途中でいくつか寄り道をしたが、これまでの話は、「妖精の王オベロン」から出発したものだった。そこで今回は、そのオベロンのお妃をタイトルに据えた有名作品に目を向けてみたいと思う。イギリス・バロック期の巨匠ヘンリー・パーセルの大作<妖精の女王>(1692年)である。
これはパーセルが作曲したセミ・オペラ群の中でも飛びぬけて優れた、そして飛びぬけて大掛かりな作品である。CDにしてたっぷり2枚組、演奏時間の点でもかなり長大な作品で、勿論聴きどころも満載だ。以下、私がかつて聴いた2種類の全曲盤(アーノンクール盤とクリスティ盤)についての鑑賞メモを参照しながら、この大作の中身を順に見ていくことにしたい。
―セミ・オペラ<妖精の女王>の内容と、2種CDの聴き比べ
〔 第1幕 〕
ヘンデル風の力強い器楽曲がいくつか流れた後、男女の逃避行の歌、そして妖精たちにいじめられるヘッポコ詩人の歌が続く。
(※ここの伴奏は、クリスティ盤が秀逸。酔っ払ってヘロヘロする詩人の姿を、よろめくような弦の演奏で巧みに表現する。管楽器も表情豊か。一方、歌についてはアーノンクール盤のロベルト・ホルが、大胆にして闊達な名唱を披露している。)
〔 第2幕 〕
まず、テノール独唱による「鳥たちを呼ぶ歌」。その後、器楽による「プレリュード」を経て、複数の歌手によるアンサンブル、エコー、さらにソプラノ独唱と続き、最後は「夜」「神秘」「秘密」「眠り」という4人のキャラクターが、めいめいの持ち歌を歌う。そして合唱がそれを受けて、第2幕終了。
(※第2幕の「プレリュード」の部分は、鳥たちの鳴き声を表しているようだ。ただ、その表現手段が演奏家によって違ってくるのが興味深い。クリスティ盤では、木管楽器とリュートを使っている。木管はやはり、ストレートに鳥の声を連想させる。一方アーノンクールは、ここで弦楽器とチェンバロを使う。ちょうどヴィヴァルディの<四季>みたいな感覚で、鳥たちのさえずりを描いているのだ。二人の名指揮者はまるで違うやり方をしているのに、それぞれにしっかりと説得力があるのが面白い。)
(※続く声のアンサンブルは、クリスティ盤がすっきりして聴きやすい。アーノンクール盤は、ちょっと雑然とした感じ。逆にその後のエコーの効果は、アーノンクールが巧い。モンテヴェルディの歌劇<オルフェオ>の演奏でも使っていた手法で、いかにも音がこだましているという感じがよく出ている。続くソプラノ独唱「歌え、我らが草原で踊っている間に」も、演奏家による違いがはっきり出てくる。クリスティ盤のナンシー・アージェンタは、快速なテンポできびきびと歌う。一方、アーノンクール盤のバーバラ・ボニーはむしろゆったりと構え、オペラ・アリア風に聴かせる。)
(※第2幕の最後を締めくくる4人の歌と合唱でも、非常に対照的な演奏が聴けて面白い。クリスティ盤の方は、全体的に引き締まった声のフォルムを持つ歌手が揃っている。一方アーノンクール盤の方は、「夜」の前奏部分に顕著に現れている通り、ロマンティックなまでにしっとりした、何とも柔らかい表情が印象的。)
〔 第3幕 〕
ソプラノ独唱と、各種の舞曲、そして再びソプラノ独唱。干草作りの男女コリドンとモプサの歌、ニンフの歌、干草作りの人々の踊りと続いて、最後はアルトの独唱。
(※第3幕冒頭で聴かれるソプラノ独唱曲「愛が甘いものなら、何故こんなに苦しいの?もしつらいものなら、この満足は何なの」は、なかなかの名曲である。クリスティ盤は例によって、歌も管弦楽もすっきりと引き締まった演奏だ。歌っているのは、ヴェロニク・ジャンス。アーノンクール盤のバーバラ・ボニーも、速めのテンポでモダンなリート風の歌唱を聴かせるが、後に続く合唱はちょっと雑然としている。ここはクリスティ盤の方が、全体的にすっきりして美しい印象を与える。)
(※舞曲に続くソプラノ独唱「現れよ、空気の精」でも、異なった解釈が聴ける。クリスティ盤のリン・ドーソンはやはり、くっきりしたフォルムの歌唱を行なっている。アーノンクール盤のシルヴィア・マクネアは逆に、しっとりと優しい歌を披露する。私個人的には、ここではマクネアの方を高く買いたい。)
〔 第4幕 〕
