クラシック音楽オデュッセイア

2009年の大病以来、月1回程度の更新ペース。クラシックに限らず、身の回りの事なども、気の向くままに書いております。

歌劇<村のロミオとジュリエット>

2005年09月28日 | 作品を語る
前回、北欧フィンランドを代表する傑作歌劇<ポホヤの人々>を話題にしたので、今回はそのご近所であるイギリスから名作オペラを一つ取り上げてみようと思う。

イギリスには、例えばロシア、ハンガリー、チェコ、ポーランドなどで書かれたような「国民歌劇」は生まれなかった。と言うより、生まれる必要がなかった。(※そのあたりの事情は前回言及した国民歌劇の定義に照らして明らか、と言えるかも知れないが、また機会を見てこのテーマについてはゆっくり語ってみたいと思う。)しかし、イギリスでもオペラ(あるいは、その系統の作品)は結構書かれている。中でもバロック期のヘンリー・パーセルや、20世紀のベンジャミン・ブリテンあたりが特におなじみのビッグ・ネームと言えるだろう。しかし、その二人の大家による作品についてはまた別の機会に譲り、今回はフェイントをかけて(?)歌劇<村のロミオとジュリエット>について少し語ってみたい。

歌劇<村のロミオとジュリエット>は、近代イギリスの作曲家フレデリック・ディーリアスの4作目の歌劇にして、おそらく最高の傑作群に属する物と言ってよいものだ。ゴットフリート・ケラー原作による物語の基本的なプロットは、題名からも察せられる通り、シェイクスピアの戯曲『ロミオとジュリエット』を土台にしている。

{ スイスのとある小さな村で、土地の領有権を巡って二人の農夫がいがみ合っていた。マンツ家のサーリ(=ロミオに相当)とマルティ家のヴレンチェン(=ジュリエットに相当)は、親たちの争いとは関係なく、純粋な幼なじみで、やがて成長してからはお互いに男と女として愛し合うようになる。しかし結局は、親たちの争いに端を発する事態の不幸な展開によって、村のロミオとジュリエットはシェイクスピア作品と同様に悲しい最期を迎えることとなる。 }

これは全6場から成るオペラだが、私が最も好きなのは何と言っても第4場だ。黄昏時、一人ぼっちで小さな火のそばに座っているヴレンチェンが、「暗くなったわ。そして、懐かしいお家での最後の悲しい夜」と歌うところなど、ディーリアス美学の最良の姿が聴かれる。(※実際、この信じられないほどに美しいメロディは、聴いたあとしばらく耳から離れない。)やがて青年サーリが登場し、共に愛し合う気持ちを確かめ合った後、二人は眠りに落ちる。そして、奇しくも同じ夢を見るのである。夢の中で二人は結婚式を挙げる。遠くから教会の鐘の音が鳴り響き、荘厳な行進の音楽が始まる。それから、二人を祝福する合唱の声。この場面の音楽を聴いていると、私は<パルシファル>の聖杯の儀式を連想してしまう。場面としては全然違うものなのだが、何だか雰囲気がよく似ている。これは現実には叶うことのない、二人の哀しくも美しい夢の音楽である。

続く第5場は、若い二人が連れ立って訪れるお祭りの情景。ここでは、かなり賑々しい音楽が聴かれる。ディーリアスにしてはやや珍しい感じの音楽だが、決して特殊な例という程のものではない。

しかし、このオペラの中で最もファン(所謂オペラ・ファンや、ディーリアス・ファン)に支持されているのはおそらく、あの有名なThe walk to the Paradise Garden(=楽園への道)に導かれる最後の第6場だろう。開始部の合唱も美しいが、何と言ってもラスト・シーンが素晴らしい。サーリとヴレンチェンの二人が、新婚のベッドになぞらえた舟に乗って川へ漕ぎ出すが、やがて、それは静かに水の中に沈んでゆく。オーケストラによる深い余韻を残す終曲をもって、全曲の幕となる。

