボルンの歌は、非常な聴きものである。私個人的には、このオペラの中で一番好きなナンバーだ。これは、優しい父性愛が美しい旋律に乗って暖かく歌われる佳曲である。ヘーガー盤では若き日のヘルマン・プライが歌っているが、特有の甘い美声で素晴らしい歌唱を聴かせる。)

続いて、ウンディーネを慰める水の精たちの優しい合唱が出てきて、ウンディーネも水の世界へ帰る気持ちになる。やすらぎの幕切れ。

第4幕

城の中庭。その中央には、石で蓋(ふた)をされた泉がある。悪夢にうなされたフーゴーが起き上がって、長い独白を始める。「ウンディーネよ、お前が人間だったなら!お前を失ってから、僕の心の平和もなくなった」と始めるのだが、やがて気を取り直して、今度はベルタルダへの想いを力強く歌う。「ベルタルダこそ、僕を幸福にしてくれる女性なのだ」。

(※ここでとりわけ強く感じられることがある。騎士フーゴーに付けられた音楽は、ウンディーネとの二重唱などよりも、このようにベルタルダのことを歌っている時の方がずっと情熱的に書かれているのだ。従者ファイトの言葉通り、騎士フーゴーはウンディーネに対してもともと本気ではなかったということを、それらの音楽で表現しているのだろうか。あるいは、作曲家ロルツィングは心情的に人間側の味方ということなのか・・。)

酒蔵番のハンスおやじとファイトの二人が仲良く、酔っ払って登場。ファイトはウンディーネに対して同情的で、ベルタルダをむしろ嫌っている。やがて、この二人は酔った勢いで、泉を塞いでいる石を動かす。するとその泉から、ウンディーネが出て来る。

一方フーゴーは、パーティーの客たちに酒を振舞って、「どんどん飲もう」と盛り上げる。しかし、彼の顔色は良くない。深夜12時を告げる鐘の音が響く。そして、それが鳴り終わるや、空に雷鳴が轟く。城内は明かりがすべて消え、真っ暗になる。ついにウンディーネが、フーゴーのところにやって来たのだ。「ああ、ウンディーネが招いている・・。今行くよ」。フーゴーは、ウンディーネの前に崩折れて死ぬ。そして二つ目の雷鳴とともに、ウンディーネとフーゴーは水の中に沈んでゆく。

(※ウンディーネとフーゴーの二人が雷鳴とともに沈んでゆく場面は、ト書きを読んでいると結構スペクタキュラーな印象を受けるのだが、ここに付けられたロルツィングの音楽はそんなに迫力を持ったものではない。他の様々な例にまで詳しく触れる余裕はないが、ウェーバー以後のドイツ・オペラが真に劇的で迫力ある音楽を得るには、やはりワグナーの出現を待たねばならなかったようである。)

終景。水界の王キューレボルンの宮殿。水の精たちが回りに揃って、中央の壇上にキューレボルンがいる。彼の足元には、ウンディーネとフーゴーの二人。キューレボルンがフーゴーに、裁きを言い渡す。「お前は、純粋なる者を欺いた。しかし、我が娘に免じて許そう。これからお前は、この水の世界に住まう者となるのだ。それが、お前への罰だ」。最後は水の精たちの合唱を背景に、ウンディーネ、キューレボルン、そしてフーゴーも加わった声のアンサンブルとなり、第3幕と同じようなやすらぎに満ちた美しい終曲となる。

(PS) E.T.A.ホフマンの歌劇<ウンディーネ>

フーケーの『ウンディーネ』を土台にしたオペラを語るなら、本来はまずホフマンの歌劇<ウンディーネ>に言及すべきであることは、私も分かっているつもりである。なぜなら、これはフーケー自身が台本を書いたという非常に由緒正しい作品だからである。しかし、この歌劇は初演(1816年)こそ好評だったらしいのだが、その後は完全に忘却の淵に沈んでしまっている。全曲CDが一応存在するらしい事を外盤カタログで最近確認したものの、残念ながら、現段階では未聴。そういう事情で、ホフマン作品については今回見送らざるを得なかった。(※ちなみに、このエルンスト・テオドール・アマデウス・ホフマンという人は、あのオッフェンバックの歌劇<ホフマン物語>の主人公のモデルになった実在の人物である。この人は、音楽家としてはあまりパッとしなかったようだ。むしろ作家として、『くるみ割り人形』のお話などを書いたことの方が重要な業績であろう。)

