クラシック音楽オデュッセイア

2009年の大病以来、月1回程度の更新ペース。クラシックに限らず、身の回りの事なども、気の向くままに書いております。

芥川也寸志の交響作品

2005年11月27日 | 作品を語る
前回、よく似ていて紛らわしい曲名の例に触れたが、その事から芥川也寸志(1925~1989)の交響作品群がふと思い出された。芥川氏の作品の中には、よく似た題名を持っていたり、内容的によく似た作りで書かれていたりする物がいくつかあるからだ。今回はそのあたりも含めて、伊福部門下の一人であった芥川也寸志氏のオーケストラ作品について少し語ってみたい。

1.交響管絃楽のための前奏曲 (1947)

芥川氏学生時代の本科卒業作品らしい。師匠・伊福部昭の影響が濃厚に出た17分ほどのオーケストラ曲。前半は、伊福部節をお手本にしたような粘りのある叙情的な旋律が支配的。しかし、9分ぐらい経過したあたりから一気に活気に満ちた音楽が現れる。とは言っても、やはり伊福部カラーがここでも濃厚だ。その後、静謐な部分と激しい部分が入れ替わりに出てきて、最後は力強く曲を結ぶ。

【 参照演奏 : 山田一雄&新交響楽団 1990年1月20日録音(フォンテック盤) 】

2.交響三章 トリニタ・シンフォニカ (1948)

(Ⅰ)カプリッチョ アレグロ

クラリネットとファゴットがリードするような形で始まり、律動的で軽快な音楽が展開する。約4分40秒。

(Ⅱ)ニンネレッラ アンダンテ

この曲を書いた当時23歳だった芥川氏に、長女が誕生したのだそうだ。その時の喜びを反映しているのか、この「子守唄」では厚みのある響きの中に優しい表情をたたえた名旋律が披露されている。ここにもやはり伊福部風のムードがあって、中間部など本当に郷愁を誘う。しかし中ほどに差し掛かる8分半あたりの所では大作映画のエンディングみたいに壮大に盛り上がるので、「子守唄」という呼び名だけには収まらない内容がある。この楽章の演奏時間は約13分。作品全体の中でも飛びぬけて長い。芥川氏にとっては一番力の入った箇所と言えるだろう。

(Ⅲ)フィナーレ アレグロ・ヴィヴァーチェ

激しい連打音から、一気に突っ走る爽快な音楽。合いの手のリズムは例によって伊福部っぽいが、主となる音型は土俗感とスマートさが奇妙に同居する堂々たる芥川節。この部分、約5分40秒。

3.交響管絃楽のための音楽 (1950)

NHKが放送25周年を記念して募集した管弦楽曲の中から見事「特賞」に選ばれたという、芥川氏の出世作。2つの曲からなる。第1曲アンダンティーノのテーマは、いかにもプロコフィエフやショスタコーヴィチの音楽語法を採り入れた痕跡が鮮明なものだが、中間部で歌い出される旋律にはこれまた師匠ゆずりの土着の叙情が聴かれる。この部分、約4分半。

続く第2曲アレグロは、かつてTVコマーシャルでも使われたこともある思いっきり有名な曲だ。強烈なシンバルの一撃から景気よく始まるゴキゲンなノリの音楽。特にトロンボーン奏者にとってはもう最高の曲ではないだろうか。打楽器の担当者達もうれしいだろうなあ。トリオでは、伊福部先生の<タプカーラ>第1楽章で聴かれるような導入リズムが出てくるけれども、圧倒的な主要テーマは文句なしの芥川節。私個人的には、この曲が一番好きである。約4分40秒。

4.絃楽のための三楽章 トリプティーク (1953)

(Ⅰ)アレグロ

いかにも小粋で軽快なアレグロ楽章。芥川作品らしい躍動感。ヴァイオリン・ソロも出て来る。約4分。

(Ⅱ)ベルスーズ アンダンテ

これも「子守唄」。急-緩-急の三楽章で構成されていて、なお且つ、真ん中に「子守唄」が置かれているという点で、これは上述の<交響三章 トリニタ・シンフォニカ>と非常によく似た作りで書かれている。うっかりすると記憶がごっちゃになってしまいそうだ。それはさておき、ここで聴かれる「子守唄」も美しい曲である。上記<トリニタ・シンフォニカ>の第2曲のように途中で轟然と盛り上がるようなこともないので、本当に子守唄らしい子守唄である。曲の中ほどで、和太鼓の脇をカッカラカッカラ叩くような音が聴かれるが、これは演奏に使っている弦楽器の胴体部分を叩いている音だそうだ。約6分。

