カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

それでも幸福という気もする

2014-11-15 | net & 社会

 某たかじん周辺騒動というのがあるようだ。人気作家の作品になったり、未見だがテレビ番組なんかにもなった模様だ。で、その若い奥さんが怪しい人だという証拠が、消されているにもかかわらず、ネット上のアーカイブからどんどん発掘されていくという図式だ。過去が消せないものになったというのが、現代の象徴的な現象として明らかになった。これと関係ない人々だっている、という意見もあるだろう。しかしまあ、情報はどこからだって湧いて出てくる。以前なら作家なり記者なりの地道な取材でしか明らかにしようがなかったことが、膨大な情報網から勝手にモノが集まってくるということのようだ。面白いといえばそうだけれど、恐ろしいといえば、かなり恐ろしい。これでは迂闊に死ねないではないか。
 批判はごもっともいうか、僕のような部外の者にとっても、何とも残念な感じはある。それでも法的には守られるところがあるだろうから、良かろうが悪かろうがある程度は逃げられはするかもしれない。ほとぼりが冷めるまでどこかに消える財産くらいは、手にしていることだろう。むしろこの騒動で、それなりに印税まで増える可能性だってあろう。狙った筋書ではなかったかもしれないが、結果として合理的に勝利は収められるかもしれない。もちろん精神的には代償が大きかろうが…。
 もっとも僕は、死んでしまった某たかじんが、かわいそうな人だったとは思えない。ああいう人でも寂しかったのかな、という気持ちはあるにせよ、それで死ねたのならもうよかったのではないか。馬鹿だったとも思えないし、代償として適当かどうかということくらいしかいうことが無くて、さらにもうどうにもならんのでしあわせだろうとさえ思う。もしくはあるいは騙されているということも(それが騙しかどうかは僕には判断できないが)、考えにあったはずだとさえ思う。それでもあえて選択した結果がこれだったということじゃないか。小説になることまで予想していたかは分からないが、あとは自分で何とかしてくれ、そういう気分くらいのものじゃないだろうか。
 問題としては、ごく近しい人や娘さんなどということになるだろう。こればっかりは、そういう人と近しかった運を呪うより無いだろう。そういう人が、妙に不幸にならなければ、この話は早く消えてしまった方がいい。金が残ることに娯楽があるだけで、すさんだものしか残りようがない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

悪酔いとケンカにご用心

2014-11-14 | 時事

 ここにきて年末ただでさえ忙しいのにかんべんしてくれよ、という感じになってきた。問題はいろいろあって、このために消費税10%が先送りにされるほか、議員定数削減も反故になるという。約束や法律さえ守らないという法治国家が、北の国を笑うことが出来るのだろうか。ただでさえ予算案年越しである。どこの圧力か知らないけれど、金が欲しい要望に応えることだけの政治の限界ということなんだろう。圧倒的な合意にかかわらず決められない政治というのは本当に不思議に見えるが、結局寄り集まっている人間に統一性が無いということだろう。日本の保守というのは、おそらく米国の最リベラルよりずっと左だったりするような人も混ざっていたりする。無理があるのに同じ所帯というのが成り立っていることに、捻じれてもいないのにまがっている姿になってしまうのだろう。
 任期を二年残しながらそういう話になるのは、今後二年を見通しても、今の時期がやはり最大の勝てるチャンスだからというのが一番の理由だろう。良い材料も無いけれど、何しろ戦う相手が居ないに等しい。焼け野原で雄たけびをあげたら、誰もいないので勝利の旗を掲げることが出来る状況という感じかもしれない。もちろんリスクはあるのだが、今後の悪くなるだろう状況を鑑みると、背に腹は代えられない。長く仕事ができるし、整理したい人材もいるのかもしれない。相手が居ないのだから、こちらの都合さえ合わせられたらそれでいいのだ。
 地元の状況を見ても、まあ、やる前から地図は素人にも変わらないことが見て取れる。それでもやるんだなあ、ということだ。無投票には意地でもならないから、騒がしさだけが起こるということになる。冷めているのに無理にやかましい人もいる。そうなると担がれる人も限られるので、ホームタウンなら……という誹謗合戦が起こることくらいが予想される。またか、というかもう勘弁してくれ、というウンザリ感で、さらに政治離れは進むのだろう。老人のための暇つぶしの娯楽が政治ではない。みんなまともに働きたいだけなのに…。
 まあ、そういうことで、忘年会のネタにはなるんだろう。悪酔いさせて年を越す人を増やそうという魂胆かもしれない。まさにそれは狙い通り、果たされることになるだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

これはもう自分の都合だけを考えて手に取るべし   ガダラの豚

2014-11-13 | 読書

ガダラの豚/中島らも著(実業之日本社)

