クラシック音楽オデュッセイア

2009年の大病以来、月1回程度の更新ペース。クラシックに限らず、身の回りの事なども、気の向くままに書いております。

歌劇<ホヴァンシチナ>(3)

2007年03月28日 | 作品を語る
今回は、歌劇<ホヴァンシチナ>の最終回。第4幕と、最後の第5幕の内容。

〔第4幕〕

イワン・ホヴァンスキー邸の食事の間。蟄居(ちっきょ)しているホヴァンスキーを楽しませようと、女農奴たちが歌ったり踊ったりしてみせる。しかし、主人の気は晴れない。そこへゴリーツィン公の使者がやって来て、「避けがたい不幸が迫っている。よくよく気をつけてほしい」と、ホヴァンスキーに助言する。ホヴァンスキーはその警告を一笑に付し、それまで歌っていた女農奴たちを下がらせ、かわりにペルシャの女奴隷たちに踊りを始めるよう命ずる。

(※ここで披露される『ペルシャの女奴隷たちの踊り』は、おそらくこのオペラで聴かれるナンバーの中でも最も有名な物の一つだろう。エキゾティックなムードに溢れる名曲だ。映画版では、当時の人気バレリーナだったマイヤ・プリセツカヤが登場する。)

ペルシャ女たちの踊りが終わった時、シャクロヴィートゥイがホヴァンスキーのもとを訪れ、「皇女ソフィアが、緊急会議を召集しておられる。あなたがいなくては始まらないとのことだ」と伝える。おだてられてすっかり気をよくしたホヴァンスキーは正装して戸口に向かうが、そこでシャクロヴィートゥイと一緒に来ていた男にいきなり刺されて即死する。みじめに横たわるホヴァンスキーの死体の上にかがみ込みながら、シャクロヴィートゥイは嘲りの笑みを浮かべる。

場面変わって、モスクワ聖ワシーリ寺院前の広場。流刑地に送られるゴリーツィン公を、人々が見送る。マルファがドシフェイのもとに、貴族会議の決議を知らせに来る。「分離派教徒を、容赦なく打ち殺せ」。いよいよ殉教の時が近づいたと、ドシフェイは覚悟する。一方、相も変わらず身勝手なことをわめいているアンドレイに対して、マルファが応じる。「何も知らないのね。あなたの父は暗殺され、あなたもお尋ね者になっているのよ」。アンドレイは彼女の言葉を信じないが、やがて鎖につながれた銃兵隊員の行列がやってくるのを見て、愕然とする。そこでようやく事態を理解した彼は、助けてくれとマルファにすがりつく。彼女に導かれてアンドレイが去ったあと、銃兵隊員たちの断頭刑がいよいよ執行されることになる。しかし、そこへ皇帝の伝令ストレシネフ(T)がやって来て、「銃兵隊に、皇帝からの恩赦が出た」と伝える。

(※第4幕後半の展開は、史実をある程度知っていないと理解が難しい。映画版DVDに付いている解説パンフレットをもとにしてこの部分を読み解くなら、ここは皇女ソフィアがピョートル帝一派との政争に破れたという歴史的状況を表しているようだ。ソフィアは修道院に送られ、彼女の腹心シャクロヴィートゥイは処刑され、ゴリーツィン公は国外追放ということになるのだが、このオペラではその中の「ゴリーツィンの追放シーン」を描き出しているわけである。ちなみに、そこで流れる音楽は、マルファが第2幕の予言の中で歌っていた名旋律。)

(※銃兵隊の断頭刑がいよいよ行なわれようとする直前のシーンには、かなりの迫力がある。ここで聴かれる大合唱こそ、この第4幕後半最大の聴きどころと言ってよいだろう。映画版の演奏は、「うぐあぁーっ!」という女の悲鳴までが交錯し、何とも凄まじい。)

〔第5幕〕

松林の中にある隠れ修道院。意を決したドシフェイが、教徒たちに呼びかける。「我々には、ピョートル帝と争う力はない。・・・事は敗れたのだ。ここで屈服して信仰を捨てるよりは、皆で死を選ぼう」。殉教の喜びを歌いながら、分離派教徒たちが僧院に戻っていく。

一人残ったマルファは、「アンドレイを、私にお返しください」と神に祈る。そこへ姿を現したアンドレイに彼女は、「一緒に死にましょう」と語りかける。やがて、林の中から親衛隊のラッパが聞こえてくる。ドシフェイと教徒たちは白装束に身を包んで僧院から出て来ると、薪(たきぎ)の山を作り始める。そして教徒たちが全員集まったところで、薪に火がつけられる。燃え盛る炎が次第に彼らを包み、やって来た兵士たちが呆然とそれを見守る中、オペラ全曲の終了となる。

