クラシック音楽オデュッセイア

2009年の大病以来、月1回程度の更新ペース。クラシックに限らず、身の回りの事なども、気の向くままに書いております。

<コジ・ファン・トゥッテ>~フォンク映像盤

2006年06月29日 | 演奏(家)を語る
今回は、歌劇<コジ・ファン・トゥッテ>の聴き比べ・第3回。ハンス・フォンクの指揮によるドレスデンでの映像収録盤を採り上げてみたい。番号は最初からの通しで、5番になる。

5.ハンス・フォンク指揮ドレスデン国立歌劇場管、他(ドリームライフ社)~1983年

<コジ・ファン・トゥッテ>という人気オペラには、現在数種の映像盤が存在する。その中にはかなり前衛的、あるいは刺激的な演出が施されたものもあるようだ。私が視聴したのはこのフォンク盤だけなので、演出や映像についての比較論議までは残念ながら出来ない。が、とりあえず当ドレスデン収録盤について言えば、入門者にも分かりやすい非常に良質な物であると言ってよいと思う。

出演者名を並べてみると、フィオルディリージがアーナ・プーサル、ドラベッラがエリーザベト・ヴィルケ、フェランドがアルミーン・ウーデ、グリエルモがアンドレアス・シャイプナー、ドン・アルフォンゾがヴェルナー・ハーゼロイ、そしてデスピーナがコルネリア・ヴォスニッツァ、といった面々である。さて、正直に言わねばならないが、私はこの人たちを誰一人知らない。全く、知らない。しかし、映像付きで収録しようと企画されたものだけに、これが当時のドレスデンでのベスト・メンバーであっただろうことは容易に想像がつく。実際、彼らの演技や歌唱は皆それぞれ水準に達した出来栄えを示すものになっている。

まず3人の男性陣の中で最も充実しているのは、ドン・アルフォンゾ役のハーゼロイである。映像で見る限り、この人の風貌にはまだ老哲学者とは呼びにくい若さが残っているものの、声はたっぷりとした魅力的なバス(・バリトン)であり、歌唱も非常に優れたものである。ドン・アルフォンゾこそがこのドラマの要(かなめ)であるということをよく分からせてくれる、存在感溢れる名演だ。それに比べると、フェランドとグリエルモの青年二人はやや落ちる。しかしその二人も、アルバニア人男性に変装して騙しのお芝居を始めるあたりから、グングンと調子を上げてくる。

女性陣も揃って水準以上だが、中でもとりわけ見事なのが、デスピーナ役のヴォスニッツァ嬢である。クリッとした大きな目が印象的な、スタイルの良い女性歌手だ。表情豊かな演技に加えて、さりげない動きに見せるバレリーナ然としたしなやかな物腰がまた魅力的。インチキ医者やニセ公証人に化ける時のコスプレなど、やっている本人がもうノリノリという楽しさがこちらにもはっきり伝わってくる。さらに有り難いことに、この人は歌もしっかりしている。フォンク映像盤での一番の収穫は、このデスピーナだと言ってもよいぐらいである。

一方、美人姉妹を演じる二人もなかなかに魅力的で、特に二人が声を揃えるアンサンブルでは見事な出来栄えを見せる。しかもこのお二人、顔も何だかよく似ていて、まるで本当の姉妹みたいなのである。役柄の年齢的な部分にこだわると、彼女たちの風貌はどうにも年かさに見えてしまうのだが、まあそのあたりは仕方ないだろう。実際それを言ったら、他の録音の名歌手たちだって似たり寄ったりの状況なのだから。

せっかくなので、ここでの映像・演出についても少し触れておきたい。序曲を演奏している最中に、ビリヤードのテーブルが映し出される。そこには、白い玉と赤い玉が二つずつ。それがあちこちからキューで小突かれて、しきりにペアを入れ替えるのだ。これは、このオペラで何が演じられるのかを分かりやすく象徴している。そしてドラマが始まると、そのキューを突いていたのが他ならぬドン・アルフォンゾと分かって、思わずニンマリさせられるという仕掛けである。さらにこの演出では、ラスト・シーンでもフィオルディリージとドラベッラの二人が、くっつく相手の男性を入れ替えながらそのビリヤードの玉のように動いて見せる場面がある。このオペラの構造的な特徴の一つにシンメトリー(=左右対称)効果があることは多くの人によって指摘されてきているが、当フォンク盤では、「序曲の映像」と「終曲の映像」もまた一つのシンメトリーにしようという狙いがあったのかもしれない。

歌手たちが登場すると、彼らが口パク演技をしていることがすぐ分かる。どうやら音楽と映像は別テイクのようだ。さらにこのフォンク盤、歌われる歌詞がドイツ語である。その台本作成と映像演出は、どちらもヨアヒム・ヘルツという人物によってなされているとのこと。このドイツ語上演という点には、ひょっとしたら、ちょっと抵抗を感じる人が出て来るかもしれない。

