クラシック音楽オデュッセイア

2009年の大病以来、月1回程度の更新ペース。クラシックに限らず、身の回りの事なども、気の向くままに書いております。

プーランクの三大歌劇

2005年10月30日 | 作品を語る
<エディプス王>の締めくくりとして、前回の最後に予言者ティレシアス誕生のエピソードを書いたが、実はこの人物の名を冠した有名なオペラ作品がある。フランシス・プーランクがギヨーム・アポリネールの原作をもとにして書いた歌劇<ティレジアスの乳房>である。今回はまず、このオペラの話から。

男の言いなりの人生を送る女なんてイヤ、と男女同権宣言をした女性テレーズの顔に、ヒゲが生えてくる。やがて、おっぱいもぷぅーっとふくらんで風船になり、どこかへ飛んでいく。そして彼女は、男のティレジアスに変身!・・と、この出だしからしてもう奇想天外なお話なのだが、その先の展開がまたとってもシュール。彼女は世間に出てメキメキと頭角を現し、人々から「大統領!」なんてお声が掛かるぐらいの人物になっていく。一方、テレーズの亭主の方は逆に女の姿になって、魚のタラみたいにいっぺんに何万という数の子供を産んだといって喜ぶ。その亭主のもとへ、人間の数が増え過ぎて食料が足りないと憲兵が文句を言いに来る。そこへ占い師が、「子供は宝ですよ」と回答する。が、その占い師は、テレーズの変装。彼女は元通りの女に戻って、夫と抱き合いハッピー・エンド。オペラの最後を締めくくるメッセージは、「皆さん、子供を作りましょう」。・・・音楽がまたいかにもプーランクらしい軽妙なもので、風刺と諧謔味に満ちたコメディ・オペラに仕上がっている。私個人的にはそれほど思い入れのある作品ではないが、プーランクの人気作の一つであることは間違いない。(※オペラ・タイトルがティレジアスになっている由来は、前回のお話からご理解いただけることと思う。ギリシャ神話のティレシアスは男→女→男と変身を遂げた人物だが、プーランク・オペラでは女性の主人公テレーズが女→男→女と逆順に変身する。)

私はCDが普及し始めた初期に、クリュイタンスの指揮による全曲盤(EMI)でまずこの作品に触れたが、それからだいぶ年月が経ってから、小澤征爾が松本音楽祭で採り上げた際(1996年)に、BSでライヴ映像を視聴した。改めて語ることがあるかもしれないが、小澤が1990年代にタクトをとった《サイトウキネン・フェスティヴァル松本》というイヴェントは、何よりもまず、その採り上げるオペラ作品の目の付け所が非常に良かった。演奏内容もそれぞれ水準に達したものばかりで、必ずしも小澤という指揮者を好いていない私でも、この松本での業績は高く買っているし、また感謝もしているのである。

さて、同じ作曲家の手になるものとはにわかに信じ難いような衝撃的な歌劇が、<カルメル派修道女の対話>である。題名の通り、とある修道院を舞台に、そこに生きる修道女たちの日常と信仰をめぐる対話が、仄暗い明かりの中で延々と展開される。これも、私は小澤征爾指揮による松本音楽祭のライヴ映像(1998年)をNHK-BSで視聴して、その内容を初めて知ったのだった。

この歌劇について本で読んだ知識の受け売りをちょっとだけ書かせていただくと、これはドイツの女流作家ゲルトルート・フォン・ルフォールの小説『断頭台の最後の女』を原作としているもので、フランス革命さなかの恐怖政治の時代に、宗教弾圧に抗議して殉教を決意し、自ら進んで断頭台に向かった修道女たちの実話がもとになっているものらしい。宗教とは何か、また社会との関係はどういうものなのか、といった問題に正面切って向かい合った作品として、シェーンベルクの<モーゼとアロン>に並ぶ重要作品と位置づけられているのだそうである。これをプーランクの最高傑作と絶賛する音楽評論家の文章を目にしたこともある。

ただ実を言うと、小澤の松本ライヴを観るまでこの作品について何も知らなかった私は、当時その映像を視聴しながら内心、「何だか、くどくどとかったるいオペラだなあ」なんて、前半部分では些かくたびれ気分になってしまったのだった。しかし、話が進むにつれてだんだん様子がおかしくなってきて、緊迫の度合いを増してくるのはよくわかった。修道女たちが異端として次々と処刑されてしまう、そのラスト・シーンの恐ろしかったこと!順番に断頭台に向かう彼女たちのシルエットが舞台背景に浮かび、ヒューッ、ガシャン! ヒューッ、ガシャン! ヒューッ、ガシャン!と、単調かつ冷酷に刻まれる刃の音が劇場内に延々と響き続けたのだ。いろいろな名作・駄作に触れてきた私だが、最後にこんな強烈な衝撃を受けた作品も珍しい。

