前回の続き。パヴァロッティ自身はヴェルディのオペラを好んでいたと伝えられるが、彼の声はドニゼッティやベッリーニに代表される所謂「ベルカント・オペラ」に最も向いていた。
―という訳で、今回はまず、彼が参加したベッリーニ・オペラのちょっと珍しい音源を採りあげるところからスタート。
●ベッリーニ : 歌劇<清教徒> ~アルトゥーロ
パヴァロッティが出演している<清教徒>の全曲録音と言えば、リチャード・ボニングの指揮によるデッカ盤がLP時代からよく知られている。しかしここでは、若き日のリッカルド・ムーティがローマRAI交響楽団、他を指揮した1969年7月8日のライヴ録音(Living Stage盤)を挙げてみることにしたい。色々な意味で、興味深い音源である。
デッカではまだ不遇な扱いを受けていた頃の若きパヴァロッティが演じるアルトゥーロ、これがまず何と言っても聴き物。この役に要求される超高音に真正面から果敢に挑み、彼は声も嗄らさんばかりの熱唱を聴かせる。次いで、指揮者のムーティ。1974年の<アイーダ>全曲(EMI)でオペラのレコード・デビューを果たした俊英が、それ以前にはどんな演奏をしていたかが確かめられるのも、この音源が持つ貴重な価値の一つだ。全体に荒削りで、場面によってはユルイ伴奏に終始しているところも見受けられるが、オーケストラの歌わせ方や劇的な表情付けなど、この若者が決して“ただのねずみ”ではなかったことを如実に示す指揮ぶりである。そしてもう一つ、若きミレッラ・フレーニのエルヴィーラが聴けることも見逃せない。フレーニのベッリーニ、これこそレアだと思う。当ライヴを行なった頃は、おそらく彼女もまだ色々なレパートリーの可能性を模索している最中だったのではないだろうか。この録音を聴いてとりあえず言えることは、「フレーニは基本的に優れた声楽家であり、自分のキャラクターに合うか合わないかはともかく、たいていの役どころはそつなくこなすだけの才能があった」ということである。それより踏み込んだ評価は、CDを実際に手に取った方々のご判断に委ねたいと思う。他の出演者の中では、エルヴィーラの叔父ジョルジョを演じるボナルド・ジャイオッティが良い味を出している。リッカルド役のセスト・ブルスカンティーニも、声自体は私の好みではないが、歌唱は賞賛できるものだ。
ちなみにムーティは、1979年に<清教徒>の全曲をスタジオ録音(EMI)している。指揮の成熟度やオーディオ的な条件は上記のライヴを遥かに凌いでいるが、逆に歌手陣の出来栄えとなると、ちょっと見劣りがする。とりあえず、エルヴィーラを歌うモンセラット・カバリエは十分魅力的。このソプラノ歌手の姿はドラム缶に手足が生えたような威容を誇るものだが、録音ソフトで歌声だけを聴くと、とてもチャーミングな主人公の姿をイメージすることができる。w ここでのエルヴィーラは、彼女の録音の中でも良い方に属する出来栄えのものだと思う。一方、「彼にしては、いま一つだな」という印象を残すアルフレード・クラウスをはじめ、マヌグエラやフェリンといった男性陣があまりパッとしないのが残念なところである。
ついでと言ってはなんだが、歌劇<清教徒>の演奏史を語る上では、トゥリオ・セラフィンの1953年スカラ座ライヴを無視するわけにはいかない。マリア・カラスの声に嫌悪感を持っている私でも、この録音で聴かれる彼女の歌の凄さには圧倒されてしまう。第2幕の狂乱シーンなど、息を潜めて聞き入るばかりだ。アルトゥーロ役のジュゼッペ・ディ・ステーファノも熱い。その若々しい声にはコリッとした芯があって、後年のだらけた響きとは全く別物の強さを見せる。歌唱スタイルもまた、背筋のきりっとした非常に立派なものである。若きローランド・パネライのリッカルドも良い。特に、第2幕でロッシ=レメニが演じるジョルジョと交わす有名な二重唱の場面では、まさに圧巻とも言うべき声と歌唱を聴かせてくれる。巨匠セラフィンが指揮するスカラ座のオーケストラと合唱の威力についてはもう、言わずもがなであろう。