しかし、音声だけのCDと違って、やはり映像がもたらす情報は非常に大きなものだなあと、つくづく実感する。私の場合、この1種類の映像盤しか知らないのであまり大したことは言えないのだが、ここでは例えば、浮気を勧めるデスピーナのアリアに乗ってドラベッラが踊り出してしまう姿を見ることが出来る。それを姉のフィオルディリージが諌(いさ)めるようにして止めに入るという展開に、思わずニヤリ。あるいは、そのフィオルディリージが、「岩のように動かない私の心」と力強いアリアを歌い出す時、ドラベッラの方は早くもグリエルモが変装した男に興味を示した様子で、彼の方に向けて意味ありげな視線を送り始めるのだ。このあたりはまさに、映像あってこそのお楽しみシーンと言えるものだろう。

二人の青年を巡っても、やはり映像付きだからこそ楽しめる部分がある。例えば、フェランドの軍服を着たフィオルディリージがついに口説き落とされて陥落するシーンだが、このように映像があると、舞台脇で目を吊り上げながらその様子を見ているグリエルモの姿を同時に楽しめるわけである。音声だけのCDでは、こうはいかない。そして、最後の場面がまた、なかなかに興味深い。芝居のからくりが姉妹に打ち明けられた後、二人の青年はどちらも不機嫌で浮かない顔をしている。で、そのあたりの気持ちがこちらにもよく分かるのだ。要するに、彼らは知ってしまったのである。「自分は彼女にとって、絶対的な恋人ではなかった。いつでも、それもたった一日で、他の男と簡単に交換されてしまう部品に過ぎなかった」。結局傷ついたのは、騙しの芝居を行なった青年達の方だったようである。その不幸な男たちの機嫌をとりなすように、騙された側の姉妹が笑顔でいちゃつく。ヘルツ演出によると、どうやら女性の方がショックから早く立ち直れる強さを持っているようである。

この演出は、エキストラの扱いも面白い。具体的には、二人の青年が急に戦場に行くことになったと嘘を言って、恋人である姉妹としばしの別れを演じる場面だ。悲しむ姉妹の様子を見ながらドン・アルフォンゾが、「おかしくて、腹の皮がよじれるわい」とほくそ笑むカットがあるわけだが、彼が白いハンカチを振り下ろす合図に合わせて登場してくるエキストラ(軍隊の人たちやら、近所の人たちやら)は、ドン・アルフォンゾと一緒になってケタケタ、クスクスと笑うのである。合唱団が演じるこのエキストラについては、単なる背景音楽としてステージには登場させないという演出もあるようなのだが、ここでの彼らはどうやら、ドン・アルフォンゾに雇われた悪の一味(?)のようだ。

さて、ハンス・フォンクの指揮だが、これは特に際立った個性を見せるものではない。中堅どころの指揮者が全体をよくまとめて、手堅く仕上げているといった印象である。しかしこれ、決して悪くはない。録音状態もそれほど冴え冴えとしたものではないが、歌手たちの声が心地よい空間性を感じさせながら美しく響く。これも、及第点と言ってよいだろう。―という訳でこのフォンク盤、最後まで視聴し終えてみると、「うーん、良かった!これは楽しませてもらったぞー」と、しっかりした満足感が得られる良質な映像ソフトである。なかなかの逸品だ。

―ところで、このオペラの中でただ一人明らかな勝利を収めるドン・アルフォンゾなる人物はいったい、何者なのだろうか。次回は、歌劇<コジ・ファン・トゥッテ>の聴き比べ・最終回。ドン・アルフォンゾの正体は、実はあの超有名キャラクターなのではないか、と思わせてくれるライヴの名演を一つ採り上げてみたい。
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<コジ・ファン・トゥッテ>~ベーム(’74)、ムーティ

2006年06月24日 | 演奏(家)を語る
モーツァルトの歌劇<コジ・ファン・トゥッテ>の聴き比べ・第2回。番号は前回からの通しで、今回は3、4番となる。

3.カール・ベーム指揮ウィーン・フィル、他(G)~1974年

前回語った1962年のスタジオ録音盤(EMI)から12年後、指揮者ベームが80歳の誕生日を迎えた1974年8月28日に行なわれたという、ザルツブルクでのライヴ録音。先述のEMI盤と違って、私はこの演奏を非常に楽しく聴かせてもらった。と言っても、ここでのベームの指揮はずいぶんと枯れた筆遣いになっていて、潤いや覇気といった要素には乏しいものである。にもかかわらず、この演奏は私に大いなる楽しみのひと時を与えてくれたのだ。

その理由はズバリ、歌手達の魅力である。特に、3人の男性陣。ペーター・シュライアーは血気盛んで、なお且つどこかナイーヴなところを持ったフェランドという役を、この上なく美しく立派に歌いだす。例えば第17曲のアリア「愛しい人の恋の息吹は」など、よくぞライヴでこれほどの完成品が作れるものだと、思わず目を見張ってしまう。続いて、ヘルマン・プライ。彼の声はたくましさと同時に独特の甘さを持った魅力的なものだが、そこにライヴならではの活力も加わって見事なグリエルモを聴かせてくれる。この二人がまず、素晴らしい。少なくとも今回採り上げる6種の中では、群を抜いて最高のコンビである。

そして、そこに絡んでくるローランド・パネライのドン・アルフォンゾがまた絶妙なのだ。プライとは対照的なややアクのある声で、彼は“したたかな仕掛け人”の役を鮮やかに演じている。コメディアンとしても一流だが悪役も巧みにこなすパネライにとっては、若い頃よく歌っていたグリエルモの役よりもむしろ、このドン・アルフォンゾの方がずっと似合っているように思える。