全曲録音は、LP時代からのピエール・デルヴォー盤(EMI)、CD時代になってからの小澤征爾盤、そしてケント・ナガノ盤と、少なくとも現在3種類はあるようだ。「各登場人物の性格や役割がわかってくれば、もっと深い感銘を得られるだろう」と、自分なりに思うところがある。これはまた、いつかもう一度聴きなおして(あるいは、視聴しなおして)みたい作品である。

最後は、モノドラマ<声>。これでプーランクの三大歌劇が出揃うことになる。一人の女性だけが登場して演じるモノドラマと言えば、激しい音響の中で一人の女の異様な精神状態が描かれるシェーンベルクの<期待>という先例があるが、プーランク作品はもっと洗練された新古典主義的な響きで、心理の襞に分け入っていく音楽になっている。台本は先頃語ったストラヴィンスキーの<エディプス王>と同じく、詩人ジャン・コクトーが書いたものである。

睡眠薬での自殺が未遂に終わった一人の女性が、ベッド・ルームで電話をしている。相手は、別れた男。その男は明日新妻と新婚旅行に出かける、という状況のようだ。どんな事情で二人が別れたか、みたいな事は一切語られない。ひたすら(約40分間)、この女性が一人、たびたび他の回線と混線したり切れたりしてしまう当時のお粗末な電話を通じて、様々な思いを語り続ける心理ドラマである。終曲に近づく頃彼女は、「あなたの声を、全身で受け止めたいの」と、受話器のコードを自分の首に巻きつけたりもする。彼女が相手の男にねだる最後の頼みが、哀れを誘う。「そこへハネムーンで行っても、昔私と泊まったあのホテルの部屋にはしないでね」なんて言うのだ。相手がそれを了解したらしいことで、彼女は最後に安堵の表情を浮かべる。男への断ち切れぬ想いをつぶやき続ける彼女だが、ラスト、受話器が床にゴトンと落ちて幕が下りる。

この作品については、かつてジョルジュ・プレートルの指揮によるLP(EMI)を聴いた。主演は往年の名ソプラノ歌手ドゥニーズ・デュヴァル。作曲家プーランクが惚れ込んでいた人だったそうで、この録音でも入魂の歌唱を聴かせてくれる。楽器の使い方としては、電話のベルをシロフォンで表現しているところが面白い。(※参考までに、電話を主要モチーフにしたメノッティ作曲によるコメディ<電話>では、そのまんま電話のベル音が使われる。ちなみに、メノッティ作品には恋人同士の男女が登場し、伴奏楽器としてはピアノが活躍する。)

そう言えば昨年になるか、ジェシー・ノーマンがシェーンベルクの<期待>と、このプーランクの<声>を二本立てで演じたライヴ映像がNHK教育TVで紹介された。大きな口をあけて汗だくになって歌うノーマンには、何だか違う意味での怖さがあったが(笑)、まあともかく、熱唱だった。ただ残念ながら、オーケストラは凡庸そのもの。指揮者がそもそも二流。これら二つの作品にはもっと緊迫感が必要だし、音像にももっとシャープな切れ味がほしい。とにかく音が“なまくら”なのだ。ノーマンの熱演が印象的だっただけに、何とも残念なオーケストラ演奏であった。

以上、プーランクの三大歌劇。聴く側の好悪は別として、すべて傑作と呼べるものばかり。彼はドビュッシーの<ペレアスとメリザンド>以後のフランス・オペラの作品史に、大きな財産を加えてくれたのだった。人気作である<シンフォニエッタ>やバレエ<牝鹿>などの印象から、ともすると「軽妙な音楽ばかり書いていた人」といった誤解もされかねないプーランクだが、深刻な雰囲気に満ちた宗教曲も相当数書かれている。少なくともオペラを聴く者にとってはこのパリの才人、ちょっとただ者ではないのである。
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<エディプス王>の聴き比べ(2)

2005年10月27日 | 演奏(家)を語る
今回は、前回の枠に入りきらなかった小澤征爾&サイトウキネンによる<エディプス王>の感想文から。通し番号で、これは4番となる。

4.小澤征爾指揮サイトウキネン・オーケストラ、他 (1992年) 【フィリップス盤】

今回は録音年代順に<エディプス王>のCDを並べてきたので、最後に登場することになってしまったが、実は私が当作品の全曲に初めてちゃんと付き合ったのは、この小澤征爾の指揮によるサイトウキネン・フェスティヴァル松本(1992年)でのライヴ映像を視聴した時だった。その時のメンバーは当CDのそれとほぼ同じ顔ぶれだったが、エディプス役の歌手が違う。松本のステージ・ライヴではフィリップ・ラングリッジが演じていたのだが、CDではペーター・シュライアーに交代している。