ところで、ディーリアス音楽の愛好者はディーリアンなどと呼ばれたりするらしいが、私ははっきり言って、ディーリアンではない。今回の記事もディーリアス・ファンだからではなく、オペラ愛好者として良い作品を語ってみたいという気持から書いたものである。この作曲家の管弦楽曲や声楽曲の主だったものは、LP時代から私もだいたい聴いてきたが、正直なところ、しばしば退屈して眠気を感じてしまう有様だった。演奏はトマス・ビーチャムの初期ステレオ盤(EMI)など、かねてから定評のあるものだったし、ジャック・カーディフが撮影したことで話題になった映像付きの《ディーリアス・アルバム》ではジョン・バルビローリの指揮による演奏(EMI)が使われていた。それでも眠くなってしまったというのはやはり、演奏の問題ではなく、音楽自体の問題だったのだろう。

ディーリアスの管弦楽にはちゃんと、色彩感がある。そこそこの盛り上がりを持った曲もある。しかし全体の印象としては、どこまでもなだらかな稜線を描くような、ゆるやかな音楽なのだ。それをまた、ビーチャムやバルビローリといった巨匠たちが心のこもった響きで暖かく奏でてくれちゃうものだから、よけいに“就眠効果”が高まる訳である(苦笑)。やはり、オペラが趣味の基本になっている私には、ディーリアス音楽はいささか付き合いにくいものと言わざるを得ないようだ。(※ただ、もう永いことディーリアスの管弦楽曲を聴いていないので、今改めて聴きなおせば、ひょっとしたら印象が変わるかも知れないが。)

(PS) ギリシャ神話の『ピュラモスとティスベ』について

シェイクスピアの戯曲『ロミオとジュリエット』は多くの作曲家に創作の霊感を与えたが、その作品にもさらなるルーツがある。ギリシャ神話の『ピュラモスとティスベ』である。今回の締めくくりに、オリジナルとなる神話のエピソードをご紹介しておこうと思う。

{ ピュラモスとティスベの二人は家が隣同士で、幼い頃から仲良しだった。しかしその後、それぞれの家同士が険悪な仲になってしまい、仲良し二人は両家を仕切っている壁越しに話をすることぐらいしか出来なくなった。思春期を迎えた二人の会話はやがて、恋人同士のそれに変わった。ついに二人はそれぞれの家同士の対立に見切りをつけて、駆け落ちすることを決める。

落ち合う約束の場所は、白い実がなっている桑の木があるところ。二人には、お馴染みの場所であった。先にティスベがそこに来たが、折り悪くライオンと出くわしてしまう。ヴェールを脱ぎ捨てて、彼女は逃げた。ライオンはそのヴェールを噛みちぎって、去って行った。やがて到着したピュラモスは、見覚えのあるヴェールが食いちぎられているのを見て絶望する。そして、携えていた短剣で自らの胸を刺して自殺してしまう。

ライオンはもういなくなったかしらと、ティスベがそこへ戻ってくる。しかし、彼女の目に飛び込んできたのはピュラモスの遺体だった。ライオンに食い破られた自分のヴェールと彼の遺体から事の成り行きを悟った彼女は、好きな人の胸に刺さっている短剣を抜き、自らの胸に突き刺して果てる。

二人の遺体は、同じ墓に埋葬された。そして、彼らの血を浴びた白い桑の実は、それから赤い実をつけるようになった。 }

―このお話から、すべてが始まる。
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歌劇<ポホヤの人々>

2005年09月24日 | 作品を語る
前回語った歌劇<メフィストフェレ>から、最後のレをしりとりして今回は、フィンランドの作曲家レーヴィ・マデトヤの作品を一つ取り上げてみたい。彼の代表作と言ってもよいであろう、歌劇<ポホヤの人々>である。これは知名度こそ低いものの、大変に充実した傑作歌劇である。(※この作品のタイトルは、<オストロボトゥニアの人々(Ostrobothunians)>と表記されることもあるが、それは同じ対象をノルウェー側から呼ぶ言い方とのことで、フィンランドの側からはポホヤという呼称になるらしい。当ブログでは、作曲家マデトヤに敬意を表して、フィンランド側からの表記を採用。)

国内盤のCDには、「フィンランド国民歌劇」みたいな言葉が添えられているが、この国民歌劇という言葉はなかなかに奥の深い用語である。そのあたりも意識して、今回はオペラの筋書きを追う形は取らずに、「当作品が、どんな風にツボを抑えて書かれているか」という点に目を向けてみたいと思う。