(※同じベームのEMI盤でフェランドとグリエルモを歌っているクラウス&タッデイも、それぞれに悪くない歌唱を示している。しかし、声自体の魅力にライヴならではの生き生きした雰囲気が加わって、こちらのシュライアー&プライのコンビの方が圧倒的に素晴らしい。ドン・アルフォンゾも同様。EMI盤のワルター・ベリーも勿論、悪くはない。しかし声の存在感とグリエルモとの対比感、そして自然なイタリア語のディクションと闊達な演技力の差によって、やはりパネライの方に一日の長がある。―というのが、私の実感。)

一方の女性陣。姉のフィオルディリージはグンドラ・ヤノヴィッツで、妹のドラベッラは若き日のブリギッテ・ファスベンダーが歌っている。そして、お手伝いさんのデスピーナは、ヴェテランのレリ・グリストである。この3人の中では、ヤノヴィッツが抜群に良い。ベームのEMI盤に出ていたシュワルツコップは、役柄の年齢設定を超えるほどの堂々たるフィオルディリージを聴かせていたが、ヤノヴィッツにはもっと自然な柔らかさが備わっている。これはあるいは、上品さと言ってもよいだろうか。歌唱も勿論見事なのだが、シュワルツコップにはない独特の雰囲気が新たな魅力をこの役に与えているのである。

一方、妹役のファスベンダーには少し、硬さが見られるようだ。ここでの彼女はヤノヴィッツ姉さん(?)の艶やかな名唱に寄り添いながら、ザルツブルクの大舞台をうまく乗りこなしたという感じである。その結果として、この姉妹による二重唱は、「姉のフィオルディリージがリードし、妹のドラベッラがそれにうまく合わせていく」というような形に聞こえてくる。これはこれなりに、良いのではないかと思う。

グリストは声の点で言えば、バーンスタインの指揮によるマーラーの<交響曲第4番>(ソニー盤)でソプラノ独唱を務めていた頃からすれば、もう明らかに盛りは越している。ここでも、何となく線が細い感じだ。しかし、さすがにヴェテランらしい味を見せて、彼女は小味なデスピーナを演じている。そのこなれた演技を、ここでは賞玩(しょうがん)するべきだろう。

ベームの指揮ぶりは上述の通り、“老大家の枯れた筆”である。緩んだように感じられる部分もなくはない。しかし、姉妹の二重唱を導く前奏で聴かせるウィーン・フィルの陶酔的な音色や、第1幕のエンディングで見せるかっ飛びテンポなど、あちこちでうま味を発揮していることも見逃せない。それやこれやで、私にとっては前回採り上げたEMI盤より、この’74年ライヴ盤の方がずっと楽しめる物なのであった。

4.リッカルド・ムーティ指揮ウィーン・フィル、他(EMI)~1982年

ベームが去った後のザルツブルクで、ムーティが<コジ・ファン・トゥッテ>を振ったときのライヴ録音。かつてLPで聴いたのだが、これには正直言って随分がっかりさせられたものだ。出演歌手名を先に書いておくと、フィオルディリージがマーガレット・マーシャル、ドラベッラがアグネス・バルツァ、フェランドがフランシスコ・アライザ、グリエルモがジェイムズ・モリス、そしてドン・アルフォンゾがホセ・ファン・ダムで、デスピーナがカスリーン・バトルという顔ぶれである。

歌手たちの中で一番冴えていたのは、ドラベッラ役のバルツァであろう。ライヴゆえに音程が揺れる箇所もあることはあるが、享楽的で感情の起伏が大きい側面を持つドラベッラの性格を、鮮やかに歌い出していた。マーシャルのフィオルディリージが並みの出来であるため一層それが引き立つことになるのだが、上述のベーム盤(G)とは逆に、こちらは活発な妹が率先して控えめな姉を引っ張っているような形に聞こえる。これはこれでまた、面白いパターンではある。

一方の男性陣には、全く満たされない。モリスのグリエルモはたくましい声の一本槍で、単細胞の体育会系みたい。アライザは生硬で、シュライアーの足元にも及ばないレベル。ファン・ダムも、「一応、こなしましたけどね」という程度の出来である。バトルのデスピーナも、先輩のグリストより声がくっきりしているのは好ましいポイントだが、セリフ場面でのうまさに比べて肝心の歌が今ひとつ。で、このメンバーが揃ったアンサンブルからも、残念ながら、陶酔感は得られなかった。

ムーティの指揮について言えば、とりあえずこの人らしいきびきびした音楽運びでやってくれてはいる。しかし、何だか腰の軽い響きでヘラヘラした演奏に聴こえてしまうのだ。例えば、第1幕のエンディング。ぐんぐんとテンポを上げてくれるのは結構だが、彫りが浅くて表面的な音楽が音符の上を上滑りしているみたいなのである。もっとも、このような印象は多分に、録音からもたらされている部分が大きいかも知れない。どういう種類のマイクを当日どのようにセッティングしたのかは全く不明だが、とにかく乾いてデッドな音なのである。歌手たちの声も、やけに遠くに感じる。そして、その引っ込んだような音に始終イライラさせられながら、結局最後まで付き合わされることになるのだ。私はLPで聴いた感想を言っているに過ぎないのだが、生でこの演奏に触れた人達にとってはおそらく、もっと良い物であったに違いない。

