カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

寿命も縮む

2014-11-16 | HORROR

 先日大変な緊張に見舞われる立場でスピーチをしなければならなかった。実に数日前から嫌な気分というものがあって、一所懸命気を紛らわそうと、別のことに励んだりしていた。しかしふっとした気の隙間に時々これが表れて、閉口した。
 いろいろ対策があろうことは知らないではない。あたかもメタ視点で、自分のそのような緊張している姿を客観視して口に出して語る、またはそれをメモするという方法がある。俺は今ビクついている。緊張感で具合が悪い。など、素直に口に出してみたりする。まあ、おまじないというか、それでいいのかどうかはよく分からない。
 逆にポジティブに成功イメージを頭に描くというのもある。大成功して拍手喝采、なんてのもいいかもしれないが、これは幻滅してしまうような不安がある。なんとなく僕には向かないと思って、途中で諦めた。
 大変怖がりで小心者であるとは、そう簡単に治るような性格ではない。自分を否定しても仕方がないし、ある意味自分でいいカッコして偽ったところで、そういうものは自分に素直に跳ね返ってくるだけのことである。それは経験上というか、いつものことだし、抗っても逃げられるものではない。
 実は一番効果のある方法は知っているのだ。だが、これがやはりそう簡単ではない。怖がって逃げている自分と向き合うと文章では簡単に書けても、実際にそうできるかは別問題である。だからやはり葛藤するわけで、そうして悪循環で緊張もする。要するに、地道に準備をして、その物事に備えるということしかない。今回はスピーチだから、しっかり練習さえすれば、やはりそれなりになんとかなるはずなのだ。しかし日常は別の誘惑がいろいろある。忙しい時期とも重なってしまった。弱い人間はどんどん言い訳を準備して、とにかくそのような備えから逃げてしまうのである。
 そうすると今度は本当に時間を失って、さらに別の焦りというものと闘うことになる。その上に後悔である。悔やんでも時間は戻らないから、さらに自分が追い詰められていく。時間というのは残酷で、しかしその時は着実に近づいてくるのだ。
 それでも本場に備えて、一応は原稿も書いたし、車を運転しながらアウトラインの話の練習はする。声に出して読んではみたが、大した原稿ではないことと、やはり読んでいるという抑揚に力が無い。何より読み出したら読まなければ不安だ。マイクの位置のこともあるし、行を見失ったりしたら焦りそうである。字が見えなくなったらどうしたらいいだろう。持っている紙のことが気になって、ろくにほかに気が回らなくなるのではないか。
 そういうわけでもうこれは見ないようにすることに決めた。持っていると保険になりそうなものだが、やはり頼りそうなので開くのも止そう。自分でハードルあげてどうする、という思いも無いではないが、退路を断つというのは、逆に度胸も据わるものである。
 なんてことを考えていたが、やはり本番前にはなんとなく目の前がくらくらするような気分に襲われる。逃げていいなら本当に逃げたい。思っていたより雰囲気がさらに厳かである。当然と言えばそうだが、こりゃちょっとしんどすぎる。そういえばトイレにも行ってなかった気がする。もう今更遅い。まさか壇上で漏らすなんてことはしないだろうか。いや、そんな取り返しのつかないことをしてしまうと、さすがに息子も学校に居りづらいだろう。なんとしてもそれだけは避けなければ。そうするとなんだかもう逃げるより早く済んでほしい。てっとり早く前の人は話を済ませてくれないだろうか。起立、礼なんてまどろっこしいことは省略できないのだろうか。
 というような状態であいさつに臨んだ。僕は元バンドマンなので、マイクで自分の声を聞くと、なんとなくやっと落ち着いた。どうやら足も震えてないらしい。これはあんがいラッキーだ。そんなことを少し考えた。
 まあ、上手くいったかは特に考えない。済んでしまって席に戻ると、ぜんぜん尿意が無いことに逆に驚いた。とにかく済んでやれやれである。少し興奮しているのか、今になって震えがくるような、そういう感じがしている。恐怖が過ぎたのにまだ安心を信用していいものなのか。そんなような、どこか不安も残るのだった。これがいい体験と言えるのか分からない。少なくともちょっとくらいは、寿命が縮んだのではあるまいか。
コメント
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