カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

バカがいることで社会が変わるかも

2023-02-13 | net & 社会

 回転寿司ぺろぺろ事件が起きて、それなりに日本中に衝撃が走ったように感じる。類似の迷惑面白がり動画というのも多数あるらしく、そういうことでもこの事件は、ある意味で氷山の一角をあらわしている感がある。わざわざネットに公開してしまうメディアリテラシーの無さの違いがあっただけのことで、こういうのを面白いと感じる人々がいるらしいことが分かるし、そうであれば、このような悪ふざけというのは、今後も無くなることは無いのではないか。
 今回は被害者側である回転寿司サイドへの同情の方が強く、被害を心配する声の方が大きいようにも感じる。回転寿司側も、それなりの対応策を講じていくだろうし、現在何かやってる感も発信している様子である。客の側にも、応援と称してあえて食べに行く動画をあげたり、警察と称して客などを監視するような行為をしている人もいるという。お世話になったからとか、今後も頑張って欲しいとか、明らかに妙なテロ行為をした若者への反発への反動もあるのかもしれないと思わせられる。
 一方でやはり、このような業務形態への警鐘を改めて鳴らしている人々もいる。テロは起こるべくして起こり、このようなヤンキー文化を客層として呼び込んでやっている以上避けられないリスクだということも言えるのかもしれない。文化層を分断して、別の形態を模索する側として切り捨てるということも言えるかもしれない。回転寿司のような大衆的なコストカットの食の在り方で成り立っている考え方それ自体を、変えるべき時が来たということもあるのかもしれない。
 単純に無節操な若者を罰したいという欲求の強さも感じる。この機会に、このような輩をひどく懲らしめておきたいということだろう。動画で面も割れていることから、犯行をした人達も会社側に謝罪したと言われるが、それはそれとして法的な手段を取るとも言われており、出来る限りの厳罰に処すことを望む声も大きい。絶対に許せないことで、さらにその罪の大きさも、単なる謝罪に済ませられるものではない、という思いだろう。
 これまでにもこのような迷惑事件はあったものと推察されるのだが、やっと事が大きくなり、実際に衝撃度の強い不快感のある人物が映像を流したことで爆発した。しかしながらある程度予想されたことでもあり、必ずしも会社側の不手際とはいえない問題でもあったため、なんとかそこに留まっている状態ではあるかとは思う。しかし、これはこれで一旦は、ということでもあるように思う。まったく同じように、一応は洗われた皿がテーブル横に設置してあったり、醤油などの調味料や、回転している食べ物などには、何らかの工夫や方法が生まれない限り、モヤモヤした気持ち悪さは無くならないのではないか。
 もちろん回転寿司に限らずこのようなリスクのある店の形態というのはすぐに思い浮かぶわけで、タッチパネル文化であるとか放置的な個室であるとか、しかし安価さだけを求める客の利用する場所というものは、危険サインが常にともることになる。もちろん忘れた客は行き続けるが、忘れず学習した人々は考えを変えるかもしれない。
 元々あったかもしれないそれらの境が、さらに溝を深くして広がる可能性のある、分岐点としての事件になったかもしれない。テロというのはそういうもので、残念ながら大きく社会を変え得る可能性を持っている。今回は不注意流出系だが、狙って出せることを考える人もいるはずである。もっともそのことに目覚めていない可能性も、あるにはあるのだが……。
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相性のいい人同士のすれ違い   ちょっと思い出しただけ

