<エディプス王>の締めくくりとして、前回の最後に予言者ティレシアス誕生のエピソードを書いたが、実はこの人物の名を冠した有名なオペラ作品がある。フランシス・プーランクがギヨーム・アポリネールの原作をもとにして書いた歌劇<ティレジアスの乳房>である。今回はまず、このオペラの話から。
男の言いなりの人生を送る女なんてイヤ、と男女同権宣言をした女性テレーズの顔に、ヒゲが生えてくる。やがて、おっぱいもぷぅーっとふくらんで風船になり、どこかへ飛んでいく。そして彼女は、男のティレジアスに変身!・・と、この出だしからしてもう奇想天外なお話なのだが、その先の展開がまたとってもシュール。彼女は世間に出てメキメキと頭角を現し、人々から「大統領!」なんてお声が掛かるぐらいの人物になっていく。一方、テレーズの亭主の方は逆に女の姿になって、魚のタラみたいにいっぺんに何万という数の子供を産んだといって喜ぶ。その亭主のもとへ、人間の数が増え過ぎて食料が足りないと憲兵が文句を言いに来る。そこへ占い師が、「子供は宝ですよ」と回答する。が、その占い師は、テレーズの変装。彼女は元通りの女に戻って、夫と抱き合いハッピー・エンド。オペラの最後を締めくくるメッセージは、「皆さん、子供を作りましょう」。・・・音楽がまたいかにもプーランクらしい軽妙なもので、風刺と諧謔味に満ちたコメディ・オペラに仕上がっている。私個人的にはそれほど思い入れのある作品ではないが、プーランクの人気作の一つであることは間違いない。(※オペラ・タイトルがティレジアスになっている由来は、前回のお話からご理解いただけることと思う。ギリシャ神話のティレシアスは男→女→男と変身を遂げた人物だが、プーランク・オペラでは女性の主人公テレーズが女→男→女と逆順に変身する。)
私はCDが普及し始めた初期に、クリュイタンスの指揮による全曲盤(EMI)でまずこの作品に触れたが、それからだいぶ年月が経ってから、小澤征爾が松本音楽祭で採り上げた際(1996年)に、BSでライヴ映像を視聴した。改めて語ることがあるかもしれないが、小澤が1990年代にタクトをとった《サイトウキネン・フェスティヴァル松本》というイヴェントは、何よりもまず、その採り上げるオペラ作品の目の付け所が非常に良かった。演奏内容もそれぞれ水準に達したものばかりで、必ずしも小澤という指揮者を好いていない私でも、この松本での業績は高く買っているし、また感謝もしているのである。
さて、同じ作曲家の手になるものとはにわかに信じ難いような衝撃的な歌劇が、<カルメル派修道女の対話>である。題名の通り、とある修道院を舞台に、そこに生きる修道女たちの日常と信仰をめぐる対話が、仄暗い明かりの中で延々と展開される。これも、私は小澤征爾指揮による松本音楽祭のライヴ映像(1998年)をNHK-BSで視聴して、その内容を初めて知ったのだった。
この歌劇について本で読んだ知識の受け売りをちょっとだけ書かせていただくと、これはドイツの女流作家ゲルトルート・フォン・ルフォールの小説『断頭台の最後の女』を原作としているもので、フランス革命さなかの恐怖政治の時代に、宗教弾圧に抗議して殉教を決意し、自ら進んで断頭台に向かった修道女たちの実話がもとになっているものらしい。宗教とは何か、また社会との関係はどういうものなのか、といった問題に正面切って向かい合った作品として、シェーンベルクの<モーゼとアロン>に並ぶ重要作品と位置づけられているのだそうである。これをプーランクの最高傑作と絶賛する音楽評論家の文章を目にしたこともある。