(※この際だからついでに書いておくと、ムーティとウィーン・フィルによるモーツァルトの交響曲についても、私は楽しませてもらったことがない。若い頃の彼が、ニューフィルハーモニア管を指揮して録音した<交響曲第25&29番>(EMI)をLP時代に聴き、「ムーティのモーツァルトって、すごくいいじゃないか」と思ったのも、いつの間にか随分な昔話になってしまった。その後出世したムーティが天下のウィーン・フィルとモーツァルト録音をやるというので、ちょっとわくわくしたのも、今となっては虚しい思い出だ。フィリップス・レーベルから相当数発売されているが、どれもこれも私にはつまらないものばかりである。何なのだろう。とりあえず、立派な演奏ではある。評論家にも褒められている。でも、ただ立派なだけで無難な演奏をやっている“大家”ムーティには、溢れ出る音楽ではち切れんばかりだった頃の魅力が全然感じられないのである。<第25&29番>など、特にそうだ。若きムーティの歌心がオーケストラ曲で全開したあのニューフィルハーモニア盤は、たった一度CD化されただけで、以来完全に廃盤状態。もったいない。EMIさん、ARTリマスターでこれ、復活させて下さい。)

―次回は、歌劇<コジ・ファン・トゥッテ>の聴き比べ・第3回。ハンス・フォンクの指揮によるドレスデンでの映像収録盤を採り上げてみたい。
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<コジ・ファン・トゥッテ>~カラヤン、ベーム(’62)

2006年06月19日 | 演奏(家)を語る
今回から、歌劇<コジ・ファン・トゥッテ>の聴き比べである。私がこれまでに聴いて(あるいは、視聴して)きた6種類の全曲盤を録音年代順に並べ、それぞれについての感想文を書いていきたいと思う。まずは、モノラル時代のカラヤン盤と、ステレオ最初期のベーム盤から。

1.H・V・カラヤン指揮フィルハーモニア管、他(1954年・EMI)

フィルハーモニア時代の若きカラヤンが遺した、一連のオペラ録音の一つ。その後ステレオ時代になっても、カラヤンはこのオペラの再録音セッションを組まなかった。そのことからも、これは貴重な記録であると考えている人は少なくない。歌手たちも、1950年代のベスト・メンバーとされる顔ぶれが揃っている。彼らの声はそれぞれに個性的で、コントラストがくっきりしている。しかし、個々の歌手たちが一人で歌うアリアはそれほど印象的でなく、これはむしろアンサンブルで惹きつけるタイプの演奏になっているように感じられる。

出演者の顔ぶれを見ていくと、まずフィオルディリージがエリーザベト・シュワルツコップで、ドラベッラはナン・メリマン。お手伝いのデスピーナは、リザ・オットー。フェランドはレオポルド・シモノーで、グリエルモはローランド・パネライ。そしてドン・アルフォンゾがセスト・ブルスカンティーニ、といった面々である。

この中ではまず、ブルスカンティーニのドン・アルフォンゾがユニークだ。彼の声は一応バリトンなのだが、声質は少し鼻にかかったような軽いものである。その独特の声を活かして、軽やかな演技巧者として聴かせる。その流れで言うと、デスピーナ役のリザ・オットーも演技賞ものだ。特にニセ医者を演じる時の彼女は、そのままNHKのお子様番組にでも使えそうなアニメ系(あるいは、ぬいぐるみ系)の声を出す。このような声の演技を披露しているデスピーナ歌手は他にもいるのだが、この人のはとりわけ見事にハマっていて、思わず笑ってしまう。ただ、いくつかの持ち歌で聴かせる歌唱が今一つの出来なのが、ちょっと残念。

シュワルツコップのフィオルディリージは、次に登場するベーム盤でも聴ける。当然のことながら、声はこちらの方が若々しいのだが、歌の完成度はベーム盤(EMI)よりも落ちる。ドラベッラを歌うナン・メリマンの声と歌唱は、今の感覚で聴くとやや重く、古めかしさを感じさせる。シュワルツコップともども、この人もアンサンブルで良さを見せている。男性陣についてもほぼ同様で、シモノーとパネライの青年コンビもやはり、アンサンブルで力を発揮している感がある。パネライは一人で歌うアリアでもなかなかのものを聴かせるが、シモノーの方は独唱になると全くうまくない。

さてカラヤンの指揮ぶりだが、実はこれ、ちょっと一筋縄ではない。歌い手たちのアンサンブルをきっちりとまとめる手腕はさすがのものだし、歌への合わせも勿論上手である。ただ、どうも音楽が自然でないというか、聴いていて息苦しくなるというか、何だか力ずくで進めているように感じられる部分が多々あるのだ。例えば、序曲。「いかにも若き日のカラヤンらしい、颯爽たる演奏」と感じる方もおられようかとは思うのだが、私にはまるで、指揮者が腕ずくで音楽を引きずり回しているように聴こえて仕方がない。だからカラヤンがこのオペラをステレオ再録音しなかったのは、「満足できる歌手陣がその後、揃わなかったから」ではなく、「自分の性(しょう)に合わないものを、このオペラに感じていたから」ではないか、なんて気もしてしまうのだ。勿論これは、単なる揣摩臆測(しまおくそく)に過ぎないのだが・・。