1.民謡を素材としたライトモチーフの活用

第1幕でアンッティが登場する時に歌う「白樺の梢をたわめたのは風」という歌の旋律は、歌劇の中では「囚人の歌」と呼ばれる重要な動機として、随所で活用される。この印象的な旋律は、第1幕の序奏としても重々しく奏され、聴く者に良い作品の始まりを予感させる。同様にアンッティの婚約者マイヤが歌う「その晩は暗く」も、一種のライトモチーフとして使われている。この種の民謡素材の活用というのは、国民意識に訴える有効な手法の一つと言えるものだ。

2.英雄的な主人公と、彼を慕う女性の愛

主人公のユッシはテノールではなくバリトンで、しかも後述する悪役のバリトンよりもさらに太くロブストな声で歌われる。これはちょっと珍しいパターンだ。そして彼を慕う女性リーサとの愛の場面も、しっかり用意されている。第2幕の中だが、二人が追いかけっこをした後に見つめあう場面は、ちょっと気恥ずかしくなるくらい“お約束”どおりにやってくれる。それと、名うての悪漢と男同士の決闘をするシーンなどもあって、主人公の逞しさとかカッコよさみたいなものも効果的に描かれている。

3.悲劇の根源となるバリトンの悪役

この作品では、ポホヤの地を治める郡判事がそれに当たる。<トスカ>のスカルピアや、<ジョコンダ>のバルナバほどの強烈さはないが、この人の存在がドラマの大事な原動力である。彼がなぜ悪者かと言えば、根はまっすぐだが気性の荒いポホヤの人々を治めるために、法令を自分流に勝手に解釈して濫用したり、口答えする者を牛馬の如くムチ打ったりするという、いわゆる暴政を敷いたことがその原因である。

4.おどけたキャラによるスケルツォ

ただ悲劇だけが進行するよりは、やはりどこかにエンタメ要素もあった方が、オペラ作品としてはさらに充実する。この作品の場合、おとぼけキャラのカーッポと酔っ払いのサルットゥの、第1幕でのヘロヘロ騒ぎがそれに当たる。ただし、それを野放図な乱痴気騒ぎにせず、曲全体の造型を逸脱しない範囲でまとめているのがマデトヤ流の身だしなみ、といったところだろうか。

5.主人公の死

主人公ユッシはとにかく、逞しい。自分にかけられた手錠の鎖を怒りのエネルギーをもって力ずくで引きちぎり、郡判事に銃弾を撃ち込まれながらも突進し、その胸にナイフを突き刺して殺す。その後、愛するリーサの前で床にくず折れて絶命する。亡骸を彼女が涙にくれながら優しく抱きかかえて、幕となる。やはり、英雄的な主人公が最後に死んでこそドラマになる。ユッシが郡判事と刺し違えるラスト・シーンは、ドタドタと盛り上がって結構な迫力がある。


上記5点のうち、2、3、4については、ごく一般的なオペラ書法のポイントと見なしてよいと思う。しかし1と5については、往々にして政治的なニュアンスを伴う国民歌劇の書法として、より重要な意味合いを持つもののように見える。ここでは詳しく語る余裕がないが、国民歌劇なるものは、《政治的に不安定な国が、対外的には自国の文化を認知させ、国内的には国民の同胞意識を高めるために、政治的な意味合いを持って書かれるオペラ》という面を持つものだ。(※岡田暁生著・『オペラの運命』・中公新書~132ページの文章を一部引用)

その定義からすれば、このオペラの中でフィンランド民謡の素材が活用されていることは、国民歌劇に求められる一番の基本要素が満たされていることをまず意味する。また、この作品が書かれた状況などの詳しい背景はわからないので確信を持ったことは言えないが、主人公ユッシが最期に言い残す「俺たちは、自由なんだ」というセリフに、ある種の政治的メッセージ性を読み取ることも可能であるように思われる。と言うのは、彼は別に国家的英雄でも何でもない市井(しせい)の人なのだが、その行動と言動を通して、国民意識を高揚させるような存在になり得ているからである。