―次回は、フーケーの『ウンディーネ』に見られる二つの重要モチーフのうち、第2のモチーフ(=精霊界への貞節を裏切る者は、死の報復を受ける)を踏襲した代表的な文学作品と、そのオペラ作品に話を進めてみたい。
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歌劇<ウンディーネ>(1)

2005年12月19日 | 作品を語る
フーケーの『ウンディーネ』を土台にしたオペラ作品として現在最もよく知られているのは、アルバート・ロルツィングが作曲した歌劇<ウンディーネ>であろう。ロルツィングと言えば、フロトウ、ニコライ、そして近年再評価されつつあるマルシュナーなどと並ぶ作曲家で、歴史的な位置としては、ウェーバーとワグナーの間をつなぐ世代に属する。一般的には、<ロシア皇帝と大工>や<密猟者>といった歌劇の方がよりよく知られている人だが、<ウンディーネ>もまた見逃せない作品である。今回と次回に分けて、このロルツィングの歌劇<ウンディーネ>を語ってみたいのだが、現在数種ある全曲CDのうち、私が持っているヘーガー盤のキャスト一覧を最初にご紹介しておきたい。鋭い方は、これを見ただけで「おやっ?」と思われることだろう。

ウンディーネ : アンネリーゼ・ローテンベルガー(S)
騎士フーゴー・フォン・リングシュテッテン : ニコライ・ゲッダ(T)
フーゴーの従者ファイト : ペーター・シュライアー(T)
ベルタルダ : ルート=マルグレット・ピュッツ(S) 
水界の王キューレボルン : ヘルマン・プライ(Bar)
ハイルマン神父 : ゴットロープ・フリック(B)
ワイン蔵番のハンス : ゴットロープ・フリック(B) 二役。
老漁師トビアス : ハンス=ギュンター・グリム
その妻マルテ : ジークリンデ・ワグナー
ロベルト・ヘーガー指揮 ベルリン放送響、他 (1966年 EMI ステレオ録音)

さて何が、「おやっ?」なのかと言えば、フーケーの原作には出て来ない人物が二人、このオペラに登場しているということである。騎士の従者であるファイトと、ワイン蔵番のハンスおやじ。オペラ作品に時折見られる現象なのだが、ここでもまた、「原作にはいない、でっち上げキャラ」が大事な役割を担っている。

序曲

力強い金管と、それに続く切なげな弦のメロディ。悲劇の運命と、ウンディーネの悲しみを表しているのだろうか。全体的にいかにもロルツィングらしい、ロマンティックでソフト・フォーカスな音楽だ。約9分半。

第1幕 

漁師夫婦の家。まず騎士フーゴーの従者であるファイトが、「ほとんど三ヶ月も洪水で足止めを食ったが、ようやく今日は出発だ。フーゴー様が花嫁を連れて、これからご帰還になるんだ」と前口上を歌う。老漁師トビアスとハイルマン神父の対話を経て、ウンディーネが結婚の喜びを歌う。続いて、「魂って、幻でしょ?」という彼女の言葉にギョッとした一同の五重唱。(※このオペラは、いきなり騎士とウンディーネの結婚が決まったところから話が始まる。やはり、フーケーの原作を知っておいた方がよさそうだ。ヘーガー盤では、若き日のシュライアーが開始早々、粋な歌声を聴かせてくれる。)

騎士フーゴーが、ベルタルダにけしかけられて魔の森へ入ったいきさつを歌い、そこからウンディーネと愛を確かめ合う二重唱に入る。それから、二人の婚礼を祝う合唱が柔らかく歌われる。(※このソフトな感じがいかにも、ロルツィング。)

