The hand of god/パオロ・ソレンティーノ監督
イタリア映画だが、英語のままの表記である。原題は当然イタリア語で、だからこれは英語表記の邦題ということになる。ちょっと変であるが、こういうのが配給会社の感覚なのだろう。
監督さんの自伝的物語だそうで、いわゆるヰタセクスアリスである。若い頃の性欲に関する成長物語ということになる(※)。イタリア人だからなのか、その上にナポリ人だからなのか、非常に直接的に女のことばかり考えている。そうしてそれでいいという風潮があるようだ。そういう中の地元の大きな事件として、マラドーナがナポリに来て活躍していた時期と重なっていたということで、邦題(つまり原題の英訳)となったのだろう。そうして自伝だし、この監督さんの振り返りなので、自分が映画監督を志すきっかけというか、決意のようなものがこの頃にあったのだ、と告白しているのである。そこのあたりはドラマとしても描かれているものの、やや哲学的な感じもあって、要するにかっこつけたかったのかもしれない。その後仕事をして監督になったはずで、そういう実用的な話には、ならないのである。
家族の物語でもあるが、それらの人物は皆風変わりな人ばかりである。それがナポリ人の気質なのだろうけれど、こんな人々が日本にいると、すでに犯罪的だ。冗談も好きで、たびたびそれが行き過ぎる。そういうことは、いわば復讐にもなっていて、単に暴力をふるうと問題だが、冗談で演劇的にやると、許さなくてはならないような文化がある。できるだけ大掛かりにそれをやり、当事者を困らせる。それを見て皆で笑う。いじめと紙一重のものなのだろう。
しかしながら成長とともに、楽しかった家族の在り方も変化していく。何か決定的に壊れていくものがある。その後に自分なりの再生があるということを示唆していて、いつまでも同じ状態が続くわけではないものが、人生そのものということになるのかもしれない。妙な映画だが、いわゆる既に古典的な作品のような風格を備えている。監督は集大成でこういうお話を描きたかったのかもしれない。
※ 以前の文学作品にはこのような視点で自分語りをするというスタイルがあったのである。(女性のことは一応知らないが)男性の思春期というものを語る場合、いわゆる自分の性欲を抑えられない多感な時期を経て、本当の大人になっていくということが言えるようで、童貞のころのことと、そうでなくなった時期に、明確な違いがあるという考え方があるのだと思う。文学作品としては好まれて読まれたものだが、今考えると、ゴシップ的な興味や、私小説として人に自分をさらけ出すことでの、強い意志をあらわすものなのかもしれない。