(PS)マデトヤの交響曲について

ついでと言ってはなんだが、マデトヤの3つの交響曲についても今回少しだけ触れておきたい。尤も、私はいわゆる北欧音楽マニアではないので、ごく表面的なことしか書けない。そのあたりは、ご容赦いただきたいと思う。

3曲を見渡した大雑把な印象から先に言えば、<第1番>(1916年)と<第2番>(1918年)には親近性があり、<第3番>(1926年)のみちょっと毛色が変わったものになっているという感じだ。第1、2番とも、第1楽章の設計がよく似ている。まず<第1番>の第1楽章では、活気ある開始部のテーマと、ラフマニノフ風の抒情的旋律が交互に出てくる。<第2番>の第1楽章でも、木管と弦による牧歌的なメロディと、力強いテーマとがやはり交互に出てくる。そして、いずれにも共通するのが、力強い部分でも抑制が効いてかなり控えめに鳴っているということである。(※録音のとり方も、関係しているかも知れないが。)

<第1番>の第2楽章は、第1楽章で聴かれたラフマニノフ風の旋律を土台にしたレント・ミステリオーゾだが、最後のコーダが深く物思いに沈むような音楽で素晴らしい。私個人的には、<第1番>ではこの部分が一番好きである。最後の第3楽章では師匠シベリウスを思わせる響きが聞かれる。特に、弦のさざめきと木管の響き。

<第2番>では、第1楽章冒頭にいきなり出てくる牧歌的なテーマがなかなかに魅力的だが、第2楽章の冒頭と結尾部で聞かれる「オウルンサロの羊飼いの笛」がさらに印象的だ。オウルンサロというのは、マデトヤがこの曲の作曲をしていた場所の名前だそうである。この第2楽章も、終わりにさしかかるとやはり何となくシベリウス的な音が顔を出してくる。

そんな感じで、<第1番>と<第2番>はかなり近い座標にいるのだが、<第3番>は近代フランス音楽の影響が現れているとのことで、かなり賑やか。と言っても、あくまで節度あるマデトヤ音楽の範囲内での賑やかさという印象である。<第3番>に於いては、彼の師匠であったシベリウスの響きはもうほとんど聞かれなくなっている。
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歌劇<メフィストフェレ>の聴き比べ

2005年09月20日 | 演奏(家)を語る
先ごろまで語ってきた<サロメ>のメをしりとりして、今回は歌劇<メフィストフェレ>の聴き比べの話。

アリゴ・ボーイトの代表作とも言えるこの傑作オペラとの出会いは、私の場合、学生時代にトスカニーニのLPレコード(RCA)でプロローグを聴いたことから始まる。ものものしい開始部から、「おおっ!すげえ」という感じだった。やがて登場する主役のメフィストがひとしきり名口上をぶった後、少年合唱も含めた壮麗な音の饗宴となる。曲の最後にかかるストレッタがまたカッコいい。即座に気に入った。バス独唱のニコラ・モスコーナがどんな出来栄えだったか、みたいな事はもう忘れてしまったが、トスカニーニの引き締まった音作りと劇的な迫力は極めて印象的だった。ただ、それから何年も後になってCDで改めて聴いたら、録音が随分やせた感じに聞こえてしまって、少しがっかりした記憶もある。

そのトスカニーニ盤「プロローグ」に続いて、トゥリオ・セラフィンの指揮による全曲盤を聴いた。シエピ、デル・モナコ、テバルディといった面々が出演しているこの名盤は今もなお、私にとって歌劇<メフィストフェレ>のベスト盤であり続けている。1958年の録音なのに、音が非常に良い。さすがはデッカだ。歌手陣についてはまず、シエピのメフィストが素晴らしい。声自体が全盛期にあるのに加えて、よく練りこまれた歌唱にも聴き応えがあるということで、これは今なお録音で聴き得る最高のメフィストではないかと思う。カンタンテな歌唱と独特のアクを持った声がまさに、悪魔メフィストのイメージにぴったりなのである。ファウスト役のデル・モナコも、特にラストで持てる声の威力を十二分に発揮して、指揮のセラフィンともども圧倒的なエンディングを生み出す原動力になっている。