ただ実を言うと、小澤の松本ライヴを観るまでこの作品について何も知らなかった私は、当時その映像を視聴しながら内心、「何だか、くどくどとかったるいオペラだなあ」なんて、前半部分では些かくたびれ気分になってしまったのだった。しかし、話が進むにつれてだんだん様子がおかしくなってきて、緊迫の度合いを増してくるのはよくわかった。修道女たちが異端として次々と処刑されてしまう、そのラスト・シーンの恐ろしかったこと!順番に断頭台に向かう彼女たちのシルエットが舞台背景に浮かび、ヒューッ、ガシャン! ヒューッ、ガシャン! ヒューッ、ガシャン!と、単調かつ冷酷に刻まれる刃の音が劇場内に延々と響き続けたのだ。いろいろな名作・駄作に触れてきた私だが、最後にこんな強烈な衝撃を受けた作品も珍しい。
全曲録音は、LP時代からのピエール・デルヴォー盤(EMI)、CD時代になってからの小澤征爾盤、そしてケント・ナガノ盤と、少なくとも現在3種類はあるようだ。「各登場人物の性格や役割がわかってくれば、もっと深い感銘を得られるだろう」と、自分なりに思うところがある。これはまた、いつかもう一度聴きなおして(あるいは、視聴しなおして)みたい作品である。
最後は、モノドラマ<声>。これでプーランクの三大歌劇が出揃うことになる。一人の女性だけが登場して演じるモノドラマと言えば、激しい音響の中で一人の女の異様な精神状態が描かれるシェーンベルクの<期待>という先例があるが、プーランク作品はもっと洗練された新古典主義的な響きで、心理の襞に分け入っていく音楽になっている。台本は先頃語ったストラヴィンスキーの<エディプス王>と同じく、詩人ジャン・コクトーが書いたものである。
睡眠薬での自殺が未遂に終わった一人の女性が、ベッド・ルームで電話をしている。相手は、別れた男。その男は明日新妻と新婚旅行に出かける、という状況のようだ。どんな事情で二人が別れたか、みたいな事は一切語られない。ひたすら(約40分間)、この女性が一人、たびたび他の回線と混線したり切れたりしてしまう当時のお粗末な電話を通じて、様々な思いを語り続ける心理ドラマである。終曲に近づく頃彼女は、「あなたの声を、全身で受け止めたいの」と、受話器のコードを自分の首に巻きつけたりもする。彼女が相手の男にねだる最後の頼みが、哀れを誘う。「そこへハネムーンで行っても、昔私と泊まったあのホテルの部屋にはしないでね」なんて言うのだ。相手がそれを了解したらしいことで、彼女は最後に安堵の表情を浮かべる。男への断ち切れぬ想いをつぶやき続ける彼女だが、ラスト、受話器が床にゴトンと落ちて幕が下りる。
この作品については、かつてジョルジュ・プレートルの指揮によるLP(EMI)を聴いた。主演は往年の名ソプラノ歌手ドゥニーズ・デュヴァル。作曲家プーランクが惚れ込んでいた人だったそうで、この録音でも入魂の歌唱を聴かせてくれる。楽器の使い方としては、電話のベルをシロフォンで表現しているところが面白い。(※参考までに、電話を主要モチーフにしたメノッティ作曲によるコメディ<電話>では、そのまんま電話のベル音が使われる。ちなみに、メノッティ作品には恋人同士の男女が登場し、伴奏楽器としてはピアノが活躍する。)
そう言えば昨年になるか、ジェシー・ノーマンがシェーンベルクの<期待>と、このプーランクの<声>を二本立てで演じたライヴ映像がNHK教育TVで紹介された。大きな口をあけて汗だくになって歌うノーマンには、何だか違う意味での怖さがあったが(笑)、まあともかく、熱唱だった。ただ残念ながら、オーケストラは凡庸そのもの。指揮者がそもそも二流。これら二つの作品にはもっと緊迫感が必要だし、音像にももっとシャープな切れ味がほしい。とにかく音が“なまくら”なのだ。ノーマンの熱演が印象的だっただけに、何とも残念なオーケストラ演奏であった。
以上、プーランクの三大歌劇。聴く側の好悪は別として、すべて傑作と呼べるものばかり。彼はドビュッシーの<ペレアスとメリザンド>以後のフランス・オペラの作品史に、大きな財産を加えてくれたのだった。人気作である<シンフォニエッタ>やバレエ<牝鹿>などの印象から、ともすると「軽妙な音楽ばかり書いていた人」といった誤解もされかねないプーランクだが、深刻な雰囲気に満ちた宗教曲も相当数書かれている。少なくともオペラを聴く者にとってはこのパリの才人、ちょっとただ者ではないのである。
