カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

もう少し豚には優しくしよう   孤狼の血

2019-07-16 | 映画

孤狼の血/白石和彌監督

 原作小説があるらしい。今時珍しくなった任侠ヤクザそのもの映画。演出的にはかなり現代風に乾いているので、浪花節に陥らないのがいいのだが、その分血なまぐささは際立ってしまって、観ていてけっこう気持ち悪かった。昭和60年代の広島のやくざの組の抗争を、これまたほとんどヤクザと同じ警察内部の捜査と絡めて描いた作品。
 拮抗するヤクザの組同士のつばぜり合いのある地域のようだが、一方の組長が刑務所に入っている間、暗黙の休止状態になっていた。ところがそういう中で闇金業者が殺害される。妙なパワーバランスが崩れかけているらしい。捜査に当たるベテラン刑事は、自らもほとんどヤクザと同化している。組の内情に通じているばかりか、片方の組に対しての肩入れさえしている様子だ。暴行はもちろんユスリやタカリも常態化して行っている。この刑事にコンビとしてつかされているエリート新人刑事は、激しい疑問を抱きながらも、翻弄されながらヤクザ社会になじんでいくのだった。
 広島が恐ろしい街(プラス北九州)だというのは、子供のころには定番だった。この映画のようなことが行われていたのかどうかまでは知らなかったが、こんな街にはカタギは住めそうにない。ある意味ではこういう時代を経たからこそ、現代のような法整備が進んで、平和な日常を暮らしていけるのかもしれない。劇中のセリフで、ヤクザが普通の会社などに紛れてしまう方が恐怖のようなことを示唆していたりしたが、とんだ間違いだったと思う。今はもうヤクザ的な人はいないわけではなかろうが、やっぱり食っていけないのでやらないだけのことだと思う。経済論理で生き永らえられる社会だからこそヤクザが存在出来た訳で、今のように厳しい世の中になると、ヤクザのように遊んで暮らしているような人々は生きていけない。要するに、古き良き時代の恐ろしい社会の物語なのである。まあ、いまだにヤクザが生きているような社会も外国にあるらしいが、日本を見習うように!
 ということなんだが、映画的には汚かったり怖ろしかったり気持ち悪さ満載のいい映画である。日本のいろんな俳優さんの演技合戦も楽しい趣向であったりする。普段はいい人そうな人たちが恐ろしい顔をしたりして、それなりに様になるので面白いのだろう。
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今やどこにいるのか

2019-07-15 | net & 社会

 だれに投票していいかわからない。そういう話を聞くと、本当に不思議な気分になる。確かに地元に密着したような国政選挙ではないかもしれないし、しかしそれが今の選挙だろう。いまさら税金をたくさん納めた貴族院に戻すわけにもいかないし、また以前のように良識の府である(といわれた)無所属議員の多い院にもできない。すべては選挙制度が変わったせいである。また、どうするかは議論してもらおうではないか。
 というわけで、選挙が盛り上がっていないということは、そこまで感じてはいないが、どういうわけか山本太郎だけは目立っていたりして、どうしたものだろう。まあ、彼が本当に日本を動かすようになると、それはヒトラーがまた現代によみがえる可能性もあるということを立証するに等しいだけのことだろう。現時点ではありえない話だが、国民の一部は、そういうものを求めている時代にもなっているのかもしれない。嘘を言えばそれでいいというのは、あまりに悲しい時代である。国民にそれを期待してもしょうがないのだろうか。
 さて、立場もあるから選挙はいろいろ大変だった。まだあるけど、すでにだいぶ大変だった。年賀状よりたくさん名前のハガキを書き、ご挨拶に行ったり会場に足を運んだり、時には挨拶したり。支持している人が居るからといえばそうだけど、要するにポジションで動かざるを得ないしがらみである。
 様々な人に支援をお願いしている関係上、いわゆる完全には味方ではない人間からも、同じように協力を依頼されることがある。バーターのようなものである。相手方支援者にも、よく知った人もいるわけだし、また、義理もあるわけだ。名前を書き握手をし、応援する。最初はちょっと不思議な浮揚感と罪悪感のようなものも感じていたが、大人として生きていくというのはこういうことをいうわけで、僕が有名人ならともかく、その他大勢であるのだからできることである。そうしてそのポジションを期待されていることかもしれない。もっとも、本来支持している側としては、それなりに具合の悪さはあるわけだが。でもまあ、仕方ないじゃないですか。そのための犠牲なのだから。
 こういうことは大人としては言ってはいけないが、選挙としては大勢は決したようだ。これだけの動きがそれなりにとれたことで、その証明はなされるわけだし、いわゆる新聞的に争点とかなんとかいうようなものがあるのはあるはずだが、そういうものが本当に影響を及ぼしているような人々との距離ははるかに遠い。いまさら遅いのである。根本すぎることを言ったところで。
 選挙や政治家が分からないという人はいる。ならば言うが、あなたが今まで何をしたかということだ。政治家になろうという人だって動機があって、使命感も持っている。そういうことが無いと政治家になんてなろうと思わない。そういうものを持ってない人が、そもそも政治に何かを期待する動機を自分なりに整理すべきではなかろうか。自分のわからないものを人に頼ってはならない。親切に教えてくれる人には、その親切の理由があるってものである。自分で考えて理解しえないものには、そもそも自分ではわかりえない存在であるということに過ぎない。政治不信は、自分の能力相応に違うはずなのである。それをいうのは残酷だから、あえて忠告しないだけのことなのである。悪い政治家ばかりがいるというのは、だから一種の幻想なのではないか。
 まあ、しかし、すべては確かに幻想なのかもしれないな。それぞれに何をつかんでいいのか、本当に理解できているものかどうか…。もっとも選挙以外の仕事なら、やる前もやった後も続く。本来は、そのための下準備として選挙をやって、仕事をしたいのである。そうしてそれは重要という目的が増殖して、感情の塊のようになっていく。人間の持っているエゴイスティックな塊が本当に強くなっていったところに、最終的な勝利が下りてくるのだ。負けたところは弱かったところ。強くなるにはどうするか、諦めるか、再スタートするか。それが次の選挙を動かす原動力だ。
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阿波踊り、眉山