名歌手シュライアーはオペラ=オラトリオという特殊な音楽の様式に正面から取り組み、さすがと思わせる老練の歌唱を聴かせてくれる。しかし如何せん、もう声がない。舞台で歌ったラングリッジも決して悪くはなかったので、そのままのキャスティングで録音してもよかったのではないかと思われるのだが、さてどんな事情があったのか。イオカステ役は、前回語ったコリン・デイヴィス盤でも歌っていたジェシー・ノーマン。デイヴィス盤での歌唱よりもさらに円熟味が加わって堂に入ったものになっており、深みも獲得している。これまた、さすがである。クレオンを歌うブリン・ターフェルは、持てる声の威力を活かして力強く歌っている。誰が歌っても歌いにくそうなクレオンの独唱だが、「オレは、声の威力で吹き飛ばしちまったぜい」みたいな豪快さが心地良い。

この演奏の特徴は、指揮者やオーケストラをはじめとして日本人メンバーが多く活躍していることだ。指揮の小澤はややゆっくり目のテンポで始めて、特有の熱気と力感を示す演奏を行なっている。コーラスについては、「優秀な日本人メンバーによる、優秀なコーラス」という一言に尽きる。それ以上でも、それ以下でもない。語り手も日本人の白石加代子氏で、ここではコクトーの台本を日本語訳したものを使っている。そのおかげで、日本人の聴き手にとっては話が分かりやすくなっていて良いのだが、氏の大仰な語り口には違和感を持つ人が結構多いんじゃないかという気がする。賛否が分かれること必至のナレーションだ。

ところで、当小澤盤の演奏ではティンパニがかなり強烈な印象を与えるのだが、この上演のためにわざわざボストン交響楽団の首席奏者であるエヴァレット・ファース氏を招いたものらしい。それが見事に当たって、ここでは途轍もなく雄弁なティンパニの妙技を聴くことが出来る。またトラック分けについても、このCDはとても丁寧でよろしい。なお、今回は詳述する余裕がないが、松本でのステージ演出はかなり良かった。「人物達が彫像のような姿で舞台に登場し、極めて少ない動きで演じることを望む」という作曲者ストラヴィンスキーの意思をよく汲んだ上で、各種の振り付けに多重の意味を持たせることに成功していた。小澤盤は映像で視聴した方が、さらに良いかも知れない。

(PS1) ストラヴィンスキー以外の作曲家による<エディプス王>

先日ちょっと本で調べてみたら、エディプス王をテーマにしたクラシック作品はストラヴィンスキーのオペラ=オラトリオ<エディプス王>(1927年)以外にも、何人かの作曲家によって書かれてきているようだ。前回軽く言及したカール・オルフもその一人で、この人の場合は<僭王エディプス>(1959年)だけでなく、娘のアンティゴネをタイトル役に据えた作品(1949年)まである。意外だったのは、歌劇<道化師>がとりわけ有名なレオンカヴァッロの遺作が、1920年にシカゴで初演された<エディポ王>だったこと。それからルーマニアのエネスコが書いたもの(1936年)、さらに現代音楽に分類されるジャンルでは、ヴォルフガング・リームの作品(1987年)といったものもあるらしい。いずれも20世紀に入ってから書かれた作品ばかりである。エディプス王の物語は内容が内容だけに、オペラ史の割と初期にメローとかいう作曲家(誰だろう?)が書いた<エディプとジョカスト>(1791年)というのをほとんど唯一の例外として、その後はずっとオペラ作家たちからソッポを向かれていたようだ。

(PS2) ギリシャ神話のティレシアスについて

エディプス王の物語と切っても切れない関係にある予言者ティレシアスだが、この人は産まれつき盲目だったわけではなく、また予言者だったわけでもない。<エディプス王>の締めくくりとして、ギリシャ神話に見られる予言者ティレシアス誕生の物語を最後にご紹介しておこうと思う。実はこれ、結構苦笑させられてしまうお話なのだ。

{ 大神ゼウスとその妻ヘラが、酒の席で議論となった。「性行為の際の快楽は、男と女ではどっちがより大きいか」。

「そりゃ、女の方だろう」とゼウスが自信ありげに言うと、ヘラは、「そんな事ありませんよ」と否定する。両者お互いに譲らず、議論は平行線。そこで、ティレシアスが呼ばれることとなった。この人は、山の中で交尾しているヘビを棒で叩いたら女に変身してしまったという不思議な体験を持っていた。それから9年間女として生きて、再びそのヘビと山で出会って、また棒で打ったら今度は男に戻ったという人物である。両性の感覚を知る彼は、ゼウスとヘラの質問に即座に答えた。「性行為の快楽を仮に10とすれば、男の楽しみが1、女が9。圧倒的に、女の方がシアワセですな」。

自分の意見を否定されたヘラは激怒し、ティレシアスの両目をつぶしてしまった。「そりゃ、あんまりだろう」とゼウスは、失われた視力のかわりに未来を予知する能力を彼に授けたのだった。 }

こんなとんでもない経緯で盲目の予言者ティレシアスは誕生したのだが、さすがに大神ゼウスからの授かり物らしくその能力は抜群で、彼は当ブログでもかつてトピックにしたことのあるカッサンドラ(※2005年1月26日の記事)と並ぶギリシャ神話最高の予言者になっている。
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<エディプス王>の聴き比べ(1)