2.カール・ベーム指揮フィルハーモニア管、他(1962年・EMI)

評論家のセンセー方による「ベストCDはこれだ!」みたいな投票企画があると、当ベーム盤はいつも一位、あるいはそれに準ずる高位を獲得してきた。おそらく今後とも、同じような企画があれば高い順位を取り続けることだろう。実際この録音には、それだけの優れた内容がある。

まず歌手陣。いわゆる“めり込み”がない。強いて挙げるなら、(多くの人々から指摘されてきたように)デスピーナ役のシュテフェックがいささか物足りないということぐらいだろう。それだって、決して大きな弱点ではない。他の歌手は皆、それぞれに優秀だ。フィオルディリージを歌うシュワルツコップには、堂々無類の貫禄がある。「岩のように動かない」のアリアなど、まるで聴く者の肺腑をえぐらんばかりの圧倒的歌唱を聴かせる。ドラベッラ役のクリスタ・ルートヴィッヒも立派。カラヤン盤で歌っているメリマンあたりと比べればよく分かるが、今の時代にも通用する近代的な歌のスタイルが確立されている。男性陣にも弱点がない。もともとアルフレード・クラウスはモーツァルト・テナーではないのだが、高い知性のなせる業か、見事にモーツァルト・スタイルに同化している。グリエルモ役のジュゼッペ・タッデイも、ドン・アルフォンゾ役のワルター・ベリーも、ほぼ過不足なくそれぞれの役目を果たしている。

そこへもってベームの指揮がまた、立派なことこの上ない。一音たりともゆるがせにせず、きっちりとオーケストラを鳴らす。気力の充実ぶりが、ビシビシと伝わってくるような演奏だ。しかも、上述のカラヤン盤などとは打って変わって、音楽の流れが自然。力の強弱やテンポの緩急などにも見事な呼吸を見せ、いかにもこのオペラのスペシャリストらしい鮮やかな腕前を披露している。

しかし正直に言ってしまうと、昔も今も、私はこのベーム盤を聴いて楽しいと思ったことがない。これは例えば、ヨッフムが指揮したオルフの<カルミナ・ブラーナ>(G)、あるいはクーベリックがボストン響を指揮して録音したスメタナの<我が祖国>(G)といったあたりに感じているものに近いかも知れない。端的に言えば、「ご立派な演奏だけど、全然面白くないんだよね」ということである。では、このベームの<コジ・ファン・トゥッテ>が常にベスト盤、またはそれに準ずる名盤としての評価を獲得し続けてきたという事実を、私は自分の中でどう咀嚼(そしゃく)したらよいものかと、ちょっと考えてみた。そして、以下のような説明付けが、おそらく私にとって最も納得のいくものになりそうだと思いつくに至ったのである。

指揮者の音楽作り、男性陣・女性陣それぞれの歌手達の出来栄え、さらには録音状態、といった様々な要素を個別に分けて比較してみると、これよりも優れた材料を持つ名盤は他にもちゃんとある。しかしすべての要素を総合して集計してみると、やはり減点材料の少なさに於いて、このベームのEMI盤は相変らず高い地位をキープすることになる。言い方を変えれば、「面白くはない演奏だけど、逆にどこがダメだと言って論(あげつら)うようなところもない」ということなのだ。つまり、このベーム盤が獲得しているのは、魅力による勝利ではなく、減点法による勝利なのである。

そう言えば、この演奏のことを語る際に、言い忘れてはならないことがもう一つあった。それは、「歌劇<コジ・ファン・トゥッテ>の様々な演奏を自分なりに評価する上での、規矩準縄(きくじゅんじょう)としての役割をこのベーム盤は果たしてきた」という事実である。例えば、「この部分は、ベームのEMI盤よりもいいなあ」とか、「ここは逆に、あのベーム盤の方がやっぱり上だろうなあ」といったように。これが私にとっての、この演奏の価値、ないしは存在意義なのだ。(※実際、次回からの記事でも、あちこちでベーム盤に言及することになると思う。)

―次回は、ベームが1974年に指揮したザルツブルクでのライヴ録音盤と、そのベームが去った後に同じザルツブルクでこのオペラを振ったリッカルド・ムーティのライヴ盤を採り上げ、それぞれについての感想文を書いてみたい。
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歌劇<コジ・ファン・トゥッテ>

2006年06月13日 | 作品を語る
モーツァルトが書いたオペラの中には、前回まで語ってきた歌劇<後宮からの逃走>とは打って変わって、非常に厳しい(あるいは、シニカルな)目で、貞節というテーマを扱った作品がある。今回タイトルに掲げた歌劇<コジ・ファン・トゥッテ>(1790年)がそれである。今回はその<コジ・ファン・トゥッテ>を土台にして、モーツァルト・オペラを巡って行なわれてきた興味深い分析例の中から二つほど具体例を並べてみる、という形の記事にしてみたい。