ヘンデルの音楽を思わせるような、ドンドコ、パッパカと力強い「シンフォニア」で始まる。それから、「オベロン様の誕生日を祝おう」という従者の歌、二重唱と続き、春を告げる太陽フィーバス(=ポイボス)が登場。さらに合唱も加わる。その後、「春」「夏」「秋」「冬」の4人がそれぞれの持ち歌を歌い、再びヘンデル風のドンドコ、パーンが壮大に鳴り響く。
(※第4幕は、器楽部分がとにかく壮大だ。それが極めて強い印象を残すので、歌については今ほとんど思い出せない・・。いずれにしても、後続世代のヘンデルを思わせるこの男性的な器楽曲は、パーセル渾身の力作と言ってよいものだろう。)
〔 第5幕 〕
最後の第5幕は、リュートやチェンバロが中心的な楽器となって、第4幕とは全く様変わりした世界になる。「プレリュード」の後、続々と歌曲・舞曲が並ぶ。ユーノーの歌、嘆きの歌、中国人男女登場の踊り、シンフォニー、中国人男性、中国人女性、合唱、中国人男性、猿の踊り、中国人女性、もう一人の中国人女性、合唱、2人の中国人女性、合唱、プレリュード、婚姻の神、2人の中国人女性、婚姻の神、全員のアンサンブルと合唱、シャコンヌ、そして終曲の合唱。
(※ここでは何と言っても、二つ目に出て来るソプラノ独唱曲「嘆きの歌」が素晴らしい聴き物だ。これは、愛する男性に先立たれた女の深い悲しみを切々と歌ったもので、この<妖精の女王>全曲の中でもおそらく最高の名曲であろう。クリスティ盤のリン・ドーソンはスタイリッシュな名唱を聴かせてくれるが、いくぶん余情に乏しい嫌いがなくもない。一方のアーノンクール盤で歌っているのは、シルヴィア・マクネア。しんみりとした風情で、じっくりと歌っている。時には息も絶え絶え、といった表情まで見せる入魂の名唱だ。)
(※中国人男女の歌や合唱、そして終曲までの展開では、アーノンクール盤がとんでもなく大きなスケールの演奏を聴かせる。本当に、ヘンデル並みの壮大さだ。全体に表情の振幅が大きめで、グランド・マナーな印象を与えるアーノンクールの演奏だが、この終曲は特に凄い。一方のクリスティ盤は逆に、スケールが大きくなり過ぎないようにしてきりりと締めくくっている感じ。このクリスティ盤の全体的な印象を手短に言えば、「しなやかに引き締まって筋肉質なボディを持つ、水泳選手みたいな演奏」である。しかし、その凛とした佇まいが逆に抒情味の乏しさを感じさせる時もある、というところだろうか。)
―以上、御覧いただいた通り、これはタイトルこそ<妖精の女王>であっても、そのご本人である妖精の女王ティタニアは出てこないのであった。同じように夫のオベロンも、はたまた妖精パックも全く出てこない。これがオペラならぬセミ・オペラの姿、というわけである。本筋となる『真夏の夜の夢』のお芝居は、別のところで俳優さんたちが演じていて、パーセルが書いたのはその合間、合間に出て来る歌舞音曲の部分だったのだ。
さて、せっかくなのでこの際、<妖精の女王>と同じセミ・オペラに分類される他のパーセル作品にも、いくつか触れておきたい。まず、<アーサー王>。ここにもやはり、タイトル役のご本人は出てこない。王妃グィネヴィアも、魔術師マーリンも、湖のランスロットも、聖杯の騎士パーシヴァルも、誰も出てこない。かわりに妖精やら、神話の神さまやらが、お芝居の本筋とは関係のないやり取りを展開するのだ。ちなみにこの作品では、氷漬けになった神さまとキューピッドの対話を描く第3幕の音楽が、とりわけ面白い。いかにも、「ワ、タ、シ、こ、ご、えて、ますー」という感じがよく出ている。<インドの女王>は、私にはあまり面白い作品とは思えなかった。今はもう、一曲も思い出せない。<テンペスト>には、真偽問題があるようだ。つまり、これは本当にパーセルの作品なのかという疑義である。とりあえず、第4幕のドリンダのアリア「いとしい、素晴らしいお方」は間違いなく真作であろうと言われている。聴くと、「ああ、そうねえ」ぐらいには思うのだが、素人に結論を出せる問題ではない。他に、<予言者(=ダイオクリージアン物語)>という作品もあるようなのだが、これは残念ながら未聴なので詳細不明。