 買っていたのはそんなに昔というわけではないが、最初のころにしおりが挟んであって、ちょっと読み止しであったことは確かだろう。その頃の自分自身の精神状態などは忘れてしまったが、よくもまあそんなことが出来たものだと思う。それというのも今回また手にとって読みだしてみて、とても途中でやめるようなことが出来るようなことは考えられなかった。もちろん物理的には外にやることがあるから断続的に読んだ訳だが、その中断の時間がつらいというか、待ち遠しいというか、とにかくこれは中毒的な本であることは間違いなかった。ほんの数日であったにせよ、この重い本を鞄に入れて持ち歩き、暇を見つけてはむさぼり読んだ。至福の読書体験というか、嫌な思いもしながら(結構怖いし)、どうしても活字を追わなければいられない。まるで飢えた放浪者のような気分になりながら読んだようなことだった。
 やはり僕のような体験をした人が多かったらしく、この本のことは伝説的である。それを知っていたので買ったのだと思うが、詳細は失念した。そうしてやはり誰かがこの本の話題を何かに書きつけていた。ふと思い出して持っていることを確認して、今回のようなことになった。僕もすっかり彼らの仲間入りをしたということだ。面白い本に飢えていて、そうしてまだこれを読んでいない幸運な人がいるならば、迷わずこれを手に取るべきだろう。文庫版も(三冊)あるようだし、置いてない本屋も少なかろう。もちろんネットでも安価に買えることだし、迷う時間がもったいないというものだ。多少の相性のある場合も無いではなかろうかが、嫌いな人でもひきつけられる可能性も高いだろう。あらすじやネタをばらしてしまうと、やはり少しその面白さがもったいなくも思えるので、あえて紹介を控えるけれど、社会的な人間の弱さだとか、トリックや騙されやすい原因だとか、宗教の問題や、アル中ということもある程度分かるし、さらに家族の愛や、変態や学者の考え方や、精神医学や薬の問題、はたまたアフリカの現実や、ホラーや恐怖体験や、冒険活劇とスリルとバイオレンス、そうして単純にエンタティメントを満喫できるわけである。お楽しみあれ、である。
 そうやって楽しんだのだから文句を言う筋合いは無いともいえるが、まあ、このようなお話の中でも、やはり羽目を外し過ぎたり、小説ならではの誇張というか、少し事実と違うような内容もあることは気にならないではなかった。もちろん、僕と考え方の違いもある。だからすべてを容認したということではないのだけれど、それでもこのお話のパワーの前に脱帽せざるを得なかったということかもしれない。僕としてはホラーのところがどうにもほんとに怖くて困ったのだけれど、それでもやっぱり読まずにいられなかった。夜の一人歩きは、しばらく困難が伴いそうだ。また、本当は忙しい時期とも重なったので、いろいろと支障が無かったわけでもない。普通にはまることが目に見えているのだから、体調にだけは気を付けて読んでいただきたいと思うのだった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

犬はどれくらい賢いか(その2)

2014-11-12 | 散歩

 犬の嗅覚が優れているらしいことは見ていても分かることだが、散歩中にあちこちかぎまわって本当に楽しいのだろうか、という疑問は湧く。特に他人(他犬)の糞尿を熱心に嗅いだりして、まことにいい趣味とは言い難い。聞くところによると、これでテリトリー確認をしているようだが、尿のかけられている位置で相手の体格もおおよそ分かるし、性別はもちろん、年齢や健康状態も分かっているらしいといわれる。そんなことがわかっていると考える人間もおこがましいものだが、でもまあ、そんなようなことをフムフムとにおいをかぎながらリサーチしているというのは、なかなかに感慨深いことかもしれない。今日はあいつとあいつがここに来たらしいな、とか、これは数日来てないようだとか、熱心に嗅ぎながら考えているものなんだろうか。ある程度匂いを嗅いでいると、確かにそれなりに満足そうな顔をしているので、少なくとも糞尿を臭いと思っているわけでもなさそうだ。それならばいったい、臭いという匂いは何なのか?という疑問も湧く。人間の臭いという思いと犬の臭いという思いが違うのであるならば、臭いという普遍さは無いということになる。もっとも人間界だけの事情に首を突っ込んで犬嗅覚問題を語ることに意義があるものかどうかということもあるので、あえて疑義をはさむ方が問題なのかもしれないけれど…。
 ところで犬にもやはり苦手だったり嫌いなにおいというのはあるようだ。嗅覚が鋭いのだから刺激臭には比較的弱いとも言われる。酢などは特に嫌いなようだ。嫌えば逃げるのでそれでもわかるけれど、実は嫌いな匂いは右の鼻の穴で嗅いでいるのだという。そうしてなんとなく嫌っているときは尻尾の振り方も右に寄っているらしい。そんなことを調べた人も調べた人だが、面白いので尻尾の振り方は観察してみるといいだろう。少なくとも尻尾を振っているから喜んでいるとは限らない。人間は犬との付き合いで相手の感情を読むという能力を発見した疑いもあるそうで、犬の観察から人間の進化やコミュニケーション能力、特に他人の顔色を読むなどを磨いたらしいとも言われている。一緒に散歩をすると個人の能力が高まるかどうは疑問だが、人間進化には貢献できるのかもしれない。嗅覚も人間もちょっと不思議である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ほとんど虚無感の驚き   慟哭