(Ⅲ)プレスト

祭りの賑わいをイメージしたものらしいのだが、そんな感じはあまりしない。都会的に洗練されているからだろうか。雰囲気的には、近代イギリスの弦楽合奏作品の中にでも見つかりそうな部分がある。約3分。

5.交響曲第1番 (1955)

(Ⅰ)アンダンテ 約9分
(Ⅱ)アレグロ 約2分半 
(Ⅲ)コラール アダージョ 約8分40秒 
(Ⅳ)アレグロ・モルト 約8分

<交響曲第1番>は、芥川氏が入れ込んでいたショスタコーヴィチやプロコフィエフの影響が極めて濃厚に出ている曲で、正直言って私はこの曲、好きではない。旧ソ連の二人の大家が書いた交響曲に対して、もともと私はあまりシンパシーを感じていないのだが、ここで聴かれる芥川氏の音楽は(失礼ながら)そのエピゴーネン(=亜流)。そんな風にしか聴こえない。ただ、音楽的な充実度の高さは上に並べた4作を遥かに凌いでいるし、その重い手応えについての客観的評価はまた別物としなければならないだろうとは思う。

【 以上2~5の参照演奏 : 飯森泰次郎&新交響楽団 1999年7月11日録音(フォンテック盤) 】

6.エローラ交響曲 (1958)

少し前にナクソス・レーベルから、この曲を含んだ《芥川也寸志 作品集》のCDが発売されて話題になったので、そちらでお聴きになった方もおられることと思う。怪しげな雰囲気と土俗的な要素が入り組んだ、とても面白い曲である。全体で約18分の作品だが、真ん中あたりに出てくる野卑なリズムの盛り上がりや、ラスト5~6分で聴かれる熱狂的な響きが非常に良い。聴いた感じとしては、交響曲というよりは“土俗の舞踊詩”みたいな趣がある。所どころ上手に抜粋すれば、バレエ音楽としての利用も可能な気がする。私にとっては、非常に愛せる曲の一つである。

【 参照演奏 : 飯森泰次郎&新交響楽団 1999年7月17日録音(フォンテック盤) 】

―そういう訳で、<交響管絃楽のための前奏曲>と<交響管絃楽のための音楽>は曲名がよく似ており、<交響三章 トリニタ・シンフォニカ >と<絃楽のための三楽章 トリプティーク>は曲の設計がそっくりということで、前回のお話からこれらの芥川作品が連想されたのであった。最後にポイントを簡単にまとめてみると、交響作品に聴かれる芥川氏の音楽というのは、師匠・伊福部昭の土俗的なメロディや力強いリズムを学びつつも、この人ならではの都会人的なセンスというのか、ある種の洗練味が加えられたものになっているという事がまず言えるだろう。そこへ旧ソ連時代の二人の大家、即ちショスタコーヴィチとプロコフィエフの音楽語法が採り込まれて、この人独自の世界が出来上がっているという感じになると思う。

さて、TV番組や映画、あるいはコマーシャルのために芥川氏が書いた曲の中にも、巷間名曲とされるものが数多くある。特に1964年のNHK大河ドラマ『赤穂浪士』や、1977年の映画『八つ墓村』と『八甲田山』あたりは代表的なものと言ってよいだろう。TVのコマーシャル・ソングで私にも覚えがあるのは、「だ~れもいないと思-っていても、どこかで、どこかで♪」と始まる有名製菓会社のもの。いろいろ書いておられたのだなあ、と思う。そう言えば、芥川氏が若い頃に手がけた映画音楽の中に、『猫と庄造と二人のをんな』(1956年)というのもあるらしい。私は未見だが、原作が谷崎潤一郎ということで、おそらくエグイ人間関係が描かれている作品なのだろう。その映画音楽の中にある<猫のワルツ>という曲が、上記フォンテック盤のCDでも聴ける。この一曲だけの印象を言えば、何か古き良き時代のホーム・ドラマを思わせるものなのだが、どこかネチョ~ンとした雰囲気は芥川節の一側面が如実に現れたものと言えるだろう。

(PS)

芥川氏が1989年1月31日に永眠された少し後、FM放送で氏の遺作となった<日扇上人奉賛歌「いのち」>がオン・エアされた。この作品は未完に終わったため、他のどなたかが補筆して仕上げた物を演奏したのだが、これが何とも恐ろしい曲であった。男声合唱の重々しい歌がいきなり不気味な雰囲気を作り出すのだが、「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」というお経が管弦楽ともども、これでもか、これでもか、これでもか!とオスティナートされ、次第にガンガンガンガン盛り上がっていく。その執拗な繰り返しが、やがてとんでもない音響にまで膨れ上がる展開はまさに、異様としか言いようのない世界を生み出していた。
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短い曲名、長い曲名、まぎらわしい曲名