2005年10月23日 | 演奏(家)を語る
ストラヴィンスキー新古典主義時代の傑作であるオペラ=オラトリオ<エディプス王>には、現在相当数の全曲録音が存在する。LP時代には作曲者の自作自演盤やバーンスタインの若い頃の録音等、ほんの少ししか無かったのだが、CD時代になってから結構数が出揃うようになってきたようだ。私が聴いたのはそのうちの僅か4種に過ぎないのだが、今回から2回に分けて、その4つの全曲盤についての感想文を書いてみたいと思う。

1.コリン・デイヴィス指揮バイエルン放送交響楽団、他 (1983年) 【Orfeo盤】

まず、ナレーターをつとめる俳優ミシェル・ピッコリの語りが非常に雄弁だ。声にも迫力があって、さすがフランスの名優という感じ。歌手陣も総じて優秀である。エディプス役のトマス・モーザーは端正な歌唱を示し、聴く者に凛然とした王の姿を想像させる。イオカステ役はジェシー・ノーマンで、これは彼女の当たり役と言ってよいものだ。ここでも豊かな響きの中に太い芯を持った声で、堂々と歌っている。脇役の中では、盲目の予言者ティレシアスを歌うローラント・ブラハトに好感が持てた。あまり聞かない名前の人だが、ここでの歌唱は賞賛に値する。ぐっと声を抑えて沈黙を守ろうとする歌い出しから、エディプスにあらぬ嫌疑をかけられて、「じゃあ、言いましょう」と真実を語り出し、ついに「犯人はエディプス王、あなたなのだ」と力を込めて伝えるまでの展開を、この歌手は非常に巧く表現している。

デイヴィスの指揮はいかにもこの人らしい実直真摯なもので、曲にがっしりとした造型を与えている。イオカステの死が伝えられる場面から終曲までにかけて一段と力強く盛り上げていく設計も見事だ。それとオーケストラと合唱の響きに独特の暗さがあるのも良い。「エディプス王の暗い運命のドラマ」という側面が巧まずして表現されている。これは大変優秀な演奏と言えるだろう。(※デイヴィスにはロイヤル・フィルとの録音もあるらしいのだが、そちらは未聴なので何とも言えない。)

ただ、CDとしての不満を言えば、第1幕でトラック番号が一つ、第2幕でやはり番号一つ、というだけなので、途中の歌をピック・アップして聴きたいと思ってもそれが出来ない。これは不便だ。それをしたければ、自分でMDにでも録って番号の振り分けをしなければならない。また録音の音圧も低めなので、この名演を堪能するためには、アンプのボリュームをいつもより大きめにして聴く必要がある。

2.エサ=ペッカ・サロネン指揮スウェーデン放送交響楽団、他 (1991年7月) 【ソニー盤】

このCDではまず、合唱団の響きが印象的。知る人ぞ知る、かも知れないが、あのエリック・エリクソンが率いる男声合唱団である。過去のCDでは例えば、ムーティ&BPOによるモーツァルトの<レクイエム>でコーラス・パートを受け持っていたのがこのエリクソンだった。ご記憶の方もおられるのではないだろうか。それは指揮者ムーティの棒に発する仄暗い熱気と、エリクソン・コーラスのどこかクールな響きが混ざって、何だか不思議な感興を呼び起こすものになっていた。あるいは、NHK-BSで紹介されたこともあるバッハの<クリスマス・オラトリオ>。これまた、エリクソン・ワールドという感じだった。これらの演奏で聴かれるエリクソン・コーラスの特徴を端的に言えば、「玲瓏(れいろう)たる響きを持った、雄勁にして且つしなやかな声のアンサンブル」である。このCDでも、冒頭からいきなりエリクソン・トーンの合唱が聴かれるが、ダイナミックな部分よりもむしろ終曲で聴かれる精妙な響きの方に彼らの美質がよく出ているようだ。

ただ歌手陣については、結構ビッグ・ネームが揃っている割にはさほどの印象が残らなかった。ヴィンソン・コールのエディプス王は、悪いとは言わないが、何となく影が薄い。クレオンと使者の二役を歌うサイモン・エステスやティレシアスを歌うハンス・ゾーティンといった人たちは、どちらも名のある歌手なのだが、ここではせいぜい、「可もなく、不可もなく」といった程度の印象しかない。ひとりアンネ・ソフィー・フォン・オッターが、若くて色香のあるイオカステ役を歌い出しているのが新鮮で、ちょっと気にとまったぐらいだ。ナレーターはパトリス・シェロー。ブーレーズがバイロイトで《指環》を振った時の演出家として、当時いろいろな議論を巻き起こした人物。しかし、ここでのシェローの語りは極めて控えめなものである。CDの解説書によると、作曲者ストラヴィンスキーと台本を書いた詩人コクトーの意見には、だいぶ食い違いがあったらしい。物語の節目ごとにいちいちナレーターが口上を入れるコクトー台本は、ストラヴィンスキーには「非常に気に食わない」ものだったらしいのである。このブックレットに解説文を書いている人の言によると、そのあたりを汲んで、この録音ではわざとナレーターの存在を控えめに描くようにしたのではないか、ということである。