(※実はこのオペラについては、私は有名なプロローグよりも、最後のエンディングに当たるエピローグの方がずっと好きである。老ファウストがぽつんと部屋にいる、その寂しい情景をまず音楽が抜群の雰囲気で描く。メフィストが登場した後すぐ、有名なファウストのアリア「世の果てに近づいた」が聴かれる。「さあ、来るのだ」と迫る悪魔と天を仰ぐファウスト博士の耳に、子供達の声による天使の合唱が聞こえてくる。ゾクゾクしてくる展開だ。最後は天に召されるファウスト。一方、口笛を悲鳴のようにピーピー吹きながら地底に落ちていく悪魔。この両者の対照的な姿が、圧倒的な大音響でスペクタキュラーに描かれる。やはりエピローグこそ、最高なのだ。)

セラフィン盤に続いて、オリヴィエロ・デ・ファブリティースが指揮したデッカ録音の全曲をFMで聴いた。ただ、これはもう随分昔のことになるので、細かい部分は忘れてしまっている。指揮者ファブリティースは手堅く仕上げていた、という印象がまず残っている。歌手陣もギャウロフ、パヴァロッティ、フレーニといった1970年代のベスト・メンバーが揃っていた。(※尤も、この録音自体は1980年頃になされたもののようであるが。)

そこではとりわけ、パヴァロッティのファウスト博士が絶品だった。この役はデル・モナコのようなドラマティック・テノールよりもむしろ、リリック・テノール向きなのである。(※セラフィンの全曲盤も、最初はデル・モナコではなくディ・ステーファノのファウスト役で録音が始まったのだが、彼の急病によってデル・モナコに交代してのとり直しとなった経緯がある。)これはマルゲリータとの愛の場面などで特に実感出来る事なのだが、ふたつの有名なアリアでも、パヴァロッティは最高の歌唱を披露していた。面白いことに、パヴァロッティという人は泣きの演技や歌唱は下手くそなのに、泣きそうになる直前の歌は最高にうまいのである。例えば、カニオやデ・グリュウ、あるいはロドルフォあたりでの“泣き”は全くお粗末だが、ファウスト博士がエピローグで聴かせる歌のように、「嗚咽(おえつ)には至らぬ慟哭(どうこく)の歌」になるともう、絶品とも言える名唱を聴かせるのだ。

主役のメフィストは、ニコライ・ギャウロフ。声自体は全盛期を過ぎてしまった後のものだが、老獪とも言える歌の巧さが記憶に残る。(※ところでギャウロフのメフィストと言えば、バーンスタイン&ウィーン・フィルによるプロローグだけのグラモフォン録音もある。ただ、その出来栄えは今一つという感じである。バーンスタインは全体にゆっくり目のテンポ設定をしているのだが、どうも緊張感に欠ける。そうかと思えば、終曲が近づくと速度を上げ始めたり、また落としたりと、やたらいじくり始める。それも説得力不足。ギャウロフの歌唱もなんだか、精一杯のところで声を出しているような苦しさがある。カミナリの音みたいな物を頻繁に使っているのも疑問だ。あのような効果音は、最後に一発だけ決めるとか、限定的に使うべきものだと思う。)

そう言えば、若い頃のギャウロフがメフィストを歌った1965年10月6日のシカゴ・ライヴ(Living Stage盤)という珍しい音源を、少し前に廉価で入手した。これは指揮者が非力だったり、録音状態にいささか難があったりと、不満や問題の多いCDであまりお勧めしやすいものではないが、その一方、極めて貴重な要素を持った記録でもある。若きギャウロフが歌っているメフィストはかなり力ずくで、強引。しかし、声の威力自体は圧倒的である。こんな物凄い声のメフィストには、そうそうお耳にかかれるものではない。1970年代以降の録音に聴き慣れているファンは、若い頃の彼の声と歌唱には少なからず戸惑い、また驚かされることになるのだが、これもその一例だろう。尤も、ギャウロフの<メフィストフェレ>ライヴというのは数種あるようなので、もっと良いものが他で記録されている可能性は十分ある。