2005年11月23日 | エトセトラ
前回からのつながりで、今回はクラシック音楽作品の数ある曲名の中から、とりわけ短いもの、やたら長いもの、そしてよく似ていてまぎらわしいものについて、ちょっと語ってみたい。

まず、あまたあるクラシック作品の曲名の中で最も短いものは何か、と問われれば、私は結構自信を持って答えることができる。それは、ライエル・クレスウェル作曲によるオーケストラ曲<オ!>である。たった一音、オ!と叫ぶだけのタイトルだ。これ以上短いものは多分、ないと思う。曲自体には特にどうという印象も残っていないが、まあ一応20世紀らしいオーケストラ作品の1つではあった。随分昔、FM放送の『海外の演奏会』みたいな番組で一度紹介されたのだが、この曲は結局それっきり忘れ去られてしまったようだ。

今度は逆に、一番長いクラシック作品の曲名は何か、となるとこれは分からない。まるで見当もつかない。とりあえず、ユニークな曲名でお馴染みのエリック・サティの作品からは、<いつも片目をあけて眠る太った猿の王様を目覚めさせるためのファンファーレ>あたりが有力候補になろうか。これはやたら長いタイトルとは対照的に非常に短いファンファーレだが、どこかとぼけた味を持つ面白い曲である。しかし、そのサティのファンファーレのように遊びが入った物ではなく、大真面目に(?)長くなっている曲名ということで、今興味深い例が2つほど、頭の中に思い浮かんで来ている。

まず1つ目は、その曲を実際に聴いたわけではなく単なる本の知識で得たものに過ぎないのだが、曲名の長さに加えて使う楽器が珍しかったことで記憶に残っている作品である。それは、グルックがロンドンで演奏して評判をとったという、グラスハーモニカの協奏曲である。原語でどう言うのかは残念ながら不明だが、日本語では、<バンドの伴奏を持つ、泉の水によって調律された26個のコップのための協奏曲>みたいになるようだ。これは相当長い曲名である。

(※ちなみにグラスハーモニカという楽器は、たくさんのコップに水を入れ、その水量を調節して音階順に並べたものだ。それらを回しながら濡れた指でこすると、キュオ~ン、コワ~ンと不思議な音を発するのである。20世紀になってブルーノ・ホフマンというスペシャリストが現れ、水を使わずに厚さの違うコップを共鳴箱の上に並べてから濡れた指でこする、という新しい演奏法を生み出したそうだ。新しい録音の中では、アバドの指揮によるベートーヴェンの<舞台劇『レオノーレ・プロハスカ』のための音楽Wo Op96>の中にある「メロドラマ」と題された部分で、この楽器の独特な響きを聞くことが出来る。ただ、私の個人的な感想としては、このCDのグラスハーモニカ演奏には不満がある。昔FMで耳にしたホフマンの演奏には、“天来の妙音”とでも言えそうな不思議な魅力があったのだが・・。)

あと、もう1つ。これは曲名というより、その曲に添えられた副題と言った方が正しいのかも知れないが、1つ、やけに長いものがある。何年前になるか忘れたが、NHKのFM放送で紹介されていたオットー・M・ツィカンの<チェロ協奏曲>に添えられた標題である。もともとのドイツ語ではどうなっているか分からないが、日本語訳としては、「チェロと大管弦楽のための、因習的な手法によって試みられた3つの異なる悲愴な楽章」みたいな感じだったと思う。チェロ・コンひとつにそこまで説明つけるかあ?と突っ込んであげたくなるぐらい長かった。これはチェロ独奏にかなり強い音圧と緊張した高音の持続を要求するもので、チェリストにとっては思いっ切りchallengingな作品である。

今回の締めくくりは、よく似ていて紛らわしい曲名の例。このブログでもかつて、<ラ・シルフィード>と<レ・シルフィード>は全く別のバレエ作品という事を書いたが、その他にもかなり間違えやすい例がある。今私の頭に浮かんでいるのは、2例。1つは、先ほど言及したグルックが書いた2つの歌劇、<オーリードのイフィジェニー>と<トーリードのイフィジェニー>。非常にまぎらわしいが、この2作は全く別物である。序曲が有名なのは前者<オーリード>の方。一方、グルック・オペラの集大成と言われているのが、後者<トーリード>。この2つほど紛らわしい曲名は、ちょっと他にないんじゃないかと思う。また、この2作には連続性があって、最初の<オーリード>の物語に続く後日談が、<トーリード>ということになっている。