2014-11-11 | 読書

慟哭/貫井徳郎著(創元推理文庫)

 人物たちがやや類型的すぎるかな、というきらいはある。しかしながら、その構成力で、ぐいぐい話が進んでいく感じは、なかなか読みごたえがある。類型的と思われはするが、説得力がないということではない。むしろ小説の多くはご都合主義で、これくらい進展しない事件捜査ということの方が、むしろありうることなのかもしれない。
 もっとも、連続殺人の展開については、やはりもう少し証拠が残っているようにも感じた。犯人はそれだけ周到で、さらに無差別のつながりの薄い人物なのだろうとは思われる。警察が振り回されて見つけられないというのも分かるが、主人公の切れる腕があるのなら、それなりに別の展開も期待できたように感じるのかもしれない。実際には机に座っているだけのようなもので、文中で繰り返し批判されているキャリアそのものの無能な人物にしか見えない。それはそのまま伏線にもなっているのだが、その怒りがどんでん返しでひっくり返され、複雑な悲しみを味わうことになる。慟哭というタイトルは悪くないが、受難というタイトルでもよかったとさえ思う。お話は、とりあえず終わるが、これで主人公の物語は終わりではなかろう。
 連続幼女殺人というショッキングな事件を通して、様々な世間があぶりだされる。その大きな伏線の中に、新興宗教の現場が描かれる。それは、確かに何かをモデルにしているらしいとも思えるし、そういうことが人間の救いになるんだろうかという疑問も、それなりに考えさせられる、ルポルタージュめいたエピソードが続く。ここにも類型的な人間が多数出てくるが、しかしやはりなんとなくの説得力がある。現場はまったく知らないが、そのような人達がいるだろうことは、納得できそうな感じだ。実際にのぞくことはできないだろうし、確かめようもないが、この現場そのものが、人間的だということも、なんとなく感じられることである。実際には深い悲しみの無い人間は、どんどん脱落していく。宗教団体によっては、それなりの手口でつなぎとめの手法を持っているが、それでもどんどん中の人は入れ替わっていくものなのだろう。そういう通過の過程で、あるいは、本当に心を埋める手立てを見つけ出せる人というのがいるのかもしれない。
 類型的な人々が、それぞれに病理を抱えている。その病的な出自から逃れることが出来ない人々が、さらに類型的に深みのある悩みの中をさまよっている。ある意味で、実にそのトリックが冴えわたる作品なのだが、だからと言ってそのどんでん返しに満足はしても、気分的に救いがあるわけではない。むしろ放り出されてしまう虚無感のようなものに包まれてしまう。なんという罪深い作品なんだろう。みなさんも無心に読んで騙されてください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マナーとして座っているわけではない