当シカゴ・ライヴでファウストを歌っているのは、若き日のアルフレード・クラウスである。スペインの至宝とも言うべき名歌手だ。ここでのクラウスの歌唱は可もなく不可もなく、といったところだが、声の若々しい輝きには無類のものがある。それから、キャリア晩年のレナータ・テバルディがマルゲリータ役で出演していることも注目される。いかにもライヴのテバルディらしく、スタジオ録音よりもずっと激しい表情を見せている。声はもう全盛期のものではないが、深みと貫禄を感じさせる印象的な歌を聴かせる。彼女が舞台に登場すると期せずして客席から拍手が起こるが、イタリアから来てくれた大歌手に敬意を表してのものだろう。

しかし実を言うと、私がこのディスクに見出している最大の価値は別のところにある。トロイのエレナという役である。この端役、たいていは二流どころの歌手が受け持って茶を濁すのだが、当ライヴでは何と、エレナ・スリオティスが歌っているのだ。ここでスリオティスの詳しい話は出来ないが、彼女が歌ったことによって、単なるチョイ役に大きな存在感が与えられているのである。故国の滅亡を回顧する劇的なエレナの歌は、少なくとも私の場合、このスリオティスによって初めて心に響く歌になったのである。

さて、私が聴いた中で一番新しい<メフィストフェレ>全曲盤は、ムーティ&ミラノ・スカラ座の1995年ライヴCD(RCA)である。サミュエル・ラミー(注1)がメフィスト、ヴィンチェンツォ・ラ・スコーラがファウスト、そしてミシェル・グライダーというソプラノがマルゲリータとエレナの2役を歌っている。しかし残念ながら、この新しい演奏に私はひどく退屈させられてしまった。最大の理由は、出演歌手達の救いようのない魅力のなさ。次いで、かつてのような爆発的熱気がなくなった“大家”ムーティの、しんねりむっつりした根暗な指揮。録音も、悪いとは言わないが、パッとしない。これはいけません。主演のラミーについて言えば、これ以外の<メフィストフェレ>ライヴの記録がいくつかあるので、その中に良いものが存在する可能性が十分ある。そういえば昔、そのうちの1つ(※確か、サンフランシスコ歌劇場での物)をBSだったかで視聴した記憶がある。細かい部分は忘れてしまったが、少なくともその時の方が、彼はもっと生き生きしていた。

―次回は<メフィストフェレ>のレをしりとりして、レーヴィ・マデトヤの作品を語る予定。

(注1)サミュエル・ラミーという名前の表記について

サミュエル・ラミーというバス歌手の日本語表記には、英語流のレイミーというのもあって、私もずっとそれを使っていた。しかし、先ごろNHKラジオのイタリア語講座を聴いていたら、ダリオ・ポニッスィさんが、「サーミュエル・ラーミー」みたいに発音なさっていたので、今後はラミーと書くことにしようかと思う。まあ、どちらでもいいのだろうけれど・・。いずれにしても、ラメイだけはまずいらしいことを以前、何かで読んだ記憶がある。

【2022年10月10日 追記】

※バーンスタイン、ウィーン・フィル&ニコライ・ギャウロフのバス独唱によるグラモフォン盤「プロローグ」について

この記事を投稿してから、17年余りが経った。先ほどYouTubeで音の良い音声動画を見つけ、ン10年ぶりにバーンスタインのグラモフォン録音を聴いてみた。結果、この演奏は上に書いていたようなダメなものでは全然なく、立派に聴き栄えのする名演だと思い直した。「演奏の感じ方というのは、変わるものだなあ」と、改めて実感。全曲盤としてはセラフィンのデッカ録音が今もって最高だという意見は変わらないが、「プロローグ」だけの録音なら、バーンスタイン盤も十分魅力的だ。かつてブログ主が持っていた音の良くない廉価盤ではなく、この動画ぐらいの音で聴けたらという条件付きで・・。

Boito: Mefistofele (Prologue) - Nicolai Ghiaurov, Leonard Bernstein, Vienna Philharmonic Orchestra
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過去の記事タイトル一覧(51~100)

