投棄されるプラスチックごみの影響が懸念されている。特に海洋に流れ出てしまったプラスチックごみは深刻で、分解されるのにモノによっては数百年という単位で時間がかかるし、プラスチック自体が小さく分解されて、誤って魚などが食べるなどして、二次三次的に被害が拡大することもあるという。大手の食品メーカーなどには、プラスチック製品を削減することでイメージ戦略を打っているところもあるし、大衆的なニーズとして、それなりに認知と市民権を得た考え方になっているのではないか。
このような考えに基づいて、プラスチックを使わない生活をしたらどうなるか、という実験的なレポートをしているTVディレクターもいた。結果的に大変苦労するが、消費生活をするうえで、たとえプラスチック製品以外のものを買おうとしても、パッケージにプラスチックが使われているなどして、完全排除が事実上できないようだった。食べるものが限られ、買えるものが制限され、不便で時間がかかり、大変な労力を費やされる。
それでも啓蒙活動としては必要なことであったし、その広がりが無い限り解決は無いという論調であった。それはその通りかもしれないし、ショッキングであった。
実は先日寅さんの映画「男はつらいよ」で、伊藤蘭がマドンナの回を観たのだが、彼女がコンビニでバイトしているときに、商品を包んでいるのが紙袋だった。昔は紙の方が当たり前だったんだな、といまさらながらに思った。この映画は当時映画館で観たのだが(田舎なので完全にタイムリーな公開だったかは怪しいが)、その頃コンビニができたてで、東京大阪くらいにしか本物のコンビニのない時代だった(セブンイレブンは長崎には無かった)。だから普段はスーパーなどで買い物していたのだろうけど、紙袋だったかどうかの記憶はあいまいだ。しかしその頃からビニールの袋が出だしたというのは、間違いなさそうなんだけれど…。
事態は本当に深刻だとは思うが、それは何より難しい社会にすでになっているからだ。システムとしてのプラスチック生活が、人間の社会そのものを構成しているように見える。以前は紙だったものでもプラスチックにとってかわったのだから、プラスチックにとってかわる代替製品が出ない限り、決定打とはならないだろう。制限をかけたり、リサイクルなども同時進行としては大切だと思うけれど、それはあくまで啓蒙であったり心がけのようなものであって、主流にはなりえないだろう。中にはこれで食っている人もいるわけで、プラスチック排除の為に、生活が脅かされる人々もいるはずなのだ。そうなるとその人々の生活を不安定にすることなしに、目的の達成はあり得ないということになる。経済を優先しなければ、結果的に人の命を脅かすことになるのだ。多くの人は何かロジック的に勘違いしがちだけど、経済を優先することは、ほとんどの場合人の命に優しい社会なのである。
プラスチックを使わない代わりに何を使うか。頭を使っても分からない人には、イノベーション的な発明以外に道は無い。それらに頼るしかない人間という存在の為に、この流れが投資の対象になる可能性が必要だ。要するにプラスチックより経済効率が良くて、なおかつその発明にはリターンがあることだ。大衆や政治にその力は無いと思うが、どうだろうか。