この2つの<イフィジェニー>ほどではないものの、ヴェルディが若い頃に書いた2つの歌劇、<アッティラ>と<アルツィラ>もよく似たタイトルなので、両者がごっちゃになっている方もおられるのではないだろうか。(※ひょっとしたら、「はじめから、どっちも知らないよ」と言われるかもしれないが。)この2つもやはり、全く別の作品である。<アッティラ>の方は、このブログでも「ピエロ・カプッチッリの訃報」というトピックの中で言及したことがあるが、それ自体に独自の魅力がある作品だ。一方の<アルツィラ>はむしろ、ヴェルディが後に書くことになる傑作群の先鞭をつけているという点で価値がある。しかしながら、ここに並べた4つのオペラ作品の具体的な内容や違いをちゃんと語るには全然枠が足りないので今回は割愛し、これら4作についての話はまたいつか別の機会に譲りたいと思う。

(PS)

今回のトピックに関連したおまけのお話を一席。よく知られた早口言葉の1つに、「青巻紙、赤巻紙、黄巻紙」というのがある。これを全くつかえることなく3回繰り返して言える方は、ご自身の言語発音能力の高さにかなり誇りを持ってよろしいのではないかと思う。これは最後の「黄巻紙(きまきがみ)」が特に難物で、たいていここでやられる。さて、ちょっと有名なポーランド系の指揮者達の名前を3人並べてみると、この早口言葉みたいなのが1つ出来上がる。「ロヴィツキ、ヴィスロツキ、スクロヴァチェフスキ」である。こんなの簡単、早口言葉になってないよ、とおっしゃる方は、彼らのファースト・ネームも付けた形でチャレンジしてみて下さい。

ヴィトルド・ロヴィツキ、スタニスラフ・ヴィスロツキ、スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ・・では、3回どうぞ。w

今回は、この辺で・・。
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クラシックの標題よもやま話

2005年11月19日 | エトセトラ
前回登場したメキシコの指揮者エドゥアルド・マータ(Eduardo Mata)の、最後のaからアルファベットのしりとりをしてみようと考えたら、Altitudesという標題を持った交響曲がふと思い浮かんだ。数ヶ月ほど前に復刻されたその作品のCDを買ったから、つい連想したのだろう。ご存知の方もおられることと思うが、<アルティテュード(Altitudes)> というフランス語の標題は、1970年代に全盛期を謳歌した名指揮者の一人、ジャン・マルティノンが作曲した交響曲第4番に付けられたものである。日本語では、<至高>という訳し方をしている。これは三つの楽章からなる作品で、全体に何か哲学臭のようなものが漂う高踏的な楽曲である。最後の第3楽章が割と力強く盛り上がるので、一番とっつきやすいかも知れない。作曲したマルティノン自身がシカゴ交響楽団を指揮した演奏が、最近廉価のCD(RCA盤)で復活したのだった。

しかし、この交響曲の各楽章に付けられた説明文にある通り、あるいは最後に複数形のsが付いている事から文法的にも判断できる通り、このフランス語の標題は、「高い場所、高地」といった感じに本来訳せるものである。それを<至高>などという大仰な邦題にするのは、その方がいかにも格調高くてカッコよく見えるからではないかという気がする。

カッコいい標題と言えば、上述のマルティノンのCDにも併録されているニールセンの第4交響曲に付けられた邦題、あの<不滅>というのもその好例だろう。これは実にカッコいい標題である。一時期私は、一年間を締めくくる一曲という意味で、大晦日に最後にかけるレコードとしてよくこの<不滅>を選んだものだ。ベートーヴェンの<第9>だけは絶対年末には聴かないぞ、という強い決意のもとにである。ところでこの標題に関しては、「<不滅>ではなく、<消し難きもの>と訳すべきだ」という主張をよく目にするが、その意見は極めてごもっともである。その方が確かに、<不滅>というよりはずっと原題に近いように思えるからだ。

このニールセンの人気交響曲に付けられたデンマーク語の原題Det Uudslukkeligeが、もともとどんな意味を持った単語であるかについて、随分昔『レコード芸術』か何かで読んだ覚えがある。今思い出せる範囲で書いておくと、この単語は、「暖炉などで燃えていた火が燃え尽きて、すっかり白い灰になっているのだが、その奥の方を見るとまだオレンジ色の小さな炎がチロチロと燃えているような」、そんな状態を表現する形容詞だったと思う。結論から言えば、それにピッタリと対応する一つの日本語はない。それで結局、英訳されたThe Inextinguishableをもとにして、「消せないもの」、あるいは「消しきれないもの」という訳し方をする方が、<不滅>よりは妥当だろうという話になるわけである。しかし、そうとわかっていてもなお、タイトルとしてはやっぱり<不滅>の方がカッコいいよなあ、なんて思えてしまったりもする。