(※第5幕のエンディングでショスタコーヴィチは、第1幕の前奏曲『モスクワ河の夜明け』を再び呼び起こして演奏するように編曲している。このアイデアは素晴らしい。もう20年以上も前の話になるが、歌劇<ホヴァンシチナ>がNHKのFMで紹介されたことがあった。演奏家の顔ぶれなど、その時の資料はもう全く残っていないのだが、とにかくそこで初めて、私はこのオペラの全曲を聴くことになった。当時は作品の内容について詳しく知らなかったので漠然と聞き流していたのだが、この長大なオペラが終わるラストのところで、あの『モスクワ河の夜明け』が聞こえてきたのである。そこで私は、何とも言えない感動を味わったのだった。「ああ、人間たちの小ざかしい争いなどとは関係なく、大自然はまた静かな朝を迎えるのだなあ」と、自然の悠久の営みに思いをはせてしまったのである。客観的に見れば、これはいささかピントはずれな感動の仕方であったろう。おそらくショスタコーヴィチ自身は、「新しいロシアの夜明けに、希望を託そう」という意図でこのような編曲を行なったのだと考えた方が、妥当なように思える。と、そうは言いつつも、私がかつて持っていたような感じ方も面白くていいんじゃないかな、という気が今でもしている。)

(※実は、『モスクワ河の夜明け』を全曲の最後に再び流すというショスタコーヴィチのアイデアには、作品の構造的観点から見ても興味深いものがある。映画版DVDで解説をお書きになっている一柳富美子氏のご指摘によると、歌劇<ホヴァンシチナ>には巧みに設計されたシンメトリー構造が見て取れるのだそうだ。シャクロヴィートゥイのアリアを中核とする第3幕を真ん中に置いて、登場人物の紹介を主とする第1、2幕と、悲劇が描かれる第4、5幕がセットになって対比を成している、というのがまず一つ。そしてさらに、第2幕と第4幕もちょうど鏡のように向かい合っているというのである。具体的な曲名で言えば、第2幕で歌われるマルファの『予言の歌』と第4幕の有名な『ペルシャの女奴隷たちの踊り』が好一対のペアになっているという図式だ。しかし、そのシンメトリー構造を成就させるには、第1幕と第5幕もしっかり向き合わねばならない。現実には未完のままムソルグスキーが世を去ってしまったため、それが果たされずに残念であったというのが一柳氏の論旨である。そのような感覚で見てみると、オペラ全曲の最後に第1幕の前奏曲を置くことは、そこにまた一つのシンメトリーを生み出す結果になっているのではないだろうか。その意味でも、ショスタコーヴィチの編曲には何か含蓄の深いものが感じられるのである。)

(※R=コルサコフが第5幕のエンディングに施した編曲は、それに比べるといささか物足りない。そこでは最後に親衛隊のマーチが勇ましく流れてきて、ちょっとあっさりしたような終わり方をしてしまうのだ。実はR=コルサコフは、前回語った第2幕を締めくくる曲として『モスクワ河の夜明け』を使っていたのである。貴族シャクロヴィートゥイがゴリーツィン邸に集まった一同のもとへやって来て、「皇帝は『ホヴァンシチナ』を徹底調査するよう、お命じになった」と伝えたシーン、あの第2幕のエンディングである。しかし、私の意見としては、このとっておきの名旋律をそんな途中で使うより、ショスタコーヴィチ版のように全曲の最後に置いた方がずっと効果的なのではないかと思う。)

(※最後に、付け足し話を一つ。1989年に行なわれたアバドのウィーン・ライヴには、その当時の最も新しい研究成果が採り入れられていた。それはR=コルサコフ版を用いた“軽い”終わり方でなかったのは勿論のこと、ショスタコーヴィチ版による“『モスクワ河の夜明け』に未来への希望をこめた”終わり方でもなかった。そのラストで聴かれたのは、分離派教徒たちの焼死を重々しく描き出す極めて深刻な音楽だった。アバドの指揮にロシア的な重厚さはなかったが、何とも異様な聴後感を残すエンディングであったことは、今でもよく覚えている。)

―以上で、歌劇<ホヴァンシチナ>は終了。次回は、R=コルサコフとショスタコーヴィチの編曲をあらためて比較できる有名な歌曲集《死の歌と踊り》を中心に、ムソルグスキーの歌曲にちょっと触れてみたい。
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歌劇<ホヴァンシチナ>(2)

2007年03月23日 | 作品を語る
前回の続きで、ムソルグスキーの歌劇<ホヴァンシチナ>の第2回。今回は、主要人物が全員顔を揃える第2幕と、いよいよ大きな事件が発生する第3幕の内容。

〔第2幕〕

政治的実力者であるゴリーツィン公(T)の邸。陳情に来ていた牧師ががっかりして帰るのと入れ替わりに、マルファがやって来る。占い師としての能力を持つ彼女は、“失脚と流刑”というゴリーツィンの悲劇的な未来を予言する。ショックを受けたゴリーツィンは彼女を邸から追い出した後、「あの女を、沼地のところで殺せ」と部下に命じる。

(※ここで初めて登場するゴリーツィン公は、このオペラが持つ政治闘争史という側面を如実に体現している人物だ。最初のシーンで彼が読んでいるのは皇女ソフィアからの思惑ありげな手紙であり、彼の邸に来ている牧師は、新しい教会建設を実現するための力添えを彼に陳情している。この人物の声はやや性格的なテノールで、<ボリス・ゴドゥノフ>に出て来るシュイスキー公と一脈相通ずるところがある。ちなみに、1950年のネボリシン盤では、ニカンドル・ハナイエフがこの役を歌っているようだ。「ああ、なるほど」という感じである。)