サロネンの指揮もまた「可もなく、不可もなく」のレベルで、聴き終えた後に残る印象はあまり大したものではなかった。しかし、CDの作りとしては、トラック番号が歌のナンバーごとに丁寧に振り分けられているので、とても便利である。録音も優秀だ。

3.ジェイムズ・レヴァイン指揮シカゴ交響楽団、他 (1991年9月) 【グラモフォン盤】

上述のサロネン盤からわずか2ヵ月後にグラモフォンが製作したのが、このレヴァイン盤。レヴァインとシカゴのコンビということで聴く前から察しがつくのだが、やはり期待に違(たが)わず(?)、強烈にダイナミックでパワフルな演奏だ。と同時に、極めてオペラ的な演奏でもある。

ここでも、ナレーションはフランス語。ジュール・バスタンの語りは、私が聴いてきた4種の中では最もスタンダードなものである。しかし歌手陣は(おそらく、指揮者レヴァインの意向に沿ったものだと思われるが)、揃いも揃って皆さん、臆面もなくオペラティックに歌いまくる。エディプス役のフィリップ・ラングリッジ、クレオンと使者の二役を務めるジェイムズ・モリスもさることながら、イオカステ役のフローレンス・クイヴァーさんに至っては、もうイタ・オペそのもの。そこのけ、そこのけ、プリマが通るじゃ。エディプスとイオカステの二重唱なども、完全にオペラのデュオ。ちょっと違うんでないかい?と突っ込みの一つも入れてみたくなってしまうのだが、しかしまあ、ここまで徹底してくれたら、かえってさばさばして潔いと言うべきかも知れない。ティレシアス役はヤン・ヘンドリック・ロータリング。声は立派ながら、やや一本調子な歌唱である。

この演奏で一つ意外な感じがしたのは、全体には途轍もなくパワフルなのだが、第1幕を締めくくるGloria,gloria,gloria!の合唱など、本来パワフルに書かれている曲については逆に、さらりと軽いフットワークで流していることだ。

全体的な感想を言えば、残念ながらこの演奏からは、エディプス王のドラマが本来持っている暗い宿命の響きは全く聞こえて来ない。とにかく派手で健康的なパワフル・サウンドが鳴り続ける。これは、「とことんオペラティックで、面白いじゃん」と割り切って楽しめる人向きだろう。CDに付いたトラック番号は、第1幕で一つ、第2幕で一つ、とこれまた不便なものだが、上述のデイヴィス盤と違うのはそれぞれにインデックス番号が添えられていること。しかし、これはインデックス機能を持ったCDプレイヤーをお持ちの方にはいいかも知れないが、今はその機能が無いプレイヤーの方が普通じゃないだろうか。(※尤も私が購入したのは中古盤なので、その後のプレスでは改善されているかも知れないが。)

次回は、残るもう一つ、通し番号4番となる小澤征爾の<エディプス王>フィリップス録音についてである。また、このエディプス王とゆかりの深いティレシアスの話にも、次回少し触れてみたいと思っている。
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エディプス王

2005年10月19日 | エトセトラ
前回最後のところで、盲目の剣の達人が主人公になっている映画『座頭市』にちょっと触れたが、その事から「オペラ作品に登場する盲目の人物には、どんな顔ぶれがいるか」なんてことを、ふと考えてみた。このブログでかつて話題にした歌劇の中からは二人、当てはまる者がいる。プッチーニの歌劇<トゥーランドット>に出てくるカラフの父ティムールと、ライマンの歌劇<リア王>の登場人物で、両目をえぐられて盲目にされるグロスターがそれである。それ以外に思いつくのは、ポンキエッリの歌劇<ジョコンダ>に出てくる主人公ジョコンダの母チエカ。このお婆さんも、盲目だった。それと、ヴェルディの<ドン・カルロ>に出てくる恐怖の大審問官。主人公自身が盲目にされる例なら、サン=サーンスの歌劇<サムソンとデリラ>がとりわけ有名だ。サムソンは最後、デリラの姦計にはまって怪力の源である髪の毛を切られた上に、両の目までつぶされてしまうのだ。しかし今回は、脇役にも盲目の者がいると同時に主人公自身も盲目になってしまうという、かなりエグイ展開を持った作品について語ってみたいと思う。

ストラヴィンスキーのオペラ=オラトリオ<エディプス王>である。この悲劇の主人公を巡る物語は、ソフォクレスのギリシャ古典悲劇に原典がある。ただ、ストラヴィンスキーの作品は、そこからエッセンスだけをかいつまんだテキストになっているので、聴く前に元々のストーリーを知っておいた方が内容を理解しやすいと思う。そこで、今回はまず、オイディプス(=エディプス)王の物語の筋書きをご紹介しておきたい。