さて、ある程度クラシック音楽を聴き込んだレベルになってくると、苦笑を禁じ得ない標題が少なからず存在することに気づく。例えば、ドヴォルザークの交響曲第8番<イギリス>やモーツァルトの第38番<プラハ>あたり、音楽の内容とその標題には何の関係もない。また、由来は何かあったのだろうが、結果的には要らない標題と見なされるものもある。マーラーの交響曲第3番<夏の朝の夢>、同じく第4番<大いなる喜びへの賛歌>などがその例である。LP時代には、ボロディンの交響曲第2番に<英雄>なんてタイトルが付けられていたのを目にしたことがある。これらは、ひょっとしたら今でもあるかも知れない。しかし、それらの例のうち、モーツァルトの<プラハ>については、(曲の内容と無関係ではあっても)やはりあった方がいいかもなあ、と思ったりする。「K.504の終楽章は」なんて言われても、私などはちょっと戸惑ってしまうのだ。あるいは、「モーツァルトの<38番>の終楽章は」と言われても、一瞬考えて、「ああ、<プラハ>の終楽章ね」と確認出来て初めて、頭の中でその曲が鳴り出すのである。モーツァルトに疎遠な私にとっては、やはり標題の方が便利だ。

そうして考えてみると、標題というのはこの<プラハ>の例でも言えるように、「よく分かっていない人や、初心者に対して優しい」という側面がある。私の場合、器楽・室内楽ジャンルはおそらく一生初心者、あるいは門外漢のままだろうと予想される。例えば、モーツァルトの弦楽四重奏曲で何を知っているかと言われたら、<狩>だけ。ドヴォルザークなら、<アメリカ>だけ。ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタとなったら、<春>と<クロイツェル>以外の物は何一つ頭の中で鳴り出さない。そんなレベルなのである。実際には、それら標題付きの作品以上の傑作が他に山ほどあって、それこそ分かる人たちには分かるのだ。しかし、そのジャンルがよく分からない者はとりあえず、標題のあるものを手がかりにする。やはり標題というのはこよなくビギナー・フレンドリー、初心者に優しいのである。

それやこれやで標題の便利さというのは確かにあるのだが、少し前に4枚組廉価セットで買ったシュナーベルの《ベートーヴェン ピアノ・ソナタ選集》の曲目一覧を見た時、「えっ?」と思うような標題がいくつか目にとまったのだった。有名な標題、例えば第8番<悲愴>、第14番<月光>、第23番<熱情>といったあたりは別にいいのだが、第4番<グランド・ソナタ>、第12番<葬送行進曲>、第18番<狩>、果ては第24番<テレーゼに>なんていう風に標題が付けられていると、(こちらの不勉強に過ぎないのかも知れないが)「そんなのが、あったんですかあ?」という気持ちになってしまう。「クアドロマニア」とカタカナ表記されたこの海外レーベルはひょっとすると、そのカタカナ利用が表しているように、日本のクラシック音楽マニアを中心的な購入者と見込んでいるのかも知れない。日本人クラシック・ファンには標題好きが多いから、という販売戦略上の判断であろうか。(※池辺晋一郎センセーがかつてTVで、「歴史的に見て日本人にとっての音楽は、常にお芝居の添え物だったり、踊りの伴奏だったりして、何か標題的な場面がいつも存在していた」みたいな事をおっしゃっていたが、それも理由の一つになるかも知れない。)

さて、この線の話をさらに進めて、無意味な標題をやたら使い過ぎたために失笑を招いた例を最後に一つ。これは洋泉社の『裏名盤ガイド』に紹介されている話だが、かつてレイボヴィッツが指揮した《ベートーヴェン交響曲全集》の古いLPにはお馴染みの<運命>や<田園>等の他に、<舞>だの<平和>だの、あげくにゃ<草原>だのと、何だそりゃ?みたいな標題が書き添えられていたそうである。<舞>はきっと7番のことだろうが、<草原>ってのは何番のつもりだったのだろう?<平和>も分からない。こうなると、過ぎたるは何とやらであろう。
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<ショーロス第10番>の聴き比べ

2005年11月15日 | 演奏(家)を語る
前回に続きヴィラ=ロボスの傑作<ショーロス第10番>について、今回はCDで入手可能な物から、私が聴いて知っている3種の演奏についての感想文を書いてみたい。

1.ヴィラ=ロボス自身の指揮によるモノラル盤 【EMI系】

ヴィラ=ロボスという人は作曲のみならず、様々な楽器も使いこなす多芸多才な人だったと伝えられている。「オーボエだけは難しくて諦めたが、他はだいたい出来た」というような話を昔何かで読んだ記憶がある。特にギターの腕前は、なかなかのものだったそうだ。また、この人はオーケストラの指揮者としても、自作自演に名演を遺している。<バキアナス・ブラジレイラス>をはじめとする相当数の録音(EMI系)があって、これは今でもCDボックス・セットの形で入手が可能なようである。