(※マルファがゴリーツィン公の未来を占うシーンは、このオペラの大きな見せ所。彼女が『予言の歌』の後半で歌うメロディは、ムソルグスキーが書いた名旋律の中でも代表的な傑作の一つである。悲劇的な色調を帯びた暗い抒情美が、聴く者の胸に深く響く。映画版の占いシーンは、なかなかオカルト的に仕上げられていて楽しい。レオーノヴァも好演。ハイキンのキーロフ盤で歌っているプレオブラジェンスカヤも、豊かな声を活かしてこの場面を劇的に盛り上げている。)

ゴリーツィンのもとへイワン・ホヴァンスキーがやって来て、彼がとった門地廃止政策によって自分たちは大きな損害を受けたと文句を言う。この二人がやり合っているところへドシフェイが割って入り、「旧き良きロシアを、正しい信仰によって取り戻そう。改革を阻止せねば」と語る。しかし、旧いものが必ずしも良いとは考えないゴリーツィンは、ドシフェイに賛同しない。一方、ドシフェイの分離派教会に所属して彼らの力を利用したいホヴァンスキーは賛成の意を表するが、銃兵隊の日頃の蛮行について諌められる。

その彼らのもとに、マルファが逃げ込んでくる。「沼地のところで襲われました。でも、ピョートル帝の親衛隊が通りかかって、私を助けてくれたのです」。ここでゴリーツィン、ホヴァンスキー、そしてドシフェイの3人は、皇帝ピョートルの成長と存在の大きさに気付く。そこへ、皇女ソフィアの使いとして貴族のシャクロヴィートゥイが現われ、居合わせた一同に伝言をもたらす。「ホヴァンスキー親子が帝位を狙っているという密告書が、ピョートル帝のもとに届いた。皇帝は『ホヴァンシチナを、徹底調査せよ』と、お命じになった」。愕然とするホヴァンスキー。

(※オペラのタイトルであるホヴァンシチナという言葉を、このシャクロヴィートゥイのセリフの中で聞くことが出来る。これは、「ホヴァンスキーの奴ら」といったような侮蔑的ニュアンスを持った表現で、同時に彼らが企んでいる反乱をも意味するものと解釈できるそうだ。なお、今回参照しているハイキンのキーロフ盤は現在ナクソス・レーベルから出ているのだが、その日本語帯に表記された「ホヴァンシチーナ」という書き方は誤りで、「ホヴァーンシチナ」と前の方を伸ばすのがロシア語の発音からして正しいようである。)

(※この第2幕、及び最後の第5幕のエンディングには、R=コルサコフの編曲とショスタコーヴィチによる編曲との大きな違いがはっきり出てくる。その具体的な相違点と、それぞれの優劣を巡る解釈については、次回ストーリー全体の話が終わったところで改めて語ってみることにしたい。私の感ずるところ、ここは非常に大きなポイントである。)

〔第3幕〕

モスクワ河右岸にある銃兵隊の居住区。分離派教徒たちの合唱が響く。マルファがアンドレイへの想いをこめて民謡旋律の歌を歌う。「若い娘は、歩きまわった・・・」。それを耳にした老女スサンナが、「そういうのは、教義に反するよ」と、彼女をたしなめる。やがて、ホヴァンスキー邸から出てきたドシフェイがスサンナを去らせ、マルファと語り始める。マルファは、アンドレイとともに死ぬ決意が自分には出来ていると述べる。

(※映画版には、この第3幕で聞かれるはずのマルファの歌がない。おそらく映画としての時間制限のため、やむを得ずカットしたのだろう。しかし、その後に続くドシフェイとのやり取りともども、この部分が鑑賞できないのはちょっと残念である。一方ハイキンのCDでは、二人の名歌手による堂々たる歌唱が聴ける。プレオブラジェンスカヤは深みとスケール感のある歌を披露し、レイゼンは圧倒的な声を駆使した振幅の豊かな表現を聴かせる。)

やがて、貴族シャクロヴィートゥイが姿を見せ、有名なアリアを歌う。「不幸なロシアを、誰が救ってくれるのか。この悲惨な状態から救ってくれる皇帝を、我らに与えたまえ。・・・銃兵隊にだけは、ロシアが滅ぼされないように」。

(※オペラ全体のちょうど真ん中に位置する第3幕は、同時に、内容的な面でもこの作品の中核をなしている。その最大の根拠は、ここでシャクロヴィートゥイが歌う名アリアである。これは、彼が単なる策略家ではなく熱心な愛国者であることをも示した名曲だが、実はそれ以上に、祖国ロシアの不幸を憂える歌詞によって、ムソルグスキーが最も言いたかったことを表現しているものとも考えられるのだ。)