{ テバイの王ライオスは、恐ろしい神託を受けた。「将来産まれるお前の息子はお前を殺して王位に就き、お前の妻であるイオカステを妃とするだろう」というものである。そこで、ライオスは妻に息子を産ませないようにずっと禁欲していたのだが、ある時酒に酔った勢いでつい、やってしまった。w

神託を恐れる王は、産まれた子の両足のくるぶしを釘で刺して歩けなくした上で、部下に命じてキテロン山に捨てさせた。しかし、その子は羊飼いに拾われて、コリントス王ポリュビオスの養子として育てられた。くるぶしの傷はやがて治ったものの、そこはふくれた形になって残ってしまった。そのため彼は、ギリシャ語で「ふくれた足」を意味するオイディプス(=Oedi pus)と名づけられることとなった。

成長したオイディプスはテバイに向かう途中、三叉路になっているところで、偉そうな態度の老人と出くわす。お互いに「道をあけろ」「お前がどけよ」と争いになり、ついにオイディプスは老人を殺害してしまう。しかし、その老人こそ、彼の父ライオスだった。勿論、彼はそんなことを知る由もない。

その頃テバイは、スフィンクスという怪物に苦しめられていた。これは女の顔とライオンの胴体、そして鷲のような翼を持った合体怪獣(?)である。スフィンクスは人に謎をかけるのが趣味で、答えられない人を次々と殺しては楽しんでいたのだった。妃イオカステの兄弟であるクレオンが当時摂政となっていたが、彼は、「スフィンクスの謎を解いてテバイを救ってくれる者が現れたら、その者を王にしてやる」というお触れを出した。

スフィンクスは道でオイディプスに出会い、得意の謎をかけた。「朝は四本足、昼は二本足、夕べには三本足で歩く地上の生き物は何じゃ」。オイディプスは答えた。「それは人間だ。生まれたばかりは四本足で這い、成長したら二本足で歩き、年をとったら杖をつくようになって三本足になる」。見事、正解であった。ショックを受けたスフィンクスは、崖から飛び降りて自殺する。(※死ぬつもりで飛んだから、翼は使わなかったのだろう・・。)

オイディプスは布告の通りイオカステを妻として、テバイの王になった。つまり彼は、そうとは知らずに自分の父親を殺し、またそうとは知らずに母親と結婚したのである。そしてその母と交わり、4人の子供までもうけたのだった。やがてテバイの町を疫病と凶作が襲った。神託によれば、それは先王ライオスを殺した犯人が罰を受けずにテバイで暮らしているためだという。「にっくき犯人を見つけ出し、テバイから追放してやろう」とオイディプスは決意する。

神々の残酷ないたずらを知る盲目の予言者ティレシアスはずっと沈黙していたが、オイディプスに厳しく問い詰められて、ついに真実を語った。「先王ライオスを殺したのは、今の王。つまり、あなただ」。妃イオカステは予言者の言葉を聞く前に事実を知って、首吊り自殺を遂げていた。自分の出生の秘密と恐ろしい運命を知ったオイディプスは、母であり妻でもあったイオカステの遺体を床に降ろし、その胸飾りを抜いて自分の両目に突き刺した。

盲目となった彼は娘アンティゴネに付き添われながら、長い放浪の旅に出る。最後はアテナイに到着し、そこを守る手助けをした後、森の中で静かに数奇な一生を終えた。 

【参考文献 : 『欧米文芸・登場人物事典』(大修館書店)】 }


ストラヴィンスキーのオペラ=オラトリオ<エディプス王>は、上記の物語を土台にしてジャン・コクトーが台本を書き、それをジャン・ダニエルウという人がラテン語訳したテキストに作曲された。作風はいわゆる新古典主義によるものだが、これより後に書かれた歌劇<レイクス・プログレス(=道楽者のなりゆき)>などと比べると響きがはるかに充実しており、聴き栄えがするものである。演奏時間も全曲で約50分前後なので、CD1枚に余裕で収まる。その意味でも、聴きやすい作品だ。

第1幕の締めくくりとなるイオカステを讃える力強い合唱 Gloria,gloria あたりは、その9年後に書かれることになるカール・オルフの人気作<カルミナ・ブラーナ>の原型になっているものと言ってよいだろう。また、第2幕のはじめでイオカステが歌う「口寄せなんて連中は、ウソばかり言うものよ」の部分、 Oracula,oracula と繰り返す部分も、例えば<月>や<賢い女>などに代表されるオルフ歌劇の先鞭をつけるものと考えられそうである。

次回はストラヴィンスキーの<エディプス王>について、現在相当数存在する全曲CDの中から、私が聴いて知っているCD(※わずか4種しかないのだが)を並べて、それぞれの感想文を書いてみたい。
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<シンフォニア・タプカーラ> 【改訂投稿】