2014-11-10 | 境界線

 ぱらぱらと村上春樹のエッセイを読んでいると、エンドロールを最後まで観ないで席を立つということが書いてあった。まあ、それってごく普通のことだよな、と思ったわけだが、これは日本人の自由について、もしくは感覚について指摘しているものらしい。都会じゃエンドロールで立つのをはばかられるような圧力でもあるんだろうか。まあ、それは知らんのだが、僕は東京出張なんかでは時たま映画を観るが、半分くらいは席を立っているような感覚があるんだけど、ネットで統計をみると、これらの人は少数派なんだそうだ。なるほど、村上の感覚の方が幾分正確かもしれない。いや、彼が席を立つ派の人だから、身に染みてわかっているということなんだろう。
 僕は映画が終わっても、割合エンドロールは眺める派である。これは習慣のようなもので、いつの間にかなんとなくというやつだ。ほとんどの映画鑑賞はビデオなんだけど、これも早回しはするが、最後までとりあえず見る。クレジットを確認することもあるし、ぼんやりすることもある。先を急いでないということもあるんだろうけど、思い当たる理由はある。
 それというのも、一番はたぶんジャッキー・チェンだろう。ジャッキー映画のエンドロールは、NG集にもなっていて、撮影の大変さもさることながら、ほとんど特撮をやらないしスタントマンを使わないジャッキーの体当たり演技のドキュメンタリー的な要素もある。映画を二度楽しむようなもので、これを観てさらに映画の感動が深まる感じがしたものだ。
 キャストを確認することもちゃんとある。というかキャストを眺めていて、あれっ、そんな人出てたっけ?なんてこともある。ビデオなら巻き戻してみたりするが、映画館ではその気づいてない自分の発見が、残念でもあり面白くもある。
 挿入歌を確認することもあるし、撮影場所なんかを眺めていることもある。まちおこしで映画を誘致している場合もあって、妙に物語の中で産地の食材を食ってたりする。そういうのにも金が出てたのかな、などと思う。
 そういうのを見ないと、映画を作るスタッフの労力に報いられない。いわば一種の礼儀のようなことだ、という主張がある。まあ、そういうのはどうでもいいと思う。たぶん村上が批判しているのはそういう態度の方だろう。そう思う人は自分で勝手に観たらいいだけのことで、ヒトにいうべきことではない。さらに米国では長いクレジットを流すのは映画製作組合の要求があってのことだという話も聞いたことがある。そのような身勝手のようなことに金を払って付き合う客というのは、ほとんど馬鹿みたいだ、というのは自然な感覚だろう。だから反発心があって見ない人というのはそれなりに偉いわけで、礼儀で観るべきという考えは、唾棄すべき横柄さを含んでいるともいえる。まあ、そんなに大げさでもないんだろうけど…。
 たんに余韻を持って座っていたいというのは、少しわかる。だから急いで立ってしまう人を批判がましく感じるのかもしれない。先に立って帰る人は、それなりに静かに、というのなら、マナーとして成り立つかもしれない。でもまあ、そういうことに我慢しながら必死で見ることも無いだろうな、とは思う。一番入口から遠い席で、なおかつ一番前あたりに座って楽しんだらいいかもしれない。誰も邪魔にはならないだろう。
 村上春樹という人は昔から大人のくせに大人げない人なんで、そういう非難がましい人々に何か言ってやりたいだけなんだと思う。それが彼の面白いところなんで、それを少数派ぶって共感して喜ぶ人たちが、彼を支えているわけだ。僕は彼のファンだけど、そういうところは実に嫌な感じで好きではない。けれど、それはまあ、どうでもいい。それくらいのひねている人間こそが、本当に僕が許容している世界の多数派だからだ。それが皆のしあわせであり、僕の平安なのだ。エンドロールを見ない人なんてことを気にしない程度にエンドロールに愛着を持つ人間が僕であって、特にそれで共存しているつもりもないけど、勝手にしたらいいのだ。結局はそれが村上への共感ということであり、分かれる道に過ぎないと思う。
 でもまあ、エンドロールって、なんとなく見ててもそれなりに面白いものですけどね。それに映画館が暗くなって忘れ物なんかが無いかという問題もあって、席を立たないというのもあるような気がする。僕は何度か映画館の通路で落し物を見たことがある。みなさん暗闇は注意いたしましょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

相手を気遣う

2014-11-09 | 掲示板

 訳あって売店をやっていたわけだが、その日の片づけをしてレジを〆て、そのレジスターに鍵をかけて蓋(というかお金の入っているボックス)を閉じようとすると、Kゾウさんが、「あ、閉じちゃダメですよ」と注意した。理由を聞くと、空のレジを開けたままにしておいて、泥棒が確認しやすくするためだそうだ。下手に閉めておくと、金が入っているかどうかの確認のため、無理にレジをこじ開けて壊してしまうこともあるんだという。被害を最小限にする知恵らしい。
 外国の話で、拳銃を突きつけられて金を出せと言われたら、100ドル以上は渡した方がいいという。一二ドルしか渡さないと、せっかくリスクを冒して強盗しているのに、がっかりしたり怒ったりして発砲する恐れがあるんだそうだ。お金を取られるのは惜しいことだが、命のためには少しばかりお金を持っておいた方がいいということらしい。
 他人のことを考えるというのは、思いやりばかりではない。泥棒さんのことまで考えて生活をするというのも、不思議なものであります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

底辺の僕は黙るしかない   ラブ&ドラッグ

2014-11-08 | 映画

ラブ&ドラッグ/エドワード・ズウィック監督

 まずちょっとした感覚のずれがあるような気がする。チャラ男がどんなものなのかは僕は詳しくないが、これが果たしてそうなのか。いわゆるプレイボーイというのは確かにいるらしいが、これがそうなのか。最初からそういう疑問が浮かぶ。さらにヒロインの病気だが、パーキンソン病を患っているために、ちゃんとした恋愛が出来ないと思い込んでいるらしいというのは分かる。そうして、恋に臆病になるというのも分かる。でも、むしろこの女性は普通はむちゃくちゃにモテるだろうことは確実で、まず恋に対する不安の前提がかなり揺らぐ感じがする。そのような葛藤があって、しかしその貴重な恋が長続きしないことに恐怖する方がよかったのではあるまいか。怖いから求めるのはプレイボーイで、しかし普通はそんな男は捨てるほどいる(というか、性的に飢えている男ならごまんといるだろう)にもかかわらず、特定のプレイボーイと付き合ってどうする? といいたい気分になる。なるが、まあ、仕方ないな。それがこの物語だ。彼女は、自分なりの嗅覚で、この男が本当のプレイボーイだとは違うと思っていたのではなかったか。だとしたらかなり戦略的に正しかったわけだが…。
 そのような疑問の多い物語で、最終的にはいろいろ解決するわけだが、だからこの解決自体が、なんだかプレイボーイの男が、都合のいい女を利用することをやめて、たとえ相手が障害があっても、慈悲的にそれを受け入れて偉いんだよ、というような話になってしまっているように感じられる。それは、偉いのかもしれないが、別に無理しないでやめたらどうだろう、と揶揄したくなってしまう。最初からあえて自分たちで障害を無理に作って、せっかくの相性の良さをちゃんと見ていなかったのではないか。どう考えても二人とも善人で、遠回りする方が無茶だったのだ。
 そんな風に観てはいけない物語なのはわかるが、だからそのように観られてしまって残念ではないか。僕は確かに普通はひねくれていると思われているが、このような手法をとるほどにはひねてはいない。それが恋の葛藤というものではないか。臆病でどうしようもない人間は後悔すればいいだけのことで、いつまでもそうなら単に愚かなだけだ。だから寅さんは終生独身だったはずなのである。普通にモテて実力もあって、しかし本当の恋に臆病というのは、ちょっとやはり浮世からズレているということかもしれない。そういう高みの人のための映画というのならそれもよかろう。下々の人間は黙ることにしよう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