―という訳で次回は、もう乗りかけた船(?)なので、ヘンリー・パーセルが書いた唯一の“れっきとした”歌劇、あの名作<ディドーとエネアス>のお話に進んでみたいと思う。
これはパーセルが作曲したセミ・オペラ群の中でも飛びぬけて優れた、そして飛びぬけて大掛かりな作品である。CDにしてたっぷり2枚組、演奏時間の点でもかなり長大な作品で、勿論聴きどころも満載だ。以下、私がかつて聴いた2種類の全曲盤(アーノンクール盤とクリスティ盤)についての鑑賞メモを参照しながら、この大作の中身を順に見ていくことにしたい。
―セミ・オペラ<妖精の女王>の内容と、2種CDの聴き比べ
〔 第1幕 〕
ヘンデル風の力強い器楽曲がいくつか流れた後、男女の逃避行の歌、そして妖精たちにいじめられるヘッポコ詩人の歌が続く。
(※ここの伴奏は、クリスティ盤が秀逸。酔っ払ってヘロヘロする詩人の姿を、よろめくような弦の演奏で巧みに表現する。管楽器も表情豊か。一方、歌についてはアーノンクール盤のロベルト・ホルが、大胆にして闊達な名唱を披露している。)
〔 第2幕 〕
まず、テノール独唱による「鳥たちを呼ぶ歌」。その後、器楽による「プレリュード」を経て、複数の歌手によるアンサンブル、エコー、さらにソプラノ独唱と続き、最後は「夜」「神秘」「秘密」「眠り」という4人のキャラクターが、めいめいの持ち歌を歌う。そして合唱がそれを受けて、第2幕終了。
(※第2幕の「プレリュード」の部分は、鳥たちの鳴き声を表しているようだ。ただ、その表現手段が演奏家によって違ってくるのが興味深い。クリスティ盤では、木管楽器とリュートを使っている。木管はやはり、ストレートに鳥の声を連想させる。一方アーノンクールは、ここで弦楽器とチェンバロを使う。ちょうどヴィヴァルディの<四季>みたいな感覚で、鳥たちのさえずりを描いているのだ。二人の名指揮者はまるで違うやり方をしているのに、それぞれにしっかりと説得力があるのが面白い。)
(※続く声のアンサンブルは、クリスティ盤がすっきりして聴きやすい。アーノンクール盤は、ちょっと雑然とした感じ。逆にその後のエコーの効果は、アーノンクールが巧い。モンテヴェルディの歌劇<オルフェオ>の演奏でも使っていた手法で、いかにも音がこだましているという感じがよく出ている。続くソプラノ独唱「歌え、我らが草原で踊っている間に」も、演奏家による違いがはっきり出てくる。クリスティ盤のナンシー・アージェンタは、快速なテンポできびきびと歌う。一方、アーノンクール盤のバーバラ・ボニーはむしろゆったりと構え、オペラ・アリア風に聴かせる。)
(※第2幕の最後を締めくくる4人の歌と合唱でも、非常に対照的な演奏が聴けて面白い。クリスティ盤の方は、全体的に引き締まった声のフォルムを持つ歌手が揃っている。一方アーノンクール盤の方は、「夜」の前奏部分に顕著に現れている通り、ロマンティックなまでにしっとりした、何とも柔らかい表情が印象的。)
〔 第3幕 〕
ソプラノ独唱と、各種の舞曲、そして再びソプラノ独唱。干草作りの男女コリドンとモプサの歌、ニンフの歌、干草作りの人々の踊りと続いて、最後はアルトの独唱。
(※第3幕冒頭で聴かれるソプラノ独唱曲「愛が甘いものなら、何故こんなに苦しいの?もしつらいものなら、この満足は何なの」は、なかなかの名曲である。クリスティ盤は例によって、歌も管弦楽もすっきりと引き締まった演奏だ。歌っているのは、ヴェロニク・ジャンス。アーノンクール盤のバーバラ・ボニーも、速めのテンポでモダンなリート風の歌唱を聴かせるが、後に続く合唱はちょっと雑然としている。ここはクリスティ盤の方が、全体的にすっきりして美しい印象を与える。)
(※舞曲に続くソプラノ独唱「現れよ、空気の精」でも、異なった解釈が聴ける。クリスティ盤のリン・ドーソンはやはり、くっきりしたフォルムの歌唱を行なっている。アーノンクール盤のシルヴィア・マクネアは逆に、しっとりと優しい歌を披露する。私個人的には、ここではマクネアの方を高く買いたい。)
〔 第4幕 〕