(※この名アリアについては、かつてシャリアピンがドシフェイ役を演じながら歌った歴史的事例がある。たしかに、ドシフェイがこれを歌ってもそんなに不自然ではなさそうである。この歌は優れたバス歌手によって歌われるのが望ましい、と考えられている面があるのかもしれない。そうすると、ハイキンのキーロフ盤でバスの声に近いドラマティック・バリトンがこれを歌っているのは、そのあたりの感覚が反映されたものではないかと推測出来るような気もする。その推理の当たり外れは別として、ハイキン盤で聴かれるイワン・シャスコフの歌唱は、非常に立派なものである。しばし息をつめながら聴き入ってしまうほどだ。この人を他の音源で聴いたことはないのだが、かなり優秀な歌手のように思える。)

(※一方、映画盤は、当アリアについて極めてユニークな措置をとっている。ハイ・バリトンのキプカロが演じるシャクロヴィートゥイにはこれを歌わせず、「民衆の指導者」という、この映画だけの“でっち上げキャラ”に歌わせているのだ。演じているのは、V・ネチパイロという名前のバス歌手だが、さすがに特別な役のためにわざわざ起用されただけのことはあって、彼は他の場面ともども見事な歌唱を聴かせている。当時のボリショイ劇場が誇った歌手陣の層の厚さみたいなものが、ここで改めて実感される。)

シャクロヴィートゥイのアリアに続いて、酔っ払った銃兵隊員たちの合唱、彼らをなじる妻たちの合唱、そして、その場を繕うクーシカの陽気な歌がにぎやかに続く。しかし、そこへ代書屋が駆け込んできて、「もう一つの銃兵隊居住区が、ピョートルの親衛隊と外人部隊によって全滅させられた」と、彼らに伝える。激しい衝撃を受けた隊員と妻たちは、隊長のホヴァンスキーに報復の戦いを促す。しかし、彼はそれに応じず、「各自家に帰って、運命が定まるのを待て」と指示する。

―この続き、第4幕と最後の第5幕については、次回・・・。

【2019年1月26日 おまけ】

イワン・シャスコフが歌うシャクロヴィートゥイのアリア。改めて、この人が最高だと思う。



【2019年3月5日 おまけ その2】

タマーラ・シニャフスカヤが歌う「マルファの予言の歌」

この名曲の動画はYouTubeに相当数載っているが、その中でも、(当ブログ主の感ずるところ)これがおそらく最高である。途中に入ってくるはずのゴリーツィン公の声がないことから、これは「アリア集」か何かを製作するためのセッション録音の一部だったものと思われる。声も歌唱も安定しており、完成度及び感銘度が極めて高い。聴きどころは、〔3:31〕から。「クニャージェ(公よ)」と呼びかけてから、ゴリーツィン公の悲惨な未来を予言する歌が始まる。なお、この動画は非常に大きな音でuploadされているので、再生機(PC等)の音量を普段の半分~3分の1ぐらいまで下げてから、再生クリックをしてほしい。音量注意である。

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歌劇<ホヴァンシチナ>(1)

2007年03月16日 | 作品を語る
ワルターの<大地の歌>をもって年末年始特番が先頃終了したので、ここからまた軌道を元に戻していきたい。R=コルサコフが編曲して仕上げた名作オペラのお話である。年末の区切りとなったボロディンの<イーゴリ公>に続いて、今回からムソルグスキーの歌劇<ホヴァンシチナ>を採りあげてみようと思う。このオペラにはLP時代から相当数の全曲盤が存在するが、当ブログで参照している演奏は以下の2点である。

●〔CD〕 B・ハイキン指揮キーロフ劇場管、他 (1946年)
【出演: フライドコフ、レイゼン、プレオブラジェンスカヤ、シャスコフ、他】

●〔映画版〕 E・スヴェトラーノフ指揮ボリショイ劇場管、他 (1959年)
【出演: クリフチェーニャ、レイゼン、レオーノヴァ、キプカロ、他】

(※実はこの2種とは別に、アバドのウィーン・ライヴ映像も随分前に鑑賞したことがある。しかし残念ながら、今はもう録画テープが手元にない。ギャウロフやブルチュラーゼが出演していたその音源については、これからの話の中で、何か思い出した時に触れるという形にしていきたい。)

歌劇<ホヴァンシチナ>は、17世紀の半ばから18世紀初頭にかけてのロシア史を題材にして、ムソルグスキー自身が台本から手がけた力作だったが、1881年に彼が他界したことによって未完のまま終わった。作曲者の死後、1882年から翌年にかけて、まずR=コルサコフが草稿を整理・加筆して完成させる。彼はムソルグスキーが遺したピアノ・スコアにオーケストレーションを施し、終幕の殉教シーンの音楽を付け加えた。その後1913年にパリやロンドンでこのオペラが初演された時には、R=コルサコフが削除していた草稿が救い出され、ラヴェルとストラヴィンスキーが編曲を加えた。そして1939年に原典版が出版されたのを機に、ショスタコーヴィチが改めてオーケストレーションを施した新版が作られ、それが1959年に出版された。とまあ、これは何とも錚々たるメンバーが関わってきた名作歌劇というわけだが、上記のハイキン盤ではR=コルサコフ版、映画ではショスタコーヴィチ版が使用されているようである。ちなみにアバドは、ショスタコーヴィチ版とストラヴィンスキー版を併用していた。以下、幕ごとの概要を見ながら、適宜コメントを入れていくことにしたい。