2019-07-14 | 散歩
 というわけで、もうじき七夕もということだったようですね。僕は旧暦派なんで、滑稽にしか見えませんけど。


 午後の分科会ではコオロギパウダーの入ったパンがふるまわれました。甘いパンで、コオロギの味はまったく分かりませんでした。








 夜はまたしても二次会三次会ということになりました。最後はどういうわけかインスタ映えのカクテルがあるという焼肉屋さん(焼肉なし)でした。お疲れさまでした。






 最終日。既に朝から疲れてる感じです。でも何とか乗り切ろう!




 朝からすでに暑いです。雨じゃないだけいいとするか。




 このあたりは寺町のようですね。お寺が奥にもたくさんあるようでした。


 あれが阿波踊り会館でしょうね。


 まちがなんとなく古い感じでいいですね。それなりにすたれているのかもしれませんが。









 ということで、研修会は午前で終了。お疲れさまでした。エアコンこの日も苦情言ったけど、改善無し。やる気ないんですかね、このホテル。半分くらいしか話は聞けませんでした。

 ということでお昼ご飯。なんとかいう駅地下ランチでした。


 そうして向かった先は阿波踊り会館。先に建物内にあるミュージアム見学です。




 阿波踊りホールで阿波踊り観て、そうして体験踊りも致しました。なんと優秀賞で手ぬぐいもいただきました。単純な踊りながら、様になるように踊るのはそれなりに難しいものです。楽しかったですけどね。

 上にあるロープウェイで眉山に上りました。


 徳島のまちを一望。


 パゴダ平和記念塔。戦没者慰霊のようですね。






 別当の展望室には、なぜか手形がたくさんありました。


 降りてきた。会館の奥は神社でした。


 困ったことに、飛行機の時間までまだまだあるんです。


 昨日開会式で遠藤徳島市長が遊覧船にぜひ乗ってくれとアピールしてたので来てみると。


 すでに営業終了してました。早っ。



 何故かたぬきがおられました。


 ということで買い物したりコーヒー飲んだりぶらぶらして時間つぶして、やっとリムジンバスに乗り込んで空港へ。それでも時間あるので晩御飯でうどん食べました。



 さらば徳島。


 着いたのは福岡空港。その後諫早経由で帰宅したのは11時過ぎ。送ってくださりありがとうございました。お疲れ様~。

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徳島ラーメン、アンパンマン

2019-07-13 | 散歩
 この日は懇親会ハシゴして、〆のラーメンまで行きました。こんなの久し振り。けど徳島ラーメン食べることができて良かったです(結局これ一杯だけだったのです)。


