クラシック音楽オデュッセイア

2009年の大病以来、月1回程度の更新ペース。クラシックに限らず、身の回りの事なども、気の向くままに書いております。

ルチャーノ・パヴァロッティの録音から(2)

2007年09月30日 | 演奏(家)を語る
前回の続き。パヴァロッティ自身はヴェルディのオペラを好んでいたと伝えられるが、彼の声はドニゼッティやベッリーニに代表される所謂「ベルカント・オペラ」に最も向いていた。

―という訳で、今回はまず、彼が参加したベッリーニ・オペラのちょっと珍しい音源を採りあげるところからスタート。

●ベッリーニ : 歌劇<清教徒> ~アルトゥーロ

パヴァロッティが出演している<清教徒>の全曲録音と言えば、リチャード・ボニングの指揮によるデッカ盤がLP時代からよく知られている。しかしここでは、若き日のリッカルド・ムーティがローマRAI交響楽団、他を指揮した1969年7月8日のライヴ録音(Living Stage盤)を挙げてみることにしたい。色々な意味で、興味深い音源である。

デッカではまだ不遇な扱いを受けていた頃の若きパヴァロッティが演じるアルトゥーロ、これがまず何と言っても聴き物。この役に要求される超高音に真正面から果敢に挑み、彼は声も嗄らさんばかりの熱唱を聴かせる。次いで、指揮者のムーティ。1974年の<アイーダ>全曲(EMI)でオペラのレコード・デビューを果たした俊英が、それ以前にはどんな演奏をしていたかが確かめられるのも、この音源が持つ貴重な価値の一つだ。全体に荒削りで、場面によってはユルイ伴奏に終始しているところも見受けられるが、オーケストラの歌わせ方や劇的な表情付けなど、この若者が決して“ただのねずみ”ではなかったことを如実に示す指揮ぶりである。そしてもう一つ、若きミレッラ・フレーニのエルヴィーラが聴けることも見逃せない。フレーニのベッリーニ、これこそレアだと思う。当ライヴを行なった頃は、おそらく彼女もまだ色々なレパートリーの可能性を模索している最中だったのではないだろうか。この録音を聴いてとりあえず言えることは、「フレーニは基本的に優れた声楽家であり、自分のキャラクターに合うか合わないかはともかく、たいていの役どころはそつなくこなすだけの才能があった」ということである。それより踏み込んだ評価は、CDを実際に手に取った方々のご判断に委ねたいと思う。他の出演者の中では、エルヴィーラの叔父ジョルジョを演じるボナルド・ジャイオッティが良い味を出している。リッカルド役のセスト・ブルスカンティーニも、声自体は私の好みではないが、歌唱は賞賛できるものだ。

ちなみにムーティは、1979年に<清教徒>の全曲をスタジオ録音(EMI)している。指揮の成熟度やオーディオ的な条件は上記のライヴを遥かに凌いでいるが、逆に歌手陣の出来栄えとなると、ちょっと見劣りがする。とりあえず、エルヴィーラを歌うモンセラット・カバリエは十分魅力的。このソプラノ歌手の姿はドラム缶に手足が生えたような威容を誇るものだが、録音ソフトで歌声だけを聴くと、とてもチャーミングな主人公の姿をイメージすることができる。w ここでのエルヴィーラは、彼女の録音の中でも良い方に属する出来栄えのものだと思う。一方、「彼にしては、いま一つだな」という印象を残すアルフレード・クラウスをはじめ、マヌグエラやフェリンといった男性陣があまりパッとしないのが残念なところである。

ついでと言ってはなんだが、歌劇<清教徒>の演奏史を語る上では、トゥリオ・セラフィンの1953年スカラ座ライヴを無視するわけにはいかない。マリア・カラスの声に嫌悪感を持っている私でも、この録音で聴かれる彼女の歌の凄さには圧倒されてしまう。第2幕の狂乱シーンなど、息を潜めて聞き入るばかりだ。アルトゥーロ役のジュゼッペ・ディ・ステーファノも熱い。その若々しい声にはコリッとした芯があって、後年のだらけた響きとは全く別物の強さを見せる。歌唱スタイルもまた、背筋のきりっとした非常に立派なものである。若きローランド・パネライのリッカルドも良い。特に、第2幕でロッシ=レメニが演じるジョルジョと交わす有名な二重唱の場面では、まさに圧巻とも言うべき声と歌唱を聴かせてくれる。巨匠セラフィンが指揮するスカラ座のオーケストラと合唱の威力についてはもう、言わずもがなであろう。