―<コジ・ファン・トゥッテ>の意味

まず、<コジ・ファン・トゥッテ>というタイトルの意味を、しっかりと文法的に理解するためのイタリア語学習から。最初のコジ(Cosi)は英語なら like this 、つまり、「このように」という意味の単語。次のファン(fan)は、ファンノ(fanno)が縮約されたもので、「する、行なう」といった意味を持つ動詞ファーレ(fare)の活用形。主語が三人称複数(彼ら、彼女ら、それら)であることを示す形である。で、最後のトゥッテ(tutte)は、「すべて、みんな」を意味するトゥット(tutto)の女性複数形。ここでは、「女たちは皆」と訳せる。で、全部通して、Cosi fan tutteと並べると、「このようにしちゃうんだ、女はみんな」という意味になる。では、本題。女はみんな、どうしちゃうのかと言うと・・

―<コジ・ファン・トゥッテ>のあらすじ

士官フェランド(T)は、美人姉妹の妹の方ドラベッラ(Ms)と愛し合っている。同じくグリエルモ(Bar)は、姉の方フィオルディリージ(S)と愛し合っている。二人の青年は、それぞれの恋人が浮気をせずにしっかりと貞節を守れるかどうかを巡って、友人である哲学者ドン・アルフォンゾ(B)と賭けをすることになる。この一風変った初老の独身学者が、「君らは、女が貞節だなどと信じているのかね?」と、若者二人を挑発したのがきっかけである。ここから、女たちの心を試すお芝居が始まる。

まず、「フェランドとグリエルモは、突然の任務で戦場に行くことになった」という話をドン・アルフォンゾが姉妹のもとに持ち込む。それから青年二人が揃ってやって来て、それぞれの恋人にしばしの別れを告げて去っていく。その後、二人はアルバニア人男性に変装。そして彼女たちのところに現れ、「私たちはずっと、あなた方に恋していました」とアタックし始める。しかし彼女たちは勿論、「何て馬鹿げた人たち」と、突然やってきた二人の“異国人”男性を全く相手にしない。

一方、ドン・アルフォンゾにいい報酬を提示されてこのゲームに乗ってきているのが、お手伝いさんのデスピーナ(S)。彼女は姉妹に、しきりに浮気を勧める。「男の貞節なんて、信じちゃダメですよ。彼らだって行った先で浮気しているんだから、お嬢様たちも恋のアヴァンチュールをお楽しみなさいませ」。

その後、偽装服毒自殺のお芝居やデスピーナの心理的扇動によって、姉妹の心はやがて新しく現れた二人の求愛者になびいていく。まず妹のドラベッラが心変わりを起こし、グリエルモが変装した男をうれしそうに選ぶ。続いて貞操観念が強い姉のフィオルディリージもまた、激しい心の葛藤と戦いながらもついに、フェランドが変装した男によろめいてしまう。そこまでの経過を確認する男たちのミーティングでドン・アルフォンゾが、「コジ・ファン・トゥッテ(=女はみんな、こういうものだ)!」と高らかに歌い、二人の青年も、(半ば、やけくそになって)同じ言葉を唱和する。

ラスト・シーン。ドン・アルフォンゾが公証人(←これも、デスピーナの変装)を呼んで、見事に姉妹から結婚承認のサインを取る。そこへ、打ち合わせどおり素顔にもどったフェランドとグリエルモの二人が突然現れ、「この結婚サインは何だ?」と彼女たちに詰め寄る。二人の姉妹はすっかり度を失って、しどろもどろ。最後、ドン・アルフォンゾからそれまでの謀略について聞かされ、さらにアルバニア人の服装で現れた恋人の姿を見たところで、姉妹はようやく自分たちが置かれた状況を覚り始める。「皆さんに賢くなってほしかったから、やったことです」とドン・アルフォンゾが諭し、四人に和解を促す。そして、それぞれが本来の相手との愛を確かめ合うアンサンブルとなって、『恋人たちの学校』という副題を持つこのオペラは全曲の終了となる。

―<コジ・ファン・トゥッテ>に仕込まれたモーツァルトの毒

全編に流れる美しい音楽とは裏腹に、<コジ・ファン・トゥッテ>のストーリーは随分過酷な内容を持った物である。二組のカップルはこれから先、本当に大丈夫なのだろうか。実は、この<コジ・ファン・トゥッテ>に限らず、モーツァルトのオペラ作品の中にはある種の毒を感じさせる物がいくつか存在する。そのあたりについて岡田暁生(おかだ あけお)氏が著書の中で書いておられることを、一部編集・簡略化して以下にご紹介してみたい。

{ (ドン・オッターヴィオやタミーノ等を好例として、)総じてモーツァルトは、「清く正しい人物」に対してはあまり魅力的な音楽を与えることがないようである。だが悪玉やドジ役にこの上なく魅力的な音楽をつけて肩入れする彼のヒューマニズムの裏には、真摯な感情を容赦なく茶化してみせる恐るべき冷笑が隠れていることもまた忘れてはならない。・・・<ドン・ジョヴァンニ>に於いては、主人公に対するドンナ・エルヴィーラの切ない未練が徹底的に笑いものにされる。<コジ・ファン・トゥッテ>に於いては、男たちは罪もない無邪気な姉妹の心をもてあそび、自分たちで彼女らの心変わりを誘導しておきながら、その裏切りをなじる。これらは、喜劇の形式で表現された悲劇であり、さらに言えば、悲劇さえも突き抜けた情け容赦ないリアリズム劇なのである。 / 『オペラの運命』(中公新書)~60ページ }