 醤油豚骨に味付けの肉が特徴的ですね。見た目ほど濃い感じではなくて、スープも十分すすれます。女の人も客に多かったので、男臭いラーメンではないのかもしれませんね。


 ということで、今度は朝飯。さすがに少し昨夜のラーメンが後を引いてるかも。でも食べましたけど。


 ふらふらーっと行きましょう。




 ポッポ街商店街。気分はもう昭和ですね~。


 外とのコントラストもいいですね~。


 郵便ポストも阿波踊りです。





 結局駅前ウロウロしてるだけですね。


 実は研修会場がここだったのです。


 でもですね。ここの会場のエアコンの設定がむちゃむちゃ低いんですよ。外は蒸し暑くて汗だくになってるのに、会場はギンギンに冷えているので、すっかり具合悪くなりました。


 確か荷物に風邪薬入れてたな、と思っていったんホテル戻って薬飲んだりしましたが、すでに鼻水と熱が上がりだした感じでした。



 体温めては、冷えた会場に戻ることの繰り返しで、何とか体調を維持するしかありません(何度も苦情言うんですが、すぐに寒くなるんです)。



 お弁当は1500円。周りの評判は悪かったです。まあ、事情があるんでしょうね。


 昼休みは、一緒に来てた人のお子さんがアンパンマン・ファンとのことで、アンパンマンベンチがあると言う噂の駅に行ってみました。


 駅員さん(女性に)ベンチの場所を聞いたら、「構内」と冷たく言われるのみ。「入場券を買うんですか?」と聞くと、「そうですかね」って感じでした。そんなの自分で考えろってことでしょうかね。まあ、その通りですけどね。
 ということで無事にベンチは見つけました。


 アンパンマン列車っていろいろあるんですね~。


 徳島駅から出るやつは、期間限定で完全指定席のようでした(後で分かった)。





 他にも大人が何名かスタンプ押したりしてまして、子供の為に頑張っている親がたくさんいるんだな、と思いました。愛ですよ、愛。みんな子供の喜ぶ顔を見たい一心なんだろうと思います。


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大塚国際美術館をゆく

2019-07-12 | 散歩

 うずしお見学後は、これもたぶんお約束です。大塚国際美術館。


 まずは腹ごしらえということになりました。


 僕は鳴門ちゅるうどんというのを食ってみました。


 うどんなのに縮れてるんですよ。変なの。


 ここをネットで検索すると、当たり前のように米津元帥という人の動画が出てきます。まったく知らない人ですが、紅白で有名になったんだそうです。有名になるっていろんな経路があるんですね。ぼくはここ、失礼ながら偽物美術館という噂を聞いたことがあってです。陶板で偽物絵画を飾っているなんてすばらしいじゃないですか。


 システィーナ礼拝堂を再現したホールは圧巻ですね。ここは原寸で再現しているというのが売りであるらしく、確かにその後の絵画においても、このサイズなのか、というのが分かって感慨深かったです。


 陶板なんで光の反射の仕方にやや難がありますが、これだけたくさんの展示があると、まさに圧巻という感じです。もっともその後、あまりに展示が多すぎるので食傷気味になっていくのですが…。








 なんといっても偽物のいいところは、写真撮り放題ってところですかね。みなさん楽しんでおられましたよ。

 ものすごく詳しい人もいるようで、勝手に講釈してくれるお爺さんなんかも居られました。




 日本には漫画文化があるんで、僕なんかは海外の絵画は少し幼稚な感じもするんですが(歴史的なものは下手くそも多いし)、さすがに知られた名画になると、複製であっても迫力あります。まあ、知ってるので愛着があるだけの事でしょうけどね。


 睡蓮ってこんなにでかいものの一部なんですね~。


 基本的な名画は選択されていますが、案外ないものもあったりして、そういうのに思いを巡らすのも一考かもしれません。






 絵画というのは基本的には道楽のようなもので、貴族のようなパトロンが無いと生きていけないのがほとんどだと思います。だから現代では絵の先生になるか、漫画家になったりして実働で食うことになるんでしょう。それでなければ、ピカソのように最初から金持ちとかですね。
 絵の値段というのも、買う人が居るから成り立つだけのことで、少し経済理論的に理屈っぽいものです。高いからいい絵だというのは、まったく関係のないことです。いい絵だと認められているような背景を必要とするわけで、一定の人がそれに納得する必要があります。要するに他人の欲望が自分を刺激するのが絵画の魅力の原型になっていますので、自分だけがいいというのは価値が低いのです。そういう勉強を実感できる場所として、ここは最高の場所かもしれません。