●ロッシーニ : 歌劇<ウィリアム・テル> ~アルノルド
ロッシーニ最後のオペラとなる<ウィリアム・テル>は、極めて充実した傑作である。有名な序曲だけでなく、約4時間に及ぶ全曲演奏にしっかり付き合ってみると、「お軽い喜劇ばかり書いていたロッシーニ」などというステレオタイプが、いかに的外れなものであるかということを思い知らされる。例えば、第1幕のエンディングで聞かれるアンサンブルと合唱。ここには例の“ロッシーニ・クレッシェンド”という言葉を想起させる音楽が出て来るが、その重厚さたるや過去のコメディ系作品で聞かれたものとは全く別世界、別次元のものになっている。あるいは、第3幕のエンディング。このパワフルな盛り上がりは、彼に続くドニゼッティやベッリーニの時代を一気に飛び越えて、いきなりヴェルディのところまで行ってしまっているようだ。さらに挙げるなら、第3幕第2場の豪壮たるオープニング。「ゲスラー様に栄光あれ!」と歌う大合唱の威力といったら、どうだろう。そして、全曲を締めくくる第4幕ラストの合唱。「ひょっとして、ニルセンの交響曲第4番のエンディングは、ここを参考にして書かれたんじゃないか?」などとおかしなことをつい考えてしまうような、充実しまくったせり上がりの興奮。「ロッシーニのオペラを蔑視していたワグナーさえもが、<ウィリアム・テル>には敬意を表していた」という話も、十分にうなずけるものがある。
(※中公新書・『オペラの運命』の87ページ以降で著者の岡田暁生氏が書いておられることをかいつまんで引用させていただくと、歌劇<ウィリアム・テル>は、「その完成度の高さと構想の雄大さの点で、それまでのロッシーニ作品から際立っている」ものであり、「<オリー伯爵>ともども、作曲家が納得いくまで推敲を重ねることが出来た最初で最後のオペラ」であり、「我々と同じ生身の人間が“歴史”というオペラの主人公になる、新時代の到来を告げる記念碑的な作品」ということになる。ただ一方で、このオペラは全体的には渋好み、あるいは通好みの作品であるということも付け加えておく必要があろうかと思う。すぐに覚えられるアリアとか、親しみやすいメロディみたいなものが、ほとんどないからだ。そして、有名な序曲の締めくくりとして誰もが知っているあの『スイス軍の行進』も、残念ながらドラマの中には全然出て来ないのである。)
リッカルド・シャイー&ナショナル・フィル、他によるデッカの全曲盤(1979年)に、パヴァロッティがアルノルドの役で出演している。まず第1幕、敵方の王女マティルデと愛し合ってしまった自分の身の上を嘆く歌、これが最初の聴きどころ。続く第2幕からは、マティルデとの二重唱。どちらの場面も、パヴァロッティの情熱的な歌唱を堪能することができる。しかし、その後に続く第3幕第1場こそ、一番のクライマックスと言うべきであろう。「我が父の仇ゲスラー!」といきり立つアルノルドと、その事実を知って驚くマティルデとの二重唱である。このシャイー盤でマティルデを歌っているのはミレッラ・フレーニだが、パヴァロッティともども名歌手の真骨頂を示す歌唱を聴かせる。最後の幕となる第4幕の第1場で歌われるアルノルドの決意、ここでもパヴァロッティのホットな歌が楽しめる。
(※ちょっと横道話。上述のベッリーニ作品と同様に、フレーニのロッシーニ録音というのも、かなりレアな感じがする。基本的にヴェルディ以前の作曲家にはあまり縁がなかったように見えるフレーニが、マティルデ役には違和感なくはまり、それどころか見事な名唱を聞かせていると感じられるのは、とりもなおさず、<ウィリアム・テル>というオペラがロッシーニ作品のなかでも極めて異色のものであるという事実を逆照射させているようにも思える。)