―<コジ・ファン・トゥッテ>に窺われる、エロス原理への衝動

さて、岡田氏による上記の文章にも関連する、別の専門家による興味深い分析をもう一例。音楽之友社から出ている『名作オペラ対訳ブックス』シリーズの第11巻、その20~22ページに掲載されている文章である。これは歌劇<後宮からの逃走>について書かれた物だが、その一部を編集・簡略化して書き出してみると、だいたい次のような感じになる。

{ ブロンデから、「女の心をつかむにはね・・」と優しくアドヴァイスされ、自分の出方次第では彼女にもその気があることを覚ったオスミンは戸惑った。そして、すっかりはにかんでしまった彼は、逆に高圧的な態度に出てしまう。それに続く口論の二重唱で決着がつくのだが、この不釣合いな二人は非常に打ちとけ合っていて、お互いに気のおけない様子がうかがえる。まるで長年連れ添った老夫婦のような口げんかを繰り広げているのだ。・・・この二人の間には信頼とくつろぎが支配しており、ブロンデの貞節を疑ってしまいたくなるほどである。ちなみにモーツァルトは、彼女の「正当な」恋人であるペドリッロとは、二重唱による自己表現の場を与えていない。 }

ここに書かれている文章には、オスミンという面白キャラに対するモーツァルトの肩入れぶりがよく示されているように思える。筆者であるアッティラ・チャンパイ氏は、「社会的モラルやタブーを超えたエロス原理への衝動」の萌芽を<後宮からの逃走>の音楽に見出しており、その種のエロスの力が存分に発揮された時にこそモーツァルトのリアリスティックな人間把握が具現化されていると説く。氏は同じ文脈でさらに、<ドン・ジョヴァンニ>に於ける主人公とツェルリーナ、そして<コジ・ファン・トゥッテ>に於ける二組のスワッピング・カップルにも言及している。

そう言えば、この<コジ・ファン・トゥッテ>の初期設定では、テノールのフェランドとメゾ・ソプラノのドラベッラ、そしてバリトンのグリエルモとソプラノのフィオルディリージが恋人同士ということになっている。これはオペラに於ける恋人ペアの声の組み合わせとしてはあまり一般的でなく、一種の“ねじれ”を起こしたものだ。それが、「女の貞節を試すお芝居」の中でスワッピングして入れ替えられた結果、テノールのフェランドとソプラノのフィオルディリージ、バリトンのグリエルモとメゾ・ソプラノのドラベッラという、より自然な声の組み合わせになってくるのである。本来のカップルよりもスワッピング・カップルの方が自然な声の組合せになっているというのは、何とも奥ゆかしい。

もう一つ、ヴィジュアル面での注目点として挙げられるのが、姉のフィオルディリージが陥落する直前の一こまである。具体的には、思いつめた彼女が、「恋人のいる戦場へ、私も行くわ」と決意して男の軍服を着込むシーンだ。ここで彼女が着るのは恋人グリエルモの服ではなく、フェランドの軍服である。それが自分にぴったりだと感じた彼女は、「グリエルモの服は、妹のドラベッラに着させよう」とつぶやく。これまた非常に示唆的な場面と言えるだろう。

―という訳で、天下のモーツァルト先生がお書きになったオペラともなると、本当に色々な研究や分析がなされているし、また、様々な解釈が可能というわけである。では次回から、この<コジ・ファン・トゥッテ>の聴き比べのお話。いつもの通り、私がこれまでに聴いてきた全曲盤(※このオペラについては、6種類)を録音年代順に並べ、それぞれについての感想文を書いていきたいと思う。
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<後宮からの逃走>~2つの古楽器派演奏(ガーディナー、クリスティ)

2006年06月07日 | 演奏(家)を語る
モーツァルトの歌劇<後宮からの逃走>の聴き比べ、その最終回。今回は、デジタル時代になってから行なわれた古楽器派の演奏家たちによる全曲録音の中から、私がこれまでに聴いたことのある2つを採り上げてみたい。具体的には、ガーディナー盤とクリスティ盤である。番号については最初からの通しで、今回は6、7番となる。

6.ジョン・エリオット・ガーディナー指揮イングリッシュ・バロック・ソロイスツ、他(Ar)~1991年

いかにもこの指揮者らしい、鮮烈な演奏。テンポも総じて速めで、特にラスト・シーンにそれが顕著に現れている。ベルモンテが、「この御恩は決して忘れません」と歌い出すところから、あの賑やかな合唱に至る終曲が非常にスピーディに展開するのだ。ヨッフム盤あたりと比べると、作品のイメージが変ってしまうぐらい違う。しかし、モーツァルトのスコアをその通りに鳴らせば、ガーディナーの方が正しいのかもしれない。よく「楽譜を洗い直したような演奏」という言い方がされるが、これなどもまさにその一例だと思う。