 いや~、ほんとに疲れました。観に行く人は、体調を万全にしていくことをお勧めします。



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徳島駅前散歩と鳴門のうずしお

2019-07-11 | 散歩
 とくぎんトモニアリーナ。


 徳島城址が公園になっているようです。



 石垣の組み方が、九州のそれとは違いますね。石の質も違うようで、知識がないので分かりませんが、タモリなら気にするところかもしれません。


 台風で倒木したという大クス(竜王さんのクス)。


 徳島鉄道年表。


 SLが飾ってありました。


 蜂須賀家正像。失礼ながら顔がアンバランスに大きすぎて、ユーモラスでした。これじゃ尊敬を集められないんじゃなかろうか。いや、忠実に再現しておられるのかもしれませんな。


 散歩に通学に、皆さん利用されている公園のようです。



 やっと外に出て、駅前の方に戻りましょう。


 こういうところも自転車はすんなり行けるのに、歩行者は面倒に出来ている。安全対策かもしれないけど、例えば高齢者なんかは大変ですよ。まあ現代は車社会なんでこうなってしまうんでしょうね。



 さて、だいたい戻って来ましたよ。


 少しホテルで身支度して、再度空港へ向かいます。仲間たちと合流しなければならないからです。


 リムジンバスは440円。


 空港着いた。


 メールが来てて、バジェットレンタカーだというから問い合わせてみると、我々の予約は無いと言われる。かなり不安になったが、降りてきた人に予約の紙を見るとオリックスレンタカーだと分かった。まあ、大したことないですよ、勘違いなんで。


 レンタカーで向かったのは、お約束の鳴門であります。高速乗ったけど、すぐという感じ。



 この船にのるんだと。


 大鳴門橋見えてきた。


 写真じゃちょっとわかりにくいかもしれませんが、橋の下に白波が立っているのが見えるんですよ。わくわく。


 もうすぐだ!


 キター。



 すんごい迫力でしたよ。落ちたら間違いなく死ぬな~、って感じです。逃げられんです。たぶん。船がデカいのでそんなに不安は感じませんが、ふざけた中学生なんかが一緒だと危険かもしれません。ここは大人になってから行きましょう!





 僕らと一緒だったのは、岐阜の何とかいうまちの交通安全協会のお爺さんたちでした。その爺さんたちと、おおーっとかいいながら堪能しました。僕はその一人になぜか捕まってしまい、子供の安全の取り組みを詳しくお聞きしておりました。僕の子供も我が地域でお世話になったわけでありまして、本当にありがとうございました。





 というわけで、楽しかったです。

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徳島入りました

2019-07-10 | 散歩
 ゆりかもめは新橋に戻りました。


 ここから空港へ。



 そうしてついた先は、阿波徳島なのでした。




 バスは発車時刻というより、空港の客のほとんどをのせて、市内に向かうのでした。


 吉野川。でかいな。


 泊のホテルは何処かいな。地図だけが頼りで、とりあえずの方向を歩きます。




 地図通りなんでしょうけど、思ったよりこじんまりとまとまった街のようで、行き過ぎました。まあ、着いて良かったです。




 ホテル着いた。



 飲み屋さんも、駅前に集中しているようで、たくさんあります。




 ということで、焼き鳥屋さんで晩餐致しました。


 たまたまだったんでしょうけど、店の店員さんが休みでその店で飲んでおられて、さらにミュージシャンのようで、ロック談義しました。僕より10歳くらいは若いお方だったようだけど、だいたい僕の世代のロックも理解されているようで、けっこう盛り上がりました。こういうのは、今や少数派なんだと思うんですが、偏った知識なりに深いものがありまして、楽しいのであります。
 というわけで、ちゃんと飲んで帰りました。お兄さん、ありがとうございました。


 実はここでも前泊でありまして、朝飯食っても余裕があります。



 ちぃーっと歩いてみましょっかね。





 ちょっと歩いてみて分かったんですが、おそらく平坦で自転車が多いだろうことと、そのためなのか歩行者には歩道橋を歩くように設定されているようで、きわめて不便であること。無視して横断歩道(自転車を専用しか設定が無いけれど)を行った方が断然便利です。




 
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お台場ガンダム

2019-07-09 | 散歩
 研修会終了。ほとんどの方はあと二日あるそうだけど、僕はここまで。すいません。そして、お疲れ様でした。いろいろ思うところはあるけど、やっぱり勉強になりました。それなりに頑張らねば。