〔第1幕〕

有名な前奏曲『モスクワ河の夜明け』に続いて、舞台はモスクワ・赤の広場。銃兵隊の反乱が成功した翌日である。見張りの隊員クーシカ(T、またはB)が寝ぼけながら歌い、二人の歩哨が昨日の手柄話をしている。やがて、その銃兵隊のことを苦々しく思っている貴族のシャクロヴィートゥイ(Bar)が現れ、代書屋に皇帝宛の密告書を書かせる。「銃兵隊長のイワン・ホヴァンスキーが、息子のアンドレイを皇帝にしようとたくらんでいる」。

(※この開幕シーンから、いきなり重要人物が登場する。バリトン歌手が演じる貴族シャクロヴィートゥイだ。彼がどのように重要であるかは、これからの話の中で明らかになっていくが、ここではその声の種類についてコメントしておきたい。若きスヴェトラーノフの指揮による映画版ソフトでは、ハイ・バリトンのエフゲニ・キプカロが演じている。彼の白っぽい顔と鋭い目つきは、いかにも狡猾な策士といった役柄の雰囲気をよく出している。ちなみに、映画版とかなりキャストが共通している1950年録音のネボリシン盤では、アレクセイ・イワノフが同役を受け持っているようだ。現在活躍している歌手で言えば、セルゲイ・レイフェルクスがこのタイプに属するが、独特の甲高い響きをもったロシア系ハイ・バリトンは、こういう性格的な悪役によく似合う。)

(※一方、1946年にキーロフで録音されたハイキン盤ではイワン・シャスコフというドラマティック・バリトンが当役を歌っている。この人の声は、同じ頃ボリショイで活躍していたアンドレイ・イワノフによく似ていて、声質はバスに近く、たいそう力強い響きを持ったものだ。同じバリトンでも、これだけ声が違うと役柄のイメージも随分違ったものになってくる。また回を改めて触れることにしたいが、バスに近い声のバリトン歌手がこの役を受け持つのにも、実はそれなりに意味がある。)

シャクロヴィートゥイが文書を手にして去った後、民衆がロシアの荒廃を嘆いて合唱する。やがて支持者達の歓呼に迎えられてイワン・ホヴァンスキー(B)が登場。彼はひとしきり演説をぶってから、取り巻きの者たちとモスクワ巡回へ出発する。そこから場面が変わって、ドイツ人娘のエンマ(S)が必死になって逃げてくるところ。追ってくるのは、彼女を我が物にしようとつけ狙うアンドレイ・ホヴァンスキー(T)である。このアンドレイに父親を殺され、婚約者と引き離されたエンマは頑として彼を拒否するが、ついに追い詰められる。そこへ、アンドレイのかつての恋人だった修道女マルファ(Ms)が現れ、エンマをかばう。

(※ここで登場するイワン・ホヴァンスキーは、一応このオペラの中心的な人物と見てよいだろう。旧いロシアを象徴するような役どころだ。映画版では名バス歌手アレクセイ・クリフチェーニャが演じているが、まさにドンピシャのはまり役。押し出しの良い風貌と、堂々たる歌唱。映像付きだから、お楽しみも倍増である。ちなみに、1950年に録音されたネボリシン盤でも、彼が同役を演じているようだ。ついでに挙げておくと、このクリフチェーニャが破戒僧ワルラームを演じた<ボリス・ゴドゥノフ>の映画版というのもあって、それがまた非常な逸品!こういう豪放磊落なキャラをやらせたらピカイチの人だったのだ。ハイキン盤で歌っているボリス・フライドコフという人も、まあそれなりに健闘してはいるものの、クリフチェーニャの名演にはとても及ばない。)

(※ホヴァンスキーの息子であるアンドレイは、上述の登場シーンからも察せられるとおり、はっきり言ってろくな男ではない。むしろ、彼とかつて恋仲だったという修道女マルファの方が重要な人物である。これはメゾ・ソプラノが担当する役だが、とても美しく聡明で、作曲家ムソルグスキーにとって理想の女性像であったという説もある。映画版ではK・レオーノヴァという人が演じている。他の音源でこの歌手を聴いたことがないので断言は出来ないが、かなりの実力派と見られる。ハイキンのキーロフ盤では、ソフィア・プレオブラジェンスカヤという長い苗字を持った歌手が歌っている。登場した当初はやや不安定な印象を与えるものの、曲が進むに連れて調子を上げてくる。非常に深みのある声を持った、スケールの大きな歌手だ。)

(※上記の筋書きの中にある「ロシアの荒廃を嘆く民衆の合唱」は、ハイキンのキーロフ盤には出てこない。これはおそらく、R=コルサコフがムソルグスキーの草稿から削除した箇所の一つだったのだろう。ショスタコーヴィチ版を使った映画の方ではこの合唱を聴くことが出来るが、悲しい情趣を湛えた美しい曲である。削除しては、もったいない。)