ヘンデルの音楽を思わせるような、ドンドコ、パッパカと力強い「シンフォニア」で始まる。それから、「オベロン様の誕生日を祝おう」という従者の歌、二重唱と続き、春を告げる太陽フィーバス(=ポイボス)が登場。さらに合唱も加わる。その後、「春」「夏」「秋」「冬」の4人がそれぞれの持ち歌を歌い、再びヘンデル風のドンドコ、パーンが壮大に鳴り響く。
(※第4幕は、器楽部分がとにかく壮大だ。それが極めて強い印象を残すので、歌については今ほとんど思い出せない・・。いずれにしても、後続世代のヘンデルを思わせるこの男性的な器楽曲は、パーセル渾身の力作と言ってよいものだろう。)
〔 第5幕 〕
最後の第5幕は、リュートやチェンバロが中心的な楽器となって、第4幕とは全く様変わりした世界になる。「プレリュード」の後、続々と歌曲・舞曲が並ぶ。ユーノーの歌、嘆きの歌、中国人男女登場の踊り、シンフォニー、中国人男性、中国人女性、合唱、中国人男性、猿の踊り、中国人女性、もう一人の中国人女性、合唱、2人の中国人女性、合唱、プレリュード、婚姻の神、2人の中国人女性、婚姻の神、全員のアンサンブルと合唱、シャコンヌ、そして終曲の合唱。
(※ここでは何と言っても、二つ目に出て来るソプラノ独唱曲「嘆きの歌」が素晴らしい聴き物だ。これは、愛する男性に先立たれた女の深い悲しみを切々と歌ったもので、この<妖精の女王>全曲の中でもおそらく最高の名曲であろう。クリスティ盤のリン・ドーソンはスタイリッシュな名唱を聴かせてくれるが、いくぶん余情に乏しい嫌いがなくもない。一方のアーノンクール盤で歌っているのは、シルヴィア・マクネア。しんみりとした風情で、じっくりと歌っている。時には息も絶え絶え、といった表情まで見せる入魂の名唱だ。)
(※中国人男女の歌や合唱、そして終曲までの展開では、アーノンクール盤がとんでもなく大きなスケールの演奏を聴かせる。本当に、ヘンデル並みの壮大さだ。全体に表情の振幅が大きめで、グランド・マナーな印象を与えるアーノンクールの演奏だが、この終曲は特に凄い。一方のクリスティ盤は逆に、スケールが大きくなり過ぎないようにしてきりりと締めくくっている感じ。このクリスティ盤の全体的な印象を手短に言えば、「しなやかに引き締まって筋肉質なボディを持つ、水泳選手みたいな演奏」である。しかし、その凛とした佇まいが逆に抒情味の乏しさを感じさせる時もある、というところだろうか。)
―以上、御覧いただいた通り、これはタイトルこそ<妖精の女王>であっても、そのご本人である妖精の女王ティタニアは出てこないのであった。同じように夫のオベロンも、はたまた妖精パックも全く出てこない。これがオペラならぬセミ・オペラの姿、というわけである。本筋となる『真夏の夜の夢』のお芝居は、別のところで俳優さんたちが演じていて、パーセルが書いたのはその合間、合間に出て来る歌舞音曲の部分だったのだ。
さて、せっかくなのでこの際、<妖精の女王>と同じセミ・オペラに分類される他のパーセル作品にも、いくつか触れておきたい。まず、<アーサー王>。ここにもやはり、タイトル役のご本人は出てこない。王妃グィネヴィアも、魔術師マーリンも、湖のランスロットも、聖杯の騎士パーシヴァルも、誰も出てこない。かわりに妖精やら、神話の神さまやらが、お芝居の本筋とは関係のないやり取りを展開するのだ。ちなみにこの作品では、氷漬けになった神さまとキューピッドの対話を描く第3幕の音楽が、とりわけ面白い。いかにも、「ワ、タ、シ、こ、ご、えて、ますー」という感じがよく出ている。<インドの女王>は、私にはあまり面白い作品とは思えなかった。今はもう、一曲も思い出せない。<テンペスト>には、真偽問題があるようだ。つまり、これは本当にパーセルの作品なのかという疑義である。とりあえず、第4幕のドリンダのアリア「いとしい、素晴らしいお方」は間違いなく真作であろうと言われている。聴くと、「ああ、そうねえ」ぐらいには思うのだが、素人に結論を出せる問題ではない。他に、<予言者(=ダイオクリージアン物語)>という作品もあるようなのだが、これは残念ながら未聴なので詳細不明。
―という訳で次回は、もう乗りかけた船(?)なので、ヘンリー・パーセルが書いた唯一の“れっきとした”歌劇、あの名作<ディドーとエネアス>のお話に進んでみたいと思う。