 さて、昼飯何にすっかな。


 なんとなく入った店の頼み方分からなくて(メニューが無い)、隣の人に聞いて頼んだら丼と一緒になった定食のようなものでした。旨かったですけどね。


 ホテルに預けてた荷物もって、さらに駅に行って荷物ロッカーに入れて移動します。


 ゆりかもめに乗ってみよう。


 フジテレビ。



 こないだFBにアップしてる人が居て、なんとなく行きたくなったお台場。




 自由の炎象。


 船の科学館あたり、何かイベントが準備中でした。


 で、見えてきたのはガンダムっす。


 実は僕、アムロみたいな人間が大嫌いで、ガンダム見なかったんですよね。才能あるのにいつまでもウジウジしてて、結果的に人をたくさん殺す人間が嫌いなだけで(それがアムロって人間の売りかもしれませんが)、ま、ガンダムには罪はないです。


 やっぱ、でかいなあ。




 周りの人も当然バチバチ写真撮ってて、ちょっと興奮してきましたよ。



 後ろ姿もカッコいいです。




 実はけっこう気温が上がってて、暑いんでダイバーシティに逃げ込みました。





 せっかくだから一駅くらいは歩こうかな。





 建物に入ると、たぶんレディ・ガガのような人が居た。


  レゴの人もいた。


 外に出るとあんまり人はいません。とにかく暑いのです。




 時間あるんで遠回りします。






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連泊新橋、勤労者に感謝する

2019-07-08 | 散歩
 朝起きたら朝ごはん。


 歩き始めはまだ降ってなかったんですけどね。





 ぽつぽつ落ちてきました。




 というわけで雨天でしたが、研修受けに行かねばなりません。



 写真の奥のあそこでありました。


 午前からみっちりお勉強して昼飯でホッとしました。もう寝てる人もいて、妙に感心してしまった。


 霞が関散歩。




 工部大学校阯碑。後で調べたら東京大学工学部の前身の学校の跡らしい。


 特許庁をぐるっと回って。



 世界の石。どうしてこんなところに…。


 ここには燈籠もありました。


 午後もみっちりお勉強。ここでも寝てる人はずっと寝てた。あのおじさん、よっぽど睡眠不足だったのではないでしょうか。僕はですね、あんがい楽しんでお勉強した感じです。実はですね、僕もこれを受けて講師を務めなければならないんですよ。たぶん、そういう緊張感が眠くならない秘訣だったと思います。正直眠い話もないではなかったんですよ。でもそれは、僕だって寝られる可能性のある話のはずです。そんなの嫌ですからね。妙な意地もあったものです。

 というわけで初日終了。同志も居られたので一緒に食事しました。飲まないのにおつきあいくださり、誠にありがとうございました。いろいろお話も楽しかったです。



 後はやっぱり部屋飲み。ゆっくり読書したりして、これはこれでいいのであります。


 同じホテルで連泊なんで、朝はカレーにしました。


 今日もポツポツきてますね。


 みなさん通勤お疲れ様です。



 昨日飲んだのここでした。






 駅の中では人も渋滞。おいらやっぱりここには住めないな。


 こういう環境で絶対に仕事したくないです。出勤したらもう疲れているって感じかもですね。しかし、やっぱりこうして頑張ってる人たちが居るから、日本はどうにかもってることも間違いないわけで、感謝しなくてはならんです。みなさんありがとう。



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新橋焼き鳥

2019-07-07 | 散歩
 今回は昼の便。前泊移動なのです。


 乗った飛行機がソラシドエアで、機内誌にソラタネというのがあります。そこで五島の記事があったんですが、写真にのってるお婆さんが、この間亡くなったおばさんに似てたのです。内輪ネタでありますんで納得いく人が少ないとは思いますが…。


