形態学/倉谷滋著(丸善出版)
今や進化論を疑う人なんて(一部の宗教家以外)いないのではないかと思われる。しかしながら、その進化のスパンというか、時間的な変化というのは、人間が過ごしている時間軸に対してあまりに長い物差しであるので、実際のところ、今いる生き物の形を観察して(またはその個体を使った実験をして)類推するよりない。要するにどうしてこういう形になったのかという理由までは分からない(考えてなったものなのかどうか知らないし)までも、もとになった形から変化しただろうことは分かるかもしれないのである。実際に分類上の生き物の仲間のようなものは分かる(というか、そういう歴史がある)ので、そのもとになるような生き物も、分類上分かるかもしれない。そういう膨大な資料をあさって、そうして子細に細胞レベルまで時には拡大して観察し、その進化の歴史を読み解こうとする試みがなされている。
新書ではあるが、なかなか手ごわい内容ではあった。それなりにけっこうボリュームがあるというか、難しいものは難しいのである。しかしながらゲーテの時代からこのような形態学があるという発見もあり、目から鱗ものもある。当たり前かもしれないが、もとになる形の制約があって、そのものが形を変えるのが進化の歴史だ。天使の羽のように、想像して何が別のものがニョキニョキ生えてくるような進化というものはあり得ないようで、おそらく人間などがまた進化していくとするならば、天使のような形態にはなりえないのである。
僕は特に昆虫ファンではないが、昆虫の擬態などをみても分かるように、その環境に影響を受けて、長い時間の中で進化を遂げているらしいことは理屈では分かる。しかし、そういう適応のようなものが、必ずしも環境のみで、いわば考えをもってなされているのかどうかというのは、それなりにミステリーである。いまだに進化論の論争のようなものがあるのは、どうしての意味が分からないものがかなりあるからであろう。意味は分からないまでも変化した歴史は必ずある。そういうものは形としては残されていない部分もあるだろうが、それを分からない人間の見方があるせいではないか。かなり分かりかけていることは間違いあるまいが、そういう意味ではまだまだ途上なのである。そしてそこにかける学者が、それなりにいるのだろう。僕らは眺めて想像して楽しんだらいいんだろうけど、学者にはその根拠を求めた探求の旅があるに違いない。それを傍目で確かめるのは、娯楽なのである。