2005年09月15日 | 記事タイトル一覧表
今回は、第51~100番。

51.<センセマヤ>と<マヤの夜> : 2005年3月20日
52.コンスタンティン・シルヴェストリ : 2005年3月24日
53.「シルヴェスター(=大晦日)」の由来 : 2005年3月28日
54.ゴンサロ・ソリアーノ : 2005年4月1日
55.アタウルフォ・アルヘンタ : 2005年4月5日
56.ソーゲの<旅芸人> : 2005年4月9日
57.テルミン : 2005年4月12日
58.テルテリャーンの交響曲第3番、第4番 2005年4月16日
59.<そして神は大いなる鯨を造りたもうた> : 2005年4月20日
60.<シンフォニア・タプカーラ> : 2005年4月23日
61.過去の記事タイトル・一覧(1~60) : 2005年4月26日
62.交響曲<日本の城> : 2005年5月1日
63.マニュエル・ロザンタール : 2005年5月4日
64.ペドロ・デ・フレイタス=ブランコ : 2005年5月7日
65.歌劇<バグダッドの理髪師> : 2005年5月10日
66.ホフヌング音楽祭 : 2005年5月13日
67.歌劇<オルフェオ>を巡って : 2005年5月17日
68.<日本組曲> : 2005年5月20日
69.石井眞木の作品と<アイーダ> : 2005年5月24日
70.<ヘクラ>と<バルドゥル> : 2005年5月28日
71.<雨の樹>~水音の系譜・1~ : 2005年6月1日
72.タン・ドゥンの三作品~水音の系譜・2~ : 2005年6月5日
73.<シタール協奏曲> : 2005年6月8日
74.アンドレ・プレヴィン : 2005年6月11日
75.ジョリヴェの<ピアノ協奏曲> : 2005年6月14日
76.歌曲集<消えた男の日記> 2005年6月17日
77.カルロ・マリア・ジュリーニ : 2005年6月20日
78.フリッツ・ヴンダーリッヒ : 2005年6月23日
79.ペーター・シュライアー : 2005年6月26日
80.ロジェ・デゾルミエール : 2005年6月30日
81.歌劇<アリアーヌと青ひげ> : 2005年7月3日
82.アンセルメ、マルティノン、パリ音楽院管弦楽団 : 2005年7月6日
83.<ジゼル>と<ラ・シルフィード> : 2005年7月9日
84.指揮者としてのブーレーズ : 2005年7月12日
85.ピエロ・カプッチッリの訃報 : 2005年7月15日
86.サンフランシスコのモントゥー(1)~フランス系の作品 : 2005年7月19日
87.サンフランシスコのモントゥー(2)~ドイツ系の作品 : 2005年7月22日
88.モントゥー最晩年の録音から(1)~ベートーヴェン、ドヴォルザーク、エルガー : 2005年7月25日
89.モントゥー最晩年の録音から(2)~ラヴェル、ドビュッシー : 2005年7月30日
90.ブゾーニの歌劇<トゥーランドット> : 2005年8月2日
91.プッチーニの歌劇<トゥーランドット>のドラマトゥルギー : 2005年8月5日
92.歌劇<トゥーランドット>~M=プラデッリ、メータ(2種)、カラヤン : 2005年8月8日
93.歌劇<トゥーランドット>~レヴァインの映像盤 : 2005年8月11日
94.ジュゼッペ・シノーポリ : 2005年8月19日
95.シノーポリのプッチーニ録音 : 2005年8月22日
96.<蝶々夫人>~シノーポリ対カラヤン : 2005年8月25日
97. 蝶々夫人、ナブッコ、ホロフェルネスの首 : 2005年8月28日
98. <サロメ>の演奏史(1)~カイルベルト、クラウス、ミトロプロス : 2005年9月1日
99. <サロメ>の演奏史(2)~ショルティ、ベーム : 2005年9月4日
100.<サロメ>の演奏史(3)~ベーム(映像)、カラヤン、シノーポリ : 2005年9月7日
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過去の記事タイトル一覧(1~50)

2005年09月14日 | 記事タイトル一覧表
<サロメ>の演奏史をシリーズで語っているうちに、記事番号が101番になった。100番台という一つの節目になったので、ここで改めて第1番から順に過去の記事タイトルを整理してみようと思う。尤も、一度に全部を並べると一回分としては多くなりすぎるので、二回に分けることにしたい。