 飛行場では駐機場が遠くてバスでした。飛行場も広いですね。


 今回はちょっと体調が本調子じゃなくて、一抹の不安がありました。少し前まで風邪ひいてて、それが理由でありましょう。



 でもまあ公共交通機関はちゃんと動いてくれます。ありがたい世の中ですね。


 宿泊ホテルからの眺め。


 というわけでぶらぶらします。


 あいにく雨なんです。



 たんに晩飯どうすっかな、って考えてただけですけどね。どこか遠くに行くつもりもないしな。





 このあたりはとにかく外国人ばっかりだね。アジアの旅の定番になってるんでしょう。




 もう何だか毎回通ってるみたいな感じになってきましたね。ぐるぐるぐる。


 内幸町広場のモニュメント。




 烏森神社に戻ってきた。


 だいたい目標の8000歩くらいになったので、もう飲んでもいいでしょう。




 結局地下の店に潜って乾杯。この日は日曜だったんで、新橋の店、けっこう休みが多かったです。


 この焼き鳥屋さん、適当に入ったけど旨かったです。



 向かい側のテーブル席に、おそらく日本に住んで二十数年という感じのおばさんが日本語で注文した後、連れの若い同じく中国人の女性と普通語で話をされてました。発音が聞き取りやすくて、久し振りに勉強になった感じです。店員さんもおそらく中国人だったんですが、注文は日本語、会話は普通語と使い分けてて、なんとなく面白かったです。


 部屋でもちびちび飲んで、いい休養になりました。



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もっと強い人たちかと思ってた   セブン・シスターズ

2019-07-06 | 映画
もっと強い人たちかと思ってた
セブン・シスターズ/トミー・ウィルコラ監督

 近未来、人口爆発に苦慮している人類は、仕方なく一人っ子政策を実施しており、二人目以降のこどもは冷凍冬眠を強制され、さらに未来で(先送りして)生きていくよう政策がとられている。一人ひとりには厳格にアイデンティティが管理され、街中でも日々チェックを受けている(要するに管理下以外の人間は逃げられない)。ところが皮肉なことに、作物が大量に生産される必要があって、そうしたら遺伝子組み換え食物の影響などがあって(そのあたり適当)一度の出産で多数の子供が生まれやすくなっているという。そんな中七つ子姉妹が生まれてしまうのである。
 この子たちを自由に生き延びさせる(一人以外冬眠させない)為に祖父が考え出した方法が、ちょうど七人なので、月曜、火曜など曜日によって同じ人格を演じながら外出するというものだった。子供時代から紆余曲折を得ながら、大人になってまったくバラバラな人格でありながら7人は不思議な共同生活を送っているのだった。
 ところがある日、銀行の重要なポストをめぐる審査のある日、月曜日は帰ってこなかった。何か大きなトラブルに見舞われていることは確実であるが、火曜日はその謎を追うためそのまま出勤する。ところが火曜日も何者かに捕らわれてしまうのだった。そうして暗殺者集団が残りの姉妹を殺しに忍び寄ってくるのだった。
 B級SFの見本のような作品で、アイディアとして面白いということだろう。確かにスリリングなサスペンスを盛り上げるために、共同で難局を乗り切ろうとする感じは面白い。もっとも途中で、圧倒的な組織がもたもたしているため(なぜかサボっている)生き延びているようにしか見えなくなっていく。協力してくれる男の魅力も乏しい(愛する女の立場も微妙だし、犠牲になった人はかわいそうだ)。
 設定を活かすために、何かそれに拘泥してしまった感がある。それぞれの役割として、もう少し別の個性をいくつか用意して、新しい風味が加わる工夫が必要だろう。一番強い女の活躍が唐突に終わるのは、展開上もったいなかった。
 まあしかし、一人何役もやってそれぞれ一緒に演技しているように見える技術は、近年本当に違和感が亡くなった。他の未来都市のセットの方が古めかしい感じが今一つだったのに比べて、このあたりの処理は。非常にいいと思われた。ほとんどマンガである。結局誰が生き残ったのかということもすぐには分からない感じがあって、そういうミステリーこそ、複数の役が演じる醍醐味であろう。まあ、ちょっとグロい演出も多かったけどね。
 そういえば原題は「何が月曜日に起こったか?」。いろいろと意味深で、そのままでもよかったかもしれない。7人姉妹だと、何か日本では連隊レンジャーもののようにも感じてしまったものだから…。
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おへその場所と日本語の難しさ