ただ、<バキアナス・ブラジレイラス>のように編成が基本的に小振りで、各楽器の奏者にある程度意向が伝われば、後はオートパイロットでもやれちゃいそうな曲が中心になっているものならいいけれど、<ショーロス第10番>のようなとんでもなく大掛かりな規模のサウンドをしっかりまとめて引っ張るとなったら、やはり相当な腕前が必要となってくる。しかし率直に言って、ヴィラ=ロボス先生には残念ながら、指揮者としてそこまでの腕前はなかったようである。

イントロ部分は、文句なし。非常に野蛮な響きが聞けてうれしい。フランスのオーケストラからこういう凶暴な音を出してくれたのは素晴らしい。「作曲者はこういうテンポで、またこういう響きで始めることを望んでいた」というのが記録されているわけだから、その意味でもこれは貴重だ。それに続く夜の情景を思わせる部分では、弦楽器の歌わせ方に独特の表情が出ていて面白い。また、この部分で特に顕著に出ている特徴は、作曲家が管楽器セクションに求めた鋭い音である。これはヴィラ=ロボスの音の好みを反映したものと考えてよいかもしれない。で、そこまではいいのだが、いよいよ合唱団が出てきて熱狂的な本編に入ると、指揮者としてのヴィラ=ロボスの限界がさらけ出されてしまうのである。

手短に言えば、オーケストラの各楽器と合唱団のバランス、つまり、どの部分ではどれを引き出してどれを引っ込めるかみたいな、その鳴らし方の配分がまるで出来ていないのである。だから器楽奏者も歌い手も、皆思うままに鳴らし思うままに歌って、ズンチャカズンチャカとひたすら突っ走ってしまうものだから、聴いていてやかましいばかりなのだ。この演奏が雑然とした聞き苦しいものになってしまっているのは、ひとえに指揮者の責任である。とにかく、鳴らし方のバランスが悪い。音質はモノラルながら鮮明なので、よほどオーディオ的にこだわらなければ音の点では問題無いものと思うが、これだけを聴いて作品自体の評価をするのは、ちょっとまずかろうと思う。

私は何年か前に、この<ショーロス第10番>を含んだ一枚物の自作自演CDを見つけてお手ごろな価格で入手したのだが、今はどうだろうか。上述のボックス・セットでしか手に入らないかも知れない。そうなると、他の曲もまとめて聴きたいという方以外には、かなり高い買い物になってしまいそうだ。

2.ティルソン=トマス指揮ニュー・ワールド・シンフォニー、他 【ソニー】

ティルソン=トマスという指揮者は、恐ろしいほど耳がいい。多数の打楽器を抱えた大編成のオーケストラに加えて混声合唱、さらに独奏ピアノまで参加してくる爆裂音楽を、まったく超人的とも言うべき耳の良さで、きれ~いに交通整理して鳴らす。本当に聴いていてびっくりさせられるような明晰さである。各楽器は徹底的に“お行儀よく”鳴らされ、誰一人ハメを外すような者は出て来ない。複雑な合唱の絡み合いも、これまた徹底的に整理整頓されてきれ~いに歌われる。よくある言い回しを使えば、スコアの透かし彫りを見るような演奏である。上に挙げた作曲者自演盤の、まさに対極にあるものだ。

だから、当CDは、<ショーロス第10番>の複雑なスコアのからくりをとことん解読しつくしたいという、言わば研究家肌のファンには大歓迎されることだろう。しかし正直言って、この完璧無類のデオドラント(=脱臭された)・サウンドは、私をちっとも燃えさせてくれない。併録された<バキアナス・ブラジレイラス>も、全く同様。極めて都会的、というか“究極の洗練美”みたいなものが示されたこれらの演奏には、つくづく感心はさせられるものの、熱狂や興奮といった大事な要素は最後まで感じさせてもらえないのである。

3.マータ指揮シモン・ボリバル交響楽団、他 【Dorian】

飛行機事故で不慮の死を遂げたメキシコの怪人(?)エドゥアルド・マータ。知る人ぞ知る、かも知れない。最近タワーレコードさんが復刻してくれたロンドン響との<春の祭典>は最高だった。この人気作については私も何十という演奏を聴いてきたが、これほど楽しく聴かせてもらったのは久しぶりだった。

閑話休題。当CDで演奏しているのは、ブラジルのご近所にあるベネズエラのオーケストラである。ここでもマータ節が炸裂している。イントロ部分はゆっくりした感じだが、全体的には速めのテンポ。冒頭のピアノ・ソロの粒立ちの良さ、そして弦のピチカートのきびきびした生きの良さから、だいたいの演奏の姿が予測できる。いかにもこの指揮者らしく、熱気を孕(はら)みながらもパリッとした佇まいの音楽だ。従って土俗感みなぎる粘っこさみたいな要素は希薄なので、その辺が物足りなくも感じられる。