(※熱心なファンのために、参考資料を一つ。ボリス・ハイキンの指揮による<ホヴァンシチナ>全曲には、今回採りあげているキーロフ盤とは別に、ボリショイ劇場での録音もある。クリフチェーニャ、ピアフコ、アルヒーポワといった面々が出演しているもので、かつてビクターからLPレコードが発売されていた。ただし、これが現在CD化されているかどうかは不明。)

やがて、部下を従えたイワン・ホヴァンスキーがそこへ通りかかる。ホヴァンスキーは美貌のエンマを見て気に入り、「ワシの屋敷へ、この娘を連れ込め」と銃兵隊に命じる。それを阻止しようとするアンドレイとイワンが父子対立で険悪なムードになったところへ、分離派教徒の指導者ドシフェイ(B)が現れ、彼らを諌(いさ)める。ドシフェイはエンマを家に送ってやるようマルファに命じ、「ロシア正教の信仰を守り、真の神のために闘おうぞ」とホヴァンスキー父子、そして民衆に向かって説く。

(※ここで突然現れるドシフェイも、非常に重要な人物だ。混乱するロシアを憂い、強い信仰に生きる宗教的指導者である。「旧きロシアの教え」に執着する姿勢は異常なほどだが、ホヴァンスキーよりもずっと民主的な人物であり、その人徳ゆえに各方面からの信望も厚い。映画版、ハイキンのキーロフ盤、ともにマルク・レイゼンが同役を受け持っている。ネボリシン盤でも、彼が歌っているようだ。この役ばかりは、当時この人以外には考えられなかったのだろう。実際、どちらの音源でも、凄い貫禄の名演を堪能することができる。ただし映画版は、名歌手の姿を目で見られるという楽しみがある一方、映画としての収録時間の制限から、カットされてしまっている箇所も多い。)

(※以上、ご覧いただいた通り、第1幕は、「登場人物の顔見せと、それぞれのキャラクター紹介」という性格を強く持っている。そして、次の第2幕から登場するゴリーツィン公がこれに加わると、主要な人物が全員出揃うわけである。)

―この続き、第2幕以降の展開については、次回・・・。
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過去の記事タイトル一覧(201~250)

2007年03月14日 | 記事タイトル一覧表
今回は、第201~250番。

201. 歌劇<イーゴリ公>(5) : 2006年12月15日
202. 別宮貞雄の交響曲と『マタンゴ』 : 2006年12月20日
203. <ヒロシマ>、W・キラール、<至福> : 2006年12月26日
204. 若き日のチェリと、キレまくりサバタ : 2006年12月31日
205. ストロングの<オンディーヌ>と、カーペンターの<乳母車の冒険> : 2007年1月5日
206. A・ギブソンとB・トムソン : 2007年1月11日
207. シルヴィオ・ヴァルヴィゾの名盤(1) : 2007年1月17日
208. シルヴィオ・ヴァルヴィゾの名盤(2) : 2007年1月21日
209. シルヴィオ・ヴァルヴィゾの名盤(3) : 2007年1月28日
210. チェーザレ・シエピのフィリッポⅡ世 : 2007年2月2日
211. M=パシャイエフのヴェルディ<レクイエム> : 2007年2月6日
212. フィンジとG・バタワースの作品 : 2007年2月11日
213. ワルターのマーラー<大地の歌>(1) : 2007年2月22日
214. ワルターのマーラー<大地の歌>(2) : 2007年2月28日
215. ワルターのマーラー<大地の歌>(3) : 2007年3月8日
216. 過去の記事タイトル一覧(201~最新) : 2007年3月14日
217. 歌劇<ホヴァンシチナ>(1) : 2007年3月16日
218. 歌劇<ホヴァンシチナ>(2) : 2007年3月23日
219. 歌劇<ホヴァンシチナ>(3) : 2007年3月28日
220. ムソルグスキーの歌曲 : 2007年4月3日
221. <エフゲニ・オネーギン>を巡って : 2007年4月9日
222. <エフゲニ・オネーギン>の歴史的名演(1) : 2007年4月15日
223. <エフゲニ・オネーギン>の歴史的名演(2) : 2007年4月21日
224. <エフゲニ・オネーギン>の歴史的名演(3) : 2007年4月26日
225. <エフゲニ・オネーギン>の歴史的名演(4) : 2007年5月1日
226. ラフマニノフの三つの歌劇(1) : 2007年5月7日
227. ラフマニノフの三つの歌劇(2) : 2007年5月13日
228. 歌劇<三つのオレンジへの恋>(1) : 2007年5月21日
229. 歌劇<三つのオレンジへの恋>(2) : 2007年5月27日
230. 歌劇<鼻>(1) : 2007年6月3日
231. 歌劇<鼻>(2)、<鉄工場> : 2007年6月10日
232. 歌劇<死せる魂>(1) : 2007年6月17日
233. 歌劇<死せる魂>(2) : 2007年6月24日
234. 名脇役ジュール・バスタンの録音から(1) : 2007年7月1日
235. 名脇役ジュール・バスタンの録音から(2) : 2007年7月8日
236. 名脇役ジュール・バスタンの録音から(3) : 2007年7月15日
237. 名脇役ジュール・バスタンの録音から(4) : 2007年7月22日
238. ピグマリオンとガラテア : 2007年7月29日
239. 日本がらみの珍品オペラ : 2007年8月31日
240. ルチャーノ・パヴァロッティの録音から(1) : 2007年9月18日
241. ルチャーノ・パヴァロッティの録音から(2) : 2007年9月30日
242. <祖霊祈祷>と<阿知女(アチメ)> : 2007年10月31日
243. 歌劇<ラクメ> : 2007年11月17日
244. 歌劇<エロディアド>(1) : 2007年12月23日
245. 歌劇<エロディアド>(2) : 2007年12月30日
246. 歌劇<タイス>(1) : 2008年1月6日
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248. 歌劇<ナヴァラの娘> : 2008年1月27日
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ワルターのマーラー<大地の歌>(3)