場面は変わって、ファイトと人間の姿で登場したキューレボルンの対話。騎士をよく知るファイトがつぶやく。「ウンディーネさんは、フーゴー様に遊ばれているだけさ」。キューレボルンの顔色が変わる。その後、ファイトと他の男たちが酒の歌で盛り上がる。神父に化けたキューレボルンがウンディーネのもとに現れ、「こうなったことを、私は今後悔している」と歌う。ウンディーネが、自分を育ててくれた漁師の家にお別れを歌い、合唱に送られながら騎士と一緒に出発するところで幕。(※このあたりの響きは、先輩格にあたるウェーバーのオペラを思わせる。)

第2幕 

不穏な運命を予告するような間奏曲で開始。ファイトと、酒蔵番のハンスおやじ。この二人は仲良しだ。ファイトは、自分の主人である騎士フーゴーが新妻を娶ったことをハンスに伝える。そのやり取りの後ハンスは貴重品箱を出して、「この箱には、ベルタルダ様の出生の秘密が書かれた書類がしまってある。今日の誕生日に開かれることになっているんだ」と語る。

フーゴーとウンディーネ。ホルンに導かれて、ウンディーネが自分の素性を明かすアリアを歌う。「自然界には、様々な精霊たちがいます。 (中略) 私も、その水の妖精ウンディーネなのです」。たじろぐ騎士の手をとって、彼女は続ける。「私たち精霊が人間たちと違うのは、魂を持っていないこと。でも私は、あなたとの愛によってそれを得たのです」。(※言うまでもなく、これは主役ウンディーネによる最大の聴かせ歌である。ただ、ヘーガー盤に関して言えば、ここでのローテンベルガーは声の点でちょっとツライものがある。何とかこなしてはいるのだが・・。)

一方ベルタルダは、騎士フーゴーの結婚を知ってショックを受けている。しかし、「私は気高い血筋ゆえ、もっと高貴な方と結ばれるのよ」と気丈に歌う。真実を知るキューレボルンは、それを聞いて冷笑する。ウンディーネのことを悪しざまに見下げるベルタルダの態度にムッとしたキューレボルンが、「貧しい漁師夫婦に、赤ちゃんがおりました。でもある日、その子は湖に消えていなくなりました。さあ、誰のことでしょう」と歌い始める。やがて彼の歌が意味するところを悟って、一同騒然となる。

そこへ貴重品箱が持ち込まれ、中に収められた羊皮紙の文章を役人が読み上げる。そして、キューレボルンの歌った内容が事実であると判明。ベルタルダは貧しい漁師の娘だった。打ちひしがれるベルタルダ。キューレボルンの高笑い。しかし、ウンディーネはベルタルダに、「あなたを見捨てはしないわ」と優しく声をかける。一同の騒然たる合唱で第2幕終了。(※ここでの合唱にも、ウェーバーの流れを汲んだような響きが聴かれる。)

この続き、後半部分に当たる第3幕から第4幕終曲までの展開については、次回・・。
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四つの<オンディーヌ>~ドビュッシー、三善、ヘンツェ、ラヴェル

2005年12月14日 | 作品を語る
《ウンディーネ・シリーズ》の続きである。今回は、フランス語流に<オンディーヌ>という題名のついたクラシック音楽作品から、特に有名と思われるもの4つに触れておきたい。

1.ドビュッシーのピアノ曲<オンディーヌ>(1913年)

ピアノのための《前奏曲集・第2巻》の第8曲が、<水の精 オンディーヌ>と題されている。これもフーケーの『ウンディーネ』が元になっての命名だそうだ。しかし、直接的な霊感は、アーサー・ラッカムという人が描いたウンディーネの絵本を見たときに得られたらしい。曲の雰囲気としては、「いたずらっ子ウンディーネ」のイメージが強い。こちらに向かって水をバシャッとひっかけて、ケケケッと笑いそうな感じ。