2005年10月14日 | 作品を語る
伊福部昭先生の<シンフォニア・タプカーラ>については、約半年前の4月23日に一度記事を書いていたのだが、前回述べたとおりの経緯があるので、今回また改訂記事を書くことにした。4月の記事と重複する部分は文章を手直ししてスッキリさせた。

1.山岡重信の指揮によるLP(?)録音

学生時代にこれをFMで聴いたのが、私にとってのこの曲との出会いであった。いつ頃の録音かは不明。オーケストラ名も忘れてしまった。今再びこれを聴いたら、おそらくオケの響きの薄さとか、技術的な稚拙さとかが気になるんじゃないかと思う。これは仮にCD化されても、熱心なコレクター向きのアイテムということになりそうだ。

2.手塚幸紀&東響のキング盤(1984年2月21日・簡易保険ホール)

ライヴ録音だが、かなり克明な音質なので聴いていて心地良い。演奏については、きびきびとした第1楽章が特に活力溢れる好演。時には思い切りテンポを落として、粘りのある土俗感もしっかり打ち出している。ただ、第3楽章がちょっと残念。響きの薄さと、隠し切れないオーケストラの疲労色。このCDでは、同じ日のライヴで収録された<交響譚詩>で抜群の快演が聴ける。外山雄三や小山清茂の作品も収録されていて、充実の一枚。

3.芥川也寸志&新響のフォンテック盤(1987年2月1日・サントリーホール)

今回の投稿に際して、改めて聴き直した。オーケストラは芥川氏が生前手塩にかけていたアマチュア・オーケストラである。特に管楽器にそれらしさが出ているが、全体的には充実したサウンドを生み出している。芥川氏の薫陶の賜物だろう。後述する井上盤さながらに、速めのテンポで熱気ムンムン。改訂版楽譜による厚みのある響き。良い演奏だ。何よりも、安心して聴いていられる。「これが、伊福部音楽です」という感じ。第2楽章は、もう少しゆったりしてくれても良かったかな。不満と言えば、録音のとり方。おそらく天井からの吊り下げマイクを使ったんじゃないかと思われるが、2階席か3階席に座って下のステージを見下ろしながら聴いているような感覚だ。全体のブレンドはよくわかるのだが、個々のパートがくっきり聞こえないのがもどかしい。最近(2005年・初夏)、タワーレコードさんの企画でCD復活。(※このコンビには「改訂版による初演」の記録として、1980年4月6日の録音もあるらしいのだが、現在は入手困難な模様。)

4.金洪才&大阪シンフォニカーのVap盤(1987年9月13日・伊丹市文化会館)

4月に記事を書いた時には存在さえ知らなかったCDだが、「伊福部昭 映画音楽とクラシックの夕べ」と題されたコンサートのライヴ録音らしい。<タプカーラ>の他にも、<SF交響ファンタジー第1番>、<ロンド・イン・ブーレスク>、バレエ音楽<サロメ>が演奏されている。二枚組のCDで、それぞれの最後に各曲についての伊福部先生自身による短いコメントが収録されている。大阪シンフォニカーというのは私には初めての名前だが、響きからして小編成オーケストラのようだ。ただ、個々の楽器の技術的な稚拙さや、全体のアンサンブル・バランスの悪さからして、これはおそらくアマチュア・オーケストラだろうと思われる。

金洪才という指揮者の演奏を聴くのもこれが初めてだが、伊福部音楽の粘りのあるメロディをゆったり歌わせようとしている姿勢には好感が持てる。フレージングも、後述するナクソス盤の外国人演奏家に比べれば、遥かによく伊福部節をわかっている様子だ。第1楽章の出来が良い。第2楽章は、オーケストラの稚拙さによって指揮者の意図が十分に音になっていないのが残念。終楽章はもう少しアップ・テンポでわくわく感を盛り上げてほしかった。それと、コーダの部分が楽器バランスぐちゃぐちゃ。これは指揮者の責任である。演奏はともかく、このCDセットはバレエ音楽<サロメ>全曲が収録されているという点でかなり貴重だ。

ところで、Vapというレーベル名も私には初耳なのだが、<タプカーラ>全曲でトラック番号一つ、<サロメ>全曲でトラック番号一つ、という作り方には不快感を持った。<タプカーラ>なら楽章ごとに3つに分けるのが当然だろうし、<サロメ>なら7つのパートで出来ていると解説書にあるのだから、場面ごとに7つのトラック分けをするべきではないか。こういう手抜きをやっていると、消費者にそっぽを向かれるぞ。

5.井上道義&新日本フィル、他によるフォンテック盤(1991年9月17日・サントリーホール)

東京サントリーホールで企画された≪作曲家の個展≫シリーズの一環として、伊福部先生の作品が取り上げられた時のライヴ。このコンサートを、私は生で体験している。演奏については、かなり速めのテンポ設定がなされている。全体に亘ってそうなのだが、特に第3楽章コーダの追い込みなど、メチャクチャに突っ走る。当時の私はその速さに共感できず、すわりの悪い演奏に感じてしまったのだが、年月を経てCDで聴き直すと、これはこれで説得力があると感じる。第2楽章も速めながら、抒情味はしっかりと出ている。これも上の芥川盤(1987年)同様に、タワーレコードさんがCDを復活させてくれた(2005年・初夏)。