飽きるものはしょうがない

2014-11-07 | 音楽

 テレビ見てたらリバプールの特集のような事をやっていて、リバプールと言えばビートルズってことで、まちがビートルズを観光資源にして盛り上がっている様子を映していた。何でもかんでも彼らにまつわるエピソードのあるものは利用しまくって、観光化している。それ自体は大変に楽しくはあるし、実際に観光客の目当てはそれなんだから理に適っている。港のある工業地帯というのは知らないではなかったけど、そういう町おこしがあって当然の事だろう。
 ということで、パブに入ると当然のごとくバックにビートルズの曲ばかりかかるのだという。地元の人も当然盛り上がっているのか、というと、正直言って飽きちゃったと言っていて可笑しかった。まあ、そりゃそうだろうな。僕は某スーパーとか、店に流れる会社のテーマソングのようなものが繰り返し流れているのを聞くのがものすごく苦痛なんだが、あれを店員は我慢して仕事をしているわけで、あれは会社に忠誠を尽くせなくなるんじゃなかろうかと心配しているのだが、まあ、イランお世話でしょうね。
 子供のころに米国にはツェッペリンの曲だけを流す専用のFM局があるという話を聞いて、いいなあ、と純粋に思ったことがあったけれど、でもまあそんなことをやらされているDJにしてみたら、やっぱりそれはそれでつらくなるんじゃなかろうかとも思う。何事も過剰すぎるのは良くない。多少の欠乏があるくらいが、物事が長続きする秘訣なんじゃなかろうか。
 やっぱり以前にJCの後輩の車に乗せてもらったら、そのころ流行ってたのか知らんが、ミーシャのエブリシングを何度もリピートしてかけていて、大変に閉口した。この人は明らかにヤンキーが入っている人間だったが、ある面は僕も評価できるところがあったのだが、その後はやはり一定の距離を置くことにした。酒を飲んでもできるだけ彼には送ってもらわないように気を使った。何しろもう二度とそのような拷問はこりごりだ。
 それでもまあ、繰り返し聞くからそれなりに味の出てくる曲というのは確かにあるものだ。普段そんなに聞くわけじゃないが、時々チャイコフスキーを聞きたくなる時がある。これはひたすら前半我慢し続けて、最後に曲が爆発してすっきりする。最初の退屈さというのが大切で、よくもまああんなにつまんない演奏を延々と聞かせるものだと呆れるが、しかしそのおかげで最後の爆発は気持ちがいいわけだ。簡単には繰り返して聞きたくない演出という考え方もあるかもしれない。クラッシック音楽が長く生き残っている原因は、繰り返し聞くには体力や忍耐が必要で、簡単ではないということがあるのではなかろうか。手軽なポップミュージックが飽きるのは、キャッチーすぎるからかもしれない。まあ、だからどんどん新しく消費しなければならない訳で、それは商売としてまっとうな戦術とはいえるのだろうが…。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いまだに生き残る言葉づかい