夜の情景を思わせる部分では、木管群につけさせた表情がかなり鮮烈だ。ヴィラ=ロボスの自演盤以上に鋭い音色で、様々な熱帯の鳥たちの歌を極めて濃い隈取りで描いていく。そして、本編に入る直前にとんでもないシンバルのドバッシャーン!が加わるのも、マータならではの(?)やりたい放題。ただし、その後のファゴットとピアノは随分控えめである。やがて合唱団が登場して本編に突入すると、テンポがぐっと速くなる。曲の進行にアクセントを付ける各楽器による合いの手が、マータ盤ではとりわけ印象的だ。バス・ドラムのドーン!ドーン!あるいは、マンドリン(または、それに類する楽器)のジャンジャカジャカ、ジャンジャカジャカ・・。何とも個性的な彩りをもった<ショーロス第10番>である。

この演奏、土俗的な粘りに乏しいのが物足りなかったり、あるいは幾分メタリックな響きを持ったマータ特有のサウンドにちょっと違和感を持ってしまう面があったりするのも否定できないが、上記の2種よりは多少は良いかも知れない。演奏に対する感じ方は人それぞれなので、あんまりな事は言えないが・・。

さて、そういう訳で私がやたら入れ込んでしまっているカルバリューなる人物のバイエルン・コンサートでは、あの当日他にどんな曲が演奏されたのだろうか。まさか、たった12分の<ショーロス第10番>1曲のためだけに、フレイレのような名のあるピアニストを招き、バイエルン放送の合唱団まで引っ張り出しての演奏会をやる訳はない。これは多分、《ブラジル音楽の夕べ》みたいな企画だったのではないかと推測されるのだが、もしバイエルン放送協会にこの時のテープが保存されているなら、是非CD化してほしいものだ。

それも出来たら、鮮明な音でCD化してくれるレーベルさんにお願いしたい。例えば、この種のライヴ音源をよく復刻してくれる某社のCDは、こもったような貧しい音のものをそのまま出してくるから、買って聴いたらガッカリという事がよくあるのだ。例えば、ズビン・メータがウィーン・フィルを指揮した<春の祭典>ライヴを昔FMで聴いて感激し、同音源がCD化されたことを知って飛びつくように買ったものの、その貧しい音質には愕然とさせられてしまった。結局、中古売却。そんな事にしたくないのである。

しかし、それよりもっと実現性が高いのは、将来ナクソスあたりから新録音が出ることだろう。その方がずっと期待出来そうだ。そういうことになれば音質的な問題はほとんど無いだろうから、あとは演奏である。この作品こそ、良い演奏で聴きたい。もしナクソスだったら、あの<タプカーラ>の時のようなひどい人選ミスだけはくれぐれもしないでほしいと、切に願う。
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<ショーロス第10番>

2005年11月11日 | 作品を語る
ヴィラ=ロボスのオーケストラ作品には、いろいろな楽想がモコモコと出てきては有機性のない展開に陥って、やたら散漫な印象を与える曲が多い。だから聴き終わってみると、「おじさん、結局何を言いたかったんですか?」と尋ねてみたくなることがしばしばある。

しかし、彼がそのいつも嵌(はま)りがちだった陥穽から脱却して、見事に楽想を有機的にまとめあげ、持ち前の土俗感を熱狂的な形で活かしきった奇跡のような大傑作が、少なくとも一つある。それが、今回のトピックに掲げた<ショーロス第10番>である。これは演奏時間にすれば僅か12分程度の小ぶりな曲なのだが、その内容の充実ぶりは比類なく、少なくとも私にとっては、「ほとんど突然変異的に産み出された、ヴィラ=ロボスの超絶的最高傑作」と呼べるものなのだ。これは、独奏ピアノと混声合唱、そして多数の打楽器を伴う大管弦楽という、その編成を聞いただけでもワクワクしてしまう偉大な作品である。

この曲にまだこれから触れるという方のために、おおよその展開とその特徴について書いておきたい。私なりには、この曲は三つの部分に分けることが出来るんじゃないかと思う。具体的には、以下の通りである。

1.イントロの部分

弦と金管を主体にした物々しい開始部で、いきなり「おおっ」と思わせる。歴史に埋もれる作品には、「出だしはご立派だが、後がジリ貧」というのがよくある。例えば、ケックランの<ジャングルブックの音楽>あたりに私はそれを感じるのだが、ここでのヴィラ=ロボスは全く違う。この豪快な出だしで聴き手を惹きつけ、なお且つその後の展開も期待を裏切らないのである。弦や各種の管楽器の他に、独奏ピアノも迫力のある音で参加してくる。この部分、約2分半。