2019-07-05 | ことば

 新聞の読者投稿の文書をなんとなく眺めていたら、日本語が難しいということが書いてあった。近頃そういう人は結構多いので、何かの流行りだろうか(ブログでも何度も取り上げていると思うし)。
 ともあれ内容としては、服か何かを買うためにお腹廻りをメジャーで測らなければならなかったらしい。表示に「おへその上で」測るように書いてあったそうだ。その方はその表記にすっかり悩まされてしまう。「おへその上」というのは正確にはどこのことか。おへそのある真上なのか、おへそのある場所からちょっと胸側に上がった場所なのか。どっちなのかわからない。わからないことが書いてある日本語は、悩ましく難しい。ということだったようだ。
 その方にはお気の毒なことだったかもしれないが、これは日本語の問題なんだろうか。読んでいてすぐに感じるのは、そういう違和感である。お腹廻りを測る位置として、どれほどの正確さが要求されているのだろうか。おへそは確かにお腹の真ん中あたりに普通はあるが、まあそれなりに個人差もあるだろう。その個人差のあるふくらみの、だいたいあのあたりという目安が、今回はおへそであったということだろう。おへそとその周辺で極端に長さの違う可能性のある人というのは、よっぽどのでべそであるとか、段のついた状態なのではないか。要するに悩んでいる暇があるれば、とりあえずそこらあたりで測ってみたらよかったのではないか。それに合う服を買うという目的の為に、どの程度を測るべきか、自分で実感できたらいいのである。
 もちろん、この日本語の難しさには、冗談の可能性がある。そういうことに悩んでしまう自分の面白さに、酔っている人だっているかもしれない。そうしてそれで、他の人を楽しませたいという気持ちもあったのかも。
 しかしながら僕のようなバカもいるので台無しである。そういう思い違いが起こるのは、本当に日本語の難しさなのだろうか。
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とにかく青春は恥ずかしい   色即ぜねれーしょん

2019-07-04 | 映画

色即ぜねれーしょん/田口トモロヲ監督

 みうらじゅん原作の青春映画。さえない日々を送っている高校生が、性欲望がありながら持て余している(要するに普通の高校男子)わけだが、友人に誘われて、フリーセックスの島といわれるところに行くことになる。そこに集まる若者たちに交じって、実際に魅力的な女性と知り合うことになるのだったが…。
 どうも仏教関係の男子高のようで、題名にある通り「色即是空」を教えていることと、実際にはその教えがまったく分からないだろう時代の男達が、何をやっていたかを描いたものであるようだ。何しろ原作が「みうらじゅん」で、人間の恥ずかしい性の欲求に、いつまでもこだわっているような人が、自分のルーツのようなことを語ったものかもしれない。また、音楽の対する憧憬のようなことも描かれていて、ヤンキー文化の中で、自分たちがどんな風に音楽に向き合っていたのか、というのも、それなりに感動的に伝わってくる。
 ただし、主人公はものすごい坊ちゃんのようで、親の理解がありすぎる特殊な環境である。恐ろしいヤンキーに囲まれながらも、なぜか一人だけ認められているようなそぶりがある。それは音楽の力かもしれないし、もっと別にあるその人なりのオーラがあったのではなかろうか。映画なので、主人公はいかにもいじられそうなキャラなのだが、これだとこんなにモテたり一目置かれたりしないのではないか、と思った。それがいい、という人なのかもしれないが。実際歌は、なかなかいい(たぶん歌手なんだろう)。
 もう一つ、少し疑問に思うのは、憧れる女の子たちが、ちょっと良すぎる感じもある。真面目で困るが、結構いい子だったり、遊びで不純そうだが、いわゆるちゃんとしてたりする。これはもう、妄想の延長なのではないか。特にいくら年下の男の子に気を許しているとしても、失恋の痛手でラブホテルに誘うような年頃の女性などは、国際的に存在しないと思う。まあ、いたんだろうけど、それはそういう風に自分が動かされないといけないように思う。言葉としては、どうなんだろうか? 関西の文化なのかな。
 まあとにかく、見ていてとても恥ずかしい思いがする。それが青春なのかもしれないが、特に思い出したくもない感情かもしれない。原作者をはじめ、制作に携わる人とたちは、そういう意味では純粋なのかもしれない。
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オジサンの時代が来た! らしい