2014-11-06 | ことば

 ファミレスにはめったに行かないし、気にもしてなかったが、この間あるチェーン展開している(らしい)居酒屋に行ったら、久しぶりに「ご注文の品、お揃いになりましたでしょうか?」の科白を聞いた。こんなことで感動しても仕方ないが、妙にイラッとすることは確かだ。
 一般的に若者言葉はなってないぜ、という話題とセットになるお話なんだけれど、実はそれは違うんじゃないかと思う。僕は十代の終わりころに、あるファミレスでウエイターをしていた。で、注文の間違いがないか、必ず確認をするように、厳しく店長からしつけられた。それはアメリカ流の、正しい接客のやり方なんだということだった(アメリカの会社じゃなかったけど)。当時店長は数人代わったけれど、おおむね40代くらいの人が多かったのではあるまいか。20年くらい前のことだから団塊世代より少し若いくらいか。
 実は最初言葉づかいを教わりながら、いちいち口ごたえ出来なかったのだが、確かにこの店長たちは、「ご注文の品、お揃いになりましたでしょうか?」と言え、と言っていた。または、「以上でよろしかったでしょうか?」と言え、と言っていた。なんかおかしな言い回しだな、と思っていたが、俺が言ってるんだから、そういう決まりだ、ということらしかった。まあ、バイトが頑張って異議を申し立てても仕方がない。言われたように僕も言ってましたよ。ほんとにつらかった。時々裏で、「なんか変だよね」というバイト仲間で話題になることがあったが、都会ではそんな風に言うんじゃないの、ということで話は終わった。都会なら仕方ねえべや。
 ということで、このような店の言葉遣いというのは、若者の言葉の乱れとは根本的に違うのではなかろうか、とずっと前から思っていた。若い年寄りの言葉の乱れに違いないからだ。彼らの言うとおり素直な若者が言われたとおりにやっているに過ぎないわけで、本当に若者言葉で接客されたら、たぶんお互いに意思疎通は難しいだろう。
 で、いまだにこの言葉遣いが残っていることに、僕はある種の感動さえ覚える。多くの人がおかしいと思っているだろうにもかかわらず、業界としてはふさわしい言葉づかいとして連綿と生き残っている言葉であるらしいからだ。要するに、僕の若い頃からちっとも乱れなく受け継がれているということなのだ。
 ただ、乱れた言葉ではないらしいが、不快であることに変わりはない。もう言わなくていい立場になったことが、本当に幸福であるというだけのことなんだろう。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

仕事を排して観るには忍びない  愛・アムール

2014-11-05 | 映画

愛・アムール/ミヒャエル・ハネケ監督

 一言でいうと、夫婦であっても、介護は大変だよね、という映画。もっとはっきり言うと、まあ、それだけの映画ともいえる。僕のような短気な人間には、ちょっとイライラするような物語だけど、なんとなく名作っぽい作りになっていて、感心する人もいるのかもしれない。
 人間多少のプライドがあってもいいのだけど、よく言うように、そういうものが邪魔になることもある。特に人間が弱くなっていく過程において、老いという問題を考えると、これが少しだけでなく、大変に邪魔になる人というのがあるようだ。老いていく人が、プライドを持ってはいけないという話ではない。自分自身において、さらに自分に接する人々において、自分の気持ちのありようのバランスとして、これが時として自分を苦しめるわけだ。それは見ている人間にとっても不憫になるし、またそれを鏡のように感じ取れる感性が残っていることで、また自分にその感情が跳ね返ってくる。分かってもらえているのに、そのこと自体も苦しい。しまいにはなんだか、子供が意地を張っているみたいだ。
 すべてはお互いが良かれと思って選択し、そうしてそのことで苦しんでいる。努力もしているし、割合上手くやっていることも多い。そうであるけれど、介護度は増して行き、自分の感情を隠せないくらい苦しくなっていく。外部の看護なども来ている様子だけれど、第三者として介入できないものがあるのかもしれない。娘も気遣ってたまに来るが、妙に非難がましく、介護する父親を傷つけるだけである。行き場のない感情がどこに行くかは、予想できるだけに観る者も苦しい。そういう感じが、どこかで打開することを期待しつつ見ていたが、やはりそういう期待は無残に裏切られる。悲劇というより、一種のホラーのようなものかもしれない。
 当然自分にも鑑みて考えることになる。答えとしては不確かだが、教訓にはなりえるだろう。映画として楽しいかといえば、それは好きに観てもらうしかない。素晴らしいかといえば、そう思う人には素晴らしい映画だろう。僕にはこれが、大変につらかった。なまじ現実も知っているせいかもしれない。特殊な話なんかではないが、映画ではそれでは困ることがあるのかもしれない。また、よその国の事情もあるのかもしれない。介護は大変だけど、終わることだけが救いなのか。僕は基本的にそういうことを考えたいということだ。それはたぶん自分の職業病の所為なのかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