1.交響詩<青いユリのために> : 2004年10月31日
2.『野ばら』の背徳性 : 2004年11月1日
3.ハイネ : 2004年11月1日
4.歌劇<ラパチーニの娘> : 2004年11月3日
5.マンドラゴラ : 2004年11月3日
6.「エレクトラ」の薀蓄話 : 2004年11月3日
7.間に合わなかった最後のバーンスタイン : 2004年11月6日
8.グスタフ・ナイトリンガー : 2004年11月7日
9.クリングゾル : 2004年11月9日
10.アーサー王 : 2004年11月13日
11.ローランド・パネライ : 2004年11月14日
12.インゲ・ボルク : 2004年11月17日
13.<クモの饗宴> : 2004年11月20日
14.<エスタンシア> : 2004年11月23日
15.アイーダ・トランペット : 2004年11月25日
16.歌劇<リア王> : 2004年11月28日
17.<若き恋人たちへのエレジー>  :2004年12月1日
18.F=ディースカウの<冬の旅>1955年盤 : 2004年12月3日
19.<曼殊沙華(ひがんばな)> : 2004年12月6日
20.ネーメ・ヤルヴィ : 2004年12月9日
21.シャーベットな<四季> : 2004年12月12日
22.<カントゥス・アルクティクス> : 2004年12月14日
23.<イカロスの飛翔> : 2004年12月16日
24.イワン・ペトロフ : 2004年12月19日
25.レナータ・テバルディの訃報 : 2004年12月21日
26.ムラヴィンスキーの初来日盤 : 2004年12月25日
27.オスカー・ワイルドのこぼれ話 : 2004年12月28日
28.ユージン・オーマンディ : 2004年12月31日
29.歌劇<低地> : 2005年1月3日
30.歌劇<ロジェ王> : 2005年1月5日
31.<コラ・ブルニョン>組曲 : 2005年1月8日
32.ダヴィッド・オイストラフ : 2005年1月10日
33.ブゾーニの<ファウスト博士> :2005年1月13日
34.セメレ : 2005年1月16日
35.ヴィクトリア・デ・ロス・アンヘレス : 2005年1月20日
36.『バッカスの歌』 : 2005年1月23日
37.カッサンドラ : 2005年1月26日
38.ベルリオーズの<荘厳ミサ曲> : 2005年1月29日
39.ラターの<レクイエム> : 2005年2月2日
40.ハウェルズの<レクイエム> : 2005年2月5日
41.ヘルベルト・ケーゲル : 2005年2月8日
42.「オルフはね、ナチなんだよ」。 : 2005年2月12日
43.フランツ・グルントヘーバー : 2005年2月16日
44.ティト・ゴッビ : 2005年2月20日
45.ティト・ゴッビの十八番 : 2005年2月24日
46.アリアドネ : 2005年2月27日
47.Esultate!~オテロの第一声~ : 2005年3月3日
48.エルネスト・アンセルメ : 2005年3月6日
49.メルジーネの物語 : 2005年3月11日
50.『白蛇伝』 : 2005年3月15日


これら初期の記事タイトルを見ると、何だか懐かしい気分になる。「ああ、こういうのから始めたんだっけなあ」という感じだ。最初は掲示板書き込み程度の気分で、ごく短いものをちょこちょこと書き込んでいたのが、回を追うごとに一つ一つの中身が重くなっていく。だんだんと、「ネット上に公開するなら、出来る限りベストの物を出しておきたい」という気持ちが強くなってきたからだろう。

とは言っても、トピック一回分の上限枠は決めている。ごく少数の例外記事はあるものの、A4判で2ページいっぱいか、3ページ目に入ったぐらいのところで区切りがつくようにしている。だらだらと3ページを埋めて4ページにまで進むような記事は、書いている方が仮にノッていたとしても、一回分としてはいかにも長すぎる。読まされる方はうんざりしてしまうだろうと思うのだ。このブログの中でよく、「今回の枠には収まりきらないので」という書き方をしてきたのは、そういう理由があったのである。

次回は、第51~100番の記事タイトル一覧。
コメント
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