男の言いなりの人生を送る女なんてイヤ、と男女同権宣言をした女性テレーズの顔に、ヒゲが生えてくる。やがて、おっぱいもぷぅーっとふくらんで風船になり、どこかへ飛んでいく。そして彼女は、男のティレジアスに変身!・・と、この出だしからしてもう奇想天外なお話なのだが、その先の展開がまたとってもシュール。彼女は世間に出てメキメキと頭角を現し、人々から「大統領!」なんてお声が掛かるぐらいの人物になっていく。一方、テレーズの亭主の方は逆に女の姿になって、魚のタラみたいにいっぺんに何万という数の子供を産んだといって喜ぶ。その亭主のもとへ、人間の数が増え過ぎて食料が足りないと憲兵が文句を言いに来る。そこへ占い師が、「子供は宝ですよ」と回答する。が、その占い師は、テレーズの変装。彼女は元通りの女に戻って、夫と抱き合いハッピー・エンド。オペラの最後を締めくくるメッセージは、「皆さん、子供を作りましょう」。・・・音楽がまたいかにもプーランクらしい軽妙なもので、風刺と諧謔味に満ちたコメディ・オペラに仕上がっている。私個人的にはそれほど思い入れのある作品ではないが、プーランクの人気作の一つであることは間違いない。(※オペラ・タイトルがティレジアスになっている由来は、前回のお話からご理解いただけることと思う。ギリシャ神話のティレシアスは男→女→男と変身を遂げた人物だが、プーランク・オペラでは女性の主人公テレーズが女→男→女と逆順に変身する。)
私はCDが普及し始めた初期に、クリュイタンスの指揮による全曲盤(EMI)でまずこの作品に触れたが、それからだいぶ年月が経ってから、小澤征爾が松本音楽祭で採り上げた際(1996年)に、BSでライヴ映像を視聴した。改めて語ることがあるかもしれないが、小澤が1990年代にタクトをとった《サイトウキネン・フェスティヴァル松本》というイヴェントは、何よりもまず、その採り上げるオペラ作品の目の付け所が非常に良かった。演奏内容もそれぞれ水準に達したものばかりで、必ずしも小澤という指揮者を好いていない私でも、この松本での業績は高く買っているし、また感謝もしているのである。
さて、同じ作曲家の手になるものとはにわかに信じ難いような衝撃的な歌劇が、<カルメル派修道女の対話>である。題名の通り、とある修道院を舞台に、そこに生きる修道女たちの日常と信仰をめぐる対話が、仄暗い明かりの中で延々と展開される。これも、私は小澤征爾指揮による松本音楽祭のライヴ映像(1998年)をNHK-BSで視聴して、その内容を初めて知ったのだった。
この歌劇について本で読んだ知識の受け売りをちょっとだけ書かせていただくと、これはドイツの女流作家ゲルトルート・フォン・ルフォールの小説『断頭台の最後の女』を原作としているもので、フランス革命さなかの恐怖政治の時代に、宗教弾圧に抗議して殉教を決意し、自ら進んで断頭台に向かった修道女たちの実話がもとになっているものらしい。宗教とは何か、また社会との関係はどういうものなのか、といった問題に正面切って向かい合った作品として、シェーンベルクの<モーゼとアロン>に並ぶ重要作品と位置づけられているのだそうである。これをプーランクの最高傑作と絶賛する音楽評論家の文章を目にしたこともある。
ただ実を言うと、小澤の松本ライヴを観るまでこの作品について何も知らなかった私は、当時その映像を視聴しながら内心、「何だか、くどくどとかったるいオペラだなあ」なんて、前半部分では些かくたびれ気分になってしまったのだった。しかし、話が進むにつれてだんだん様子がおかしくなってきて、緊迫の度合いを増してくるのはよくわかった。修道女たちが異端として次々と処刑されてしまう、そのラスト・シーンの恐ろしかったこと!順番に断頭台に向かう彼女たちのシルエットが舞台背景に浮かび、ヒューッ、ガシャン! ヒューッ、ガシャン! ヒューッ、ガシャン!と、単調かつ冷酷に刻まれる刃の音が劇場内に延々と響き続けたのだ。いろいろな名作・駄作に触れてきた私だが、最後にこんな強烈な衝撃を受けた作品も珍しい。