6.石井眞木指揮の新星日響盤(1991年12月13日・府中の森劇場)

伊福部御大の喜寿記念コンサートのライヴ。映画『ゴジラ対キングギドラ』が公開された時のものである。東京の府中市で行われた演奏会で、私はそのホールの客席から大喝采を送った聴衆の一人であった。つまり、これも生で聴いたのである。この時の演奏は、非常に良かった。第1楽章あたりは、石井氏の指揮棒が横に流れる動きのためか、「もう一つ、リズムに縦の切れ味が欲しいなあ」などと、にわか評論家気分で聴き始めたコンサートだったが、ゆーったりと歌う第2楽章から、土俗のエネルギーが爆発する第3楽章へと進んで行くうちにぐんぐん引き込まれて、演奏が終わった直後にはもう、我を忘れて夢中で拍手していた。私には最高の思い出である。

ただ残念なことに、これはCD、LDとも、音質が情けない。ライヴCDから与えられるこの種の失望は生演奏を聴いた人間にとっては日常茶飯の出来事だから、これも仕方のない事と諦めねばならないのだろう。当夜の熱狂はどうやら、そこに居合わせた者達だけの思い出の宝石になってしまったようである。

7.《1994年10月・傘寿記念コンサート》

残念ながら、これは未聴。

8.広上淳一&日本フィル盤(1995年)

私はこのCDを買って、一回聴いて、腹が立って、即座に売り払ってしまった。第3楽章でとりわけ顕著なのだが、複雑なリズムで錯綜する管弦楽が、とにかく透かし彫りのようにきれーいに分解されて白日のもとに開陳されているような演奏である。“熱狂”というすぐれて情緒的な要素も、並んだ音の響きの物理的な結果の一つに過ぎないとでも言っているかのように、現象としての音だけが鳴り続ける。私の趣味にはどうにも合わない演奏だ。

9.石井眞木&新響による《2002年5月19日・紀尾井ホールでの米寿記念コンサート》

石井氏らしさがよく出た、、好ましい演奏である。土俗的な旋律をゆったりと歌わせることへのこだわり、そして重低音に対する偏愛が顕著に表現されている。しかし、ここでは、オーケストラがアマチュアということに起因する弱点も同時に出ているようだ。第1楽章の金管、第2楽章のフルート等、いかにも「腕にちょっと覚えのある素人が吹いている」という感じだ。そして全体的に、弦の仕上げも幾分粗い。石井氏の表現についても、例えば第2楽章あたりを上述の’91年府中ライヴと比べると、いくぶん表情が淡白であるように聴こえる。が、そうは言っても、これは<タプカーラ>の優れた演奏の一つであることは間違いない。これを生で体験なさった方には、きっと良い思い出になっていることと思う。音質的にもこちらのCDの方が、’91年盤よりずっと好ましい。

10.D・ヤブロンスキー&ロシア・フィル(ナクソス盤)

外国人演奏家によるトホホ演奏。聴き終える前に途中で止めようかと思ったのを何とかこらえて聴き通し、その後がっくりとうなだれてしまった。全編通して、テンポもフレージングもバランスも、とにかく全部が変。第2楽章も、ただスタスタと進めていくだけ。ロシアのオケらしい土俗的な響きが第3楽章の冒頭で聴かれて、「おおっ」と思わせるのも束の間、すぐに指揮者の棒に起因するトンチンカンな音楽になってしまう。楽譜だけによる音楽再現の難しさを、つくづく思い知らされる一例だ。1955年1月26日にこの曲の世界初演を行ったフェビアン・セヴィツキー&インディアナポリス響による演奏の録音テープを聴いた伊福部先生が、「リハーサルに立ち会わず、楽譜だけを送るとこんな事になるのか」と絶句なさってしまったことを後に述懐しておられるが、この演奏などもまさにその類(たぐい)と言えるだろう。


(PS) <シンフォニア・タプカーラ>と映画音楽(その2)

4月に<タプカーラ>の記事を書いた後、新たに伊福部先生の映画音楽集CDを何枚か聴いたのだが、前回ご紹介した『大坂城物語』とはまた別の転用箇所を発見した。あの有名な座頭市(ざとういち)の映画である。少し前に北野武監督・主演で話題になった座頭市だが、伊福部先生が音楽を手がけたのは、故・勝新太郎主演による古い大映映画の方だ。『座頭市物語』(1962年・大映)の中で、若き日の天知茂さんが演じた平手造酒を心ならずも倒した市が悲しみにくれる場面、そこで流れる「苦い勝利」と題されたナンバーの中で、<タプカーラ>第2楽章の旋律がほんの断片ではあるが出てくるのである。
コメント (4)
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