クラシック音楽オデュッセイア

2009年の大病以来、月1回程度の更新ペース。クラシックに限らず、身の回りの事なども、気の向くままに書いております。

ブログ立ち上げ7周年と、FMで聴いたC・アバドの演奏

2011年10月31日 | エトセトラ
今日10月31日は、当ブログの誕生日である。うちもこれで満7歳となり、明日からは8年目に突入ということになる。月にたった1回という超スローな更新ペースになってはしまったが、それでも何とか現役で続いていることを、とりあえずは祝っておきたい。

さて、CDもこの夏以来いろいろと聴いてはいるのだが、今回はお馴染みのFM番組『名演奏ライブラリー』から、去る10月9日(日)に放送されたクラウディオ・アバド特集の前半部を聴いた時の感想文を書いてみたいと思う。(※後半のマーラーに入ったところでミニコンポのスイッチを切り、その日は外出した。)

最初に紹介されたのはヴェルディの歌劇<シチリア島の夕べの祈り>序曲で、これはベルリン・フィルを指揮した1996年の録音である。中間部で弦楽セクションが美しい旋律をなみなみと歌うところ、ここで指揮者アバドが持つおそらく終生変わることのない音楽性を改めて見て取ることができた。手短に言えば、“節度あるカンタービレ”だ。アバドはどんなに美しい旋律を奏でる時でも、一定の知的制御が常に機能していて、決して深い耽溺に沈むことがない。巨匠トゥリオ・セラフィンが晩年に遺した同曲の名演(EMI盤)を聴くと、「オーケストラが歌うってのは、こういうことだ」と言わんばかりの、溢れるほどに豊麗な弦の響きが聴き手を圧倒してくるのだが、件(くだん)の秀才ミラネーゼは自制を効かせてそういうレベルまでは進まないのである。曲の後半部ではかなり精妙でデリケートな表情づけが聞かれるが、これは彼がキャリア後期に獲得した特性の一つと言ってよいと思う。この事は、アバドにとって極めつけのレパートリーであるロッシーニのオペラでも確認することができる。具体的には、彼が練達のヴェテランになってから手掛けた<アルジェのイタリア女>全曲がその好例である。当ブログでかつて指揮者ヴァルヴィゾを特集して語った際にも触れたとおり、このオペラの演奏に於いて、アバドの表現は時として精妙になり過ぎ、ちょっと息がつまりそうになる場面があるのだ。これは好漢若き日の録音となる<チェネレントラ(=シンデレラ)>や2種の<セヴィリアの理髪師>各全曲では殆ど感じられなかった現象である。

2曲目に放送されたモーツァルトの<交響曲第25番>も、ベルリン・フィルとの録音。弦の見事な揃い方といい、木管の豊かな表情といい、オーケストラの実力はただもう、さすがというほかない。まず第1楽章、弦のボウイングに音の輪郭を明確に描き出そうとする指揮者の意図がよく出ている。続く第2楽章は、テンポが速めで割とあっさりした表現。ロマン派的な物語性をそこに見出す気はなく、むしろ音の絡み合いの解析と、音楽自体が持つ“音の運動体”としての愉楽をどう表現するかということに指揮者の興味が向いているように思われた。第3楽章の行き方も第2楽章とほぼ同じ方向性だが、曲自体が第2楽章よりもアバドの演奏姿勢により似つかわしいものに見えるためか、こちらの方が一層うまく行っているように感じられた。

3曲目に流れたプロコフィエフの組曲<キージェ中尉>は、シカゴ響との1977年録音。オーケストラの個性を如実に反映して、全体に構えの大きな音楽になっている。当時のアバドの若々しさは、特に第4曲「トロイカ」の猛然たるスピード感に発揮されているようだ。と同時に、やはり後年のアバドなら作品全体に亘ってもっと精妙な音づくりをすることになっただろうな、とも思われた。名指揮者の個性は、終曲「キージェの葬式」にもよく出ている。曲想からしてもっとしんみりした表情がつけられても不自然ではないところなのだが、こういう曲でも音楽が基本的に“陽”の性格を持って鳴り響く。これがアバドなのである。続いて紹介されたスクリャービン作品は、ベルリン・フィルとの<プロメテウス 火の詩>。同じ作曲家のもっと有名な作品である<法悦の詩>を、アバドは若い頃にボストン響とグラモフォンに録音していた。これも、LP時代には同曲の代表的名演の一つとされていたものである。あの頃はズビン・メータもロス・アンゼルスを中心に活躍中で、<法悦の詩>に於いても高評価の録音をデッカに行なっていた。私が今でもよく覚えているのは、ある評論家がこの両者の名演を並べて、「陽のアバド、陰のメータ」とそれぞれの性格付けをしていたことである。

くっきりした輪郭とみずみずしい音、古典的な均整美、きっちりとした崩れの無い造型の中で躍動する“陽”の音楽、そして節度を持って歌われるカンタービレ。これがアバドの美質である。だからこそ彼は、20世紀最高のロッシーニ指揮者であり得たのだ。いや、それどころか、ひょっとしたら空前絶後の。(※補足を一つ。1972年ミュンヘンでの<アイーダ>ライヴをはじめ、実演のアバドにはセッション録音とは別人のような燃え方をした例が少なからず存在する。そのあたりについてはいつかまた、別の機会に触れることとしたい。)

―今回は、この辺で・・・。
コメント (2)
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