全曲録音は、LP時代からのピエール・デルヴォー盤(EMI)、CD時代になってからの小澤征爾盤、そしてケント・ナガノ盤と、少なくとも現在3種類はあるようだ。「各登場人物の性格や役割がわかってくれば、もっと深い感銘を得られるだろう」と、自分なりに思うところがある。これはまた、いつかもう一度聴きなおして(あるいは、視聴しなおして)みたい作品である。
最後は、モノドラマ<声>。これでプーランクの三大歌劇が出揃うことになる。一人の女性だけが登場して演じるモノドラマと言えば、激しい音響の中で一人の女の異様な精神状態が描かれるシェーンベルクの<期待>という先例があるが、プーランク作品はもっと洗練された新古典主義的な響きで、心理の襞に分け入っていく音楽になっている。台本は先頃語ったストラヴィンスキーの<エディプス王>と同じく、詩人ジャン・コクトーが書いたものである。
睡眠薬での自殺が未遂に終わった一人の女性が、ベッド・ルームで電話をしている。相手は、別れた男。その男は明日新妻と新婚旅行に出かける、という状況のようだ。どんな事情で二人が別れたか、みたいな事は一切語られない。ひたすら(約40分間)、この女性が一人、たびたび他の回線と混線したり切れたりしてしまう当時のお粗末な電話を通じて、様々な思いを語り続ける心理ドラマである。終曲に近づく頃彼女は、「あなたの声を、全身で受け止めたいの」と、受話器のコードを自分の首に巻きつけたりもする。彼女が相手の男にねだる最後の頼みが、哀れを誘う。「そこへハネムーンで行っても、昔私と泊まったあのホテルの部屋にはしないでね」なんて言うのだ。相手がそれを了解したらしいことで、彼女は最後に安堵の表情を浮かべる。男への断ち切れぬ想いをつぶやき続ける彼女だが、ラスト、受話器が床にゴトンと落ちて幕が下りる。
この作品については、かつてジョルジュ・プレートルの指揮によるLP(EMI)を聴いた。主演は往年の名ソプラノ歌手ドゥニーズ・デュヴァル。作曲家プーランクが惚れ込んでいた人だったそうで、この録音でも入魂の歌唱を聴かせてくれる。楽器の使い方としては、電話のベルをシロフォンで表現しているところが面白い。(※参考までに、電話を主要モチーフにしたメノッティ作曲によるコメディ<電話>では、そのまんま電話のベル音が使われる。ちなみに、メノッティ作品には恋人同士の男女が登場し、伴奏楽器としてはピアノが活躍する。)
そう言えば昨年になるか、ジェシー・ノーマンがシェーンベルクの<期待>と、このプーランクの<声>を二本立てで演じたライヴ映像がNHK教育TVで紹介された。大きな口をあけて汗だくになって歌うノーマンには、何だか違う意味での怖さがあったが(笑)、まあともかく、熱唱だった。ただ残念ながら、オーケストラは凡庸そのもの。指揮者がそもそも二流。これら二つの作品にはもっと緊迫感が必要だし、音像にももっとシャープな切れ味がほしい。とにかく音が“なまくら”なのだ。ノーマンの熱演が印象的だっただけに、何とも残念なオーケストラ演奏であった。
以上、プーランクの三大歌劇。聴く側の好悪は別として、すべて傑作と呼べるものばかり。彼はドビュッシーの<ペレアスとメリザンド>以後のフランス・オペラの作品史に、大きな財産を加えてくれたのだった。人気作である<シンフォニエッタ>やバレエ<牝鹿>などの印象から、ともすると「軽妙な音楽ばかり書いていた人」といった誤解もされかねないプーランクだが、深刻な雰囲気に満ちた宗教曲も相当数書かれている。少なくともオペラを聴く者にとってはこのパリの才人、ちょっとただ者ではないのである。