シャイー盤で主人公ウィリアム・テル(※イタリア語では、グリエルモ・テル。オリジナル台本のフランス語では、ギヨーム・テル)を演じているのはシェリル・ミルンズだが、彼の出来は並みのレベルだ。むしろテルの友人グアルティエーロ(英語名ワルター)をニコライ・ギャウロフが演じているのが、おいしいポイントである。チョイ役ながら、「さすがは、ギャウロフさん」といった感じの存在感を示している。また、悪者ゲスラーの腹心であるロドルフォを、大ヴェテランのピエロ・デ・パルマが担当していることにも注目。録音当時彼はもう還暦前後だったはずだが、ここでも相変わらず意気軒昂。お元気なところを見せてくれている。
●ドニゼッティ : <レクイエム> ~テノール独唱
良き後輩であると同時に良きライヴァルでもあったベッリーニの死を悼んで、1835年頃にドニゼッティが書いた<レクイエム>。ゲルハルト・ファックラー指揮ヴェローナ歌劇場管、他による録音にパヴァロッティが参加している。この珍品<レクイエム>で面白いのは、『インジェミスコ(=私は嘆く)』が独立したテノール独唱曲になっていて、ふとヴェルディの作品を連想させることである。と言っても、ヴェルディの曲に比べるとこちらは格段に質素なもので、ヴァイオリンとチェロ(で、よかったと思う)のソロを脇に従えて、テノールがしんみりとひそやかな歌を歌う形になっている。曲自体の性格も勿論あるけれども、パヴァロッティはそこで実直真摯な歌唱を披露している。指揮者が全く凡庸なため、この作品自体が本来どれぐらいの魅力を持つものなのかは何とも判じがたいのだが、全盛期のパヴァロッティが目立たないところで、(別言すれば、商業的な利益からはおよそかけ離れたところで)、何気なく良い仕事をしていた例として、最後に挙げてみることにした。
―ルチャーノ・パヴァロッティの録音を巡るお話は、これで終了。よく知られた「三大テノール」のお祭りイヴェントや、ジャズ&ポップス界の大物たちとのコラボなども、後年の彼にとっては大事な仕事であったかもしれない。しかし、私にとっては、その辺のものはどうでもよい。類稀なる美声を持った不世出のベルカント・テナーとしての活躍、特にデッカに録音された数々の名唱こそが、パヴァロッティの遺してくれた何よりも大切な業績なのである。
―名歌手の天国での幸福を祈って、合掌。
―という訳で、今回はまず、彼が参加したベッリーニ・オペラのちょっと珍しい音源を採りあげるところからスタート。
●ベッリーニ : 歌劇<清教徒> ~アルトゥーロ
パヴァロッティが出演している<清教徒>の全曲録音と言えば、リチャード・ボニングの指揮によるデッカ盤がLP時代からよく知られている。しかしここでは、若き日のリッカルド・ムーティがローマRAI交響楽団、他を指揮した1969年7月8日のライヴ録音(Living Stage盤)を挙げてみることにしたい。色々な意味で、興味深い音源である。
デッカではまだ不遇な扱いを受けていた頃の若きパヴァロッティが演じるアルトゥーロ、これがまず何と言っても聴き物。この役に要求される超高音に真正面から果敢に挑み、彼は声も嗄らさんばかりの熱唱を聴かせる。次いで、指揮者のムーティ。1974年の<アイーダ>全曲(EMI)でオペラのレコード・デビューを果たした俊英が、それ以前にはどんな演奏をしていたかが確かめられるのも、この音源が持つ貴重な価値の一つだ。全体に荒削りで、場面によってはユルイ伴奏に終始しているところも見受けられるが、オーケストラの歌わせ方や劇的な表情付けなど、この若者が決して“ただのねずみ”ではなかったことを如実に示す指揮ぶりである。そしてもう一つ、若きミレッラ・フレーニのエルヴィーラが聴けることも見逃せない。フレーニのベッリーニ、これこそレアだと思う。当ライヴを行なった頃は、おそらく彼女もまだ色々なレパートリーの可能性を模索している最中だったのではないだろうか。この録音を聴いてとりあえず言えることは、「フレーニは基本的に優れた声楽家であり、自分のキャラクターに合うか合わないかはともかく、たいていの役どころはそつなくこなすだけの才能があった」ということである。それより踏み込んだ評価は、CDを実際に手に取った方々のご判断に委ねたいと思う。他の出演者の中では、エルヴィーラの叔父ジョルジョを演じるボナルド・ジャイオッティが良い味を出している。リッカルド役のセスト・ブルスカンティーニも、声自体は私の好みではないが、歌唱は賞賛できるものだ。