2.三善晃の音楽詩劇<オンディーヌ>

タイトルはフランス語流に<オンディーヌ>だが、内容はフーケーの『ウンディーネ』を土台にしている。しかし、岸田衿子(きしだ えりこ)氏が書いた当作品の台本には、原作を変更した箇所がいくつかある。例えば、ここでのキューレボルンは水界の王と設定されており、彼が息を吹き込んでオンディーヌが生まれたということになっている。また、これはフーケーの原作をかなりはしょった物なので、いきなり聴いたら、「何だい、この話は」と戸惑ってしまう可能性が高い。話の展開があちこちで、唐突なのである。やはりフーケー作品の粗筋だけでも、予備知識として持っておいた方がよさそうだ。

三善の<オンディーヌ>は、プロローグとエピローグにはさまれた3つの部分で構成されている。人魚姫のように人間界に憧れていたオンディーヌが、騎士ポウルと出会って相惹かれ、彼と愛を結ぶのが第1部の展開。ただし、ここでのキューレボルンはジロドゥ作品に出て来る水界の王と同様、騎士の心を信頼しておらず、二人の結びつきには強く反対している。

第2部は、ベルタルダも登場する人間界でのオンディーヌが描かれる。ベルタルダの出生の秘密が明らかにされる場面を経て、舟の上で夫のポウルにののしられて、オンディーヌが水中に消えるまでの内容。

第3部で騎士ポウルは原作同様、ベルタルダと再婚を果たす。その後、石をどけられた井戸から出てきたオンディーヌによって彼は引導を渡されるのだが、三善作品はそれに続いて、エピローグがある。騎士ポウルが死んだ後に水底の世界に行き、オンディーヌと再び結ばれる場面で終曲。

音楽面では、オンドマルトノが活用されていることが一番の特徴だ。その他電気的に作られた様々な音響を駆使して、独自の世界を作り出している。水の音なども、本物そっくり。また、これはいわゆるオペラ系統の作品ではなく、むしろラジオ・ドラマの作りに近いものだ。つまり劇場のステージではなく、ラジオ放送局のスタジオに俳優たちやオーケストラ団員が入り、さらに電子楽器などの機材を持ち込んで作るという感じの作品なのである。

この作品は一度だけCD化(EMI)されたが、現在は入手困難なようだ。そう言えば、当時の出演者の中に若き日の岸田今日子さんがいた。ベルタルダの役で出演なさっていたのだが、今日(こんにち)のような凄みまではないものの、「ああ、これは確かに岸田さんだなあ」とうなずかせるだけの存在感があった。あと、「舟歌」を歌っていたのが、友竹正則氏。生前は、TVにもよく出演なさっていた。何となく懐かしい名前だ。全曲の演奏時間は、約44分。1959年芸術祭賞、1960年イタリア賞受賞作品。

3.ヘンツェのバレエ音楽<オンディーヌ>(※この作品のドイツ語の原題はUndineだが、日本盤CDでは「オンディーヌ」という表記で販売されているので、こちらを使用することにした。)

振付家のフレデリック・アシュトンという人が、ジロドゥの戯曲『オンディーヌ』の舞台上演を観て深く感じ入ったらしい。その彼が、フーケー以来の「ウンディーネの物語」をバレエ化したいと考え、最終的にハンス・ウェルナー・ヘンツェの音楽を得て実現したのが、この作品である。バレエ上演時に主演したのは、マーゴ・フォンテーン。現在、オリヴァー・ナッセン&ロンドン・シンフォニエッタの優れた演奏によるCDが、グラモフォンから出ている。これは三幕構成の作品だが、物語の設定はかなりオリジナリティが高いものである。

まず第1幕は、狩人や客人たちが集まっている城の外。騎士パレモンが登場し、許婚のベアトリーチェに金の魔よけを贈ろうとする。彼女がそれを受け取らずに城へ入った後、海の精オンディーヌが現れて「影の踊り」を披露し、騎士を魅了する。森に去っていくオンディーヌを、パレモンが追う。人間を信じない地中海の王ティレニオは、手下の海の精たちを使って騎士の邪魔をする。しかし、しっかりとオンディーヌを抱きしめる騎士の姿を見て、彼らは手を引く。その後、森の隠者が立ち会って、二人は結ばれる。(約38分)