歌手たちの歌い方にも、大きな特徴が見られる。前回まで語ってきた伝統的なスタイルによる演奏群とは、明らかに一線を画するものである。このあたりについて、CD解説書の文言を引用させていただくなら、「効果を優先する旧来のオペラティックな歌い方はやめて、器楽パートにあるような指示までも歌に反映させ、表情をデリケートに歌いこむ」といった感じになっているのだ。どの歌も本当に細やかに、且つ丁寧に歌われている。と同時に、これまた解説書にあるとおり、ガーディナーの強力な指揮の下で、歌手たちも楽器奏者たちも、「平等なチームワークを組んで、演奏している」ということも、ここで実感される特徴の一つである。

しかし、確かにガーディナーの新鮮な音作りには目を見張らされるのだが、出演歌手陣について言えば、誰一人私の記憶には残ってこない。その理由は明らかである。独自の個性をアピールしてくるような歌手が、はっきり言って、ここにはいないのだ。具体的な一例を挙げて言うなら、ドラマの主軸となるオスミンまでがアンサンブルの一員としてお行儀よく枠に収まっていて、決してハメを外さないのである。しかし、私に言わせれば、「だからつまんないんだな、この演奏は」ということになってしまう。特に<後宮>の場合は、均質化されたアンサンブルよりもむしろ、各役の歌手たちに個性を発揮してほしいと思う。

参考までに、同じガーディナーの指揮による<フィガロの結婚>全曲についても、ほぼ同じことが言えるように私は感じた。指揮者ガーディナーはそこでも、いつもながらのフレッシュな音楽を響かせている。ただ、その割に、月日が経ってみるとあまり心に残るものがないのである。今私の頭の中で何が思い出されるかと言えば、「ブリン・ターフェルが、意想外に颯爽たるフィガロを演じていた」ということと、「後年の完成度にはまだ及ばないものの、ただならぬ素質を窺わせるヒレヴィ・マルティンペルトの伯爵夫人が良かった」ということ、この二つだけである。(※あともう一つ挙げるとすれば、ケルビーノに<ドン・ジョヴァンニ>の一節を鼻歌で歌わせるという“小技”を使っていたことが、ちょっと面白かったぐらい。)やはりオペラは歌手の魅力が占めている部分が大きいものだと、つくづく思う。<フィガロ>というオペラについては、「奥方よ、許してくれ」という伯爵の謝罪から始まる美しいアンサンブルが、私などには一番の聴きどころなのだが、そこもガーディナーは例によって速いテンポで流してしまう。「それが楽譜通りで、正しいテンポなんだ」と言われればそうなのかも知れないが、何とも物足りない思いが残ってしまった。

7.ウィリアム・クリスティ指揮レザールフロリサン、他(Era)~1997年

基本的な演奏のコンセプトは、上記のガーディナー盤とほぼ共通している。テンポが全体に速めで、終曲がスピーディに展開するのも全く同じ。やはりこれが、楽譜に正確な演奏なのだろうか。しかし、音像の引き締まった、しなやかな音楽を作っているという点ではいつものクリスティ流なのだが、ここでは響きの重心がやや低くなっているようだ。そのため、何となく地味な印象を与えるものになっている。(※ガーディナー盤と比べるから、よけいにそう感じられるのかも知れないが。)ただ全体的に、もう少し音が広がって伸びてほしいし、また、このオペラならもっと享楽的な要素が打ち出されてもいいんじゃないかと思う。

歌手たちの歌い方についても、ガーディナー盤とほぼ同じことが言えそうだ。全体的に、知的で精妙な歌唱が行なわれている。個人別に見てみると、ブロンデを歌うパトリシア・プティボンがとりわけ印象的だった。と言うより、この人のブロンデは驚異的である。この役のために書かれた音符のすべてを完全に活かしきり、もうこれ以上は考えられないほどに十全な(あるいはそれ以上、120%の)表現を達成している。その知的にコントロールされた間然するところのない歌の中に、「現代的な、おしゃま美人」の姿を見事に息づかせているのだ。このプティボンの歌唱を聴くと、ブロンデという役そのものを見直してしまうほどである。

ベルモンテ役は、イアン・ボストリッジ。イギリスの俊英テナー。ここでも例によって歌詞と音符を細かく吟味し、極めて精妙にコントロールされた知的な歌唱を披露している。ドイツ・リートで聴かせる流儀を、そのままオペラにも持ち込んでいるという感じである。私個人的にはどうもそのインテリ臭が鼻について仕方ないのだが、それでもこれは当代随一の歌唱と言うべきものだろう。

オスミン役のアラン・ユーイングも、新しい人物像を打ち出している。例えば最初のアリア、「かわいい娘(こ)ができて、その娘が操正しくまじめだったら」という出だしを、彼はまるでリリック・バリトンのように優しく柔らかく歌いだす。これにはびっくりした。オスミンという役が持っていた旧来の豪放なイメージを、きれいに払拭しているのである。ペドリッロとのやり取りでは、なかなかに豪快な声も発してはいるのだが、やはり基本的にはアンサンブルの一員という性格をしっかり尊重した歌唱を行なっている。

―以上で、歌劇<後宮からの逃走>の聴き比べは終了。そう言えば今年(2006年)は、モーツァルト生誕250年という記念的な年だそうである。そこでせっかくだから、次回もう一つ、モーツァルト・オペラを採り上げてみることにしたい。やはり、貞節がキーワードになっている超有名作品である。
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