2.ジャングルの夜を想像させる神秘的な部分

軋むように上下動をする弦楽器群が神秘的な雰囲気を作り出し、クラリネットやホルン、あるいはサクソフォンなどが次々に登場して、熱帯の夜を思わせるような独特の空気を生み出す。ハープも彩りを添えてくる中、さまざまな木管楽器が賑やかに呼び交わして、ジャングルの鳥たちの声を模しているようだ。やがて弦楽セクションも加わって曲が盛り上がってくると、いよいよ本編に突入となる。この部分、約3分。

3.合唱を伴う熱狂的な音とリズムの饗宴

短いゲネラル・パウゼを経て、ファゴットが本編のテーマを吹き始める。そこへすかさず、ピアノが力強い合いの手を入れてくる。何ともゾクゾクする展開だ。やがて弦楽とトランペットも加わってきて、曲は大きくクレシェンドする。待ってました、のタイミングで各種の打楽器がズン!チャカチャ、 ズン!チャカチャ、 ズン!とご機嫌なリズムを刻み始めたら、いよいよ始まりである。土俗感をむき出しにした金管のアクセントも最高だ。そして男声合唱、続いてそれに呼応するように女声合唱が原始的なコーラスを始めたら、後はもう何も考えなくてよろしい。音楽が生み出す力強い生命の拍動を、体で楽しもう。この本編、約6分半。全曲通しても僅か12分ほどの曲なのだが、これに比肩し得るカタルシスを与えてくれる曲を他に見つけるのは結構難しい。有力候補としては、ボロディンの歌劇<イーゴリ公>の中で聴かれる「ポロヴェッツ人の踊りと合唱」あたりになるだろうか。

―という訳で、<ショーロス第10番>がヴィラ=ロボス畢生の名作であることは自信を持ってお伝えできるのだが、実は大きな問題がある。

それは演奏である。私がこれまでに聴いてきた範囲での話ではあるが、この曲には満足できる名演奏が、一般に入手できる録音の形では存在しないのだ。私がこの曲に初めて出会ったのは、1980年8月19日(でよかったと思う)にNHK-FMで放送されたバイエルン放送交響楽団のコンサート・ライヴだった。当時はFMのステレオ受信など出来るような機械は持ち合わせておらず、安いラジカセで受信して、それをカセット・テープにエア・チェックしながら聴いたのだった。が、果たせるかな、この時の録音テープ(※今はMDに移してある)は私の一生の宝物になってしまった。と言うのは、この曲に激しく感動してその後さまざまな録音を捜し求めてきたのだが、未だにこのバイエルン・ライヴを凌ぐ演奏に出会えていないからである。この時の指揮者はブラジルの人で、(当時の私のメモに書き間違いがなければ)エレアサル・デ・カルバリューみたいな名前だった。演奏していたのは、バイエルン放送交響楽団&合唱団。そしてピアノ独奏が、これまたブラジル出身のネルソン・フレイレという布陣だった。

ショーロというのは元々ブラジルの街中でやっている民間の音楽で、その微妙なフレージングとか呼吸みたいな物は、ご当地の方々でないと表現しきれない種類のものらしい。そういった特別な呼吸みたいなものが当作品にどの程度盛り込まれているかは分からないのだが、このバイエルン・ライヴでタクトを執ったカルバリューなる指揮者は、さすがにツボにはまった指揮ぶりを見せてくれた。とにかくまず、そのノリの良さが抜群なのだ。ヴィラ=ロボスの音楽を自家薬籠中のものとしている。またそれだけでなく、オーケストラと合唱団をバランスよく鳴らす技術にも長けていて、次回ご紹介する作曲者の自演盤で聴かれるような“アンサンブルのごちゃつき”というのが無いのである。ラストで一瞬、タメを効かせる呼吸も良い。また、雄弁闊達なネルソン・フレイレのピアノにも安定感があって、いかにも「お国物をやらせてもらってますぅ」という感じが非常に良かった。

しかし、今この記事をお読みの方は当然、「聴きたくても聴けない演奏をそんな風に良かっただの、最高だったのと言われても、しょうがないわい」とお感じになっておられることと思う。そこで次回は、現在CDで聴くことの出来る(あるいは、少なくともかつてCDで存在したことがある)物の中から、私が聴いて知っているCDを3種挙げて、それぞれについての簡単な感想文を書いてみたいと思う。私の個人的な物差しの中では、どれを取っても次善の選択にしかならないものなのだが、演奏に対する感じ方は人それぞれでもあり、何より音としてまず聴いてみなければ何も分からないので、次回はその3種類についてちょっと補足的なお話をしてみたいと思う。
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