第2幕は、地中海に面した港。船の上。パレモンが魔よけをオンディーヌにあげようとすると、ベアトリーチェが横取りする。それを見た地中海の王ティレニオは、彼女からその魔よけをもぎ取って、水中へ消えていく。ベアトリーチェが取り乱すと、オンディーヌは海の中からきれいな珊瑚の魔よけを出して、ベアトリーチェに渡そうとする。しかしベアトリーチェは、それをオンディーヌの足元に投げ返す。さらにパレモンがそれを拾って、海に捨ててしまう。怒れる王ティレニオが海に嵐を起こし、船を難破させる。オンディーヌは海の精たちに護られながら、水中に消えていく。(約23分)

第3幕は、城の広間。パレモンはベアトリーチェと結婚する。彼の夢の中に、悲しむオンディーヌが現れる。その後、結婚式の踊りが次々と披露されるが、やがて宮廷からの来賓に化けたティレニオや海の精たちがやって来る。結婚式のためのディヴェルティスマンを披露した後、ティレニオと海の一族は正体を現し、人々を混乱に陥れる。海の精たちに魅入られたパレモンは、今やベアトリーチェよりもオンディーヌを求めている。やがて泣きながら現れたオンディーヌに接吻して、彼は息を引き取る。城の広間は海の水に覆われていき、オンディーヌもその中に消えていく。(約41分)

音楽面について言えば、やはり舞台映像がほしい作品である。特に第1&2幕は、CDで音だけを聴いているのはちょっとツライ。解説書の筋書きを見ることで、とりあえずどういう場面を描いているかは逐一確認出来るし、またそれなりに納得も出来るのだが、この音楽だけでは今一つ物足りない。

ただし、CDの二枚目に収められた第3幕は別である。これは、音だけでもかなり楽しめる。まず、パレモンの夢の中にオンディーヌが出て来る場面。ここでの音楽は、寂しげな弦にハープが加わって実に良い味を出している。さらにトラック11から20にかけて聴かれる、「結婚式でのディヴェルティスマン」。結婚式の客に化けた海の精たちが、代わりばんこに見せる踊りの音楽である。ここではピアノ独奏も加わって、非常にヴィヴィッドな音楽が展開される。(※ナッセンの指揮によるグラモフォン盤では、ピーター・ドナヒューという人がピアノを担当しているが、これは名演と言ってよいだろう。)CD解説書の言葉をそっくり拝借すれば、「ブロードウェイ・ミュージカルのような、どんちゃん騒ぎ」だ。私の感じ方としては、プロコフィエフのピアノとバルトークの打楽器が参加したジャズ・セッションの盛り上がり、といったところだろうか。とにかくこれは、楽しんだ者の勝ちである。

4.ラヴェルのピアノ曲<オンディーヌ>(1908年)

有名なピアノ曲集《夜のガスパール》の第1曲。ドビュッシーよりも少し前に書かれたものだが、フーケー作品ではなく、アロイジウス・ベルトランの遺作詩集に出てくるオンディーヌをもとにしているのだそうだ。

ベルトランが描いたオンディーヌというのは、自分から男をナンパ(?)しにやって来る積極派の妖精である。ある男の部屋に水の妖精がやって来て、青い窓ガラスの外から、「湖底の宮殿で、一緒に暮らしましょうよ」と男を誘う。(※彼女は水界の繁栄のために、人間の男の力が必要らしい。)しかし、「一緒になるなら、人間の女がいいわい」と言って、男は拒否する。すると彼女は泣き出すのだが、やがて甲高い声で笑い出し、窓ガラスの水滴になって消え去る。男としては一度体験してみたいような、みたくないような、不思議な幻想詩の世界だ。

ラヴェルのピアノ曲は、この詩の内容を辿ったものだそうだが、聴いた感じとしてはそんなに妖怪めいた雰囲気ではなく、むしろフーケー作品の中で、騎士と結婚してしとやかになったウンディーネをイメージさせるような優美さを湛えた曲である。かえって上述のドビュッシー作品の方が、このベルトランのオンディーヌに近いように私には感じられてしまう。

―次回以降もウンディーネにまつわるクラシック音楽作品の話だが、当ブログの本領とも言うべきオペラ分野に進む予定である。
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