2019-07-03 | culture

 今は「おじさん」がトレンドだ、というようなことをテレビでやっていた。おじさんというのはかわいいのだそうで、若い女性に人気のアイテムでもあるという。別段援助交際のことを指しているわけではないそうで、例えばお父さんの服を着たファッション(だぶだぶがいいということか)だとか、よくおじさんの着るポケットのたくさんあるチョッキ(作業着屋とか釣り具店なんかで買うらしい)なんかを着て街を闊歩する女の子たちがいるらしい(流行りである)。なるほど、それなら少しは分かるかもしれない。奇をてらっているわけで、それがカッコいいというのは、着る人次第のことだろう(似合わなければどうにもならないわけだし)。
 おじさんをレンタルするというのもあった。社会経験のあるおじさんだと、子供と遊んでくれたり、相談事などに適切なアドバイスが得られるということか。一種の社会貢献の姿のような紹介のされ方だったけど、場合によっては危ないのではないか? まあ、平和な日本ということか。
 おじさんダンサーが人気というのもあった。これはお爺さんダンサーでもおばあさんダンサーでも国際的に人気のある団体があるので、そういうものかもしれない。ダサカッコいい、ということと、本当にはそんなにうまくないけど努力のあとが見えて、楽しいというのはあるんだろう。
 以前ある先輩と酒を飲んでいて、若いころにはまったくモテなかったが(その理由もよく分からなかったが)、今は違う、と豪語していた。要するに金を稼ぐようになったらモテるようになったということらしい。まあ、それはたいへんに良いことかもしれないが、それはそれでなんだか悲しいことなのではないか。言わなかったけど。
 テレビではなかったけど、僕は最近の女性はおじさん化している面は確かにあるとは感じている。ベンチで新聞広げて読んでいる人も見るし、居酒屋でちびちびやっている人もそんなに珍しくなくなってきた。いや、おばちゃんでなく多少若ければそれなりに目立つので、まだまだ少数派なのだろうとは思うけど、ふつうにギャンブルもやりたいし、釣りなんかも一人で行く人もいるのではないか。そうしてたぶん、楽しんでいるのではないか。
 僕自身はリアルおじさんであるわけだが、だからと言って楽しいのかどうかはよくわからない。しかし女性的な楽しみは知らないし、ましてやおばさんに憧れることは無いから、オジサン的な魅力もまた、分かっていないのかもしれない。よく考えてみると、オジサン的な社会の中で、オジサン的なふるまいはしていることと思うが、単なる結果論である。憧れるような要素が何なのか、これからも分からないだろう。そうしてたぶん、一過性のものだとも思う。さらにひょっとすると、オジサン自体も廃れるようなことに、なるんではないかな、とも思う。少なくとも僕は、オジサンから爺さんになっていくわけだし、その境界もよくわからない。飲む薬だけは増えていくんでしょうね。
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入門の見本のような入門書(刺激あり)   現代人の論語

2019-07-02 | 読書

現代人の論語/呉知英著(文春文庫)

 題名の通りの内容であると思う。論語は古い書物であるが、現代のわれわれにも十分に影響力を持つ内容を持っている。もちろんそのことは多くの専門家を魅了し続け、研究しつくされていることではあろうと思われる。そうではありながら、実際のところ今に伝わる論語の内容の多くは曲解され誤解されている。現代人ゆえの理解のなさや、考え方の浅さによることが多いためではなかろうか。残念ながら論語を読むのは、そう簡単なことではないからである。そのまま読んでも理解できなくなったものは、解説を交えて読むより仕方がない。そうであるならば、一番適切と思われるものから手に取るべきで、それが何かという答えが、本書なのである。間違いでないことは、手に取ったものはすぐに悟る事であろう。大きな驚きとともに。
 また、古い書物が現代で読めるというのはありがたいことながら、その時代背景や、その根拠となる歴史が、我々にはまるで分からないのである。ただ孔子が素晴らしいことを考えて発言したということがあったとしても、その言葉の発せられた本当の意味というものは、そう簡単に計り知れるものではない。論語を読める人が読んだ意味を読むというのは、だからこそたいへんに意味が深いのである。その論語よみの先生として現代人に最適の人は誰か? それが著者である呉知英であるのは間違いない。いわゆる権威主義的に偉い学者というわけではないのかもしれないが、それは権威的に理解するという意味ではなく、本当に平易でありながら、その危険性までも解説できる見識の広さと、自らの思想の深さを持ち合わせている存在だからである。
 僕は40代になったとき、もう不惑の年だね、と時に言われたものである。四十にして迷わずの境地というのは、正直に言って、誰もが疑問に抱くことではないか(なった人にとっては)。そうあるべきという解釈においては、非常にハードルが高すぎるのである。さらに50になって天命を知る年になったはずだが、やっぱりとんでもないことのように思える。さて、そうなのだが、孔子はしかし、なぜそんなことを言ったのか。ここで呉知英は、孔子の天への不信があったとし「天命は不条理なのではないか」という思いがあったはずだと読み解く。そういう不信を抱えながらも、孔子の「五十にして天命を知る」といった考えに至る背景を読み解いてくれるのである。目から鱗が落ちるだけでなく、実感として孔子の言葉が心にしみるはずである。
 居酒屋談義の論語もいいが、本当に論語を知るという入り口は、ぜひこの本から始めたいものである。
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