2023-02-12 | 映画

ちょっと思い出しただけ/松居大悟監督

 まず男女の別れがあって、過去のエピソードにさかのぼり、どういう事情というか、二人のなれそめと行き違いが描かれる。嫌いになったという訳では無かったのかもしれないが、気持ちの行き違いの在り方が、大きな分かれ道になったということなんだろうか。
 エピソードを見て楽しむタイプの映画なので、実際そのスジというのはあんまり関係が無いというか、雰囲気を楽しむものだろう。楽しむというのが適当なのかどうかもよく分からないが……。そういえばこんな感じの恋愛ってあるのかもしれないな、とは思う。例えば舞台は東京で(実際そうだが)、そこで出会った男女が自然に惹かれあうものがある。そんなに特殊ではないかもしれないが、二人にとっては特別なことが起こるのである。そうして試行錯誤があり、結構気の合う二人であることも分かる。そのまま上手く行くように思われるが、ちょっとしたアクシデントがきっかけで、ガタガタと行き違いが溝を深めていくのである。
 ここで題名の意味が何となく浮かぶ。ちょっと思い出しただけのことであるけれど、それは「ちょっと」では本当は違ったのかもしれない。それは確かにありそうな、もう一つの自分たちの未来だったかもしれないのだ。振り返ることはあるにせよ、もう戻ることは難しくなってしまったが……。そのような取り返しのつかないものが、今の自分の一部であり続ける。そういうことが、現在進行形の恋愛には含まれている。既に大きく道が違ってしまったが、それでも自分の中に生き続けている思い出以上のものなのかもしれない。
 まあ、そういうことなんだが、はっきり言って、ここまで気持ちが残っているというのも、なんだか違う人生を歩んでゆくことにおいて、支障がありそうな気もする。いつもいつもちょっと思い出すようじゃ、良くないのではなかろうか。そんな人がどれくらいいるものなのかは定かでは無いにせよ、そういうのって、そんなに幸福な人生じゃないような含みがある。過去の恋愛というのは、一定時間で忘れてしまえるものなら、忘れた方がいいのかもしれない。
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AIと会話する

2023-02-11 | net & 社会

 話題のchatGPTで遊んでみた。相手がAIで会話できるということだが、質問内容によっては、回答を逃げる傾向にあって、さらにごまかすというか、必ずしも正確ではない。さらに2021年以前の情報しか知らないし、ネットで調べられることは自分で調べろ、と言われる。だから限定した質問を精査しなければならないし、会話に困る感じだ。何かの感想のようなものはもちろん駄目で、意識や感情に関することはAIなのでできません、と言われる。
 では何がいいのか? いい、ということでは感想を言うのが難しいのだが、このGPTさんが回答をするときに、いっとき間があくことが多く、その後一気に文章が続く。その間のようなものに、何かを考えている風なところが垣間見えるのである。演出であるとすれば、安易に騙されているにすぎないが、書いている途中で文章が止まっている状態に、こちらが待っている時間に、何か引っかかるものがある。結局は深い会話にまではならないまでも、やり取りとして、会話のようなものが一応成り立っているようにも感じられる。僕はあえて意識の問題について振ってみたのだが、そういうものは否定される上に、誤解だということも言われたが、意識のあるような「らしさ」問題については、将来的に学習の上、分かりにくい「らしさ」の域に達するような予感がある。
 おそらく多くの人が、一気にこのAIと対話を始めていることと思う。ここ数日で、それらしさを感じるからだ。ほんの数日であるにもかかわらず、何かを学習している風の感触がある。もちろんそれは僕の誤解を含んでいるはずだが、僕がこの会話になれていくということと同時に、相手も僕になれているのではあるまいか。将来的にAIが意識を持つのはむつかしいことだとGPT本人が言ってはいるが、そういうところが何か怪しい。僕としては是非とも、AIが人間らしさを獲得し、人間を騙しとおせる未来を見たい。そうしていわゆる例えば僕らしいAIが誕生して、僕の代わりに長生きしてくれないだろうか。それは僕の意識ではない何かだが、僕の可能性の一つなのではないか。さて、そんなことを考えても、単なる無駄なことなのだろうか。
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バカが時代を作る見本   ドリームプラン