ちなみにムーティは、1979年に<清教徒>の全曲をスタジオ録音(EMI)している。指揮の成熟度やオーディオ的な条件は上記のライヴを遥かに凌いでいるが、逆に歌手陣の出来栄えとなると、ちょっと見劣りがする。とりあえず、エルヴィーラを歌うモンセラット・カバリエは十分魅力的。このソプラノ歌手の姿はドラム缶に手足が生えたような威容を誇るものだが、録音ソフトで歌声だけを聴くと、とてもチャーミングな主人公の姿をイメージすることができる。w ここでのエルヴィーラは、彼女の録音の中でも良い方に属する出来栄えのものだと思う。一方、「彼にしては、いま一つだな」という印象を残すアルフレード・クラウスをはじめ、マヌグエラやフェリンといった男性陣があまりパッとしないのが残念なところである。
ついでと言ってはなんだが、歌劇<清教徒>の演奏史を語る上では、トゥリオ・セラフィンの1953年スカラ座ライヴを無視するわけにはいかない。マリア・カラスの声に嫌悪感を持っている私でも、この録音で聴かれる彼女の歌の凄さには圧倒されてしまう。第2幕の狂乱シーンなど、息を潜めて聞き入るばかりだ。アルトゥーロ役のジュゼッペ・ディ・ステーファノも熱い。その若々しい声にはコリッとした芯があって、後年のだらけた響きとは全く別物の強さを見せる。歌唱スタイルもまた、背筋のきりっとした非常に立派なものである。若きローランド・パネライのリッカルドも良い。特に、第2幕でロッシ=レメニが演じるジョルジョと交わす有名な二重唱の場面では、まさに圧巻とも言うべき声と歌唱を聴かせてくれる。巨匠セラフィンが指揮するスカラ座のオーケストラと合唱の威力についてはもう、言わずもがなであろう。
●ロッシーニ : 歌劇<ウィリアム・テル> ~アルノルド
ロッシーニ最後のオペラとなる<ウィリアム・テル>は、極めて充実した傑作である。有名な序曲だけでなく、約4時間に及ぶ全曲演奏にしっかり付き合ってみると、「お軽い喜劇ばかり書いていたロッシーニ」などというステレオタイプが、いかに的外れなものであるかということを思い知らされる。例えば、第1幕のエンディングで聞かれるアンサンブルと合唱。ここには例の“ロッシーニ・クレッシェンド”という言葉を想起させる音楽が出て来るが、その重厚さたるや過去のコメディ系作品で聞かれたものとは全く別世界、別次元のものになっている。あるいは、第3幕のエンディング。このパワフルな盛り上がりは、彼に続くドニゼッティやベッリーニの時代を一気に飛び越えて、いきなりヴェルディのところまで行ってしまっているようだ。さらに挙げるなら、第3幕第2場の豪壮たるオープニング。「ゲスラー様に栄光あれ!」と歌う大合唱の威力といったら、どうだろう。そして、全曲を締めくくる第4幕ラストの合唱。「ひょっとして、ニルセンの交響曲第4番のエンディングは、ここを参考にして書かれたんじゃないか?」などとおかしなことをつい考えてしまうような、充実しまくったせり上がりの興奮。「ロッシーニのオペラを蔑視していたワグナーさえもが、<ウィリアム・テル>には敬意を表していた」という話も、十分にうなずけるものがある。
(※中公新書・『オペラの運命』の87ページ以降で著者の岡田暁生氏が書いておられることをかいつまんで引用させていただくと、歌劇<ウィリアム・テル>は、「その完成度の高さと構想の雄大さの点で、それまでのロッシーニ作品から際立っている」ものであり、「<オリー伯爵>ともども、作曲家が納得いくまで推敲を重ねることが出来た最初で最後のオペラ」であり、「我々と同じ生身の人間が“歴史”というオペラの主人公になる、新時代の到来を告げる記念碑的な作品」ということになる。ただ一方で、このオペラは全体的には渋好み、あるいは通好みの作品であるということも付け加えておく必要があろうかと思う。すぐに覚えられるアリアとか、親しみやすいメロディみたいなものが、ほとんどないからだ。そして、有名な序曲の締めくくりとして誰もが知っているあの『スイス軍の行進』も、残念ながらドラマの中には全然出て来ないのである。)