不憫な女生徒たち

2014-11-04 | culture

 息子が通っている高校でたびたび耳にする話題に、女生徒の制服の話がある。いわゆる地味な感じがするとは思っていたが、慣れもあるのだろう、僕自身は女生徒さんなりに可愛らしいとさえ思うのだが、それが当然そうではないということだ。平たく言うと、誰が着てもダサくなる制服ということらしい。そういわれてみると、そんなような感じも無いではないが、まあ、誰もが似合ってないというより、やはり素材の問題だろう(失礼)。
 そういうことなので、歴史的に親などから、たびたび制服を変える意見というのは出ていたらしい。しかしながら(だいぶ昔ならいざ知らず)伝統ということもあり、意見は却下され続けてきたという。現役は嫌がるが、卒業生にはこれでなければならないという意見が根強いとも聞く。さらに進学校としては、派手な制服にすること自体に抵抗がある、ということもあるらしい。学力と制服の関係があるのかは知らないが、年頃の女の子が、制服を気にしないで高校を選ぶことはありえないとも言われているので、このダサさを選択してくる勇気というのは、やはり地元の高校を選択せざるを得ない決意を固める意味もあるのかもしれない。まだ幼い(だろう)少女たちにとっては、そのつらさこそが尊いというべきかもしれない。
 というようなことだが、やはり地元ではこの制服については、一定の認知というのがあるようで、やはり見慣れているということもあるから、特に違和感というのは無い。まあ、この高校の女生徒さんだな、という安定感のようなものもあるのかもしれない。よそから来た人はぎょっとすることもあるかもしれないが、飛び上がって驚いている人を実際に見たことはないから分からない。
 この状態をかわいそうだという声は確かにあるが、現状が変わりそうにないのだから考えても仕方がない問題だと思っていた。しかしながら、実際にこれは少なからぬ影響も無いではないという話もある。地元に居る分には、なんとか我慢できないではないまでも、やはり外に出る問題というのがある。対外的に市外に出る用事が出た場合に、この女生徒たちが不憫な思いを強いられているということなのだ。修学旅行しかり、遠征しかり。さらに受験シーズンになって、市外会場の試験に臨む際に、この制服で受験するだけで不憫なものがあるらしい。受験の緊張感と、さらに別の重圧に耐えなければならないということなのだろう。その影響が試験結果として表れているのかは、今のところ検証のすべはないが、ありうる話かもしれない。少なくともこれを言い訳にしていいという材料になるのであれば、問題であることは明確であろう。
 それでもこの制服の生地というのがまた特殊らしく、数年単位で契約を結んだところでないと調達できないという。構造的に変わらない伝統というのは、良いとか悪いとかいうようなことではないのかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今から次回作を期待   鍵泥棒のメソッド

2014-11-03 | 映画

鍵泥棒のメソッド/内田けんじ監督

 言わずと知れた内田監督作品。全幅の信頼を寄せている日本の娯楽を支える大監督さんだ。そうだと思うが、今回はなんだかキャストが豪華で、ちょっと感じが違う。いったいどうしたんだろうという気分はあるし、いきなり人物設定がかなりとぼけている。ちょっと失敗したかもなあ、と不安になりながら観ていたが、終わってみれば、やっぱり内田作品、素晴らしかった。
 今回も脚本が素晴らしいのは言うまでもないが、しかしそれなりに控えめに設定されているということは言える。いわゆるどんでん返しというか、いつもの内田作品のように、椅子からひっくりかえるようなショックがあるわけではない。もちろん、軽く驚いたりそれなりにええっといったリアクションをしたくなる場面もあったのだけれど、それは今までの内田作品からすると、いわゆる地味目である。しかし、シロウトっぽい画面というのはずいぶん減って、それなりに洗練されているという印象はもった。役者さんたちは当然うまいので、なんだか商業映画を観ているような雰囲気になる。いや、むしろテレビドラマ的な、そんなノリかもしれない。悪いというのではないんだけれど、少し俗っぽくなったということかもしれない。楽しいからそれでいいわけだが、不思議な世界が、少し当たり前すぎるようなことになっているという感じはしたのだった。
 いろいろ伏線がはってあって、それがこのストーリーをしめているわけだが、その効果もさすがに大きい。記憶喪失ものというのは、それだけで設定が面白いのだけれど、どのように記憶が戻るのかは、大きなカギにならざるを得ない。そうしてそれが覚めているということが観る者にはっきり分かるように効果的であれば尚いい。これが見事だからお話がうまくいくわけだが、それからも、あれあれっというのが続いて、少し世界が崩壊する。この快感が内田作品の最大の魅力であるわけで、このようにかなり軽いコメディであっても、内田作品のうまさというのが十二分に発揮されるということがわかって大変に嬉しかった。このレベルで連続して作品を送り出している力量というのは、まさにすさまじいものがある。この人はいったいどんな生活を送っているんだろうね。
 ということで楽しめたわけだが、ちょっとばかり違和感があったのも確かだ。興行的に成功することは大切なことで、そのためというのは映画的に正しいとは思う。そうなんだけれど、いわゆるあまりにメジャーなところが豪華に活躍するような話ではやはり違っていて、そこらあたりが内田監督の苦悩がありそうな感じもする。本来ある毒気のようなものが、かなり薄れている感じかもしれない。それは確かに悪いことばかりではないのだけれど、思いっきりやっているというより、かなりセーブしてやっているという印象があるのはそのためだろう。もちろん次回作にも当然期待を寄せてしまうわけだが、そこのあたりの印象がどのように変化するのかというのも、大いに注目すべきところかもしれない。ファンというのは貪欲なものなので、お気の毒とは思うのだけれど、ぜひとも頑張ってもらいたいです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