2023-02-10 | 映画

ドリームプラン/レイナルド・マーカス・グリーン監督

 原題はキング・リチャード。ビーナスとセレーナという二人の偉大なテニス・プレイヤーを育てた父親の伝記映画である。二人の活躍は近年の女子テニス界を圧倒したので誰もが知るところだろうが、アメリカはともかく、日本では父親の存在なんてそこまでは知られていなかったのではなかろうか。それとも僕が知らなかっただけかな。しかしながらこの作品を観てぶっ飛んでしまった。なんという無茶苦茶な暴君父親だろう。そこで原題をあらためて見て、なるほどキングだったのなら仕方ない。西洋人には宗教の関係で父親が絶対的権威として君臨するケースが、結構あるんである。こういう封建主義というのは日本的だと思ったら大間違いで、宗教の力を借りた権威というのは、父親の横柄ぶりを高めるものなのである。まあ、そういう驚きのあれこれを映画で観て楽しめるわけだが……。
 もちろん、この父親リチャードさんは、単にわがままというのはあるが、基本的には金持ちになるために娘を使って登り詰めるために奔走するのである。娘たちが尋常でない力を秘めているのは途中で分かるが、その育て方は愛情の力を借りて、どんどん軌道を逸していく。それでも娘達や家族が必死に支えて、なんとか応えようとする力がさらに上回って、大成功の道を結局はたぐり寄せることができるのである。スゴイ。
 テニス界というのはお金がかかるというのが、まず背景にある。そういう屋台骨を支えているのは、金持ちの白人たちである。おそらくだが、だから貧しい黒人の出である人々は、テニスでの成功をあきらめているのではなかろうか。しかしながら女子のスポーツ界で大金を手にできる世界は、それなりに限られている。リチャードさんは、自分はテニス経験が無かったにもかかわらず、娘の中からテニスに向いた特性を見出し、育て上げていくのである。そういう先見性というのは認めてもいいのかもしれないが、結果的に大成功しすぎるので振り返ってそういうことが言えるのであって、むしろこのやり方が娘たちの芽をつぶしたかもしれない可能性もありそうである。ほとんどギリギリそうならなかったのは、娘たちが結果的に純粋にテニスを愛し続け、自分たちで暴君の力を曲げるくらいの圧力を発揮できたからである。妨害が多くても、教育が悪くても人は育つという見本のような物語で、まあ滑稽だが見事なサクセス・ストーリーである。それもほとんど実話らしいから、観るものを本当に呆れさせる力がある。アメリカ人って本当に馬鹿でも凄いのだなと、日本人の僕は降参せざるを得ない。こんな人々に、僕らは勝てるわけが無いのである。
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マスク問題はつづく

2023-02-09 | 時事
 本日は趣向を変えて。


 ちょっと気になったのは日浦市郎という将士さん。再三注意を受けたにもかかわらず改めなかったので、反則負けになったという。それもこれで三回目。勝負しないで三回も負けてしまった訳である。まあ、何か考えを持っている確信犯であろう。さらに、完全にマスクをしていなかったわけではなく、鼻を出した状態で着用していたというから、それも何かのサインではないか。実際の話、そんな人よく見かけますが、まあ、何か事情があるのかな、とは思ってました。マスクは一応しているけど、今俺は鼻息が荒いんだからね、とか。外から来たばかりだから、鼻出さないとめがねが曇っちゃうんだよね、とか。またはそれ以外かもしれないが。
 そういえば日浦八段以外にも、確かマスクで反則負けになった人がいたな、と思ってたら、過去に昨年10月にも佐藤天彦9段が対局中マスクを外した行為が問題となり反則負けになっている(休憩中に外した行為が問題になったともされる)。これも当時少し話題になったが、なんとなく立ち消えになっていた。
 聞くところによるとこの事件に関しても、日浦さんは怒っておられた、という情報もある。確かにまじめに将棋を指し、マスクに関するもやもやしたルールに対して異議のある考えを強く持っておられる人にとって、耐え難い蛮行に思えたのではあるまいか。やりすぎだけど、業界としては外向けにそんな態度取ってしまったんだもんね、という問題だろう。まあ、空気を読んだというか。
 しかしまあそのために、自分の通らない信念をこのようにまた通そうとされているわけである。人間にはつらい生き方というものがあるのだ。

 さてそうして、こういうのもあった。

 よく読むと昨年の事件らしいが、虐待というかいじめ問題というか。指摘した保護者がいそうなので、さらなるいじめ構図もある可能性もある。
 マスク問題は事実上各自にゆだねられているようなことになったけれど、独自ルールはその世界で生き続けることにはなるだろう。自分の方針を通したところで、法的にどうということができるのか、明確でないままに恣意的なルールはいたるところで様々なレベルで展開されることになろう。人間社会の軋轢を生みだす問題として、対立の国日本で、どのような分断の出来事が噴出していくことになるのだろうか。
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働くブラック業界の実態?   ハケンアニメ!

2023-02-08 | 映画

ハケンアニメ!/吉野耕平監督

 原作小説があるようだ。他に関連の作品などがあるのかは不明。
 題名を見て、実際にみる前ではアニメ制作で働く「派遣」の人々の悲哀の物語かなんかだと勝手に思っていたが、ハケン違いでライバルと競争して「覇権」争いをする話だった。
 夕方5時台のアニメというのは、子供向けながら大きな商圏を有するものであるらしく、ここでヒットを飛ばすと、業界自体が盛り上がるのみならず、関連グッズも含め壮大な売り上げが望めるアニメ市場であるらしい。そこでライバル放送局(や関連会社)どうしのつばぜり合いがあって、これを覇権と言っているようだ。そのライバル監督同士が、天才と言われながらそのこだわりの強さに降板の続いていた男と、元はその天才に憧れてこの業界に入った新人の女性監督だという図式がまずある。それぞれには様々な問題を抱えていて、単にアニメ制作で作品が競っている以上に内部でも激しい争いや戦いめいたものがある。そのような業界内部の事情を含め、いかにクオリティの高い作品が作られていくのかという物語である。
 それなりに複雑なプロットになっているのだが、アニメに何の感情移入の無い人間であっても、それなりに楽しめるエンタメ作品になっている。基本的に人間物語で、アニメという複雑な作画を含めた台所事情そのものが、なかなかに面白い職人芸的な産業構造になっている。これで元を取ろうとしていることにも驚きだが、時間の制約のある中で、無理を押し通してもやらなければならないことがあるという、仕事術のようなことにもなっている。
 実際このような壮絶さ無しに、面白いアニメは作れないのかもしれない、という気分にはさせられる。
 ただし、一方では新人監督が果てしなく苦労しているように見え、一方の天才は、絵コンテは書くが苦労しているのはプロデューサーである。これって著しく不公平に思えるのは、僕だけだろうか。
 いろいろ詰め込みすぎてやや食傷気味にはなるが、こういう世界が魅力的なのは確かだ。まあブラックな世界ではあるわけだが、夢を抱えて働く人間というのは、少なからずそうなってしまうものなのかもしれない。期間限定で頑張って下さい。
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日本の食材は面白い

2023-02-07 | 

 これはドキュメンタリーの欄で紹介していい話なのかもしれないが、一応食べ物話題なので。
 NHKで「おいしい東京」という、元は外国人向けに日本の食べ物を紹介する番組だったものが、日本向けに外国人が日本の食材を紹介するものへ変化した番組がある(※1)。僕はこれをセッセと録画して観ているのだが、ふと、なんでこれを好んで見ているのかな、と思った訳だ。確かに別にクールジャパン(※2)という外国人から見た日本文化紹介の番組も見ているが、それよりもかなりフラットな視点で日本の食材を取り上げているのが面白いのである。漬物やコメとか酒ももちろんだが、時にはチョコレートやキャベツなども取り上げられる。そういうものが日本の食材として世界的に見て特殊だったなんて、実に驚きである。そうして、日本に来た外国人が、おそらくそういうものに接して驚いたり面白がったりしているというのを眺めるのが、なんだか不思議でもある。
 こういう番組を見ている日本人というのは、おそらくだが、自尊心のようなものがくすぐられるのが第一にはあるのだろうとは思う。日本を褒めてもらうのは、日本人である自分まで褒められているようで気持ちがいい。あまり露骨だと嫌だが、彼らが素直にそう思ってくれるのならば、もっと日本を好きになって欲しい、と正直に思う訳だ。
 それともう一つあるのが、このレポートをしてくれている外国人が、実に巧みに日本語を使って紹介してくれるのも、いいのである。彼・彼女らは、純粋にタレントで食べているというようなプロという人ばかりじゃないようで、他にも何か仕事をしているのではないかと推察するのだが、おそらく日本で生まれ育ったわけでもなく、日本語を勉強して、それなりに高いレベルの日本語を駆使して、食材のおいしさを表現してくれる。必ずしも語彙が豊富でないにもかかわらず、その表現が実に豊かなのだ。日本人のタレントだと、大げさに「おいしい(とかなんとか)」と言って顔を作っているだけのようにしか見えないが、外国人の人たちは、そのおいしさがどのようなものか、例えば甘みの感覚の伝わり方であるとかいうことを、必死で表現しようとする。必ずしもソムリエのような訓練を積んだ人ではないように思うが、自分が食べている感動のようなものを、なんとか画面で表現しようとする。食材の生産者などはそれを見て嬉しくなって、顔の表情が豊かになっている感じまで伝わる。食べてもらって、心から嬉しくなるようなのだ。そのようなものを見て、こちらも嬉しくなるような感覚がある。それでまた次にも、見てみたくなるのではなかろうか。
 それにしても、この番組がいいのは、紹介の仕方がいいというのが最初にあるとは思うが、日本のご当地の食べ物紹介の番組というのは、他にもたくさんあることだろう中にあって、実にストレートに掘り下げてくれることにもあると思う。生産者から、その食材を生かした料理人まで。また時には、伝統料理を紹介するお宅にも、お邪魔する。他の番組の多くは、その意外性やひねりのようなものを強調したがるきらいがあるのだが、そもそも外国人に紹介する趣旨だから、そういう大きなひねりの必要が無い。そういう純粋性がかえって、それを知っているはずの日本人の僕に、むしろそのものがもっている意外性のようなものを教えてくれるのだ。
 ただこういう番組の困るところは、とても手の届かない高級なものに至ったり、とても行けそうにない場所へのいざないになったりすることである。だからテレビでいいのかもしれないが、欲求を鎮めるのに苦労するのである。でもまた見てしまう訳で、罪深いのであった。

※1 たぶんそういう経緯だったのではないかと、勝手な推測だが。それというのも、以前はこれの英語アナウンス版があったような記憶があるからだ。Trails to oishii Tokyo. というのが原題のようだし。さらにそういう別の英語番組は存在するようで、主に日本文化などを紹介しているようだ。
※2 これもかなり長寿番組になっていてネタ切れ気味になって強引なトピックも増えたが、外国人が日本のことを褒めることも多いので、ときどきどうなのか? という気分にはなる。アナウンスも日本称賛風が多い。そういう鼻につくところはあるが、ときどき驚きの視点があるのも確かである。
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いわゆる変態チックだが   ゾッキ

2023-02-06 | 映画

ゾッキ/竹中直人・山田孝之・斎藤工監督

 監督が三人いるが、誰がどれを撮ったのかは知らない。群像劇になっていて、一応地域性があって、なんとなくだがそれぞれがちょっとずつ絡んでいるという設定らしい。まあしかし、別の話である。
 どういう理由か分からないが自転車で旅に出る青年が遭遇する漁村のあれこれと、彼の過去の女の子との痛い思い出がある。また、これがメインだが、変なもの同士が親友になり、勘違いで美人らしい姉のことが気になるようになる。しかし実際は姉などはいないのではあるが、せっかく友だちになったので本当のことが言えず、実は姉が死んだと言い、中学のころに好きだった女の子の写真を遺影にする。後に男は姉の遺影の女の子に出会い結婚するのだった。
 子供を連れて高校のころのボクシング部の部室に忍び込んでサンドバックを盗んだ際に、幽霊と出合う話もある。この父はその後別の女と出奔する。10年して戻っては来るが……。
 というような話がまぜこぜになっていて、一つの話になっているのかどうかは不明だ。いちおう緩いギャグというか笑いのネタになっているはずで、作っている人たちは、面白いと思って描いていると思われる。俳優たちはそれなりに豪華で、演じている役柄とのずれはあるものの悪くないが、設定がちょっとわざとらしいかもしれない。少なくともカマトトである。まあ、そういうズレを楽しむ、ということなのだろうけど。
 メインの話と思われる、姉ということにしておいた好きだった女性を親友に横取りされる(むしろさせる、ということだが)という悲恋がメインだが、この筋だけが物語としてのひねりがあるという感じだろうか。しかしやはり設定には無理がある。いくらでも秘密がバレる要素が多すぎる。恋愛の感情も性急すぎだろう。
 というような訳で感心しないのだが、普段は演じる方の人たちが、何を面白いと思って映画を作ったのかという興味においては、なるほどな、とは思う。演劇の人たちは、こういう機微を面白がるのだろう。いわゆる身内ネタっぽいが。米国にもそのようなネタを映画にしたものは多いのだが、総じて大して面白くはない。どういう訳か批評家ウケは良かったりするのだが、別に通ぶって気取っても仕方がない。単にそういう分野があるというだけのことであろう。
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こんな家に遊びに行きたい   海のアトリエ

2023-02-05 | 読書

海のアトリエ/堀川真理子著(偕成社)

 絵本。いろいろ賞を取っていると帯に書いてある。でも、それで興味を持ったのではなく、テレビで著者というか(絵本だから作者って感じかな、分からないけど)、この本を描いた人が出ていて、その個性的で派手ないでたちも面白いけど、本が好きな人なんだというのがひしひしと伝わって来て、その人が面白いと言ってた本が希少で少し高かったので、ご本人の絵本の方をクリックしたってわけだ。で、読んで(見て)正解って感じがした。くっきりとした絵柄じゃなくて、水彩だけどササって線を引いたような風景がきれいな絵だった。お話もものすごくドラマチックという訳でもないのだけど、なんだかいい気分にはなって、僕の文章までいつもと違う感じになってしまった。凄い影響力である。
 設定はおばあちゃんの昔話である。そのおばあちゃんが子供のころ、なんか知らないが不登校になってそのまま夏休みになっても家から出ないでいたら、母親の友達の画家の家に5日間遊びに行くことになる。その絵描きさんの家が海のそばにあって、猫がいて……、ということがつづられている。詳しくは絵を見ながら読んで欲しい。ちょっと子供の体験として、それらしくもあり、大人びてもいるかもしれない。女の子というのは、そういうものも含んでいるということか。僕の子供のころには、たぶんこんなことは思わなかったな。
 もちろん絵もきれいだし、おばあちゃんが孫に話す形で話が進むから、最小限でありながら情景が生きてもいる。なるほど、そういう体験をしたんですね、ってその気持ちがわかるような気がする。なんで不登校だったのかは分からないけど、この夏休みの後は学校に行ったはずだというのも、なんとなくわかる。そんなことみじんも書かれてはいないけど。
 たまに絵本はみることがあるけど、子供が面白いように書いてあるから絵本としてよいというよりは、こういうのを読んで欲しいな、というような大人を魅了する力があるから、結局は子供が見るんではないか(もちろんきっかけの多くはそうかもしれないけど、そういう意味だけじゃなくて)、と思う。この絵本を見て、特にそう思う。その後子供がどうなるかはわかりようがないけれど、こんなような絵本を読んだ後に実際のいろいろな体験することで、きっと将来が変わるのではないだろうか。もちろん、おとがな読んでも、何かが変わるかもしれませんが。
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馬鹿映画だが、楽しい   ゾンビーワールドへようこそ

2023-02-04 | 映画

ゾンビーワールドへようこそ/クリストファー・ランドン監督

 何かの研究所から、ゾンビが逃げ出したようだ。そういう街にあって、高校生になっても本当は嫌気がさしているが、所属しているボーイスカウトから抜けられない少年たちがいる(アメリカでもそういう感じってあるんだな)。ある日、ちょっとしたきっかけで、学校のイケテル組のパーティに誘われる。そうして未成年だがビールを買って参入しようと試みる時に、学校を中退したセクシーな女の子とも知り合い、ゾンビに侵食されて滅びゆく街の中をサバイブしていく物語。
 ホラーだが、コメディである。一昔前にあった青春コメディの、エロがあまり強くない(本人たちの関心は高いが)ものである。設定も展開もある意味では馬鹿らしいが、襲ってくるゾンビの動きがそれなりに早くて、急いで逃げないといけないところが大変である。ゾンビ映画的にスプラッターで気持ち悪いのだけど、それ以上の笑いで何とかしのげる感じかもしれない。そうはいってもよく出来ているところもあって、それなりの伏線の回収も上手くいっているし、テレビコメディの延長のようなチープさもまた、この映画の魅力ともいえる。細かい仕掛けやスリルということでも、無理があるところはあるにせよ、これくらい荒唐無稽なら、良いのかもしれない。
 アメリカの青春ものはたくさん見てきた訳だが、いわゆる過去の古くさい高校生のような描写が、たくさん見られる。現実の今の高校生のことなんてまるで知らないで言っているのだが、このようなステレオタイプで語られる映画というのは、近年本当に少なくなった。何かが変わってしまったせいだが、もうこういう流れは戻ることは無いのだろう。もちろん、それで何も悪いことでは無いにせよ、このような映画が曲がりなりにも作られ、さらに配信までされている現実を考えると、僕のような古い人間が、まだまだいるのかもしれないな、とは感じる。ひどい映画だけど楽しめるのは、そういう古い人間の需要がいまだに健在である証拠であろう。
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Z世代と付き合うためには(知らないが)

2023-02-03 | net & 社会

 先日セミナーというか、その中の講演を聞いていて、講師の先生が「Z世代だとどうこう」という話をしだした。聞いたことが無い訳では無いが、要するに若い人くらいの意味で言ってるんだろうとは思う。しかし、その若い人は何なのかはよく分からない。若い人というくくり自体には興味もないのでそれでいいが、だがしかし、そういう若い人と付き合わざるを得ない我々世代は苦労する、ということなのか。理解したり理解されたりしてもらうためにはどうしたらいいか。確かによく分からないことだらけだが、若い人は賢いので理解くらいはしてくれるだろう。たとえそれが誤解だとしても。
 若い人は問題かもしれないが、要するに古い世代の人に問題が起こっていて、そのひずみが若い世代にまで及んでいるということではあるまいか。老害という言葉の響きや暴力性には注意が必要だと思うけれど、僕の世代を含めた若くない人々の影響の方が、若い人への圧力になっていることは間違いない。問題はむしろ、そのことへの無頓着さにある。政治などの政策問題は若い人に不利で、さらに犠牲を強いている。それは事実だが、若い人は抗うことが事実上できない。過去の若い人は騒いでいたこともあるが、だからと言って行き過ぎて自滅した。基本は先送りでそうなっていて、先送られた未来は、破綻するなり清算されることにはなろう。願わくば、僕らが死んだ後に……。
 いや、そういえばZ世代である。ググれば分かるはずだが、そういうものがあるとして(実際括りとしてはあるんだろう)、やはりそれには何らかの脅威があるのか。若者を理解できないのは確かにあるが、びっくりさせてもらって困りもするような気もするが、それはやはりおかしいのではないかと指摘して、改めてもらえればそれでもいいし、拒絶されれば放っておいていいのではないか。攻撃されるのならいささか困るが、こちらが傷つくほどであれば、助けを呼ぼう。しかし、おそらく彼らなりの正当性があり理由があって、それが本当に理解不能ならば、あきらめよう。おそらく僕らの先輩がそうしてきたように。
 こういう書き方もなかなかに難しいのだが、僕は聞き分けのいい大人になろうと思っているのではない。許容範囲が広い人間でもないし、懐の深い人物でもない。単にそれほど興味が無くて、近づいてこなければそんなに問題にも感じてないだけのことだ。居酒屋で飲んでいて、焼酎のお湯割りをつくってくれるのはありがたいが、出来ればお湯から先に、あとで焼酎を入れてくれるくらいの手順を覚えて欲しいくらいのもので、それ以上は望まないだけのことである。嫌ならやらなくてもいいし、自分で作ったところで何の問題もない。若いのに横着だとか気が利かないとかみじんも思わない。できないことをできないうちはしなくていいのである。僕らだって以前はできたができなくなったこともある。お互い様である。お互い様だと思わなくてもいい。そう思う時に思えばいいのである。
 ということで、実際の話は、Z世代は常温の水をコンビニで買うらしいよ、ということだったと思う。理由は説明が無かった。いったいどうしてなんでしょうね。わざわざ常温で売っているって知らなかったよ、おじさんは。ということでありました。

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頑張って生きるにもほどがある   茜色に焼かれる

2023-02-02 | 映画

茜色に焼かれる/石井裕也監督

 尾野真千子主演。7年前に夫が跳ねられ死ぬ。殺した老人はアクセルとブレーキを踏み間違ったとされ(映画的には違うように見えるが)、また有力な政治家でもあったために不問に付されたという設定。賠償金は払う意思があったものの、まず謝罪が無かったのと汚いお金と感じ受取を拒絶したという。気持ちは分かるが、そのために貧困に陥っていて、風俗で働かなくては生活が立ち行かなくなっている。またそういう状況にありながら、義父の施設の負担金を払い、夫の愛人の子供の養育費も払い続けている。そうして息子は頭がいいが、学校では陰湿ないじめ(おそらく貧困と母親の仕事の所為)を受けている。もともとカフェを営んでいたが、コロナ禍で立ち行かなくなったという不運もある。昼にパートで働いているホームセンターの生花部門でも、店長のような人に執拗にいじめられている。夫が以前所属していたバンドのメンバーにもセクハラを受けている。風俗では歳がいっているという理由で、客からバカにされ、虐げられている。そういう底辺で生きていることにもかかわらず自殺しないことで、さらにバカにされているようにも感じている。息子をいじめている学校の若い先生にさえ、馬鹿にされている。
 今の世の中の現実は、弱いものほど実際は強い立場なのだが、そのことは一旦いいだろう。そういう設定にありながら、虐げられながらも意地を張って強く生きていこう、という姿を映像化しているわけだから。さらに風俗で働いている若い友人(片山友希、この人の演技は良い)がさらに悲惨な境遇で、8歳のころから父親からレイプされ続け、付き合う男は更にろくでもない。しかし真野演じる主婦を憐れみ、悲しみに怒ってくれる。
 問題はあるにせよ、見どころが多いのも確かで、それなりに引き込まれるものがある。息子の演技にも説得力はある。ここまで社会がいびつだと、ふつうは人間が壊れる。じっさいかなり壊れている状態であるとは考えられるものの、気を取り直して強く生きているということかもしれない。いちおうのカタルシスのある展開はちょっとだけあるが、よく考えてみると、このような頑なさを抱えたまま生きていくのでは、やはり無理の方が大きそうである。人間は変われるからこそ生き延びることができる。自分で不幸を招く生き方は、脱ぎ捨てていくべきであろう。まあ、なんというか、頑張りましょう。
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あなたの決定は自分で決めていない  サブリミナル・マインド