●ロッシーニ : 歌劇<ウィリアム・テル> ~アルノルド

ロッシーニ最後のオペラとなる<ウィリアム・テル>は、極めて充実した傑作である。有名な序曲だけでなく、約4時間に及ぶ全曲演奏にしっかり付き合ってみると、「お軽い喜劇ばかり書いていたロッシーニ」などというステレオタイプが、いかに的外れなものであるかということを思い知らされる。例えば、第1幕のエンディングで聞かれるアンサンブルと合唱。ここには例の“ロッシーニ・クレッシェンド”という言葉を想起させる音楽が出て来るが、その重厚さたるや過去のコメディ系作品で聞かれたものとは全く別世界、別次元のものになっている。あるいは、第3幕のエンディング。このパワフルな盛り上がりは、彼に続くドニゼッティやベッリーニの時代を一気に飛び越えて、いきなりヴェルディのところまで行ってしまっているようだ。さらに挙げるなら、第3幕第2場の豪壮たるオープニング。「ゲスラー様に栄光あれ!」と歌う大合唱の威力といったら、どうだろう。そして、全曲を締めくくる第4幕ラストの合唱。「ひょっとして、ニルセンの交響曲第4番のエンディングは、ここを参考にして書かれたんじゃないか?」などとおかしなことをつい考えてしまうような、充実しまくったせり上がりの興奮。「ロッシーニのオペラを蔑視していたワグナーさえもが、<ウィリアム・テル>には敬意を表していた」という話も、十分にうなずけるものがある。

(※中公新書・『オペラの運命』の87ページ以降で著者の岡田暁生氏が書いておられることをかいつまんで引用させていただくと、歌劇<ウィリアム・テル>は、「その完成度の高さと構想の雄大さの点で、それまでのロッシーニ作品から際立っている」ものであり、「<オリー伯爵>ともども、作曲家が納得いくまで推敲を重ねることが出来た最初で最後のオペラ」であり、「我々と同じ生身の人間が“歴史”というオペラの主人公になる、新時代の到来を告げる記念碑的な作品」ということになる。ただ一方で、このオペラは全体的には渋好み、あるいは通好みの作品であるということも付け加えておく必要があろうかと思う。すぐに覚えられるアリアとか、親しみやすいメロディみたいなものが、ほとんどないからだ。そして、有名な序曲の締めくくりとして誰もが知っているあの『スイス軍の行進』も、残念ながらドラマの中には全然出て来ないのである。)

リッカルド・シャイー&ナショナル・フィル、他によるデッカの全曲盤(1979年)に、パヴァロッティがアルノルドの役で出演している。まず第1幕、敵方の王女マティルデと愛し合ってしまった自分の身の上を嘆く歌、これが最初の聴きどころ。続く第2幕からは、マティルデとの二重唱。どちらの場面も、パヴァロッティの情熱的な歌唱を堪能することができる。しかし、その後に続く第3幕第1場こそ、一番のクライマックスと言うべきであろう。「我が父の仇ゲスラー!」といきり立つアルノルドと、その事実を知って驚くマティルデとの二重唱である。このシャイー盤でマティルデを歌っているのはミレッラ・フレーニだが、パヴァロッティともども名歌手の真骨頂を示す歌唱を聴かせる。最後の幕となる第4幕の第1場で歌われるアルノルドの決意、ここでもパヴァロッティのホットな歌が楽しめる。

(※ちょっと横道話。上述のベッリーニ作品と同様に、フレーニのロッシーニ録音というのも、かなりレアな感じがする。基本的にヴェルディ以前の作曲家にはあまり縁がなかったように見えるフレーニが、マティルデ役には違和感なくはまり、それどころか見事な名唱を聞かせていると感じられるのは、とりもなおさず、<ウィリアム・テル>というオペラがロッシーニ作品のなかでも極めて異色のものであるという事実を逆照射させているようにも思える。)

シャイー盤で主人公ウィリアム・テル(※イタリア語では、グリエルモ・テル。オリジナル台本のフランス語では、ギヨーム・テル)を演じているのはシェリル・ミルンズだが、彼の出来は並みのレベルだ。むしろテルの友人グアルティエーロ(英語名ワルター)をニコライ・ギャウロフが演じているのが、おいしいポイントである。チョイ役ながら、「さすがは、ギャウロフさん」といった感じの存在感を示している。また、悪者ゲスラーの腹心であるロドルフォを、大ヴェテランのピエロ・デ・パルマが担当していることにも注目。録音当時彼はもう還暦前後だったはずだが、ここでも相変わらず意気軒昂。お元気なところを見せてくれている。

●ドニゼッティ : <レクイエム> ~テノール独唱

良き後輩であると同時に良きライヴァルでもあったベッリーニの死を悼んで、1835年頃にドニゼッティが書いた<レクイエム>。ゲルハルト・ファックラー指揮ヴェローナ歌劇場管、他による録音にパヴァロッティが参加している。この珍品<レクイエム>で面白いのは、『インジェミスコ(=私は嘆く)』が独立したテノール独唱曲になっていて、ふとヴェルディの作品を連想させることである。と言っても、ヴェルディの曲に比べるとこちらは格段に質素なもので、ヴァイオリンとチェロ(で、よかったと思う)のソロを脇に従えて、テノールがしんみりとひそやかな歌を歌う形になっている。曲自体の性格も勿論あるけれども、パヴァロッティはそこで実直真摯な歌唱を披露している。指揮者が全く凡庸なため、この作品自体が本来どれぐらいの魅力を持つものなのかは何とも判じがたいのだが、全盛期のパヴァロッティが目立たないところで、(別言すれば、商業的な利益からはおよそかけ離れたところで)、何気なく良い仕事をしていた例として、最後に挙げてみることにした。

―ルチャーノ・パヴァロッティの録音を巡るお話は、これで終了。よく知られた「三大テノール」のお祭りイヴェントや、ジャズ&ポップス界の大物たちとのコラボなども、後年の彼にとっては大事な仕事であったかもしれない。しかし、私にとっては、その辺のものはどうでもよい。類稀なる美声を持った不世出のベルカント・テナーとしての活躍、特にデッカに録音された数々の名唱こそが、パヴァロッティの遺してくれた何よりも大切な業績なのである。

―名歌手の天国での幸福を祈って、合掌。
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ルチャーノ・パヴァロッティの録音から(1)

2007年09月18日 | 演奏(家)を語る
前回マスカーニの歌劇<イリス>に軽く言及し、パヴァロッティが歌った《ヴェリズモ・アリア》集(L)にも少し触れていた関係から、次は歌劇<友人フリッツ>でも採りあげてみようかと考えていた。フレーニ&パヴァロッティの主演による同作品の全曲CD(EMI)が手元にあったからである。そのパヴァロッティが去る9月6日、モデナの自宅で亡くなった。享年71との由。そこでちょっと予定を変更して、今回と次回は、この名テナーが遺した膨大な音源の中からいくつか任意に選んで語ってみることにしたい。ただし、よく知られた定番のCD等を論じるのは、各種の音楽雑誌におまかせである。ここはせっかくの個人ブログ、独断と偏見に基づいて独自のカラーを打ち出していきたいと思う。

録音に於けるルチャーノ・パヴァロッティのキャリアはまず、デッカでの仕事が中心になって始まった。そのあたりの成り行きについて、同社の名プロデューサーであったジョン・カルショー氏が、自著『レコードはまっすぐに』の中で手短に語っている。言い回しを一部変えてその箇所をちょっと抜き出してみると、おおよそ次のような感じになる。

{ ある未知のイタリア人テノールの話が流れ始めた。すでに将来の大成功が約束されているという。リチャード・ボニングが彼を聴き、「躊躇せずに契約せよ」と急かしてきた。歌手の声に対する彼の判断は、いつも正しい。・・・議論の余地はなかった。その声は完璧にコントロールされているとは言えないし、解釈もやや生硬だ。だが大きな声で、ハイCにも易々と届いていた。それは、もう少し時間を与えて、そして周囲を立派な歌手で固められれば、たとえば<ボエーム>などを、もう一つ新たに録音するための正当な根拠になり得る、そんな種類の声だった。・・・それから十年のうちに、その声はオペラ録音の世界の最高の財産になった。・・・歌手の名は、ルチャーノ・パヴァロッティである。 } ジョン・カルショー著『レコードはまっすぐに』(日本語版・Gakken)~495ページ

そんな経緯から、若きパヴァロッティが参加したデッカのオペラ録音は、かねてより彼を高く評価していたリチャード・ボニングの指揮によるものが中心となった。古いカタログでラインナップを調べてみると、ドニゼッティの<愛の妙薬><ルチア><ラ・ファヴォリータ><マリア・ストゥアルダ><連隊の娘>、ベッリーニの<テンダのベアトリーチェ><清教徒><夢遊病の女>、そしてヴェルディの<リゴレット><トロヴァトーレ><ラ・トラヴィアータ>といったあたりが見つかる。ただ、これらの録音については、「パヴァロッティの出来は大体どれも素晴らしいが、指揮者や他の歌手には不満が多い」というのが大方の評価になっているようだ。上記の中では<ラ・ファヴォリータ>が、コッソット、ギャウロフ、コトルバシュら共演者の充実によって、他の録音よりは良く見られているといった感じになりそうである。

ボニング以外の指揮者によるオペラ全曲録音で、歌手陣の充実ぶりが評価されるデッカの名盤としては、ポンキエッリの<ジョコンダ>(バルトレッティ盤)とボーイトの<メフィストフェレ>(ファブリティース盤)あたりが代表盤になりそうだ。前者<ジョコンダ>は未聴なのではっきりしたことは言えないが、後者<メフィストフェレ>は間違いなく素晴らしい。そこには、パヴァロッティこそボーイト・オペラに於ける最高のファウスト博士であったと実感させてくれるような、極めつけの名唱が記録されている。それと、次回扱う予定になっているロッシーニの<ウィリアム・テル>(シャイー盤)。これも、見逃せない逸品だ。あとは、カラヤンの指揮による2つのプッチーニ・オペラ、即ち<蝶々夫人>と<ラ・ボエーム>ということになるだろうか。ただ、この2つは、世間で言われているほど良いものだとは私には思えないので、当ブログでは無視することにしたい。

●マスカーニ : 歌劇<友人フリッツ> ~フリッツ

歌劇<友人フリッツ>は同じ作曲家の代表作である<カヴァレリア・ルスティカーナ>とは全く対照的に、一種の牧歌劇とでも言うか、どこかのどかな温かみを持ったラブ・ストーリーである。と言っても、全曲を知っている人は案外少ないかもしれない。

お話は割と、シンプルなものだ。周りの言葉も聞かず独身主義を貫こうとするフリッツ(T)という農場主が、このドラマの主人公である。友人である司祭のダヴィッド(Bar)に対して、「賭けてもいいよ。もし俺が結婚することになったら、君にブドウ畑をそっくりくれてやる」とまで言うほど、彼の決意は堅い。しかし、やがて農場の管理人の娘であるスゼル(S)がフリッツの前に現れる。ピンと来た司祭は、巧みに二人を導き、ついに結びつけることに成功する。最後、「約束どおり、ブドウ畑は君に進呈するよ」とフリッツからの申し出を受けた司祭は、いったんそれを受け取ることに同意するが、すぐさま、「じゃ、そのブドウ畑を私からの結婚祝いとして、花嫁のスゼルにプレゼントしよう」と続ける。一同、やんやの大喝采。喜びの合唱でめでたく全曲の終了、という展開である。

ジャナンドレア・ガヴァッツェーニがコヴェント・ガーデン王立歌劇場管弦楽団、他を指揮した1968年のEMI録音に、若い頃のパヴァロッティと、彼の幼なじみであったミレッラ・フレーニが主演している。で、この二人が実に良い。フレーニはまず、第1幕の登場シーンが素晴らしい。本当にチャーミングである。一方、第3幕でスゼルが絶望の気持ちを歌う場面になると、彼女はまるで蝶々夫人みたいな歌を聞かせ、「やっぱり、フレーニさんだねえ」と聴く者をニンマリさせる。パヴァロッティの方は、有名な『間奏曲』に続く第3幕冒頭のアリアがやはり、一番の聴かせどころになるだろうか。さすがという感じの、見事な歌唱である。終曲間際にフリッツとスゼルが聴かせる熱い二重唱も、非常に良い。これであと、司祭のダヴィッドを演じるバリトン歌手がもう少しキャラの立つ人だったらもっと良かっただろうな、と思う。録音状態の良さも考え合わせると、ガヴァッツェーニ盤は今でも、このオペラの代表盤であり続けていると言ってよいのではないだろうか。