2007年03月08日 | 演奏(家)を語る
ようやくという感じで、今回が〔年末年始特番〕の最終回。ワルターのマーラー<大地の歌>、その締めくくりのお話である。扱う演奏の番号は前回からの通しで、6、7番となる。

6.(1960年4月16日・ライヴ) PSO ルイス、フォレスター

これは、私が昨(2006)年買って聴いたCDの中でも特に印象深かった物の一つとして、今回の特番テーマにこよなく相応しい逸品だ。現在Music&Artsというレーベルから出ている音源である。ニューヨークのカーネギー・ホールで行なわれた「マーラー生誕100年記念祭」ライヴとのこと。オーケストラ名は、ザ・フィルハーモニック・シンフォニー・オーケストラとジャケットに表記されているが、ニューヨーク・フィルの可能性もある。(※横道にそれる話だが、このCDはジャケット写真がちょっと変わっている。両手で顔を覆い隠しているワルターのすぐ脇に、一人の女性が並んで座っているというツー・ショット。「あんた、大丈夫?」とでも言っているような表情でワルターを見ているその女性は、おそらくこのライヴで歌っているモーリン・フォレスターだろう。しかし、それにしても、何でこんな写真をジャケットに使ったのだろう?w )

このライヴ演奏の大きな特徴は、特に偶数楽章にはっきり出ているようだ。まず、第2楽章。水面(みなも)に横たわる枯れた水草の上を秋の風が吹き抜けていくという蕭条(しょうじょう)たる情景を、ここでのワルターはおそらく他のどの演奏よりも鮮烈に描き出している。彩り豊かな管弦楽もどことなくセピア色がかったものに聞こえ、それが一層枯れた味わいを深めている。歌っているフォレスターの声にはちょっと癖があるものの、前回出てきたニコライディよりは安定感がある。マーラーの音楽にも深く共感しているようだ。第4楽章も良い。特に、後半部分のゆったりとしたテンポが素晴らしい。

最後の第6楽章にも、寂寥感が色濃く漂う。間奏曲にあたる部分こそそれなりに力強いものの、全体的には枯れた味わいの方がずっと支配的だ。この演奏は全曲を締めくくるコーダが特に素晴らしく、私が知っている7種の録音の中でも、これが最も胸にこたえる演奏になっている。とりわけ、最後に聞こえてくるチェレスタが絶品だ。フォレスターも、ワルターが紡ぎだす音楽と見事に一体化し、共感溢れる歌唱を展開している。

(※ところで、フォレスターは当ライヴの5ヶ月ほど前に、フリッツ・ライナー&シカゴ響による<大地の歌>のRCA・スタジオ録音にも出演していた。しかし、精密なアンサンブルや録音の良さを誇るライナー盤よりも、私にはこちらのワルター盤の方がずっと魅力的に思える。フォレスターの歌、指揮者が紡ぎだす音楽、いずれをとっても感銘度がまるで違うのである。)

(※偏りのない記事にまとめるために、このライヴCDに感じる欠点や問題点みたいなものも、ちょっと指摘しておきたい。テノール独唱のリチャード・ルイスはイギリス人歌手であるためか、ドイツ語の発音にやはり癖がある。声質としては、前に出てきたスヴァンホルムよりはずっとリリックで私には好ましいが、第3楽章が英語の歌みたいに聞こえたり、第5楽章ではオーケストラとズレちゃったりと、彼の歌唱にはいささか難がある。また、このCDはあまり質の良くないLPから板起こしをしたのか、随所にブチッ、バチッ、ブチッといったスクラッチ・ノイズが発生する。また咳払いなどの客席ノイズも、あちこちでかなり聞こえる。良いことずくめとはいかない音源である。)

7.(1960年4月18&25日) NYP ヘフリガー、ミラー

巨匠ワルターが遺した最後の<大地の歌>であると同時に、同曲唯一のステレオ録音。上記6.のライヴが行なわれた2日後に始まったセッションである。この頃のワルターはかなり衰弱していたことが傍目にもはっきり分かったと、当時この録音に参加していたメンバーの一人が語っている。【注1】だから、ここでのワルターに往年の気迫を求めるようなことは、もはや出来ない。