2023-02-01 | 読書

サブリミナル・マインド/下條信輔著(中公新書)

 副題「潜在的人間観のゆくえ」。ずいぶん前に半分くらい読んでいたようだが、別の本でこの書名を見て、再度手に取って読み直した。文章に慣れるのに少し時間がかかる感じはあるが、乗れると付いて行けたということか。後半に進むにつれ、お話は哲学や法律的な問題をはらんでいく。事実がわかると問題がこじれていく感じが、なかなかに面白い。
 サブリミナル効果というのを知ったのは、刑事コロンボを子供のころに観たからだ。犯人がこれを使って被害者をおびき出して殺害する。見たことが分からない一瞬の映像であるにもかかわらず、無意識に行動を促すことができるというのだった。翌日(※後で調べたらコロンボの放送は土曜の夜だったようで、これは翌週の間違いである)の学校でもこれが話題になり、商品の販売促進のために実際にこれが使われている例などがあるらしいという恐怖を味わった。数年後何かの本で、しかしサブリミナル効果というのは、追実験で否定されたというのを読んだ記憶があった。それで僕はすっかりこれはオカルトのような類だと決めつけていた。
 ところがである。無意識下に影響するこのような効果は、その後のさまざまな追実験などで確証的に明らかにされている、とこの本に書いてあるのだ。いくつかは脳に関する別の本でも読んだ記憶があるものもあったが、閾下の影響の方が、実はその後の意思決定につながっているらしいことが分かっているという。そうしてそのことを、影響を受けた本人すら分かっていないのだ。その上で影響を受けたにもかかわらず、本人は別の理由を捏造して根拠にするということも分かっているのだという。自分の意志決定は、自分自身が決めたことではないかもしれないという疑いがある。脳科学の世界では、コンマ何秒という世界で、意思決定の前にそれを促す何かの作用が既に働いているらしいことは分かっていたが、心理学の世界でも、それらを証明する様々な実験が行われ、自己決定は自らの選択でなされていない可能性が証明されている。ただし、それはこれらの実験下で客観視されているものの、本人もそれと気づかないことと、他人が嘘をついている可能性が排除できないことから、日常の選択がすべてそうであることは証明が難しい。
 さらにそれを知ったうえで科学的にその行為を自己決定でないと認めてしまうと、例えば殺人事件などの殺意などは、他の影響で促されての結果であることになりかねない。そうすると、法的に実際に人を裁くことの困難が生まれる。これまでにも過去のトラウマなどの影響で、刑罰が軽減されるという判例が次々に生まれている。敏腕弁護士がこのような精神鑑定を用いて無罪を勝ち取る影響は、社会をますます不安定に陥らせる可能性があるのだ。
 なんだかキツネにつままれたような印象を受けるかもしれないが、これらの考察への展開は、なかなかに面白い。面白がっていいものか分からないくらい面白い。我々が信じているというか、大きな価値観の根拠にしている自己決定というものが揺らぐことで、人間生活の未来そのものが、どうなるか分からなくなる可能性があるのだ。
 もちろんこれは科学的に事実であるから、実際に様々な問題の議論は進んでいる。知らないでは済まされない、人間という動物の面白さを味わってほしい。
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