リッカルド・シャイー&ナショナル・フィル、他によるデッカの全曲盤(1979年)に、パヴァロッティがアルノルドの役で出演している。まず第1幕、敵方の王女マティルデと愛し合ってしまった自分の身の上を嘆く歌、これが最初の聴きどころ。続く第2幕からは、マティルデとの二重唱。どちらの場面も、パヴァロッティの情熱的な歌唱を堪能することができる。しかし、その後に続く第3幕第1場こそ、一番のクライマックスと言うべきであろう。「我が父の仇ゲスラー!」といきり立つアルノルドと、その事実を知って驚くマティルデとの二重唱である。このシャイー盤でマティルデを歌っているのはミレッラ・フレーニだが、パヴァロッティともども名歌手の真骨頂を示す歌唱を聴かせる。最後の幕となる第4幕の第1場で歌われるアルノルドの決意、ここでもパヴァロッティのホットな歌が楽しめる。
(※ちょっと横道話。上述のベッリーニ作品と同様に、フレーニのロッシーニ録音というのも、かなりレアな感じがする。基本的にヴェルディ以前の作曲家にはあまり縁がなかったように見えるフレーニが、マティルデ役には違和感なくはまり、それどころか見事な名唱を聞かせていると感じられるのは、とりもなおさず、<ウィリアム・テル>というオペラがロッシーニ作品のなかでも極めて異色のものであるという事実を逆照射させているようにも思える。)
シャイー盤で主人公ウィリアム・テル(※イタリア語では、グリエルモ・テル。オリジナル台本のフランス語では、ギヨーム・テル)を演じているのはシェリル・ミルンズだが、彼の出来は並みのレベルだ。むしろテルの友人グアルティエーロ(英語名ワルター)をニコライ・ギャウロフが演じているのが、おいしいポイントである。チョイ役ながら、「さすがは、ギャウロフさん」といった感じの存在感を示している。また、悪者ゲスラーの腹心であるロドルフォを、大ヴェテランのピエロ・デ・パルマが担当していることにも注目。録音当時彼はもう還暦前後だったはずだが、ここでも相変わらず意気軒昂。お元気なところを見せてくれている。
●ドニゼッティ : <レクイエム> ~テノール独唱
良き後輩であると同時に良きライヴァルでもあったベッリーニの死を悼んで、1835年頃にドニゼッティが書いた<レクイエム>。ゲルハルト・ファックラー指揮ヴェローナ歌劇場管、他による録音にパヴァロッティが参加している。この珍品<レクイエム>で面白いのは、『インジェミスコ(=私は嘆く)』が独立したテノール独唱曲になっていて、ふとヴェルディの作品を連想させることである。と言っても、ヴェルディの曲に比べるとこちらは格段に質素なもので、ヴァイオリンとチェロ(で、よかったと思う)のソロを脇に従えて、テノールがしんみりとひそやかな歌を歌う形になっている。曲自体の性格も勿論あるけれども、パヴァロッティはそこで実直真摯な歌唱を披露している。指揮者が全く凡庸なため、この作品自体が本来どれぐらいの魅力を持つものなのかは何とも判じがたいのだが、全盛期のパヴァロッティが目立たないところで、(別言すれば、商業的な利益からはおよそかけ離れたところで)、何気なく良い仕事をしていた例として、最後に挙げてみることにした。
―ルチャーノ・パヴァロッティの録音を巡るお話は、これで終了。よく知られた「三大テノール」のお祭りイヴェントや、ジャズ&ポップス界の大物たちとのコラボなども、後年の彼にとっては大事な仕事であったかもしれない。しかし、私にとっては、その辺のものはどうでもよい。類稀なる美声を持った不世出のベルカント・テナーとしての活躍、特にデッカに録音された数々の名唱こそが、パヴァロッティの遺してくれた何よりも大切な業績なのである。
―名歌手の天国での幸福を祈って、合掌。