●ヴェルディ : <レクイエム> ~テノール独唱

おなじみのひげ面になる前の若きパヴァロッティが実際に歌っている姿を、私は10数年前に<ヴェル・レク>の古い映像ソフトで初めて見た。カラヤンがミラノ・スカラ座管弦楽団、他を指揮した上演(1967年)の記録である。映像監督は、アンリ・ジョルジュ・クルーゾー。そこでは、ひげのないのっぺり(?)顔のパヴァロッティが、実直且つ端正な歌唱を聴かせていた。若さゆえの硬さがあったことは勿論否定できないが、それなりに立派なものだったと思う。(※ちなみに、あとの3人はレオンティン・プライス、フィオレンツァ・コッソット、そしてニコライ・ギャウロフである。それぞれに皆、当時のベストと言えそうな歌唱を披露していた。)

パヴァロッティはその後、ショルティ&ウィーン・フィル、他によるヴェル・レクのデッカ録音にも参加している。これは宇野功芳氏がLP時代から絶賛してやまない演奏だが、正直言って、私にはこれのどこがいいんだかさっぱり分からない。録音ばかりがやたら良くて、ガンガンガンガン鳴り響く無機質の音楽というのは、はっきり言って聴くのが苦痛である。本当に頭が痛くなる。4人の独唱者も皆いま一つの出来で、誰も好印象を残してはくれなかった。パヴァロッティはまだ、ましな方だったとは思うが・・。

パヴァロッティがソロを受け持った<ヴェル・レク>といえば、クラウディオ・アバドの指揮によるローマRAI交響楽団、他による珍しいライヴの音源(Opera d’Oro 盤)というのがある。これは若きパヴァロッティのほかにレナータ・スコット、マリリン・ホーン、そしてニコライ・ギャウロフが独唱者として出演していたコンサートのライヴ録音である。1970年10月10日というCDジャケットの記載が正しいとすれば、これは指揮者アバドが僅か37歳の頃に行なった演奏ということになる。

冒頭から客席のノイズがやけに大きいので、これはおそらく海賊録音であろうと推測されるが、そういったオーディオ的な不備にもかかわらず、この演奏には一聴の価値がある。まず、この難曲を破綻させずにしっかりとまとめ上げる、若きアバドの統率力。これには感嘆するばかり。と同時に、後年の演奏とは一味もふた味も違う若々しい熱気がある。またその一方で、彼が一貫してこの曲に対して持っていた解釈や表現の特徴が、すでにこの演奏で確認できるのも興味深い。例えば、『怒りの日』の合唱で効かせるリタルダンド、あるいは『ホスティアス』を歌いだすテノール・ソロに使わせる裏声、といったようなものがその具体例である。

4人の独唱者の中では、メゾ・ソプラノのマリリン・ホーンが一番冴えているようだ。彼女はアクの強い肉太な声を持つ歌手だが、この曲のソロには比較的合っているように思える。上記ショルティ盤での歌唱よりも、ライヴの緊張も加わってずっと良い出来栄えを見せている。ソプラノのレナータ・スコットも熱唱だが、この曲で彼女を聴くなら、ムーティの1979年・EMI録音のほうが良い。声自体はこのライヴよりも細くなっているものの、彼女ならではの体当たり激唱に随所で笑わせてもらえる。バスのギャウロフは声の威力でひたすら圧倒するが、ちょっと力ずく過ぎて強引な感じがしないでもない。上記のカラヤン映像盤で聴かれるような誠実な歌い方の方が、やはりベターであろう。パヴァロッティも輝かしい声を存分に響かせているが、ここでの歌唱にはちょっと不安定なところもある。有名な『インジェミスコ』の途中で歌い出しを間違えて、一瞬変なことになったりしているのだ。このCDはヴぇるれく・コレクター、あるいは熱心なアバド・ファンの方にのみ、一聴をお薦めしておこう。

―次回もう一度、パヴァロッティの録音を巡っての気ままなお話。
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