宇野功芳氏が『名指揮者ワルターの名盤駄盤』の中で、当ソニー盤の第1、第3楽章の演奏について、「ウィーン盤に見られたきびしさや彫りの深さがすっかり影を潜め、流れにも緊張感を欠く」と指摘しておられたが、その点は確かにその通りだと思う。特に第1楽章は、美しく広々としている一方で音楽がいささかユルみ気味になっていることも否定できない。また録音の関係もあるのか、オーケストラの音色が全体に明るめなのも、楽章と曲想によってはちょっと気になる部分がある。

しかし、このステレオ盤は、私が初めてこの曲に触れた演奏ということもあって、個人的にはやはり特別な思い入れがある。今回のシリーズ記事を書くに当たって、すべての音源を古い順に一通り聴きなおしてみたのだが、当ステレオ盤になったところで、「ああ、懐かしいところに帰ってきたなあ~。いろいろ思い出すなあ」と、しばし学生時代のことにまで思いをはせてしまったのである。良きにつけ悪しきにつけ、最初に聴く演奏から与えられる影響というのは本当に大きいものだ。しかし、その事とは別に、今聴いてもこれはやはり素晴らしい物だと思う。2人の歌手だって、一部で言われるほど悪くはない。エルンスト・ヘフリガーは確かにちょっと真面目過ぎるかもしれないが、その端正な歌唱自体は立派なものだし、メゾ・ソプラノのミルドレッド・ミラーも、すっきりとした癖のない声でオーケストラに溶け込んで、よく歌っている。

いずれにしても、ワルターが<大地の歌>を良質なステレオ録音で遺してくれていたというのは、それだけでも本当に有難いことである。全編に聴かれる管弦楽の陸離たる光彩、さらに第4楽章と終楽章の各中間部で聴かれる圧倒的なサウンドは、まさにステレオだからこそ記録できたものだろう。感謝、感謝である。

―ところで、ワルターのステレオ録音を語る際には、リマスターの問題を無視することが出来ない。ワルター語りの最後として、この点にちょっとだけ触れておきたい。CDというメディアが開発された初期のプレスでは、録音当時直接の担当者だったジョン・マックルーア氏がリマスターに携わった。その後、SBM(=スーパー・ビット・マッピング)盤が発売されて話題になる。いわゆる20ビット盤の登場である。さらに、そこからまた技術が進んで、現在はDSD(=ダイレクト・ストリーム・デジタル)盤と呼ばれるCDが一般に流布している。ちなみに、そのSBM盤やDSD盤にはマックルーア氏は関わっていない。さて、「この3種類の中で、音質的にどれがベストか」という議論になると、これがなかなか難しいのである。とりあえず、素人感覚を丸出しにした私の意見では、以下のような論旨展開になる。

{ 20ビット盤の登場によってCDの音の情報量は格段に豊かになったが、ことワルター(及び、ブーレーズ)のソニー・SBM盤については、その技術成果を素直に有り難がることが出来ない。そこでは、音がだだっ広く伸びただけで、初期盤で聴けていた力感溢れるサウンドがまるでピンぼけてしまっているからだ。(※具体例 : ワルターの<大地の歌>~特に、終楽章〔19:18〕の金管。それと、ブーレーズの<火の鳥>全曲~トラック18「カスチェイ一党の凶悪な踊り」~〔3:49〕前後の金管。)結局、最新のDSD盤を買って聴いたところでようやく、「まあ、これならいいかな。20ビットらしい豊かな情報量と、初期盤にあったパワーが両立したみたいだし」と、胸のつかえをおろすことが出来た。 }

しかし、私が持っているようなこんな素朴な感覚は、少なくとも“平成の盤鬼”こと平林直哉氏には、おそらく笑止千万なものに映ることだろう。氏が編集長を務めておられた『クラシックプレス』の第12号(2002年春号)・19ページに、おおよそ次のような内容の囲み記事がある。

{ ワルターのステレオ録音を最初にCD化した時は、当時のプロデューサーであったマックルーア氏によってCD用マスターテープが作成された。このマックルーアによるリマスター・サウンドはLPでなじんできた、あの暖かいふっくらとした響きはそのままで、全体の厚みと輝きをいっそう増したものと評判になった。・・(中略)・・最新の国内独自のリマスターはかなり金属的で固い音となったのである。言い換えれば、LPや最初のCDでなじんできた音とは最も遠いものである。ちまたでは、「CDでワルターを聴こうとすれば、最初のCDが最高」と言われているらしい。・・見分け方は、SBMとかDSDとか表記されていないものが、マックルーアの音である。(以下略) }

このあたりの価値判断は結局、聴く人それぞれの感性の問題になってくるものと思うが、いずれにしても、良い音を巡る議論には一筋縄でいかない奥深さがあることだけは間違いない。

【注1】 「<大地の歌>と<未完成>の録音の時、ワルターは全く体が弱り、調子が悪そうで、気の毒なほどでした」。~『クラシックプレス』(音楽出版社)・第3号(2000年夏号)の27ページ。ジェシー・チェチ氏へのインタビューから。
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