見本的な名作映画  キサラギ

2014-11-02 | 映画

キサラギ/佐藤祐市監督

 実は二度目。一度見て感心した覚えはあったけれど、肝心の結末がどうだったか忘れたので再見した。なるほど観たことあったな、という思いは消えなかったが、見直してみても楽しかった。
 脚本がよくできていて、どんでん返しが何度も続くが、その度にちゃんと驚いてしまうし、楽しい。皆の演技が特別に上手いという感じでなくとも、それぞれのキャラに良く合っていて、それがすでに伏線になっているところもいいと思う。あえて映画にせずとも舞台劇で十分楽しめるはずだが(と、ここで改めてググってみると、やはり舞台劇もあるらしい)、映画としての補足もあるので、より分かりやすいとはいえる。しかしながら、その余韻というか、ほとんどは想像で楽しむというようなこともあるので、それはそれで成功している作品だろう。
 僕は特にアイドル的な人を持っているわけではないが、ファン心理として深く誰かのことを熱く語るというのが楽しそうなことは分からないではない。時には古い仲間とロック談義などをやるが、自分なりのネタを披露するのも楽しいし、また意外な事実を知ったときは、おおっと驚く。これが盛り上がるのは、ネタが深いほど、造詣が深いほど、喜びも深い。趣味の会のようなものは、多かれ少なかれこれが楽しいわけで、アイドルが特に楽しいかまでは、僕にはよく分からない。分からないが、アイドルには恋愛と絡んだ思いがあるようなので、おそらく、そういう面を含めると、それなりに別の深みのある世界なのかもしれない。
 そうであるからだろうけれど、好きになるという土壌には、それなりに背景がある。そんなことは当たり前だけれど、若い女の子のアイドルに対して、実に世代を超えて、様々な立場の男たちが、それぞれの事情を抱えてアイドルを眺めていた。さらにそのアイドルは、すでに一年前に事故で死んでいる。最初は追悼というつもりで集まったものの、いつの間にかその死にまつわる事件究明ミステリと化していく。この展開は知っていたはずだが、ちょっと唖然としてしまうような見事さな訳である。
 今更誰かのアイドルファンになるかどうかは疑問だけれど、可能性としては、知った人のお子さんなんかだと、少しくらいは興味が湧くかもしれない。知っている気安さや、距離的な近さの問題だろう。おそらく現代のアイドルの売り方も、そのようなファンとの近さを演出しているものとも思われる。それが同時に危うさも生んでいるわけで、そもそもミステリとの相性もいい題材なのかもしれない。材料も脚本もよければ、意外な名作になる。まさにその見本的な映画であろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ナポリタンはそんなに旨いか

2014-11-01 | 

 夜中に録画していた孤独のグルメをなんとなく見ていて、ちょっとじれったいが、確かに面白い。漫画は読んだことがあって、そんなに共感があるわけではなかったが、わかるとは思ったようだった。そうだったがドラマの方はそんなに覚えはなくて、迷った末にナポリタンとハンバーグとみそ汁を食っていた。最後にライスまで注文する。ナポリタンはおかずにもなるんだ、ということだった。まあ、そうですね。
 こういうのは、子供っぽい味覚ではあるとは思うのだけれど、確かに時々無性に食べたくなる感覚はよくわかる。この漫画というかドラマの主人公は結構大食漢で、むしゃむしゃとたくさんいろんなことを思いながら食っている。だがそれも、たぶんノスタルジーのようなこととか、そういう環境に自分がなじんでいく快感も含めて食事を楽しんでいるということのようだ。実はそんなに高級な料理ではないが、単純に旨くて、そして腹いっぱいになる。しみじみしあわせで、そうしてこういう感じに酔っている自分もいとおしいわけだ。気取っていないありのままの自分でいられることに、開放感さえあるようだ。
 後に原作者もこの店を訪れて、そうして似たようなものを食っていた。感想の中に、この取り合わせのむちゃくちゃぶりの中にも、基本は日本だよな、というようなことを言っていた。まさにその通りで、そういう昔ながらの店の味というのも確かにあろうけれど、これは子供のころに母親が作ってくれた家庭料理の味なんだろうな、とおもう。手軽であるけれど、味付けもケチャップだとか少し濃いめだけど、みそ汁もご飯もあって、まさにおなか一杯になる。口に出して旨いとは決して言わなかっただろうけれど、ガツガツ食ってプハーっと大きく息を吐き出したくなるような満足感がそこにはある。大人になってしまって、そういう解放感というのは実に少なくなった。あれこれ気にすることもたくさんある。だけど、そんなに絶品ということでもないのだけれど、これは何物にも代えがたい幸福の確かな形だったのだ。パスタというような洒落たものではなくて、ナポリには無いらしい怪しい太めでやわらかいスパゲティを、口の周りを汚しながら食うわけだ。そしてこれが(最高の味のパスタではないと知りながらも)やはり旨いと実際に思うわけだ。
 グルメというのは、そのうんちくが楽しく旨いものなんだろうとは思う。だけれど、その対極にあるような、実際には高級でない旨さというのは、味覚のベースのようなところに深く訴える力があるように思う。それは記憶ともおそらく連携している。誰もが食って満足のいくようなものではあるまいが、個人には深く感動を与える。そういうテンションに浸れるような食事に出会えるのは、得難い確かな幸福の一つには違いない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする