クラシック音楽オデュッセイア

2009年の大病以来、月1回程度の更新ペース。クラシックに限らず、身の回りの事なども、気の向くままに書いております。

パーセルの<妖精の女王>

2006年07月28日 | 作品を語る
途中でいくつか寄り道をしたが、これまでの話は、「妖精の王オベロン」から出発したものだった。そこで今回は、そのオベロンのお妃をタイトルに据えた有名作品に目を向けてみたいと思う。イギリス・バロック期の巨匠ヘンリー・パーセルの大作<妖精の女王>(1692年)である。

これはパーセルが作曲したセミ・オペラ群の中でも飛びぬけて優れた、そして飛びぬけて大掛かりな作品である。CDにしてたっぷり2枚組、演奏時間の点でもかなり長大な作品で、勿論聴きどころも満載だ。以下、私がかつて聴いた2種類の全曲盤(アーノンクール盤とクリスティ盤)についての鑑賞メモを参照しながら、この大作の中身を順に見ていくことにしたい。

―セミ・オペラ<妖精の女王>の内容と、2種CDの聴き比べ

〔 第1幕 〕

ヘンデル風の力強い器楽曲がいくつか流れた後、男女の逃避行の歌、そして妖精たちにいじめられるヘッポコ詩人の歌が続く。

(※ここの伴奏は、クリスティ盤が秀逸。酔っ払ってヘロヘロする詩人の姿を、よろめくような弦の演奏で巧みに表現する。管楽器も表情豊か。一方、歌についてはアーノンクール盤のロベルト・ホルが、大胆にして闊達な名唱を披露している。)

〔 第2幕 〕

まず、テノール独唱による「鳥たちを呼ぶ歌」。その後、器楽による「プレリュード」を経て、複数の歌手によるアンサンブル、エコー、さらにソプラノ独唱と続き、最後は「夜」「神秘」「秘密」「眠り」という4人のキャラクターが、めいめいの持ち歌を歌う。そして合唱がそれを受けて、第2幕終了。

(※第2幕の「プレリュード」の部分は、鳥たちの鳴き声を表しているようだ。ただ、その表現手段が演奏家によって違ってくるのが興味深い。クリスティ盤では、木管楽器とリュートを使っている。木管はやはり、ストレートに鳥の声を連想させる。一方アーノンクールは、ここで弦楽器とチェンバロを使う。ちょうどヴィヴァルディの<四季>みたいな感覚で、鳥たちのさえずりを描いているのだ。二人の名指揮者はまるで違うやり方をしているのに、それぞれにしっかりと説得力があるのが面白い。)

(※続く声のアンサンブルは、クリスティ盤がすっきりして聴きやすい。アーノンクール盤は、ちょっと雑然とした感じ。逆にその後のエコーの効果は、アーノンクールが巧い。モンテヴェルディの歌劇<オルフェオ>の演奏でも使っていた手法で、いかにも音がこだましているという感じがよく出ている。続くソプラノ独唱「歌え、我らが草原で踊っている間に」も、演奏家による違いがはっきり出てくる。クリスティ盤のナンシー・アージェンタは、快速なテンポできびきびと歌う。一方、アーノンクール盤のバーバラ・ボニーはむしろゆったりと構え、オペラ・アリア風に聴かせる。)

(※第2幕の最後を締めくくる4人の歌と合唱でも、非常に対照的な演奏が聴けて面白い。クリスティ盤の方は、全体的に引き締まった声のフォルムを持つ歌手が揃っている。一方アーノンクール盤の方は、「夜」の前奏部分に顕著に現れている通り、ロマンティックなまでにしっとりした、何とも柔らかい表情が印象的。)

〔 第3幕 〕

ソプラノ独唱と、各種の舞曲、そして再びソプラノ独唱。干草作りの男女コリドンとモプサの歌、ニンフの歌、干草作りの人々の踊りと続いて、最後はアルトの独唱。

(※第3幕冒頭で聴かれるソプラノ独唱曲「愛が甘いものなら、何故こんなに苦しいの?もしつらいものなら、この満足は何なの」は、なかなかの名曲である。クリスティ盤は例によって、歌も管弦楽もすっきりと引き締まった演奏だ。歌っているのは、ヴェロニク・ジャンス。アーノンクール盤のバーバラ・ボニーも、速めのテンポでモダンなリート風の歌唱を聴かせるが、後に続く合唱はちょっと雑然としている。ここはクリスティ盤の方が、全体的にすっきりして美しい印象を与える。)

(※舞曲に続くソプラノ独唱「現れよ、空気の精」でも、異なった解釈が聴ける。クリスティ盤のリン・ドーソンはやはり、くっきりしたフォルムの歌唱を行なっている。アーノンクール盤のシルヴィア・マクネアは逆に、しっとりと優しい歌を披露する。私個人的には、ここではマクネアの方を高く買いたい。)

〔 第4幕 〕

ヘンデルの音楽を思わせるような、ドンドコ、パッパカと力強い「シンフォニア」で始まる。それから、「オベロン様の誕生日を祝おう」という従者の歌、二重唱と続き、春を告げる太陽フィーバス(=ポイボス)が登場。さらに合唱も加わる。その後、「春」「夏」「秋」「冬」の4人がそれぞれの持ち歌を歌い、再びヘンデル風のドンドコ、パーンが壮大に鳴り響く。

(※第4幕は、器楽部分がとにかく壮大だ。それが極めて強い印象を残すので、歌については今ほとんど思い出せない・・。いずれにしても、後続世代のヘンデルを思わせるこの男性的な器楽曲は、パーセル渾身の力作と言ってよいものだろう。)

〔 第5幕 〕

最後の第5幕は、リュートやチェンバロが中心的な楽器となって、第4幕とは全く様変わりした世界になる。「プレリュード」の後、続々と歌曲・舞曲が並ぶ。ユーノーの歌、嘆きの歌、中国人男女登場の踊り、シンフォニー、中国人男性、中国人女性、合唱、中国人男性、猿の踊り、中国人女性、もう一人の中国人女性、合唱、2人の中国人女性、合唱、プレリュード、婚姻の神、2人の中国人女性、婚姻の神、全員のアンサンブルと合唱、シャコンヌ、そして終曲の合唱。

(※ここでは何と言っても、二つ目に出て来るソプラノ独唱曲「嘆きの歌」が素晴らしい聴き物だ。これは、愛する男性に先立たれた女の深い悲しみを切々と歌ったもので、この<妖精の女王>全曲の中でもおそらく最高の名曲であろう。クリスティ盤のリン・ドーソンはスタイリッシュな名唱を聴かせてくれるが、いくぶん余情に乏しい嫌いがなくもない。一方のアーノンクール盤で歌っているのは、シルヴィア・マクネア。しんみりとした風情で、じっくりと歌っている。時には息も絶え絶え、といった表情まで見せる入魂の名唱だ。)

(※中国人男女の歌や合唱、そして終曲までの展開では、アーノンクール盤がとんでもなく大きなスケールの演奏を聴かせる。本当に、ヘンデル並みの壮大さだ。全体に表情の振幅が大きめで、グランド・マナーな印象を与えるアーノンクールの演奏だが、この終曲は特に凄い。一方のクリスティ盤は逆に、スケールが大きくなり過ぎないようにしてきりりと締めくくっている感じ。このクリスティ盤の全体的な印象を手短に言えば、「しなやかに引き締まって筋肉質なボディを持つ、水泳選手みたいな演奏」である。しかし、その凛とした佇まいが逆に抒情味の乏しさを感じさせる時もある、というところだろうか。)

―以上、御覧いただいた通り、これはタイトルこそ<妖精の女王>であっても、そのご本人である妖精の女王ティタニアは出てこないのであった。同じように夫のオベロンも、はたまた妖精パックも全く出てこない。これがオペラならぬセミ・オペラの姿、というわけである。本筋となる『真夏の夜の夢』のお芝居は、別のところで俳優さんたちが演じていて、パーセルが書いたのはその合間、合間に出て来る歌舞音曲の部分だったのだ。

さて、せっかくなのでこの際、<妖精の女王>と同じセミ・オペラに分類される他のパーセル作品にも、いくつか触れておきたい。まず、<アーサー王>。ここにもやはり、タイトル役のご本人は出てこない。王妃グィネヴィアも、魔術師マーリンも、湖のランスロットも、聖杯の騎士パーシヴァルも、誰も出てこない。かわりに妖精やら、神話の神さまやらが、お芝居の本筋とは関係のないやり取りを展開するのだ。ちなみにこの作品では、氷漬けになった神さまとキューピッドの対話を描く第3幕の音楽が、とりわけ面白い。いかにも、「ワ、タ、シ、こ、ご、えて、ますー」という感じがよく出ている。<インドの女王>は、私にはあまり面白い作品とは思えなかった。今はもう、一曲も思い出せない。<テンペスト>には、真偽問題があるようだ。つまり、これは本当にパーセルの作品なのかという疑義である。とりあえず、第4幕のドリンダのアリア「いとしい、素晴らしいお方」は間違いなく真作であろうと言われている。聴くと、「ああ、そうねえ」ぐらいには思うのだが、素人に結論を出せる問題ではない。他に、<予言者(=ダイオクリージアン物語)>という作品もあるようなのだが、これは残念ながら未聴なので詳細不明。

―という訳で次回は、もう乗りかけた船(?)なので、ヘンリー・パーセルが書いた唯一の“れっきとした”歌劇、あの名作<ディドーとエネアス>のお話に進んでみたいと思う。
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歌劇<オイリアンテ>(2)

2006年07月22日 | 作品を語る
前回の続きで、今回はウェーバーの歌劇<オイリアンテ>の残り部分。その第3幕の内容から。

〔 第3幕 〕

岩が切り立つ峡谷。アドラールが剣を抜き、オイリアンテをその手にかけようとしている。彼女は必死に無実を訴えるが、聞き入れてもらえない。その時、巨大なヘビが出現する。オイリアンテはアドラールを守ろうと、大蛇の前に飛び出す。アドラールはそのヘビと戦い、そして打ち倒す。「愛していただけないなら、いっそ殺して下さい」と言うオイリアンテに背を向けて、アドラールはそこを去って行く。やがて彼女は国王に発見され、それまでの経緯を話すことになる。「私がお墓の秘密をしゃべった相手は、エグランティーネです。リシアルトが指輪を手に入れたのは、エグランティーネの仕業なのです」。王は彼女の話を信じ、身の潔白を証明してやろうと約束する。

(※アドラールが去った後、一人残されたオイリアンテは悲しい思いを切々と歌い出す。ここでのサザーランドの歌唱にはあまり感心しないが、一応このオペラの聴かせどころの一つではあろう。そこへ通りかかった国王の一行に事情を話し、オイリアンテも元気を取り戻した様子。)

(※ここで国王を歌っているのは、クルト・ベーメ。さすが名歌手の名に恥じない、貫禄十分の声を聴かせる。ただ残念ながら、この王様に特別なアリアみたいなものはなく、また出番も少ないので、全曲中での存在感はそれほど大きなものではない。)

場面は変って、ネヴェールの庭園。リシアルトとエグランティーネの結婚式が行なわれることとなり、今その準備がなされているところ。黒い甲冑(かっちゅう)に身を包んだアドラールが、そこに入ってくる。鎧の面頬(めんほお)を下ろしているので、彼の顔は見えない。エグランティーネは内心まだアドラールのことを熱烈に想っており、リシアルトとの結婚には嫌悪を感じている。しかし同時に、オイリアンテを失墜させたことの快感はしっかりと味わっていた。

(※今回参照させてもらった英文サイトの短い解説によると、ここに黒い甲冑で登場するアドラールの姿は、<パルシファル>の終幕で見られる主人公パルシファルのモデルになっているものと考えられるそうだ。ワグナーとのつながりがここにも見られる、という訳である。)

アドラールが素顔を見せて、リシアルトに決闘を申し入れる。そして、お互いに剣を抜こうとした時、国王が登場。オイリアンテを信じようとしなかったアドラールを叱責する目的で、王は嘘をつく。「オイリアンテは、死んでしまったんだぞ」。それを聞いたエグランティーネは狂喜し、それまでの自分の謀略を得意になって暴露する。しかし、その話に怒り狂ったリシアルトが、彼女をその場で殺害する。続いてオイリアンテが現れ、愛するアドラールの腕に飛び込む。一方リシアルトは捕えられ、連行されていった。墓に眠るアドラールの姉(妹)にもようやく、本当に安らげる時が来た。彼女の指環が、無実の罪に泣いたオイリアンテの涙で濡らされたからである。(終)

(※音声だけでも場面の展開がよく伝わってくるのは、喜び勇んだエグランティーネの強烈な声による謀略暴露と、それに怒り狂うリシアルトの反応だ。やはりこのオペラ、悪役の二人が目立つ。そして終曲は、オイリアンテとアドラールを中心にした喜びの合唱。しかしこれ、それなりに力強い音楽になってはいるのだが、<魔弾の射手>で聴かれるあの素晴らしいエンディングには遠く及ばない。)

―以上見てきた通りだが、結局このオペラが埋もれることになったのは、何よりもその台本に原因があったと言えそうだ。多くの人々が、「いくらオペラだからって、ここまでお粗末では・・」と感じたのであろう。しかしここには、ワグナーを予見させる要素が複数確認できるという歴史的な意義がある。特に第2幕の「悪の二重唱」などは、結構な迫力があって聴き栄えがするものだ。どなたも是非ご一聴を、などとはとても言えないけれども、存在価値は十分に備わっている作品だと思う。

なお、今回材料にしたシュティードリー盤以外にも、<オイリアンテ>の全曲録音というのは現在いくつか存在するようである。HMVさんのネット通販サイトを先日検索してみたら、とりあえず5種類見つかった。日本のクラシック・ファンに名前がピンと来るものとしては、若い頃のジュリーニが指揮したフィレンツェ5月音楽祭の古いライヴ盤、ヴィントガッセンが出演しているライトナー盤、ジェシー・ノーマンやニコライ・ゲッダといったお馴染みの名歌手が揃ったヤノフスキ盤といったあたりが、代表的なところだろう。(※ところで同じテノールでも、ゲッダとヴィントガッセンでは随分声の質が違う。アドラールという役は、単なるリリコ・ドラマティコの範疇には収まらないワグナー的ヘルデン・テナーの原型になっていたのかも知れない。)その他にも、ツァリンガーという指揮者による古い録音もあるようだ。アドラールとオイリアンテの二人と思われる男女がジャケット写真になっているコルステン盤は、見たところ割と新しい録音のようである。これらの中のどれかに、独英の対訳ブックでもついたものがあればいいのだが、さてどうだろうか。

(PS) 「オベロン」の語源学

今回の締めくくりに、シリーズ開始のきっかけとなった「オベロン」という名の語源について、ちょっとした薀蓄話を一席ご披露させていただきたいと思う。

英語圏でよく見かける男性名の一つに、アルフレッド(Alfred)というのがある。前半のアルフは、自然界の神秘を司る妖精エルフ(elf)が変化したものらしい。そして後半のレッドは、もともとのアングロサクソン語ではroedと綴るもので、「指導者、王」を意味する言葉だそうである。だからアルフレッドという名前は、「妖精(エルフ)の王」ということになる。で、このアルフレッドに対応するドイツ語が、アルベリヒ(Alberich)だ。『ニーベルンゲンの歌』で活躍する小人族の勇敢な王の名で、ワグナーの作品でもすっかりお馴染みになっている名前である。このアルベリヒが、古フランス語でAuberiとなり、ノルマン人によってイングランドにもたらされてオーブリー(Aubrey)となった。そしてこのオーブリーが、シェイクスピアの戯曲『真夏の夜の夢』の中で、オベロン(Oberon)になったという訳である。(※直接的には、古フランス語のAuberonを元にしてOberonが作られたそうだが・・。)

―という訳で、以上をまとめてみると、アルフレッド=アルベリヒ=オーブリー=オベロンで、これらはすべて、「妖精の王」を意味する同じ名前なのであった。だから英語でオリジナル版が書かれたウェーバーの歌劇<オベロン>は、もしドイツ語にこだわったタイトル付けをされていたら、歌劇<アルベリヒ>になっていたかもしれない(?)のである。

【 参考文献 】

『ヨーロッパ人名語源事典』梅田修・著(大修館書店)
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歌劇<オイリアンテ>(1)

2006年07月14日 | 作品を語る
前回の<アブ・ハッサン>に続いてもう一つ、ウェーバーの歌劇をこの機会に採り上げてみることにしたい。あの<魔弾の射手>以上にワグナーを予見させるオペラ、<オイリアンテ>(1823年)である。しかしこれは、ほとんどのクラシック・ファンにとって、「序曲だけしか知らないオペラ」の典型例ではないかと思われる。かく言う私も、この作品の全曲CDを一組購入したのはつい昨年のことであった。フリッツ・シュティードリーという人の指揮による1955年のBBC・ライヴで、廉価のAndromedaレーベルから発売されたものだ。その安い値段からして当然のこととはいえ、そこには歌詞対訳はおろか解説等も一切付いていない。あるのは、トラック番号の振り分け一覧だけである。しかし幸い、このオペラのあらすじ紹介をしてくれている英語のサイトがネット上で見つかったので、それを読んでおおよその流れをつかみながら、全曲を聴くことが出来た。

以下、上記のCDを聴いた時のメモを材料にして、歌劇<オイリアンテ>の概要を追ってみたいと思う。今回はまず、そのうちの第1&2幕の内容について。なお、これはフランスが舞台になっているオペラではあるのだが、主人公の名前がドイツ語読みなので、他の登場人物についてもそれにあわせることにした。

―歌劇<オイリアンテ>のあらすじ

〔 第1幕 〕 国王ルートヴィッヒ(=ルイ)6世の宮殿。

序曲と開幕の合唱に続いて、アドラール伯爵(T)が国王(B)と少し言葉を交わす。それから彼は、自分の許婚であるオイリアンテ(S)の美しさと徳を讃える歌を歌い始める。「オイリアンテ、万歳!」という合唱がそれを受けた後、リシアルト伯爵(Bar)がやって来て、アドラールのことをせせら笑う。彼はさらに、オイリアンテを篭絡(ろうらく)してみせようかとアドラールを挑発する。どういう結果になるかを巡って、ついに二人はそれぞれの財産を賭けて争うことになった。

場面変って、アドラールの領地ネヴェール(Nevers)の宮殿。オイリアンテが、愛しいアドラールへの思慕を歌っている。そこへ、謀反人である父親を持つ悪女エグランティーネ(Ms)が登場。実はこのエグランティーネも内心、アドラールのことを想っている。アドラールの心をオイリアンテから引き離したい彼女は、巧みにオイリアンテに取り入ってその信頼を勝ち取る。そしてついに、アドラールとオイリアンテの間に隠されていた秘密の話を聞きだすことに成功する。オイリアンテはエグランティーネに、次のような打ち明け話をしてしまう。

{ アドラールの死んだお姉さん(または妹)は寂しいお墓の中に横たわっているんだけど、ある時、アドラールと私の前に姿を現したの。そして、「恋人が戦で殺されたので、私自身も指環に仕込んであった毒をあおって、自殺したのです」って言ったのよ。それから、「誰か無実の人が罪を着せられて、この指環を涙で濡らす時が来るまで、私の魂は安らぎを得ることがないのです」とも言ったわ。アドラールはこの出来事を“神聖なる義務”として、誰にも知られることがないようにと私に命じたの。 }

オイリアンテはこの秘密をエグランティーネにしゃべってしまったことを後悔するが、時すでに遅し。エグランティーネは、邪悪な笑みを浮かべる。やがて、オイリアンテを王宮まで案内するために、リシアルトがやって来る。

(※アドラールの声は、<魔弾の射手>に出て来るマックスに大体近い感じと言えるだろう。リリコ・ドラマティコのテノール。彼がリシアルトと賭けをすることになる場面でのやり取りは、このCDを聴く限りでは迫力がいま一つだが、もっと腕のよい指揮者がアップ・テンポで音楽を煽り立てれば、また印象が変ってきそうな気もする。)

(※ここで指揮をしているフリッツ・シュティードリーは、マーラーの助手を務めながら指揮法を学んだ人だそうで、私生活ではあのシェーンベルクの親友でもあったらしい。存命中はきっと、歴史の生き証人みたいな人だったのだろう。ドレスデンやベルリン市立歌劇場など、各地のオペラ・ハウスで経験を積み、1946年からはメトロポリタン歌劇場に移って、ドイツ・オペラを中心に担当する人になったそうだ。生まれたのは1883年で、他界したのは1968年。この<オイリアンテ>ライヴは最円熟期の録音ということになりそうだが、演奏を聴く限りで言えば、せいぜい中堅どころの指揮者だったのではないかという気がする。)

(※当CDでオイリアンテを歌っているのは、若き日のジョーン・サザーランドだ。意外に重い声なので、ちょっと驚く。調べてみたら、彼女はもともとドラマティック・ソプラノとしてキャリアを開始していて、オイリアンテのような比較的重い役を最初は歌っていたらしい。そして1954年に、彼女は指揮者のリチャード・ボニングと結婚した。以来ボイス・トレーナーを務めるようになった夫のボニング氏が、コロラトゥーラとしての素質を彼女の声に見出し、その方面への転身を促したのだそうである。それからトレーニングを重ねた彼女が華やかな転向を果たしたのは、1958~59年のことになるようだ。その意味では1955年のこの録音、一般にはあまり知られていないドラマティック・ソプラノ時代のサザーランドの声が聴けるという点で、ちょっと貴重な物かもしれない。ただし、ここでの彼女の歌は必ずしも名唱とは言い難いのが玉に瑕だが・・。)

〔 第2幕 〕

リシアルトは、オイリアンテを陥れようという企みをあきらめかけていた。するとエグランティーネが指輪を持って墓から現れ、オイリアンテから聞き出した秘密を彼に教える。一方、華やかな集会が行なわれている王宮では、序曲でお馴染みのメロディが出て来る幸福な歌をアドラールが歌い、オイリアンテとの二重唱がそれに続いているというところである。そこにリシアルトが現れ、自分は賭けに勝ったと宣言する。その証拠として彼は指輪を出して見せ、オイリアンテから秘密を教えてもらったのだと語る。オイリアンテは、そんなことはしていないと訴えたが、無駄であった。アドラールは自らの地位と財産を放棄すると宣言し、オイリアンテを引きずって森の中へと姿を消す。そこで彼はオイリアンテを殺してから、自らの命をも絶とうと考えている。   

(※歌劇<オイリアンテ>が最もワグナーを予見させる箇所は何と言っても、この第2幕である。まず前奏曲が劇的で暗い雰囲気を醸し出すのだが、その後間もなく聴かれるリシアルトの歌が凄い。歌詞対訳がないため、具体的な内容が分からなくて非常に残念だが、これはおそらくウェーバーがバリトン歌手のために書いた歌の中でも最も迫力に満ちたものであろう。当録音でリシアルトを歌っているオタカール・クラウスという歌手にはちょっと馴染みがないが、この歌を聴く限りで言えば、ドスの効いた声を使ってかなり良い雰囲気を出してくれている。続いてもう一人の悪役、エグランティーネが登場してからがまた凄い。二人の悪役による轟然たる二重唱は、ワグナーの<ローエングリン>に於けるテルラムントとオルトルートの二重唱の原型になっているものと言ってもよさそうだ。雰囲気がそっくりである。実際オペラ全体を見渡してみても、第2幕の前半部分が他のどこよりも圧倒的な感銘を与える箇所になっている。)

(※フランス語でいうeglantineは、「野に咲くバラの花」を意味する言葉なのだが、このオペラに出てくる野バラさんは何とも凄まじい女性である。シュティードリー盤で同役を歌っているのは、マリアンネ・シェッヒ。強靭な声を持った人だ。と言っても、これ以外で私がこの人の歌唱を聴いた例は、実は二つしかない。

一つは、カール・ベームの<エレクトラ>全曲・ドレスデン盤(G)でクリソテミスを歌ったもの。もう一つは、フランツ・コンヴィチュニーの指揮による<タンホイザー>全曲(EMI)でヴェーヌスを歌ったものである。前者は、驚異的な名演。そこではエレクトラを歌うボルクと母親役のマデイラがとにかく超人的なのだが、その二人に加えて、エレクトラの妹クリソテミスを歌ったシェッヒもまた素晴らしかった。凄すぎる二人に負けないほどの強い声を出しながら、なお且つ、「人並みの平和な暮らしを求める、穏健派の娘」という難しい役どころを絶妙に演じていた。一方のヴェーヌスは、逆に最低の代物。まず、コンヴィチュニーの指揮がひたすら安全運転に終始する凡庸なものであるため、せっかく揃った名歌手たちがちっとも燃え上がらない。フィッシャー=ディースカウのヴォルフラムがいつもながらの巧さを見せているのが目立つぐらいで、あとは皆さん、「そつなく、こなしました」というレベルで終わっている。その中にあっても、シェッヒのヴェーヌスは最低だった。役柄が把握出来ていなかったのか、録音時にたまたま調子が悪かったのかは不明だが、「いったい、どうしちゃったんですかあ?」と訊いてみたくなるぐらい、ひどかった。

そんな感じで両極端あった人のようなのだが、ここでは彼女の美点と欠点の両方が出ている感じである。美点は、声の威力。第2幕前半でのリシアルトとの二重唱は特に迫力満点で、エグランティーネという役はこの人のために書かれたんじゃないかと思わせてくれるほどだ。また、第1幕でオイリアンテから秘密を聞き出したあとに歌う邪悪な喜びの独唱など、ソプラノ並みの高音を力強く響かせる。一方、抑えた声でその性格を歌いだす部分では、表現に細やかさが欠けている。強い声の持ち主にありがちな現象だ。)

―さて、怒れるアドラールに引きずり出されたオイリアンテの運命やいかに?続く第3幕の内容については、次回・・。
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歌劇<アブ・ハッサン>

2006年07月09日 | 作品を語る
しばらくモーツァルト・オペラに没頭してきたが、ここで一旦、歌劇<オベロン>から始まったウェーバー関連の話に戻って、ちょっと補足しておきたい。

先頃語ったとおり、ウェーバーの歌劇<オベロン>の第1幕最後には、トルコの軍楽隊が行進していくという場面があった。ハイドン、モーツァルト、あるいはベートーヴェン等の作品にも例が見られるこの“トルコ音楽趣味”なるものは、ウェーバーの場合、若書きの短編歌劇<アブ・ハッサン>(1811年初演)に最もよく反映されているように思われる。今回は、その<アブ・ハッサン>のご紹介。これは演奏時間にして約50分そこそこの短い作品で、中身もまた、非常にお気楽なコメディである。

―歌劇<アブ・ハッサン>のあらすじ

所はバグダッド。トルコ音楽の雰囲気を取り入れた短い序曲に続いて、金遣いが荒いため金欠状態に陥っている男アブ・ハッサン(T)と、彼の愛妻ファティメ(S)の楽しいやり取りが始まる。「ワインを飲みたいよー」「あら、お水がほしいのね」「違うよ、ワインだってば」「ダーメ。マホメット様がお禁じになっているんだから。じゃ、お水ね」「頼むよー、ワイン」「何か歌ってあげようか」。(※この「ワインの二重唱」で早速、序曲でも提示されていた弦楽器によるトルコ風のテーマが聴かれる。)

多額の借金でどうにも首が回らなくなっているハッサンだが、彼に突然名案がひらめく。「そうだ、僕ら死ねばいいんだ」。びっくりする妻に、ハッサンは説明を始める。「まず先に、僕が死んだことにする。で、君は太守のお妃様のところへ行って、お葬式代をもらってくるんだ。それから次は、君が死んだことにする。今度は僕が、太守様のところへ行って、君のためのお葬式代をもらってくる。そのお金で、借金を払うって計画さ」。それを聞いたファティメは、「そのアイデア、素敵ねー」と、すっかり乗り気。この夫にして、この妻あり。そしてファティメがいそいそとお妃のところへ出掛けていくと、ハッサンは、「早速、お祝いのパーティをやろう」と上機嫌なアリアを歌い出す。

そこへ金持ちオマール(B)と、大勢の借金取りたちがハッサンの家にやって来て返済を迫る。実はこのオマールという男、いつか美人のファティメを我が物にしてやろうと虎視眈々。この男の下心を妻から聞かされていたハッサンは、それを巧みに利用し、「ファティメのためなら、お前の借金を俺が肩代わりして全部払ってやってもいいぞ」という言葉をオマールから引き出す。他の借金取りたちはお金を回収出来ることになるので喜び、オマールもまた、この借金証文を盾にして後でファティメに迫れるぞと考え、一同満足した様子で帰って行く。

やがてファティメが、お妃からいただいた「ハッサンのお葬式代」を持って帰宅する。そして愛を確かめ合う二人の、喜びの二重唱。(※このデュエット曲は小規模ながら、注目に値する佳曲である。前半部のロマンティックな雰囲気、そして後半部に入ってから出て来る弦の伴奏型など、もう堂々たるウェーバー節だ。)

続いて今度はハッサンが、太守様から「亡き妻のためのお葬式代」をいただくために出掛けていく。チェロ独奏のオブリガートを伴うアリアでファティメが夫への愛を歌っているところへ、オマールが出現。彼は借金の証文を盾にしてファティメに迫り、ついに彼女の唇を奪う。そこへ、首尾よくお金をいただいてきた夫のハッサンが帰宅。オマールは真っ青になって、戸棚に隠れる。

やがて、太守の召使メスルールがハッサンの家を訪ねてくる。「太守様は、ファティメさんが死んだとおっしゃる。しかし奥様は、死んだのはハッサンの方ですとおっしゃる。そこで太守様ご夫婦のお言いつけで、私が確かめにまいりました」。そこでファティメが死んだふりをして寝そべり、ハッサンが彼に対応することで、二人は急場をしのいだ。メスルールが去って二人がホッとしていると、今度はお妃の侍女ツェームルートがやって来た。「お妃様が納得いかないとのことで、私が確かめにまいりました」。今度は、死んだふりをしているハッサンの前でファティメがヨヨと泣いて見せ、ツェームルートを納得させる。しかしその後、さすがのファティメも、「こんな事をしていて、最後はどうなっちゃうのかしら」と不安になってくる。

すると賑々しいトルコ風の行進が響き、ついに太守自身が家来たちを連れてハッサンの家にやって来た。ハッサンもファティメも、今度は二人とも揃って死んだふりをする。横たわっている二人を見て、太守が言う。「アブ・ハッサンとファティメ、どちらが死んだのかと妻と賭けまでしたが、こうして二人とも死んでいるのを見ると分からん。一体どっちが先に死んだのだ?それが説明できる者に、金貨1000枚を与えよう」。するとハッサンがガバッと起き上がり、「私が先です!ですので、金貨をいただきとう存じます」と叫ぶ。唖然とする太守に、ハッサンは続ける。「太守様のお慈悲で、生き返ることが出来ました」。続いてファティメも起き上がり、「私も生きています。ごめんなさい」と謝る。それからハッサンは、「苦しまぎれにやったことなのです。こんなたくさんの債権を盾にして、ある金持ちが私の妻に迫ってきたので、仕方なく・・」と、太守に釈明する。

太守は先の言葉通り、金貨1000枚をアブ・ハッサンに与えることにし、債権を盾にしてファティメに不倫を迫ったオマールへの処罰をほのめかす。そして、相変わらず戸棚の中で青ざめている哀れな金持ちをよそに、「太守様が訪れたこの家に祝福あれ」という全員の賑やかな合唱で、全曲の終了となる。(※この終曲は、序曲の冒頭で聴かれたトルコ風のテーマに乗った非常に景気の良い合唱曲である。モーツァルトの<後宮からの逃走>の最後を締めくくるあのゴキゲンな大合唱を、うんと小さくしたミニアチュア版という感じ。しかし大変残念なことに、この終曲の合唱は、演奏時間にしてたったの40秒!全曲でも50分そこそこの小さなオペラだから仕方ないのかも知れないが、これはもう少し長い曲に書いてほしかった。)

―以上が、歌劇<アブ・ハッサン>のストーリーである。「いいのか?こんな話で」とちょっと思わなくもないが、まあ、いいことにしよう(笑)。さて、私が聴いたこのオペラの全曲盤は、ハインツ・レグナーの指揮によるDENON盤(1971年録音)だった。演奏は、ドレスデン国立歌劇場のオーケストラと合唱団。アブ・ハッサン役のペーター・シュライアーと、金持ちオマール役のテオ・アダムは日本でもすっかりお馴染みの名前である。ファティメ役のI・ハルシュタインという人は、ちょっと分からないが・・。なお、セリフの部分は、それぞれ専門の俳優たちが担当していた。歌手陣の中では、とりわけシュライアーが好演だった。そして全体を統率するレグナーの指揮も、生き生きしていてとても良かった。アダムはいつもの通り、端正な歌いぶりを披露していたが、オマールという役のキャラからすれば、もう少しスケベったらしい表情を出してくれてもよかったんじゃないかなと思う。ファティメ役のハルシュタインは、演技のノリや重唱の合わせは良かったものの、ソロの曲はかなりつらかった。

―次回また、ウェーバーの歌劇をもう一つ。
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<コジ・ファン・トゥッテ>~クイケン

2006年07月04日 | 演奏(家)を語る
歌劇<コジ・ファン・トゥッテ>の聴き比べ・最終回。今回は古楽器派のメンバーによる新しいスタイルの名演奏を一つ、採り上げてみたい。番号は最初からの通しで、6番となる。

6.ジギスバルト・クイケン指揮ラ・プティット・バンド、他(アクサン、ブリリアント)~1990年

クイケン盤はまず、女性歌手陣が素晴らしい。特にフィオルディリージ役のソイレ・イソコスキ、そしてドラベッラ役のモニカ・グロープ、この二人が最高である。よくコントロールされた声の優しい美しさ、言葉を細やかに歌いだす精妙な歌唱。彼女たちの前にあっては、例えばベームのEMI盤で歌っていたシュワルツコップ&ルートヴィッヒの歴史的名コンビでさえ、まるで厚化粧のオバサンたちに感じられてしまうほどである。さらに、このクイケン盤の姉妹は、二人が全くと言っていいぐらい同じ水準に並んでいて、いわゆる凸凹がない。先頃語った通り、ベームの’74年ザルツブルク・ライヴでは姉がリードしているような感があったし、ムーティ盤では逆に、妹の方に存在感があった。(※勿論それらは、それなりに味のあるものだったが。)それがクイケン盤では、見事に二人が揃っているのである。アンサンブル志向が非常に強いこのオペラの場合、二人の姉妹にこのような均質感があることは大きなアドヴァンテージ・ポイントになる。そう言えば、前回扱ったフォンク盤に出演していた姉妹役の二人も、揃ったアンサンブルという点では非常に良かった。しかし、個々に歌うアリアを比べてみると、イソコスキ&グロープのコンビの方がさらに優れた歌唱を聴かせてくれるのである。

この二人の歌はどれも素晴らしいものだが、ここではその一例として、フィオルディリージ役のイソコスキが歌う第14曲のアリア「岩のように動かない」にちょっと注目してみたい。往年のシュワルツコップなどと比べると、彼女の歌は毅然としてはいながらも、同時にまたかなり細やかで優しい性格を備えたものになっている。「岩にしちゃ随分、柔らかくありませんか?」みたいな感じなのだ。しかし、当アリアについて一つ、ここで是非とも確認しておきたいポイントがある。この有名な歌の中にある一節 Cosi ognor quest’alma e forte(=この心はいつだって、こんなに強いのよ)に付けられた音楽は、<戴冠式ミサ K.317>の第1曲「キリエ・エレイソン(=主よ、あわれみたまえ)」の音楽であり、さらにその終曲「アニュス・デイ(=神の子羊)」の中でソプラノ独唱が歌い出す Dona nobis pacem (=我らに平和を与えたまえ)の音楽でもあるということだ。

一見気丈に振舞って見せるフィオルディリージだが、実はこの時既に心の動揺が始まっていると解釈することも十分可能なのである。音程が大きく上下する彼女のコロラトゥーラは、激しく揺れ始めた心を表しているものとも受け取れるのだ。そうして考えてみると、シュワルツコップが示したような“岩”そのもののような堂々たる力唱、あるいは、それにもう一花添えたようなヤノヴィッツの名唱もそれぞれに見事なものではあったのだが、だからと言ってそれらが、このアリアの絶対的な回答とまでは言い切れないのである。イソコスキがここで聴かせる柔らかい表現には、強い態度に隠された女心の裏の部分、即ち、主に憐れみを求め、安らぎを希求する祈りの部分が、巧まずして歌い出されているとは言えないだろうか。

女性陣のもう一人、ナンシー・アージェンタが歌うデスピーナも、これまた名唱。歌の完成度について言えば、これまでに数多く記録されたデスピーナ歌唱の中でも、おそらくトップ・レベルの出来栄えと絶賛してよいものだろう。ただし、注釈も必要だと思う。彼女のデスピーナは、「ちょっと世間ずれした、軽いノリの小娘」などではなく、知的な雰囲気を強く漂わせる大人の女性になっているのだ。インチキ医者やニセ公証人のお芝居ではちょっと物足りなさを感じさせる部分もあるが、この人のデスピーナもまた立派な正解と言うべきであろう。世間知らずで無邪気な姉妹とは対照的に、デスピーナには人生経験と、それに裏打ちされた世知がある。声質的にはスーブレット系の軽いソプラノだが、人物的に見れば、彼女は二人の姉妹よりもずっと大人の女性なのである。

一方の男性陣だが、フェランド役のマルクス・シェーファーとグリエルモ役のペール・フォレスタットの二人は、やや物足りない。前回のフォンク盤と同じ状況で、基本的に声の魅力に欠けるのだ。あのベームの’74年盤に出演していたシュライアーとプライみたいな名コンビはおそらく、もう二度と出て来ないだろう。しかし、この二人、アンサンブル技術はハイ・レベル。素晴らしい名唱を聴かせる三人の女性陣に伍して、全体のバランスをしっかり取るだけの仕事は出来ている。当盤の男性二人については、そこを評価するべきだろう。

クイケン盤に登場している男性陣の中では、実はドン・アルフォンゾが面白い。と言っても、ここで歌っているユウブ・クレイサンスという歌手は声がやたら若々しくて、とても初老の哲学者といった風には聞こえない。だから、開幕直後のやり取りなど、3人の若者たちの会話みたいに感じられてしまう。やや、これはミス・キャストか?と、実は最初ちょっとがっかりした。しかし、その後、彼とデスピーナとのやり取りが始まった時、私は「あっ」と思ったのである。小才の利いた女性を相手にしてのこの誘惑的(?)なセリフ回し、どこかで聞いたことがある・・。

ドン・ジョヴァンニだ!このクレイサンスという人の声はちょうど、「ドン・ジョヴァンニを得意役にしていたチェーザレ・シエピの声からアクを抜き、耳あたりの良いものに加工してみたら、こんなのが出来上がりました」みたいな感じなのである。だから彼とデスピーナの対話はまるで、ドン・ジョヴァンニとツェルリーナのそれみたいに聞こえてくるのだ。実際、この人のドン・アルフォンゾは(こちらの思い過ごしかも知れないが)、青年たちや姉妹たちを相手にしている時は何でもないのだが、デスピーナと絡む時には妙な“色っぽさ”を漂わせるのである。思わず、「この二人って、過去に親密な関係があったんじゃないか?」なんて、ちょっと勘ぐってみたくなったほどである。

こんな“発見”をしてからはもう、ドン・アルフォンゾが出て来る場面が待ち遠しくて仕方ないという気持ちになってしまった。これは楽しい体験だった。そうか、この「恋人たちの学校」の先生というのは、一介の老哲学者などではなく、実はあのドン・ジョヴァンニだったのだ。むむむ、なんという説得力!男女の心の機微を扱う恋のゲームで、彼がただ一人の勝利者になったのは、その実力から言って当然の結果だったのである。―とまあ、これは単なる与太話に過ぎないが、そんなことをふと考えさせてくれるこのような演奏は、聴いていて実に楽しい。(※世評高きベームのEMI盤には、こういう楽しさがない。)

クイケンの指揮についても、いくつか書いておくべきだろう。彼が作り出すテンポやリズムは総じて軽やかだが、ピリオド派にありがちな先鋭な雰囲気というのはここにはあまりなく、むしろ柔軟さの方が印象に残るような演奏になっている。同じ古楽器派でも、ガーディナーなどとは随分違ったタイプと言えそうだ。また、EMI盤で聴かれるベームの音が、あたかも体操選手の筋肉みたいな引き締まったしなやかさを持つものだったのに対し、クイケン盤で聴かれる音には、もっと肩の力が抜けた柔らかいしなやかさが感じられる。だから、この演奏、聴いていて疲れない。歌手たちの美声に酔いながら、心地良く全曲を聴きとおすことが出来る。それと、レチタティーヴォの部分で合いの手を入れるチェンバロが非常に雄弁であることも、さすが古楽器派の面目躍如というところであろう。この演奏ではさらに、チェンバロに合わせて弦楽器(※ヴィオラ・ダ・ガンバかな?)も一緒に鳴っているのがはっきりと聞き取れる。

CDの音質も、まあまあ良好。さらに値段の安さも考え合わせると、クイケン盤はかなりのお買い得品であると言えそうだ。

―これで、歌劇<コジ・ファン・トゥッテ>の聴き比べは終了。次回は、これまでちょっと保留にしてあったウェーバーの作品を、正式に採り上げてみたい。
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